【参考文献】
 ・『松前町史 通説編 第一巻上下』(松前町教委)
 ・『松前町史 資料編 第一巻』(松前町教委)
 ・『三百藩家臣人名事典1』(新人物往来社)
 ・『松前下国氏大系図』『別本下国系図抜書』『下国伊駒安陪姓家譜』『松前下国大系図扣』
  (道立図書館収蔵 河野常吉資料)
 ・『知内町史』(知内町教委)
 ・『福島町史 第二巻 通説編 上巻』(福島町教委)
 ・『松前藩知行関係史料―スツキ場所・島小牧場所境界争論関係史料(近藤家文書)を中心に―』
  (石狩市民図書館・榎本文庫所蔵)
 ・『厚谷家禄』(北海道立図書館所蔵)
 ・「藩士履歴書」(中島家文書、松前町町史編集室蔵)
 ・『北海道開拓記念館一括資料目録 第9集 近藤家資料目録』(北海道開拓記念館)
 ・『北海道開拓記念館一括資料目録 第15集 近藤家資料目録・続篇』(北海道開拓記念館)
 ・『小山姓氏家系史料集 第一巻』(小山弘二編著 )
 ・『松前絵師 蠣崎波響伝』(永田富智、北海道新聞社)
 ・『永倉新八のすべて』(新人物往来社/編)
 ・「永倉新八の出自と系譜」(結喜しはや、『歴史読本 2005年9月号』所載)
 ・「杉村家との養子縁組」(結喜しはや、『歴史読本 2005年9月号』所載)

下国家(旧茂別館主、寄合席)

 下国家は蠣崎・松前諸家とともに松前藩の家老となりうる寄合席に列した家です。その先祖を遡っていくと、蠣崎家の主家筋にあたる津軽安東家にたどりつきます。
 嘉吉三年(1443)、安東康季は南部義政に本拠・十三湊の福島城を追われ蝦夷ヶ島に逃れました。その後津軽の奪還を試みるも病死、その遺志を継いだ嫡子義季も津軽に侵入するも享徳二年(1453)に南部勢に攻められて自害し、津軽安東氏の正統は断絶しました。
 この時、康季の従兄弟に当たる潮潟重季の嫡男政季が安東宗家を継ぎ、蝦夷ヶ島に渡って一族重臣を道南の十二館に配置し支配体制を固めました。十二館は茂別館中心の「下の国」、大館中心の「松前」、花沢館中心の「上の国」の三守護地域に分けられ、下の国守護職は政季の弟の下国家政、松前守護職は一族の下国定季、上の国守護職は蠣崎季繁が配されました。政季はその後出羽に移り、檜山城を本拠として津軽進出の機会をうかがいました。檜山安東氏の成立です。
 一方、蝦夷地の三守護職ですが、上の国守護職を継承した武田(蠣崎)信廣の子光廣が松前守護職を併合し、下の国守護の下国氏はのちに蠣崎(松前)氏の家臣となり、蠣崎(松前)氏が蝦夷地の支配権を獲得していきました。
 茂別の下国氏は蠣崎氏の家臣となったものの、寄合席に列し蠣崎・松前氏以外では唯一家老となることのできる家柄として松前藩政に大きな影響を与えました。
 維新期には分家の下国東七郎等が起こした正義隊のクーデターに際して、下国安芸崇教が執政となり、箱館戦争やその後の失地回復戦の指揮を執っています。その後、御子孫は岩内町に移り現在も住んで居られるとのことです。

南条氏(旧脇本館主、中書院席二百石)
蒋土(こもつち)氏(旧穏内館主、のち高橋氏、大広間席百五十石
近藤氏(旧祢保田館主中書院席二百石
厚谷氏(旧比石館主、弓之間席
佐藤氏(旧中野館主)
小林氏(旧志苔館主)
今井氏(旧覃部館主)
新井田氏
明石氏
尾山氏
三関氏
松崎氏

※ 松崎氏については松崎多門成方の御子孫である故・池野多一郎さんより情報を頂きました。池野さんのご冥福をお祈りいたします。

長倉・杉村氏