【史 跡 名】松前家墓所
【訪 問 日】1997年8月9日・2000年8月12日
【所 在 地】北海道松前郡松前町松城
【訪 問 記】
ここには1997年に松前城に行った際と、2000年の旅行と2回訪れています。
松前一族の墓所は、松前城の裏手の寺町にある法幢寺(下の「寺町付近」を参照)にあります。法幢寺の建立年代は特定できませんが、永正10年(1513)以前から大館にあったことは確かなようです。その後の戦禍で一時廃絶、天文14年(1545)、4代蠣崎季廣が再興して父義廣の菩提所とし、以後法源寺に代わって松前家累代の菩提寺となりました。
寺内にある「松前藩主松前家墓所」は国指定史跡で、初代武田信廣から19代にわたる歴代藩主及び一門の墓碑55基を安置しています。ただし、初代信廣から4代季廣までは一つの墓にまとめてあり、実際の彼らの墓は上ノ国の夷王山墳墓群内にあるようです。藩祖慶廣は五輪塔形式ですが、それ以降の藩主は石室形式で、正面に松前家の家紋「丸に武田菱」がついています。墓地内にある「織部灯籠」と通称される2基の石灯籠は十字形が陰刻されていることから、キリシタンとの関係も説かれています。

見てわかるとおりこの墓は後世作られたものである。彼らの本来の墓は上ノ国勝山館裏手にある夷王山墳墓群内にあると思われる。

慶廣は秀吉・家康などの中央の実力者との直接のつながりをもち、安東氏の代官としての立場から名実共に蝦夷島主としての立場へと松前(蠣崎)氏を引き上げた。でも、それにしては地味な墓ですね

盛廣は藩内的には慶長5年に襲封したとされるが、幕府の許可を得たものではなく、対外的には七世公廣が第二代藩主とされる。盛廣は38歳で父慶廣に先立って没している。

公廣は父盛廣が慶廣に先立ち没していたため、慶廣の死後二代藩主を継いでいるが、藩内的には盛廣を二代藩主としている。公廣は各地の砂金場の開発や上級家臣を対象とした商場知行制を実施し、松前藩の基礎を固めた。

寛永20年、松前藩成立後最初のアイヌ民族の蜂起であるヘナウケの蜂起が西蝦夷地にて起きたが氏廣は蠣崎利廣等の重臣を派遣し鎮圧に成功している。

高廣襲封時からアイヌ共同体の争いが表面化したため、オニビシ・シャクシャインの双方に停戦を呼びかけ一時和睦したが、寛文2年頃から再び表面化し。解決を見ないまま没した。

幼少藩主が続いたため、矩廣の時代には藩主一門間における抗争が激化した。一方前代から続くアイヌの抗争はシャクシャインの蜂起となって激化したため一族松前泰廣が蜂起の鎮圧に当たった。その後藩政の建て直しに取り組んだが、完成を見ないまま没した。

先代矩廣に男子がなかったため江戸の同族旗本から養子に入った邦廣は、支配体制の整備・財政再建を推進し、晩年には藩庫に余剰金を蓄えるまでになった。次の資廣とともに藩政中興の主とされている。

資広は松前三湊における沖の口支配体制を完成させるとともに、新たな交易場の開発にも力を注いだ。場所請負制が発達したのもこの頃である。

道廣は藩政の多くを重臣に任せ、自らは自由奔放な生活を送ったため、士風は頽廃し、風俗は乱れ、藩政は再び動揺をきたした。寛政4年、幕府の内命により隠居させられたものの依然歓楽にふける有り様で、ついには永蟄居を命ぜられるにいたった。

章廣は襲封早々異国船の来航などの難問に遭遇し、ついには蝦夷地を上知され、陸奥梁川九千石に移封されるにいたった。十四年後には復領が許され、一万石格に復することができた。

見廣は章廣の嫡子だったが、父に先立ち23歳で死去し、彼の長男良廣が十五世を継いだ。

良廣は祖父章廣の後を継いだが、生来病弱で将軍への拝謁もままならず、遂に隠居し、その一月後17歳で没した。

兄良廣の嗣子として襲封した昌廣だったが、藩政は家老松前内蔵の専断するところとなっていたため、内蔵を免職し藩政改革を断行した。しかし気鬱の病に罹り、次第悪化したため、叔父為吉(崇廣)に家督を譲り、4年後に没した。

崇廣は十四世章廣の六男で、十六世昌廣の早逝により急遽藩主を継いだが、幕府の寺社奉行、海陸軍総奉行、老中等を務め、開国政策を推し進めたが、兵庫開港問題で勅旨により罷免され、翌年松前で没した。

靖廣は崇廣の次男隆廣の長男で、父の後を継ぎ男爵に叙せられた。

徳廣は十六世昌廣の長男で、十七世崇廣の死により藩主を継いだが、生来病弱で藩政も藩政を握る松前勘解由、あるいは正義隊のいうがままだった。明治元年、旧幕府軍の来襲により館城、さらに津軽へと逃れたが、同年11月病没した。

修廣は十八世徳廣の長男で、父の死により五歳で襲封し、新政府軍と共に福山城を奪回し、のち館藩知事に任ぜられた。廃藩置県により藩知事を罷め、居を東京に移し、華族に列し子爵となった。

法幢寺墓所内にある河野系松前家の墓。河野系松前家は道南十二館の一つ箱館の館主河野家の名跡を継ぐ家柄で、松前家五世慶廣の六男景廣を祖とし、執事・家老等を務めた人物を多数輩出しています。

法幢寺墓所内にある織部灯籠。織部灯籠はキリシタン信仰に関係があるといわれています。上部の両側に丸い出っ張りがあり、それを横棒と見ると十字の形になりますし、基部には十字架を思わせるT字形の刻印も見えます。同墓所内にある六世盛廣室椿姫の墓の石室の扉にも十字架と思われる模様が付いています。
【史 跡 名】(1)松前神社、(2)龍雲院、(3)光善寺、(4)法源寺、(5)法幢寺、(6)阿吽寺
【訪 問 日】1997年8月9日・2003年5月4日
【所 在 地】北海道松前郡松前町松城
【訪 問 記】
1997年に松前城に訪れた時に、その裏手にある寺町付近も歩いてみました。まずは天守のすぐ北側にある松前神社です。ここはかつて城内馬場や池、鷹部屋などがあった場所で、神社は明治14年(1881)松前家始祖の武田信廣を祭神として創建されました。
次に龍雲院ですが、これは7代公廣が寛永2年(1625)に夫人(堂上公卿大炊御門家出身)のために建てたものです。この寺だけは箱館戦争の戦禍を免れ、本堂・庫裏・山門とも文政13年(1830)修復のまま現存しているということで、さすがに素晴らしいものでした。特に山門の戸に彫り込んであった龍と牡丹が印象に残っています。
次は光善寺です。この寺は天正3年(1575)の創建で、当初は高山寺と称し、慶長7年(1602)に光善寺と改称しました。朱色の山門・仁王門は宝暦2年(1752)年のもので、その先にある中国風の鐘楼門とともにこの寺の歴史を感じさせるものです。
法源寺は、松前家当初の菩提寺でした。文明元年(1469)若狭の僧随芳が奥尻島に草庵を結び、永正10年(1513)大館に移ったのがその創建と言われています。元和5年(1519)福山館の築城に伴い、大館から現在地に移転しました。当時の伽藍・庫裏などは箱館戦争の戦火で消失し、現在残るのは山門と経堂のみとなってしまいました。しかしこの山門は道内最古の室町時代の建築ということで、さすがに歴史を感じさせるものでした。また蠣崎波響・松前廣長等の墓もありました。
次いで法幢寺ですが、この寺は松前家の菩提寺で境内に「松前家墓所」があります。(上の項を参照) 寺の建立年代ははっきりしませんが、永正10年(1513)以前から大館にあったことは確かで、この年の戦禍で一時廃絶、天文14年(1545)3代季廣が再興して父義廣の菩提所とし、以後法源寺に変わって松前家累代の菩提寺となり、国法触頭として領内の宗教界の首座を務めました。ここの山門は天保9年(1838)再建のもので、四天王山門といい、むかって右に持国天・増長天、左手に広目天・多聞天を安置したものです。
最後に阿吽寺ですが、ここは松前家の祈願所でここの山門は城の北側にあった寺町御門を明治8年(1875)の城取り壊しの際に移転したものです。創建は嘉吉3年(1443)下国盛季が松前に逃れてきた時に、山王坊という僧が不動明王木像を伝持して茂辺地に渡り、後に大館に移したとも、永正10年(1513)大館に建立され、同年アイヌの攻撃で焼失したともいわれはっきりしませんが、大永7年(1527)3代義廣の弟高廣が再興し、代々松前家の祈願所として藩主の航行安全を初め各種の祈祷を修しました。元和5年(1619)、大館から現在地に移転しましたが、しばしば火災に遭い、江戸時代の建物として現存するのは土蔵造りの奥殿だけだそうです。(1997/8/9)
今回は嫁さんと一緒に旅行です。8時過ぎに函館を出発し松前を目指します。10時過ぎには松前市街地に着きましたが、桜まつり開催中の松前はやっぱりこんでいました。なんとか駐車場に車を入れると歩いてお城の方へ向かいます。
阿吽寺の方へ上る坂を上ると、まず見えるのが阿吽寺の山門(旧松前城寺町御門)です。阿吽寺の境内にも桜が咲いてます。そのあと天守の方へ向かおうかなと思いましたが、そちらは後回しにして、藩主墓所・法源寺・龍雲院と回り、光善寺へと向かいます。2年前の道南オフでは葉桜だった血脈桜も満開です。光善寺の本堂も新しくなっていまして、二人でお参りしてきました。(2003/5/4)



(龍と牡丹の彫り物があります)








松前城裏手の寺町にある法源寺墓所内にある。蠣崎波響(廣年)は松前藩12世資廣の五男として生まれ、家臣蠣崎廣武の養子となり、のち松前藩の家老となるが、一方画家としても著名で「松前応挙」ともいわれる。アイヌの12人の首長を描いた『夷酋列像』等の作品で知られる。

松前城裏手の寺町にある法源寺墓所内にある。蠣崎波鶩は画家として知られる蠣崎波響の子として生まれ、のちには松前藩の家老として幕末多難の藩政処理に貢献した。また父波響に若年より画技を学び、画家としても知られている。

松前城裏手の寺町にある法源寺墓所内にある。松前廣長は松前藩11世邦廣の五男として生まれ、家臣村上系松前家の養子となる。廣長は、松前藩の家老として財政の再建にあたる一方、中央の多くの文人と交流をもつなど藩内随一の碩学としても知られ、『福山秘府』『松前志』などの著作がある。また画家蠣崎波響の叔父にあたり、彼に影響を与えた人物としても知られている。
【史 跡 名】徳山大神宮
【訪 問 日】1997年8月9日
【所 在 地】北海道松前郡松前町神明
【訪 問 記】
松前城&寺町付近を見たあとに、町役場の北の方にある徳山大神宮の方へ行ってみました。
この神社は創建年代は不明ですが、和人の渡道とともに漁民たちが今の唐津あたりに伊勢の大麻を奉安して伊勢堂と称したのが始まりといわれます。その後、天正10年(1582)に蔵町(現福山)に移して神明社と改称、さらに承応元年(1652)、松前家9代高廣が現在地に遷宮して徳山大神宮と改称しました。本殿は一間神明造で、伊勢神宮に模して21年ごとに遷宮造営されていたそうです。
このすぐ西側の高台は中世の城館・大館跡ですが、この時はこの辺だろうと見当を付けたものの何も見つけられませんでした。(徳山大神宮のすぐ前に案内板があったのに翌年再訪するまで気が付きませんでした(^^;))
大神宮のすぐ北側の町民総合センター内に松前町郷土資料館があり、松前藩関係の資料も展示してありました。



【史 跡 名】ゴローウニン幽囚の地
【訪 問 日】2001年6月17日
【所 在 地】北海道松前郡松前町神明
【訪 問 記】
松前大館を見たあと、徳山大神宮の前まで戻ると、まだ時間があったので「ゴローウニン幽囚の地」まで行ってみることにしました。途中からは草が生い茂り、絶対一人で行っていたら引き返していたと思いますが、かなり奥の方に「ゴローウニン幽囚の地」と書かれた真新しい碑がありました。(昨年の「菜の花の沖」の放送で新しくしたものでしょうか?) その手前には大きな土塁状のものがあったので、その部分に柵でも建てて、遮断していたものと思われます。
これだけ奥地に、しかも土塁まで築いていたというところに当時の松前藩がゴローウニンのことをどれだけ恐れていたかというのがうかがえました。

(徳山大神宮からかなり奥に入ります)


【史 跡 名】(1)正行寺、(2)法華寺、(3)専念寺
【訪 問 日】2001年7月31日
【所 在 地】北海道松前郡松前町(1)(2)豊岡、(3)唐津
【訪 問 記】
この日の午前中は松前町の町史編集室に行って調べものをする予定でしたが、少し時間が早かったので今までいったことのない寺町以外のお寺に行ってみました。
まずは正行寺です。ここは松前家四世季廣の頃、毎年松前に来ていた淡路屋丹下という商人が永禄10年(1567)に建てたのに始まるそうです。松前における浄土宗の布教第1号で、京都知恩院の末寺になっているそうです。山門(鐘楼門)がなかなか見事です。
次に法華寺ですが、ここの開基には諸説があり、正応4年(1291)日蓮の六門弟の日持上人が海外布教のため渡道した折り上ノ国に一宇を建立したのを、享徳2年(1453)京都本満寺の僧日尋が松前に移して法華寺と名付けたとか、志苔館の館主小林氏の三代良治が志苔から松前に移った際に宇賀の浦にあった法華寺を祖先の墳墓ともども移したという寺伝もあり、いずれが真実かはなかなか難しいようです。ここの本堂は火災後、明治20年(1887)に再建されたものだそうですが、その彫刻がなかなか見事です。
最後の専念寺ですが、ここは天文2年(1533)、本願寺実如の弟兼俊の孫真徳が蝦夷地に渡り、松前家四世季廣に招かれ一寺を創立したのが始まりだそうです。その2年後に真徳が死亡したため、季廣の四男随良が養子となって、真勝と改名して二代目を継ぎ、慶長5年(1600)現在地に移転したそうです。現在はやや寂れた感はありますが、その山門や経蔵(?)はなかなか見事なものでした。








【史 跡 名】松前寺社町奉行所跡
【訪 問 日】2001年7月31日
【所 在 地】北海道松前郡松前町福山104
【訪 問 記】
松前町の町史編集室での調べものをしたあと、松前町役場の所まで行きますと、、その前に「松前奉行所跡」という碑を見つけました。ここは寺社町奉行所の跡地で、松前藩では寺社奉行と町奉行が職制上重なることが多く、寺社町奉行所または町奉行所、町役所と呼ばれていたそうで、昭和24年(1949)の火災まで、この奉行所が町役場庁舎として使われていたそうです。

(現・松前町役場)
【史 跡 名】トラピスト修道院(厳律シトー会灯台の聖母トラピスト修道院)
【訪 問 日】1998年5月5日
【所 在 地】北海道北斗市三ッ石392(旧上磯郡上磯町))
【訪 問 記】
高校時代の友人と道南方面を巡り、最終日の三日目はまず上磯のトラピスト修道院に行きました。正直なところ、私はたいして興味もなかったんですが、とてもきれいな建物でしたね。(中学の修学旅行で行ったことがあるような気がしますけど...)
この修道院は明治29年(1896)10月、フランスから来た数名の厳律シトー会の修道士が来道し、丸山の麓に木造平屋の白ペンキ塗りの建物を建てたのが始まりです。朝夕になる鐘の音から通称「がんがん寺」と呼ばれ、修道士たちは農耕と牧畜・酪農を中心とした自給自足の生活を行いました。
現在ではここで生産されるバター・クッキーなどは土産品として知られています。



(入口の柵のすき間から撮影しました(^^;))
【名 勝 名】盤ノ沢
【訪 問 日】2001年7月30日
【所 在 地】北海道北斗市(旧上磯郡上磯町)
【訪 問 記】
矢不来館・矢不来台場・茂別館を落合さんに案内していただいたあと、もう一つ上磯の名所に連れて行ってあげるといわれて行ったのがこの盤ノ沢でした。茂別館近くの茂辺地の集落から厚沢部に抜ける道道をしばらく進むと自然公園のような所があり、そこが盤ノ沢でした。茂辺地川の上流にあたると思うのですが、なんとも美しいところでした。


【史 跡 名】土方歳三激戦の地
【訪 問 日】2001年6月17日
【所 在 地】北海道北斗市中山(旧亀田郡大野町)
【訪 問 記】
FSIROの道南オフで上ノ国から江差を経由して函館に向かう途中、大野町の台場山の近くで見つけました。木の標柱に「史跡 箱館戦争 二股口 土方歳三激戦之地」と書いてありました。台場山には土方率いる旧幕府軍が守った二股口台場跡がありますが、時間のない中では、それは見つけられませんでした。


【史 跡 名】(1)旧北海道庁函館支庁舎、(2)箱館奉行所跡、(3)旧開拓使函館支庁書籍庫
【訪 問 日】1991年8月8日・2001年7月29日・2003年5月3日
【所 在 地】北海道函館市元町
【訪 問 記】
この時は大学時代の友人と一緒に函館・弘前旅行に行きました。まず初日は函館の元町近辺へ向かい、まず元町公園(旧箱館奉行所跡)に行き、そこにある旧北海道庁函館支庁舎を見ましたが、その時に初任校で一緒だった元同僚とばったり会い、ビックリしたことを憶えています(^^;) この庁舎は明治40年(1907)の大火の時消失し、その2年後に建てられたルネサンス風建築物です。(1991/8/8)

(後ろは旧函館区公会堂)
今回はひづめさんと城巡りする前日に時間があったので、元町周辺を巡りました。まず元町公園に行くとその植え込みの中に「箱館奉行所跡」という木柱を見つけました。箱館奉行所は幕府が蝦夷地を直轄した寛政~文政期(1799~1821)におかれ、後に松前藩の奉行所になりました。明治2(1869)年には開拓使本庁となり、それが札幌に移ると函館支庁、後に渡島支庁となりました。
公園内に残る旧北海道庁函館支庁舎と旧開拓使函館支庁書籍庫(ともに道文化財)はその名残です。(2001/7/29)





左は旧北海道庁函館支庁舎
嫁さんとの道南旅行の一日目、五稜郭・立待岬・碧血碑を巡ったあと元町公園に行きました。やはりこの旧函館支庁舎と書籍庫は絵になります。(2003/5/3)


【史 跡 名】(1)旧函館区公会堂、(2)ハリストス正教会、(3)元町カトリック教会
(4)聖ヨハネ教会、(5)中華会館、(6)旧イギリス領事館、(7)相馬株式会社
【訪 問 日】1991年8月8日・2001年7月29日・2003年5月3日&5日
【所 在 地】北海道函館市元町
【訪 問 記】
この時は大学時代の友人と一緒に函館・弘前旅行に行きました。まず初日は函館の元町近辺へ向かい、まず元町公園(旧箱館奉行所跡)に行き、そのあと、そのすぐ奥にある旧函館区公会堂に行きましたが、これはビザンチン様式をとり入れた木造2階建ての洋館ですが、妙に黄色の柱と白色の壁が目について違和感がありました(^^;)
そこから道なりに進むと函館ハリストス正教会復活聖堂が見えてきます。これは開港後、ロシア領事ゴスケヴィッチにより安政6年(1859)領事館の付属聖堂として建てられたものですが、ビザンツ史に興味を持っている私としては、心ひかれる建物でした。
そこからもう少し歩くと、元町カトリック教会(函館天主公教会)がありますが、これは安政6年(1859)に来日したフランス人宣教師メルメ・デ・カッションが建てた仮講堂が始まりで、今の建物は大正13年(1924)に完成しました。
またその近くには聖ヨハネ教会・東本願寺函館別院など宗教関係の建物が並んでおり、それを眺めるだけでもなかなか見物でした。
ただ、この時に持っていったカメラがちゃちなものだったので写真映りが悪かったのが残念です(弘前でも撮ったのにうまく写ってなかったものがあったし...(T_T)) (1991/8/8)
今回はひづめさんと城巡りをする前日に元町周辺を散策しました。元町公園のあとに行ったハリストス正教会は修復中でした(T_T)
それから中華会館は以前職場の職員旅行で行ったことがあるので二度目です。明治中期に華僑相互の親睦と商取引のために同徳堂三江公所を建てたのがその前身だそうで、内部には武神兼財神として商人に信仰の厚い関羽を祀る関帝廟があります。
それから旧イギリス領事館は外から眺めただけですが、現在は開港記念館として開港当時の様子を映像や模型で展示しているようです。(2001/7/29)
今回は嫁さんと一緒です。駐車場に車を止めると、まずは旧イギリス領事館に行きました。ここのショップで西洋のお城のトランプとイングランド・スコットランドの歴代国王のトランプを見つけたので買ってしまいました(^^;) そのあとは、元町公園にに行き、その背後の旧函館区公会堂を外から眺め、ハリストス正教会へと行きました。ここは2年前に修復中で入れなかったため、外からじっくりと眺めたあと中にも入ってきました。
そのあと聖ヨハネ教会を外から眺め、元町カトリック教会へ行きました。そのあとは、ロープウェイに乗り、函館山にのぼり、夜景を堪能してきました。(すごい人で込んでましたけど(^^;)) そしてロープウェイでまた下までおり元町公園まで戻ってくると、旧函館区公会堂がライトアップされていましたので、その写真も収めてきました。(2003/5/3)
そして旅行三日目、戸切地陣屋から戻ってくると時間がまだあったのでまた元町に行きました。まずは元町公園の方へ上っていくと旧イギリス領事館の道路を挟んで向かいの方にペリー提督の銅像を見つけました。
そのあと、初日に入らなかった旧函館区公会堂に行きました。中にはいると明治時代の鹿鳴館時代を思わせる雰囲気で、洋装の写真も撮らせてくれるようです。
そのあと近くの店でソフトクリームを食べたあと、この前とは反対の方に進み、中華会館を眺め、その向かいにあるちょっと怪しげな店(中国の物産がありました)をのぞき、相馬株式会社を眺めながら駐車場まで戻ってきました。(2003/5/5)























(現・開港記念館)





【史 跡 名】(1)市立函館図書館、(2)旧函館博物館
【訪 問 日】1997年8月8日
【所 在 地】北海道函館市青柳町
【訪 問 記】
これは初めての一人旅の時に行ったものです。この旅行は道南の史跡を回るのともう一つ市立函館図書館で松前藩関係の系図資料を漁るのが目的の一つでした。そこで、この日はまず朝から函館公園内にある図書館へと向かったのでした。市立函館図書館は蔵書17万冊のうち郷土資料が4万冊ともいわれ、北海道史に関する資料の宝庫です。蠣崎波響の『夷酋列像粉本』(道文化財)もここに収蔵されているそうです。
私がここで閲覧したのは『河野氏末松前家系譜録』『武田家譜』『松前家(蠣崎氏)之系圖』『明石系譜伝』などの松前藩関係の系図資料でしたが、なぜか『佐竹支流系図』というものまでありました(^^;) (これらの系図資料は当サイトの元ネタにもなっております)
この図書館の建物も洋館のようでなかなか雰囲気がいいので写真に収めてしまいました。そのあと公園内を歩いてみましたが、市立函館博物館がありました。時間がなかったので中には入りませんでしたが、すぐ近くにある旧函館博物館1号館・2号館はともに道文化財に指定されており、前者が明治12年(1879)、後者が明治17年(1884)建築の洋風建築で、日本最初の地方博物館だそうです。
これらを眺めたあと、駐車場まで戻り、今度は船見町方面へと向かいました。



(1号館なのか2号館なのかは憶えてません(^^;))

(1号館なのか2号館なのかは憶えてません(^^;))
【史 跡 名】(1)外人墓地、(2)高龍寺、(3)称名寺
【訪 問 日】1997年8月8日
【所 在 地】北海道函館市船見町
【訪 問 記】
函館公園から船見町方面へと移動し、まずは外人墓地へと行きました。ここにあるロシア人・プロテスタント系の墓地をあわせて通称「外人墓地」というそうですが、中国人墓地や南部藩陣屋詰め藩士の墓もあるそうです。
そのあと高龍寺へ。この寺は現存する函館最古の寺で、寛永10年(1633)の創建とされています。総ケヤキの山門は東北以北で最大のものと『北海道の歴史散歩』に書いてあったので期待していましたが、改修中で全体が見られず残念でした。
次に称名寺へ。この寺は正保元年(1644)の創建で高龍寺に次いで市内で2番目に古い寺だそうです。本堂裏の墓地には高田屋一族や福士成豊(日本で初めて気象観測を行った)の墓もあり、高田屋嘉兵衛の顕彰碑もありました。





高田屋嘉兵衛顕彰碑
【史 跡 名】土方歳三最期の地碑
【訪 問 日】1997年8月8日
【所 在 地】北海道函館市若松町
【訪 問 記】
船見町をあとにして函館駅前の近くまで戻ってきました。実は前日に夕食後ちょっとブラッと歩いていたらホテルから歩いて5,6分ぐらいのところに「土方歳三最期の地碑」を見つけたので、もう一度行ってみました。
「函館市総合福祉センター」というところの前庭の中にあったんですが、石碑の横に彼の写真が飾ってあって、花なども供えられていました。ただし、前日の夜は時期なので仕方ないんですけど、そのすぐ近くで盆踊りをしている人がゴサッっといたのには、笑っちゃいました(^^;)
そのあと五稜郭・四稜郭を見に行きました。



【名 勝 名】函館山
【訪 問 日】2001年6月17日
【所 在 地】北海道函館市函館山
【訪 問 記】
FSIROの道南オフで最後に訪れたのがこの函館山でした。ここには何度か来たことがありますが、いつ来ても眺めのいいところです。今回は天気も良く、津軽・下北方面と思われる陸地も見えました。本当ならば、夜景の時間までいたいところですが、飛行機やJRの時間もあるので、残念ながら帰路へとつきました。




【史 跡 名】トラピスチヌ修道院(天使園)
【訪 問 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市上湯川町346
【訪 問 記】
湯倉神社チャシから亀尾神社チャシへの移動の途中、近くにトラピスチヌ修道院があったので寄ってみました。
この修道院は明治26年(1893)、パリのミッション会司教ベルリオーズが70haの土地を購入し、孤児院を建てたのが始まりです、3年後、上磯町当別に男子修道院ができた時に孤児院を移し、そのあとに東フランスのウベグジ修道院から派遣された8人の修道女によりトラピスチヌ女子修道院が作られることになりました。
ぐるっと歩いていろいろな聖人の像や建物を眺めてきただけですが、観光客でいっぱいでしたね(^^;)

の建物

の建物

の建物

の建物

【史 跡 名】高田屋嘉兵衛像
【訪 問 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市元町
【訪 問 記】
この高田屋嘉兵衛の像は函館山の麓にある護国神社正面の坂の下にあります。昭和33年(1958)、開港100年を記念して建てられたもので、作者は梁川剛一です。その姿は文化10年(1813)ロシアの軍艦ディアナ号が箱館入港の時、役人の代理として活躍した様子を表したものだそうです。

【名 勝 名】立待岬
【訪 問 日】2003年5月3日
【所 在 地】北海道函館市住吉町
【訪 問 記】
道南旅行初日は五稜郭、中島三郎助父子最後の地碑を見たあと、立待岬へ行きました。駐車場に車を止めると岬からのきれいな眺めを楽しみました。左の方には函館の街が広がっています。岬からいま来た道を少し戻ると、岩に埋め込まれた与謝野寛・晶子夫妻の歌碑があります。与謝野寛・晶子は昭和6(1931)年に来函しましたが、昭和32(1957)年市立函館図書館の館長だった岡田健蔵の顕彰の意味も込めて建立されたものだそうです。
その歌碑からさらに少し戻って市営墓地のところまで戻ると、一番岬よりの方に石川啄木一族の墓があります。ここには啄木夫妻・両親・3人の子どもが眠っています。





【史 跡 名】碧血碑
【訪 問 日】2003年5月3日
【所 在 地】北海道函館市谷地頭町
【訪 問 記】
立待岬のあと、左側の山沿いの道をしばらく進むと、「この先約230m 碧血碑」という看板があり、そこから遊歩道を歩いていくと碧血碑にたどり着きます。この碑は高さ約8mのオベリスク型の石碑で、箱館戦争の後放置されていた旧幕府軍の兵士の死体を、侠客柳川熊吉と実行寺の住職が命がけで収容し、約800名が埋葬され、その七回忌にあたる明治8(1875)年5月に榎本武揚・大鳥圭介らが建立したものです。碧血碑の文字は大鳥圭介が書いたとされますが、異説もあるようです。



【史 跡 名】矢別ダム
【訪 問 日】2017年8月4日
【所 在 地】北海道函館市鉄山町
【ダム情報】河川名:汐泊川水系汐泊川、型式:重力式コンクリートダム、ゲート:ラジアルゲート×2門、完成年:1976年
【訪 問 記】
この日から三日間道南旅行へ行きました。札幌からJRの特急北斗に乗り、新函館北斗駅で降りた後レンタカーで移動し、まずは鹿部の道の駅へ。その後矢別ダムへと向かいました。
矢別ダムは南茅部から函館市街へと抜ける道道83号線の途中にありました。着いたのは午後でしたので、管理所への道路は閉まっていては入れませんでした。どうやらダム周辺は立入禁止になっているようです。ダムの横を通るトンネルを抜けた所に若干の駐車スペースがあったので、そこに車を停めて写真に問いましたが、ダムの全景は見ることができず残念でした。
ダムカードは函館市内の渡島総合振興局・函館建設管理部事業室事業課にていただきました。あとから考えると、この時にカードを下さったのは、ブギウギ専務の「ダムカード巡りの旅・道南編」で出てきた中村さんだったような気がします(^^;) (ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ)



【史 跡 名】笹流ダム
【訪 問 日】2017年8月4日
【所 在 地】北海道函館市陣川町
【ダム情報】河川名:亀田川水系笹流川、型式:バットレスダム、完成年:1923年
【訪 問 記】
この日から三日間道南旅行へ行きました。函館建設管理部事業室事業課にてダムカードをいただいたあと、市内の笹流ダムへと向かいました。車を停めたあと、ダムへ向かっていると係の方があと30分で駐車場が閉鎖になると教えて下さったので大急ぎで回りました。
このダムはブギウギ専務で見て以来、是非見たいと思っていたので念願が叶いました。正面から見たあと、右側の階段を登って天端へ上がり、ダム湖を見てから左側の階段から下りてぐるっと一回りして堪能しました。日本初のバットレスダムで、現在では全国に6基しかない貴重なダムを見ることができて良かったです。


(左側から)

(右側から)

(正面より)




【史 跡 名】新中野ダム・ダム公園
【訪 問 日】2017年8月4日
【所 在 地】北海道函館市亀田大森町1番地
【ダム情報】河川名:亀田川水系亀田川、型式:重力式コンクリートダム、ゲート:自然調節(ゲートレス)、完成年:1984年
【訪 問 記】
この日から三日間道南旅行へ行きました。笹流ダムのあとはその近くにある新中野ダムへ向かいました。ダムの下流手前にあるダム公園へと向かいますが、すでに駐車場は閉鎖されていたので道端に車を停めダム公園へ。
このダム公園には、道内の4つのダムの模型(ミニチュア)があります。まずはこの新中野ダム(重力式コンクリートダム)、次に笹流ダム(バットレス)、豊平峡ダム(アーチ式コンクリートダム)、大雪ダム(ロックフィルダム)とあって、どれも本物そっくりです。
ダム公園の奥に本物の新中野ダムがあります。とても高く大きく迫力があります。ダム名に「新」が付いているので、お気づきかもしれませんが、このダムは昭和35年(1960)に完成した中野ダムを21.9m嵩上げし、いろいろ改修したダムだそうです。(ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ)
これで道南の旅、一日目は終了です。



新中野ダムの模型

新中野ダムの説明板

笹流ダムの模型

笹流ダムの説明板

豊平峡ダムの模型

豊平峡ダムの説明板


【史 跡 名】函館市地域交流まちづくりセンター
【訪 問 日】2017年8月5日
【所 在 地】北海道函館市末広町4番19号
【訪 問 記】
この日の最後は函館市内に戻り、末広町にある函館市地域交流まちづくりセンターに行きました。なぜここに来たかというと、この建物はかつては丸井今井呉服店函館支店の店舗だったそうで、建物内に東北以北最古の手動エレベーターがあり、これに乗せてもらえるとのことだったので、行ってみました。大正12年創建という建物も階段もなかなか趣のあるものでした。窓口でお願いするとエレベータの場所まで案内して下さって、5階まで載せていただきました。
またここでマンホールカードもいただいたので、近くの鋪道にあるというカラーマンホールを探してみました。4種類の内3種類しか見つけられませんでしたが、まちづくりセンターの近くにある函館市企業局の玄関でカラーマンホールのパネルも見つけました。(マンホールカードは「趣味の部屋→マンホールカードのページ」へ)







カラーマンホール

カラーマンホール

カラーマンホール



【史 跡 名】鷲ノ木史跡公園
【訪 問 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道茅部郡森町鷲ノ木町
【訪 問 記】
今回の道南旅行最初の訪問先がこの鷲ノ木史跡公園です。ここは明治元(1868)年10月20日、旧幕府海軍副総裁榎本武揚率いる二千数百名の将兵が上陸した地で、茅部街道と砂原・川汲の二手に分かれて箱館に向かって進軍をはじめました。それを記念し「榎本武揚上陸記念碑」がJRの線路近くに立っており、鷲ノ木史跡公園となっています。記念碑から一段上がった所には鷲の木史蹟資料館が建っていますが、資料が展示してあるのは公園の入口に面したガラスケースだけで、中は普通の公民館のように使われているようです(^^;) くれぐれも訪れる方はだまされないように(をい(^^;))

(中央に立っているのが榎本武揚上陸記念碑)


【史 跡 名】門昌庵
【訪 問 日】1997年8月10日・2015年5月4日
【所 在 地】北海道二海郡八雲町熊石畳岩町(旧爾志郡熊石町字畳岩)
【訪 問 記】
この門昌庵は道南旅行の帰り道、日本海側の国道229号線を北上中に見つけたものです。門昌庵という名前に聞き覚えがありましたので立ち寄ってみました。なぜ聞き覚えがあったかというと、この門昌庵は松前藩に関わるある因縁話の舞台だったからです。
時は松前家10代矩廣の時代、この頃は藩主一族である蠣崎一族が鎬を削って権勢を争っていた時代でした。その頃松前家の菩提寺法幢寺の住職を務めていた柏巌峯樹和尚はその陰謀に巻き込まれ、奸臣たちに讒言され、延宝5年(1677)熊石に流刑となりました。柏巌和尚はこの地の地蔵堂を庵とし読経の日々を送っていましたが、ふたたび讒言によって延宝6年(1678)斬首されました。その時、川の水が勢いよく逆流し、突然の嵐になる等の変異が続き、祟りを恐れた藩は柏巌和尚の首を庵の側に手厚く葬りました。この庵は柏巌和尚の号をとって「門昌庵」と呼ばれ、以後松前藩は丁重に取り扱い、供養を続けたそうです。この事件を俗に「門昌庵事件」といいます。
門昌庵を見つけたときに、その山門の赤い色が鮮やかで目に付いたのですが、この山門は天正19年(1591)京都桃山御殿の裏門を5代慶廣が豊臣秀吉から賜ったもので、のちに14代章廣が門昌庵に寄進したものだそうです。(1997/8/10)




3年ぶりの道南旅行二日日、上ノ国の勝山館・花沢館のあとは、コンビニでお昼を買って昼食を済ませ、この日の午後は道の駅巡りです。江差を通り過ぎ、「ルート229元和台→てっくいランド大成」と回った後、国道229号線を江差方面に戻りました。午前中なんとかもっていた天気も雨降りとなりました。途中、旧熊石町の辺りを通っている時に門昌庵の前を通ったので、ちょっと寄って山門と本堂の写真を撮りました。見た感じ、18年前と変わらない感じでしたね。(2015/5/4)



