No.401~600(2005/12/14~2008/02/12)


[600桑谷家と丸根家 投稿者:嵐山 投稿日:2008/02/12(Tue) 23:51

松平泰親の子に出雲守家久と筑前守家広(家弘)という名前の兄弟がいたと言う説があります。あるいは生れたのは今述べた男の子供ではなく、二人の娘が生れて初めの女の子は丸根出雲守家久に嫁ぎ、後に生れた女の子は桑谷筑前守家広に嫁いだともいう説もあります。
さて、
この丸根と桑谷という一族が当時、どういう一族でどういう系譜や事績をなしていったかという経緯について答えを教えてくれる人がいたらお願いします。


[599荒尾持永 投稿者:嵐山 投稿日:2008/02/12(Tue) 23:01

荒尾和泉守持永の二男=松平信盛という命題あり。

信盛は松平信重の父、

信重のところに親氏と泰親が婿入り、子孫は徳川家康

信重には娘二人有り、ともに親氏と泰親に嫁がせ、家を任すとあり。

さて、

荒尾和泉守持永の正体とは誰でどんな本に出てくる人だか答えられる人の回答をお願いします。系譜や時暦など、できるだけ詳しく答えを書ける人はお願いします。

別に在原持頼の妹が賀茂在信の嫁になり、松平信盛を生む話し有り。

さて持永と持頼はどういう関係か、

この先を答えられる人の教授を待つ。


[598綾一族 投稿者:西田 投稿日:2008/02/07(Thu) 11:23

日向国の、細川流綾一族の事、詳しく知っている人がいたら、教えてください。


[597ありがとうございました! 投稿者:タカト 投稿日:2008/01/30(Wed) 20:27

KUBO様

お忙しい中、ご返答ありがとう御座いました。
北條家の先祖については、機会があったら家系図など見せてもらおうと思います!
木花さんについては「このはな」と言う読みが非常に子供心に印象に残っていたのですが
(とても美しい音だと感じます)
何だか本当にとても珍しい姓のようですね・・・
もう少し掘り下げて調べてみます!
ありがとうございました!!


[596始めまして 投稿者:おおた 投稿日:2008/01/26(Sat) 22:24  

神奈川県在住のおおたと申します ルーツ探しには 大変興味を持っています 叔母は久保田姓です 静岡県の駿東郡在住 周りは みんな久保田姓です 
僕の父は大橋姓で総領でありながら 太田家へ婿養子に来ました 大橋家は榊原家の家臣で長年江戸詰だったとのことです どの程度の武士だったのか?調べてみたいと思っていますが 方法をご教示いただけませんでしょうか 宜しくお願い致します 

http://ysoota.exblog.jp/


[595遅ればせながら、あけましておめでとうございます 投稿者:浦野与平次 投稿日:2008/01/14(Mon) 19:25

Kuboさま

最近はすっかりご無沙汰してしまい申し訳ありません。
新年は札幌に帰省したのですが、今年ほど雪が少なかったのを今まで見たことがありませんでした。これからドッサリ降るのですかね。

ともあれ、今年もよろしくお願いいたします。

http://www.geocities.jp/kirche_7/


[594ありがとうございました。 投稿者:KAZU 投稿日:2008/01/14(Mon) 14:02

蝦夷城家臣様 ありがとうございました。

それにしても「かなさき」という家は、多かったんですね。
今度、丸岡町の図書館か白道寺へ行き、調べてみたいと思いま。、
分かったら、報告させていただきます。


[593追記 投稿者:蝦夷城家臣 投稿日:2008/01/14(Mon) 09:12

KAZUさん、 今日は。

丸岡の図書館に『丸岡藩士名列』という、地元の郷土史研究家が編集したものがあります。
まだ不十分なところがあるとのことで、コピーはしないでほしいとの事でした。丸岡の図書館で転記するしかなさそうです。

以上です。


[592はじめまして。 投稿者:蝦夷城家臣 投稿日:2008/01/13(Sun) 13:08

今日は。
私も窪田さん同様、丸岡から北海道に渡った子孫の1人です。

①曾祖父かどうかは、はっきりしませんが、「金崎馬早江」(「江」は字が違うかもしれませんが。)という方は、いらっしゃったのか、もしそうなら、どのような方だったのでしょうか。
このサイトで「丸岡城略史(五徳会)」という資料があることを知り、

『丸岡城略史』嘉永元年(1848年)当時。から「金崎」姓を列記します。城主は有馬温純です。

・御次詰 五人扶持
       金崎利作

・御徒四組 福嶋長太夫支配
       金崎生太郎、金崎勘助

・足軽十二組御持筒 河原半六組
           金崎十野右ェ門、金崎力右ェ門、             金崎興平、金崎宅右ェ門、金崎喜助

・御旗本二番組 有場内匠組
         谷川六之丞組   
           金崎刃(刃の下に一)太

ご先祖は上記の方々の中にいらっしゃると思われます。

・白道寺には有馬家の家臣の方々お墓が多いとか...。

以上です。


[591やはり 投稿者:蝦夷城家臣 投稿日:2008/01/13(Sun) 11:37

筈衛さん、今日は。

> 角川の『○○県姓氏家系大辞典』シリーズは中止になったと聞いていたのですが、違うのでしょうか。

10年以上もの間、次作が刊行されてませんしね...。
情報、有り難うございます。


[590はじめまして。 投稿者:KAZU 投稿日:2008/01/13(Sun) 11:30

はじめまして、KAZUと申します。
今年の正月に、母方の叔母(88歳)宅で、昔の話をしてから急に調べたくなり、その結果このサイトにたどり付きました。
教えていただきたいのは、丸岡藩士についてです。
実は、私の母方の祖母(昭和46年・91歳歿)の実家が、丸岡藩士の『金崎』家で、家紋は『三階菱』を用いておりました。現在、曾祖父の白鬚・紋付姿の古い写真が手元に残っております。
50年位前に、一度だけ祖母と一緒に、丸岡の白道寺にお墓参りに行き、お寺で色々と昔のことを話していただきましたが、私はまだ小さかったため、全然覚えておりません。
もう少し大きかったらと、悔やんでおります。
 教えていただきたいことは、
①曾祖父かどうかは、はっきりしませんが、「金崎馬早江」(「江」は字が違うかもしれませんが。)という方は、いらっしゃったのか、もしそうなら、どのような方だったのでしょうか。
(昔、祖母に聞いたことですが、その「馬早」をとって、従兄の名前を付けたと聞いております。)
②『金崎』の先祖は、『白道寺』に何か関係があったように聞いた記憶があるのですが、どうなのでしょうか。

  このサイトで「丸岡城略史(五徳会)」という資料があることを知り、大阪の古書店やインターネットで探しましたが、どうしても見つかりませんでしたので、教えていただきたく投稿させていただきました。 どうかよろしくお願いいたします。


[589県別の姓氏家系大辞典 投稿者:HAZU 投稿日:2008/01/12(Sat) 13:00

みなさん、あけましておめでとうございます。
蝦夷城家臣さん、こんにちは

角川の『○○県姓氏家系大辞典』シリーズは中止になったと聞いていたのですが、違うのでしょうか。

筈衛


[588寒中お見舞い申し上げます。 投稿者:蝦夷城家臣 投稿日:2008/01/12(Sat) 09:44

毎日寒い日が続きますね。
今年も勉強させて頂きますので、よろしくお願いします。
角川の『○○県姓氏家系大辞典』シリーズで、福井県はいつ頃発刊されるのでしょうか。期待しているのですが...。


[587遅ればせながら、お返事を... 投稿者:KUBO 投稿日:2008/01/10(Thu) 22:57

 正月も過ぎ一段落したので、そろそろ溜まっているお返事をせねばと思い出てきました(^^;) 今年の正月は、HDDからダビングしたDVDのラベル作りにはまってしまいまして、本はかなり昔に買った『ヨーロッパ最後の王たち』を読み始めましたが、ロマノフ家・ハプスブルク家と読んで、第3章のホーエンツォレルン家の所まで来ました。あとは昨年末から読んでいる『系図が語る世界史』を読んでいますが、韓国や中国の族譜とか宗譜と呼ばれる家系譜の作成過程などはなかなか面白いですね。
 ここ数年、1月には「滅びた(?)名族」シリーズを更新していましたが、今年は全く手つかずです(--;) リンクの追加・変更などもあるのですが、それがまず先ですね。

>かなざしさん
 もう見てらっしゃらないかもしれませんが... 「かなざし」と聞いて、私も「金刺」姓を想起しましたが、左京亮がおっしゃるように諏訪神社縁の姓氏ですね。
 『写録宝夢巣Ver.5』で調べてみると静岡(373件)・神奈川(134件)・東京(79件)が多いようです。静岡県では下田市(95件)・富士市(62件)・東伊豆町(55件)と県の東部に多いようです。神奈川県では海老名市(22件)・小田原市(13件)が多いですが、全体としては県東部に多いようです。(なお『写録宝夢巣Ver.5』は2001年のソフトですので、市町村合併前の地名になっていますことをご了承下さい。)
 『日本名字家系大事典』によると「金指 静岡県の姓。金刺氏の子孫とも清和源氏ともいう。金指左馬頭は源義家に従った。戦国時代は北条氏の家臣に金指筑後守の名が見える。現在も伊豆地方に多い。」とのことです。
 金刺姓は古代から信濃国(長野県)に栄えた豪族で、左京亮さんがおっしゃるように諏訪下社の大祝をつとめましたが、永正15年(1518)金刺昌春が上社の諏訪頼満に破れて滅亡しています。こちらも現在は静岡県に多いそうです。

>左京亮さん
 フォローありがとうございます(^^)

>ライトさん
 サイト見せていただきましたが、きれいですね。お城のイラストも見せてもらいましたが、半分くらいのお城は行ったことがないので、行きたくなってしまいました(^^;)

>u-sukeさん
 こちらもきれいなサイトですねえ。熊本城はまだ行ったことがないのですが、行ってみたいお城のNo.1なんです。行く時には参考にさせていただきます(^^)

>タカトさん
 越後の北條氏ですが、鎌倉北條氏の一族が越後国内で地頭を務めていたようで、「越後」の家名を名乗っていた一族もあったようですので、それと関係あるのでしょうか?
 それから北條で「きたじょう」という一族もいましたが、こちらは元々大江姓で安芸の毛利氏と同族で、上杉謙信に属した北条高広が有名ですが、こちらは読みも家紋の違いますから、関係ないかも。
 木花姓は手持ちの資料をいくつか見てみましたが、残念ながら何も見つけられませんでした。『写録宝夢巣Ver.5』で検索してみると、全国で86件しかない稀少姓でした。愛媛県に24件、大阪府に12件ある以外はすべて1けたでした。愛媛県では伊予三島市(現・四国中央市)に20件と集まっていますので、この辺りが木花姓の発祥の地かもしれません。
 木花咲耶姫は大山祇神の娘ですが、大山祇神は伊予三島市の近くの大三島にある大山祇神社の祭神ですので、その関係でこの辺りで木花姓が生まれたのかもしれません。(あくまでも推測ですが)

>素人さん
 まず1についてですが、手元に亘理伊達家の家臣系譜『亘理世臣家譜略記』のコピーがありますので、それを見てみましたが、大塚姓は見つけられませんでした。それから『仙台地方の家紋と苗字』(鈴木常夫)を見てみましたが、大塚姓の家紋として出てきたのは「丸に違い矢」「丸に二つ引き」でした。それから「九曜」紋の使用姓は「千葉、杉浦、細川、山内、千川、我妻、長谷、杉村、望月、岩渕、相馬」、「丸に九曜」紋の使用姓は「千葉、星、村岡」が出ていました。
 また『宮城県姓氏家系大辞典』の大塚姓の項を見てみましたが、載っていたのは次の4家でした。
(1)仙台藩家臣、藤原姓、大塚因幡守親行の十四代左衛門佐宗頼が祖。一族に列す。磐井郡(岩手県)西永井村に田宅を置く。
(2)仙台藩家臣、(1)の宗頼の次男和泉頼賢に始まる。平士。宮城郡七北田村大沢(仙台市)に田宅を置く。
(3)白石片倉家の家臣、一番座、一貫文。三吉が初代。
(4)白石片倉家の家臣、士格の一。五〇〇文。清助が初代。

 それからご存じとは思いますが、こちら↓に琴似兵村入植者氏名が載っていました。
 http://www.kotoni-works.co.jp/history/history3/history3.shtml
 この大塚治三郎というのが、素人さんのご先祖でしょうか?

 それから2については、申し訳ありませんがわかりません。

 以上、あまりご参考にはならなかったと思いますが、手持ちの資料でわかったことをお知らせします。


[586唐突ですが・・・ 投稿者:素人 投稿日:2008/01/08(Tue) 22:27

 最近、司法書士の方から家系についての指摘を受け、調査材料も無い中、ここにたどり着いたところです。これまで関心も無かった(あきらめていた)為、知識も無く、的はづれな内容かもしれませんが、詳しい方がいらっしゃいましたらお教えいただければ幸いです。

1.家系について
 ・少なくとも明治以降は大塚姓。
 ・九曜紋を家紋とする。
 ・明治初期に仙台(亘理・鹿島)から屯田兵として琴似に  入植する。

 * 江戸以前から大塚姓であったのだろうか?
 * 亘理の出身で、伊達家以外に九曜紋を使う家系はある  のだろうか? 
 * 伊達家に縁があるとしたら、明治以降に伊達家から嫁
  が来るという事は有り得ない事ではないのか?

2.琴似神社について
 この神社を「大塚神社」と呼ぶ方々もいらっしゃったと聞 いていたが、そのような事実はあったのだろうか?

 以上の他、疑問・興味・責任を感じてはいるが、資料も無く、よく知っていたであろう先達も皆、他界している状態です。丸投げ様な質問で恥ずかしいところですが、
情報(知識)を欲しております。宜しくどうぞ・・・


[585あけましておめでとうございます! 投稿者:KUBO 投稿日:2008/01/01(Tue) 13:01

>みなさま
 新年あけましておめでとうございます。昨年末は、ばたばたとしまして掲示板のお返事もままならない状態で申し訳ありませんでした。(ここ最近ずっとですけど(^^;))
今年もこれから帰省しますので、お返事はもう少々お待ちください。正月休みの間には何とか...(^^;)
 そんなわけで、例年トップページに掲げている年賀の挨拶も手が回らず出かけます...ヤレヤレ(^^;) この調子ではここ数年正月に「滅びた(?)名族シリーズ」を更新していますが、出来るかどうか?
 例年にくらべると雪が非常に少ない北海道ですが、1~2月にどっと降るんじゃないかとちょっと心配です(--;)

 それでは、相変わらずスローモーなサイトですが、本年もよろしくお願いいたします。


[584Re:[581] [577] 投稿者:かなさん 投稿日:2007/12/31(Mon) 17:53

ありがとうございます。


[583はじめまして! 投稿者:タカト 投稿日:2007/12/15(Sat) 22:03

タカトと申します。
ふと気になって
父方、母方の姓のルーツを調べていたらこちらへたどり付きました。
母方の祖母の旧姓が北條、
父方の祖母の旧姓は長尾、
私本人は父方の姓、成川です。

私の母方の祖母の旧姓「北條」は、家紋が三つ鱗、
祖母の兄の息子さんのお名前が「頼○(一応伏せさせて頂きます)」と言う名前で
現在、上越市寺町で住職をしております。(真宗大谷派、高田教区)
小田原の後北条ではなく、どうも鎌倉北條氏に関わる一族のようで、
母によると、家系図があるそうです。(私は見たことないのですが)
"由緒ある"家系と見て良いのでしょうか?
と言っても由緒ある家系だからどう、と言う事ではなく
あくまでも個人的な好奇心なのですが・・・。

更に気になる姓がありまして
友人に土岐、木花(このはな)と言う姓を持つ子が居ます。
土岐氏についてはホンの少し知っているのですが
(お父様は「いまだに斎藤さんは苦手です」と仰っておられました。笑)
木花姓についてはネットで調べても
木花咲耶姫しか出てきません。
何か関係があるのかとも思ったのですが
そもそも木花咲耶姫は神として神話に登場する名前ですよね?
と言う事は、何か別のルーツを探した方が正解に近づけるのでしょうか・・・

もともと歴史をたどっていくのが好きなので
自分の姓のルーツは探れると言う事を知ってから
時々無性に調べたくてたまらなくなります(*^^*)

北條氏、木花氏について何かご存知の方がいらっしゃいましたら
教えていただけたらと思います(^^)

お邪魔致しました。


[582はじめまして 投稿者:u-suke 投稿日:2007/11/27(Tue) 21:14

熊本城を紹介するHPを作りました。
もしよかったら遊びに来てください。
熊本城の歴史、伝承、地図、ゲーム、検定などがあります。

http://kumashiro.web.fc2.com/


[581Re:[577] 教えて下さい。 投稿者:左京亮 投稿日:2007/11/15(Thu) 08:41

> 名字は『金指』です。

はじめまして。
金指さんのお名前が、「金刺」に由来するものであれば、諏訪下社大祝の系と思われます。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kanazasi.html

小生は同じく金刺氏から派生したとされる手塚姓に所縁のあるものです。以前2,3回この掲示板に投稿しご教示をいただいたことがあります。

金刺姓を辿ると神武天皇にまでいってしまって、「ほんまかいな」という感じですが、何かしらロマンを感じる話でもありますね。


[580はじめまして! 投稿者:ライト 投稿日:2007/10/25(Thu) 23:03

はじめまして!ライトと申します。最近、初めてホームページを開設しました。自作のお城のイラストを中心にやっております。スタートしたばかりなのでお城の数もまだまだ少ないのですが、もしよかったらのぞきに来てください。よろしくお願いします!

http://1st.geocities.jp/golden_shiro/


[579お詫びと御礼 投稿者:古川 正記 投稿日:2007/10/18(Thu) 23:41

ななし様
情報有難うございます。
當宗像は、父方の祖母で旧下枝村中の内で、現在も居住しているようにうかがっています。
尚、狐田の方は父方の祖父で、ななし様の推察とおり影山の名前です。こちらの方も現在も居住していますが、なかなかルーツを調べるのに苦労しています。


[578Re:[575] [574] [573] [553] [549] 宗像氏 投稿者:ななし 投稿日:2007/10/17(Wed) 23:33

古川さま。
ごぶさたしまして申し訳ありません。

> 當宗像の家紋は丸に橘です。
> 父方の祖父は、ななし様と同じ旧中郷村で狐田出身です。
実は当家は隣の「蛇石」(すぐ隣)です。
お話を伺い、狐田の「宗像」家をちょっと見てみました。
やはり家紋は違いました(今回初めて知りました)。
すぐ隣なのに。。。

当家の「本家」は14代目です。その前については機会があれば聞いてみようかと思います。
蛇石から滝地区にかけては同じ家紋ですので同族かと思いますが、狐田はどうなんでしょうか。
なお、5月の節句にいくとこいのぼりと一緒にたくさんののぼりがあがります。
そこには家紋が必ずといっていいほどありますので一度ごらんください。

> 家紋は郡山市の市章によくにた、山文字丸です。
申し訳ありません。狐田で「山」というと「影山」さんを
思い起こすのですが、山文字丸はちょっと思い当たりません。
今度探してみます。

むなかたさま。
> 私の家の家紋は、丸に二つ引両です。
どうも近所には見当たらないようでして。
本当にいろいろあるんですね。
(意外と家紋はあてにならない?)


[577教えて下さい。 投稿者:かなざし 投稿日:2007/10/13(Sat) 22:21

みなさん、はじめまして。
最近、自分の先祖が、気になってまして・・・。
だれか知ってる人教えて下さい!
名字は『金指』です。


[576すっかり秋... 投稿者:KUBO 投稿日:2007/10/09(Tue) 01:11

 この前までは暑い暑いと言っていましたが、あっという間に涼しくなりかえって寒いくらい。9月の末頃に30度の日があったなんて信じられないくらいですね。おかげですっかり風邪引き家族になってしまいました(^^;) 休みの日には昼寝したりしてるんですが、何とな~く体が疲れてるんですよね。

 もう少し早くお返事をしようと思っていたのですが、また1ヶ月以上あいてしまいました。申し訳ない...

>津々堂さん
 熊本藩の津田・津川家情報ありがとうございます。熊本藩は結構名門の末裔がいますよね。津川家はそのうち、うちのサイトでも斯波氏の子孫として取り上げたいと思っていましたが。

>空海さん
 ようこそ当サイトへ。徳之島がルーツだそうですが、『さつまの姓氏』によりますと、徳之島の窪田姓は「清和源姓為朝の末裔と称する平二代西之主の子義間から出る。」とありますので、空海さんのお話とも符合しますね。
 九州の窪田姓の所では三代目の窪田喜祐徳までしか載せていませんが、『さつまの姓氏』によると、本家はその後は「成常――喜元――哲介――大介」と続き、分家の初代喜祐徳の二男喜祐厚の子孫は「喜忠――茂徳――忠儀」と続いているそうです。
 去年、同じく徳之島の窪田氏の子孫という方がおいでになったことがありますが(掲示板過去ログ36:No.460-461参照)、空海さんもこの一族の御子孫なんでしょうね。

>Jennyさん
 はじめまして。書き込みありがとうございます。松前藩の家臣について調べていらっしゃるようですが、また何かありましたらお気軽においで下さい。

>46さん
 いらっしゃいませ(^^) こちらこそどうもありがとうございます。ユクエピラチャシですか? そうですね。我が家は札幌の隣町なんですけど、うちから日帰り圏内にあるチャシは比較的規模が小さいチャシが多くて、壕が深くても1~2m程度というのが多いんですが、このユクエピラチャシの壕は深さ3m以上はありますので、それだけでもチャシの中では見応えがあると思います。
 また同じ陸別町内にあるトラリ第2・第3チャシの壕もかなり深く、所によってはユクエピラチャシの壕よりも深い壕もあります。道東は規模が大きいチャシが多く、また壕を張り巡らせているチャシがある(道央のチャシは単郭のものが多い)ので、あちこち見て回りたいと思っているのですが、なにせ我が家からは遠く、日帰り圏外ですのでまだまだ見ていないチャシが多いので、他にもまだまだ見所のあるチャシがあるんじゃないかと思っています。

>ななしさん、古川さん、むなかたさん
 宗像姓情報ありがとうございます。補足するような情報も当方にはないので参考にさせていただきます。


[575むなかた 投稿者:むなかた 投稿日:2007/10/02(Tue) 23:23  

前にも投稿させて頂いております。
私の家の家紋は、丸に二つ引両です。
宗像でも色々な家紋があるのですね。


[574Re:[573] [553] [549] 宗像氏 投稿者:古川 正記 投稿日:2007/09/24(Mon) 23:56

ななし様
當宗像の家紋は丸に橘です。
父方の祖父は、ななし様と同じ旧中郷村で狐田出身です。
家紋は郡山市の市章によくにた、山文字丸です。
いろいろと調べている途中ですが、地元の方たちはあまり
興味が薄くしらべるのに苦労しています。

> 当家は福島の「三春(旧中郷村)」にあります。
> 聞いたところでは旧守山藩(現郡山市田村町)から来た、とのことでした。「旧下枝村」はご近所ですので、同じではないでしょうか。


[573Re:[553] [549] 宗像氏 投稿者:ななし 投稿日:2007/09/24(Mon) 01:13

> 私の祖母も宗像といい、福島県の旧下枝村から北海道に明治時代に開拓移住しており、私も現在調べている最中です。

お墓参りでちょっと気になることがあって家紋を調べていて見かけましたのでちょっと記入させていただきます。
当家は福島の「三春(旧中郷村)」にあります。
聞いたところでは旧守山藩(現郡山市田村町)から来た、とのことでした。「旧下枝村」はご近所ですので、同じではないでしょうか。
kuboさんの調査で「陸奥の岩城氏の家臣に」いたのがルーツか、と思っております。
ところで家紋は「一に半菊」で、宗像神社の柏とは異なっております。(三春には柏の紋をもった宗像さんもいるようです)
今回不思議に思ったのは三春東部の「石井家」の家紋もこの「一に半菊」だったことです。
「石井家」の由来は不明ですが、家紋の関係を考えると何か秘密がありそうです。
ちなみに会津の宗像さん(宗像窯で有名)は宗像神社由来のようですのでおそらく別の流れかと思っています。


[572ありがとうございます。 投稿者:46(しろ) 投稿日:2007/09/20(Thu) 22:31  

KUBOさま、「ザ・登城」の46です。
このたびは、突然のお願いにも関わらず、相互リンクを快諾していただきありがとうございました。

貴HP内にて、好きなチャシの一つとして、陸別町トマムの「ユクエピラチャシ」を挙げておられますが、その要因はなんですか?
今夏の蝦夷国登城の際、コース・日程等により外してしまったものですから…
忙しいところ、愚問ですがよろしくです。

それでは、ご自愛のうえ、益々ご活躍されますことを祈念いたします。
ありがとうございました。

http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/index.html


[571松前藩 投稿者:Jenny 投稿日:2007/09/18(Tue) 23:20  

KUBO様へ。こんばんは。
松前藩の家臣について個人的にいろいろ調べておりましたら、こちらがとてもお詳しかったので
ご挨拶を兼ねて初めて書き込み申し上げます。
拝見したところ皆様もご自分のルーツを探っていらっしゃるようで・・・、私も同じでございます。
今後質問させて戴く事もあるかと思いますので、まずはご挨拶まで。失礼致します。


[570窪田姓 投稿者:空海 投稿日:2007/09/01(Sat) 03:19  

kubo様。こんばんは。初めてメールします。元窪田です。私の窪田のルーツは徳之島です。歴史資料館の館長さんにお話を聞いたところ、ご先祖と源氏と深い関わりがあり、鎌倉から来て井戸を掘りそこに集落を作った中心的役割をした家だったらしいです。家にあるその井戸は町の文化遺産になってます。ちなみに家紋は丸に井桁で、井桁の井は井戸をさすらしいです。徳之島の石灰水で丈夫な牛が育ち、その皮を鎧にしていたそうで、そのせいか?徳之島では今でも闘牛が盛んです。水軍として戦っていたそうで、今でも家に島津藩の蔵が残っています。九州の窪田姓で徳之島の方の事が載っていましたが、その方のお話と共通するところがあるでしょうか?又それ以外の情報がございましたら、教えて下さい! 


[569Re:[564] 斯波氏について 投稿者:津々堂 投稿日:2007/08/30(Thu) 11:02  

Kubo様・ご無沙汰いたしております。横合いから大変失礼かと存じますが熊本から津川家、津田家情報をお伝えします。
村上様
斯波義近の二男辰珍は、蒲生氏・蜂須賀氏につかえた後細川忠利に客分として召し寄せられた後、重役として列せられ明治に至っています。織田信重の三男、三十郎も細川家に身を寄せました。信重も三十郎を名乗っていますね。実は細川幽齋の末妹が公卿土御門久脩に嫁していますが、嫡男泰重の室が信重女です。肥後津田三十郎家の先祖附を見ますと、(信重に)子供が多くて皆が(仕官に)難儀しているといった事が書かれております。三十郎は300石で仕官していますが、寛永19年伯父・辰珍(1250石)は、三十郎に700石を分知しました。これにより三十郎は1,000石となり、織田家子孫としての面目も保たれ明治に至りました。伯父甥の間柄とはいえ、こういう形での分知は他に例を見ません。辰珍の跡は兄近利の孫辰房を養嗣子としますが、跡目550石に加増され1,400石の大身となっています。織田一族は別に三家ほど家臣団に見ることが出来ます。

http://shinshindoh.com/


[568また一ヶ月ぶり... 投稿者:KUBO 投稿日:2007/08/30(Thu) 01:17  

 また一ヶ月ぶりになってしまいました(^^;) しかし暑い一ヶ月でした、というよりまだまだ暑いですが。最近はかなり朝夕は涼しくなってきたものの、日中はまだまだ暑いです。でもお盆頃の暑さは半端じゃなかったですね。あまりの暑さにアイスノンを枕の上に置いて寝たことがあるんですが、それでも寝苦しくて翌日は完全に寝不足でした(^^;)
 暑さにめげていましたが、やっと数年来の念願である(をい(^^;))Windowsの再インストールを敢行しまして、おかげさまでメインマシンの起動・動作がかなり速くなりました(^^) でも各種ファイル&設定のバックアップ・Windowsの再インストール・各種アプリケーションソフトの再インストール・ファイル&設定の復元で8月中旬はつぶれてしまい、少しはサイトの更新に取りかかろうと思ったのですが、手が回りませんでした。

 そんな中、相変わらず本は読んでおります(^^;) 一月前の『天地人』に続いて、宮城谷昌光氏の『三国志』を図書館から借りてきて読んだり、あとは『お殿様たちの出世』(山本博文)とかを読んでますが、宮城谷氏の『三国志』は普通イメージする黄巾の乱から始まる『三国志演義』の話とは違い後漢の中期安帝の頃くらいから話が始まっています。ですが後漢王朝がいかに衰退していったかというのがわかり、なかなか面白いです。おなじみの黄巾の乱が出てくるのは第二巻の終わり頃ですが。

 話がそれてきましたので、お返事を...

>村上忠男さん
 はじめまして。織田信重が改易となったことは知っていましたが、手持ちの史料では生没年不詳となっていてその後の動向までは把握できていませんでした。信重と嫡男直政までは『寛政譜』に載っていましたが... 貴重な情報ありがとうございました。

>西田宣道さん
 新発田藩の窪田家については当サイトに掲載してる以上の情報は持ち合わせておりません。新発田藩の窪田氏については、新発田藩に関するサイトを運営なさっているなおすけさんに情報をいただきましたので、詳しいことはなおすけさんにお聞きになるといいかもしれません。
 当サイトのリンクページから「日本史関連リンク」→「道学堂~新発田藩史研究所」とたどっていただけるとなおすけさんのサイトにたどり着きますので。

 あと手持ちの史料で佐治氏に関する本があったはずなのですが、整理が悪くすぐに出てきません。『甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族』(長坂益雄)という本です。一応ご参考までにお知らせしておきます。

>菅原さん
 この写真を撮ったところって上の方からこう見下ろすような場所でしたか? だとすれば、私が見た場所と同じように思います。もうかなり前ですし、たまたまその場所の写真を撮らなかったので、はっきりとは言えませんが、私が見た風景の記憶とほぼ一致しますね。


[567松葉町裏山チャシ 投稿者:菅原@北海道 投稿日:2007/08/20(Mon) 23:41  

KUBOさん、こんにちは、菅原@北海道です。
松葉町裏山チャシですが、私が訪問した時は立入禁止になっていなかったですが、
KUBOさんが訪問した時や最近は立入禁止みたいですね。
それからチャシには説明板がありましたが、「平成11年10月」と書かれていたので、
KUBOさんが訪問してから3か月後に設置されたようです。

下記のURLは松葉町裏山チャシの遠景ですが、
KUBOさんが目星を付けた場所に間違いないでしょうか?

http://pub.idisk-just.com/fview/yiTZWZZEEE7ymzxBb99FfNR_9yhoCXpYDMxdxlZFJJitlFXGoO8pLN7Tg_3fh9tpfGPZRV7y_U1nvw0s9Ju8wg.jpg


[566佐治家 投稿者:西田宣道 投稿日:2007/08/20(Mon) 16:48  

中部地方の窪田氏の(8)越後の窪田氏の家系図で、お犬の方様と佐治信方公の御子孫が窪田守次公として、織田家と佐治家の血筋が続いているとは、うれしい限りです。KUBO様その血筋、現代まで続いていたら教えてください。どうか、お願いします。それと、私以外にも佐治家の血筋を、知りたい人がいますので、この情報教えていいでしょうか。返事をまっています。


[565続いて 投稿者:西田 宣道 投稿日:2007/08/13(Mon) 09:50  

村上 忠男様貴重な情報ありがとうございます。村上家、津川家、大内家が続きますように。


[564斯波氏について 投稿者:村上 忠男 投稿日:2007/08/03(Fri) 16:27  

斯波氏についての投稿を見ましたが、私の母方の血筋にあたりますので調べた範囲でお話したいと思います。母方は津田の苗字を名乗っていますが、織田信長の弟・信包(のぶかね)の末裔です。次の代が信包の嫡男・信重(のぶしげ)で、豊臣家が徳川家康に臣従するか、手切れをして戦をするかの重要な会議の席上で突然、血を吐いて暫らくして亡くなりました。信包は三男・信則(のぶのり)に丹波・柏原4万石(慶長分限帖)を相続する事を遺言として残しましたが、信重は伊勢・林1万6千石でしたので、弟(腹違い)が自分よりも身代が大きくなるのが、面白くなかったようで徳川家康に訴えた処「僻み事で筋が通らない」と言われ改易と成ってしまいました。戦国人名事典ではここまでしか説明されていませんが、この後、信重と嫡男・直政は「大阪夏の陣」で豊臣方として大阪城にて討ち死にして信重室(斯波義銀改め津川義近の娘)は自害して次男・信直が奥州へ落ち延たのが母方です。没落したので織田の前の苗字・津田に戻しました。
今のお金で約十億のお金で大百姓になり御家再興は成りませんでした。又、大内義隆の次女が津川義近の正室でしたので大内家を分家が再興しました。


[563大変ご無沙汰です 投稿者:KUBO 投稿日:2007/07/29(Sun) 01:09  

>みなさま
 大変ご無沙汰です。すっかり3ヶ月ほども留守にしてしまいまして(^^;) 忙しいのもあったんですが、先月、ちょっとしたことから右足に肉離れを起こしてしまいまして、余計に身動きが取れなくなってしまいまして...
 お陰で、歩くのにはもう支障はありませんが、しばらく杖の生活を余儀なくされたのには参りました。やっと余裕ができましたので、少しは更新の方に力を注ぎたいところですが、最近自宅用のメインマシンが不調でして、夏の間に再インストールをしようかと思っていますので、どうなりますことやら...

 さて、最近読んでいますのは図書館から借りてきた『天地人』(火坂雅志)。再来年(?)の大河ドラマの原作らしいですが、この前読んだ藤沢周平の『密謀』に比べると、同じく直江山城守兼続を主人公にしていますが、ちょっと架空の登場人物が出てきたりと違和感ありです。まあ、そこそこ面白いですが、やはり『密謀』の方が深みがあるかなあ。
 それから、『戦国の城』(小和田哲男)、『敗者から見た関ヶ原合戦』(三池純正)など。前者は築城法から普請・作事、城の機能や城下町についてなど、なかなか興味深く読ませてもらいました。後者は今読んでいる途中ですが、通説とは違う関ヶ原合戦像が面白いです。

>家紋izmさん
 お出でいただきありがとうございました。メールでお話ししたリンクの件、もう少々お待ち下さい。

>きょうちゃん(さんを付けるのも変なので、そのままで失礼します)
 八戸藩の佐々木氏に関する史料ありがとうございました。結局、未だに『八戸藩系譜書上』もまだ確認できていないのですが、時間ができましたらいただいた資料と合わせて是非参考にさせていただきます。

>木場さん
 はじめまして。ちょっと今、手元には家紋の詳しい資料がありませんが、『家紋でたどるあなたの家系』『家紋でたどるあなたの家系 続』(千鹿野 茂/編、続群書類従完成会)や『都道府県別姓氏家紋大事典 東日本編・西日本編』(千鹿野茂/編、柏書房)等を見ると、何か情報が載っているかもしれません。

>新井田さん
 はじめまして。新井田氏情報ありがとうございます。ということは、やはり新井田氏の家紋は割菱系と木瓜系があるようですね。それとも木瓜が元々の家紋で割菱は松前家よりの拝領紋なのか。松前藩士の系譜情報は断片的ながらありますが、家紋の情報となるとどうもよくわかりません。
 こればかりは個々の御子孫の方の情報を調べていくしかないのかもしれません。


[562今更ですが・・・ 投稿者:新井田 投稿日:2007/05/22(Tue) 23:25  

皆様、はじめまして新井田と言います。
今更なのですが、たまたま2002年の書込みを見つけて気になり書込みさせて頂きました。

No.620と621にある新井田家と家紋ですが、
私の祖父は木古内の泉沢出身と聞いております。
ただ、家紋については、「丸に四方木瓜」になり、私も引継いでおります。
「戦時中の金属回収で家紋入りの物は回収された」
と聞いておりますので、証拠になるようなものはありませんが…

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/bbs/keijiban16.htm


[561木場と申します 投稿者:木場 投稿日:2007/05/17(Thu) 21:41  

突然すいません
今、木場家の家紋を探してます

写真とかあれば見せていただけないでしょうか?

よろしくお願いします


[560資料おおくりしました。 投稿者:きょうちゃん 投稿日:2007/05/14(Mon) 09:50  

KUBOさん、今日は。昨日メール添付で八戸藩の佐々木氏に
関する資料をお送りしました。メールに書いたように紫波町
は八戸藩の飛び地でありましたので、あるいは八戸藩の佐々木と関係があるのでは推察しております。ご参考になれば
幸いです。


[559シックな感じがいいですよねぇ 投稿者:家紋izm 投稿日:2007/05/04(Fri) 09:22  

はじめまして。運営しているサイトの情報を収集しているうちに辿り着きました。多くの方に手軽に家紋を楽しんで頂こうと、家紋のepsデータを無料配布しております。

昨今の容易なデジタルデータの普及に伴い、あらたな家紋が生まれ、また歴史にそのデザインを連ねていければと思い運営しております。

ご叱咤などがあればメール頂けると幸いです。

http://www.crest-japan.net/


[558おめでとうございます。 投稿者:KUBO 投稿日:2007/04/27(Fri) 00:46  

 この前の土曜日は休日出勤でして、その振替が明日ですので、明日から四連休です(^^) といっても、今年のGWは全然遠出の予定はないのですが...(^^;) しばらくお城らしいお城にも行ってないなあ...(--;)

>古川さん
 家紋が丸に橘ですか。奇遇ですが、我が家は丸に三本足橘ですので、非常に似た家紋になりますね(^^) ルーツ調べはいろいろと難しいですが、楽しいですね。

>味舌政宗さん
 復活、おめでとうございます!! 早速のぞかせていただきました。こちらからのリンクも張り直しましたので、どうぞよろしくお願いします。
 私もなかなか時間が取れなくて更新は遅々たる歩みですが、がんばっていきましょう(^^)


[557復活いたしました。 投稿者:味舌政宗 投稿日:2007/04/26(Thu) 00:29  

こんばんわ。この間はアーカイブサイトのことを教えていただき本当にありがとうございました。見つけ出した元の自分の記事を読み返し、早速一部を修復して、元の題名のとおり再デビューいたしました。
こうも早くサイトを再開できたのもKUBO様始め多くの皆様方のおかげと思っております。本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願い致します。

http://www.geocities.jp/masitasengoku/


[556御礼 投稿者:古川 投稿日:2007/04/22(Sun) 18:52  

KUBO様 ありがとうございます。
當宗像家も九代位遡れるようですが、中々到達できていません。家紋については、丸に橘とのことです。
此れからも、色々と拝見させていただき、勉強していきます。まずは、御礼まで


[555大変申し訳ありませんm(__)m 投稿者:KUBO 投稿日:2007/04/22(Sun) 01:05  

>みなさま
 大変申し訳ありませんでしたm(__)m 年度末・年度初めの忙しさにかまけて2ヶ月以上も留守にしてしまいまして...(^^;) 今日でちょっと一段落しましたので、遅ればせながらレスせねばと出て参りました。

 仕事用のPCもそろそろ5年近くなり、ガタが来たのでWindows Vistaの新型を買ったもんでそのお世話にも手間が掛かりまして... なにせPCさわれるのが、いつも寝る前のせいぜい1~2時間という状態で、なかなかこちらの方まで手が回りません。ブログは去年から放ったままだし、どうしたもんだか...

 年度は替わりましたが、仕事の方はほとんど昨年度から引き続きなので、それほど違和感ないですが、でもそろそろ転勤対象年限ですので、来年はどうなりますことやら...
 よって前回言っていた今川氏は全く手を付けてません(^^;) 少しは取りかかりたいんですけど、来週からまた忙しくなるのでしばらく無理っぽいです(^^;)
 そんなわけなんで、先日来読んでいる宮城谷昌光氏の『香乱記』も読むのがなかなか進まず、まだ2巻の半分くらい。他にも読みたいものはあるんですが... 一日36時間ぐらいにならないですかねえ(^^;)

 グチはおいといて、そろそろレスをば...(^^;)

>西田さん
(1)天竺氏について
 『土佐名家系譜』(寺石正路/著、歴史図書社)の「第三編 長岡郡 三十八家」の中に「九一、大津 天竺氏小神氏」というのがあります。私は同書の目次と一部のページのコピーしか持っていませんので、どれほど記述があるか分かりませんが、一応ご参考までにお知らせしておきます。

(2)忠分系水野家の家系は以下の通りです。

 水野忠分―+―分長――――――――元綱―+―元倫
      +―義忠…(幕臣2500石)    +―元知(改易)――元朝―――――+
      +―重央…(紀州藩付家老             (幕臣2000石) |
      |    紀伊新宮3万5000石)                 |
      +―吉勝…(幕臣700石)                     |
      +―勝政<松平>                        |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
+=元陳 +―元丈
+―元扶―+―元弘====元風――元貞
     +―英門<青柳>

>むなかたさん
 福島県の宗像氏について、手持ちの資料で見つけられた記述を列挙してみます。
(1)『日本名字家系大事典』(森岡浩/編 東京堂出版)
~戦国時代、陸奥の岩城氏の家臣に宗像氏がいた。現在でも福島県田村郡には宗像姓が多く、同県ではベスト100にも入る。~
(2)『姓氏家系大辞典』(太田亮/著 角川書店)
~磐城の宗形氏 田村郡に見ゆ。又新編会津風土記、大沼郡本郷村「宗像神社神職宗像出雲。当社を創建せし祀官は宗像氏なれども、年代久遠にして其の名を伝えず。寛文の頃、、小林多門と云う者神職を勤む。天和三年に多門・土津神社の昇殿役となりしかば、秋山玄蕃勝直・代わって神職となる。勝直三世の孫玄蕃明盛・子なくして若狭尚清を養子とす。即ち当社を草創せし宗像氏の後裔にて、今の出雲清池が祖父なりと云ふ。清地・初め秋山氏を称せしが、後請ひて本姓にに復せり。」と。~
 ご参考にはならないかもしれませんが、一応お知らせします。

>結城さん
 はじめまして。恥ずかしながら望月寒チャシは知りませんでした。手持ちの資料には載っていなかったもので... どの辺りになるんでしょうか?
 野花南のチャシはやはり材木置き場の奥でしたか。情報ありがとうございます。といっても今のところはいつ再訪できるか分かりませんが...


[554Re:[553] [549] 宗像氏 投稿者:むなかた 投稿日:2007/04/13(Fri) 20:16  

> 私の祖母も宗像といい、福島県の旧下枝村から北海道に明治時代に開拓移住しており、私も現在調べている最中です。

>私の父は福島県白河市出身です。分家なのでその先は良く分かりません。調査結果分かったら教えてください。
ちなみに家紋は丸に二つ引両です。


[553Re:[549] 宗像氏 投稿者:古川 投稿日:2007/04/06(Fri) 21:18  

私の祖母も宗像といい、福島県の旧下枝村から北海道に明治時代に開拓移住しており、私も現在調べている最中です。


[552チャシについて 投稿者:結城 投稿日:2007/03/23(Fri) 00:43  

札幌にはもう1つ望月寒チャシがありますよね。
天神山チャシは壕が埋もれているので確認できないと思いますよ。(確か発掘調査されたはずでは・・)
野花南のチャシは材木置き場の奥にありましたよ。


[551お犬の方様 投稿者:西田 投稿日:2007/03/15(Thu) 12:59  

お犬の方様(信長妹)ー娘(水野忠分室)-水野分長ー水野元綱ー水野元知(改易)-水野元朝(旗本) 水野元知公には兄、水野元倫公あり。水野元朝公の系統は、旗本になったとゆう。お犬の方様系水野氏の事で知っている人、教えてください。


[550宗像氏 投稿者:HAZU 投稿日:2007/03/10(Sat) 21:04  

 宗像氏ですか、そんなに多かったかとびっくりしました(@_@。
 で調べてみると郡山市、田村市、田村郡に多いようです。
 ルーツはわかりませんでした。


[549宗像氏 投稿者:むなかた 投稿日:2007/03/09(Fri) 20:18  

福島県に宗像の姓が多いと聞きます。
ルーツをご存知でしたら教えていただきたいのですが。
九州の宗像神社とかんけいあるのでしょうか


[548天竺氏 投稿者:西田 投稿日:2007/03/07(Wed) 10:38  

土佐大津城、備中軽尾城の、天竺氏は細川氏庶流だと想うのですが、詳しい人がいたら系図など教えてください。


[547Re:[545] 二日遅れですが、開設7周年! 投稿者:甲斐国士 投稿日:2007/02/06(Tue) 08:40  

書き忘れていましたので下記のことを追加します。
現仁勝寺住職によると寺開基の方の戒名は「寺名殿(でん)」で始まるのが仏教上のしきたりだそうです。
それからいくと開基信長、戒名の中に「宗印」ですから同一人物であるすべきと思います。
なにせこの時代の資料が少ないらしく混同されているようですね。


[546Re:[545] 二日遅れですが、開設7周年! 投稿者:甲斐国士 投稿日:2007/02/05(Mon) 08:53  

> >みなさま
> >甲斐国士さん

度々お手数おかけします。
寺所蔵の略縁記ですと、戒名は「大居士」と「大」がつきます。念のため。


[545二日遅れですが、開設7周年! 投稿者:KUBO 投稿日:2007/02/05(Mon) 00:38  

>みなさま
 二日遅れ(これを書いている間に三日遅れになってしまいましたが(^^;))ですが、当サイト開設7周年を迎えました(^^) といってもここしばらくはなかなか更新もできず亀の歩みとなっておりますが、今回は少し時間を取って久しぶりに「滅びた(?)名族」シリーズを更新し、武田氏を追加しました。
 何だか大河ドラマに合わせたようにも見えるかと思いますが、実は一昨年の暮れに関東長尾氏を追加した後、すぐに取りかかっていたんですが、忙しさにかまけて放置していまして、今年に入ってから久しぶりに続きに取りかかっていたという次第です(^^;) 次の今川氏にいつ取りかかれるか分かりませんが、まあのんびりとやっていくつもりでおります(^^;)

>樋爪秀夫さん
 はじめまして。樋爪さんといえば3年ほど前に『美浦村お散歩団』のひづめさんの御紹介で同姓の方がお出でになりましたが、その過去ログをご覧になったのでしょうね。フォローありがとうございます。
 『写録宝夢巣5』のデータですと、樋爪姓は全国で192軒、そのうち石川県に45軒、富山県に23軒、福井県に5軒と北陸に一番集中していまして、それ以外は京都府に20軒、埼玉県に13軒、そして北海道に38軒と北陸以外では確かに北海道に多いですね。

>窪田さん
 はじめまして。同姓の方にお出でいただけるというのはうれしいものです(^^) さて甲斐の窪田氏ですが、当サイトの「ルーツの部屋→全国の窪田姓→Part2全国の窪田姓の詳細」とたどって「中部地方の窪田姓」を見ていただければ一番最初に「甲斐の窪田氏(三枝氏)」というのが載っていますが、甲斐の大族三枝氏の一族でのちに江戸幕臣旗本になっています。
 また「その他の窪田姓」を見ていただけると分かりますが、その他にも旧武田家臣という窪田(久保田)氏が江戸幕臣旗本になっています。土橋治重氏の『甲州武田家臣団』を見ても、窪田(久保田)姓の武田家臣の名前が出てきていますので、窪田さんの御先祖はそれらの旧武田家臣の一族だったとも考えられるのではないでしょうか?

>西田さん
 土屋氏は一色範貞の曾孫・藤次の代に秋山そして金丸と称し、その曾孫の昌恒が土屋を称し、その子忠直が徳川家に仕え大名となりましたので、確かに一色氏の末裔になりますね。そして忠直の孫忠胤が相馬義胤の養子となっていますので、これまたおっしゃる通りです。忠胤は義胤の娘を娶り、その間に生まれた貞胤・昌胤がその後を継いでいますので女系で相馬家の血はつながってますが。

>甲斐国士さん
 武田氏の系図は『戦国大名系譜人名事典』(新人物往来社)に拠りましたが、そちらでも武田信長の戒名は、「仁勝寺殿月水宗印居士」と書かれていますので、確かに同一人物の可能性がありますね。
 その辺りのことは存じませんでしたので勉強になりました。自分でも少し調べてみます。ご指摘ありがとうございます。


[544Re:[541] 窪田姓のルーツの件 投稿者:甲斐国士 投稿日:2007/02/03(Sat) 22:41  

> 私の先祖代々の墓は、甲府市和田町にある法泉寺と・・・ 
http://www.geocities.jp/sisin9monryu/yamanashi.html
ここで窪田氏が家臣であったとの記事をみましたが、今はアクセスできませんね。
確か八代とか。後でみたら如何でしょう。    


[543武田信長のことについて 投稿者:甲斐国士 投稿日:2007/02/03(Sat) 21:50  

お初です。失礼の段は、しばしのお許しを願い奉り候。
武田家の件が3通連続してしまうわけで失礼します。
系譜を見せて頂きましたが、上総武田家始祖の信満の次男信長についてのことです。
山梨県甲府市には、1457年信長開基の仁勝寺があります。上総進出は1456年とされ前後はしています。
そこに、「仁勝寺殿月水宗印大居士」の戒名があり、その弟とされる「宗印(仁勝寺)」がありますが同一人物と考えられます。後々上総武田家が発展した経緯もあり、多くの歴史図書の系譜にも掲載されている事項ですが一考を要することと考える次第です。
このことは、寺の略縁記(信長を信義と書かれているが)にも伺われますので余慶なお世話ではあるとも思いましたが投稿座手頂きました。では、ごめん。


[542足利一族 投稿者:西田 投稿日:2007/02/02(Fri) 16:29  

武田家臣団でのちに、江戸時代、大名となる土屋家は足利一族の、一色家の血筋を引き、さらに相馬家に引き継がれます。これは他のHPや、本などで得た物ですが。知っている人は知っているとおもいますが。


[541窪田姓のルーツの件 投稿者:窪田 投稿日:2007/02/01(Thu) 23:44  

私の先祖代々の墓は、甲府市和田町にある法泉寺という武田勝頼公の菩提寺に在ります。一度も自分のルーツを調べた事がありませんでしたが、たまに墓参りに行くと多くの先祖の墓が在り、歴史が古いのかな?と感じることがあります。信玄公、勝頼公、吉田家、窪田家と墓が横に並んでいます。何かしら私の先祖は武田家と関係が有るのでしょうか?
どなたか教えて頂けませんか?     


[540『樋爪』の姓について 投稿者:樋爪 秀夫 投稿日:2007/01/24(Wed) 21:34  

皆さん、初めまして。樋爪です。私もいろいろと自分の苗字について気になり、調べてみました。すると、樋爪の姓・発祥の地は、福井県吉田郡永平寺町松岡地区の樋爪集落がそうらしい。その後、北陸地方に残るグループと奥州等へ船で移るグループと分かれ、さらに奥州等へ船で移るグループの中で、奥州移動組みと蝦夷地移動組みに枝分かれしていったとされる。そして現在、さいたま市の与野地区に存在する『樋爪』の姓を名乗っている人たちはすべて、北陸地方から奥州へ移住した人たちの一部が、奥州以外の土地に安住を求めて移動してきた人たちなのではないかと自分なりに思っています。ちなみに自分と同じ『樋爪』という苗字は、富山・石川・福井の北陸地方のほかに北海道でもたくさん存在するらしいですよ。ただ以前は女性が多く誕生する関係で、現在における存在件数自体は少ないと思われます。


[539本年もどうぞよろしくお願いいたします 投稿者:KUBO 投稿日:2007/01/06(Sat) 00:29  

>みなさま
 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 今年の正月は嫁さんの実家にてのんびり過ごすことができました。結局、去年のうちになんとか『閨閥』は読み終わり、正月の間に『30ポイントで読み解く「ローマ帝国衰亡史」』は読み終えましたが、『ローマ人の物語』は手を付けずじまい、厚くて重いので持っていきませんでした(^^;)
 自宅に戻ってきてからは、だいぶ前に買った『新織田戦記1』を読み終わり、『ハプスブルク帝国』に突入。でも今日買ってきた『知られざる素顔の中国皇帝』もなかなか面白そうです。そんなことばかりしてないで、少しは更新作業せねば...

>須澤さん、凛太郎さん、源次郎さん
 早速、お年賀のご挨拶をいただきありがとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


[538おめでとうございます 投稿者:源次郎 投稿日:2007/01/01(Mon) 21:45  

今年も宜しくお願い致します。


[537KUBOさんへ 投稿者:凛太郎 投稿日:2007/01/01(Mon) 19:16  

ありがとうございます。
実は11月終わりごろに大学を卒業したので
今は福島県に帰りました。
北海道よりはマシかと思いましたが,やはり冬は寒いですね…


[536お久しぶりです 投稿者:須澤 投稿日:2007/01/01(Mon) 08:12  

あけましておめでとうございます~
以前、投稿してから調べてわかったことは祖となる光永氏の祖は源頼元であり光永の苗字を頂いたのは源頼起のようです。


[535どうもありがとうございました 投稿者:KUBO 投稿日:2006/12/30(Sat) 15:35  

 いよいよ今年も明日で終わりとなりました。いろいろと忙しく今年もたいして更新もできずに終わってしまうのが残念です。こちらももう1ヶ月以上も放置状態で申し訳ありません。とはいえ、無理は禁物、申し訳ありませんがこのペースが今のところ精一杯ですので、ご容赦下さい。
 この前読んでいた本のうち、『30ポイントで読み解く「ローマ帝国衰亡史」』はまだ読んでいる途中です(^^;) というより、その前から読んでいる『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』をちびちびと読んでますので、止まったままです。塩野七生さんの『ローマ人の物語』が完結したこともあり、こちらの方の溜まっている分を読んでしまいたいという気持ちもありますが、正月の間に読めますかねえ。何せ半分以上(『賢帝の世紀』の途中から)も溜まってますので。

>凛太郎さん
 網走にお住まいですか。冬の網走は行ったことありませんが、寒いでしょうね。でも今年の冬は今のところ雪が少なくて助かってます。去年の今頃に比べると積雪量は半分以下じゃないでしょうかねえ?
 さて、それでは白河義親の子孫の没年です
 白河義親の子孫《仙台藩白河氏》
  義親:寛永3年(1626)没、年86
  義綱:寛永16年(1639)没、年48
  義実:承応2年(1653)没、年35
  宗広:正徳4年(1714)没、年68
  村親:寛延元年(1748)没、年73
  村広:明和9年(1772)没、年68
  村祐:享和元年(1801)没、年61
  村雄:文政4年(1821)没、年43
  宗秀:明治12年(1879)没、年75
  邦親:明治35年(1902)没、年72
 以上、『史料仙台伊達氏家臣団事典』(本田勇編著)よりです。

>大黒屋介左衛門さん
 わざわざのお知らせありがとうございます。ここ最近はすっかりチャシ巡りに行く時間も取れず、オルイカチャシもいつになったら再訪できるかわかりませんが...

>筈衛さん
 相楽家の情報ありがとうございます。そういやあ、秋田白川氏の情報も最初は筈衛さんに教えていただいたんでしたっけねえ。毎度毎度ありがとうございます。

>みなさま
 あっという間の一年でしたが、良いお年をお迎え下さい。


[534須賀川市史より(相楽家) 投稿者:HAZU 投稿日:2006/11/20(Mon) 23:45  

 須賀川の相楽家は白河結城氏の一族になります。この家から、水戸結城家が別れています。
 いろいろ見てみると、はじめの頃にちょっと混乱があるようですね(^^ゞ

須賀川市史より

結城左京太夫晴綱---中畠上野介晴常---上野介晴辰+
            堀内殿           |
+-------------------------+

+-大学助晴時---相楽治右衛門晴倶-+-水戸結城家へ
   天正18年没  亀千代     |
                   +-須賀川相楽家へ

須賀川市史より

相楽孫左衛門貞保  治左衛門貞次----七郎兵衛定共--+
           寛文12年没   延宝8年没   |
+---------------------------+

|                 +-○
+-○               +-○
+-○               +-○
+-七郎右衛門定隆-七郎右衛門貞陳-+-七郎右衛門貞暁-+
   貞享2年没   享保18年没    延享2年没  |
+---------------------------+

|        +-○
|        +-○
|        +-○
|        +-○
|        +-○
+-孫左衛門晴賢-+-七郎右衛門貞清---七之丞貞政--+
   宝暦8年没    文化13年没    文政3年没 |
+---------------------------+

+-治左衛門貞幹---七左衛門定征
   ???      明治38年没

民間諸家系譜より

結城左京太夫晴綱---中畠上野介晴常---上野介晴辰--+
            堀内殿             |
+---------------------------+

+-大学助晴時---相楽治左衛門晴倶--七郎兵衛定共--+
   天正18年没  大学               |
+---------------------------+

+-結城大蔵晴定---牛之丞朝晴
+-定次-----+-中畠七郎光定
         +-定次
         +-中畠為左衛門定時
                   

筈衛


[533こんにちは~ 投稿者:須澤 投稿日:2006/11/20(Mon) 21:47  

いろいろとありがとうございました!!!今後も宜しくです~!!


[532お知らせと題しますと大仰しいですが 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2006/11/19(Sun) 22:43  

以前オルイカチャシについて指摘させていただきました大黒屋です。

修正後写真の取り直しを検討されているとのことですが、現在遺跡のあたりで伐採工事が進められており、下手をすると遺跡自体が破壊されている可能性も無きにしも非ずですのでお越しの際はむかわ町教育委員会などに確認をなさったほうがよろしいかと思います。

ここはかなり昔に学術調査がされてますから遺跡の破壊がありえないとは言いがたいですから。


[531>もうすっかり冬? 投稿者:凛太郎 投稿日:2006/11/19(Sun) 04:20  

KUBOさんは北海道にご在住なのですか。
私は福島県出身なのですが、進学の関係で北海道の網走市に来ています。
最近すっかり寒くなりましたね。昨日は雪も降りました。
もう4年間住んでますが寒さだけはどうにもつらいですね…
北海道だと地元の資料がなかなか見れないので、こちらのサイトには重宝させて頂いてます。


[530ありがとうございます 投稿者:凛太郎 投稿日:2006/11/19(Sun) 04:02  

以前から知りたかったので、心から感謝します。
あと、すみません、白河宗広以降の義親の子孫の方もお聞きするのを忘れてました。
お手数かもしれませんがそちらのほうもお願いします。


[529もうすっかり冬? 投稿者:KUBO 投稿日:2006/11/18(Sat) 23:36  

 なんか、この前は「もうすっかり秋」と書いたのに、北海道はもう冬モードです。とは言ってもまだ根雪にはならないでしょうけど、でも昨日降った雪がまだ溶けずにいます。また冬が来るのかと思うと、毎度のことながら憂鬱です。今年の冬は雪が少ないと良いですねえ。去年一昨年は大雪で除雪に疲れ果てましたので。
 この前は本を読んでませんと言ってましたが、今読んでいるのは田中芳樹氏の『薬師寺涼子シリーズ 霧の訪問者』に『30ポイントで読み解く「ローマ帝国衰亡史」』、それと今日買ってきた『院政 もう一つの天皇制』です。なんにせよ、もう少し部屋を片付けないと、どこにどの本があるのかわからない状態です(をい(^^;))

>kubotaさん
 はじめまして。同じ福井県が本貫の方ですか。ご先祖のお名前だけでは何ともお答えのしようがありませんねえ。正直なところ、窪田姓・久保田姓に関しては「ルーツの部屋」に載せているのが私の持っている情報の全てですので、悪しからずご了承下さい。

>須澤さん
 剣木瓜を使用していた家ですか。ちょっと手元に家紋の詳しい資料が余りありませんのでお答えできないのですが、『家紋でたどるあなたの家系』『家紋でたどるあなたの家系 続』(千鹿野 茂/編、続群書類従完成会)や『都道府県別姓氏家紋大事典 東日本編・西日本編』(千鹿野茂/編、柏書房)等を見ると、その辺の情報が載っているかもしれません。

>どさんこさん
 はじめまして。その記事、私も見ました。(スクラップしておきました(^^;)) 8月7日ですと私が行く前ですので、私が行ったときにはもう破壊されていた後だったんですね。外陣の土塁のようですが、どの辺なのか良く分かりませんでした。確かにそういえば、私が行った時に工事関係者のものらしいトラックがいたんですよねえ。情けないことです。

>うずまきさん
 はじめまして。すでにWakiさん、筈衛さんから情報が寄せられていますが、備前小笠原家は京都に在住し京都小笠原家とも称されていたようです。主に備前守の官途名を称していたので備前小笠原家と称したようですが、奉公衆として室町幕府に仕え、持長が将軍義教の弓道師範を勤めて以来、将軍家の故実師範として近侍したそうです。

>Wakiさん、筈衛さん
 フォローありがとうございます。

>西田さん
 同書を私も持っておりますし、この朝倉義景の御子孫のことは、日本家系図学会の機関誌に以前載っておりましたので、知っておりました。今となっては本当なのかどうなのか判断するのは困難ですが、私もうちのサイトの「滅びた(?)名族」シリーズをまとめながら悩むこともあります。ただ、真実かどうかはともあれ、ご自分の先祖として誇りを持ってらっしゃることは尊いことだと思います。

>ちゃちゃさん
 越前の朝倉氏は、但馬国造家の日下部氏から分かれていますので、遠祖の姓を名乗った(戻った?)ということではないのでしょうか? 鎌倉幕府の御家人として知られる畠山重忠の子孫は、今の岩手県に移り浄法寺氏と称していましたが、南部氏に滅ぼされた後秋田方面に逃れた子孫は祖先の畠山あるいは秩父を称していたという例もありますし、先祖の姓に戻るという例も結構あるようです。
 喜連川藩主喜連川氏→足利氏
 三春藩士秋田氏→浪岡氏
 交代寄合岩松氏→新田氏
 徳島藩士大石氏→伊勢氏 等

>凛太郎さん

《秋田白川氏》          《中畠氏・水戸結城氏》
 義顕:慶長18年(1613)死、年47   晴常:?
 朝綱:?             晴辰:?
 朝誉:元禄7年(1694)死、年67   晴時:天正18年(1590)死、年21
 朝盈:宝暦5年(1755)死、年85   晴供:?
 朝信:?             定供:?
 朝伯:?             晴定:元禄17年(1704)死
 朝陳:?             晴[日吏]:?
 朝英:?             晴久:?
 朝孝:?             晴広:?
 朝邦:?             晴元:?
 朝徳:明治18年(1885)死      晴暉:?
                  晴徳:?
                  朝道:安政3年(1856)死
                  種徳:安政5年(1858)死
                  道家:明治元年(1868)死

 はっきりと生没年がわかる人物が余りいませんが、以前御紹介した『結城宗廣』(結城宗廣事蹟顕彰会)によると、以上の通りになります。


[528武将の生没年 投稿者:凛太郎 投稿日:2006/11/16(Thu) 03:58  

お久しぶりです。
私は戦国時代や江戸時代初期の武将の生没年について、詳しく知りたいのですが近所の図書館を調べてもなかなかないんですよね。
白河義実の生没年はKUBOさんに教えていただいて初めて知りました。
もしよろしければ義顕の子孫の秋田白川氏や庶流中畠氏などの人物の生没年も教えていただきたいのですが…


[527Re:[525] 投稿者:ちゃちゃ(久佐賀) 投稿日:2006/11/13(Mon) 15:12  

> 525
 義景公について詳しいわけではありませんが、520のタイトルに書いた「日下部與助元五」の家系図のはじまりは、「朝倉家の滅亡からはじまり直系は絶えたが、庶流・・・」と書いてあります。母方の先祖で、朝倉家の流れと聞いていたのですが最近では細川家の家臣志水清久の次男で加藤家に仕え細川家に後に帰参という方が信憑性がありそうです。
 ただ、他の家系は全て志水と名乗ったにもかかわらず母方だけが日下(日下部)と名乗ったのかが疑問なのです。
 江戸の末期頃庄屋をしていた先祖は「日下 源 庄助」と自ら建てた明神様のほこらにそう署名していました。ただし、代々庄屋だった先祖達は明治期になるまで名字名乗りを許されておらず、江戸末期頃?明治初期頃?から「久佐賀」と名乗っております。
 朝倉の流れではないとしても何故「日下部」と名乗ったのか他の一族が志水となる中でこの家系だけが日下部を残したのかが知りたいのです。


[526Re:[524] 小笠原氏 投稿者:うまずき 投稿日:2006/11/12(Sun) 12:33  

Hazuさま

小笠原氏について参考ウェブサイトを教えてくださりありがとうございます。各サイト主張さまざまで、これが真実というのがわからないのが歴史の面白いところ、と思うこのごろです。


[525朝倉義景公 投稿者:西田 投稿日:2006/11/10(Fri) 17:05  

朝倉義景公は、若狭武田家の血筋を受け継いでいます。新人物往来社の日本家紋由来総覧の本の中に、朝倉義景公の愛児愛王丸だけは生き残っていて、今につづいていると書いてありました。信じる、信じないは、人それぞれだと思います。朝倉義景公の事に、詳しい人がいたらいいなあと、思っています。


[524小笠原氏 投稿者:HAZU 投稿日:2006/11/06(Mon) 23:30  

 私もよくわかりませんが、インターネットで調べた限りでは次のようになるようです。
 小笠原流礼法 小倉小笠原藩主家の子孫
  小笠原忠忱---長幹-+-忠春
           +-忠統(三男)
           +-日英尼公---○---敬承斎

  参考:歴史が眠る多磨霊園(小笠原忠統)
     (http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ogasawara_tad.html
     小笠原流礼法
     (http://www.ogasawararyu-reihou.com/

 小笠原流弓道 赤澤小笠原家   
  小笠原長経の子で、長忠の弟の赤澤清経の子孫
  江戸時代御家人五百俵(騎射の師範)

  参考:赤澤氏
     (http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/og_akaza.html
     小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場 小笠原流礼法)
     (http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/

 備前小笠原氏(小笠原流弓馬術宗家)
  京都小笠原氏ともいう。小笠原宗長の子、貞宗の兄弟の貞長の子孫
  嫡流は熊本細川家家臣であったが、一族では徳川家に仕え、弓道の大的の師範をしていた一家もあったようです。

  参考:武田流弓馬道 流鏑馬の歴史
     (http://www.yabusame.jp/y_history/y_history06.html
     赤澤氏
     (http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/og_akaza.html
     肥後細川藩拾遺
     (http://www.shinshindoh.com/)(※ 総数2000家 新・肥後細川藩侍帳で小笠原を確認)

筈衛


[523Re:[522] 弓馬流派、一子相伝 投稿者:Waki 投稿日:2006/11/04(Sat) 16:45  

> はじめまして。弓馬術(流鏑馬)について調べ物をしています。武田流、小笠原流両派がかぶるカサは形が違い、予備の矢を身につける方法も違いますが、どちらが「本当に伝統的」なのでしょうか。また、弓馬を一子相伝していた(?)備前小笠原家(弓馬司家)はその後どうなったのでしょうか。
> よろしくお願いします。

http://www.yabusame.jp/y_history/y_history06.html
上記のウェブサイトを見つけました。如何でしょうか?
いわゆる、小笠原弓道や礼法の小笠原家とはどのような関係になるのですか?私は全く門外漢ですので、ご存知でしたらお教えください。


[522弓馬流派、一子相伝 投稿者:うまずき 投稿日:2006/11/04(Sat) 12:02  

はじめまして。弓馬術(流鏑馬)について調べ物をしています。武田流、小笠原流両派がかぶるカサは形が違い、予備の矢を身につける方法も違いますが、どちらが「本当に伝統的」なのでしょうか。また、弓馬を一子相伝していた(?)備前小笠原家(弓馬司家)はその後どうなったのでしょうか。
よろしくお願いします。


[521室蘭モロラン陣屋 投稿者:どさんこ 投稿日:2006/11/03(Fri) 12:58  

今日の新聞に土塁の一部を工事業者が破壊と出ていましたね。
8月7日に重機で約13M掘削したと。
kuboさんが再訪問したすぐ後みたい。


[520日下部與助元五 投稿者:ちゃちゃ(久佐賀) 投稿日:2006/11/01(Wed) 09:31  

久々に立ち寄らせて頂きました。
タイトルの人についての情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらどんな些細なことでもかまいません。ご教示下さい。お願いします。


[519無題 投稿者:須澤 投稿日:2006/10/31(Tue) 20:44  

いろいろとありがとうございます。剣木瓜についてなにかわからないでしょうか?使用していた家など・・・
いろいろとすいません!!


[518はじめまして 投稿者:kubota 投稿日:2006/10/30(Mon) 03:08  

KUBOさん、はじめまして。僕は、北海道在住の者です。僕の6代前の先祖は、福井県に生まれた人だったそうです。名前は、久保田 定右衛門というそうです。何をしていた人物だったのか分からないのですが、何か情報があれば、教えていただきたいと思いカキコしました。宜しくお願いします。


[517Re: 光永氏について 投稿者:KUBO 投稿日:2006/10/30(Mon) 00:43  

須澤さん、こんにちは。
>光永家についてなにかご存知ではないでしょうか?確か祖が源頼光だった気がす
>るんですが・・・
 手持ちの資料をいくつか見てみましたが、光永氏にもいくつか流れがあるようです。

(1)肥後国の豪族阿蘇氏の一族。鎌倉初期の阿蘇惟泰の叔父惟理を祖とし、筑前国下座郡光永より起こった光永氏。
(2)長州藩士。毛利氏の庶流・坂氏の分家で、坂広秋の子下総守秀時を祖とする光永氏。
(3)豊後国の守護・大友氏の家臣で新参衆に属する光永氏。清原姓。

 その他にも摂津・武蔵にも光永氏がいたようですが、源頼光の子孫という光永氏についてはよくわかりませんでした。頼光流は摂津源氏とも言われていましたので、摂津の光永氏が頼光流なのかもしれませんが...


[516こんにちは~ 投稿者:須澤 投稿日:2006/10/22(Sun) 22:00  

調べていただきありがとうございます。光永家についてなにかご存知ではないでしょうか?確か祖が源頼光だった気がするんですが・・・


[515もうすっかり秋... 投稿者:KUBO 投稿日:2006/10/20(Fri) 23:34  

 またもやすっかり1ヶ月以上もたってしまって...(^^;) もう北海道はすっかり秋も深まり、道ばたの木もすっかり色づいてます。あと一月もたたないうちに初雪も降るでしょうね。来月の初めにはタイヤ交換しなくちゃあ...
 すっかり寒くなって寒暖の差が激しくなったせいか、すっかり風邪にやられてしまいまして、ここしばらく毎週病院に行ってます。だいぶ良くなったんですが、まだ咳が抜けません。のど飴がすっかり必需品になっています(^^;)
 先月話をしていた二冊は結局読み終わらず、『北溟の人』の方はヤフオクで安く出ていたので買ってしまいました(でもその後全然読み進んでませんが(^^;)) 風邪のせいもあって、ここしばらくまともに本を読んでませんねえ。

>Wakiさん
 そうですか。私は子どもの頃にあの小田原城天守のプラモデルを作ったことがあったので(今に実家にあるはず)、あまりそういう違和感はなかったですが、それ以前からの姿を知っている方にとってはそういう思いはあるでしょうね。個人的には、天守などの建物を復元するのは否定しませんが、復元するからにはそれなりに考証してしっかりしたものを作って欲しいですね。
 でも石垣や土塁だけの古城跡というのも嫌いではありませんよ。盛岡城などは建物はいっさい残っていませんが、あの石垣は素晴らしいです。

>ゆうさん
 石川家縁の方ですか。私の高校時代の同級生で栗山町角田出身の子がいましたが、あとからそこが石川家中の方が開拓したところだということを知ったという記憶があります。あのコーナーは、榎本守恵氏の『侍たちの北海道開拓』(北海道新聞社)という本が元ネタですので、そちらをご参照になってみて下さい。

>須澤さん
 はじめまして。手持ちの資料を見てみましたが須澤姓については特に情報を見つけることが出来ませんでした。
 電子電話帳の『写録宝夢巣』で調べてみましたが、須澤姓は全国で116軒、特に長野県に22軒、埼玉県に31軒と集中しているようですが、新潟県は0軒でした。須沢姓で調べてみると、こちらは全国に482軒で、長野県に210軒、広島県に69軒、埼玉県に45軒、東京都に32軒、茨城県に29軒とこの辺が多かったですが、新潟県は6軒で、そのうち4軒が青海町(現糸魚川市)でここに須沢という地名があるようですね。
 須澤姓・須沢姓ともに長野県・埼玉県に多いということで、こちらにルーツがあったのかもしれませんね。
 ちなみに、長野県内では松本市に須澤姓が11軒、須沢姓80軒と集中しています。また、埼玉県では特にどこに集中しているということはありませんが、県中央部から東部にかけて多いようです。

>源次郎さん
 たいした情報ではありませんでしたが、多少お役に立てて良かったです(^^)


[514お久しぶりです 投稿者:源次郎 投稿日:2006/10/06(Fri) 21:04  

情報ありがとうございました。
参考にさせていただきます。


[513無題 投稿者:須澤 投稿日:2006/09/20(Wed) 06:16  

もしかしたら須澤村に流れ着く前は別の名前であった可能性が大です。


[512由来について 投稿者:須澤 投稿日:2006/09/20(Wed) 03:06  

現在、私は自分の苗字の由来を調べていますがあまりにも資料や情報が少なく困ってます・・・わかっているのが家紋が剣木瓜と何代か前の方が新潟の須澤って所に流れ着いたみたかもしれません・・・またはそこの土地に自分の苗字を付けたのかもしれません。家紋からみると源義光か頼光が祖となる光永家に関係があるような・・・

何でもいいので情報を求めます。宜しくです。


[511無題 投稿者:ゆう 投稿日:2006/09/15(Fri) 14:55  

KUBOさん、はじめまして。
前から、何度か読ませていただいております。

数年前、父が亡くなった折、叔父から自分の先祖の話を聞く機会があり、伊達正宗公の時代に着座だったこと、戊辰戦争後、石川源太邦光とともに室蘭群へ入植したことを教えられました。

それ以来、思い出しては検索して、いろいろと調べていたうちに、ここにたどり着いたのです。

KUBOさんの「石川源太邦光」のコーナーが更新されるのを楽しみにしています。
これからも頑張ってください。


[510外郎(ういろう) 投稿者:Waki 投稿日:2006/09/11(Mon) 22:41  

嘗て、小田原北條氏は室町時代に中国より渡来してきた薬師の外郎氏を小田原に招いたのです。その子孫が江戸時代に建てた建物を、大震災以来復興したのが現在の外郎屋です。
その一族で名古屋に定住したのが、羊羹風の"ういろう”であり、小田原のものは本来”丸薬”でした。最近は名古屋風のういろうもあるようですね。中村座かどこかで”外郎売り”の様子が歌舞伎に取り入れられ、大変話題になったそうです。


[509Re:[507] 東大史料編纂所にて発見! 投稿者:Waki 投稿日:2006/09/11(Mon) 16:24  

> >Wakiさん
>  はじめまして。小田原のご出身ですか。あそこは一応最>初から行く予定でしたが、泊まったホテルのホントすぐ前>にあったのでビックリでした(^^;) 今はお寺はなかったよ>うに記憶してます。何せ雨でひどい目にあったもんで、あ>まり記憶が...(^^;) もう一度小田原に行きたいものです。

小田原生まれではありませんが、終戦後母の実家が小田原でしたし、父も小田原には縁がありましたので、小田原へ宮城県の船岡(原田甲斐、柴田外書)より引っ越して来たのです。現在は統合で、無くなりましたが、城の中にあった城内小学校を出ております。当時は、まさに城跡(大震災で崩壊したままでした)へ学校の体操の時間とか、自由研究の時間に、学校の裏手から登ったものです。石段は平らではなく、
天主台はガラガラの土台だけでした。また、母の実家には
水道以外に、水が引き込まれており野菜の洗いごとなどに使っており、家の前の通りには、昔から下水がありましたよ。想像を逞しくすると、北條時代の水道の名残だったのかな
なんて、考えすぎですかね。

今の姿は、まるで時代劇のセットみたいで好きになれませんし、却って歴史を曲げてしまう危険性もあるのではないでしょうか。

船岡城、なんて当時は呼んでいませんでした。単に"館山”と言っていました。桜では戦前から有名でしたが、”樅”は無かったかのでは? 柴田外記の子孫の方が”白鳥神社”の神主を勤められておられましたが、家を継がれる方がおられないようで、現在は柴田家とは無関係の方が宮司のようです。

小田原も船岡も色々人の手が入るとつまらなくなってしまい、歴史を遡ることが難しくなって、訪れる人々をミスリードしてしまう危険性がありますね。

小田原では江戸時代より、北條時代をより重んじて色々と
仕組んでいるようですね。


[508なるほど 投稿者:凛太郎 投稿日:2006/09/11(Mon) 13:50  

わかりました。ありがとうございます。
日本の歴史は私も少し興味があって趣味で調べているのですが、
中には史料によって矛盾点が出てくる時があるので
難しいものですね。


[507東大史料編纂所にて発見! 投稿者:KUBO 投稿日:2006/09/10(Sun) 23:41  

>凛太郎さん
 しつこいですが、またおつきあい下さい。ふと思いつき東大史料編纂所のサイトの史料データベース(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/index.jsp)で検索したところ『伊達族譜』という伊達宗家と伊達家から別れた支流(小梁川、大条等)から果ては養子先(葛西、大崎等)まで収録されている系図集を見つけました。
 これを見ていくと、亘理伊達家の系図も収録されており、伊達宗実の息子宗成の項に「母ハ白河宮内義綱女」と書かれているのを見つけました。(参照↓)
 http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/200/2075/841/4//0150.tif

 これで、伊達宗実室は白河義綱の娘ということで間違いないと思うのですが。

>Wakiさん
 はじめまして。小田原のご出身ですか。あそこは一応最初から行く予定でしたが、泊まったホテルのホントすぐ前にあったのでビックリでした(^^;) 今はお寺はなかったように記憶してます。何せ雨でひどい目にあったもんで、あまり記憶が...(^^;) もう一度小田原に行きたいものです。


[506小田原北条氏墓所 投稿者:Waki 投稿日:2006/09/10(Sun) 21:06  

あの場所は、子供頃の思い出の場所です。昭和20年台子供の
仲間内の決闘場所でした。北条さんでケットウだ!とかナントカ。私も一回だけやりました。取っ組み合いで、立会人がおり、勝敗を決定。それだけ、人通りのない裏町だったのです。

あの場所は何でも、開城後に切腹したお寺の境内だったそうです。直ぐ隣にお寺がありましたが、今は無いようですね。


[505そろそろ秋? 投稿者:KUBO 投稿日:2006/09/10(Sun) 16:32  

 とびとびに出てくる管理人で申し訳ありません(^^;) 今の生活のペースですと、自宅のPCに向かえるのが寝る前の数時間(休日もほとんど同様)ですので、書き込みしていただいても返事が遅くなってしまうことをご了承下さいm(__)m
 最近は、道立図書館から借りた本を先月から読んでいるんですが、なかなか読み終わりません(^^;) 予約が入っていないことを良いことに何度も借り直しているので、もう1ヶ月半くらいたっているのに。
 1冊は『北溟の人』という本で、幕末期の松前藩の重臣・関左守を主人公とした歴史小説、もう1冊が『史料が語るビザンツ世界』で、史料をもとにビザンツ世界の皇帝・宦官・聖職者・知識人・庶民などの暮らしなどを描いたものです。早く読まなくちゃ...

>Hikoさん
 丹羽先生、ここ数年はご病気だったようですけど、その割りにはちょこちょこ本を出しておられたので大丈夫なのかなと思いましたが... まあお歳もお歳ですから。

>蝦夷城家臣さん
 ご無沙汰しております。またちょくちょく顔を出してくださいね(^^)

>道村さん
 手塚氏の件では手助けできず申し訳ありません。また何かありましたら、書き込んでくださいね。

>Akiさん
 ご無沙汰です。なんか昔、伊達さんの話とかいろいろしましたっけね(^^;) 古巣の歴史フォーラムは、すっかり最近は閑古鳥が鳴いてるようで...(って私も全然顔を出してませんが(^^;)) それにWebフォーラムも来年の春までらしいですね。時代の流れですから仕方がありませんが。
 北海道にお出でだそうで、どうぞよろしくお願いします。冬は... まあ一度経験しないとわからんでしょうね(^^;) 一応ご参考までに↓
 http://kubo.cocolog-nifty.com/hitorigoto/2005/04/post_da0a.html

>凛太郎さん
 はじめまして。伊達宗実室の件ですが、私も検索してみましたが確かに「白河義実の娘」となっている所が多いですね。私の元ネタは本田勇氏/編著の『史料 仙台伊達氏家臣団事典』(丸善仙台出版センター)です。この本では白河氏の項でも亘理伊達氏の項でも宗実室は白河義綱の娘となっています。手持ちの他の資料にあたってみましたが、残念ながら他には伊達宗実室について記述しているものはありませんでした。

 ですので他の面から検証してみました。『史料 仙台伊達氏家臣団事典』によると、伊達宗実は寛文5年(1665)53歳で没しています(これは他の資料でも確認できました)。ということは、数え年で考えますと1613年の生まれということになります。
 次に白河義綱・義実父子ですが、『史料 仙台伊達氏家臣団事典』によると、義綱が寛永16年(1639)48歳で、義実が承応2年(1653)年35歳で没しています。別資料の『結城宗廣』(結城宗廣事蹟顕彰会)では、義綱が寛永11年(1634)48歳で、義実が同じく承応2年に没している(没年齢は記述無し)となっていました。そうしますと、義綱が1587年or1592年生まれ、義実が1619年生まれということになります。

 また切田未好氏の『笹舟の記 戦国大名葦名氏の興亡』(本の森)所載の「葦名氏副家系譜」によると白河義実の室の父で葦名一門の針生重信は慶長3年(1598)生まれ、兄の針生(のち葦名)盛定は元和8年(1622)生まれですので、白河義実室は伊達宗実より年下ということになります。
 以上のことから、やはり伊達宗実室は白河義綱の娘というのが妥当なのではないかと思います。
 ですが、資料で確認したわけではありませんので、もう少し検証してみたいと思います。


[504伊達宗実室について 投稿者:凛太郎 投稿日:2006/09/09(Sat) 22:49  

はじめまして。凛太郎と申します。

白河結城氏の系図を見ていて気になったのですが、伊達宗実室は義綱(義親の養子)の娘のように記されてますが、彼女は義綱の子、義実の娘ではないでしょうか?
あまり詳しくはないのですが、グーグル検索すると義実の娘となっているものがこちらを除いて全てでした。(あまりヒットしませんでしたが)


[503こんにちは。 投稿者:AKI 投稿日:2006/09/02(Sat) 06:17  

 覚えていらっしゃるでしょうか。数年前に歴史フォーラムでばかばかしい発言をくりかえしていたAKIというものですが、その節はお世話になりました。このたび北海道に引っ越してまいりましたのでご挨拶にまいりました。
 こんなにご立派なホームページとは驚きました。手下が26000人以上いるとは・・・。
 私もにわかに北海道の歴史に興味がでてまいりましたので、何かとまたお世話になるかもしれません。涼しくなりましたね。(^^)冬は経験してないというと、地元の方は一様ににや~と笑って「凄いよ~」とおっしゃいます。       それではまた。


[502手塚氏 投稿者:道村 投稿日:2006/08/29(Tue) 16:27  

久しぶりにお邪魔しました。
手塚氏のこと私も由縁があって調べ始めましたが、資料が乏しくしかも諸説あってはっきりせず非常に困難と感じてます。(あきらめていませんが・・・)

>AYAKAさん、私が作った数ページの拙い書面でよろしければお送りしますのでご連絡ください。


[501安寧 投稿者:蝦夷城家臣 投稿日:2006/08/24(Thu) 20:12  

> kuboさん、この問題について最後に一言述べて終わります。
> AYAkAさん、
> あなたの責任ではないです。
> ことの成り行きとはいえ、少々やりすぎて暴走して、しまったようです。運が悪かったですね。
> 後は下のホームページで引き受けます。よかったらどうぞお越しください。ではこれで後はいつもの会話にお戻りく

沙月なる男がここに来ないと宣言し、いつもの会話に戻れそうですね。本当に良かった。


[500丹羽基二氏 投稿者:Hiko 投稿日:2006/08/23(Wed) 20:26  

◎『自分のルーツを探す』(丹羽基二 鈴木隆祐、光文社)
> 丹羽先生もだいぶんお歳ですから、今回は丹羽先生が書か>れたのではなく、共著者の鈴木氏が丹羽先生に取材したり、>丹羽先生に紹介された人物に取材してまとめられたものだそ>うです。最近はご病気がちだと聞きましたが、お元気なんで>しょうか?

日記の方を纏めて見て思い出したのですが、8月7日に亡くなられたのですね。(まだ生きておられたこと自体知らなかったのは内緒ですが。


[499夏が終わり...? 投稿者:KUBO 投稿日:2006/08/23(Wed) 00:18  

 北海道の暑い夏が終わりました... って暑さが終わったわけじゃありません(^^;) 駒大苫小牧、残念でしたが、準優勝、立派なもんです(^^) 2度の決勝戦はすっかり、テレビに釘付けでした(^^;) 再試合の日は仕事で、試合開始の頃は丁度会議の時間でしたが、みんな試合のことが気になって、会議を急いで終わらせて、同僚と試合を見てしまいました。
 私は苫小牧に一年ほど住んだことがありますし、高校と大学は駒苫の兄弟校駒大岩見沢のある岩見沢だったので、なんとなく親しみがありまして。(聞いた話ではうちの大学の野球部が駒岩の野球部と試合をして、こてんぱんにやられたらしいですが(^^;))
 3年連続でこんなにわくわくする思いをさせてもらった道産子はしあわせですね。駒苫の選手達にありがとうと言いたいです(^^)

 さて夏休みも終わり、今週からはすっかり仕事モードですが、まだまだ結構暑くて、着替えや汗ふきタオルが手放せないです。とはいってもピークはもう過ぎた感じですが。てなわけで、またこちらになかなか書き込めないかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。

>AYAKAさん
 この件についてあなたが責任を感じられることは全くありませんよ(^^) あなたの質問と今回の問題は全くの別のことですから。こちらこそかえって恐縮してしまいます。せっかくお出でいただいたのに、いやな思いをさせてしまいまして申し訳ありません。
 これに懲りずに、またおいで下さい(^^)


[498最後に一言 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/21(Mon) 00:23  

kuboさん、この問題について最後に一言述べて終わります。
AYAkAさん、
あなたの責任ではないです。
ことの成り行きとはいえ、少々やりすぎて暴走して、しまったようです。運が悪かったですね。
後は下のホームページで引き受けます。よかったらどうぞお越しください。ではこれで後はいつもの会話にお戻りください。

http://nihonrekishiken.com/


[497KUBO様 沙月様 投稿者:AYAKA 投稿日:2006/08/20(Sun) 11:27  

私の質問が原因でご迷惑をおかけしてしまったようで・・・
申し訳ございませんでした。


[496万事了解 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/20(Sun) 10:32  

万事了解しました。
掲示板設置しました。今後は自粛します。
おさがわせしました。

なおこの件については、今後こちらに書き込まないでください。

とありますが、閲覧者に配慮してこうしておきます。この程度なら問題ないでしょう。
kubo様
AYAKA様よろしく。今後は私のホームページで承ります。
どうぞおいでください。


[495Re: 模範解答教えて 投稿者:KUBO 投稿日:2006/08/20(Sun) 01:31  

沙月さん、こんにちは。
>kuboさんが私の立場にいたときに一番適切な模範解答を述べていただきたいのですが、かなえてもらえるでしょうか。

 模範解答にはならないと思いますが...

No.476
>お役に立てるかどうか分かりませんが、今当方では去年出版した「諏訪一族系譜論考」
>という本を販売中です。

>鎌倉の手塚さんというのは知りませんが、今は岐阜の金指さんや山梨県の手塚さんを
>含め、ほかにこの分野の研究者から何名か注文が来て購入してもらっています。

No.478
>いずれにしても当ホームページ宣伝の諏訪一族系譜論考がAYAKAさんの参考文献という
>気がしては居ます。

No.482
>だから当ホームページの「諏訪一族系譜論考」(10780円)をお申し込みくださ
>い。内容はこれでまず読んだ上でということで。

No.483
>このホームページの記事は間違っています。
>全ては「諏訪一族系譜論考」に載せました。

No.488
>全ての答えは諏訪一族系譜論考に全部出ています。
>日本家紋協会よりももっと詳細な書です。
>値段は10780円 以上。

 これは全て沙月さんの書き込みから一部引用したものです。
 これだけ繰り返しご自分の著作のことを書かれ、値段まで明記し、No.482では「お申し込み下さい」と書かれています。これでは、宣伝としか考えられないじゃありませんか?
 「自分の書いた本で、こう考えて、こういうことを書きました。ご参考までにお知らせします。」というのであればまだしも、いかにも買ってくださいと言わんばかりではありませんか? そういうことはやめてくださいと言っているのです。
 さらに余計なことですが、「当ホームページ」というのはご自分のホームページのことでしょう? でもここは私のホームページの談話室(掲示板)です。他人のサイトの掲示板で自分の本をお申し込み下さいとは、マナー違反ではありませんかと申し上げたいのです。
 ご自分の本の宣伝をしたいのであれば、ご自分のホームページに掲示板を設置して、こちらにおいで下さいというとか、興味があればメールにてご連絡下さいというとか、方法はいくらでもあると思います。
 いずれにしても、この談話室は当サイトにお出でいただいた方との交流の場です。宣伝はしないで下さい。非常に不愉快です。
 なおこの件については、今後こちらに書き込まないでください。質問・ご意見がありましたら、私まで直接メールにてお問い合わせ下さい。


[494模範解答教えて 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/19(Sat) 14:23  

AYAKAさんのご質問に関係ありますので削除はしませんでしたが、これ以上ご自分の本の紹介をなさるのであれば、宣伝と同じです。ご遠慮下さい。

kuboさんが私の立場にいたときに一番適切な模範解答を述べていただきたいのですが、かなえてもらえるでしょうか。

491・493は削除していいですから。この件は単なる偶然にしておきます。あの人は偽史として困惑しているので


[493491に答えて 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/18(Fri) 09:45  

491に同じ窪田姓としてのお答えはありますか。
偶然に過ぎませんか。


[492談話室への書き込みについて 投稿者:KUBO 投稿日:2006/08/18(Fri) 01:11  

>沙月さん
 何も言わなかったわけではありません。私は掲示板の自動巡回ソフトを使っているので、自分の投稿をする前に沙月さんの書き込みに気づかなかっただけです。
 AYAKAさんのご質問に関係ありますので削除はしませんでしたが、これ以上ご自分の本の紹介をなさるのであれば、宣伝と同じです。ご遠慮下さい。

 また短時間での連続投稿もやめて下さい。同じ話題の時はまとめて投稿なさって下さい。
 なおNo.485は個人名がフルネームで書かれていましたので、削除させていただきました。またNo.490は著作権に関して問題があると思われましたので、これも削除させていただきました。書き込む際はもう少し慎重になさって下さい。
 こんなページ↓もありますので、一読されてご参考にしてください。(このページの内容に私が全て賛成というわけではありませんが、基本的な部分では妥当な内容だと思います。)
 http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/2909/bbsmaner.html#top

P.S.
 天内山についてですが、余市町に天内山チャシというのがあります。今はすっかり住宅街になってしまっていて遺構は何も残っていないようですが。


[491窪田家と窪田志一との関係 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/18(Fri) 00:25  

窪田という姓は岩屋天狗と千年王国(八幡書店)の作者の窪田志一とは関係ありますか。

http://nihonrekishiken.com


[489義仁親王の築いた幕府打倒の水軍基地の正体はチャシか 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/17(Thu) 21:15  

北海道の天内山に後土御門天皇皇子で実在するかしないかわかりませんが、義仁親王が武装蜂起して室町幕府打倒のために水軍を集め、海から攻撃するために築いた要塞があるといわれますが、この正体はチャシという説がありますが、該当するチャシは実在するでしょうか。
どなたかお心当たりがあれば、お書き込みをよろしく。

http://nihonrekishiken.com


[488AYAKA様・KUBO様 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/17(Thu) 19:57  

KUBOさん、何にも私に言われなかったことを感謝して投稿を続けます。
まず、
手塚で華族大系にたしかになし。
あるのは諏訪です。
諏訪と手塚は同族なので、諏訪で入れてあります。
手塚太郎光盛は義仲とともに粟津で戦死。
鎌倉で流鏑馬をしたのは金刺盛澄。
二人が兄弟であるという噂あり。判定は諸説あり。

http://members.jcom.home.ne.jp/kaskoba/20_008.htm
に掲載されている像の人物は金刺盛澄。

全ての答えは諏訪一族系譜論考に全部出ています。

日本家紋協会よりももっと詳細な書です。

値段は10780円 以上。

http://nihonrekishiken.com


[487暑いですねえ...(^^;) 投稿者:KUBO 投稿日:2006/08/17(Thu) 00:07  

 今年の夏は最初涼しいを通り越して寒い感じでしたが、7月の末くらいからすっかり夏らしくなって暑い暑い...(^^;) 毎日汗かきして何度も着替えてます(^^;)
 この前はうちの坊主くんを連れて初めてのお泊まりにも行ってきましたが、食事以外は何とかなりました。(食事もきかんしゃトーマスのDVDを持っていったのでなんとか...(^^;))
 その時に伊達や室蘭のチャシ等に行ってきましたので、それは先日更新しました。今回は伊達市に入植した亘理伊達家の菩提所・大雄寺に行ったのが一番の収穫でしょうか。駐車場の端には真新しい伊達家御霊屋もありました。ほんとはお寺の3階にあるという宝物館ものぞいてみたかったのですが、家族連れでしたので今回はパスしました。

 そんな中で、先日私も入会している日本家系図学会の会長・「丹羽基二先生」が亡くなったとのことで、ご冥福をお祈りしたいと思います。最近は入退院を繰り返していると聞いていましたので、とうとうか…という感じではありましたが、姓氏・家紋・家系研究に関しては大きな業績を残された方の訃報を聞くというのは残念なことです。

 一応今日まで夏休みを取っておりましたが、明日からは久しぶりに出勤です。この暑さじゃあ、働く気力が...(をい(^^;))
 それではレスを...

>筈衛さん
 私もWebフォーラムは一応毎日巡回をしていましたが、書き込みはここしばらく全くしていませんでしたのでね。まあ時代の流れですか...

>Hikoさん
 正直なところ、窪田姓・久保田姓・佐々木姓の方からはいろいろメールをいただいたことはありますが、直接我が家の家系につながる方から連絡をいただいたことはまだ無いです。東京の深川の方に出てしまったあと音信不通になってしまったうちの本家の子孫の方と連絡取れないかなあと微かな期待をしていたんですがねえ(^^;)

>AYAKAさん
 はじめめまして。当サイトにお出でいただきありがとうございます。ちょっと調べてみましたが、「明治時代華族であったらしいこと」とありますが、「平成新修華族家系大成」という旧華族の親睦団体・霞会館が編集した資料を見たところ、手塚姓の華族はいませんでしたので、何か伝承の過程で情報が誤って伝えられたのではないかと思います。

 家系の調べ方については私がごちゃごちゃ言うよりも、以下の本をご覧になった方が早いと思います。また、ネット上にもご自分の家系調査について詳しくまとめられてホームページで公開なさっている方がたくさんいますので、そちらをご覧になって参考になさるといいと思います。
 『家系系図の入門』(太田亮/著、丹羽基二/編、東洋書院)
 『家系のしらべ方』(丸山浩一、金園社)
 『あなたも系図が作れます』(丹羽基二、新人物往来社)
 『家系』(丹羽基二、秋田書店)
 『簡単便利 家系図作成マニュアル』(太田さとし、ビジネス社)
 『自分のルーツを探す』(丹羽基二・鈴木隆祐、光文社)


[486国会情報 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/16(Wed) 23:27  

請求記号 W194-97
タイトル 手塚一族
出版地 東京
出版者 日本家系家紋研究所
出版年 1977.5
形態 83p ; 26cm
装丁 和装
注記 編集:新井康友
注記 発売:日本家系協会(東京)
注記 限定版
全国書誌番号 78018923
団体・会議名標目 日本家系家紋研究所 ∥ニホン カケイ カモン ケンキュウジョ
家族名件名 手塚(氏) ∥テズカ(シ)
NDLC GB43
NDC(6) 288.1
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001376458

請求記号 W194-2738
タイトル 手塚一族
責任表示 日本家系家紋研究所編
出版地 東京
出版者 日本家系協会 (発売)
出版年 1993.8
形態 1冊(頁付なし) ; 26cm
装丁 和装
注記 編集:武田光弘
注記 帙入 限定版
入手条件・定価 10000円
全国書誌番号 94009249
団体・会議名標目 日本家系家紋研究所 ∥ニホン カケイ カモン ケンキュウジョ
NDLC GB43
NDC(8) 288.1
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000002287572

以上は国会図書館所蔵の書です。
見て分かるように入手には1万円くらい必要です。2冊あり、内容は編集者によって若干差あり。

私の本なら10780円で間に合います。

もうこの辺で掲示はやめましょう。
クボさんが渋い顔しているでしょうから。

AYAkaさん、後は注文検討よろしく。

http://nihonrekishiken.com


[484訂正 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/16(Wed) 14:10  

481でなく482でした。失礼。

http://nihonrekishiken.com


[483http://members.jcom.home.ne.jp/kaskoba/20_008.htmは間違い 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/16(Wed) 14:09  

http://members.jcom.home.ne.jp/kaskoba/20_008.htm

にある写真の人物は紹介文章から光盛と誤解しそうですが、481に述べたとおりで写真は金刺盛澄の像です。
このホームページの記事は間違っています。
全ては「諏訪一族系譜論考」に載せました。
同じ写真の現場も道村氏が取材して写真をもらい、載せました。以上。

http://nihonrekishiken.com


[482Re:[481] 沙月さま 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/16(Wed) 13:59  

> ちなみに、昨年掲示板に書かれていた、
> 「日本家紋家系協会の手塚一族」
> という本はどこで見る(または購入する)ことができるのでしょうか?
>
> 幼い頃、読んだ本で、「手塚太郎光盛は戦死」と書いてあり、親からもそう聞いていたのですが、
> 手塚城について調べていたときに行き着いたホームページに、
> 「1184年(寿永3年)1月、木曽義仲は粟津で敗死。
> 手塚光盛は捕らえられて頼朝の引見を受け斬首される事となったが
> 光盛の武芸を惜しむ声が上がり、処刑前に流鏑馬の披露を行った。
> 弓の名手であった光盛は見事に全ての矢を的に命中させ
> 頼朝はその腕前を賞賛し斬首を取りやめ、本領を安堵したという。」http://members.jcom.home.ne.jp/kaskoba/20_008.htm
> という文章を見つけました。
> この掲示板では戦死説が有力とされているようですね。

手塚光盛は義仲と一緒に戦死、先に帰国した金刺盛澄が義仲の残党狩りで捕まり、鎌倉に送られて流鏑馬を披露して赦され、盛澄の武芸を惜しむ者のとりなしもあって助命され、以後は家来として頼朝に仕えました。
だから貴殿の話は二つの話が混ざっていますね。
なお光盛も義仲が襲われた時に逃げて助かったという話もありますが、現在は否定されています。戦死が正しいでしょう。

「日本家紋家系協会の手塚一族」
という本はどこで見る(または購入する)ことができるのでしょうか

ということですが、当方は別機関なので何も分かりませんが、問い合わせても返事がなかったという話を聞いたことがあります。料金は当方で販売している「諏訪一族系譜論考」でその内容も含めて全て可能な限り網羅しました。同時に
「日本家紋家系協会の手塚一族」
という本よりも詳しくかつ値段はそんな変わらないような気がします。あの本も一万円程度はすると記憶しています。

だから当ホームページの「諏訪一族系譜論考」(10780円)をお申し込みください。内容はこれでまず読んだ上でということで。

http://nihonrekishiken.com


[481沙月さま 投稿者:AYAKA 投稿日:2006/08/16(Wed) 11:47  

ちなみに、昨年掲示板に書かれていた、
「日本家紋家系協会の手塚一族」
という本はどこで見る(または購入する)ことができるのでしょうか?

幼い頃、読んだ本で、「手塚太郎光盛は戦死」と書いてあり、親からもそう聞いていたのですが、
手塚城について調べていたときに行き着いたホームページに、
「1184年(寿永3年)1月、木曽義仲は粟津で敗死。
手塚光盛は捕らえられて頼朝の引見を受け斬首される事となったが
光盛の武芸を惜しむ声が上がり、処刑前に流鏑馬の披露を行った。
弓の名手であった光盛は見事に全ての矢を的に命中させ
頼朝はその腕前を賞賛し斬首を取りやめ、本領を安堵したという。」http://members.jcom.home.ne.jp/kaskoba/20_008.htm
という文章を見つけました。
この掲示板では戦死説が有力とされているようですね。


[480無題 投稿者:AYAKA 投稿日:2006/08/16(Wed) 11:31  

>さがしています 投稿者:手塚 投稿日:2005/07/24(Sun) 12:50

>始めまして、手塚と申します。
>最近、先祖について気になってきまして、少しばかり先祖探しに足を突っ込んだところです。!
>私の家は、明治以前から旧鎌倉市内に住んでいたようで、墓石の年号をたどると安永が一番古いものでした。
>いまのところ、ご先祖様で確認できたのは、ひい爺さんの一代前の高次郎という方までです。
>同じ手塚姓の方でご先祖様に鎌倉とゆかりがおありの方いらっしゃいますでしょうか。

スミマセン。
現在お住まいかどうかはわかりませんが、
上記書き込みを見てこちらに書き込みしました。
道村さんの書き込みも拝見しました。
かなり直系に近い方?なのでしょうか?
沙月さんのご紹介いただいたホームページも拝見します。


[479手塚氏の現在の姓 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/15(Tue) 18:30  

手塚といいましたが、長い時代の流れで山梨県韮崎市の方の姓は理由はともかく姓は道村に代わっています。ここで投稿した人は今は道村姓になっています。だから道村の姓で投稿した可能性も浮上します。2005年七月頃の記録があいまいのため未詳ですが、その後の記録では該当可能性者は道村姓で登場。先祖は手塚太郎光盛とありますが、系図はありません。手塚・金刺・金指家系図を所持している方の登場を願います。

http://nihonrekishiken.com


[478鎌倉の手塚 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/15(Tue) 18:22  

鎌倉の手塚さんは聞いたことなく分かりません。私の読者は山梨県韮崎市の手塚さん。但し、手塚光盛と兄弟と噂される金刺盛澄の子孫を称する金指という姓の人が岐阜に居ます。金刺盛澄は義仲の家来でしたが、後に鎌倉に送られた後は鎌倉に住み、鎌倉幕府に仕えました。
投稿記憶がないのですが、この方とは紛れているのでしょうか。いずれにしても当ホームページ宣伝の諏訪一族系譜論考がAYAKAさんの参考文献という気がしては居ます。以上。

http://nihonrekishiken.com


[477諏訪氏について 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/15(Tue) 12:37  

神人部子忍男 かむとべのこおしお 生没年未詳
信濃国埴科(はにしな)郡の人。主帳(郡の書記官)。天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣される。

ちはやぶる神の御坂に幣(ぬさ)まつり斎(いは)ふ命は母父(おもちち)がため(万20-4402)

【通釈】神の御坂に幣をたてまつり、命の無事を祈る――それは自分のためではない、母と父のために祈るのだ。

【語釈】◇ちはやぶる 「神」の枕詞。◇神の御坂 長野・岐阜県境の神坂峠か。普通名詞と見る説もある。◇幣 神への捧げ物。旅に出るとき、紙または絹を細かく切ったものを袋に入れて持参し、道祖神の前等でまき散らした。

諏訪といえば、上の忍男も同族という説もあるのですが、この人の場合は諏訪系図に該当者がいないので、正体は未詳です。情報は募集中です。ペンネームの可能性を考えています。系図で該当者は不明です。
前にこの掲示板で募集した時は不明という回答しか出てきてませんでした。
なお、山梨の手塚さんや岐阜の金指さんには購入のお礼を述べておきます。

http://nihonrekishiken.com


[476Re:[475] 手塚太郎光盛 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/15(Tue) 12:06  

> はじめまして。
> 私は幼い頃に手塚太郎光盛を先祖に持つと聞かされ、
> 毎年親に連れられて長野の諏訪大社にお参りにいっていました。
> 大人になり、しばらく気にしていなかったのですが、先祖について調べてみたくなり、
> 検索していたところ、こちらのサイトの2005年7月の書き込みにたどり着きました。
> もう鎌倉の手塚さんはお調べになっていないかもしれませんが、
> もしかしたらこちらで出会えるのでは?と思い書き込みました。
>
> 私の現在知るところでは、
> ・先祖が木曽義仲の家臣 手塚太郎光盛であること。
> ・長野 諏訪には、手塚城跡があること。
> ・父の祖母が葵のご紋の入った短刀を持って嫁にきたこと。
> ・明治時代華族であったらしいこと。
> ぐらいです。
>
> 2005年の書き込みを見て、たどっていくと手塚治虫さんも同じ血筋と知ってビックリしました。
>
> これから可能な範囲で詳しく調べたいと思っています。
> 同じ手塚さんや、手塚家の何か詳しい情報をお持ちの方、
> またどんな調べ方をしたらよいかなど教えていただけたら幸いです。

お役に立てるかどうか分かりませんが、今当方では去年出版した「諏訪一族系譜論考」という本を販売中です。
貴殿が希望するしないは自由ですが、手塚家の系図も同族ということで載せてあります。手塚治虫の場合は系図不完全で
あの一族が途中不明で不明部分を点線にしているという不十分さはあります。それは今後、あの図書を希望購入した方から寄せられる情報で埋めていくということになりますが、まだそれは未知数です。そういう面はあります。手塚・金指・金刺・諏訪は同族ということで、その系図で国会図書館などでの収集可能系図の網羅解説書という形で作成してあります。
鎌倉の手塚さんというのは知りませんが、今は岐阜の金指さんや山梨県の手塚さんを含め、ほかにこの分野の研究者から何名か注文が来て購入してもらっています。
窪田さん、こういう形の本の宣伝みたいな文章になってすみませんが、ここで、このような形でAYAKAさんにお答えすることになったことをお許しください。本の宣伝は控えてほしいといわれながら又宣伝みたいな形になってしまいました。後はAYAKAさんに任せます。当ホームページをよかったらクリックしていってください。
手塚光盛から貴方に至る系図があるといいですね。
そういう人はまだいないけど、現れてくれることを望んでいます。手塚治虫の場合は途中点線で完全に埋っては居ないもので、

http://nihonrekishiken.com


[475手塚太郎光盛 投稿者:AYAKA 投稿日:2006/08/14(Mon) 22:18  

はじめまして。
私は幼い頃に手塚太郎光盛を先祖に持つと聞かされ、
毎年親に連れられて長野の諏訪大社にお参りにいっていました。
大人になり、しばらく気にしていなかったのですが、先祖について調べてみたくなり、
検索していたところ、こちらのサイトの2005年7月の書き込みにたどり着きました。
もう鎌倉の手塚さんはお調べになっていないかもしれませんが、
もしかしたらこちらで出会えるのでは?と思い書き込みました。

私の現在知るところでは、
・先祖が木曽義仲の家臣 手塚太郎光盛であること。
・長野 諏訪には、手塚城跡があること。
・父の祖母が葵のご紋の入った短刀を持って嫁にきたこと。
・明治時代華族であったらしいこと。
ぐらいです。

2005年の書き込みを見て、たどっていくと手塚治虫さんも同じ血筋と知ってビックリしました。

これから可能な範囲で詳しく調べたいと思っています。
同じ手塚さんや、手塚家の何か詳しい情報をお持ちの方、
またどんな調べ方をしたらよいかなど教えていただけたら幸いです。


[474Re:[473] 義仁親王 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/08(Tue) 13:42  

> 年紀の表記の無い系図については特定しようが無いとは思いますが、北畠と義仁という名前の組み合わせで真っ先に思い浮かぶのは小倉宮義仁王ではないですかね。
>
> だからhiko様

その問題はすべて「東日流外三郡誌と南北天内家」で充分説明しました。実在か非実在かも含めて知りたい方はその本に書いたから読んでみてということにします。年紀といいますが、生没年なら登場する書には記載されています。掲示板は限られた空間なので答えを述べるつもりはありません。

http://nihonrekishiken.com


[473義仁親王 投稿者:Hiko 投稿日:2006/08/04(Fri) 18:49  

年紀の表記の無い系図については特定しようが無いとは思いますが、北畠と義仁という名前の組み合わせで真っ先に思い浮かぶのは小倉宮義仁王ではないですかね。

実在は間違いない人物だと思いますが、ハッキリしたことは言えない事物ですよね。ただ、伊勢北畠氏と縁が有ったことは間違いないので、その関係から生まれた伝承では無いかと。


[472雑記 投稿者:沙月 投稿日:2006/08/04(Fri) 13:39  

東日流外三郡誌補巻の浪岡北畠氏系図ですが、ちょっと信じ難いですね。その義仁親王の次の代に出てくる北畠顕邦という人物もどういう人物なのか。No.452の北部王家と蠣崎蔵人は松前・蠣崎氏のルーツの話にになると出てくる名前ですが、東日流外三郡誌にも載っていたんですね。ただこちらは『アイヌの反乱』(白山友正、人物往来社)によると、『新撰国志』『八戸南部系図』『祐清私記』などに北部王家が蠣崎蔵人信純に滅ぼされたという話が載っているそうなので、あながち嘘というわけでもないのかもしれません。

ご意見・御教授どうも。そうでしょうね。

この問題についてはこのたび「東日流外三郡誌と南北天内家』という書をだし、茲でその一切を解決しました。ぜひ興味のある方は読んでください。また宣伝になってしまいました。

義経については昔歴史研究という雑誌の元寇についての特集で論文募集していたので、雑稿を書いたら入選しました。この話も「東日流外三郡誌』に関係あったので、先ほど紹介した本に関連記事を書きました。

ジグラッドについてはメソポタミアでは聖なる塔ですが、ピラミッドの元祖と昔あるピラミッド研究家が唱え、チャシも砦ではなく実は日本式ジグラッドであると彼は唱えていました。もう昔の思い出。その彼も故人です。54歳で亡くなりました。

真田幸村は豊臣秀頼が大坂で死なずに薩摩に逃げる時に守護して一緒に逃げたという説がありますね。真相はいかがでしょうね。

http://nihonrekishiken.com


[471相互リンクの件 投稿者:武蔵守よろし先輩 投稿日:2006/08/04(Fri) 13:36  

お久しぶりです。相互リンクありがとうございました。頼んだ私の方がKUBO様のサイトを後からリンクさせていただいた結果となってしまいましたが、こちらもリンク完了しました。何か不備な点などありましたらご連絡ください。これからも宜しくおねがいします。

http://www.sengokumiman.join-us.jp


[470Re:[469] 真田幸村の閨閥 投稿者:KUBO 投稿日:2006/08/02(Wed) 01:00  

>○○○○さん
 真田幸村の子孫についての投稿ありがとうございます。以前にも詳しい資料をいただきましてありがとうございます。あの資料を生かして「滅びた(?)名族」シリーズで幸村の子孫についてまとめようと思っておりますが、今のところ時間が全く取れず申し訳なく思っております。

 ところで下の投稿ですが、空白(スペース)が半角と全角が混ざっていたようで系図の罫線が乱れていましたので、勝手ながら私の方で修正させていただきました。
 また私のPCではそのままでは行が長すぎて表示が乱れてしまうところがありましたので、真田宗家&之親の子孫の部分で罫線を伸ばして移動した部分がありますので、ご了承下さい。私のPCのXGA画面(1024×768)で納まるように修正したつもりです。
 もし修正間違いがありましたら再度直しますのでおおっしゃって下さい。


[469真田幸村の閨閥 投稿者:○○○○ 投稿日:2006/08/01(Tue) 10:14  

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~当記事は、投稿者のご希望により削除致しました。投稿者名も個人情報と判断し、削除致しました。ご了承下さい。(管理人)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


[468暑中見舞い 投稿者:Hiko 投稿日:2006/07/30(Sun) 18:52  

お仕事が忙しいのは良いことですね。でもお体にはお気を付けて。

先日書き込んだ謄本取りはほとんど終わって、それから書き起こした家系図を親や叔父叔母数名に見て貰ったのですが、
今のところ謄本以上の先祖の事を知っている人はいませんで
した。ほとんどが自分の祖父母止まりで、曾祖父母の名前を
聞いていなかったようです。

ところでKUBO様にお聞きしたいのですが、掲載されている系図
に記載されている先祖の傍系子孫から連絡が来たりした事って
有りますか?家系図を作成していて、ネットにつなげられる
環境が有る方なら先祖の名前で検索を掛けたりすると思うので。


[467ご自愛ください。 投稿者:HAZU 投稿日:2006/07/30(Sun) 07:50  

 お互い、どんどん忙しくなる年代です。ご自愛し、いつまでも長く続けていってください。
 ニフティのフォーラムが無くなるのは寂しいですが、すでにパソコン通信の歴史フォーラムがWEBに移った時点であまり巡回もしていませんので、影響はまったくないです。
 発言はここと協議会の掲示板でできますので・・・。
 私みたいな考え方をしているものが多くなりフォーラムが無くなるんでしょうね(..;)

筈衛


[466長い間すみませんでした 投稿者:KUBO 投稿日:2006/07/30(Sun) 00:50  

>みなさま
 いやあ2ヶ月ぶりですねえ... 長い間、放置状態で申し訳ありませんでした。やっと余裕ができましたので、出て参りました(^^;) 以前にも書きましたが、今年は仕事が忙しく帰宅する時刻も去年に比べると遅いので、なかなかレスを書く時間も取れず、眠くて寝てしまうパターンが続いています。サイトの更新の方も手つかずです(^^;) そういえばチャシ一覧の方も放置状態ですねえ、いかんなあ...
 最近は、「家系研究」に投稿した「松前藩 松前・蠣崎一族の系譜」「ユーグ・カペーの末裔(1)」や途中まで仕上げた「ユーグ・カペーの末裔」シリーズの原稿が探しても見あたらない(間違って削除してしまった?)ので、その復元をしております(--;) 幸い、印刷しておいたものがあるので、それを見ながらやれば何とか復元できそうですが、何とも情けないです。
 本は相変わらず、少しずつ読んでおりまして、最近読んだものとしては、『島津義弘の賭け』(山本博文、読売新聞社)とか『日本史の一級史料』(山本博文、光文社)、『自分のルーツを探す』(丹羽基二・鈴木隆祐、光文社)、『世界史のなかの満洲帝国』(宮脇淳子、PHP研究所)、『チンギス・カン ”蒼き狼”の実像』(白石典之、中央公論新社)などがあります。
 いま読んでいるのが『武士の家計簿』を書かれた磯田道史さんの『殿様の通信簿』(朝日新聞社)。これのネタ本の『土芥寇讎記』は持っているんですけど、全く手つかずで読んでおりません(^^;) 宮城谷昌光さんの『香乱記』『管仲』も読もうと思っているんですが、なかなか時間がなくてねえ...(^^;)

 グチは横に置いておきまして、遅くなりましたが、2ヶ月分のレスを...(をい(^^;))

>沙月さん
 まあ確かにチャシを「砦」と考えたら、?と思うものもたくさんありますけど、チャシは「聖域」「談判の場」「見張り場」等いろいろな機能を持つものもあったようですから。ジグラットがどういうモノか私はよく知りませんが、「聖域」と考えれば共通点はあるかもしれません。
 義経=ジンギスカン説、懐かしいですね。中学生か高校生くらいの頃でしたか、高木彬光の『成吉思汗の秘密』を読んで、本当に義経がジンギスカンになったんじゃないかと思っていた時期がありましたが...
 東日流外三郡誌補巻の浪岡北畠氏系図ですが、ちょっと信じ難いですね。その義仁親王の次の代に出てくる北畠顕邦という人物もどういう人物なのか。No.452の北部王家と蠣崎蔵人は松前・蠣崎氏のルーツの話にになると出てくる名前ですが、東日流外三郡誌にも載っていたんですね。ただこちらは『アイヌの反乱』(白山友正、人物往来社)によると、『新撰国志』『八戸南部系図』『祐清私記』などに北部王家が蠣崎蔵人信純に滅ぼされたという話が載っているそうなので、あながち嘘というわけでもないのかもしれません。

>武蔵守よろし先輩さん
 はじめまして。遅くなりましたが、次回更新時にこちらからのリンクを張らせていただきます(^^;) よろしくお願いします。

>朝臣さん
 初めまして。う~ん、難しい問題ですね。確かにおっしゃるとおりで、他にも「信」の字がつく武田家臣もたいてい上に付いていて、下に付いているのは高坂昌信くらいしか見あたりませんね。それを許されるほど武田信玄に寵愛されていた、信頼されていたとも思えますが、どうなんでしょうね?

>しろやまの子さん
 モシリヤチャシは私の好きなチャシの一つです。おっしゃることはその通りだと思いますので、次回の更新時に一言添えたいと思います。どうもありがとうございました。

>筈衛さん
 毎度です。いつもフォローありがとうございます。そういえば@niftyのフォーラムが来年春でなくなるそうで、古巣が消えていくのは寂しいですね。

>久保さん
 情報ありがとうございます。ただ、挨拶も何もなしにいきなりご自分のサイトの記事の紹介をなさるというのはどうなんでしょう? この掲示板は当サイトにお出でになった方々の交流の場と考えております。場の雰囲気を考えて、書き込みなさるようお願いします。

>島在住NOBUさん
 初めまして。そりゃあビックリなさるでしょうね(^^;) 同姓の誼でどうぞよろしくお願い致します。

>佐々木 稔さん
 初めまして。やはり佐々木姓の方は目結紋が多いんですね。ところでどちらのご出身ですか?

>下國さん
 はじめまして。下國姓の方にお出でいただけるとはうれしいです。3代前以前は不明とのことですが、きっと調べていけばつながっていくんではないでしょうかね? あまりある苗字ではありませんから。『写録宝夢巣5』で調べたら、下国さんが全国で68軒、下國さんが6軒でした。半分以上が北海道在住でしたから、ほとんどは松前の下国氏につながるんではないでしょうか?


[465Re:[370] はじめまして 投稿者:下國 投稿日:2006/07/25(Tue) 11:02  

母方が下國の出とのこと拝見しました。私も3代前迄は分かりますがそれ以前は不明です。(3代前の嫁が函館近辺出身とは聞いた事がありますが)きっと遡ればどこかで繋がる可能性もあるかも知れないですね


[464Re:[460] びっくり 投稿者:沙月 投稿日:2006/07/19(Wed) 10:26  

> 突然の投稿です。
> 先祖の名前が乗っているのでびっくり。
> 窪田喜祐董==喜栄==喜一==統一==の子供です。

そういえば、源為朝は流罪先の大島で死なずに琉球に逃げて琉球王朝を作ったという話はありますね。
明治の系図研究家の中田憲信は『皇胤志』にその系図を載せていましたね。私の『皇胤志』を完訳した本の話です。
>
>
>
>
> 徳之島出身の源為朝の子孫という窪田氏もありました。(ほんとかよ(^o^;)
> 平二代西之主──義間───宮城───宮澄───本城───清随巾─+
> +―――――――――――――――――――――――――――――――+
> |
> +─前間────文福───安常───窪田喜祐徳─+─喜祐徳───+
>                         |       |
>                         +─喜祐厚─+ |
> +―――――――――――――――――――――――――――――+ |
> +─・・・                           |
> +―――――――――――――――――――――――――――――――+
> +─喜祐徳・・・
>

http://nihonrekishiken.com/


[463はじめまして 投稿者:佐々木 稔 投稿日:2006/07/17(Mon) 19:00  

こんにちは。ある事がきっかけで我が家の家紋である『丸に隅立て四つ目』を検索しておりました。沙沙貴(佐々木)神社、近江源氏、云々。おかげさまで
こちらのサイトにたどり着く事が出来ました。これも何かのご縁と思い投稿してしまいました。ありがとうございました。


[462Re:[460] びっくり 投稿者:HAZU 投稿日:2006/07/15(Sat) 09:03  

 ほんとにびっくりしたでしょうね(^_^;

 喜祐徳は3代続けて名乗っているようですので、初代喜祐徳を誇りに思っていたのでしょうね。
 ところで喜祐徳は何と読むんでしょうか(^^ゞ

 なお、『「さつま」の姓氏』(川崎大十編)にはP265~266に記載があり、3代喜祐徳から成常への流れと県議会議員をされた窪田喜忠さんの流れが載っています。

筈衛


[461Re:[460] びっくり 投稿者:島在住NOBU 投稿日:2006/07/14(Fri) 23:31  

窪田喜祐董
  喜祐静
  喜祐厚
  喜祐徳
順番は忘れてしまったが
兄弟だったと思います。
よく調べてからまた投稿いたします。


[460びっくり 投稿者:島在住NOBU 投稿日:2006/07/14(Fri) 23:17  

突然の投稿です。
先祖の名前が乗っているのでびっくり。
窪田喜祐董==喜栄==喜一==統一==の子供です。

徳之島出身の源為朝の子孫という窪田氏もありました。(ほんとかよ(^o^;)
平二代西之主──義間───宮城───宮澄───本城───清随巾─+
+―――――――――――――――――――――――――――――――+

+─前間────文福───安常───窪田喜祐徳─+─喜祐徳───+
                        |       |
                        +─喜祐厚─+ |
+―――――――――――――――――――――――――――――+ |
+─・・・                           |
+―――――――――――――――――――――――――――――――+
+─喜祐徳・・・


[459長生寺について 投稿者:久保 投稿日:2006/07/09(Sun) 11:52  

「久保郷土文化館」ではこの度「安芸竹原長生寺」を増設発信しました。長生寺は伊予湯築城城主河野通直の菩提寺です。平成十八年の今年は彼の四百二十回忌で、命日に因んだ謎の日七月九日を発信日としました。
 「久保郷土文化館」  http://www6.ocn.ne.jp/~kubo386/ 
 安芸竹原長生寺
 1.伊予の河野通直(こうのみちなお)
 2.伊予湯築城(ゆづきじょう)の落城
 3.長生寺(ちょうせいじ)の開基
 4.河野通直死の謎
 5.村上海賊衆
 6.海賊村上元吉
 7.竹原の珍海山(ちんかいざん)
 8.能島(のしま)村上の竹原崩れ
 9.河野通直・村上元吉を偲ぶ
 10.小早川隆景の晩年
 11.代官鈴木重仍(すずきしげより)
 12.志士唐崎赤齋(からさきせきさい)
 13.学問の神庚申(こうしん)
 14.梵鐘受難
 15.長生寺の炎上と倒壊
 16.惠寛和尚(えかんおしょう)
 17.長生寺界隈

http://www6.ocn.ne.jp/~kubo386/


[458RE;心配 投稿者:HAZU 投稿日:2006/07/04(Tue) 21:23  

あと、20日もすれば、余裕が出て動き出すと思いますよ。
たぶんですけど・・・・(^_^;

筈衛


[457心配 投稿者:沙月 投稿日:2006/07/04(Tue) 15:36  

クボさん、掲示が止まってますね。

http://nihonrekishiken.com/


[456お供え山 投稿者:しろやまの子 投稿日:2006/06/18(Sun) 13:57  

ホームページ楽しく見せて頂きました。
私の実家は釧路のモシリヤチャシ(通称お供え山)の近所にあります。で懐かしく読ませて頂きましたが写真を見てびっくりしました。
私の知る限り、お供え山は保護のため一般の立ち入りは禁止です。
写真は許可をもらって撮ったのですか?どう見てもお供え山にあがって撮ったと思うのですが。どちらにせよ、その旨を明記していただかないと誤解を招くと思います。

戦前は公園のように使われていたとのことですが、チャシを守るため戦後立ち入り禁止になったとのことで、近隣住民ではほとんど入ったことのある人はいません。
チャシは低い柵で囲まれているので入り込むのは容易です。
警備もされていません。でも誰も入りません。その辺を考えて頂きたいと思います。


[455高坂昌信 投稿者:朝臣 投稿日:2006/06/17(Sat) 21:15  

武田信玄の重臣の高坂昌信は、諱に「信」を名乗っていますが、武田氏の通字の「信」を諱の下に用いていますが、これはOKなのでしょうか。普通だったら、お館の武田氏に遠慮して「信」を使用しないのではないでしょうか。仮に、「昌信」を名乗っていたとしても、武田氏に仕えるようになって、「信」を諱の上にもっていき、「信昌」と名乗るのではないかと思いますが・・・


[454Re:[453] 相互リンクのお願い 投稿者:沙月 投稿日:2006/06/14(Wed) 00:25  

> はじめまして。いつも楽しく拝見させていただいております。
> 今日は相互リンクのお願いにあがりました。
> 私のHP「戦国未満」はイラストを使って鮮やかに戦国時代を再現した史学的エンターテイメントです。
> そのほかいろいろな企画があります。
> まずは是非遊びに来てください。

面白いですね。内も織田信長や豊臣秀吉などの系図を売っているので興味がもてました。内へも覘きに来てね。
> 何卒よろしくお願いします。

http://nihonrekishiken.com/


[453相互リンクのお願い 投稿者:武蔵守よろし先輩 投稿日:2006/06/12(Mon) 21:56  

はじめまして。いつも楽しく拝見させていただいております。
今日は相互リンクのお願いにあがりました。
私のHP「戦国未満」はイラストを使って鮮やかに戦国時代を再現した史学的エンターテイメントです。
そのほかいろいろな企画があります。
まずは是非遊びに来てください。
何卒よろしくお願いします。

http://www.sengokumiman.join-us.jp/


[452450の追加 投稿者:沙月 投稿日:2006/06/05(Mon) 15:35  

東日流外三郡誌には
蠣崎系図と題して

後醍醐天皇―護良親王―良尹―尹義―義邦―義純―義元ー茂良丸

後村上帝―宗尹王

という系譜もあり、この一族を北部王家というそうです。この一族は松前で十五世紀に活動していましたが、1448年に蛎崎蔵人に謀殺されて滅亡したということです。

重ねてお願いします。窪田博士様、ご意見よろしく。偽書でも何分の一かはそれなりに信憑性はあるでしょうか。


[451お断り 投稿者:沙月 投稿日:2006/06/03(Sat) 22:11  

449で系図を掲載していますが、あれはあくまで説明のためのものです。

盗用するつもりは一切ありません。誤解しないで下さい。


[450奇怪な北畠系図発見 投稿者:沙月 投稿日:2006/05/31(Wed) 19:01  

クボさんにお知らせします。
クボさんのホームページに滅びた名族として浪岡北畠氏の系図がありますね。

最近、国会図書館から東日流外三郡誌補巻という本にある次のような系図を見つけたので、お知らせします。意見聞かせてもらえませんか。夫婦系図で略記します。
後土御門天皇ー義仁親王・安藤千代姫夫妻―八重姫・北畠顕邦―北畠顕仁・天坂かね―北畠定和・天内ちり―北畠貞通・たま―北畠孝之・天内くに―北畠顕信・賀谷やさ―北畠顕廣・江羅貞景―北畠輝雄・藤本さち―北畠貞信・藤本たえ―北畠光村

で終わっていました。
義仁親王というのはもちろん架空の人物と私は思いますが、いやはや、東北には恐ろしい系図が伝わってますね。
これを信じる人の気が知れませんという感じです。この本を編纂している人は藤崎町教育委員をしている人です。こういう人が教育委員では世も末という感じ。

眺めていて
北畠系図の専門家窪田博士(当ホームページ管理人様)のご意見を拝聴したい気分になりました。掲示板はスペースがないのでまた後で。
忙しそうですね。ゆっくり読んで時間のあるときに返事くださいね。お邪魔しました。

       

http://nihonrekishiken.com/


[449義経ジンギスカン説もどこへやら 投稿者:沙月 投稿日:2006/05/31(Wed) 15:52  

チンギス・ハーン―+―オゴデイ・ハーン………7オルク・テムル・ハーン―――+
 元太祖     |  太宗                       |
         |          +――――――――――――――――+
         |          |
         |          +―11アダイ・ハーン
         |
         +―トルイ―+
               |
+――――――――――――――+
|                          【北元】
+―フビライ・ハーン…+…トゴン・テムル・ハーン―+―1アーユシュリーダラ
|  世祖      

kuboさんのホームにはジンギスカンについてすごいきちんとした系図掲載していますね。感心しました。
ああいう系図を見ていると源義経=ジンギスカン説。孫のフビライは義経の遺言で鎌倉幕府に復讐のために元寇を起したという説などふっとんでしまいそうな気分ですね。私は昔はそういう説でもいいかなと思ったものですが、あれはやはり作り話ですかね。

http://nihonrekishiken.com/


[448昔の思い出ー気まぐれな夢遊人 投稿者:沙月 投稿日:2006/05/31(Wed) 15:17  

チャシは高さが余り高くありません。あんなものを砦にしたら、兵糧攻めですぐに落ちると有る人に昔言われました。
彼は日本にピラミッドがあるといって何とか、それを立説しようとしていました。もう亡くなりましたが、

その方はチャシは太古の日本ピラミッドのもとになった「ジグラッド」の一種として造られたものであると私に語って聞かせてくれました。当時は夢のような気分でした。もう遠い三十年くらい昔の話になりましたが懐かしい思い出です。

私も昔、学生時代、北海道を歩いてチャランケやモシリチャシにあこがれて、何度か見に行ったものです。
奈良の前方後円墳(墓であると同時に祭祀所とも考えています)もいくつか自転車で旅してみました。すべて流行歌ナダソウソウの気分です。

だから、チャシが実は日本式ジグラッドなら面白いと思ってそういう見方はできないかなと思ったのです。

系図についてはここでは日本の家が多いようですが、気分を変えて、外国の様々な家系も覗いてみたくなったので、たまにはそういう話をしてはいけないかどうかということです。外国王朝があるなら、これから見てみます。
それではまた。まあ、気まぐれな夢遊人の独り言と聞き流してください。お邪魔しました。またよらせてもらいます。

http://nihonrekishiken.com/


[447Re: kuboさんにお願いします 投稿者:KUBO 投稿日:2006/05/28(Sun) 23:49  

沙月さん、こんにちは。
>話を変えて、kuboさん流のチャシとジグラッドと日本の古墳の構造的違いについて
>説明してもらうことはできませんか。
 ジグラットというのが良く分からなかったので調べてみましたが、古代メソポタミアの聖なる塔のことですか。なぜこの3つを並列で語られているのかよくわかりませんが、チャシはもともとは濠によって隔てられたアイヌの聖域だったものが、祭祀の場、談判(チャランケ)の場、見張り場、あるいは砦として使われるようになったと考えられているようです。
 ですから現在残っているチャシコツ(チャシ跡)を見ると、川、湖、海などの水辺に面した台地の先端、あるいは頂上を濠によって区切っているというのが構造的な特徴になるでしょうか。全面発掘されているチャシが数少ないので、わからないことが多いのですが、濠にそって柵がたてられていたり(もともとチャシとは「柵」「柵囲い」の意)、内部に建造物が建てられていた物もあったようです。
 濠が一、二本程度のチャシがおおいのですが、松前藩の影響を受けるのが遅かった道東方面では発達した形態のチャシも見られ、濠が五、六本も掘られていたり、濠が連結して連郭式の配置をしているものも出現しています。

>系図といえば、海外の王朝の系譜も興味がありますが、そこへ視点を変えてもらうことはできるのでしょうか。
 当サイトの「世界史の部屋」には外国の王朝の系図も掲載していますが、それとは違う視点という意味ですか?


[446kuboさんにお願いします 投稿者:沙月 投稿日:2006/05/21(Sun) 08:12  

話を変えて、kuboさん流のチャシとジグラッドと日本の古墳の構造的違いについて説明してもらうことはできませんか。
系図といえば、海外の王朝の系譜も興味がありますが、そこへ視点を変えてもらうことはできるのでしょうか。

http://nihonrekishiken.com/


[445Re: 無題 投稿者:KUBO 投稿日:2006/05/20(Sat) 13:59  

Hikoさん、こんにちは。

>現地調査とかは時間の関係で今は難しいですが、謄本だけは
>取っておこうと思います。
 その方が良いと思います。

>色々なサイトを見てみると除籍謄本への対応と言うのは役所
>によって違うみたいですね。申請の理由も家系調査では通ら
>無いから先祖供養にするべきとか。
 そのようですね。私の場合は家系調査でOKでしたが。

>奥さんの方の謄本も取っておきたいですが、なかなかに説明
>しづらいですね。KUBOさんのお宅ではそちらの調査もされま
>したか?
 実はそちらの方は、義母さんが以前除籍を取ってまとめた系図があって、結婚するときにそのコピーをいただきましたので、問題なしです(^^)


[444無題 投稿者:Hiko 投稿日:2006/05/13(Sat) 17:26  

現地調査とかは時間の関係で今は難しいですが、謄本だけは
取っておこうと思います。
色々なサイトを見てみると除籍謄本への対応と言うのは役所
によって違うみたいですね。申請の理由も家系調査では通ら
無いから先祖供養にするべきとか。

母方の方は田舎ではそれなりの家らしく、以前に家系調査を
した親族がいると言うことなので母に紹介して貰うつもり。

奥さんの方の謄本も取っておきたいですが、なかなかに説明
しづらいですね。KUBOさんのお宅ではそちらの調査もされま
したか?


[443除籍謄本 投稿者:KUBO 投稿日:2006/05/10(Wed) 00:27  

>Hikoさん
>この道に対する理解と云うか興味は普通の人々からすると
>マニアックでマイナーな趣味みたいですね。やっぱり。

 そうでしょうね(^^;) 私も以前、職場の同僚の旧姓が歴史的にそれなりに知られている苗字だったので、そのことについて話をしたら、「だからどうしたの?」的な反応が返ってきたので、がっかりしたというか、まあ世間的にはそんなもんなんだろうと思ったことがありました(--;)

>ところで謄本の調査をする場合に、本籍地の役所で申請す
>れば祖父母や曽祖父母等、故人の謄本でもすぐに貰える物
>なのでしょうか。お教え頂けると幸いです。

 私の場合、父方の祖父母、母方の曾祖父母までは近隣市町村の役所に除籍がありましたので、平日に休みの時に出かけていって、除籍謄本を取りました。ただし、逸見駿河守一族の末裔さんのおっしゃる通り、自分の直系先祖の除籍しか取れませんので、自分→父母→祖父母→曾祖父母と順番に遡りながら取っていきました。

 それ以前については、父方は福井県、母方は岩手県になりますので、該当の市町村の役所の担当部署(市民課とか町民課)宛にルーツ調査をしている由と誰の除籍を取りたいかということを手紙に書き、自分がその人物の直系子孫であることを証明するために、所得済みの除籍のコピーを同封し、さらに所得したい除籍の代金分の定額小為替と送料分の切手を同封して送りました。

 その結果、父方は北海道に渡る前の祖父の除籍と曾祖父の除籍が、母方は北海道に渡る前の曾祖父母の除籍まで取れました。母方については、以前叔父が岩手に行ったときに調べたことを教えてもらっていたので、その再確認をしただけですが、父方は除籍に前戸主として高祖父の名前が出ていましたので、四代前まで遡ることができました。

 それから逸見駿河守一族の末裔さんのコメントには除籍後50年くらいは保管されるとありますが、正しくは80年です。ですから、法律的には1926年(昭和元年)以前の除籍は破棄されてもおかしくないということです。私の場合は、父方の祖父や母方の曾祖父が北海道に渡って90年以上経っていましたが、ラッキーなことに破棄されず残っていたようで除籍を取ることができました。ですが、最近先祖の除籍を取り寄せたら、一番古い除籍が北海道だったという人が道産子の場合増えているそうです。そうなると自分の先祖がどこから北海道に渡ってきたかという手掛かりが失われてしまうわけです。

 ですから道産子の方はできるだけ早く除籍謄本を取っておく必要があると思います。自分が家系に興味がなくても、子孫がルーツを調べたいと思ったときの手掛かりになりますから。

>逸見駿河守一族の末裔さん
 補足して頂きありがとうございました。


[442除籍謄本 投稿者:逸見駿河守一族の末裔 投稿日:2006/05/08(Mon) 22:13  

またおじゃまいたします。故人の戸籍謄本はその戸籍にはいっている方が皆故人となった時には除籍となり、除籍謄本を貰うことができます。除籍後50年くらいは保管されるようです。本籍地の役所に申請すれば1通750円と送料で送ってもらえます。但し直系の子孫でないとだめなようです。つまり祖父の弟とか曾祖母の妹の方の除籍謄本は拒否されます。私も先祖の系図しらべで何通か取り寄せましたが、直系以外はすべてことわられました。


[441無題 投稿者:Hiko 投稿日:2006/05/08(Mon) 18:38  

この件で親に話を聞いて言われたのですが、
「そんなこと調べてどうするの」
この道に対する理解と云うか興味は普通の人々からすると
マニアックでマイナーな趣味みたいですね。やっぱり。

ところで謄本の調査をする場合に、本籍地の役所で申請す
れば祖父母や曽祖父母等、故人の謄本でもすぐに貰える物
なのでしょうか。お教え頂けると幸いです。


[440連休も終わり... 投稿者:KUBO 投稿日:2006/05/07(Sun) 23:38  

↑ですねえ...(^^;) 今年は3日から5連休でしたが、4・6日は家族サービスで羊ヶ丘展望台やテイネオリンピア遊園地に行き、あとの3日も普段の休みのように買い物に出かけたりしましたので、結構疲れました(^^;) まあ昼寝できたので、少しは休めたかな? 本当は1日くらいは少し遠出して、チャシとか史跡を見てきたかったんですけどねえ...(^^;)

>くりうさん
 当サイトにおいでいただありがとうございます。栗生姓を「写録宝夢巣5」で調べてみると、全国で329軒ですから確かに稀少姓になるでしょうね。和歌山が71軒、大阪が37軒、京都が26軒とその3分の1ほどが関西に集中しているようです。

 『姓氏家系大辞典』には清和源氏畠山氏流、清和源氏村上氏流の栗生氏が載っていますが、新田義貞の家臣栗生左衛門頼方は最初の畠山氏流の栗生氏の出身のようです。また上野国山田郡下田沢に栗生神社があり栗生頼方の霊を祀るそうですが、調べてみると群馬県桐生市にこの栗生神社があるようですね。
 http://www.city.kiryu.gunma.jp/web/home.nsf/10721ebeb31f439e492568f9002e676c/f8354e86706608c349256ffd00216b9e?OpenDocument
・畠山氏流
 畠山義純―田中次郎時朝―田中五郎時氏―経氏(栗生氏祖)

 また三河国額田郡の秦梨子城は栗生将監永信とその子長蔵が在城したそうですが、『日本日本城郭大系』によると、岡崎市秦梨町に秦梨城がありここに栗生永信・長蔵が在城したようです。

 取りあえず手持ちの資料で見つかった情報はそんなところでしょうか。

>Hikoさん
 しばらくです。ご結婚おめでとうございます(^^) これから忙しくなりそうですね。家系調査、次は除籍謄本の調査ですね。こちらを取るとかなりはっきりしてくるでしょう。私の場合、除籍を取った時点で、祖父が北海道に渡って80年以上経過していたので、ダメ元で除籍謄本を請求したら取れましたのでラッキーでした。おかげで高祖父の名前もわかりましたし。
 ただし時間の余裕がなくて、それ以来家系調査はストップしてますけど(^^;) ホントは福井県に行っていろいろ調べてみたいんですがねえ。


[439無題 投稿者:Hiko 投稿日:2006/05/06(Sat) 21:20  

このたび結婚などすることになり、これを機会に自分の家系
を一通り整理しておこうかなと、親に聞き取りなどをしてみ
たのですが、父方の高祖父までは分かりましたが父方母方の
曽祖父母八人については曖昧な事しか分かりませんでした。

ごさんべえさんの様に扇系図を完成させようと思うと相当な
手間が掛かりそうですねえ。


[438くりう家子孫 投稿者:くりう 投稿日:2006/04/28(Fri) 07:51  

はじめまして。栗生家の子孫です。ご先祖様がどこから来たのか知りたいのです。どなたか知っていたら教えてください。最近の調べで新田義貞の家臣に新田四天王の一人に栗生左衛門頼方という人がいました。あと家系図が見つかり昔秀吉に攻め滅ぼされたと書いてありました。しかし名前を変え戦で手柄をたててお家復興に成功したらしいです。それ位しか分かりません。ちなみに江戸時代位には関西と関東に分かれたみたいです。江戸時代からのお墓が東京文京区にありました。古かったので最近整理してしまいました。皆さん歴史に詳しい見たいなので情報お願いします。栗生という苗字は珍しいです。


[437お礼 投稿者:梅津 投稿日:2006/04/23(Sun) 00:15  

筈衛さま

ご丁寧に有り難うございます。
お礼が遅れまして、ごめんなさい。
研究させていただきます。

http://blog.goo.ne.jp/umedzu/


[436いそがしいです... 投稿者:KUBO 投稿日:2006/04/19(Wed) 00:50  

 新年度が始まって忙しいです。昨年度は少し余裕がありましたが、今年は今のところ去年に比べると帰宅するのも1~2時間遅く、余裕がないです。というわけで、しばらくは更新できそうもありません(--;) チャシ一覧の方もすっかりストップ状態です。
 そういえば本も最近あまり読んでないですね。相変わらず、ちょこちょこ買ってはいますが...

>岐阜人さん
 はじめまして。「写録宝夢巣」で調べると確かに岐阜県では池田町の辺りに久保田姓が多いようですね。ただそのルーツとなると、よくわかりません。長野・静岡・愛知の辺りに久保田姓が多いようですので、それと同系統なのかもしれません。

>infi~さん
 そちらは桜ですか... うちのアパートの玄関横は丁度日陰になっていることもあってまだ雪があります(^^;) まああと1~2週間で消えるでしょうけど、例年桜はGWあけですねえ。函館とか松前とか道南地方はGW頃が見頃ですけど。
 山口に行かれたんですか、いいですねえ。私は倉敷と沖縄の間は行ったことないもんで(^^;)
 毛利家の系図逆に辿ってみました(^^;) 元道氏から遡ると、19番目が元就、33番目が大江広元、43番目が大江氏の祖・音人、47番目が桓武天皇、74番目が神武天皇、79番目が天照大御神、80番目が伊邪那岐命となりました。

>どさんこさん
 はじめまして。情報ありがとうございます。最近はホント時間の余裕がなくて、「北の遺跡案内」と自分の行った城郭・チャシとの照合もできてない始末でして(^^;) 江差の泊館は八巻孝夫氏の論文をもとにその場所を見てきたんですが、「北の遺跡案内」で示している場所は八巻氏の論文で示している3ヶ所ともずれていて、「写真2」の「観音寺の北の台地」のさらにもう少し東側奥になるようですね。

>梅津さん
 はじめまして。会津藩士の梅津氏については筈衛さんからすでに情報が示されていますが、手元にある「慶応年間 会津藩士人名録」(勉強堂書店)には、梅津清順(御坊主之部、三両三人 内一人)、梅津可順(御坊主之部、三両二分二人ヅツ)、梅津力四郎(御徒士、十一石二人)、梅津繁記(御情扶持、二人ヅツ)、梅津麓(芝三四綱坂下屋敷 物頭 甲士)、梅津麓(前記と同一人?、原田対馬組 与力支配兼務、十石三人)の名前が見えます。

>大黒天 福海寺さん
 はじめまして。当サイトにお出でいただきありがとうございます。リンクですが、次回の更新がいつになるか今のところ未定ですが(^^;)、その際にリンク作業を行いたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

>西田さん
 津川氏に限らず、斯波氏の系図は資料によっていろいろで、津川氏も義近、義冬、近治などの名前が見られますが、私もその系譜について良く把握していません。義冬の子孫になるのかどうかわかりませんが、津川氏の子孫は肥後熊本藩細川家の家臣となっています。詳しくは、津々堂さんのサイト「肥後細川藩拾遺」(http://www.shinshindoh.com/)をご参照下さい。


[435津川氏の御子孫 投稿者:西田 投稿日:2006/04/17(Mon) 11:33  

津川義冬公の、御子孫はいるのかな。知っている人がいたら教えて欲しい。1万石ぐらい領していたから、子供がいたと思うが・・・・・。


[434りんくのお願い 投稿者:大黒天 福海寺 投稿日:2006/04/15(Sat) 20:45  

はじめまして、福海寺と申します。福海寺は足利尊氏が開き、室町歴代将軍の信仰をうけました。江戸時代には堀と堤で囲まれた境内は枡形を構成し兵庫城の防備の役目をしました。ホームページには関係資料を掲載しています。お手数ですが是非リンクお願い致します

http://www18.ocn.ne.jp/~fukukai/


[433Re:[432] 梅津家 投稿者:HAZU 投稿日:2006/04/14(Fri) 19:38  

 会津藩士の梅津家ですが、諸士系譜に載っているのは次の2家です。
 梅津鉄右衛門家(本姓 源、本国信州高遠、定紋劔梅鉢、初代 梅津官助官俊)
 梅津平右衛門家(本姓不詳、本国不詳、定紋右三ツ巴、初代 梅津兵助、名乗り 平右衛門あるいは兵助)
 鉄右衛門家は通字は「俊」です。
 平右衛門家は3代以前の通字は不明ですが、4代以降の通字は「貞」です。
 他にどちらかの分家、あるいは別な家系があるかもしれませんが、なかなか調べるのは難しいと思います。
 なお、呆嶷さんの呆嶷館(私設会津部屋分室)は会津藩士のデータが豊富であり、御子孫の方も多く掲示板等に参加されているので、何らか情報を収集できるかもしれません。
アドレスは次のとおりです。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/

筈衛


[432梅津家 投稿者:梅津 投稿日:2006/04/13(Thu) 23:16  

はじまして、
道産子の4代目で、現在、東京に在住しております。
いま、自分の家を調べております。
会津藩出身のことで、その前は京都にいたとのことです。

家業は、祖父は運送業でした。会社名 明治組。

祖祖父は、梅津籐辰 祖父は梅津藤造 です。
参考になる書籍 サイト等 お教え頂けますと助かります。
何とぞ宜しくお願い致します。

http://blog.goo.ne.jp/umedzu/


[431江差の泊館 投稿者:どさんこ 投稿日:2006/04/13(Thu) 14:41  

はじめまして。
仕事柄、道内出張が多くそのつど当サイトのチャシ跡などを参考に探訪し
結構楽しんでますよ(^^)/~

「北の遺跡案内」を見てたら江差の泊館跡の位置が載ってますね。
観音寺の辺りではなく、泊川上流300~400mの南岸台地となってますね。
余計でしょうが、とりあえずご報告まで。


[430桜花ですねぇ 投稿者:Infi~ 投稿日:2006/04/12(Wed) 03:44  

桜が見頃なのに雨ばかり、、(><)
KUBOさんの所の桜はどうですか?
大和郡山城の桜は、もう散り始めてます。。。

先月、山口に行き毛利家の墓所を観てきました
献灯に「正二位伯爵 井上馨」等をみつけたりしてましたが、
その夜に泊まった旅館に「八十代 毛利元道」と言う書を見つけました。
現在の毛利家の当主らしいですが、、いつから数えての代なんでしょうか?元就から数えるとそんな数字にはならないですよね???


[429無題 投稿者:岐阜人 投稿日:2006/04/04(Tue) 23:37  

岐阜県揖斐郡池田町近辺に「久保田」姓が多数います。
この久保田姓のルーツをご存知でしたら教えてください。


[428いかんなあ... 投稿者:KUBO 投稿日:2006/03/25(Sat) 21:07  

 最近ここに顔を出すのが、月一になりつつ私、管理人がこれじゃあいかんなあと思いつつ、日々過ごしております(をい(^^;))
 サイトの更新は全くストップ状態です。例のチャシ一覧のまとめの方にかかってしまって、そちらまで手が回りません。チャシ一覧の方も取りかかれる時間が少ないので遅々として進みませんし。それに、元にしている資料が3つあって、その整合性を取ったり、ある資料に載っているデータが他の資料には載っていなかったりと、なかなか苦労しています。最後は自治体史にあたるか、道教委・市町村教委に問い合わせるしかないかもしれませんね。

 本は相変わらず読んでますよ(^^) 先日、八幡和郎氏の『戦国大名県別国盗り物語』を間違い探しをしながら読み終わりまして(これについては近いうちにブログに書きます。)、昨日から杉山正明氏の『遊牧民から見た世界史』を読んでます。(実はこれ、以前単行本で買ったのですが、先日それと気づかずに文庫本で買ったのでした(^^;))

>ちゃちゃさん
 お役に立てずすみませんね。私の手元にも浅野家関係の資料は筈衛さんと同様の物しかありませんので、特に補足することもありません。筈衛さん、毎度フォローありがとうございます。

>沙月さん
 それは別に構いませんよ(^^) だってご自分の本に載っているということをご教示したのであって、本の紹介が主じゃありませんから。これからもいろいろご教示下さい。

>大黒屋さん
 はじめまして。ご教示ありがとうございます。オルイカチャシの位置確認しました。道教委の「北の遺跡案内」でも確認しましたが、おっしゃるように実際の場所は私が思いこんでいた位置より南西に1kmほどずれた位置の舌状台地上のようですね。
 →http://www2.wagamachi-guide.com/hokkai_bunka/RedirectBunkazai.asp?id=8231&FL=FL1

 ここに行った頃は、まだ詳しい資料もなく、2万5000分の1地形図をにらみながら、それらしい場所を推定して回っていましたので。そのうちに再訪しようと思います。オルイカチャシの項にもご教示いただいたことを書き加えたいと思います。また何かお気づきの点がありましたら、ご教示下さい。ありがとうございました。


[427オルイカチャシについて 投稿者:大黒屋 投稿日:2006/03/23(Thu) 20:58  

はじめまして
いきなりで大変不躾なのですがオルイカチャシはここの写真で紹介されているところではないようですのでお知らせします。

写真の場所の近くを流れている小河川はオルイカ川という名ではなく、もう少し西に2キロほど行ったあたりのようです。

近年発行されている日高自動車道建設に伴う緊急発掘調査報告書内の鵡川町の遺跡分布図からの確認しております。

管理人様の再度の確認をお願いいたします。


[426児島様へ 投稿者:沙月 投稿日:2006/03/21(Tue) 21:39  

あのう。児島さんというのは425に載せた本を購入していった人でしょうか?
それとも同姓?

http://nihonrekishiken.com


[425415はここにあり。 投稿者:沙月 投稿日:2006/03/21(Tue) 21:37  

>児島さん
 手持ちの史料では加地信実の娘が頼仁親王の子道乗僧正の母であるという記述は見
つけられませんでした。ただ頼仁親王が備前児島に配流されているようですね。また
頼宴僧正も見つけられませんでした。

クボさん、自分の本でごめんね。

については明治の系図研究家中田憲信の皇胤志に明示。
藤原信実とあり。

http://nihonrekishiken.com


[424筈衛 様 投稿者:ちゃちゃ(久佐賀) 投稿日:2006/02/17(Fri) 09:44  

情報ありがとうございます。
与助氏は「日下部」と名乗っていましたが、子孫は「日下源孫○○」と名乗っていたようです。(庄屋をしているときも名字名乗りは許されていなかったのにもかかわらず署名はそのような署名を残してあります)

いろいろと手を尽くして頂いたようで恐縮です。

志水氏については赤松氏や六角氏や細川氏との関わりがあるようですが、いまいち信憑性がありません。津々堂様のHPで「元久?清朝?が親類として細川晴元に仕えた」という記事が気になっていて・・・日下にしろ志水にしろ晴元公との何らかの関係が伺えるような気がするのです。

仮定をいくつか立てて調べては見るのですが今ひとつです。
ちょっと煮詰まっているといったところでしょうか・・・
がんばります

いろいろとありがとうございます。今後ともいろんな情報お願いします。ちなみに津々堂様のHPには毎日お伺いさせて頂いております。なんか一日一回与助さんの記事を見ると落ち着くんですよね~~なんか変ですよね(^^;


[423窪田秀柴 投稿者:HAZU 投稿日:2006/02/16(Thu) 20:56  

 一つだけ(^^ゞ
 窪田秀柴の娘の一人が服部正之という浅野家家臣の妻になっているようです。
 服部正之は山城国が本国で、元和2年頃、浅野家に仕えた人物です。

筈衛


[422日下秀柴 投稿者:HAZU 投稿日:2006/02/16(Thu) 20:33  

 私の2000年8月頃の発言ですね(^_^;

 『芸藩輯要』を見たら、日下秀柴という人が出てきて、その子孫が安芸浅野家で久保田なにがしと名乗ったという話ですね。
 で、もう一回、『芸藩輯要』他『寛政重修諸家譜』『大石家外戚枝葉傳』など浅野家関係の書籍を見直してみましたが、何もあたらしい発見はありませんでした。
 googleで検索かけても、津々堂の掲示板で答えられている以上のものはありませんでした。
 なお、室町時代の各細川家関連の家臣団も以下のサイトにいくらか載っていますが、こちらにもありませんでした。

 武将系譜辞典(http://www.geocities.jp/kawabemasatake/
 MINAGISM MAGAZINE
http://ww3.tiki.ne.jp/~minagi/index.html

 ※ googleで日下部与助で検索かけても、六條院書込帖にもちゃちゃさんが既に出場済みですのでお手上げですね(^^ゞ

筈衛


[421熊本細川家より前に・・・ 投稿者:ちゃちゃ(久佐賀) 投稿日:2006/02/13(Mon) 10:04  

以前このサイトで日下秀柴が細川家の家臣だったと書いてあったものですから、九州上陸以前に畿内で日下氏がどのように細川氏に関わっていたのか、どの系列の細川氏の家臣だったのかが知りたかったのです。


[420もう2月ですね。 投稿者:KUBO 投稿日:2006/02/13(Mon) 00:09  

 まただいぶ間があいてしまいましたね(^^;) 今週はそれほどでもなかったですが、先週の土日あたりはえらく雪が降って、除雪で筋肉痛になってしまいました(--;) もうこのまま降らなくてもいい!って感じですが、2月いっぱいはまだまだ要注意です。
 例のチャシ一覧の方は入力だけは終わりましたが、あと入力したデータをまとめて一つのものにしなくてはいけませんので、もうしばらくかかりそうです。

>Infi~さん
 ご無沙汰しております(^^) 約2年ぶりのご登場ですね。一昨年の夏には大和を含め関西方面を回ってきましたが、朝早く奈良の町を歩いていたら鹿が道路をウロウロしていたのにはびっくりしました(^^;) 泊まったホテルの裏は天皇陵だったし... ちょっとカルチャーショックでしたね(^^;)
 大和郡山城は良かったですねえ。もっと時間があれば他にもいろいろ行ってみたかったところですが、残念でした。

>ちゃちゃ(九佐賀)さん
 はじめまして。熊本藩細川家に関しては『肥後細川家侍帳』『肥後読史総覧』程度しか手持ちの史料がありませんで、日下・日下部姓に関しては見つけることができませんでした。お役に立てず申し訳ありません。

>尾張参議 北來坊さん
 札幌ご出身ですか、名古屋とは良い所にお住まいでうらやましいです。まだそちら方面に行ったことがなく、名古屋をはじめ犬山・清洲・岡崎・岐阜・大垣・津・松阪など、いつかは行ってみたいと思うばかりです。確か伊勢の朝熊とは松平忠輝も配流された場所ではなかったでしょうか?
 ここしばらくは近場のチャシにもなかなか行けずじまいですが、うちの坊主も大分遠出できるようになったので、今年は少し遠くまで行ってみたいものだと思っておる次第です。今度ともよろしくお願い致します。


[419懐かしや、北の地 投稿者:尾張参議 北來坊 投稿日:2006/02/12(Sun) 03:43  

初投稿で失礼致す。純粋に兵の気が残る城跡を愛している者にて御座る。
札幌に生まれ育ち、今は名古屋にて尾張、美濃、三河、伊勢の城を攻め巡る者で御座る。ふと蝦ヶ島での兵の夢跡はどうかと、貴サイトに出会い申した。造詣深い内容にただゝ感じ入り申す次第。
拙者の居る名古屋を中心に岐阜・三重は戦国の城跡が残る地にて、その城の素性も美濃土岐・明智-斉藤から織田・豊臣・徳川のみならず幾多のもののふの歴史が残っており申すが、北の地にて城とは言えぬ程の砦館にこそロマンを感じるように思う次第で御座る。松前は安東家の繋がり深き地でも御座るが、秋田実季の墓所が拙者の住み申す愛知の隣国、三重の伊勢市に在る事を実は近頃知り申した。
伊勢市外れの朝熊山というかつての霊験ある伊勢神宮神田が在った今となれば辺鄙な僻地で御座る。探し歩き、誰も訪れる事も無いであろうその墓所は本当にひっそりと苔生してぽつねんと建っており申した。出羽、陸奥、蝦夷と覇権を争ったその人が、こんな所に眠るのかと思うと北に生まれた拙者の胸に何とも言えぬ無常感が込み上げてくるので御座る。こんな北とは別文化の伊勢の地でどれ程にかの地を思って去って行ったか・・・機会が御座れば是非行かれるがよかろうと思いますぞ。
今年の大河ドラマは「山内一豊」で御座るが、一豊もまた愛知のもののふで御座る。生まれは父が岩倉織田家の家臣という事で岩倉市、あるいは一宮市木曽川黒田とも言われており申すが。いまひとつ一般的な知名度低いせいか盛り上がって無いのが残念で御座る。こちらでは愛知の武将ならば信長、秀吉、家康はともかく利家は一昨年にやったので柴田勝家・佐々成政・蜂須賀正勝や加藤清正、福島正則が良かったのではなどという輩もいるようで御座る。そんな地にて貴サイトを楽しみにしており申す故、今後も是非その充実を御願い致し申す。


[418日下について 投稿者:ちゃちゃ(久佐賀) 投稿日:2006/02/08(Wed) 13:49  

当家は日下部與助(細川家家臣)を初代に13代程続いています。
日下部といいながら日下と名乗っていたようで、2代目以降はそう名乗っています。明治前後頃からは久佐賀と名乗り現在に至っています。
わりと昔からの細川家の家臣のようなのですが正体が???です。
細川家家臣日下氏についてご教示いただけませんか?


[417見つけた・・・ 投稿者:Infi~ 投稿日:2006/02/02(Thu) 05:10  

ご無沙汰です!覚えてますか?大和のインフィです!!
PC故障に伴い、彷徨っていました(T~T)

最近は家紋と正当な血筋かどうかに興味があります^^
またきます♪
それでは


[416有り難うございました。 投稿者:逸見駿河守一族の末裔 投稿日:2006/01/19(Thu) 12:38  

筈衛様、KUBO様
誠に有難う御座いました。早速国会図書館にコピーを申込ました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。


[415また間があいてしまいました(^^;) 投稿者:KUBO 投稿日:2006/01/18(Wed) 00:16  

 また間があいてしまいました(^^;) 結局、正月からこっちはサイトの更新には全く
手を付けられずでした(^^;) 実は今いくつかの資料を基にチャシの一覧をまとめてい
るのですが、こちらの方もここ数日は入力がストップしたままです。なかなか時間が
取れないのが現状です。更新は遅々とした歩みではありますが、ご容赦下さい(^^;)

>真江田長老さん
 はじめまして、とありますが以前一度お出でいただいた記憶があります。「歴史と
旅」の「わが家系を語る」につきましては、ところどころ自分の興味のありそうなと
ころを、図書館で複写してきたのですが、時間がなくてなかなか読み切れていません。
真田幸村の末裔については、真江田家も含めそのうちに当サイトでも紹介する予定で
おります。

>浦野与平次さん
 わざわざお年賀の挨拶をいただきありがとうございます。今年もよろしくお願いい
たします。しかしイタリアですか。うらやましい... 私は大学の卒論でビザンツ帝国
をやったもんで、ローマにも興味があるんですが、いつか行ってみたいですねえ...
(もちろんイスタンブールにも)

>Hikoさん
 千代の出自ですか。最近買った山内一豊関連の本では両説併記という感じでしたが。
そういえば25日に大阪で開かれる家系研究協議会の冬の例会では山内一豊についての
講演が行われるようで、どういう内容になるのか興味深いです。

>児島さん
 手持ちの史料では加地信実の娘が頼仁親王の子道乗僧正の母であるという記述は見
つけられませんでした。ただ頼仁親王が備前児島に配流されているようですね。また
頼宴僧正も見つけられませんでした。

>逸見駿河守一族の末裔さん
 はじめまして。ご質問の答えは筈衛さんからお聞きになった通りです。実は『上杉
家御年譜24』は、北大図書館で目次と一部を複写してきただけで、矢野氏の部分は手
元にはなかったので、ページ数くらいしかお答えできなかったんです(^^;)

>筈衛さん
 お久しぶりです。毎度フォローありがとうございます。『上杉家御年譜』、手元に
あるんですか。うらやましい...(^^;) 前から時々探しているんですけど、23・24巻は
全巻揃いしか未だ見つからなくて...


[414矢野正英 投稿者:HAZU 投稿日:2006/01/17(Tue) 19:17  

 書名は『上杉家御年譜24:御家中諸士略系譜』です。
 矢野氏は104ページに載っています。

筈衛


[413上杉家中系譜について 投稿者:逸見駿河守一族の末裔 投稿日:2006/01/17(Tue) 12:52  

筈衛様 
誠に有難う御座います。私は正英の曾孫にあたります。是非とも国
会図書館に郵便で申込copyをとりたいと存知ますので、大変申し訳
ありませんが、書名と何頁に出ているかをお教え頂けませんでしょ
うか。よろしくお願い申し上げます。
KUBO様
私的なことで談話室を使用し申し訳ありません。


[412Re:[411] 上杉家中系譜について 投稿者:HAZU 投稿日:2006/01/16(Mon) 21:05  

> 中諸士略系譜』がありましたが、その中に矢野正英なる士の系譜は
> ございますでしょうか。もしわかりましたらお教え頂きた

 KUBOさんじゃありませんが、私も持っていますので調べました。
 安政4年に相続した矢野正英ならば、載っていますよ。
 矢野与兵衛直佐から始まる家です。正英で10代目になります。

筈衛


[411上杉家中系譜について 投稿者:逸見駿河守一族の末裔 投稿日:2006/01/16(Mon) 12:36  

初めて投稿いたします。貴HPの書籍欄に『上杉家御年譜24:御家
中諸士略系譜』がありましたが、その中に矢野正英なる士の系譜は
ございますでしょうか。もしわかりましたらお教え頂きたく宜しく
お願い致します。        逸見駿河守一族の末裔


[410系図は姓が同じではないモノもある 投稿者:児島 投稿日:2006/01/14(Sat) 22:47  

KUBO さん沙月さん今年もよろしくお願いします
お久しぶりです。
レスがなかったので失礼していました。
佐々木さんのホームに児島系図がありましたので,続きを
述べたいと思います。
まだご存知ないようですので,

「盛綱流佐々木氏の信実が、北陸道の大将になったのです。
信実は越後での京都方深勾氏を追討しましたが、これが承久の乱での幕府方の一番矢です。
この戦功で信実は備前守護に補任」後編

後加地信実の女が頼仁親王の室となり道乗僧正が生まれす。
それから都東寺長者になり,子息頼宴僧正の室に児島範長の女
があがりますが,古来の風習で母方に子は育てられるという,
珍しい習慣でその子は児島高徳と名乗りました。
之を通婚と云うそうです。
皆さんにはあまり聞きなれない言葉かも知れません。
興味ないかも知れませんが,皆さんのレスお待ちしています
姓は土地の名前なので移動すれば姓も変わるの内容です。
ご自慢の姓もほんとは,このたぐいかも?

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html


[409山内一豊・千代 投稿者:Hiko 投稿日:2006/01/09(Mon) 10:17  

大河が新しく始まりましたね。

ところで千代の出自ですが、作中では原作通り近江出身の
若宮氏としているようですが、事前の関連紹介番組の中で
美濃遠藤氏出自説も紹介していたのですね。
ttp://chuspo.chunichi.co.jp/00/hou/20060108/spon____hou_____000.shtml

こちらからリンクされている千葉一族さんのHP中でも有っ
たと思いますが、資料からすると遠藤氏説の方が説得力が
有るような気がします。最近の趨勢としてはどちらが有力
なのでしょうか。


[408謹賀新年 投稿者:浦野与平次 投稿日:2006/01/08(Sun) 00:16  

KUBOさん、新年あけましておめでとうございます。
また6年目突入おめでとうございます。
早速、トップページの素敵な年賀状を拝見しました。
私は4月末でようやく1周年です(^^;)。まだまだ頑張らねばなりませぬ。

今年は新春早速、フンパツして古代ローマ帝国の遺跡を見に妻とイタリアへ行ってきました。紀元前の建築物を実物で見ると圧巻でした。地震のない所は石で大きな建物が作れるので2000年も残るのですね。

本年もどうぞよろしくお願いします!

http://www.geocities.jp/kirche_7/


[407私が「歴史と旅」に寄稿した記事が載っていました。  投稿者:真江田長老 投稿日:2006/01/04(Wed) 13:52  

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~当記事は、投稿者のご希望により削除致しました。ご了承下さい。(管理人)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


[406明けましてめでとうございます 投稿者:KUBO 投稿日:2006/01/01(Sun) 10:26  

>みなさま
 明けましておめでとうございます。早いもので当サイトも今年は6年目に突入いたします。例によってなかなか更新の時間が取れませんので、遅々とした歩みにはなると思いますが、本年も宜しくお願い致します。

P.S.
 今年はどこかお城らしいお城に行きたいですねえ...(去年は荘内藩ハママシケ陣屋と南部藩モロラン陣屋ポロシレト勤番所・台場跡くらいで終わってしまった)


[405Re: 長尾氏 投稿者:KUBO 投稿日:2005/12/30(Fri) 12:58  

Hikoさん、こんにちは。

>久しぶりの更新ですね。
>これで東北と関東制覇ですね。(全国制覇はまだまだ掛かりそうですが
 やっとです(^^;) まあ、でも関東長尾氏は最初の予定にはなくて、武田氏の方に取りかかっていたんですが、たまたま資料を見つけたもので。

>ところで、長尾顕長の子孫は土井家臣となっていたのですね。知りませんでした。
>しかも千二百石は譜代藩の陪臣としては相当な大身ですよね。
 千二百石は土井家が十五万石を領していた時のようで、幕末期には五百五十石です。
ただし城代家老の土井内蔵允家が三千石、家老小杉長兵衛家が千二百石で、長尾家は
それに次ぐものですので、土井家の重臣の中でも大身といえるでしょうね。

>土井家などは小身から一代で成り上がったので、現地召抱えの北条旧臣・旧豪族
>なども多く居たと思いますが、他にも有名どころの子孫などが居たのでしょうか。
 確かにその出自を見ると、最上家・佐野家・北条家・上杉家・蒲生家等の旧臣がい
ます。ぱらぱらっと見たところでは、堀直寄の妹婿堀修理直重の子孫(二百五十石)、
鮭延秀綱の庶子森川秀勝の子孫(百五十五石)、朝倉宣正(駿河大納言忠長家老)の末子
正高の子孫(三百二十石)なんてのがいますね。


[404長尾氏 投稿者:Hiko 投稿日:2005/12/29(Thu) 11:12  

今年も残り僅かとなり、忙しく過ごされておられると思いますが、
久しぶりの更新ですね。
これで東北と関東制覇ですね。(全国制覇はまだまだ掛かりそうですが

ところで、長尾顕長の子孫は土井家臣となっていたのですね。知りませんでした。
しかも千二百石は譜代藩の陪臣としては相当な大身ですよね。
土井家などは小身から一代で成り上がったので、現地召抱えの北条旧臣・旧豪族
なども多く居たと思いますが、他にも有名どころの子孫などが居たのでしょうか。

では来年の更新も楽しみにさせて頂きます。かしこ


[403紹介がいけないということではありません 投稿者:KUBO 投稿日:2005/12/15(Thu) 01:43  

>木村信行さん
 ちょっと私の書き方がきつかったかもしれませんね(^^;) 説明も足りなかったなと反省しています。
 要するに、本の紹介「だけ」の書き込みはやめましょうよ、ましてやご自身の著作の紹介ですから、宣伝と取られかねませんよ、ということです。紹介することがダメですと言っているわけではありません。
 木村さんが著作の紹介をする時は、紹介「だけ」ということが多いので、その辺を今後書き込む際ははちょっと考えていただけないでしょうか?

>AAAさん
 上の通りです。ご理解いただけましたか?


[402一言弁明 投稿者:沙月 投稿日:2005/12/14(Wed) 22:11  

kuboさんに申し上げます。おっしゃることは至極最もかもしれませぬが、現実にはそんなに神経質に懸念されるような経済効果が目に見えて現れてくれれば、頼もしいのですが、それには状況が希薄すぎるので、もっとおおらかになられてもいいように思います。
まあ、迷惑掲示と私の掲示を一緒くたにして例外を許したくないというのかもしれませぬが、私自身の現実に照らせばそれに見合う経済効果から見れば、そうした懸念は不要としか思えません。その意味では考えすぎにしか見えません。
まあ、迷惑と管理人に映るならそれは逆効果ですから、控えさせてもらいますが、有る意味で言えば、濡れ衣じみていて心外な発言と存じます。


[401一つの疑問 投稿者:AAA 投稿日:2005/12/14(Wed) 10:03  

何度も言っておりますが、この談話室は当サイトを訪ねて下さる方たちの交流の場
です。確かに当サイトのテーマの一つ「家系」に関するものではありますが、ご自身
の著書の紹介だけでは、宣伝行為と何ら変わるものではありません。どうぞご遠慮下
さい。

ということは仮にここで、問題提起のための質問掲示はしても、その件に関しての本の紹介はしてはいけないということに成らないでしょうか。そうなると、掲示範囲というか、掲示内容はかなり制限されたものに成らないかと危惧します。