静岡県(1)
山中城(三島市)

【城 跡 名】山中城
【訪 城 日】2000年1月13日
【所 在 地】静岡県三島市山中新田
【創建年代】永禄年間(1558~70)
【創 建 者】北条氏康
【主な遺構】掘・畝堀・障子掘・土塁・櫓跡・曲輪跡など多数
【歴史・沿革】
 この山中城は、関東の雄、後北条氏がその本拠小田原城防衛のために築いた箱根十城の一つです。後北条氏三代氏康が永禄年間に築いたのが始まりとされますが、天正17年(1589)豊臣秀吉との関係が次第に険悪になると四代氏政は南方台地に岱崎出丸を急ぎ増築し、防備を固めました。
 天正18年(1590)3月29日、豊臣軍は堀秀政率いる右翼二万、徳川家康率いる左翼三万、そして中央に羽柴秀次率いる2万の計7万の大軍で猛攻を加えました。これに対して北条軍は、城将松田康長はじめ間宮康俊・信冬父子ら四千人。圧倒的な豊臣軍の前にはひとたまりもなく、わずか数時間で勝敗は決し、松田以下北条方の諸将は討ち死にしました。
 山中城は昭和9年、国の指定史跡となり、現在では本丸・西の丸・北の丸・西櫓・岱崎出丸などの郭・土塁・空堀(畝堀・障子堀)などの遺構が発掘によりあきらかとなり、きれいに整備されています。
【訪 城 記】
 石垣山城を後にして、箱根湯本に北条五代の墓がある早雲寺があるというのでちょっとよってみましたが、車を止められるところが見つからず山門をちょっと写真に撮ってすぐ先へと進みました。朝食を食べた小田原駅前の食堂に傘を忘れたことを石垣山城で気付いたので、途中のコンビニでビニル傘を購入、これがこの日は役だってくれました(^^;)
 昼頃に山中城に到着、朝買っておいた小鰺の押し寿司で腹ごしらえをしてから、まずは岱崎出丸跡の方へ進みました。しばらく進むとまず御馬場曲輪跡ですが、その先に早速畝堀を発見。ここは畝が端の方に一つしかありませんでしたが、位置的に本来はもう少しあったのかもしれません。それからみなさん、この堀の所で写真を撮るのか土塁に上り下りする足跡が付いていました(私も登ったんですけど...(^^;))
 その先には構築途中の曲輪などがあり、一番端のすり鉢曲輪の横に見張り台がありました。そして、それらの郭の横に長く伸びる一の堀がありますが、ここは畝堀になっていて、150mの間に17の畝が検出されたそうです。これでひとまず満足して、いよいよ国道をはさんで反対側にある本丸跡の方へ進みました。 ここでまず目につくのが三の丸堀です。先に進むと突き当たりに田尻の池があり、そこから左へ進むと元西櫓下の堀がありますが、ここは植木が植えられあまり堀という感じはしません。その先に西の丸へ登る土橋がありますが、その土橋の横から畝堀が伸びています。その畝堀沿いに進むと西の丸と西櫓の間に障子堀が... でも丁度この頃、もやがかかってきて、薄ぼんやりとしか見えなかったので、先に進みました。しばらくすると右側に本丸堀が見えます。この堀は整備されていないので、かすかに畝の部分が盛り上がっているという感じです。その先が北の丸で、土塁で囲まれたかなり広い郭です。
 北の丸から本丸に渡ると左側に天守櫓跡がありますが、そんなに大きなものではありません。それにこんな所に天守櫓があったとしても、遠目がきくのかなとちょっと疑問に思いました。本丸から下っていくと兵糧庫跡などがありますが、そのまま下っていくと道路の方に出てしまうので再び本丸に戻り、北条丸の方へ進むと本丸と北条丸の間に再び畝堀がありました。ここの堀は途中鍵状になっているので、一部障子堀っぽくなっていました。北条丸はかなりの広さで虎口もきれいに整備されています。
 北条丸から隣の郭を抜け、先ほど行かなかった西の丸へ進みました。ここもかなりの広さで見張り台跡もあります。そして再び障子堀の方へ。この頃にはもやも晴れてくっきりと仕切の土塁がみえました。これはホントきれいですね。まさに土の芸術という感じで、しばらく見惚れてしまいました。
 そこから先ほどの北条丸の虎口まで戻りそこから下っていくと田尻の池の所に出ましたので、今度は箱井戸側に曲がりしばらくすると宗関寺の横に出ました。宗関寺には北条側・豊臣側両軍の戦死者の墓が残っているというので、ちょっと寄ってみました。ここは元々北条方の間宮康俊の娘が一族供養のために建てた寺だそうですが、北条方の間宮康俊・松田康長等だけでなく、豊臣方の一柳直末の墓碑も怨みを忘れたように並んでいます。
 その後、駐車場まで戻り小田原方面へと戻りました。雨が結構降っていましたが、何とか一通り見ることができました。あのビニル傘のおかげです(^^;)

長野県(4)
松代城(長野市)

【城 跡 名】松代城(海津城、貝津城)
【訪 城 日】1992年5月3日
【所 在 地】長野県長野市松代町
【創建年代】永禄3年(1560)
【創 建 者】武田信玄
【主な遺構】本丸跡、天守台、石塁
【歴史・沿革】
 永禄3年に武田信玄が築城した城ですが、この城は松代城としてより川中島の海津城としてよく知られているでしょう。
 武田氏の滅亡後は織田信長の家臣森長可が城主となりましたが、本能寺の変を聞き美濃へと戻りました。その後は上杉氏や真田氏が占拠し、関ヶ原合戦後は森長可の弟忠政が入城し、今に残る石垣を構えました。その後松平忠輝(家康の六男)等をへて、元和8年(1622)真田信之が上田から10万石で入部し、以後幕末まで至りました。
【訪 城 記】
 この松代城を訪城したのは92年のことでした。何も知らずにお城まで来たら、天守台の石垣があるだけ... 最初は「何だこりゃあ?」と思いました(^^;) でも、この石垣だけのお城等のもなかなか良いものです。(この心境に達したのは最近ですが...)
 その後は旧真田邸や真田宝物館を見学し、真田の雰囲気を味わって松代を後にしました。残念だったのは真田家の菩提寺長国寺に行ったのに信之霊屋や幸村の墓にお参りしなかったことです。再度訪城することがあれば行ってきたいと思います。

松本城(松本市)

【城 跡 名】松本城(深志城、黒烏城)
【訪 城 日】1992年5月3日・1993年5月2日
【所 在 地】長野県松本市丸ノ内
【創建年代】永正元年(1504)
【創 建 者】島立貞永
【主な遺構】天守(国宝)、堀、石垣、門・櫓(復元)
【歴史・沿革】
 松本城は前身を深志城といい、永正元年、小笠原氏の臣島立貞永が豪族坂西氏の館跡に創建したと伝えられます。のちに武田信玄の信州進出の拠点となり、武田氏の没落後は父祖の地を継いだ小笠原貞慶が松本城と改称しました。その後秀吉によって石川数正が8万石の城主として封ぜられ現存する五層六階の天守に着工、息子の康長の代に完成しました。天守につながる月見・辰巳櫓は江戸初期に増築されたものだそうです。石川氏の改易後は小笠原氏・戸田松平氏・堀田氏・水野氏と城主が代わりましたが、享保11年(1726)に松平(戸田)光慈が入部し、以後明治に至りました。
【訪 城 記】
 この松本城を訪城したのは92年のことでした。高校時代の友人と信州旅行に行ったのですが、私にとって最大の目標がこの松本城でした。子どもの頃に松本城のプラモデルを作って以来きれいなお城だなあと思っていたのですが、実物はもっときれいでした。ほんとどちらの方角から見ても絵になるお城です。黒烏城の別名の通り、その黒い姿が何とも力強く感じられます。ホント国宝の名に値するお城だと思います。唯一心残りなのが、訪城したのがゴールデンウィークで非常に混んでいたので天守の上まで登ることができなかったこと、いつか再訪したい城です。(1992/5/3)


 一年ぶりの再訪でしたが、上田から甲府に向かう途中に寄ったので、ライトアップされている姿を撮影しただけでした。しもか、雨が降っていたのでこんな感じの写真になってしまいました。残念……(1993/5/2)

上田城(上田市)

【城 跡 名】上田城(伊勢崎城、尼ヶ渕城)
【訪 城 日】1992年5月3日・1993年5月2日
【所 在 地】長野県上田市上田
【創建年代】天正11年(1583)
【創 建 者】真田昌幸
【主な遺構】櫓三基、石垣、堀など
【歴史・沿革】
 武田信玄に属していた真田昌幸は、武田氏滅亡とともに自立し、天正11年真田本城と真田館を廃棄し千曲川の蛇行部に接する伊崎山に居城を築き始めました。完成間近い上田城を天正13年徳川勢七千が包囲、それに対し真田勢は二千でしたが、城の守りは堅く上田城は死守されました。関ヶ原合戦の際にも徳川秀忠を総大将とする徳川別働隊を上田城に釘付けに、秀忠を関ヶ原合戦に遅刻させたのは有名です。関ヶ原後は昌幸の長男信之が城主となりますが、後に松代城へと移り、以後は仙石氏をへて松平(藤井)氏が城主となり、以後明治に至りました。
【訪 城 記】
 上田に初めて行ったのは92年のことでしたが、この時は宿泊のためで上田城に行く予定はありませんでした。ですが、夕食の後、友人とふらっとお城まで歩いていって眺めてきたことがありました。

 翌93年は午前中に善光寺を見た後上田により、上田城を訪城しました。丁度雨が降っていましたが、それにも関わらず城内はいい雰囲気でした。こぢんまりとはしていますが、徳川軍を二度に渡り撃退した風格がありました。(1993/5/2)

高島城(諏訪市)

【城 跡 名】高島城(島崎城、浮城)
【訪 城 日】1992年5月4日
【所 在 地】長野県諏訪市高島
【創建年代】文禄元年(1592)
【創 建 者】日根野高吉
【主な遺構】石塁、堀、復興天守、櫓,橋
【歴史・沿革】
 古くは諏訪一族の出城、武田信玄が陣取ったときもあるが、文禄元年日根野高吉が入部し、旧城を取り壊して築城しました。関ヶ原合戦後は、諏訪氏を再興した諏訪頼水が城主となり、以後幕末に至りました。かつては城域は湖水に突き出た島で、諏訪の浮城として知られていましたが、湖の埋め立てにより今は市街地の中になってしまいました。高島城の天守は明治5年に払い下げ解体され、現在のものは昭和45年に再建されたものです。
【訪 城 記】
 諏訪に行ったのは92年、丁度御柱祭が行われていたときでした。高島城の近くまできて車をどこに止めようかとした時によく分からずすぐ近くにあったスーパーの駐車場に止めてしまったんですが、ホントお城のすぐ近くで、こんなスーパーのすぐ近くにあるなんて庶民的なお城だねえなんて、友人と話をしました(^^;)
 予想していたよりはずっときれいなお城で板張りの壁が古風な雰囲気を出していました。なんとなく我が本貫の地・丸岡のお城を思い出してしまいました。

山梨県(1)
躑躅ヶ崎館(甲府市)

【城 跡 名】躑躅ヶ崎館
【訪 城 日】1993年5月4日
【所 在 地】山梨県甲府市古府中町
【創建年代】永正16年(1519)
【創 建 者】武田信虎
【主な遺構】土塁、堀、天守台
【歴史・沿革】
 武田信虎は甲斐統一を成し遂げると府中の北の石水寺(積翠寺)の山ふところに抱かれた山間部に新しい館と山城の構築に着手しました。これが躑躅ヶ崎館と要害山城です。信虎は石和の館を引き払って、新しい館に移り住み、以後六十数年間、信虎・信玄・勝頼の三代に渡り甲斐武田氏の居館としました。
 武田滅亡後は徳川が居館を管理し、甲府城完成後廃城としました。
【訪 城 記】
 この時は富士山や富士五湖を見るのが主目的で、おまけのように旧躑躅ヶ崎館こと現武田神社へと行ったのでした(^^;) すっかり神社の敷地と化していて、きっと探せば堀や土塁などをみつけられたのでしょうけど、結局神社にお参りしてさあっと見て帰ってきてしまいました。今にして思えば、館の背後にあるという要害山城にも行ってみたかったなあと思います。

新潟県(0)
富山県(2)
富山城(富山市)

【城 跡 名】富山城(安住城、浮城)
【訪 城 日】1991年5月2日~3日
【所 在 地】富山県富山市本丸
【創建年代】天文元年(1532)
【創 建 者】水越勝重
【主な遺構】本丸、西出丸、模擬天守など
【歴史・沿革】
 天文元年に在地豪族の水越勝重がこの地に築城したのが後の富山城の起こりとされています。水越氏の後は、神保氏が数代にわたって居城したが、天正4年(1576)神保氏はついに上杉謙信に破れ、上杉氏の城番が置かれました。天正6年(1578)には織田氏の援助を受けた神保長住が城主に返り咲きますが、翌7年、織田方の将佐々成政が入城、以後堀や城塁・櫓などの改修が進められます、ですが、本能寺の変で天下の形勢は一変し、天正13年(1585)秀吉の大軍に降伏を余儀なくされ肥後へ転封となり、前田利家の所領となりました。
 慶長2年(1597)には利家の子利長が富山城に入りますが、同4年(1599)父の跡を継ぎ金沢へ移ったため城代が置かれます。同10年(1605)利長は隠居して新川郡22万石を養老料として再び富山城に入りますが火災により炎上したため、同14年(1609)高岡に城を新築して去ります。以後30年間、城番を起きましたが、寛永16年(1639)三代藩主利常の二男利次が10万石を分封され、富山城を修復して居城とし、以後幕末まで富山藩歴代藩主の居城となりました。
 利次の時代には富山城に天守はなく、現在城址公園に建つのは郷土資料館等を兼ねた模擬天守で昭和29年に建てられたものです。模擬天守が建つ場所はかつては本丸南虎口だったところです。
【訪 城 記】
 富山城にはちょっとした思い出があります。友人と岩内からフェリーに乗り直江津に着いてからひたすら北陸自動車道を走り、富山に着いたのが夜の9時過ぎだったでしょうか。やっと富山に着いたと二人でほっとしていると、前方にライトアップされたきれいなお城が見えるじゃありませんか。疲れも忘れ、近くに駐車してお城まで行って写真を撮りまくり、満足してホテルに着いたのは10時を過ぎていたかもしれません。次の日も予定にはなかったんですが、まず富山城に行き資料館を見たりお城の写真を撮ったりしてから富山を出発しました。
 あとから、あのお城が戦後建てられた、しかも全く史実に基づかない模擬天守であることを知りガックリしたものですが、それにしてはなかなか綺麗なものでした。

高岡城(高岡市)

【城 跡 名】高岡城
【訪 城 日】1991年5月3日
【所 在 地】富山県高岡市古城
【創建年代】慶長14年(1609)
【創 建 者】前田利長
【主な遺構】土塁、堀
【歴史・沿革】
 隠居して富山城にいた前田家二代の前田利長ですが、慶長14年(1609)富山城炎上により魚津城に避難し、富山を諦め射水郡関野に築城すべく幕府に許可を求めました。その秋には高岡城に移り、利長が慶長14年(1614)に逝去するまでの六年間、その養老料の隠居城としてその存在を保ちました。利長が亡くなった翌年の元和元年(1615)一国一城令によって高岡城は未完成のまま廃絶となり本丸跡の建物は破却し、米穀や塩などの収納庫が建てられ加賀藩の監守人が詰めたそうです。現在城跡は古城公園となり市民の憩いの場となっています。
【訪 城 記】
 富山城を後にして高岡まで来たときに、「古城公園」というのがあったので友人と「ちょっとよってみようか」という話になり行ってみました。正直な話あまり印象に残っていません。当時はお城というと天守閣などの建物にしか目がいっていませんでしたので堀とかあったと思うのですが、全く記憶に残っていません(^^;)

石川県(1)
金沢城(金沢市)

【城 跡 名】金沢城(尾山城、尾山御坊、金城)
【訪 城 日】1991年5月4日
【所 在 地】石川県金沢市丸の内町
【創建年代】天文15年(1546)
【創 建 者】一向宗門徒
【主な遺構】石塁、堀、復興天守、櫓,橋
【歴史・沿革】
 ここはかつては加賀一向一揆の拠点の一つ尾山御坊があったところです。天正8年(1580)織田軍の猛攻を受け陥落、以後佐久間盛政の手により堂塔のことごとくが壊され戦国城郭として造成され尾山城と称しました。しかし、羽柴秀吉により柴田勝家が敗れるとともに滅亡し、七尾城から前田利家が入り、城を大改修しました。改修が終わったのは慶長15年(1610)頃、利家の子利長の代になっていました。本丸南東には五層の大天守がありましたが、慶長7年本丸御殿とともに炎上、以後は御三階櫓を天守台にあげて天守代用としました。
【訪 城 記】
 加賀百万石の居城とはいえ、当時はまだ構内に大学が残り、石川門付近しか見ませんでした。石川門はさすがに華麗なもので往時の金沢城が偲ばれました。今では大学も移転し発掘調査が行われているとのことですから、かつての金沢城が蘇るような整備をしてほしいものです。

福井県(2)
一乗谷朝倉館(福井市)

【城 跡 名】一乗谷朝倉氏館(一乗谷城)
【訪 城 日】1994年8月4日
【所 在 地】福井県福井市城戸ノ内町
【創建年代】永享年間(1429~40)
【創 建 者】朝倉教景
【主な遺構】土塁、堀、城門、復元館
【歴史・沿革】
 朝倉氏はもとは但馬国を本貫とする豪族でしたが、延元元年(1336)朝倉広景・高景父子が足利一族の斯波高経に従って越前に移りました。初めは北庄を本拠としていたと思われますが、五代教景の頃に一乗谷へ居城を移したものと思われます。次第に勢力を強めた朝倉氏は、七代孝景の頃に越前を平定し、主家斯波氏に代わり越前守護となりました。そして氏景、貞景、孝景、義景と続き、天正元年(1573)に滅亡するまで一乗谷は領国の政治的中心となりました。織田信長の軍勢に攻められた一乗谷は三日三晩焼亡し一時に荒廃してしまいましたが、昭和46年城戸内を中心とした広大な地域が「特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡」として指定され、遺跡調査と武家屋敷街などの復元工事が進められています。
【訪 城 記】
 両親と一緒の福井旅行の最後に行ったのがこの一乗谷朝倉館でした。父はちょっと疲れていたので車の中で休んでいましたので、母と一緒に見て回りました。(とはいっても、私は途中からは別れてあちこち見ていたんですが(^^;))
 入口の所には華麗な唐門がまずありますが、中にはいると館跡がきれいに平面復元され、かつての様子が偲ばれます。館を囲む堀跡や土塁もきれいに残っています。右手の方にひっそりと建つ朝倉義景の墓には何だか歴史の無常を感じてしまいました。
 右手の方から上に登ると、上の方には湯殿跡庭園や諏訪館殿跡庭園があります。さらに上に登ると詰めの城である一乗城跡があったようですが、両親と一緒ですので、それはちょっと我慢しました。館跡を道路を挟んで反対側には武家屋敷街が復元されており、一部発掘も継続しているようでした。
 今はどこまで整備が進んでいるのかわかりませんが、当時の朝倉氏の繁栄をうかがわせる城館跡です。

丸岡城(坂井市)

【城 跡 名】丸岡城(霞ヶ城)
【訪 城 日】1994年8月3日
【所 在 地】福井県坂井市丸岡町霞(旧坂井郡丸岡町)
【創建年代】天正4年(1576)
【創 建 者】柴田勝豊
【主な遺構】本丸、天守、石垣
【歴史・沿革】
 この丸岡城は天正4年に柴田勝家の甥で養子の柴田勝豊が建てたものです。勝豊はまず豊原に築城しましたが、交通不便の山城を捨て、現在の丸岡に城郭を移しました。本能寺の変後、勝豊が長浜城主となると不破彦三が城主となりその城代として安井家清が居城しました。柴田氏滅亡後は丹羽氏の城代として青山氏が居城し、慶長5年(1600)西軍に属していた青山忠元は領地を没収されました。
 翌6年(1601)越前国主結城秀康の入部とともに、今村盛次が丸岡城代となり、慶長17年(1612)からは本多成重が4万3000石で丸岡城代となりました。寛永元年(1624)秀康の子忠直が改易となると成重は大名に列し、丸岡城主となりましたが、元禄8年(1695)四代重益の代に家中騒動により除封となりました。その後は越後糸魚川より有馬清純が5万石で入部し、以後幕末に至りました。
 丸岡城の天守は犬山城と並び、天守建築としては最も初期のものです。明治維新後、周囲の堀は埋め立てられ、石垣も取り壊されましたが、天守のみは民有となり保存されました。昭和23年の福井震災で天守は倒壊しましたが、同30年復旧して、現在は国の重要文化財となっています。
【訪 城 記】
 この丸岡城は私にとってはちょっと思い入れのある城です。というのも私の祖父は現在では丸岡町内となっている「坂井郡高椋村字油為頭」の出身で明治の末にここから北海道に渡ってきているからです。この油為頭は丸岡城からは3kmほどの所で94年に丸岡に来たのも両親と一緒に我が家の先祖の地を訪ねようということで福井に旅行に行った時のことでした。
 上にも書いたようにお城自体は堀もすべて埋め立てられ、本丸どころか本当に天守閣しか残っていないという状態ですが、この天守閣がとてもいいです。板張りの壁が古風で、いかにも質実剛健な古武士というような雰囲気を出しています。一度地震で倒壊しているものの、創建以来400年以上の時を経ているというのには何か心に感じるものがあります。天守を登る階段は狭くて急ですので、落ちないようにとロープが付いていました。あれがなかったらうちの両親は登れなかったかもしれません(^^;)
 天守前には江戸初期の城主本多成重の父で「鬼作左」の名で知られる本多作左衛門重次の有名な手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」の碑が建っています。
 もう一度丸岡に行ってみたいと思いますが、いったいいつになることやら...

愛知県(0)
岐阜県(0)