


波岡(北畠)氏は、南朝の重臣北畠親房・顕家の子孫になります。北畠氏が浪岡に移った時期は諸説があり定かではありませが、浪岡右兵衛大夫の娘が顕家に仕えて顕成を生み、その縁で浪岡に入ったとされています。
浪岡における北畠氏は浪岡御所と呼ばれ、後に浪岡入りした顕家の弟顕信の子守親の子孫は川原御所と呼ばれました。また顕家の末子で出羽天童城に拠ったとされる北畠天童丸も浪岡入りしたといわれ、この辺りの関係ははっきりしていません。
北畠氏ははじめ東山根の城館にいたようですが、顕義の代に浪岡城を築き、ここに移ったとされます。戦国期には大光寺氏・大浦氏(後の津軽氏)とともに津軽を三分する勢力となりましたが、永禄5年(1562)川原御所の北畠具信が浪岡御所北畠具運を殺害する川原御所の乱が起こると、浪岡北畠氏は急速に衰退し、天正6年(1578)大浦(津軽)為信の攻撃により浪岡北畠氏は滅亡しました。(天正18年に滅亡したという説もあり)
浪岡北畠氏が滅ぶとその一族は各地に四散しました。顕村の従兄弟顕忠の子右近慶好は、秋田安東氏を頼り、秋田采女季慶と名を改め、その子孫は陸奥三春藩秋田家の一門として遇され、代々御年寄などの重職を歴任し、藩政を支えました。維新後は浪岡姓に復し三春町に在住しているとのことです。(三春浪岡氏)
慶好の弟顕佐は顕村の娘を娶り、山崎を称して館野越に住し、庄屋・医者として江戸時代を過ごしました。顕甫の子の代からは二つの流れに別れましたが、顕貞の系統は弘前藩医として活動しました。両統とものちに北畠姓に復し、現在は顕貞の系統は東京に、顕国の系統は館野越に在住とのことです。(館野越北畠氏)
川原御所北畠具信の系統は溝城(のち水木)を称し、早くから津軽氏の支配に服し、江戸時代を過ごしています。明治には入り再び北畠姓を称し、現在は札幌在住のようです。(札幌北畠氏)
その他に、盛岡藩南部家に仕えた系統もあります。北畠顕家の末孫という北畠中務具氏は閉伊郡袰綿(ほろわた)村に移り、その子直顕は袰綿氏と称し南部信直に仕えました。その子孫は袰綿左仲家・袰綿覚左衛門家に別れました。
また顕家の末子北畠天童丸の末孫という波岡勘解由顕元は南部信直の父石川高信に仕え、その子吉左衛門の代から信直に仕えました。その子孫は波岡吉左衛門家・波岡庄次郎家・波岡勇右衛門家・兼平金平家などに別れました。
一方、弘前藩津軽家に仕えた浪岡氏もあります。津軽浪岡氏は、顕忠の子左近(大貳之亮)顕則を始祖とし、その子浪岡武左衛門を初代とします。初代武左衛門は百石を知行し与力をつとめ、幕末の当主運助は勘定奉行をつとめましたが、現在御子孫は東京在住とのことです。
※三春浪岡氏については筈衛さんから、津軽浪岡氏については細井さんから情報を頂きました。どうもありがとうございます。
また三春浪岡氏・館野越北畠氏・札幌北畠氏については浪岡町の「中世の館」の展示を参考にしました。


葛西氏は宮城県北部から岩手県南部にかけてを領した中世大名で、その祖は桓武平氏豊島氏流、畠山一族等と先祖を同じくする武門の名門です。
その祖・葛西清重は文治5年の奥州征伐の功で源頼朝から伊沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・本吉の諸郡を得ました。(その子孫は登米・桃生郡をも併せて領しました。) 清重は「奥州惣奉行」の職を与えられましたが、数年後に奥州に代官を置き鎌倉へ帰りました。
ところで葛西氏に関しての大きな問題としてその系譜の問題があります。同氏の系譜は十数本ありますが、「大槻氏考証葛西系図」「仙台葛西系図」などに代表される「系図A」と「盛岡葛西系図」「高野山五大院葛西系図」に代表される「系図B」に大別され、その記述に異同が激しく、全く別の系譜を見るようです。
これはおそらく戦国時代に当主が二本立てとなる時期があり、それぞれが独自の系譜に固執した結果だと思われます。
葛西氏が、奥州に本格的に移動したのは鎌倉末期と思われ石巻城(石巻市)を拠点としました。南北朝時代ははじめ葛西清貞らが南朝方の忠臣として石巻城を南朝の拠点とすべく画策しましたが、清貞の死後は挫折し興国年間(1340~1346)に北朝に転じたようです。
葛西氏の居城ははじめ石巻城で室町末期に寺池城(登米町)に移動したというのがかつての定説でしたが、どうやら室町時代にはこの二つの府城が並列的に機能していたようです。その結果上でも触れたように、「石巻系」と「寺池系」の二つに分かれ主導権を争っていたようです。14代晴重以降はその内紛も収束していきましたが、家臣の反乱などで葛西氏の領国経営は常に不安定でした。天正16年(1588)に重臣浜田氏の反乱を鎮圧して以降はようやく平和が訪れたかに見えましたが、同18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に葛西晴信は参陣せず、所領没収の憂き目を見ることとなりました。晴信は豊臣家奥州仕置軍に敗れ自刃したとも伝えられますが、加賀藩に流浪し慶長2年(1597)に没したとの記録も残っています。
晴信以降の葛西一族としては南部藩に仕えた信景(延景)と仙台藩に仕えた重俊が知られています。
信景は晴信の子とも弟とも伝えられていますが、南部利直に仕えて七百石を知行し、その子孫は葛西正兵衛家・葛西軍平家・葛西三吾家・葛西岩五郎家などに別れています。
重俊は晴信の弟胤重(信定?)の子と伝えられ、伊達政宗に仕え千石を給されています。重俊の長男重信は政宗の長男秀宗に従い伊予宇和島へと渡り、その子孫は宇和島藩士となっています。また重俊の次男俊信ははじめ六百石でしたがのち加増され父と同じく千石を領し、準一家に列しています。葛西宗家は、その後重利の弟重安が別家し、清方・清香・清胤(胤清)と続きましたが、安永2年に知行没収となりました。しかし胤清の子俊清が文化13年蔵米50俵にて再仕となり、以後代々続き維新を迎えました。
重安の別家は百石を分与され召出家となり続きましたが、安永年間清義の代に葛西宗家に連座して召出二番座となりました。


芦名氏は鎌倉幕府創業の功臣三浦氏の一族佐原氏より分かれた一族です。芦名氏の祖・佐原十郎義連が源頼朝の奥州遠征に従い陸奥国会津に所領を得たのが芦名氏と会津の関わりのはじめです。はじめは会津に地頭代を派遣し、自らは関東の本領に在住しましたが、直盛の時代には会津を根拠と居城を黒川(のちの会津若松)に定めました。室町期に入ると、盛政らは北田・新宮・猪苗代などの庶家との合戦に勝利し、会津一円の覇権を確立しました。
応仁の乱後は、松本・富田などの家臣の反乱が起き、それが原因で盛高・盛滋父子の争いが起きました。盛舜の時代には内戦は克服され、次の盛氏の時代には会津の外へと支配を広げ、芦名氏の全盛時代を迎えました。しかし、盛氏の嗣子盛興が若死にすると、人質となっていた二階堂盛義の子盛隆を養子として跡を継がせたものの、盛隆も家臣に殺され、跡を継いだのはまだ生まれたばかりの亀王丸、そしてそれもわずか三歳で病死してしまうという相次ぐ当主の急死によって芦名氏は急速に勢威を失っていきました。
亀王丸の跡には重臣の合議によって、常陸の佐竹義重の二男義広(盛重、義勝)が当主として迎えられましたが、伊達政宗の弟竺丸を迎えようとした一派も家臣にはおり、家中の結束は大いに乱れていました。こうした動揺を見た伊達政宗は猪苗代盛国の内応を得て会津領に攻め込み、摺上原にて芦名軍を破り、義広は黒川城を捨てて白川へ、そして常陸の佐竹家へと逃れました。こうして会津の芦名家は事実上滅亡しました。
義広は石田三成に近づいて会津への復帰を画策しましたが、それは失敗に終わり、常陸江戸崎四万五千石を与えられただけでした。しかしそれも関ヶ原合戦後、実兄の佐竹義宣が秋田へ左遷されると没収され、義宣に従って秋田へ移り角館一万五千石を領しました。その後、何度か大名への復帰を嘆願しましたが果たせず、義広の孫千鶴丸が六歳で夭折すると、芦名宗家は断絶してしまいました。
これで芦名家の血統も途絶えたかに思えましたが、実は仙台藩に芦名の血を受け継ぐ一族が残っていました。芦名盛氏の父盛舜は兄盛滋に子がなかったためその跡を継いだのですが、隠居してから盛滋に盛幸という子が産まれていました。盛幸は結局正統を継ぐことなく、別に家を興し針生氏と称しました。盛幸の孫盛信は、芦名義広が常陸へと去った際にもそれに従い、のち竜ヶ崎一万八千石の領地を得ましたが、関ヶ原合戦後それも没収され、盛信は伊達政宗を頼り、客分として準一家に列せられました。盛信ははじめ水沢城を仮城としていましたが、大阪の陣後、胆沢郡衣川村にて千石を賜りました。盛信の曾孫盛定の代には角館の宗家が断絶したので、藩主伊達綱村の命により芦名宗家を継ぎ、針生氏を芦名氏と改めました。その後は盛連・盛壽などが奉行職を歴任し、幕末期の盛景は戊辰戦争の際に額兵隊の総督として出陣しました。


二本松畠山氏は名門中の名門で源姓足利氏の系統です。足利義兼の子義純は長男でしたが庶子であったため、足利宗家の家督を継ぐことはできず、父義兼は従兄弟の新田義兼のところに入り婿させ岩松氏を起こしました。しかし畠山重忠が誅殺されると、その未亡人(北条政子・義時の妹)へ義純を入り婿させ畠山の名跡を継がせることになりました。
四代高国の時代になると南北朝時代を迎え、高国は吉良貞家とともに奥州探題に補され奥州に下向し石塔氏にかわって南朝方の伊達氏・田村氏らに当たることとなりました。そのうち中央で足利尊氏・直義兄弟が争う「観応の擾乱」が起こると直義方に付いた吉良貞家は尊氏派の畠山高国を攻め、高国・国氏親子は共に討ち死にしました。
その後、国氏の嫡子国詮は二本松を拠点として奥州探題職を受け継ぎ、満泰の時に二本松城を築きました。そして戦国の時代となると足利政権を背景とした二本松畠山氏は衰退に向かい、義国の代には安達半郡、安積半郡をようやく知行し、芦名氏の下風に属するようになりました。
そして十五代義継は、塩ノ松城の大内定綱を保護したことから伊達氏の攻撃を受けることとなり、二本松のわずか五村の保有を許されるとの条件で降伏を許されました。伊達輝宗に会見後、義継は輝宗を拉致して逃亡しましたが、伊達家臣団に追いつかれ、輝宗と差し違えて死にました。
父の仇を報ずるため、伊達政宗は二本松城に押し寄せましたが、畠山氏は義継の遺児義綱をもり立て籠城したので、この時は成功しませんでしたが、その後畠山家中でも内部分裂が起こり、無血開城を条件に天正14年7月二本松城を明け渡しました。義綱は、その後会津に逃れましたが、天正17年蘆名盛重(義広)のために殺害されました。
その後は義綱の弟義孝が二本松の名跡を継ぎ上杉家・蒲生家などを経て最終的には岡崎藩水野家の客分となり、子孫は水野家の重臣となりました。二本松家歴代の人物の中でよく知られるのが二本松大炊義廉です。彼は、水野家が唐津へと転封となった後、中老・城代に登用されましたが、老中となることを欲した藩主忠邦が唐津から浜松への移封を工作すると、藩内の総意を代表して移封反対を上申しました。しかし、忠邦の取り上げるところとならず、義廉は痛憤に耐えず自宅にて自決したそうです。
二本松宗家以外にこの一族の末裔として知られるものの一つに、仙台藩伊達家に仕えた本宮氏があります。本宮氏は畠山国詮の庶長子満国を祖としますが、頼重の代に伊達政宗に仕え準一家に列し百十石を知行しました。しかし壱岐の代に家名断絶となってしまいました。
あと一つは津軽藩士となった高倉氏があります。高倉氏は満泰の孫高倉近江守政泰を祖とし、その子孫高倉五左衛門盛次が最上義光の家臣を経て津軽信枚に召し出されたのに始まります。盛次は世子信義の傅役を務め、以後高倉氏は代々重臣を務めましたが、中でも知られているのは九代目相模盛隆です。盛隆は用人から家老となりましたが、当時の藩主信順は「夜鷹殿様」と呼ばれるほど遊興に耽り再三にわたる諫言も聞き入れられませんでした。盛隆は思いあぐねたあげく、諫書を残して切腹して果てました。信順は大いに後悔したものの、いつしか再び放逸に返り結局四十歳にして隠居させられてしまいました。
何だか二本松一族はこういう損な役回りが回ってくる一族のようですね(^^;)
※水野家臣二本松氏については筈衛さんから情報を頂きました。どうもありがとうございます。


最上氏は、足利氏の支流斯波氏の分家です。斯波高経の弟・家兼は、南北朝初期に奥州北朝方の四探題の一人として奥州に下向し、「大崎氏」を称しました。
最上氏の祖・兼頼は家兼の二男で、羽州探題として最上郡山形に入部し「最上氏」を称しました。二代直家は屋形号を許され「最上屋形」と称しましたが、以来、最上氏は庶子を各地に分封し、広範な惣領制を敷いて統治しました。室町中期以降は、伊達氏の武威が強大となり、義定の頃は最上宗家は伊達の傀儡政権化し、これを不満とする一族・国人衆の反抗が相次ぎました。
義守の代には、長男・義光との不和が表面化し、義守は次男・義時の相続を画策しましたが、宿老氏家伊予守の諫言によって義守の隠居、義光の相続が実現しました。
義光は、当主の座に着くと一族・諸将に対する統制を強めたため、弟・中野義時を擁する反主流派が蜂起し一進一退の合戦が繰り広げられた。和解後は、反旗を翻した一族に対し怨みを抱き、中野・天童・東根・上山等の一族を次々に粛清して滅亡させていきました。
豊臣秀吉の全国統一以降は、出羽山形24万石を領し、関ヶ原合戦後は57万石(52万石とも)の大封を領することになりました。彼は、娘の駒姫を秀吉の養子秀次の側室に差し出したり、次男の家親を徳川家康に仕えさせたりと、家を保つための努力をしましたが、それが裏目に出て、駒姫は秀次に連座して斬殺され、長男義康は讒言され高野山で害され、跡を継がせた次男家親も36歳で変死を遂げました。
家親の跡を義俊が継ぎましたが、最上一族の長老達のやまざる派閥抗争が原因で、元和八年(1622)最上家は改易され、義俊は近江に移され一万石を領しました。また、義俊も26歳の若さで死去し、跡を継いだ義智が2歳だったため、三河の五千石は削られ、近江の五千石を以後代々領しました。義智一代は高家をつとめましたが、以後は交代寄合表御礼衆として、明治を迎えました。現在でも御子孫は滋賀県(旧近江国)に在住とのことです
また、義光の四男山野辺義忠は宗家の家臣となりましたが、義俊継承後の派閥抗争では松根光広らと対立し、最上家改易後、岡山藩池田忠雄に預けられました。のち許されて水戸頼房に仕え、子孫は水戸藩の重臣として明治を迎えました。
また義光の弟楯岡義久(光直)も宗家の家臣となり、最上家改易後、熊本藩細川忠利に預けられました。のち許され、子孫は熊本藩士となりました。
※楯岡氏については@nifty歴史フォーラムにおける佐伯惟定さんの書き込みを参考にしました。どうもありがとうございます。



天童氏は、足利氏の庶流で羽州探題を務めた最上氏の分家です。ですが、単なる最上氏の庶族ではなく、南北朝期に成生荘の地頭であった里見義景が斯波(大崎)家兼の子で最上兼頼の弟義宗を養子としたが、義宗にも子がなかったので兼頼の孫である頼直が養子となったと思われます。ですから、単に天童に分封されたものではなく、里見氏の地盤を引き継いだもので、宗家の大崎氏からは最上氏と同格に扱われていました。そんな基盤があったからこそ頼直もその子満長を上山、頼高を東根、頼種を鷹巣にそれぞれ分封したものと思われます。
室町期、幕府と古河公方の対立が続き幕府が関東・奥羽の諸将に古河公方足利成氏討伐の命を出したときにも、最上義春とともに天童頼基にも御内書が出されていることからも天童氏の家格というものが伺えます。
戦国期にはいると、天童氏は天童・成生・六田・飯田・長瀞・楯岡・尾花沢・延沢の下筋八楯の盟主として最上氏や伊達氏に対抗していました。天童頼貞は娘を最上義光に嫁がせるなどして最上氏との関係改善を図りましたが、跡を継いだ頼久(頼澄)は義光と戦い、天正12年(1584)天童城は落城し、頼久は母方の国分氏を頼って陸奥国に逃れました。後に伊達氏に仕えて準一家に列せられ、千三百石を給せられ宮城郡八幡村に居住しています。ちなみに系図を見てわかるように、のちに伊達騒動に関連して名の知られる伊達安芸宗重が養子となって一時天童家を継いでいます。
一方、天童氏の有力庶族であった東根氏は天童氏と違って最上義光に臣従しました。しかし、最上氏の改易によって禄を失い、奥州に残った天童氏とは異なり四国に渡って蜂須賀家に仕えることになりました。
※今回は@nifty歴史フォーラムにおけるかたぎりさんの書き込みを参考にしています。どうもありがとうございます。


白河結城氏は秀郷流藤原氏の流れで、下野の小山政光の子朝光に始まります。朝光は源頼朝の挙兵に従い、下総結城郡を与えられ結城氏を称しました。朝光の母寒河尼が頼朝の乳母だった関係で朝光は頼朝に寵愛され、戦国期にはこうした点をもとに朝光を頼朝の子とする説までもが出ました。
結城氏の所領は結城郡とその周辺の下野・常陸に集中していましたが、文治5年(1189)奥州合戦の恩賞として奥州の白河・岩瀬・名取の三郡が与えられ、二代朝広の次男祐広が正応2年(1289)に入部し、白河結城氏を起こしました。しかし、祐広の父朝広が康元元年(1256)執権北条時頼の出家に際し、白河で出家したと伝えられており、すでにそのころには白河結城氏が本拠を白河に移していたと思われます。
南北朝期、二代宗広は一貫して南朝方に付き、南朝の忠臣としてその名を轟かせ、建武元年(1334)陸奥国府の式評定衆に任命されました。そして、白河結城氏は勅裁により結城氏の惣領となり、下総結城氏はその支家的立場に置かれました。
宗広の死後、その跡は孫の顕朝が継ぎ、顕朝の父親朝は庶流小峰氏の祖となりました。白河結城氏の勢力は直朝の時代に頂点に達し、南奥羽から北関東にかけて勢威を及ぼしました。しかし永正7年(1510)内紛が起き、その勢力は衰え始めます。天正3年(1575)義顕が白河城を留守にした際に、庶流の小峰義親が白河城を乗っ取り、これに乗じて常陸の佐竹義重は白河領全土を制圧しました。
義顕の復領は結局ならず、その子朝綱は秋田藩佐竹氏に仕え子孫は秋田藩士となりました。また義顕の庶兄晴常は石川中畠氏を継いで中畠城主となりましたが、その子孫晴定は水戸藩に仕えて水戸結城氏を起こし、子孫は水戸藩士となりました。また晴常の子孫からはほかに中畠氏・相楽氏が出ており、幕末維新期に「赤報隊」を結成し、のち偽官軍として処刑された相楽総三もこの一族の一人と言われています。
一方、義顕を追い出した義親ですが、佐竹氏に白河領を制圧されたため佐竹義重の二男義広を養子として白河城に入れましたが、義広が芦名氏の後嗣として会津に移ったため、その跡は再び義親が継承しました。芦名氏が摺上原で敗北して滅亡すると伊達政宗に服属しましたが、天正18年(1590)小田原に参陣しなかったため豊臣秀吉に所領を没収されました。そして、慶長6年(1601)伊達政宗に召し抱えられ、子孫はのち一門に列せられ、仙台藩士として明治を迎えました。
また義親の庶子正成(義里)は父義親没落の際に甲州の長沼正休の許に逃れ、その嗣となり正成と称しましたが、正休が藤巻を称したので正成も藤巻を称し、以後代々藤巻を苗字としました。(甲斐結城家[藤巻家]) その後、正重の代に近親の某神社神主品川家に身を寄せているうちに品川家に嗣が絶えたので正重は品川家を継ぎました。その子正隆は明治16年願い出て結城を姓とし名を澄と改めましたが、その子弥十郎は再び品川家を継ぎました。
※今回は@nifty歴史フォーラムにおける筈衛さんの書き込みを参考にしています。どうもありがとうございます。
水戸結城家についてはT.Yuukiさんより情報をいただきました。ありがとうございます。
