テオドシウス朝 (379~457)

 ビザンツ帝国の始まりをどこからと考えるかについてはいろいろと考え方があります。
 教科書的には395年、テオドシウス1世の死後、長子アルカディウス・次子ホノリウスがローマ帝国を東西に分割し、それぞれが帝国の東部分・西部分を分割統治したことを「ローマ帝国の東西分裂」といい、それ以降そのそれぞれを「東ローマ帝国」「西ローマ帝国」と呼びますが、これは正確な表現とはいえません。この395年の事件は、それ以前のディオクレティアヌス帝やヴァレンティニアヌス帝による帝国分割統治などと相違するものではなく、これ以降帝国が再統一されることがなかったことから、形式的にこの時を「帝国の東西分裂」と呼ぶに過ぎません。
 その他にもディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス1世の時代、あるいは後期ローマの社会体制が崩壊したヘラクレイオス朝をビザンツ帝国の始まりとする意見もありますが、ビザンツ帝国はローマ帝国の伝統とキリスト教を基本理念とし、コンスタンティノープルを都とした帝国ですから、この3つに基づく国家体制を築いたコンスタンティヌス1世をもってその始まりとするというのが最近の主流のようです。
 ところで「ビザンティン(ビザンツ)帝国」とは後世の学者が名付けたもので、帝国の皇帝たちは最後まで自らを「ローマ皇帝」と称し、帝国の人々も最後まで自らを「ローマ人」と称していました。

 それはさておいて、テオドシウス1世の死後、帝国の東半分を受け継いだアルカディウスは、帝国西部を受け継いだ弟ホノリウスとともに無能・無気力でしたが、実際の政治はアンテミウス等の有力者が行っていたため、帝国の統治は揺るぎませんでした。
 その死後、帝位に就いたテオドシウス2世は、神学や学問に興味を持ち政治には直接関与しませんでしたが、首都市域の拡大と城壁の強化やテオドシウス法典の整備などの重要な仕事がその下で行われました。
 テオドシウス2世の死後は、マルキアヌスが彼の姉プルケリアと結婚して帝位に就き、フン族のアッティラへの補助金の打ち切り、カルケドン公会議での三位一体説への支持などの政策を打ち出しましたが、即位後7年で没しました。

レオ朝 (457~518)

 マルキアヌス帝の死後、トラキア生まれの軍人であったレオ1世がゲルマン人軍事長官アスパルの支持をうけて皇帝に選ばれました。アスパルはレオを操ろうとしましたが、レオは慎重にアスパルの勢力を削いでいき、471年にはアスパルとその子アルダブリウスを倒しました。
 彼の死後は孫のレオ2世が7歳で即位し、実父ゼノンが共治帝とされましたが、レオ2世はその年のうちに死亡しゼノンが一人で支配することになりました。しかし、彼には競争相手が多く、即位後1年足らずで反乱が起こり、ゼノンの義母ウェリーナの兄弟バシリスクスが皇帝に選出されたものの、翌年には、イサウリアに逃れたゼノンがコンスタンティノープルに向かって進軍し、帝位を回復しました。彼はその後も、レオンティウス等の反乱に悩まされましたが、491年に後継者を指名しないで死亡しました。
 そこで、皇后アリアドネは枢密院警護長アナスタシウス(1世)を皇帝に選び、彼と結婚しました。彼は即位直後のイサウリア人の反乱を鎮め、ブルガール族の侵入を防ぐために首都西方の長城を強化しました。また彼自身は敬虔なキリスト教徒でしたが、単性説信者であったため正統派と対立し、宗教政策には苦労しました。一方財政再建には成功し、27年間の統治で国庫に金32万リーブラを蓄えました。

ユスティニアヌス朝 (518~610)

 アナスタシウス1世が子供も無く後継者も指名せずに死亡したため、元老院は協議の末、ユスティヌス(1世)を皇帝に指名しました。彼の時代には帝国各地の災害、ササン朝ペルシャとの対立などがありましたが、彼はローマ教会との関係修復に努力しました。
 ユスティヌス1世の死後は、甥のユスティニアヌス1世が即位しました。彼はヴェリサリウス等の将軍を用いてヴァンダル・東ゴート王国を滅ぼし、帝国西半領土の大半を回復し、ローマ帝国の復興をはかりました。また「ローマ法大全」の編纂、盛んな建築活動などにも取り組みましたが、拡大した領土は彼の後継者達にとって大きな負担ともなりました。
 次いでユスティニアヌス1世の甥ユスティヌス2世が帝位に就きましたが、ランゴバルド族がイタリアに侵入し、スペインでは西ゴート族が帝国領を攻撃しました。また一方ではササン朝ペルシャとの戦争を再開するも敗北し、ティベリウスを後継者として引退することを余儀なくされました。
 ティベリウス2世はササン朝ペルシアとの戦いに力を集中し、西方に対しては外交と補助金政策に頼りましたが、即位後4年で死去、彼の指名によりマウリキウスがティベリウスの娘コンスタンティナと結婚し即位しました。
 マウリキウスは、ランゴバルド族の侵入に対抗するためラヴェンナに総督を設置し、ササン朝ペルシャとは亡命してきたホスロー2世の復帰を援助し和平を結びました。しかし国費削減のためにとった策が軍団の離反を呼び、下士官だったフォカスが軍司令官に担ぎ出され、マウリキウスは廃位され、フォカスが帝位に就きました。
 フォカスの即位で、帝国の平穏は乱され、各地で将軍が反乱を起こし、ホスロー2世のペルシャ軍はカッパドキア、カルケドンにまで迫りました。そんな帝国の危機を克服したのはカルタゴ総督ヘラクレイオスでした。彼の息子ヘラクレイオスは艦隊を率いて、610年10月コンスタンティノープルに到着し、フォカスを処刑しました。

ヘラクレイオス朝 (610~717)

 フォカスを打倒して帝位に就いたヘラクレイオスは、西からはアヴァール族やスラヴ人、東からはササン朝ペルシャの攻撃にさらされていました。彼はペルシャの本拠を直撃して戦局を転換させようと考え、623年アゼルバイジャン、625年アルメニアを解放し、627年ニネヴェの会戦で勝利してペルシャの首都に迫り、ペルシャ王ホスロー2世は廃位されて殺され、ペルシャは戦意を失って和解、帝国はかつての領土をすべて取り戻しました。
 しかし丁度その頃イスラム教が勃興し、帝国はイスラム教アラブ軍の攻勢を受け、636年シリア、637年イェルサレム、639年メソポタミア、640~642年にはエジプトまでも失ってしまいました。(ライバル・ササン朝ペルシャも643年滅亡)
 ヘラクレイオスの死後には、その長子コンスタンティノス3世と義母マルティナ及びその子ヘラクロナスとの間に後継争いが起き、帝国はさらに弱体化します。結局、コンスタンティノス3世の子コンスタンス2世がただ一人の皇帝として即位しますが、その間にも帝国の劣勢は続き、647年カルタゴ、641年小アジア、653年アルメニアを失います。659年、ムアーウィアと和平を結び東方での危機が去ると、コンスタンス2世は663年シチリア島のシラクサに居を構え、ここを拠点として西方領土の保持に取り組みますがが、668年随員の一人に暗殺され、長子コンスタンティノス4世が帝位を継ぎます。
 彼の時代、アラブ軍は帝国攻撃を再開し、674年から678年までの5年間断続的にコンスタンティノープルを攻撃したが、結局アラブ軍の失敗に終わり、ムアーウィアは30年の和平に同意しました。
 東方領土が失われたことで、単性説との妥協は無意味なこととなり、帝国における正統信仰の深化、そしてギリシア化の浸透が進んでいきました。またイスラムの暴風の中でバルカン半島へと進出してきたブルガール族へは譲歩を余儀なくされ、ドナウ川下流域を分与、移住を許可せねばならず、バルカン半島にはスラヴ族が浸透していきました。
 スラヴ人の侵入で名ばかりになっていたバルカン半島の統治に目を向けたのはコンスタンティノス4世の子ユスティニアノス2世でした。彼はスラヴ人の住むスクラヴィニアに大規模な遠征を行って帝国のバルカン支配を強化し、隣接スラヴ諸族にも帝国の宗主権を改めて認めさせました。しかし彼の支配は人々に重い経済負担を与え、その反感から695年反乱が起こり、エラス・テマ長官レオンティオスが皇帝に担ぎ出され、ユスティニアノス2世は鼻を削がれ、追放されてしまいました。
 しかし同年ウマイヤ朝アラブ軍が北アフリカを占領すると、ビザンツ艦隊が叛乱を起こし、ティベリオス3世を皇帝としました。この間、廃位されたユスティニアノス2世は帝位復帰を目指して各地で活動し、ブルガール・ハーンのテルヴェルの援助を得て、705年復位に成功しました。しかし彼は異常な復讐心に取り憑かれ、大量粛正を行いました。そのため有能な指揮官を欠いたビザンツ軍はアラブ軍に大敗し、暴動を起こした市民はハザール族の支持を受けたフィリピコスを皇帝と宣言し、ユスティニアノスと息子はティベリオスは殺され、ヘラクレイオス朝は断絶しました。
 フィリピコスは単性説を支持し、再び宗教紛争を再燃させました。また、西からはブルガール・ハーンのテルヴェル、東からはウマイヤ朝アラブ軍に攻撃を受け、その危機の中で暗殺されました。反乱軍団は前書記官のアルテミオスを皇帝に押し、彼はアナスタシオス2世と称しました。彼はフィリピコスの宗教政策を撤回し、艦隊を整備し、城壁を修復し、帝国防衛のためあらゆる手段を取りますが、オプシキオン・テマ軍が反乱を起こしてアドラティオンの徴税人テオドシオス(3世)を皇帝と宣言し、アナスタシオス2世は失脚、修道士となってテサロニキに引退しました。
 テオドシオス3世は渋々帝位に就いたのですが、ほとんどのアジア側テマの承認を得られず、アナトリコン・テマ長官のレオン(3世)は公然と帝位の要求に乗り出しました。レオンはテオドシオス3世を捕らえると、彼と交渉して身の安全を保証し、彼を退位させ、自ら即位し新王朝イサウリア(シリア)朝を開きました。

イサウリア朝 (717~820)

 レオン3世即位の時、帝国は最大の危機にありました。国内の内乱状態は、帝国のウマイヤ朝カリフ国への反撃を失敗させ、アラブ軍は小アジアを西へと進み、レオ3世の首都入城六ヶ月後には、ヨーロッパ側へ渡りコンスタンティノープル城外に陣を敷き、首都を包囲しました。しかしアラブ軍はレオ3世の巧みな戦術と〈ギリシアの火〉と呼ばれる火薬で大損害を被り、翌718年8月に1年余の包囲を解き退却しました。
 アラブ軍の侵入が一段落すると、レオ3世はテマの細分化、『エクロイ』と呼ばれる法律集の発布などの政策をとりましたが、一方では彼の時代を象徴するイコン破壊運動(イコノクラスム)と呼ばれる大事件の口火を切りました。この政策により、ギリシア的東方では皇帝の立場を強化しましたが、ローマ的西方ではイコン破壊運動は受け入れられず、ローマとイタリアが帝国から離れる原因ともなりました。
 レオ3世の死後、息子のコンスタンティノス5世が即位しましたが、彼の義理の兄弟アルタヴァストスが742年に反乱を起こし一時帝位を失いました。しかしアルタヴァストスのイコン擁護政策は小アジア側では歓迎されず、翌年には帝位を回復しました。彼の時代、アラブ人の脅威は減じましたが、反面ブルガール族の脅威は増し、何度もブルガリアへの遠征が行われました。一方、イタリアではランゴバルド族にラヴェンナを占領され、帝国のイタリア北部中部支配は終わりを告げました。
 次のレオ4世の時代にはかつてのような過激なイコン破壊運動は影を潜め、780年彼が30歳で死亡すると、コンスタンティノス6世がわずか10歳で即位し、母のエイレーネが摂政となりました。
 エイレーネは慎重にイコン復活政策を取り始め、754年にイコン破壊令は破棄されましたが、イコン破壊派はエイレーネとコンスタンティノス親子の不和に乗じてコンスタンティノスと結びつき、エイレーネと対立しました。しかしコンスタンティノスはその不用意な行動でイコン破壊派からも見放され、この機をとらえたエイレーネは軍に反乱を起こさせて息子を捕らえ、彼を盲目にして追放し、自ら女帝として帝位に就きました。
 エイレーネは、人々の人気を保つため国庫を無視して寛大な減税を行いましたが、これによって帝国の財政を破綻に導きました。またイコン破壊派のテマ長官を廃したため帝国の軍事力の弱体化を招き。そのためアッバース朝アラブ軍の小アジア侵入を許しました。そして802年には宮廷革命によって彼女は廃位され、ニケフォロス1世が帝位に就きました。(ニケフォロス1世からミカエル1世ランガベーまでをニケフォロス朝ということもあります。)
 彼は経済の再建に着手し、課税方法の見直しを進めるとともに、弱体化している領土への植民政策を進め、帝国の財政・軍事の再生に尽くしました。またブルガール・ハーンのクルムへの攻撃に出ましたが、811年敗死し帝国の威光は地に落ちました。そしてニケフォロスの息子スタウラキオスが即位したものの、彼もブルガール族との戦闘で重傷を負っており、彼の義弟ミカエル1世・ランガベーがその後継者として即位しました。彼はビザンツ皇帝で初めて家族名を持った皇帝ですが、性格が弱く簡単に有力者の言いなりになり、ニケフォロス1世時代の政策を変更し、軍隊・官僚・聖職者にことあるごとに譲歩しました。そしてクルムとの対戦で大敗して廃位され、アナトリコン・テマ長官のレオ5世に帝位を譲ることになりました。
 レオ5世の当面の問題は、ミカエル1世を破って勢いに乗るクルムの進撃をどう退けるかでした。幸いクルムもさすがに首都の城壁を突破することはできず、翌814年に脳出血で突然死亡しました。そして代わってハーンとなったオムルタグは王国内部の強化を考えビザンツ帝国と30年の平和条約を結んだため帝国の国境は平和になりました。レオはこの平和を利用しイコン破壊運動を再開しようとしました。しかし教会の頑強な抵抗に会い、820年のクリスマスの日にミカエル・トラヴロス(ミカエル2世)の支持者によって暗殺され、ミカエルが即位してアモリア朝が成立しました。

アモリア朝 (820~867)

 ミカエル2世はレオ5世と同じくアナトリコン・テマ長官のヴァルダニスに仕えていた仲間でしたが、レオ5世に謀反を疑われ、逆に彼を倒して皇帝となりました。彼はイコン崇拝には反対でしたが、過激な破壊派ではなく彼の治世中は宗教上の紛争は起こりませんでした。即位直後にアナトリコン・テマで起きたトマスの反乱もかつての敵ブルガリアのオムルタグがミカエル2世に味方し、鎮圧することができました。しかし東ではキプロス島、西ではシチリア島という地中海における戦略拠点をイスラム教徒に奪われ、地中海における制海権を失いました。
 ミカエル2世の子テオフィロス1世は即位すると帝国の東方及び北方における防衛力を強化しましたが、東西でイスラム教徒と対決し、一方ではイコン破壊運動に力を入れ最後の迫害を行いました。しかしイコン破壊運動はもはや小アジアでも支持を失い、皇帝と彼を支持するものたちだけの運動となっていて、彼の死とともに消滅しました。
 テオフィロスが死んだとき、その子ミカエル3世は6歳であったため、母親のテオドラが摂政となり宦官セオクティストスが彼女を助けました。テオドラは政権を握ると、イコン崇拝の復活を宣言し、イコン破壊運動に終止符が打たれました。そして帝国はアッバース朝との戦いを再開しましたが、その結果は一進一退でした。
 ところでミカエル3世は政治の実権からは遠ざけられていましたが、セオクティストスと対立して追放されていたヴァルダス(テオドラの兄弟)に支援されてクーデターを起こし、母を修道尼院に追放して実権を握りました。そしてヴァルダスを重要な地位に登用し、フォティオスを総主教に任命し、国内の政治的文化的活動は強化されました。またヴァルダスの兄弟ペトロナス等の将軍の活躍により、小アジアではイスラム教徒に対して攻勢に出るとともに、モラヴィア・ブルガリアなど東南スラヴのキリスト教化を行いましたが、ローマ教会との関係は悪化し、867年ローマ教会の教義を異端として斥け、いわゆる〈フォティオスの分離〉が起こりました。
 ミカエル3世の寵臣だったヴァシレイオス(1世)はヴァルダスの勢威を恐れ、ミカエルの黙認のもとヴァルダスを暗殺し、その一ヶ月後に共治帝として戴冠しました。しかしその翌年、ミカエルはヴァシレイオスに暗殺されアモリア朝は断絶しました。

マケドニア朝 (867~1059)

 マケドニア朝の祖バシレイオス1世はトラキアの貧しい農民の生まれで、アドリアノープル近くに住みついたアルメニア人の子孫でした。しかし彼の家族が住んでいた地方は、当時マケドニア・テマに属していたのでこの地方の人々はマケドニア人と呼ばれ、彼の王朝名もマケドニア朝と呼ばれることとなりました。
 ヴァシレイオスはマケドニア・テマの兵士となり、やがて皇帝ミハイル3世の馬丁長に取り立てられました。やがてミカエル3世の寵臣となった彼はかつての皇帝の愛人であるエウドキア・インゲリニと結婚しました。866年、ヴァシレイオスはヴァルダスの勢威が彼の地位を脅かすことを恐れ、ミカエルの黙認のもとヴァルダスを暗殺し、一ヶ月後には共治帝として戴冠されました。しかしミカエル3世は彼に人気がないことを知り解任しようとしたため、ヴァシレイオスはミカエルを暗殺し自ら帝位に登りました。即位すると彼は、総主教フォティオスを罷免しローマ教会との和解を図ろうとしましたが、ブルガリア教会の扱いをめぐって両者の対立は深まりました。
 一方、イコン破壊運動の時代以来、バルカン半島西部は次第に帝国から離れつつありましたが、ヴァシレイオス1世の時代にはかなり帝国の影響も強化され、マケドニア・ブルガリア・セルビア、一時はクロアティアにまで及びました。また南イタリアにおけるビザンツの地位も強化されました。『プロヒロン』『エパナゴイ』の2冊の小法律書を編纂し、のちの『ヴァシリカ』の基礎ともなりました。
 886年にヴァシレイオス1世が狩猟中の事故で亡くなると、レオン6世が即位しました。彼は父とは不仲で投獄されたことさえあり、両者の和解は父の死の直前になってからのことでした。レオンはスティリアノス・ザウズィスを相談役として統治しましたが、詩文・神託的発言などの文学的業績とともに『ヴァシリア』法典の編纂などの内政によって高く評価されています。しかし、その結婚問題から教会と対立し、一方対外的にはブルガリア・イスラム教徒との争いで打撃を受けました。
 レオンの死後、息子のコンスタンティノスは6歳であったので弟のアレクサンドロスが帝位に就きました。兄と仲が悪かった彼は正帝になると兄の政治的遺産を取り払うことに努めました。しかし、彼の統治期間は1年と短く、幼いコンスタンティノス7世が即位しました。幼い皇帝を取り巻く人々は対立し、その混乱の中、ブルガリアのシメオンは何の抵抗にあうことなく首都城下まで達しました。しかし首都の城壁を突破することはできず、ビザンツ政府との交渉によりコンスタンティノス7世とシメオンの娘の一人との婚約が成立し、シメオンはブルガリア皇帝として認められました。
 しかしこうした譲歩を不満とする勢力は宮廷革命を起こし、皇帝の母ゾエ・カルボノプシナが実権を握ると、コンスタンティノスの婚約とシメオンの戴冠は否認されました。当然ブルガリアとの関係は悪化し917年に帝国軍がブルガリアに破れると、ロマノス・レカペノスが実権を握り、彼の娘ヘレネとコンスタンティノス7世が結婚し、920年には帝位に就きロマノス1世と称しました。彼は婚姻政策による、正統皇室そして帝国の名家と結びつき、しだいに正統皇室を背後に押しやっていきました。また、教会との関係も良好で933年には彼の末子テオフュラクトスが総主教となりました。
 しかしブルガリアのシメオンが再び帝国に侵略してくると、ロマノスはクロアト族セルヴ族と協力しブルガリアを背後から脅かしました。927年シメオンが急死すると、両者は和解しバルカン半島における帝国の立場は強化されました。一歩東方に対しては名将ヨアンネス・クルクアスの指揮の下、帝国国境は前進しました。
 931年に後継者としていた長男クリストフォロスが死亡すると、その次の子どもたちの能力を低く評価していたロマノスはコンスタンティノス7世を帝位の継承者としていました。それで実子のステファノスとコンスタンティノスは944年にクーデターを招き、彼らは父を追放し修道士としましたが、コンスタンティノス7世の排除には失敗し、逆に逮捕され流刑に処せられました。
 コンスタンティノス7世は権力を掌握すると息子ロマノスを共治帝としましたが、実際の政治面では他人の指導に従いました。彼の業績は、政治面よりも文化面におけるものであり、研究と著述に情熱を傾け、帝国の文化に貢献しました。対外的には西方及び北方では平和が保たれ、東地中海に軍事力を集中するとともに、キエフ・ロシアなど諸外国との友好に努めました。
 コンスタンティノスの死後、息子のロマノス2世が即位しました。彼は父に仕えたテオドロス・デカポロティス、ヨシフ・ヴリンガス等を用いて行政を行わせる一方、将軍ニケフォロス・フォカスを用いて、クレタ島をアラブ人から奪還し、帝国領を東方へと広げました。
 963年ロマノス2世が若死にし、幼いヴァシレイオス、コンスタンティノスの兄弟が残されると、摂政となった皇后テオファノはニケフォロス・フォカスと結び、即位してニケフォロス2世となったこの老将軍と結婚しました。ニケフォロス2世の時代に、東方では帝国領の拡大が続き、3世紀以上に渡って帝国領から離れていたアンティオキアも再び帝国領となりました。しかし、一方で軍事費捻出のための課税に民衆は苦しんでおり、貴族層・軍人層にもニケフォロスへの不満が生じました。
 それを見たヨアンネス・ツィミスケスは皇后テオファノらと手を結び、ニケフォロスを暗殺して自ら即位してヨアンネス1世となりました。しかし即位後テオファノは追放され、彼はコンスタンティノス7世の娘テオドラと結婚し、人々の正統皇室への環状を損なわないよう配慮しました。彼はまずブルガリアを征服し帝国攻撃の準備を進めていたキエフ・ロシアのスヴャトスラフと戦って勝利し、ブルガリアを帝国領へと組み入れました。また対立が深まっていた西方の皇帝オットー1世との関係は、彼の子オットー2世と姪のテオファノを結婚させることで解決しました。東方でもパレスティナ・シリアを帝国領へと組み入れましたが、首都への帰還途中に病死しました。
 ヨアンネスの死後、ロマノス2世の子バシレイオス2世が帝位に就きましたが、将軍ヴァルダス・スクリロスはメソポタミアの軍団によって皇帝に推戴され、一時は全小アジアを支配下に置きました。しかしヴァルダス・フォカス(ニケフォロス2世の甥)によって敗北し、内乱は終結しました。ヴァシレイオスは実権を握っていた大叔父ヴァシレイオス・ソノス(ロマノス1世の庶子)を985年に追放すると権力を掌握し、貴族勢力を押さえながら、ひたすら国力増大と国内外の敵を圧倒することに生涯を費やしました。彼はブルガリアを復活させたサムイルと対決しましたが、その鎮圧に失敗したため、それを見たヴァルダス・スクリロスとヴァルダス・フォカスは反乱を起こし、全小アジアを手中にしたフォカスは988年首都に迫りました。ヴァシレイオスはキエフ公ヴラディーミル1世に救援を求め、反乱軍を壊滅させました。そしてヴラディーミル1世のもとにヴァシレイオスの妹アンナが嫁ぐとキエフ・ロシアはキリスト教に改宗し、以後ロシアは帝国の影響を受けるようになりました。
 反乱を収めると、ヴァシレイオスはブルガリア撃滅のためクロアティア・ディオクレア・ヴェネツィアと同盟を結び、990年ブルガリアとの戦いに突入しました。エジプトのファーティマ朝の攻撃により、度々東方へと赴かざるを得なかったヴァシレイオスですが、1001年にはアジア側に戻り次第にサムイルを追い詰めていきました。1014年のクリディオンの戦いでの敗北後サムイルは死去し、以後ブルガリアは急速に衰退し、1018年ヴァシレイオスは全バルカンを帝国領としました。
 1025年にヴァシレイオス2世が病死すると、弟のコンスタンティノス8世があとを継ぎましたが、政治は一団の宦官に任せ彼は娯楽にうつつを抜かし国庫を浪費しました。彼には男子がなく三人の娘がありましたが、長女エウドキアは修道女となっており、次女ゾエと首都長官のロマノス・アルギュロスを結婚させ、後継者としました。
 アルギュロスは即位しロマノス3世となりましたが、シリアではイスラム軍に大敗し、修道院の建設等に莫大な費用を費やすなど、失政続きでした。そして妻ゾエと不和になったロマノスは1034年風呂場で死にましたが、ゾエの刺客に暗殺されたといわれています。
 そしてゾエは、愛人だった年下のミカエルと結婚し、彼が即位してミカエル4世となりました。彼は勇敢な将軍としての能力も示しましたが、年々てんかんの発作が進行し、弟で宦官のヨアンネス・オルファノトロフォスが実権を握りました。彼の苛斂誅求に反発し各地で貴族や地方民衆の反乱が起きましたが、かろうじて鎮圧することができました。
 ミカエル4世の病死後、ヨアンネスはミカエル4世の養子となっていた甥をミカエル5世として即位させましたが、彼は自らの意志で政治を行おうとし恩人であるヨアンネスを追放しました。それに味を占めたミカエルは次にゾエを追放しようとしましたが、かえって民衆の反乱を呼び起こし、廃位されて盲目にされました。
 そしてゾエと妹のテオドラがともに支配者となりましたが、二ヶ月で二人の統治は終わりを告げ、元老院議員コンスタンティノス・モノマコスがゾエと結婚し、コンスタンティノス9世として即位しました。彼は官職の追加官僚制の肥大化等で国庫の支出を増大させ、一方では軍縮政策が軍事貴族の反感を買い、各地で反乱が起きました。これらの反乱を何とか切り抜けましたが、コンスタンティノスは1055年に死亡し、テオドラが再び帝位に就きました。しかしその翌年彼女は死亡しマケドニア朝の血統は絶えました。
 テオドラは死の床で、元老議員ミカエルを皇帝に指名しました。即位してミカエル6世となると、彼は文官貴族優遇、軍事貴族無視の態度をとり、それが反乱を導くこととなりました。皇帝軍はイサキオス・コムネノス率いる反乱軍に敗北し、彼がさらに進軍するとミカエル6世は退位しイサキオス即位直後に死亡しました。

ドゥーカス朝 (1059~1081)

 ミカエル6世の死後皇帝となったイサキオス1世コムネノスは小アジアのパフラゴニアに大所領を持つ軍事貴族の出でした。彼はコンスタンティノス9世の浪費により欠乏した国庫の充実と軍隊の強化を目的として、先帝たちの贈与や土地譲渡を無効として没収し、徴税に対しても容赦ない厳しさを示しました。そのため各方面から嫌われ、教会との対立を招きました。そこで総主教ミカエル1世を逮捕しましたが、それは民衆の怒りを呼び、教会の敵意と文官貴族の反抗を招きました。1059年に狩りの時の傷が悪化して深刻な病となると彼は退位し、修道士となって1061年に死亡しました。
 次いで帝位に就いたのは元老院議員コンスタンティノス・ドゥーカスでした。即位してコンスタンティノス10世となった彼はコンスタンティノス9世の文治主義を受け継ぎ、行政費の増大の一方、軍隊は縮小され帝国の防衛の崩壊を招きました。北方からはペチェネグ族が、東方からはセルジューク族が侵入してきました。
 コンスタンティノスの死後、皇后エウドキアが摂政となりましたが、強力な軍事政権樹立の要望から、エウドキアはカッパドキアの将軍ロマノス・ディオゲネスと結婚し、彼はロマノス4世として即位しました。彼はただちにセルジューク族との戦いに着手し、ペチェネグ族・ロシア人・ノルマン人などの傭兵軍を集め、セルジューク朝に抵抗しました。1071年ロマノスは軍を増強しマンズィケルトでセルジューク軍と会戦しましたが、大敗しロマノス自身捕虜となってしまいました。
 ロマノス敗北の報が首都に伝わると、エウドキア等はロマノスを廃位し、エウドキアの子ミカエル7世が即位しました。釈放されたロマノスは抵抗しましたが、捕らえられ眼を刳り抜かれ流刑となり、1072年死亡しました。
 マンズィケルトの敗北と同年、南イタリアのビザンツ領はノルマン人の手に落ち消滅しました。帝国経済は危機に瀕し、反乱も相次ぎました。アナトリコン・テマの長官ニケフォロス・ボタネイアテスは小アジアで反乱を起こし、首都での反乱により退位したミカエル7世のあとを受けて即位し、ニケフォロス3世となりました。彼はミカエル7世の皇后マリアと結婚し、その子コンスタンティノス・ドゥーカスを後継者に指名しました。しかしトルコ人が首都近郊を荒らしているのに、貴族の反乱にたいする対策に忙殺されました。
 アレクシオス・コムネノスが反乱を起こし、大きな抵抗もなく首都入城を果たすと、ニケフォロス3世は退位し修道院へと退去しました。

コムネノス朝 (1081~1185)

 アレクシオス・コムネノスの即位は、11世紀の文官貴族と軍事貴族の争いに、後者が決定的な勝利を収めたことを示す出来事でした。彼は、軍事貴族の支持を得て、帝国存亡の危機を救いました。即位してアレクシオス1世となった彼は、ヴェネツィアと同盟を結び、南イタリアを征服したノルマン人ロベール・ギスカールの攻撃を撃退しました。ただしその見返りとしてヴェネツィアに莫大な特権を与え、以後ヴェネツィアの動向が帝国政治へ影響を与えることとなりました。
 帝国の西方ではペチェネグ族・クマン族等の侵入に苦しめられましたが、それを収め東方の帝国領を奪回していこうとした矢先、十字軍が到来し彼の計画は大きく狂わされました。ルーム・セルジューク朝に対抗するために彼が西欧に求めたものは傭兵でしたが、それに対して西欧が送り出してきたのは聖地奪還を唱える十字軍であって、ビザンツにとってはトルコ人同様帝国を脅かすものでしかありませんでした。十字軍は通過地であらゆる乱暴を行っており、それまでにもあったラテン人とギリシア人の相互不信と対立感情を増幅させるだけで、第1回十字軍の結果建設されたエルサレム王国をはじめとするラテン系諸国とビザンツ帝国の対立は深まる一方でした。またアレクシオスは爵位改革、貨幣改革にも取り組みました。
 彼の死後、息子のヨアンネス2世が帝位を継ぎましたが、姉のアンナ・コムネナによる帝位簒奪の陰謀が発覚しました。しかしヨアンネスは寛大な処置をとり、〈善良なるヨアンネス〉と呼ばれ国民からも尊敬されました。対外的にはヴェネツィアに与えた特権の回復を企てたが失敗、東方では小アジア西部を回復しました。
 ヨアンネス2世の長男アレクシオスと次男アンドロニコスは1142年に相次いで死亡したが、三男イサキオスは健在でした。しかしヨアンネス2世は四男マヌエルの方が皇帝にふさわしいと言い、1143年彼がマヌエル1世として即位しました。マヌエルはかつてのローマ帝国の統一の回復という夢を抱いており、対外政策は西方中心となりました。また帝国は豊かな小アジアを失い、ヴェネツィア・ピサ・ジェノヴァなどイタリア諸都市に貿易上の特権を与え、そこから上がる関税収入を失ったため、財政状態はかなり厳しくなっていました。また、帝国の防衛強化のためプロノイア(有力者への土地贈与)の授与をしばしば行いましたが、それは中央権力の弱体化を助長しました。イタリアにおける領土回復の動きも反ビザンツ同盟の結成により失敗、東方では一時エルサレム王国に宗主権を確立しましたが、1176年ミリオケファロンにてルーム・セルジューク朝軍に大敗し、小アジア回復の希望は失われました。
 マヌエルの死後、12歳のアレクシオス2世が即位し、彼の母アンティオキアのマリアが摂政となりました。しかし前代に続く親ラテン的体制を民衆は嫌っており、その反ラテン感情は増大しつつありました。首都で摂政政府に対する反乱が起こると、マヌエル1世の従兄弟であるアンドロニコスは首都に向けて進軍し、1182年首都へ入り摂政アンティオキアのマリアを殺し、翌年にはアレクシオス2世の共治帝となりました。
 二ヶ月後、アレクシオス2世は殺され、唯一の皇帝となったアンドロニコス1世はその立場を固めるため、当時まだ13歳であったアレクシオス2世の妃でフランス王女のアニェス(アンナ)と結婚し国内政治の改革を試みました。官職売買を廃止し、汚職を摘発し、課税を和らげ、圧迫された貧民層を保護し、貴族層は厳しく押さえつけました。この政策は当然高官や大土地所有者層の反対を呼び、次第にアンドロニコスの政治は恐怖政治へと化していきました。これはかえって帝国から有能な軍事指導者を奪い、彼の支持者であった民衆の心も離反させることとなりました。
 対外的には、バルカン半島ではハンガリー・セルビアが帝国領を浸食し、キプロスも反乱によって失われました。西方ではビザンツの二大敵国ドイツとシチリア王国が結びつき、シチリア王ギヨーム2世はビザンツへの遠征を準備しました。このため、アンドロニコスは西方との交渉に入らざるを得ず、アンドロニコスへの人気を失わせることとなりました。しかし1185年ノルマン軍のビザンツ領への侵入が開始されると、都では反乱が起こり、アンドロニコスは廃位され虐殺されました。こうしてコムネノス朝は終焉を迎えました。

アンゲロス朝 (1185~1204)

 アンドロニコス1世が廃位されると、彼に反対する貴族達の指導者的地位にいたイサキオス2世アンゲロスが皇帝に選ばれました。しかし、彼にはコムネノス朝の皇帝たちのような優れた政治的資質も強力な個性もなく、行政の腐敗は急速に広がり、帝国への求心力はますます弱くなっていきました。アンドロニコス1世の時に始まったノルマン軍の侵攻は、あまりにもビザンツ軍を軽視したノルマン軍の敗北によって講和が結ばれましたが、バルカン半島ではブルガリアが1186年に独立を回復し、ブルガリア国家の復活を阻止しようというイサキオスの試みも失敗に終わりました。
 イサキオス2世は三度目のブルガリア遠征を計画した矢先、弟アレクシオスの陰謀により権力を奪われ盲目にされました。兄から帝位を奪ったアレクシオス3世でしたが、帝国の中央権力の弱体化は止まることを知らず、地方には分離的傾向が現れてきました。1201年に結成された第四回十字軍は費用調達のため、前皇帝イサキオスの息子アレクシオスの帝位奪回の試みを援助することとなり、十字軍がキリスト教国ビザンツの首都コンスタンティノープルを攻撃するという事態に陥りました。
 1203年7月にはアレクシオス3世は帝都から逃亡し、幽閉されていたイサキオス2世を帝位に就け、息子のアレクシオスも共治帝としてアレクシオス4世となりました。アレクシオス4世がラテン人の援助によって帝位を回復したので、民衆は彼のことを嫌い、ラテン人への支払いのために教会の聖器を徴収したことに怒って、暴動を起こしました。そうした不穏な中、アレクシオス3世の義理の息子であるアレクシオス5世ドゥーカス・ムルツフロスの陰謀でアレクシオス4世とイサキオス2世は殺され、新皇帝アレクシオス5世は彼の先任者がラテン人と結んだ同意をすべて破棄すると宣言しました。それは十字軍による首都攻撃をもたらし、アレクシオス5世は首都防衛に失敗し逃亡(のちに十字軍に捕らえられ首都のテオドシウス記念塔のてっぺんから投げ捨てられて死んだ)したため、市の防衛に奮戦したコンスタンティノス・ラスカリスが皇帝として宣言されたという説(彼は皇帝候補者にすぎないという説、弟のテオドロス[のちのニケア皇帝テオドロス1世]が即位したという説もあり定かではない。)もありますが、防衛を再編するにはすでに手遅れで、ラスカリス兄弟もヴォスポロス海峡の対岸へと避難せざるを得ませんでした。そして十字軍士は何の抵抗も受けずにコンスタンティノープルに入城し、市は三日間にわたって略奪されました。
 首都を占領した十字軍はフランドル伯ボードゥアンを皇帝に選びラテン帝国を建国しました。以後約60年に渡り首都コンスタンティノープルはラテン人の支配下に置かれることになります。

ラスカリス朝ニケア帝国 (1204~1259)

 1204年のコンスタンティノープル陥落の際に、征服者のもと何らかの地位を得たものも多かったが、ラテン人に征服された土地を離れ、非征服地にて地方人民の支持を得て新しい政治組織を作り上げたものたちもいました。それが黒海沿岸のトレビゾンド帝国、バルカン半島のエペイロス専制公国、そしてこのラスカリス朝ニケア帝国です。
 アンゲロス朝のアレクシオス3世の娘アンナの夫テオドロス・ラスカリスは、コンスタンティノープル陥落直前に皇帝に推された兄のコンスタンティノスとともに小アジアに逃れ、ブルサを拠点として亡命帝国の基礎を作る仕事を始めました。しかし未だ十分な態勢を整えていなかったテオドロスはラテン帝国のボードゥアン1世の優勢な軍隊によって敗北し、小アジアの拠点を失ったかに思われましたが、幸運なことにボードゥアン1世はブルガリア軍に敗北して捕虜となりました。この間にテオドロスは勢力を回復していきました。
 1205年、テオドロスはニケアにて正式に即位し、テオドロス1世を称しました。この時期のニケア帝国にとって主な敵はラテン帝国よりもルーム・セルジューク朝でしたが、1211年の戦いで一度は大敗を喫したものの、次の戦いではスルタンを戦死させて、身近な最も危険な敵を倒したのです。
 テオドロスには息子がなかったので長女エイレーネの夫ヨアンネス3世・ドゥーカス・ヴァタツェスが後を継いで皇帝となり、1225年にはラテン帝国に勝利し小アジア側のラテン帝国領をほとんどすべて奪い取りました。そしてアドリアノープル市民の呼びかけを口実としてヨーロッパ側に進軍し一時はコンスタンティノープルのすぐ近くまで迫りましたが、テサロニキの皇帝テオドロスによって首都奪回は阻まれました。
 1235年ヨアンネスはブルガリアと同盟を結び、同盟軍は海陸からコンスタンティノープルを包囲しましたが、ブルガリアの政策変更により再び首都奪還はなりませんでした。しかし1241年にブルガリアのアセン2世が死去し、幼いコロマンが後を継ぐとブルガリアの脅威は弱くなり、翌年にはテサロニキに宗主権を認めさせることができました。また小アジアのルーム・セルジューク朝はモンゴル族の侵略により弱体化し、小アジアにおけるニケア帝国の領土を広げ、1246年にはテサロニキを征服しました。
 ヨアンネスの後は息子のテオドロス2世が継ぎました。(彼は母方の名を取ってラスカリスと称しました) 彼は少年時代からの友人ムズァロンを補佐役としたため、有力貴族の反感を買い彼らとの対立を深めました。また対外的にもエペイロス専制公国との戦いは劣勢でした。
 36歳でこの世を去ったテオドロスの後を継いだのはわずか7歳のヨアンネス4世でした。そして前皇帝の補佐役から現皇帝の摂政となったムズァロンへの反感は高官たちの宮廷クーデターを引き起こし、ムズァロン兄弟は殺され、ミカエル・パレオロゴスが摂政となりました。彼は大公、そして専制公となり、1259年には共治帝となり、権力を掌握しました。同年秋にはペラゴニアで、エペイロス・アカイア・シチリアの同盟軍を破り、コンスタンティノープル奪回を阻止する勢力はなくなりました。そして1261年7月、とうとうコンスタンティノープルは奪回され、ビザンツ帝国は復興しました。
 9月にミカエル・パレオロゴスは二度目の戴冠式を行いましたが、正統皇帝ヨアンネス4世はニケアで無視されていました。そしてミカエルは自らの権力を確保するため、ヨアンネス4世を盲目の刑に処し、プロポンディス南岸の城に1305年頃まで幽閉しました。こうしてミカエルは唯一の皇帝ミカエル8世となりましたが、小アジアではラスカリス家を支持する流れが長く続きました。

パレオロゴス朝 (1259~1453)

 帝都コンスタンティノープルを回復し、ビザンツ帝国を復活させたミカエル8世でしたが、帝国はかつてに比べれば弱体化しており、周囲から敵の攻撃にさらされていました。東地中海の島々の多くはイタリア海洋都市国家が支配しており、ギリシャの中南部は未だフランク勢力の支配下にありました。バルカン半島北部にはセルビア・ブルガリアという二大スラヴ人国家に占領されていました。ミカエルは外交的手段によってシチリアを中心とする西欧の攻勢に対抗しようとしましたが、結局西側勢力との戦いが再開され、始め有利だったビザンツ軍も次第に後退を余儀なくされました。
 シチリアがローマ教皇と対立するホーエンシュタウフェン家のマンフレッドから教皇庁の被保護者でフランス王弟のシャルル・ダンジューの手に移ると、シャルルはアカイア公国・ブルガリア・セルビアと手を結びビザンツに攻勢を掛けましたが、ミカエルはローマ教皇・ハンガリー王国・キプチャク=ハーン国・イル=ハーン国との連繋によってそれを阻止しました。そして東西教会の統一の実現により、ローマ教皇がシャルル・ダンジューのビザンツ征服計画を断念させると、ビザンツ側は反撃に転じエーゲ海諸島のかなりの部分を回復しペロポネソス半島でも領土を広げました。しかし国内的には教会とミカエルとの関係は悪化し、各地で反ミカエルの動きが活発になりました。
 1281年マルティヌス4世が教皇となると、教皇庁はシャルル・ダンジューの言いなりとなり、バルカンの君主たちも反ビザンツ戦線に加わり、ビザンツ帝国の命運はつきたかに思われました。しかしミカエルはこの窮地をアラゴンのペドロ3世(かつてのシチリア王マンフレッドの娘婿)と手を結ぶことで脱しました。1282年、「シチリアの晩鐘」事件と呼ばれるアンジュー家支配に対するシチリア人の反乱が勃発しアラゴンのペドロ3世がシチリアの支配者となりました。こうしてシャルル・ダンジューのビザンツ征服計画は不可能となり、帝国は最大の危機を脱しました。
 ミカエルの死後即位した息子のアンドロニコス2世は、高度の教養人でしたが、政治的には次第に帝国の没落を招きました。エペイロス・テサリアの関係悪化に付け入りアドリア海沿岸まで領土を広げましたが、一方ではジェノヴァ勢力に傾いたためヴェネツィアとの対立を招き、かえって国力は弱体化しました。またバルカン方面に関心を向けて東方国境への注意をおろそかにした結果、小アジアにおけるトルコ勢力の攻勢を招き、事実上小アジアはトルコ領と化しました。財政危機解消のため軍隊の削減を行い、軍事的には無力化していたビザンツは傭兵に頼らざるを得ず、カタルーニャ軍団を受け入れたものの、後には逆に国内を荒らされ結果となりました。
 アンドロニコス2世のあとは、共治帝となっていた息子ミカエル9世が後継者と目され、その子アンドロニコス3世がそれに継ぐ後継者とされていましたが、祖父との関係は次第に悪化しアンドロニコス3世の側近がアンドロニコス2世の暗殺をはかるまでになり、それがミカエル9世の死を早め、彼は1320年死亡しました。そして翌1321年にはアンドロニコス3世は反乱を起こし、支持者を得るため無責任な人気取り政策を約束したため、民衆の支持を得て老帝は和平を急がざるを得ませんでした。一旦和平を結んだものの、その後内乱が再発し、1328年アンドロニコス2世は廃位され、孫のアンドロニコス3世が正帝となりました。
 アンドロニコス3世の統治下で実権を握ったのは、その側近であるヨアンネス・カンタクゼノスでした。内乱によって帝国の財政は逼迫し、対外的にも弱体する一方でした。ヨーロッパ側ではセルビアのステファン4世ドゥシャンがマケドニアを征服し、小アジアでもオスマン朝が周辺の諸侯国を吸収し膨張を続けていました。しかしエペイロスでは分派国家が弱体化し、1340年には帝国の一地方となりました。
 アンドロニコス3世が死ぬと、その子ヨアンネス5世が9歳で即位しましたが、ヨアンネス・カンタクゼノスの不在を利用しクーデターを起こし、母后アンナとヨアンネス14世カレカス総主教、そしてアレクシオス・アポカフコスが実権を握りました。カンタクゼノスはトラキアの豪族の支持を得て皇帝を宣言して内乱は激化し、テサロニキでは「熱心党」が反乱を起こして支配し事実上独立状態となりました。
 カンタクゼノスは次第に優勢となり、1347年首都に入場し皇帝として認められヨアンネス6世となり、娘のヘレナとヨアンネス5世を結婚させました。しかしこの内乱によって帝国は寸断され、その領土はトラキア・エーゲ海北部の諸島・ペロポネソス・テサロニキに限定されました。帝国経済は破綻し、一時再建されたビザンツ海軍は再び壊滅、農地は荒地と化し、貿易も衰退しました。またヨアンネス5世が成長すると、次第にヨアンネス6世との対立を深め、一時帝権を剥奪されたものの、1355年には逆にヨアンネス6世カンタクゼノスの方が譲位を余儀なくされ修道院で余生を送りました。
 こうしてヨアンネス5世は実権を握りましたが、セルビア・オスマン=トルコの脅威から帝国を救う手だてはありませんでした。帝国征服を狙っていたセルビアのステファン4世ドゥシャンが1355年に死亡するとセルビアは弱体化しましたが、この機を捉えて失地回復をする力はビザンツ帝国には残っていませんでした。その後オスマン=トルコはバルカン側の帝国領を征服し、小アジアからバルカン半島にまたがる国家へと発展していきました。ヨアンネス5世は西欧の援助を引き出すため、西欧諸国を巡りカトリックに改宗までしましたが、西欧の援助を得ることには失敗しました。
 1373年ヨアンネス5世の息子アンドロニコス4世は反乱を起こしたもののすぐに鎮圧され、息子ヨアンネス7世とともに逮捕されて帝位継承権を奪われ、ヨアンネス5世の次男マヌエル2世が共治帝として戴冠しました。アンドロニコス4世は1376年牢から脱出して反乱を起こし、1378年には首都に入り父と弟を牢に入れましたが、翌1379年にはヨアンネス5世が権力を取り戻しました。ペロポネソスではデメトリオス・カンタクゼノスがビザンツ政府からの独立を試みたためヨアンネス5世は三男テオドロス1世に軍を与え、テオドロスはデメトリオスを破ってミストラで専制公として支配することになりました。アンドロニコス4世は1385年に再び反乱を起こして失敗し、その直後死亡しました。
 北セルビアのラザール公が1389年コソヴォでオスマン=トルコ軍に敗北し、ラザールが殺されるとオスマン=トルコに抵抗する勢力の中心が失われ、バルカン半島のトルコ征服が決定づけられました。
 アンドロニコス4世の息子ヨアンネス7世はオスマン=トルコ・ジェノヴァの支持を得て反乱を起こし、1390年に帝位を獲得しましたが、マヌエル2世が反撃してヨアンネス7世を追い出し、支配を回復しました。ヨアンネス7世はその後マヌエル2世と和解し摂政としてマヌエル2世に仕えました。
 1391年にヨアンネス5世が死亡すると、マヌエル2世が帝位に就きましたが、帝国の滅亡は目の前に迫りました。1396年にハンガリー王ジギスムントの呼びかけで結成された十字軍がオスマン=トルコに大敗すると、マヌエル2世は自ら西欧に赴いて訴えることを考え、ヴェネツィア・パリ・ロンドンなどを訪問しましたが、具体的な成果は見出せない状態でした。
 こんな状況下、オスマン=トルコのバヤズィット1世が1402年アンカラでティムールに敗れ捕虜となるという大事件が起こり、バヤズィット1世は翌年に死亡し、オスマン=トルコは一時解体状態となりました。ビザンツ帝国は首都の包囲を解かれ、一時的にオスマン=トルコの軛から解放されました。バヤズィット1世死後のオスマン=トルコはマヌエル2世の支持を得たメフメト1世が統一したため、ビザンツの独立状態が守られましたが、その死後ムラト2世が即位すると、オスマン=トルコは再びビザンツに攻撃的政策を取るようになり、1422年首都を包囲したものの反乱が起きたので包囲を解いてアジア側に引き揚げました。1421年にヨアンネス8世が共治帝となると、マヌエル2世は実質的に引退し1425年死亡しました。帝国領はすでに没落した首都周辺とペロポネソス半島のモレア専制公領しかなく、ヨアンネス8世は再び東西教会の統一によって西欧の救援を得ようとしていました。1439年教会統一が宣言されたものの、かえって国内の分裂を促進し、西欧からは何の援助も得られず、教会統一は失敗に終わりました。
 その頃オスマン=トルコに対する抵抗の矢面に立っていたのはハンガリーでしたが、1443年ヤノーシュ・フニャディ率いる十字軍はオスマン=トルコ軍に勝利しました。しかし翌1444年にはヴァルナで十字軍が敗北し、キリスト教国側の希望は砕かれました。
 1448年、ヨアンネス8世が死亡すると、弟のコンスタンティノス11世が帝位に就きました。1451年にオスマン=トルコのスルタン・ムラト2世が死亡しメフメト2世が即位すると、彼はコンスタンティノープル占領の意志を固めました。1453年4月メフメト2世は8万から10万といわれる大軍と120隻以上の艦船でコンスタンティノープルを包囲しました。それに対するビザンツ軍は約5000人のギリシア人とヴェネツィア他の外国人兵士7000人、26隻の軍船でした。4月22日、ヴォスポロス海峡から陸上に船を引き上げて金角湾に船を入れると、コンスタンティノープルは海陸から攻撃を受けるようになりましたが、よく持ち堪えていました。5月29日、総攻撃が始まったもののビザンツ軍は長時間に渡り抵抗しましたが、防衛側が閉め忘れた小門からトルコ兵が侵入し、外国人傭兵の指揮官ジョヴァンニ・ジュスティニアーニが負傷したため防衛側に混乱を起こし、トルコ軍はとうとう防御を突破し、皇帝コンスタティノス11世も最後まで戦って戦死し、コンスタンティノープルは征服されました。
 そしてコンスタンティノープルは1000年の長きに渡ったビザンツ帝国の首都から新興国オスマン=トルコの新しい首都となりました。

パレオロゴス朝の末裔

 コンスタンティノープルが陥落しビザンツ帝国が滅亡すると、その血統を引くものは最後の皇帝コンスタンティノス11世の弟でモレア・ミストラの専制公であったデメトリオストーマースだけとなりました。デメトリオスははじめスルタン・メフメト2世から情に溢れた待遇を受けましたが、彼の義兄弟マテオス・アセンの下僚がスルタンへ納めるべき収入を着服した責を問われその食邑を没収されました。最後は修道院に入り1470年に没しました。
 もう一人の弟トーマースは1460年イタリアへ脱出し、いつの日かモレアに帰還することに望みをかけてイタリアに留まったものの1465年にこの世を去りました。
 トーマースの娘ゾエ・ソフィアはモスクワ大公イヴァン3世と結婚し、ロシアにビザンツの伝統を受け継がせたことで知られますが、息子達はビザンツの栄光とは無縁の生涯を送りました。アンドレアスは、イタリアに留まりビザンツの帝位継承者として遇されましたが、その品行は皇帝にふさわしいものではなく、また莫大な負債を抱えていました。彼が1502年に没した際には、その葬料を教皇に乞わねばならないという有り様でした。アンドレアスの息子・コンスタンティノスは凡庸な青年で一時は教皇の護衛隊長を務めていましたが、その没年は不明です。
 トーマースのもう一人の息子マヌエルは、少青年期をイタリアで過ごしましたが、1477年頃突然コンスタンティノープルに旅立ち、スルタンに仕えました。彼の息子のうちヨアンネスは若くして死去し、アンドレアスはイスラムに改宗して、メフメト・パシャという名のもとに宮廷官僚として生涯を終えました。
 以上は、ランシマンの『コンスタンティノープル陥落す』(みすず書房)によるパレオロゴス朝の末裔の運命ですが、この書ではこのトーマースの孫コンスタンティノスとメフメト・パシャでパレオロゴス朝の皇統は断絶したとなっています。ですが、松本好晴さんからいただいた情報によりますと、系譜上、現代まで連綿と続いているパレオロゴス家の血統があるというのです。それによりますと、パレオロゴス家の男系子孫としては次の4系統があるそうです。


(以下、@nifty歴史フォーラムにおける松本さんの発言より引用)

 1.コンスタンティノス11世の弟モレア王トマスの第1皇子ロジェリオの子
   パレオロゴ・マストロジョバンニ家(Palaologo Mastrogiovanni)。
   代々プリンス・オブ・ビザンティウム(Prince of Byzantium)という
   ものすごい権威ありそうな称号を冠しています。(^^;)

 2.モレア王トマスの第3皇子マヌエルの子ヨアンネスの第2?子リカルド
   ゥスの子孫のパレオロゴス家。英国ワイト島でモレア公(Duke of Morea)
   を称しています。

 3.2項リカルドゥスの兄弟アンドレアの子孫。

 4.ヨアンネス8世の弟テッサロニケ王アンドロニコスの子孫。おそらくこ
   の系統も男子の血統が現在まで続いていると思われます。

 以上の4系統以外にもパレオロゴス(パレオロゴ)を名乗る系統がいくつかあるそうですが、断絶せず現在まで続いている家系については、大別して、1.女子による家系の継承、2.マヌエル2世以前の分家と思われる子孫、3.系統不明確な家系、などに分類することができるそうです。以上は「THE PALAEOLOGOS FAMILY」という小冊子による情報だそうです。

 ここではプリンス・オブ・ビザンティウムを称したパレオロゴ・マストロジョバンニ家と、モレア公を称したワイト島のパレオロゴス家の系図を記します。
 ワイト島のパレオロゴス家は1988年1月9日付けの朝日新聞の記事で紹介されていますが、その記事によるとトーマースの子孫が1558年にワイト島に渡り同島の行政長官の娘ジョーン・ドーンツイと結婚、今日まで「皇帝」の地位を継承してきたそうで、同年1月2日に「皇帝」ペトロス1世パラエロゴス氏が50歳で死去しましたが、「ペトロス1世」は死去の前に甥の息子を”次期皇帝”に指名したそうです。ということは現在はその方が「ビザンツ皇帝」を名乗っておられるんでしょうね。


 さて先日、パレオロゴス朝の末裔について松本さんより再び情報を頂きましたので、ご紹介します。
 最近芸能ニュースを賑わせているデヴィ夫人が昨年来「ビザンチン皇室慈善舞踏晩餐会」というパーティーを開いているそうですが、このパーティーの主賓はパレオロゴス朝の末裔にあたる方だということがわかりました。以下は松本さんの御説明を引用します。

 アンリ・コンスタンチン・パレオロゴ殿下の先祖は、最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の兄ミストラ専制公テオドロスに遡ることが出来ます。
 このテオドロスの子孫は16世紀に入りピエトロ・デメトリオの子供たちの代に2流に分かれ、兄のジェロラモの子孫はおそらくローマに、弟のジョバンニ・ジョルジオの子孫はマルタ島に栄えます。マルタの貴族 San-Giovanni男爵家や Ciantar-Paleologo伯爵家などはジョバンニ・ジョルジオの女系の子孫にあたります。
 さて、ローマのパレオロゴ家は、1874年に男子の跡取りが絶えたので、女子を介して、別系統のパレオロゴ家が家督を継承します。
 このパレオロゴ家はビザンツ皇帝の皇統とは全く別系統で、ネロ皇帝の直系の子孫であると称しています。しかし、直接の先祖は、皇帝ロマノス1世レカペヌスの娘ゾエと結婚したジョバンニ・パレオロゴという人物で、彼の後裔はビザンツ皇帝の一門やモンフェラート侯爵家、セルビア王家など、有力な王侯貴族と婚姻関係を結んでいます。したがって名門であることに違いはないのですが、それほど有力な一門であったかどうか定かではありません(実際この家系が正しいかどうかも)。
 こうした2つのパレオロゴ家の血統を引いているのが件のアンリ・コンスタンチン・パレオロゴ殿下なのです。

 ということで、ネロの血を引くなんていうのはいかにも怪しいですが、まあこんな貴族もいたんだということでご紹介していきます。なおアンリ・コンスタンチン・パレオロゴ殿下は、もともとイタリアの出身で、王制が廃止されてから、ヨーロッパやアメリカなどいろんな国を転々として、現在はフランス在住だそうです。名前が「アンリ・コンスタンチン」とフランス語読みになっているのは、そういった理由からです。

 ※松本好晴さん、いつもいつも貴重な情報ありがとうございます