宮城県(18)
仙台城(仙台市)

【城 跡 名】仙台城(青葉城、千代城)
【訪 城 日】1988年5月4日、1989年5月3日、2000年5月4日、2002年8月14日
【所 在 地】宮城県仙台市青葉山
【創建年代】慶長8年(1603)
【創 建 者】伊達政宗
【主な遺構】石垣、堀、多聞塀など(隅櫓は復元)
【歴史・沿革】
 伊達政宗は天正19年(1591)に葛西・大崎氏の旧領に移封されると、一旦は玉造郡の岩出山城に入ったが、早くより移城の志があり、関ヶ原合戦が終わった慶長5年(1600)12月に縄張りが行われ、同7年(1602)5月に完成、同8年(1603)8月には家中の移転が終わりました。仙台城は天然の地形を利用した無類の要害でしたが、平和な時代には軍政兼備の平山城の方が便利となり、二代忠宗の時には二の丸が北麓に増築され、山頂の本丸から居館を移しています。本丸内の小山は天守台と呼ばれ、五層の天守を築く予定とされましたが、幕府への配慮からついに建設せず、三層櫓を4基構え、さらにさらに本丸御書院の御殿の一部を掛け造り(出書院)にし、天守代用としました。二の丸正門の大手門は明治以降も残っていました昭和20年の空襲で失われました。現在は隅櫓も復元され、市民や観光客に親しまれています。
【訪 城 記】
 仙台城には2度訪城しています。1度目は88年、高校時代の友人とのはじめての東北旅行の時です。この時は渋滞で予定より仙台に着くのが遅くなり、瑞鳳殿を見ている頃にはすでに暗くなり始め、仙台城に着いた頃にはすっかり暗くなっていました。
 そこで翌89年の旅行の際には、しっかり時間をとり本丸を散策したり、旧三の丸の仙台市立博物館を見学したりしました。遺構があまり残っていないのが残念ですが、さすが62万石の城下町の雰囲気はなかなかのものでした。
 今度機会があれば、復元された白石城や、岩出山涌谷などの要害巡りもしてみたいですね。(1988/5/4・1989/5/3)


 仙台城には11年ぶりの訪城となりました。ホテルを出てお城の方面に行くと交通規制をしていましたが、慣れない道で結局一方通行にはまって戻れなくなり、ぐるっと大回りして時間をロスしてしまいました(せっかく早めにホテルを出たのに(T_T))
 やっと無料駐車場に車を入れたと思ったら、今度はシャトルバスが満員で乗れない...(T_T) 3台ぐらい行き過ぎてから、係の方が無理して載せてくれてやっとお城方面へ出発しました。
 バスを埋門跡で降りてやっとお城巡りの開始です。本丸の雰囲気は以前とそんなに変わらず相変わらす観光地という感じでした(^^;) そして、青葉城資料展示館で本丸大広間を再現したというCG映像を見ましたが、まあなかなか綺麗なものでした。
 そのあと本丸跡の遺構を見ようと思ったのですが、よくわからず詰ノ門跡まで来て脇櫓跡の石垣を発見、きれいな石垣でした。そこから右側にずっと道路沿いに石垣が伸びていますが、これもとてもきれいでしたね。車がよく通るのでなかなかシャッターチャンスが捕らえられず苦労しました(^^;)
 左側の方は本丸石垣の修復をしていましたが、早く修復が終わってほしいですね。
 その後は道なりに降りていき途中から三の丸跡(現博物館)へ抜ける道へと折れました。すると、低い石垣を発見しました。仙台市内の本屋で買った『仙台城歴史散策』(宮城文化協会)という本に「追廻口」の石垣と載っていたのがこの石垣のようです。
 そこからまたしばらく歩くと高さ2~3mほどの立派な石垣がありました。三の丸清水門跡です。ここの石垣もきれいに残っていますが、詰ノ門跡の石垣が切込みはぎだったのに対し、ここの石垣は打込みはぎでした。そのあと博物館まで行ってそこの資料室でちょっと歴史・城関係の資料を眺めた後、博物館の入口の方へ行きました。ここは子ノ門跡だそうです。そのあと、再び元来た方に戻り巽門跡に来ると低い石垣がありました。
 そこから再び来た道を戻り、大手の方に下っていく道を再び進みました。しばらくすると寅ノ門跡がありましたが、ここは道路を挟んで片側は切込みはぎ、もう片方は打込みはぎ(?)と石垣の積み方が違いました。
 そこからさらに下っていくと大手門跡で、左の方には石がたくさんならべてありましたが、修復中の石垣の石だったのでしょうか? 大手門跡付近には復元された隅櫓と道路を挟んで土塀&石垣があります。この土塀の方から隅櫓を眺めるとなかなか美しいです(^^)
 そこから、左に進み無料駐車場の方へ戻ってきましたが、そのすぐ近くに「二の丸扇坂登城口」という案内板がありました。それによると大手門は藩主の出入りと式日にしか使わず、普段はここから登城したようです。
 以前来た時には、本丸跡の神社と騎馬像、それに大手門の復元隅櫓ぐらいしか見ていませんでしたが、意外と遺構が残っているなあと感じました。(清水門跡の石垣が一番良かったです) (2000/5/4)


 2年ぶりの訪城は嫁さんと一緒です(^^;) 朝、仙台のホテルを出発するとまずは青葉城跡へ。ここに来るのは2年ぶりですが、まだまだ工事は続いてますね。政宗公の銅像の前で写真を撮ったりしたあと、見るとその裏の方で工事の様子を上から見ることができるようになっていました。見ると、石垣を積んでいる途中の様子が見ることができました。また、政宗公の銅像の近くにあるプレハブの建物の中では、工事の様子をパネルなどで展示していました。
 そのあと、例の資料館でCGを見たりした後、瑞鳳殿へ向かいました。(2002/8/14)

大衡城(大衡村)

【城 跡 名】大衡城(越路城、塩浪館)
【訪 城 日】2000年5月3日
【所 在 地】宮城県黒川郡大衡村大衡字塩浪地内
【創建年代】天文13年(1544)
【創 建 者】大衡治部大輔宗氏
【主な遺構】段築、門路
【歴史・沿革】
 城跡にある案内板によると、下草城主黒川下総守景氏の次子、大衡治部大輔宗氏が天文13年(1544)に築城し、黒川領の北方の鎮に在ったが、天正18年(1590)子氏胤の時、豊臣秀吉の奥州仕置で所領没収、廃城となったそうです。
【訪 城 記】
 今年のGWは宮城県内にある要害と呼ばれるお城を中心に回ってきました。5月2日のうちに飛行機で仙台空港まで来て、仙台のホテルに泊まり、3日の朝ホテルを出発して、まず古川市へ向かいました。この日はInetで知り合った古川市在住の天神さんに宮城県北部のお城を案内していただく約束をしていましたものですから...
 それでレンタカーに乗って順調に国道4号線を進んでいましたら、大和町吉岡を過ぎ大衡村に入るとすぐに右手の、いかにも山城というような丘陵上に、城郭風の建物が建っているではありませんか。手持ちの地図を見ると「大衡城」と載っており、約束の時間までまだ間があったのでちょっと寄ってみることにしました。(ということで、とっぱじめは予定にない伊達の要害でもない城を攻めてしまいました(^^;))
 ぐるっと周りを回ってみると、南側に大衡村教委の案内板がありました。それによると、この城の高さは約40m、本丸跡の頂上部平場は東西40m、南北100mあり、本丸の裏には二の丸、三の丸の平場もあったそうです。また、南側の案内板の近くが大手口だったようで、そこから上に伸びる登路が跡をとどめており、周囲にも段が残っています。
 この日は午前中は雨がしとしとと降っていたので、大手口跡から少し上ってみましたが、雨で草がぬれだんだんと靴の中に浸みてきましたし、本丸へ上がる道がかなり急になっていましたので、登るのをそこでやめてしまいましたが、頂上のあの建物をのぞけば山城の雰囲気をよく残していると思います。
 なお、『日本城郭大系』には本丸跡にドライブイン「大衡城」の建物が建っていると書かれ、私が見たのと同じ建物の写真が載っていましたので、あの建物がそうだったのでしょう(^^;) (ただし本丸跡まで登ってみませんでしたので、今でもドライブインをやっているのかどうかはわかりませんが...)

名生城(大崎市)

【城 跡 名】名生城(みょううじょう、名生館、御所館、義隆館)
【訪 城 日】2000年5月3日
【所 在 地】宮城県大崎市大崎(旧古川市)
【創建年代】観応2年(1351)
【創 建 者】大崎家兼
【主な遺構】郭、土塁、堀
【歴史・沿革】
 名生城は中世大崎氏の居城として知られる城です。「三浦将監軍忠状」に大崎家兼が観応2年頃に完成させたことが記載されています。大崎氏の祖家兼は、足利氏の一族斯波氏の四代高経の弟で貞和2年(1346)奥州探題として伊達郡霊山に下向し、三年後に志田郡師山に移り、その後さらに伏見(名生城)に居を移しています。大崎氏はここを拠点に、大崎五郡や黒川郡に勢力を及ぼしていきましたが、内紛をくり返して次第に凋落し、十三代義隆の代に秀吉の小田原征伐に参陣せず、領地没収され滅亡してしまいます。その後、大崎葛西一揆の際には一時蒲生氏郷が居住しましたが一揆の鎮圧により廃城となりました。
【訪 城 記】
 古川駅で無事天神さんと合流し、天神さんの車に乗り移り、まずは古川市内にある名生城へと向かいました。名生城はその所在地の地名・大崎でもわかるように室町時代に足利一族の一員として奥州探題をつとめた大崎氏の居城だったところです。(またまた要害ではなくてすみません(^^;)) とはいっても見た限りではほとんどが水田や住宅地と化しており、わずかに周囲より高い部分は郭だったのだな、そして周囲より一段低くなっている水田部分が堀だったのだなというのが天神さんの解説でわかる程度でした。
 このあたりは以前から古代の瓦が出土することから玉造柵跡ではないかと比定されていましたが、昭和55年(1980)からの発掘調査で多数の掘立柱建物跡、竪穴住居跡等が確認され、7世紀末・8世紀初頭の官衙跡と考えられています。その一画に、「名生館官衙遺跡」という案内板も建っていましたが、周囲ははっきり言ってただの田畑でした(^^;)

岩出山城(大崎市)

【城 跡 名】岩出山城(臥牛城、岩手沢城、岩出山要害)
【訪 城 日】2000年5月3日
【所 在 地】宮城県大崎市岩出山字城山(旧玉造郡岩出山町)
【創建年代】
【創 建 者】氏家氏
【主な遺構】平場、土塁、入口、空堀
【歴史・沿革】
 岩出山城の創建の時期は不明ですが、応永年間(1394~1428)に大崎氏の重臣氏家隆継が岩手沢城を築いたといわれます。天正年間(1573~1592)に氏家氏が同城に移住したともいわれますが、天正18年(1590)の大崎氏の没落により氏家氏も滅亡し、大崎氏の旧領に封じられた木村吉清の家臣荻田三右衛門が城主となります。しかし大崎葛西一揆の際に三右衛門は斬殺され、翌19年一揆の平定後、大崎・葛西氏の旧領は伊達政宗に与えられ、秀吉の命で奥州仕置に下向中の徳川家康が岩手沢城を伊達氏の本城として選定し、榊原康政に縄張りをさせて修築しました。同年政宗は米沢から移転し岩出山と改称しました。
 しかし慶長6年(1601)年に政宗は仙台城に移転し、家臣、町民、城下の寺社も仙台に移しました。同年政宗の四男宗泰が城主となり、城の南側中腹に二の丸を築いて居所とし、以後岩出山要害として廃藩時まで存続しました。
【訪 城 記】
 さて要害ではない城を二つ見たところで、要害巡りの一つ目として、政宗が一時期本拠とした岩出山城に行きました。実は私の住んでいる石狩の隣町の当別町は旧岩出山領主伊達邦直家中が入植して開拓したところで、私にとって伊達家というのはなんとなく親しみを感じる存在でした。ですから、この岩出山城を訪城するのを楽しみにしていました。
 岩出山城の本丸跡は現在は城山公園となり、二の丸は岩出山高校の敷地となっています。まずは本丸の上まで車で上がると案内図があったので、それを見ると北の方に空堀跡があったのでまずはそちらに行ってみることにしました。一度一段下の二の丸跡(?)に降り右の方へしばらく進むと、かなり深い空堀跡がありました。そこから下をのぞくと断崖絶壁で、岩出山城がまさに要害の地に建っているということが実感できました。
 そして再び本丸跡の方に登ると伊達政宗の像がありましたが、これはもとは仙台城にあったもののようです。そのすぐ近くに内門跡があり、ここは門跡をはさんで両側に土塁が残っていました。そこで再び下に降り今度は左の方に進んでいくと途中に空堀跡らしきものがありました。そのあとぐるっと回って元の場所に戻り、有備館の方へ行ったのですが、あとからデジカメで撮った案内図を見直してみると物見跡や堀切跡などいくつか見落としたものがあったようです(^^;)
 さて有備館ですが、これは寛文3年(1663)に二の丸が全焼したため岩出山二代領主宗敏が仮居館を建て、居館再建後の元禄4年(1691)に三代領主敏親が仮居館を学問所として春学館と名付け、翌年城の北麓の現在地に移転して有備館と名付けたものです。茅葺きの書院造りですが、庭園もありとても落ち着いた雰囲気でした。
 この有備館で、「伊達政宗と岩出山」「史跡のまち岩出山の文化財 第一集~第三集」という小冊子を売っていましたのでつい買ってしまいました(^^;) 「伊達政宗と岩出山」には昭和60年に行われた岩出山城の発掘調査の写真や岩出山城・有備館のことなどがまとめられています。「岩出山の文化財」の方には岩出山城を含めた町内の城跡について若干載っています。それによると岩出山町内には十数カ所も中世の城館があるようです。私はつい4冊とも買ってしまいましたが、「伊達政宗と岩出山」だけで充分だと思います(^^;) 値段はちょっと忘れてしまいましたが、1200円ぐらいだったと思います。(ちょっと高めかな)

千石城(大崎市)

【城 跡 名】千石城(文覚館、松山城、松山要害)
【訪 城 日】2000年5月3日
【所 在 地】宮城県大崎市松山町千石字本丸囲(旧志田郡松山町)
【創建年代】不明
【創 建 者】遠藤氏?
【主な遺構】平場・堀・土塁
【歴史・沿革】
 「茂庭氏記録」によると遠藤盛遠(文覚上人)が構築したとの言い伝えがあるようですが、定かではありません。館跡の初見は天正16年(1588)の中新田合戦の際で館主が遠藤高康であったようです。遠藤氏は応永8年(1401)に二代盛継が志田・玉造・加美三郡奉行として任ぜられ松山に居住したのが最初で、以後二百年間十七代高康まで居住していたようです。
 遠藤氏は天正19年(1591)登米郡石森村(現中田町)に移封され、石川昭光が慶長3年(1598)まで、古内重直が慶長8年(1603)まで居館としました。慶長8年からは茂庭良元が松山の領主となり千石城を修復して三の丸に居住しましたが、手狭であることを理由に千石城の西側に上野館を築き、下屋敷としました。慶安4年(1651)に良元は隠居して上野館に移り、その子定元は千石城の三の丸に移りましたが、明暦3年(1657)には定元も上野館に居を移し、千石城三の丸には留守居として家臣一名を置くだけとなりました。
【訪 城 記】
 この頃にはだいぶん日も傾き、一日目の最後として松山町の千石城(松山城)を訪城しました。ここは現在、御本丸公園となっており、三の丸のすぐ下に駐車場があったので、そこに車を停めて歩いてみました。三の丸へ登る道を歩いていると、左側の下の方に堀切らしき物が見えました。さらに先に進み三の丸の左側の方に進むと、右側に三の丸と二の丸を仕切る堀切がありました。そこから二の丸に上がりさらに進むと、二の丸と本丸を仕切る堀切がまたあり、そこに架かっている橋を渡るといよいよ本丸です(といっても何もないんですけど(^^;))
 本丸跡から進んできた方を振り返ると二の丸、三の丸を見渡すことができました。千石城は三の丸・二の丸・本丸がまっすぐに並ぶ配置(連郭式と言うんでしょうか)になっているので、見渡せるわけです。
 駐車場の下には城の沿革や縄張図、古絵図などが載っている案内板がありますし、堀切の所にも説明板があって、ここはきちんと整備されているなと感じました。
 その後にすぐ近くにある石雲寺内の茂庭氏御霊屋を見て一日目の予定はすべて終了しました。
 このあと古川市まで戻り天神さんとお別れしましたが、一日に八城を回るというハードスケジュールも、天神さんというよき水先案内人がいたおかげでとても楽しく回ることができました。

佐沼城(登米市)

【城 跡 名】佐沼城(鹿ヶ城、佐沼要害)
【訪 城 日】2000年5月3日
【所 在 地】宮城県登米市迫町佐沼字内町
【創建年代】文治元年(1185)?
【創 建 者】藤原秀衡?
【主な遺構】平場、土塁、堀、壇
【歴史・沿革】
 佐沼城の創建の時期についてははっきりしません。文治年間(1185~1190)に藤原秀衡が築城し家臣の照井高直が居所としたとも伝えられますが、南北朝時代には葛西氏に属します。その後一時大崎氏が支配しましたが、再び葛西氏に属し、天正18年(1590)葛西氏は豊臣秀吉に領地を没収されます。その後、葛西氏の旧領を与えられた木村吉清に属しますが、大崎葛西一揆が起こり、木村父子はこの佐沼城で籠城をしています。
 一揆の平定後は伊達政宗の支配地となり、家臣の湯目(のち津田)景康が拝領、宝暦6年(1756)の津田氏の改易後は亘理氏が移転し、以後幕末まで同氏が在城しました。
【訪 城 記】
 佐沼城ですが、現在は鹿ヶ城公園となっています。駐車場に車を止めると、すぐ目の前に一段小高い所に平場が広がっています。これが佐沼城の本丸跡で現在は鹿ヶ城公園となっています。駐車場の端には「佐沼城復元絵図」というのがあり、かつての佐沼城の様子がよくわかります。この絵図によると、中門前の二の丸に当たるところが現在の駐車場のようです。
 かつては二の丸の南西側に鯛沼と呼ばれた沼が広がり外堀の役割を果たしていたようですが、今ではすっかり埋め立てられてしまって一部が残っているに過ぎません。
 駐車場の端からぐるっと本丸跡を取り囲むように堀跡が残っていますが、現在はコンクリートで固められているのがとても残念です(^^;) また本丸跡の東側には迫川が流れ、自然の堀のようになっています。西側にある大手門跡の橋を渡って石段を登り、鳥居をくぐるとそこは本丸跡です。本丸跡には今は出雲神社・照日権現が建っていますが、社の近くには佐沼城の沿革を記した「佐沼城址碑」があります。また、本丸の端の方にはこんもりと若干盛り上がった土塁跡が認められ。かつての佐沼城の面影を残しているようです。

 ちなみに、ここの要害主の亘理氏というのは、伊達政宗の重臣茂庭綱元の四男で亘理氏の養子となった亘理宗根の子孫ですが、宗根の母は豊臣秀吉の元愛妾であった香の前で、茂庭綱元が秀吉と賭け碁をして拝領した女性でした。(一説に宗根は伊達政宗の子ともいわれています。)

寺池城(登米市)

【城 跡 名】寺池城(臥牛城、登米城、登米要害)
【訪 城 日】2000年5月3日
【所 在 地】宮城県登米市登米町寺池桜小路・上町
【創建年代】不明
【創 建 者】葛西氏?
【主な遺構】平場
【歴史・沿革】
 創建の時期は明かではありませんが、源頼朝の奥州藤原氏の追討後、奥州総奉行に任じられた葛西氏が築城したもののようです。葛西氏の本拠はこの寺池城とも石巻の日和山ともいわれていますが、天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が滅亡した後は、木村吉清・清久父子が葛西・大崎氏の旧領を与えられ入城します。翌19年葛西大崎一揆に攻められ落城し、一時放置されますが、慶長9年(1604)伊達政宗の家臣白石宗直が移ってきてからは登米要害として重きをなします。白石氏は天和2年(1682)伊達姓を賜り、以後は登米伊達家の居所として明治に至り、廃城となりました。
【訪 城 記】
 この寺池城は北上川西岸の丘陵の南端部にあります。本丸(居館)跡は現在裁判所となっているとのことだったので、まずは裁判所を探してみると、確かに裁判所がありました。ですが、とくに遺構や案内板などもなさそうでしたので、下に降りてみると「寺池城跡」の標柱を発見しました。この丘の西側の小学校の近くに駐車場がありましたので、そこに車を停め先ほどの標柱の所に所に戻ると、そこには明らかに後から作ったと思われる石垣と「史蹟寺池城址」の石碑がありました。そこから少し下った交差点付近は大手門跡らしく、「大手の柳」という木がありました。
 先ほどの石碑の近くにある門をくぐるとそこは二の丸跡ですが、ここにも遺構らしい遺構はありません。ただ登米懐古館という資料館が建ち、登米伊達家ゆかりの文化財を展示してあります。なかでも「也」という字の前立ての付いた白石宗直の鎧はなかなかのものでした。
 そのあとは再び駐車場側に降り、小学校の横の道を北へ少し登っていくと左側に高台院霊屋天山廟という登米伊達家四代式部宗倫(伊達政宗の子忠宗の五男)の廟所があります。仙台にある瑞鳳殿の霊廟ほどの煌びやかさはありませんが、なかなか美しい建物でした。(ただ、周囲がちょっと雑然としていたのが気になりましたが...)
 また、先ほどの駐車場の横には「旧登米高等尋常小学校」の校舎があり、これが和洋折衷の木造建築でなかなか雰囲気がありました。時間があればじっくりと見たいところでしたね。
 寺池城は周囲の堀などもすべて埋め立てられて道路になるなど、遺構としてはないに等しいですが、なかなか城下町らしい雰囲気のある所でありました。

涌谷城(涌谷町)

【城 跡 名】涌谷城(涌谷要害)
【訪 城 日】2000年5月3日
【所 在 地】宮城県遠田郡涌谷町字下町
【創建年代】不明
【創 建 者】不明
【主な遺構】平場・空堀・土塁?・隅櫓・石垣
【歴史・沿革】
 創建の時期は明かではありませんが、永享3年(1431)頃、大崎氏の一族涌谷氏が居城としたといわれます。涌谷氏は大崎氏初代家兼の三男彦五郎が百々美濃守を称し、さらにその次男が涌谷美濃守を称したのがその祖であるとも、大崎氏五代満持の弟高詮を百々氏の祖とし、その次男直信を涌谷氏の祖とする伝承もあるそうです。
 いずれにせよ、天正18年(1590)大崎氏滅亡とともに涌谷氏は滅び、その後一時豊臣秀吉の家臣木村氏がこの地方を支配しますが、葛西大崎一揆平定後は伊達領となり、亘理氏が入部します。その後亘理氏は伊達姓を許され、涌谷伊達氏として明治にいたり、涌谷城は廃城となりました。
【訪 城 記】
 涌谷城は江合川の左岸に沿って伸びる丘陵上に立地しています。現在城跡は涌谷城山公園となり、二の丸には涌谷町資料館が建ち、本丸は涌谷神社境内となっています。
 私たちは涌谷神社の鳥居のある方から進みましたが、まず正面に明らかに新しい石垣とその上に三重の天主風の建物が見えます。これが涌谷町資料館です。そのすぐ横には模擬天守のものとは違う積み方をした石垣とその上に隅櫓(太鼓堂)がありますが、この石垣の積み方も古そうでもありますが妙に雑然とした積み方をしています。その上に建つ二重の隅櫓も上の方は、板に白ペンキでも塗っていたのがはげてきているようで、なんだか洋館のような感じでした。石垣・隅櫓ともに現存ではあるのでしょうけど何だか妙な感じがしました。
 資料館をさらっと見た後、本丸跡の涌谷神社境内の方に進みました。境内の隅の方に伊達騒動で有名な涌谷伊達氏第四代・伊達安芸宗重の銅像がありましたが、像の顔の前を電線が通り、近くには箱が雑然と置いてあるなど、ちょっと雰囲気は...(^^;)
 後から資料を見直したら社殿の北側に空堀や土塁があったようですが、しっかり見落としてしまいました(^^;)
 その後、近くにある涌谷伊達家の御霊屋・見龍廟に行きましたが、門がぴったりと閉まっていたので、横から少しのぞいただけで帰ってきました。

西館(美里町)

【城 跡 名】西館(鶴館、鶴頭城、不動堂要害)
【訪 城 日】2000年5月3日
【所 在 地】宮城県遠田郡美里町字西館(旧遠田郡小牛田町)
【創建年代】不明
【創 建 者】不明
【主な遺構】平場・堀・土塁
【歴史・沿革】
 創建の時期は明かではありませんが、葛西・大崎両氏が争奪していたと推測され、葛西氏の家臣有壁摂津守、大崎氏の家臣室田小斎が城主として在城したといわれます。大崎葛西一揆以後は伊達領となり、慶長16年(1611)後藤信康がこの地を拝領し、元和6年(1620)信康の子近元が修築し、以後明治維新まで後藤氏の居館として続きました。
【訪 城 記】
 本当は涌谷城の後に松山城に行く予定でしたが、天神さんが予定にはないけど案内してくれると言って下さいましたので、西館に行ってみることにしました。ここは現在は鶴頭公園となっていますが、丁度佐沼城のように周囲から十数mほど小高くなっており、ここが本丸跡になります。すぐ南には鳴瀬川が流れ、東側に大手門、西側に裏門を開き、北側部分を内堀で囲み、本丸の西側には西曲輪、東・南・北側には下中屋敷を配しその周りに外堀で囲むという構造になっていたそうですが、西曲輪・下中屋敷跡は現在住宅地や耕地になっています。本丸跡には大手門跡の石段から登りましたが、平場には神明社や鶴頭山古墳がありました。井戸や手洗いの池等も残っているようです。また、内門は近くの皎善寺山門として移築されているそうです。(これは見ていません)
 佐沼城寺池城、涌谷城等もそうでしたが、川の近くの少し小高い丘陵上に位置するというパターンが要害にはあるのかもしれません。

船岡城(柴田町)

【城 跡 名】船岡城(四保館、柴田城、船岡要害)
【訪 城 日】2000年5月4日
【所 在 地】宮城県柴田郡柴田町船岡字館山
【創建年代】天文年間(1532~55)
【創 建 者】四保但馬定朝
【主な遺構】平場・土塁・空堀
【歴史・沿革】
 『吾妻鏡』に、正治2年(1200)芝田次郎というものを幕府に追討したという記録が残っていますが、芝田次郎の居館・芝田館が船岡城のことであるとも言われます。しかし船岡城の城主がはっきりするのは天文以降で、天文年間に伊達氏の家臣四保(のち柴田)定朝が在城しています。文禄2年(1593)柴田氏は志田郡桑折に移され、屋代景頼が居住しますが、元和元年(1615)には原田宗資が入りますが、原田氏は家中屋敷に居住し、ことさら居館を普請することはなかったそうです。
 寛文11年(1671)原田甲斐宗輔が寛文事件(伊達騒動)で斬死すると原田家が断絶しますが、天和元年(1681)柴田宗意が5000石を拝領して再び柴田氏が戻り、三の丸の居館に以後代々居住し、明治を迎えました。
【訪 城 記】
 山本周五郎の『樅の木は残った』で知られる伊達騒動の重要人物・原田甲斐宗輔の居館であった船岡城です。
 仙台からしばらく国道4号線を下り、柴田町に入りしばらくすると白幡橋で白石川を渡りもうしばらく走ると柴田町の中心街があり、その南西に船岡城はあります。現在は船岡城址公園となっています。山の中腹にある駐車場に車を停めると、上に伸びる道があったので登っていきました。なかなかきつい登りですが、遊歩道が整備されているので歩きやすいです。歩くの面倒だという人はスロープカーというミニ電車があるのでそちらをどうぞ。
 登っていく途中で桜がきれいに咲いていたのでちょっと立ち止まります。するとその少し上の方に土塁のようなものがありました。がんばって登ると頂上は本丸跡ですが、何の案内板もありません。『日本城郭大辞典』には北側に数カ所石垣が現存とありましたが、すっかり見落としてしまいました(こればっかり(^^;))本丸跡には訳の分からない平和観音像があり、雰囲気を壊すこと甚だしいです(^^;) ただ、本丸跡の端の方には土塁のようなものが見えましたし、観音像が立つ辺りは周囲より若干高く段になっていました。本丸から下を眺めると「船岡城址」という大きな看板が見えました。
 そこから再び駐車場に戻り、先ほどの看板を探してみると、映画会社が植えたという樅の木があり、そこに先ほどの看板が立っていました。近くには「伊東七十郎辞世の碑」というのもあります。
 再び駐車場に戻り、今度は「船岡城址公園」という門のある広場の方に行ってみました。ここがかつての居館があった三の丸跡だそうです。端の方には土塁が残り、また井戸跡もありました。三の丸跡をぐるっと回り、隣の一段下ったところに行くとやっと「船岡要害跡」の案内板がありました。(なんでこんな隅っこに立てたんだろ?)
 遺構はそれほどありませんが、本丸近くの桜がなかなか綺麗でした。

白石城(白石市)

【城 跡 名】白石城(益岡城)
【訪 城 日】2000年5月4日
【所 在 地】宮城県白石市益岡
【創建年代】天正19年(1591)
【創 建 者】蒲生氏郷
【主な遺構】本丸・土塁・門・空堀・石垣、大手門・三階櫓(復元)
【歴史・沿革】
 後三年の役(1083~1087)の際に源義家に従って戦功のあった刈田経元が白石城に居住したといわれますが、定かなものではありません。経元の末裔という白石氏がのちには居城としますが、天正14年(1586)には移封され、屋代景頼が城代となります。天正19年(1591)には蒲生氏郷に属し、蒲生郷成が城代となって益岡城と改称して修築、慶長3年(1598)年には上杉景勝に属し、甘粕景継が城主となりました。
 同5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前に伊達政宗が家康の命で攻略し、石川昭光が一時預かりますが、同7年(1602)片倉景綱が拝領して以後代々片倉氏の居城として明治に至りました。
 明治元年(1868)4月には本城に於いて奥羽越列藩同盟が結成されますが、のち新政府軍に降伏し、同年12月には南部藩の白石移封が決定し翌2年4月には南部藩に城を引き渡しました。しかし同年8月には南部藩が盛岡に復帰し、最終的には明治7年(1874)城地と建物は払い下げられ、建物は壊され石垣も多くは持ち去られました。その後益岡公園となり、平成7年には三階櫓(天守)と大手門が復元されました。
【訪 城 記】
 さて、いよいよこの旅行で一番行きたいと思っていた白石城です。船岡城をあとにして一路白石へと向かい、2時半頃には白石市内に入っていたんですが、駐車場を探してウロウロとしてしまい、天守の所についたら3時近くになっていました。
 Niftyのお仲間である福島の筈衛さんと天守下で待ち合わせをしていたのですが、私が到着して5分ほどで筈衛さんも到着しました。ネット上ではもう何年ものつきあいになるのに初めて会うというのは何とも変な感じですね(^^;) しばらくしゃべったあと、いよいよ大手門をくぐり天守へと向かいました。写真では見ていましたが、ホントきれいですね。石垣が妙に新しいなあと思ったら、積み直して再現したというのには驚きました。天守の中も復元ながら本物らしさが感じられる雰囲気がありました。
 そのあと、すぐ近くの歴史探訪ミュージアムに入りましたが、あの立体映画にはちょっと力が抜けてしまいました(^^;) 他のキャストはまあ許せるとして片倉景綱が宍戸錠というのはねえ(^^;) あれはちょっとイメージと違うなあと筈衛さんと話しました。
 そのあと武家屋敷に回ろうかとも思いましたが、だいぶん日も傾いてきたので、そこで筈衛さんと別れ、ホテルに車を置いて、歩いて当信寺と延命寺に行きました。当信寺の山門(旧東口門)も延命寺の山門(旧厩口門)も言われなければ、お寺の門として納得してしまいますね。それから、当信寺内にある真田幸村の遺児阿梅(片倉重長妻)と大八(仙台真田家祖)のお墓にもお参りしました。
 そのあとちょっと休憩して暗くなるのをまち、7時頃にもう一度お城まで歩いていきました。7時になったらライトアップが始まり、何枚か写真を撮って満足し帰りました。(ただし、あとから写真を見直してみたらぼけている写真や明るすぎる写真等がありガッカリしました(T_T))
 これで二日目は終了です。

丸山城(丸森町)

【城 跡 名】丸山城(丸山館、丸森城)
【訪 城 日】2000年5月5日
【所 在 地】宮城県伊具郡丸森町丸森字新田
【創建年代】天文17年(1548)
【創 建 者】伊達稙宗
【主な遺構】郭・空堀・段築
【歴史・沿革】
 丸山城は伊達政宗の曾祖父稙宗が築いたものですが、稙宗は子の晴宗と対立しいわゆる「天文の乱」という内訌に発展しました。この乱は晴宗の優勢に終わり、和睦ののち稙宗は天文17年(1548)に隠居してここに住むことになりました。
 のちこの地域は相馬氏の手になりますが、天正12年(1584)伊達政宗は相馬氏から奪回するのに成功し、同16年(1588)に黒木宗元にこの城を与えました。同17年(1589)には黒木氏を駒ヶ峰城に移し、丸山城は高野壱岐兼高に与えられ、子の高野弥吉の代まで居住します。慶長6年(1601)には大条薩摩実頼が拝領しますが、同じ年に麓の鳥屋城に移り、その後廃城となりました。
【訪 城 記】
 さていよいよ最終日です。朝ホテルを出発するとまずは白石市市街の西にある片倉家廟所と小十郎景綱の姉で政宗の養育を務めた少納言喜多の墓を詣で、それから丸山町へと向かいました。
 阿武隈川を渡り、丸森町市街地にはいると途中で左に相馬市へと抜ける道があります。そちらへ曲がりしばらくすると小さな川を渡る橋があり、わたると右に丸山城址という看板が見えたのでそこで右折し山の方へ登りました。途中で脇道のような所があったのでそこに車を停めました。丁度丘と丘の間に通路状のものが伸びているのですが、あとから確かめるとどうやらそこは二の丸と三の丸の間を区切る堀切だったようです。
 そこからは歩きましたが、すぐに広い平場があり、これが二の丸だったようです。しばらくするとかなり深くえぐられた空堀がありました。幅は10mほど、深さは5mくらいはありそうです。左端の方に狭く土橋状の通路があり、そこをわたると本丸です。
 本丸には木が生い茂り、暗くなっていましたが、愛宕神社と伊達稙宗の墓がありました。この墓は明治初期の伊達家の当主伊達宗基が建てたものです。本丸はそれほど広いものではなく、忘れられた城跡という感じがしました。

金山城(丸森町)

【城 跡 名】金山城(かねやまじょう、金山要害)
【訪 城 日】2000年5月5日
【所 在 地】宮城県伊具郡丸森町金山字黒森
【創建年代】永禄年間(1558~1570)
【創 建 者】井戸川将監・藤橋紀伊
【主な遺構】本丸・石垣・空堀・土塁・埋門跡・煙硝蔵跡など
【歴史・沿革】
 永禄年間に相馬氏の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城したのに始まります。天正4年(1576)以降伊達・相馬両氏間で争奪し、同12年(1584)伊達政宗が攻略、この戦に最も功のあった中島宗求にこの城と二千石の知行地を拝領し、以後明治まで中島氏が在城しました。
【訪 城 記】
 丸山城から相馬市へ抜ける国道113号線を再び進み、しばらくすると金山の集落に着きます。途中で左側に「金山城」という看板があるので、そこを左折ししばらく進むと右側に金山城跡案内図がありますので、そこを右折すると駐車場がありました。
 そこに車を置き坂道を上り始めました。まず見えるのは米蔵跡です。そこからさらに登ると三の丸大手埋門跡(石垣らしき物あり)、土塁跡、煙硝蔵跡があります。途中には不動堂もあります。本丸の近くには空堀もあり、幅は7~8mぐらいありそうです。
 そこを過ぎ、上に登るといよいよ本丸跡です。本丸跡には金山城の案内板他いくつか石碑があります。『宮城県の歴史散歩』には本丸跡に石垣が残るとあり写真も載っていたのでぐるっと探してみると東側に石垣がありました。もともとはそちら側が大手門だったようです。大手門跡を下ると高さ7~8m、幅10mぐらいの石垣がきれいに残っています。草が生え隠れている部分もありますが、とても状態は良好です。これを見ただけでもこの城に登った価値はあります。西側にも門がありその基部に石垣が使われていたようですが、そちら側は確認しませんでした。
 石垣を見て満足して、あとはゆっくりと再び駐車場まで降りていきました。

 ところで、この金山城の麓の道路の両側にはかつての武家屋敷街で、みると屋敷地の下部に石垣が残っていました。「金山城跡案内図」の立っているすぐ近くの家は、家の入口に石垣・土塀があり、しかもそれが途中で直角に曲がり、虎口になっていました(^^;) これにはちょっとびっくりしました。

角田城(角田市)

【城 跡 名】角田城(かくだじょう、臥牛城、金鶏ヶ館、角田要害)
【訪 城 日】2000年5月5日
【所 在 地】宮城県角田市角田字牛館
【創建年代】永禄年間(1558~1570)
【創 建 者】田手宗光
【主な遺構】水堀・門
【歴史・沿革】
 永禄年間に伊達氏は一族田手宗光に角田に居館を築かせ、付近一帯を支配させましたが、宗光はやがて背き相馬氏に通じました。そこで伊達輝宗は相馬氏と激しく争いこの地方を奪回しました。田手宗光の子宗時は伊達氏に留まったので角田の地を与えられたが戦死したため、天正14年(1586)一族の伊達成実を角田の城主としました。しかし成実は出奔したため、政宗は屋代景頼に命じ角田城を攻略、慶長3年(1598)石川昭光に与えられました。以後代々石川氏が在城し明治に至りました。
【訪 城 記】
 金山城を出発すると、先ほどの道を逆戻りし、丸森市街を通り阿武隈川を渡って国道349号線を通って角田市へと向かいました。
 角田城は現在角田中学校・角田高校となっているとのことなので、探したところ角田高校の前に「角田城址」の石碑を見つけました。すぐ横の中学校のグラウンドでは野球部が練習をし、高校の体育館からは剣道のかけ声が聞こえるなどおよそ城跡らしくない訪城となってしまいました(^^;) 確かに角田高校の建つ土地は台地で、周囲より20mほど高くなっており、城が建っていたんだろうなあと思わせましたが、遺構らしき物は見つかりませんでした。(学校の校地ですからあまりウロウロするわけにもいきませんし) 堀跡が一部残るとも聞いていましたが、よくわかりませんでした。
 次に城の表門が移築されているという長泉寺へと向かいました。ここは石川氏の菩提寺で、寺の中門として移転され臥牛門の扁額がかかっています。はじめは石川家の隠居所の門として立てられたのですが、のちに本館が火災に遭い館門が焼失したため、移築したものだそうで、角田高校が開校の際に解体されていたものを、有志の手でこの寺の中門として移築したとのことです。
 また城の東側に郷学・成教書院があり、現在その跡地は図書館となって、その資料室には角田要害関係の資料が展示してあるとのことだったので、長泉寺のあとに行ってみましたが、祝日でしたのでしっかりお休みでした(T_T)

亘理城(亘理町)

【城 跡 名】亘理城(臥牛城、亘理要害)
【訪 城 日】2000年5月5日
【所 在 地】宮城県亘理郡亘理町亘理字旧館
【創建年代】天正年間(1573~1592)
【創 建 者】亘理元宗
【主な遺構】平場・堀・土塁
【歴史・沿革】
 千葉氏の支族亘理氏(旧武石氏)は小堤城(現大雄寺境内)を居城としていましたが、室町時代末期に伊達氏に属し、天正年間に亘理元宗が東方の丘陵上に移転したのが亘理城の始まりと思われます。
 天正19年(1591)亘理氏の涌谷移封により、片倉景綱が城主となりますが、慶長7年(1602)白石へ移封され、伊達氏一門伊達成実が入城し、以後亘理伊達氏が代々在城しました。
【訪 城 記】
 角田から国道349号線を北へ進み、途中阿武隈川を渡って亘理町へと向かいました。亘理神社の近くに駐車すると、まずは亘理神社へと向かいました。神社の石段を登るとそのすぐ脇に「亘理要害(臥牛城)図」がありかつての城の様子と現在の様子が分かるようになっていました。それを見ると本丸部分はおいといて、その周囲が大きく変貌しているのがわかりました。(かつて外堀の役割を果たしていた大沼が埋め立てられ、公民館用地になっている等々)
 現在亘理神社の境内となっている本丸跡も、町道で二つに分断されており、削平されているところもあるなど、変貌が著しく遺構らしいものは見あたりません。神社の鳥居の近くの臥牛城の標柱、伊達成実の生涯を記した石碑、戊辰戦争の碑などがあるだけでした。境内から南側に降りるとかつての内堀の跡がありましたが、一見ただの池にしか見えません。また、内堀に続く空堀は木が生い茂っていてよく状況がわかりませんでした。内堀跡がある旧館公園の入り口付近には「大手門」の標柱が立っていますが、かつて大手門があった部分に町道が貫通して城跡を破壊しています。
 この町道を渡り、分断された本丸の先端部分の台地をぐるっと回ってみましたが、鉄条網が巡らされ入れないようになっています。また、そのすぐ横の二の丸跡にはショッピングセンターが建ち、この台地の周囲はその駐車場となっていますが、駐車場に面した柵の内側に「亘理城本丸跡」の標柱を見つけたときには悲しくなってしまいました(; 😉
 そのあともう一度亘理神社側に戻り、道路を挟んだ反対側の台地上を見てみたら土塁らしき物が見え、遺構が少し残っているようでした。いずれにしてもちょっと情けない思いがしました。
 そのあと駅前にある悠里館という図書館兼郷土資料館に行ってみましたが、ここは一見天守閣風です。郷土資料館の亘理伊達家に関する展示は北海道の伊達市開拓記念館の方が立派に感じました。まあ、亘理伊達家はほぼ家中まるごと北海道に渡ってしまっていますので、仕方ないのでしょうけど...
 そのあと、大雄寺にある亘理伊達家の廟所に行きました。成実と五代実氏の霊屋、成実の父実元の位牌堂がありましたが、成実の霊屋は修復したのかとてもきれいになっていました。どこかの親子連れがお墓のすぐ隣でお弁当を食べていたのには思わず苦笑いしてしまいましたが...(^^;) 桜が咲いていてきれいでした。

岩沼城(岩沼市)

【城 跡 名】岩沼城(鵜ヶ崎城、岩沼要害)
【訪 城 日】2000年5月5日
【所 在 地】宮城県岩沼市館下
【創建年代】天正十年代(1582~1592)
【創 建 者】泉田重光
【主な遺構】
【歴史・沿革】
 天暦7年(953)源重之の創築といわれますが、天正十年代に伊達政宗の家臣泉田重光が築城したと推定されます。泉田氏のあと、遠藤・屋代・奥山氏・伊達宗勝(兵部、政宗の末子)・古内重広・重安を経て、万治3年(1660)二代藩主伊達忠宗の三男で田村家の名跡を継いだ田村宗良が四代藩主伊達綱村の補佐を命じられ、3万石で諸侯に列しました。天和元年(1681)田村氏の一関移封により、翌2年古内重直(重広の子)が拝領しましたが、貞享3年(1686)没収され、翌4年一族の古内広重(重安の孫)が拝領し、以後代々古内氏が在城しました。
【訪 城 記】
 いよいよ要害巡り最後の城となりました。仙台空港のある岩沼市の岩沼城です。亘理町から国道6号線を通り岩沼市へと向かいました。岩沼市へ着くと岩沼城は岩沼駅の西側にあるとのことなので、その辺を回ると台地状のの場所があったのでここだなと思いましたが、駐車するところがなく近くのコンビニの駐車場に止めさせてもらいました(^^;)
 そこからは歩いて、先ほど見当を付けた台地上に登ってみたら個人の住宅でしたので、その辺をぐるっと回ってみましたら、公園らしきところがあり、おじいさんがゲートボールの練習をしていました(^^;) それでその公園を見渡すと一段高いところに「鵜ヶ崎城跡」の標柱を発見しました。
 その近くに若干盛り上がった土塁のようなものがありました。また、その土塁状のものの外側には少しくぼんだ空堀状のものがありましたが、この二つが遺構かどうかはよくわかりませんでした。先ほどの標柱以外は、説明板のようなものは全く見あたりませんでしたし、一見するとただの公園にしか見えないと思います。
 『日本城郭大辞典』によりますと、城跡の近くに駅ができたため城地の丘陵を切り崩したため原型を失い、また周辺は住宅地となって遺構らしきものはないということです。また居館の奥向建物・土蔵は中町の相原氏に売却され移築されたそうですが、奥向建物は近年取り壊され、土蔵のみが残っているそうです。

 実はこの時点でまだ2時半ぐらいで、飛行機の時間まではまだまだ時間があまっていましたので山元町の蓑首城(坂元要害)にも寄っておけば、と今更ながら後悔したのでした(^^;) でも今から山元町まで行くわけにもいかないので、岩沼市内の竹駒神社にちょっと寄って今回の要害&史跡巡りを終了しました。
 3日間で16城を回るというハードスケジュールでしたが、なかなか良いものを見れたなあと思います。特に印象に残っているのは仙台城の石垣・白石城の復元天守・金山城の本丸石垣と言ったところでしょうか。しっかり資料を見ていなくて見落とした部分がいくつかあったのは残念ですが、得るところの多い旅行でした。

川崎城(川崎町)

【城 跡 名】川崎城(臥牛城、前川城、川崎要害)
【訪 城 日】2001年8月10日
【所 在 地】宮城県柴田郡川崎町前川字館山
【創建年代】慶長年間(1596~1615)
【創 建 者】砂金実常
【主な遺構】平場、土塁、空堀
【歴史・沿革】
 この城を築いた砂金氏は古くから川崎地方に居住していた豪族で、戦国時代頃から伊達氏の家臣となりました。拠点を前川本城から新たに築いた川崎城に移したのは砂金実常で、のち一族の家格に列しましたが、元禄15年(1702)四代重常が病没すると相続者が定まらず砂金家は断絶してしまいました。
 同年、黒川郡宮床から伊達家一門の伊達村興が入りましたが、二十年ほどで再び宮床へ戻ってしまいました。享保7年(1722)伊達家一門で石川崎要害にいた伊達村詮が新たに入り、以後七代に渡り同家が川崎城主を務めました。
【訪 城 記】
 山形城のあと、時間があれば飛行場までの帰り道、宮城県の要害をいくつか回りたいなと思っていましたが、山形自動車道を使えば時間を稼げることに気付き、自動車道を通って宮城県へ向かいました。そして宮城川崎ICで降りると、まずは川崎城へ。
 ここは現在は川崎小学校と城山公園になっています。帯郭のような削平地もありましたが、遺構らしい遺構は見つけられませんでした。あとから『日本城郭大系』を見ると、土塁や堀跡が結構あるようですので、じっくり探せば見つけられたのでしょうね。
 学校の周りをカメラ持って歩いていると不審人物と思われそうでしたので早々に退散しました(^^;)

村田館(村田町)

【城 跡 名】村田館(村田城)
【訪 城 日】2001年8月10日
【所 在 地】宮城県柴田郡村田町村田字迫
【創建年代】嘉吉年間(1441-1444)?
【創 建 者】村田業朝?
【主な遺構】平場、空堀、腰郭
【歴史・沿革】
 村田館の歴史は、小山九郎業朝が嘉吉年間(1441-1444)に下野から村田に移り住み、村田氏を称して伊達家に仕え、村田館を築いたのが始まりといわれます。
 六代近重は伊達稙宗・晴宗父子間で争われた天文の乱では晴宗側につきましたが、彼には男子が無く、稙宗の九男宗殖を婿として迎えました。宗殖は天正19年に領地を没収され、桃生郡長井に移されました。
 江戸期に入り、慶長10年までは御蔵入地、同10年から17年までは石川昭光領でしたが、同18年、政宗の七男宗高が村田館主となり三万石を領しましたが若死にしました。その後、奥山常良・同常辰・田村宗良・大松沢実泰と館主が変わり、貞享元年(1684)芝多常春が移り住んで以降は、慶応2年(1866)常質が加美郡谷地森に所替えになるまで184年間村田館に住みました。その後、芝多氏と入れ替わりに加美郡谷地森から片平教敬が移り住みましたが、まもなく明治維新を迎え、村田館も解体されました。
【訪 城 記】
 川崎城のあと、今回の旅の最後にこの村田館に行きましたが、なかなかのヒットでした。カーナビに従い町役場の手前で右に曲がると、歴史のゲートという城門風のモニュメントがあり、城山公園の文字が見えましたので、近くの駐車場に車を止めました。そして駐車場側の登り口から登っていくとあちらこちらに郭跡らしき削平地があり山城の雰囲気十分です。
 そして公園の最上部の本丸跡は、広場になっていて普通の公園のような感じも受けますが、大きな「村田城」という看板と古絵図や発掘調査の写真が載っている詳しい説明板が端の方にあります。
 そして本丸の南側には井戸跡、そしてそれに続くように土塁と空堀がかなり伸びていまして、これがとても良いです。猪苗代城の裏の空堀にはさすがに負けますけど、写真を見ていただければその雰囲気は感じていただけると思います。
 小学校の裏山になる東側の郭にも土塁が残っていましたし、山城の雰囲気たっぷりでした。
 でもこれだけ良いお城がなんで『宮城県の歴史散歩』に載ってないんでしょうねえ?不思議です。