【城 跡 名】トニカチャシ
【訪 城 日】1999年11月3日・2011年10月9日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町字富浜542(旧沙流郡門別町)
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状2条
【訪 城 記】
門別町の富川で沙流川を渡り、しばらくすると右側に「日高ケンタッキーファーム」への道と反対の海岸の方へと進む道があります。そこを進むと左側に採石場がありその裏手すぐの小台地上にトニカチャシはあります。丁度道路の方へまっすぐ突き出すように伸びる舌状台地の先端部がそれですが、極めて小規模ながら2条の壕があるそうです。
最初このチャシの場所を見つけられずあっちに行ったりこっちに行ったりしていましたが、『北海道のチャシ』の地図を頼りに探したら、採石場の向こう側に低い舌状台地を見つけることができたので、これだと思いました。でも、ダンプが採石場を出入りしていましたし、前から行くには採石場がジャマをし、背後から回る道もなさそうでしたので結局遠景写真だけを撮って次へと進みました。
『北海道の歴史散歩』(山川出版社)によるとこのチャシの近くの台地上には門別富仁家盛土墳墓群(道史跡)があるそうで、この墳墓群はこの舌状台地全域に広がり、副葬品として縄文期から続縄文期にかけての土器、石器、琥珀製の玉などが出土しているそうです。また、島田健一氏の「沙流川河口付近のチャシコッについて」(『北海道チャシ学会会報No.29(1990)』所収)によると、墳墓発掘当時(昭和35年・1960年)から壕が判明していたが、地形が余りに小さいため墓地に付属したものとして考え、昭和52年(1977)に藤本英夫氏がチャシであると確認し、昭和59年(1984)全面発掘されたそうです。(1999/11/3)

(採石場があって近づけませんでした...)
この日も、道の駅とチャシの旅に行ってきました。翌月初めにお城仲間とこちら方面のチャシを巡る予定なので、その下見を兼ねて行ってきました。
むかわの道の駅に寄ったあと穂別方面に行く予定でしたが、時間に余裕がありそうなので、日高町門別地区のチャシを探してみることにしました。(結果的には、ほとんど場所確認で終わりましたが(^^;))
まずはトニカチャシです。ここは以前も来たことがあり、ここじゃないかという場所も確認していたのですが、採石場の向こう側なので遠慮してそれ以上近づかなかったのですが、今回行って、少し横から見てみると標柱らしき物が見えたので、近づいて確認してみました。すると「北海道指定史跡 門別富仁家墳墓群」と書かれ、その先に階段が見えました。確かトニカチャシはこの墳墓群の近くだったはずと思い階段を上ってみると、草が刈られてはいるものの平らな土地が広がっているだけでした。結局チャシの場所はよくわからなかったので遠景の写真を撮りましたすが、後から資料を見なおしてみると、どうもその端の細長い台地の先のようでした。(ちゃんと資料を確認しなくちゃダメですね(^^;)) (2011/10/9)

(東側から)

(南側から)
【城 跡 名】アッペツチャシ
【訪 城 日】1999年11月13日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町字正和49-1ほか(旧沙流郡門別町)
【創建年代】17世紀
【創 建 者】オニビシの姉(ウトウの妻)
【形 態】丘頂式
【主な遺構】空壕:基部に直壕1条、先端を巡る弧状の壕2条
【歴史・沿革】
アッペツチャシは、寛文九年のシャクシャインの戦いに関係あるチャシといわれています。シャクシャインと対立抗争したハエの首長オニビシの姉はサルの首長ウトウの妻となっていましたが、オニビシがシャクシャインに敗れ討たれると、ウトウと離縁しハエに向かったが、オニビシのチャシは痛んでいたため、その地よりさらに上流のアツヘシに要害を作りました。シャクシャイン側の一度目の襲撃は撃退しましたが、二度目の戦いに敗れ、ウトウ妻は逃げ遅れて殺され、ハエ側の勢力は一気に衰退してしまったということが、『津軽一統志』に書かれています。
【訪 城 記】
鵡川町をあとにして、次はアッペツチャシへと向かいました。平取から門別町の広富、さらに正和へと抜け、さらに南の新冠町新和地区を抜けると右側に厚別川が道路のすぐ近くまで迫ってくるところがあり、右側に「国指定史跡アッペツチャシ」の標柱を発見しました。
アッペツチャシは厚別川右岸にあり、標高120mほどもあるかなり大きなチャシです。高さではシャクシャイン側のシベチャリチャシに匹敵するでしょう。標柱の所から対岸を見るといくつか山が見えますが、その真ん中当たりに頂上付近に壕らしきものが見える山があります。たぶんあれがアッペツチャシだと思います。『日本城郭大系』にも写真が出ていますが、白黒ですし少し分かりづらいので、まちがいなくあれだとは言い切れないのですが(^^;)
標柱の所から川にむかって道が付いていたので行けるのかなと思って歩いてみましたが、川原まで出たところでおしまいで、さすがに対岸には渡れませんでした(^^;)
『日本城郭大系』には五条の壕がめぐらされているとありますが、『北海道のチャシ』には「基部に直壕1条、先端をめぐる壕2条」と書いてあり、実測図でもそうなっているのでたぶん何かの勘違いなのでしょう。
直接遺構を見られなかったのは残念ですが、以前見つけられなかったアッペツチャシを見つけ満足して次へと進みました。

(手前は厚別川)

(壕跡らしきものが...)

【城 跡 名】エサントンニチャシ(エサントニカチャシ?)
【訪 城 日】2011年10月9日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町字富浜164-4(旧沙流郡門別町)
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:馬蹄状1条
【訪 城 記】
この日も、道の駅とチャシの旅に行ってきました。むかわの道の駅に寄ったあと穂別方面に行く予定でしたが、時間に余裕がありそうなので、日高町門別地区のチャシを探してみることにしました。(結果的には、ほとんど場所確認で終わりましたが(^^;))
まずトニカチャシに行ったあと、その南の方にあるエサントンニチャシを探してみることにしました。トニカチャシから南に進み、少し行ったところで左に曲がると牧場がありかわいい馬が何頭か遊んでいました。その南側に見える舌状台地がエサントンニチャシのようです。
島田健一氏の「沙流川河口付近のチャシコッについて」(『北海道チャシ学会会報No.29(1990)』所収)によると、記録も伝承も全くなく地名調査の折に偶然発見されたものだそうです。後方にある壕が馬蹄形でチャシ全体を取り巻いていて、かつてはこの近くを沙流川本流が流れていたようです。

【城 跡 名】ピスンチャシ(ウェンチャシ)
【訪 城 日】2011年10月9日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町富川西12丁目69-100・101(旧沙流郡門別町)
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:馬蹄状1条
【訪 城 記】
この日も、道の駅とチャシの旅に行ってきました。むかわの道の駅に寄ったあと穂別方面に行く予定でしたが、時間に余裕がありそうなので、日高町門別地区のチャシを探してみることにしました。(結果的には、ほとんど場所確認で終わりましたが(^^;))
まずトニカチャシ・エサントンニチャシに行ったあと、沙流川橋を渡って対岸に戻り、南に向かいました。海に近い線路沿いの辺りのようで、堤防上の道を走っていくと海に面した台地が見えてきました。線路をはさんだ裏山がピスンチャシで、それより海側260mのところにピロレトフチャシがあります。線路の向こう側でしたので、全景を眺めただけでした。
島田健一氏の「沙流川河口付近のチャシコッについて」(『北海道チャシ学会会報No.29(1990)』所収)によると、大正2年(1913)の鉄道工事で先端数mが削られているそうです。後背地の広大な台地からわずかに突出した尾根の先端よりおよそ35m余の所に馬蹄状の壕1条があるそうです。

【城 跡 名】ピロレトフチャシ
【訪 城 日】2011年10月9日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町富川西12丁目69-100・101(旧沙流郡門別町)
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:馬蹄状1条
【訪 城 記】
この日も、道の駅とチャシの旅に行ってきました。むかわの道の駅に寄ったあと穂別方面に行く予定でしたが、時間に余裕がありそうなので、日高町門別地区のチャシを探してみることにしました。(結果的には、ほとんど場所確認で終わりましたが(^^;))
まずトニカチャシ・エサントンニチャシに行ったあと、沙流川橋を渡って対岸に戻り、南に向かいました。海に近い線路沿いの辺りのようで、堤防上の道を走っていくと海に面した台地が見えてきました。線路をはさんで裏山があり、右側がピスンチャシ、左側の海側がピロレトフチャシのようでした。線路をはさんでいるので、全景を眺めただけで次に進みました。
島田健一氏の「沙流川河口付近のチャシコッについて」(『北海道チャシ学会会報No.29(1990)』所収)によると、大正2年(1913)の鉄道工事でこのチャシの中央部を幅20m余横断二分し、先端部分が孤山として10m余川岸に残っています。この部分をあわせると壕から先端まで50m以上はあったようです。後方にある壕は幅3m、深さ2m、長さ30m余あるそうです。

【城 跡 名】キムンチャシ(ピタルパチャシ)
【訪 城 日】2011年10月9日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町富川北4丁目158-1・2(旧沙流郡門別町)
【形 態】丘頂式
【主な遺構】空壕:弧状3条、直状1条
【訪 城 記】
この日も、道の駅とチャシの旅に行ってきました。むかわの道の駅に寄ったあと穂別方面に行く予定でしたが、時間に余裕がありそうなので、日高町門別地区のチャシを探してみることにしました。(結果的には、ほとんど場所確認で終わりましたが(^^;))
まずトニカチャシ・エサントンニチャシ・ピスンチャシ・ピロレトフチャシに行ったあと、キムンチャシに向かいました。国道235号線の北側にあるAコープの裏山がキムンチャシのようです。全景を写真に収めただけで次に進みました。
島田健一氏の「沙流川河口付近のチャシコッについて」(『北海道チャシ学会会報No.29(1990)』所収)によると、「2本の小さい川に挟まれた幅3m余の細長い60mくらいの低い痩尾根の突端に椀を伏せた形の丘頂式のチャシで、後方に壕1本、壕より丘頂までの高さ4m余、前面に半ば埋もれた壕跡3本が丘頂を囲んでいる。」という状況のようです。当初地名を取ってピタルパと名付けたが、後に古老にキムンチャシと教えられたとのことです。

【城 跡 名】エショロカンチャシ(エソロカンチャシ)
【訪 城 日】2011年10月9日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町字平賀657-1(旧沙流郡門別町)
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:直状1条
【訪 城 記】
この日も、道の駅とチャシの旅に行ってきました。むかわの道の駅に寄ったあと穂別方面に行く予定でしたが、時間に余裕がありそうなので、日高町門別地区のチャシを探してみることにしました。(結果的には、ほとんど場所確認で終わりましたが(^^;))
まずトニカチャシ・エサントンニチャシ・ピスンチャシ・ピロレトフチャシ・キムンチャシに行ったあと、エショロカンチャシに向かいました。国道237号線と並行して走るキムンチャシの前の道を北へ進み、日高道を越えた辺りにある細長い尾根の先端がエショロカンチャシのようです。これまた全景を眺めただけで先に進みました。
島田健一氏の「沙流川河口付近のチャシコッについて」(『北海道チャシ学会会報No.29(1990)』所収)によると、「海岸より4kmの右岸の大きな沢2本に挟まれ、中央に突出した約200mの細長い尾根の先端にある。三方は深い谷になり60mの高さがある。前斜面の小さい尾根2本に各々壕があり、先端より60m後方に幅2m、長さ40mの直線の壕が1本ある。」という状況のようで、旧門別町内では最大規模のチャシのようです。

【城 跡 名】ピポクチャシ(新冠判官館・判官館チャシ)
【訪 城 日】1999年5月22日・2022年4月30日
【所 在 地】北海道新冠郡新冠町字高江489-2
【形 態】丘先式
【主な遺構】?(壕は無し)
【訪 城 記】
静内をあとにして、国号235号線を北上して新冠町へと向かいました。新冠市街地を過ぎ判官館森林公園という大きな標示の所で曲がり、坂道を上りきるとキャンプ場やフィールドアスレチックなどのスポーツ施設のある判官館森林公園があります。この公園の遊歩道を南へ向かって歩いていくと太平洋に臨む判官岬の展望台に出ます。そこが判官館ともいわれるピポクチャシです。
判官館という名前で想像できるように、ここは源義経が日高に最初に渡って居住した館の跡だという伝説や、村を守ってくれる黒狐の神(カムイ)の住むポロヌプリ(大山)で祭場であるというアイヌ伝承があります。
このチャシは太平洋に面する急崖の上にあり、眼下に新冠川・新冠の町・太平洋が広がっています。そういう点では静内のシベチャリのチャシと立地条件は似ているでしょうか。崖の先端部分に見られる壕状のものは、人工的なものではなく自然地形だそうです。展望台からこの壕というか窪みをつたって崖の先端部分に渡ることのできる遊歩道がありますが、崖の崩落があったのでしょう、ロープが張ってあり立入禁止になってました。立入禁止になっていないとしても、あそこを渡っていくのはちょっと度胸がいりそうです(^^;)
崖の所々にある窪みは、源義経が馬で駆け登ったときの蹄の跡であるという伝承があるそうですが、ものすごく急で、鵯越をした義経でもそうそう馬で駆け登れそうには思えません(^^;)
1669年のシャクシャインの戦いの際、シャクシャインがこのピポクの浜で松前藩に謀殺されたそうです。(1999/5/22)




むかわ穂別のチャシを巡って新冠の道の駅で昼食を食べ、道の駅に寄った後となりのレ・コード館にはじめて行ってみました。展望台に上ると周囲を見渡すことができ、ピポクチャシ(判官館)も全景が見えたので、写真を撮ってみました。
(2022/4/30)


【城 跡 名】氷川神社チャシ
【訪 城 日】1999年11月13日
【所 在 地】北海道新冠郡新冠町字東町1
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:周壕?1条
【訪 城 記】
新冠町には以前訪れたピポクチャシの他に、氷川神社チャシというのがあります。新冠の町はずれの海に面した南に延びる台地上に位置しますが、現在ここにはその名の通り氷川神社という神社があり、この神社の境内の整地工事でチャシの遺構は消滅したそうです。昭和49年(1974)に発掘調査をしたそうですが、すでに破壊されたあとだったようです。
かつては台地の先端部を大きく一巡する壕があったそうですが、今は全くその面影はなく、かろうじて境内にある「先住民遺跡発掘慰霊之碑」という碑が往時を偲ばせるものとなっています。

「先住民遺跡発掘慰霊之碑」

【城 跡 名】万世チャシ
【訪 城 日】2012年10月13日
【所 在 地】北海道新冠郡新冠町字万世165-10
【形 態】面崖式か丘先式
【主な遺構】空壕:直状1条、弧状1条?
【訪 城 記】
この日は、日高方面の道の駅&チャシ巡りに行きました。まずは新冠の道の駅に向かい、ハイセイコーの銅像他とご対面。昼食を取ったあと、万世チャシへと向かいました。ここは新冠川とアクマップ川の合流する地点にあり、周辺にはほかにアクマップチャシ、明和1号・2号チャシと4つのチャシが集まっています。周辺を探索すると写真1の地点が万世チャシのようでした。左側に登る道があったので登ってみると、民家らしきものがありましたので、それ以上奥は探索せず、遠景のみ撮影しました。
『北海道開拓記念館調査報告 第49号』(2010年)に載っている地形測量調査報告によると、万世チャシには平坦面1ヶ所、壕1ヶ所、壕の痕跡1ヶ所の遺構が確認されたようです。壕は長さ約7.1m、幅3.2~4.5m、深さ0.5~0.9mあり、壕の痕跡は長さ約6.1m、幅1.5~1.6m、深さ0.1~0.2mで、本来は弧状壕と直状壕の二重の壕がめぐっており、その間に広い平坦面があったと推定されますが、整地されてしまっています。また、崖面と直状壕の間にも平坦面がありますが、崖面の崩落により本来の形状より約2/3が失われているようです。

【城 跡 名】アクマップチャシ
【訪 城 日】2012年10月13日
【所 在 地】北海道新冠郡新冠町字明和160-1
【形 態】?
【主な遺構】?
【訪 城 記】
この日は、日高方面の道の駅&チャシ巡りに行きました。まずは新冠の道の駅に向かい、ハイセイコーの銅像他とご対面。昼食を取ったあと、万世チャシへと向かいました。ここは新冠川とアクマップ川の合流する地点にあり、周辺にはほかにアクマップチャシ、明和1号・2号チャシと4つのチャシが集まっています。
アクマップチャシは、その合流地点に突き出るように伸びている部分にありますが、万世チャシ側(南側)から写真を撮ってみました。詳しい資料がないので形態や主な遺構もよくわかりませんが、チャシの裏側の牧草地側からなら近づけたのかも知れません。(時間もないのでそこまでしませんでしたが…)

(正面の森の少し奥がチャシのようです。)
【城 跡 名】明和1号チャシ・明和2号チャシ
【訪 城 日】2012年10月13日
【所 在 地】北海道新冠郡新冠町字明和160-2,字万世165-1・2
【形 態】面崖式
【主な遺構】空壕:弧状各1条
【訪 城 記】
この日は、日高方面の道の駅&チャシ巡りに行きました。まずは新冠の道の駅に向かい、ハイセイコーの銅像他とご対面。昼食を取ったあと、万世チャシへと向かいました。ここは新冠川とアクマップ川の合流する地点にあり、周辺にはほかにアクマップチャシ、明和1号・2号チャシと4つのチャシが集まっています。
明和チャシはアクマップチャシの北側に位置するようですが、対岸の牧草地側からこの辺じゃないかと思われる地点の写真を撮るのが精一杯でした。北側にある牧草地側から行けば近づくことができたのかも知れませんが。
『北海道開拓記念館調査報告 第49号』(2010年)に載っている地形測量調査報告によると、明和チャシは新冠川に面した河岸段丘の南西側の崖に面して築造されており、北側の1号チャシ、南側の2号チャシと二つ並んで築造されているそうです。1号チャシには、人工的に整地された平坦面と長さ約28m、幅3~4m、深さ0.6~1.4mの弧状壕があり、平坦面の壕に接する側に高さ0.5m、長さ約19m、幅3~4mの土塁上の高まりがあり、弧状壕には内土塁と外土塁が存在した可能性が高いそうです。
また2号チャシにも、人工的に整地された平坦面と長さ約21m、幅3~4m、深さ0.5~1.6mの弧状壕があり、1号チャシと同じく平坦面の壕に接する側に高さ0.2~0.4m、長さ約12m、幅2~3mの土塁上の高まりがあり、弧状壕には内土塁が存在した可能性が高いそうです。

(この牧草地の奥の川を越えた辺りにあるようですが、近づけませんでした。)
