○上野新田郡120石 岩松家
○肥後米良無高 米良家
○三河長沢300石 松平(長沢)家
上記の三家は、「四州」に準ずる家として交代寄合に属していました。岩松家・米良家は四州と同じく中世以来の豪族の子孫で、岩松家は清和源氏新田氏の庶流、米良氏は肥後の菊池氏の庶流です。ただし米良氏は肥後人吉藩主相良家の付庸で、『寛政譜』にも記載がなく(相良氏の家譜に細字で簡単な記載有り)、「幕臣」とは言えない立場ですが、交代寄合四州に准ずる家格を有していました。
一方、長沢松平家は徳川家康以前の松平宗家から派生した松平庶家のひとつですが、江戸初期に改易となって以降細々と名跡を継ぎ、正式の幕臣となったのが江戸末期の安政6年で、その時に「四州」に準ずる扱いとされたようで、交代寄合の名前を挙げるときには数えられない場合もあります
第33回は、上野新田郡120石の岩松家です。


この岩松氏は足利義兼の長男義純から出ていますが、新田・足利両氏の中間に位置する一種特別な性格を備えていました。
義純は足利義兼の長男ですが、母が遊女だったので庶子とされ、父は従兄弟に当たる新田義兼の娘のもとに義純を入り婿させ新しく一家を興させました。こうして、血統的には足利氏だった義純は、新田党の一員となり、「岩松次郎」を名乗りました。
ところが、元久2年(1205)武蔵畠山の領主畠山重忠が北条義時に攻められ戦死すると、北条政子・義時の妹である故重忠の未亡人のもとに義純を再入婿させ畠山氏の名跡を継がせることとなりました。義純は結局この提案を受け入れ、新田義兼の娘岩松女子と離婚し、重忠の未亡人と再婚し「畠山三郎」と名乗りました。
義純が新田義兼の娘岩松女子と離婚すると、岩松女子との間に生まれた長男時兼・次男時朝は生母岩松女子のもとに残されたため、岩松女子の母で新田義兼の未亡人だった新田尼は彼らを哀れみ新田荘内の諸郷を分け与えられました。
その後新田氏惣領の新田政義が幕法違反で惣領職を没収された後は、新田氏惣領職は二分され、世良田義季・頼氏父子と岩松女子・時兼母子に与えられ新田一族内での岩松氏の地位は更に高まりました。
元弘3年(1333)年の新田義貞による鎌倉攻めに際して岩松経家は新田軍に属して功がありましたが、中先代の乱の際に討ち死にし、その後岩松一族は内部分裂を起こしました。分裂していた一族を統一したのは岩松直国でしたが、彼の系図上の位置は不明確ですが、どうやら経家の兄で出家し岩松禅師頼宥と称していたが、経家の戦死で還俗して直国を名乗り岩松氏の家督を継いだものと思われます。
以後岩松氏は足利氏に属し、没落していった新田宗家に代わり事実上の新田荘の領主となっていきました。直国の跡は長男満国が継ぎましたが、満国の跡は彼の妹と新田義貞の三男義宗との間にうまれた容辻王丸が継ぎ岩松満純を名乗りました。上杉禅秀の乱が起こると、満純は新田満純を名乗り新田党を糾合し、禅秀に呼応して挙兵しましたが敗れて斬罪となりました。満純の養父満国は家督を弟満親の孫土用安丸(持国)に譲り、鎌倉公方足利持氏に属しました。
持氏が幕府に背き永享の乱が起こると、満純の遺児長純(のち家純)は将軍義教に召し出されて幕府軍の将となり、戦功によって岩松氏の家督を回復し、岩松氏は持国の「京兆家」と家純の「礼部家」に分裂しました。その後、鎌倉公方足利成氏(持氏の子)が幕府と対立し、関東が古河公方足利成氏と堀越公方足利政知(将軍義政の弟)の両勢力に二分されると、礼部家は堀越公方側に付き、京兆家は古河公方側に通じたため両家の抗争となり、礼部家の家純は京兆家の持国・成兼父子を謀殺して岩松家を統一しました。
家純が新田荘を回復し金山城(太田市金山)に移り住みましたが、次第に老臣横瀬氏(新田義宗の三男貞氏の子孫)が勢力を伸張させ、享禄年間(1528-32)岩松尚純・昌純父子は横瀬泰繁に殺され、昌純の弟氏純が城主を継ぎましたが実権は横瀬(由良)氏が握っていました。その後氏純は自刃すると、その子守純は桐生郊外に隠棲しました。
小田原の役後、関東に徳川家康が入国すると守純は家康に面接しましたが、その応対が家康の意を得ず、わずか二十石を与えられたに過ぎませんでした。守純の孫秀純の時に岩松姓に戻り百石を加増され、交代寄合四州に準ずる扱いとなりました。
幕末の当主俊純は戊辰戦争に際し、上州で新田勤王党を結成して官軍に味方して戦い、その功績と新田義貞の末裔ということで男爵を授けられ新田姓に復し、その後現在に至っています。
第34回は、肥後米良無高の米良家です。


今回の米良家は、南朝の忠臣として知られる菊池氏にその祖を遡ります。
菊池氏の出自については、諸系図では関白藤原道隆の子権中納言隆家の曾孫大宰少監藤原則隆が肥後国菊池郡に土着して菊池氏を称したことに始まるとしていますが、どうやら則隆は隆家の子孫ではなく在地豪族で太宰府府官となっていたものが、太宰権帥として九州に赴任していた隆家の郎党となり、その出自を隆家につないだというのが最近の通説のようです。
則隆の父とされる政則も、刀伊入寇を防いだ際の活躍が知られる藤原蔵規であるようです。
その後菊池氏は、菊池郡を中心にその勢力を広げ、源平合戦の際には六代隆直が九州を代表する部将として登場し、壇ノ浦まで平家に協力したため、その所領を鎌倉幕府によって大きく削られました。十代武房は蒙古襲来の際に活躍しましたが、元寇以後関東御家人の九州下向が促進され、菊池氏の権益が更に圧迫されたようです。
後醍醐天皇による反幕府の運動が展開されると、菊池氏は九州における南朝の柱として活躍し、武光の頃には九州全域にその勢力を誇りました。しかし今川了俊(貞世)に太宰府を攻略され、武光が没すると、息子の武政、更に孫の武朝は本拠の菊池に引き上げ、更に本拠の菊池も失いました。明徳三年(1392)南北朝が合一すると武朝は本拠の菊池に還り、持朝の代には親幕府政策を取り安定期を迎えました。
しかし、為邦の代以降は、為邦の次男武邦が兵を挙げたり、宇土為光が甥重朝に叛乱を起こすなどし、次第に衰退の色を濃くしていきました。
重朝の子能運は宇土為光を擁する一派との戦いに敗れ、一時肥前島原に逃れましたが、老臣に迎えられ為光軍を大破し本拠隈府を回復しました。しかし能運は戦傷がもとで死去し、為邦の弟為安の孫政朝が跡を継ぎ政隆と改めました。
こんな菊池氏の衰退を見た阿蘇大宮司惟長は大友氏の勢力を背景に菊池家臣団に働きかけ、政隆を当主の座から追い出し、名を武経と改め家督を継ぎました。しかし武経も大友氏の圧迫と家臣団の反抗に耐え切れず阿蘇に帰り、家臣団は菊池の庶流の武包を迎え当主としました。ですが、また大友氏の工作により武包は逐われ大友義鑑の弟義武(重治・義宗)を当主としました。
義武は甥大友義鎮の兵に攻められ肥前に逃れ、のち自刃しついに菊池氏正統は絶えてしまいました。
しかし能運の子重為の子孫という重次が日向米良に入り米良氏を称したと言われています。米良氏は肥後人吉藩主相良家の付庸で、『寛政譜』にも記載がなく(相良氏の家譜に細字で簡単な記載有り)、「幕臣」とは言えない立場ですが、参府拝謁をし献上品を呈し、お暇に拝領品を与えられる資格を有していたので、岩松家と同じく交代寄合四州に准ずる家格を有していたといえるでしょう。
幕末の当主則忠は勤王の行動を起こし、維新後菊池氏を名乗り、子武臣の時に男爵を授けられ、華族に列しました。
※米良氏の系図、及び菊池義武の子孫についてはぴえーるさんより情報を頂きました。どうもありがとうございます。
第35回は、上野新田郡120石の松平(長沢)家です。

長沢松平家は十四松平とも十八松平ともいわれる松平宗家から派生した松平支流の一つです。嫡流が絶家した後、家名が絶えるのを惜しんで跡を継がせた家康の子上総介忠輝と、長沢松平庶流の養子であった伯父正綱の養子となった松平伊豆守信綱の二人が知られている程度でしょう。(但し信綱の子孫は、その本姓から「大河内松平」と呼ばれるのが普通ですが)
古い三河時代のことは不明なことが多いですが、長沢松平の祖・親則もその出自がはっきりせず、宗家三代信光の長男とも八男とも弟とも云われています。三河国宝飯郡長沢に城を築き代々本拠としたため「長沢松平」と称し、宗家の清康・広忠・家康の三代の頃は重縁で結ばれ、松平支流の中でも有力な家と目されていました。
七代政忠の妻は清康の娘薄井姫(政忠討死後は酒井忠次に再嫁する)、八代康忠の妻は広忠の娘矢田姫であり、他の支流に比して重視されていたのは言うまでもありません。しかしここまでが頂点で、政忠は桶狭間で戦死、康忠も家康の長男岡崎三郎信康の家老となるも、信康自刃により家康の勘気を受け、隠居後京都に閑居して終わっています。次の康直は家康の甥に当たり、関東入国後、武蔵深谷一万石を与えられましたが、25歳で若死し無嗣絶家となってしまいました。
そこで家康は長沢松平の名跡を惜しみ、子息松千代・上総介忠輝にその名跡を継がせましたが、忠輝は父家康の勘気を蒙り改易絶家となり、長沢松平の名跡も絶え、わずかに旗本に七家が残るのみとなってしまいました。
しかしこの長沢松平の名跡を継ぐ家が実は残っていたのでした。康直若死後、父康忠は京都に閑居していましたが、娘と支族松平忠直との間に出来た孫・市郎右衛門直信を自分の養子に直し、先祖代々の品・宗家よりの文書・拝領品と隠居の遺跡を譲り渡して、嫡流の直系が一応存続することができたのでした。
その後、親類の大名・旗本の世話になりながら、江戸と三河の在所を往復し、たびたび将軍家に御家再興の願いを出していましたが埒が明かず、享保4年、当主昌興の息子親孝が申上書を大手前に捨てるという捨て身の手段によって幕府も取り上げざるを得ず、ようやく長沢松平家筋目の家と認知されました。
認知された後は、五年に一度参府し、献上品を呈し帝鑑間にて御目見をを申上るとされ、一応幕臣扱いとなっていたようですが、家禄を与えられた訳ではありませんでした。幕府も中根村十一町歩の芝地(後に先祖の地長沢村に換地)を与え、田畑の開発居宅の費用白銀百枚を与えましたが、家禄のない不安定な状態であったようです。
天保5年、忠道の時にはやっと十人扶持が下され、弟忠敏が講武所に出役し、安政6年には切米三百俵と増額され、正式の幕臣となり交代寄合四州に準ずる扱いとなったようです。慶応2年には三百石の采地に直され、維新を迎えました。
幕末の当主忠道の弟忠敏は文武両道の俊英で、講武所の剣術教授方に任じられ、歌道は勝海舟も忠敏に教えを受けた実話があるそうです。その後、講武所師範役並・浪士取扱・新徴組支配を務めましたが、通称を主税助から先祖忠輝と同様の上総介に改めるなどし、長沢松平の宗家であること、松平忠輝の末裔であることをかなり意識していたようです。
諏訪忠輝会『松平忠輝』(信濃民友社)によると、「忠輝には、女の子があった事は事実で、その子女は、長沢松平家十一代の当主直信に嫁して、十二代昌興を産んでいる」と記されており、私がこの項をまとめるのに参考にした「長沢松平家小史」(小川恭一、『姓氏と家紋』第60号所載)に載っている長沢松平家の系図にも直信の後室は「鈴木太郎大夫養女(家譜に実上総介忠輝女とあり)」と書かれていますので、これが事実だとすると忠敏はまさに忠輝の血を引いた末裔であることになります。そうすると忠敏が松平忠輝の末裔であることを意識していたというのも、うなずける話です。
忠敏は、その後長沢松平家の復興を願い、講武所での職を擲ち、尾張殿の手に属し征長軍に身を投じましたが、望みを果たせず、維新後は歌道に明るい人として宮内省に出仕したとのことです。
忠敏の跡は兄忠道の子・忠徳が跡を継ぎその子孫は地元長沢に今も在住しているとのことです。
