ヴァロア朝(1328-1589)系




※ ●はフランス王、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
シャルル4世が1328年一女を残し没すると、サリカ法により王統は従兄のヴァロア伯フィリップが継ぎ、フィリップ6世として即位しました。ヴァロア朝の始まりです。
しかし、シャルル4世の姉イザベルの息子であるイングランド王エドワード3世は王位継承を主張し、いわゆる百年戦争が始まりました。戦争初期はエドワード3世の息子エドワード黒太子の活躍もありイングランド側が優勢で、1356年のポワティエの戦いではフランス王ジャン2世が捕虜となり、1360年のブレティニの和約では多額の賠償金の支払いと領土割譲を余儀なくされました。
中期は一時フランス側が盛り返しましたが、シャルル6世の発狂、そしてアザンクールの大敗(1415)により、王女カトリーヌをイングランド王ヘンリー5世の妃とし、ヘンリーをフランスの王位継承者と指定することとなりました。
王太子シャルルはオルレアンに包囲され絶望的状況に陥りましたが、ジャンヌ・ダルクの活躍で解囲され、1429年ランスで戴冠しシャルル7世となりました。以後、戦局は一変し、フランス軍は優勢となり、遂にカレー市をのぞく全フランスからイングランド軍を撃退し、百年戦争を終結させました。
以後、王家は王権の回復に着手し、ルイ11世は最大諸侯であるブルゴーニュ公シャルルに勝利して国内の大諸侯を抑え、シャルル8世はナポリにおけるアンジュー家の権利を回復せんと遠征を行うなど、王権の強化と絶対王政への足掛かりが築かれました。
しかしシャルル8世は子なく没したため、ヴァロア家の直系は絶え、分家ヴァロア・オルレアン家のルイ12世が王位を継承することとなります。

※ ●はアランソン伯のち公、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順及び母を表します。
ヴァロア・アランソン家はヴァロア家の最も古い傍系で、ヴァロア朝の祖・フィリップ6世の弟シャルル2世より始まる家系です。その後シャルル2世の子シャルル3世・ピエール2世を経て、以後はジャン1世・ジャン2世・ルネ・シャルル4世と直系で続きますが、シャルル4世に子がなく1525年に断絶します。
この家系は初代公爵ジャン1世がブルターニュ公爵家から夫人を迎え、二代公爵ジャン2世はフランス王ルイ12世の姉婿、三代公爵ルネがロレーヌ公爵家から夫人を迎え、四代公爵シャルル4世がフランス王フランソワ1世の姉婿と名門家系から夫人を得ているものの、アランソン家自体は非常に印象の薄い家系で、百年戦争というフランス史上の動乱期にもどのような動向を示したのか、今ひとつよくわかりません。


※ ●はアンジュー伯(公)、◆はナポリ王(王位要求者)、配は配偶者、1)2)は結婚の順序です。
今回のヴァロア系アンジュー家はジャン2世の子ルイ1世を祖とします。カペー系アンジュー家が保持していた「アンジュー伯」の称号はナポリ王カルロ2世の娘マルグリットが受け継ぎ、彼女とヴァロア伯シャルル・ド・フランスの子フィリップ(後のフランス王フィリップ6世)に受け継がれます。そしてその子ジャン2世を経てルイに引き継がれ、ヴァロア系のアンジュー家を始めることになりました。
カペー系アンジュー家のナポリ女王ジョヴァンナ1世が1382年に没して直系が絶えると、傍系のドゥラッツォ家のカルロ3世が王位を継ぎましたが、カルロ3世はカルロ2世の末子ジョヴァンニの孫であったので、アンジュー公ルイ1世は自らの継承権の優勢を主張し、ナポリ王位を要求しました。
また、彼の息子ルイ2世はアラゴン王ファン1世の娘ヨーランドを妃としていましたが、ファン1世の弟マルティン1世が1410年継承者なく没すると、ファンとマルティンの妹エレオノラの息子でカスティリャの王子フェルナンド(1世)が王位を継いだため、ヨーランドの継承権の優勢を主張し、アラゴン王位を要求しました。
しかしアラゴン王位は結局フェルナンドの子孫が継承し、孫のフェルナンド2世の代にカスティリャ女王イザベル1世と結婚し、アラゴンとカスティリャの合同が実現しました。
一方、ナポリ王位ですが、カルロ3世の娘ジョヴァンナ2世はアラゴン王アルフォンソ5世と結び、王位を要求するアンジュー公ルネ1世(ルイ2世の子)と対抗しましたが、のちジョヴァンナとアルフォンソは分離し、彼女の死後は結局ルネがナポリ王となりました。しかしその後もアルフォンソとの相続争いは続き、結局1442年ルネはアルフォンソに逐われナポリ王位を失ってしまい、プロヴァンスのエクスに引退しました。
また、ルネはロレーヌ公の娘イザベルと結婚しロレーヌ公領をを手に入れましたが、ロレーヌ公の一族ヴォーデモン伯と継承権を争い、一時は捕虜となりました。結局、彼の娘ヨーランドとヴォーデモン伯の息子フェリ2世(6世)が結婚し、その子孫がロレーヌ公位を継承することとなります。(ちなみに彼らの子孫がオーストリアの女帝マリア・テレジアの夫となるフランツ1世です。)
ルネの死後、甥のシャルル4世がナポリ王位継承権やプロヴァンス伯位を継承しますが、彼も1年後には没し、その財産はフランス王ルイ11世に遺贈されました。
最終的にアンジュー公領は1584年に王領に併合されてしまいますが、以後アンジュー公はフランス王族の称号として受け継がれていきます。

※ ●はベリー公、配は配偶者、1)2)は結婚の順序です。
今回のヴァロア・ベリー家はジャン2世の子ジャン1世を祖とします。ジャン1世は1360年ベリー公に叙され一家を立てました。この家の縁戚関係を見ると、ジャン1世の妃がアルマニャック伯爵家の出であり、長女ボンヌがアルマニャック伯爵へ嫁いでいます。また、次女マリーがブルボン公爵家から夫人を迎え、三男ジャン2世がブルボン家の分家から夫人を迎えており、アルマニャック・ブルボン両家との縁が深いようです。
ジャン1世が没した時にはシャルル、ルイ、ジャン2世の男子三名はすべて没しており、ヴァロア・ベリー家は断絶することになりましたが、長女ボンヌの血統はサヴォイ・アルマニャック両家に、次女マリーの血統はブルボン宗家に受け継がれました。


※ ●はブルゴーニュ公、配は配偶者、1)2)は結婚の順序です。
ブルゴーニュは956年からカペー系の一族が支配していましたが、1361年にフィリップ1世が20歳の若さで世を去ると、カペー・ブルゴーニュ公爵家は断絶し、その領土は国王ジャン2世によって王領に編入されることとなりました。
しかし、1363年にジャン2世の息子フィリップ(2世)にブルゴーニュ公爵位が授けられ、ヴァロア・ブルゴーニュ公爵家(第3ブルゴーニュ公爵家)が成立することとなりました。
フィリップ2世は、百年戦争中ポワティエの戦いで勇戦し〈剛勇公〉の名を得たが、ブルゴーニュ公に封ぜられ、そしてフィリップ1世の妻マルグリット2世・ド・フランドルと結婚し、フランドル・アルトワ・ヌヴェール・ルテル・ブルグント(フランシュ・コンテ)・リンブルクなどをその所領に組み込みました。兄の国王シャルル5世の死後は甥シャルル6世の四摂政の一人となりました。
その子ジャン無畏公は、百年戦争中フランスを二分して争った一方の勢力ブルゴーニュ党の統領としてイギリスと結び、フランス王室を支持するアルマニャック党と対抗しました。
彼の子フィリップ3世はしだいにイギリスから離れ、シャルル7世と和を講じました。また、彼の代に叔父アントワーヌそしてその子たちの死により、彼らが保持していたブラバント・リンブルクを、また従妹ヤコバからエノー・ホラント・ゼーラントを得ました。さらに1451年にはルクセンブルクを手に入れ、独仏国境間にカロリング家のロートリンゲンに似た領域複合体を形成しました。
彼の子シャルル勇胆公は、政治的に独立した地位を追求し、国内の独立貴族を連合して国王ルイ11世に対抗する〈公益同盟〉を結成し王軍を圧倒しました。
しかし、彼は1477年にロレーヌ公と交戦中ナンシで戦死し、娘のマリーは皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラント、ルクセンブルク、フランシュ・コンテなどはハプスブルク家領となりましたが、フランス側のブルゴーニュなどはフランス王家領となり、ブルゴーニュ公爵家は消滅しました。その結果、フランス王権伸張の最大の障害が除かれることとなったとともに、以後長期に渡るフランスとハプスブルク家の対立が始まることになりました。


※ ●はフランス王、◆はオルレアン公、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順ですです。
1498年、直系ヴァロア家最後の王シャルル8世が没すると王位を継いだのは、分家ヴァロア・オルレアン家の当主ルイ2世(のちのルイ12世)でした。
ヴァロア・オルレアン家はフィリップ6世の子フィリップがオルレアン公に叙されたのがはじまりですが、この時はフィリップに嫡子が無くすぐ断絶してしまいました。その後、シャルル5世の子ルイ1世がオルレアン公に叙され、第2のヴァロア・オルレアン家を開きます。1392年に兄である国王シャルル6世が発狂した後、ルイ1世は従兄であるブルゴーニュ公ジャンと実権をめぐって争い、1407年に暗殺されてしまいます。
ルイの後を継いだシャルルはアルマニャック伯の娘をめとってブルゴーニュ公に対抗し、その党派は「アルマニャック派」と呼ばれました。しかし、その対立抗争が影響し、1415年フランス軍はイングランド軍に大敗し、シャルル自身も捕虜となりイングランドに連行されました。
25年間の幽囚生活の後、帰国した彼はシャルル6世と大諸侯たちの間にたち、調停者たろうとしましたが、やがてブロアに隠棲し詩歌の道に専念しました。
シャルルの没後、3歳でオルレアン公位を継いだルイ2世は、国王シャルル8世の没後即位し、国王ルイ12世となりました。彼は、シャルル8世が始めたイタリア戦争を継続し、ミラノを占領しナポリを征服しましたが、イタリア諸都市やイギリス、スペインなどの連合軍に敗れ、イタリア征服の夢は挫折しました。また租税を軽減するなど内政にも意をもちい、〈人民の父〉と呼ばれました。
しかしとうとう後嗣に恵まれず、一族であるヴァロア・アングレーム家のフランソワ1世に王位を継承させ、ヴァロア・オルレアン朝は断絶しました。


※ ●はフランス王、◆はアングレーム伯(のち公)、配は配偶者、1)2)は結婚の順序です。
ルイ12世が1515年に没すると、彼の娘を妃としたアングレーム伯フランソワがフランソワ1世として即位しました。フランソワは、オルレアン公ルイ1世の子であるアングレーム伯ジャンの孫として生まれましたが、即位後は先王の後をうけてイタリア戦争を続け、1519年にはスペイン王カルロス1世(後の皇帝カール5世)とドイツ皇帝の位を争い敗れるなど、カールと生涯対抗しました。彼の息子アンリ2世も父の政策を受け継ぎましたが、寵臣モンモランシー、ギーズ公、年長の愛人ディアーヌらに政治は左右され、王権は弱化しました。
アンリのあとはフランソワ2世、シャルル9世と若年の王が続き、母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政として実権を握りましたが、大貴族ギーズ家が旧教徒の勢力を背景に王権に脅威を与え、旧教徒と新教徒の争いが激化し30年にわたるユグノー戦争が勃発し、1572年にはサン・バルテルミーの虐殺が起こるなどして、容易に結末がつきませんでした。
1584年に国王アンリ3世の王弟アンジュー公が没すると、新教徒であるブルボン家のアンリ・ド・ナヴァールが王位継承者となりましたが、旧教徒はギーズ公アンリを中心としてこれを認めませんでした。アンリ3世はギーズ家の勢力拡大をおそれこれを抑えようとしましたが、かえってパリを追われ、ついに1588年、ギーズ公アンリを暗殺しましたが、彼自身も旧教徒の怒りをかって暗殺され、結局ヴァロア・アングレーム朝は断絶し、アンリ・ド・ナヴァールがアンリ4世として即位しブルボン王朝を開きました。

※ ●はアングレーム公、配は配偶者、1)2)は結婚の順序です。
フランス王シャルル9世は24歳にして若くして没しましたが、彼には当時2歳のマリー・イザベルという女子(6歳で夭折)しかなかったため、実弟でポーランド王になったばかりのアンリ3世がその王位を継承しました。
しかしマリー・トゥーシュという女性が生んだシャルルという庶子がいました。彼は軍人としてブルボン朝のルイ13世に仕えましたが、1619年にアングレーム公爵に叙されます。
アングレーム公爵は彼の一族に縁の深い爵位で、彼の父シャルル9世の祖父・フランソワ1世が王位につく前に称していたアングレーム伯爵を即位後公爵位に格上げし、実母ルイーゼに与えたのがそのはじまりです。その後、アングレーム公爵位はオルレアン公爵位に継ぐ第三王位継承者の爵位としてフランソワ1世の三男シャルル、アンリ2世の三男シャルル(のちのシャルル9世)、同じく四男アンリ(のちのアンリ3世)、そしてアンリ2世の庶子ディアーヌと代々ヴァロア朝の王族に与えられました。
シャルルの次には彼の子ルイ・エマニュエルに継承されましたが、彼の息子達は次々と若死にし、結局娘のマリー・フランソワーズがアングレーム公爵位を継承しました。彼女は5代ギーズ公アンリ2世の弟ジョワイユ公ルイと結婚し、その後アングレーム公爵位はギーズ家に継承されました。


※ 配は配偶者、1)2)は結婚の順序です。
この系統はヴァロア朝最後の王アンリ3世の庶弟アンリ・ド・サン=レミーを祖としますが、詳しい情報はほとんどなく上記の系図が主な情報です。ルネ1世の子の代でレミ・セバスティアン系、ピエール系、ピエール・ジャン系の三系統に別れており、ピエール系は19世紀末まで続いていたようです。
唯一の有名人がピエール・ジャン系のラ=モット伯爵夫人ジャンヌ・ド・ヴァロアで、彼女は「王妃の首飾り事件」で有名ですね。彼女のことは映画などにもなっていますので詳細は省きますが、有罪とされ投獄されるも、民衆からの同情を集め、いつしか監獄から逃亡してイギリスに渡り、「回想録」を出版しマリー・アントワネットの名誉を大いに傷つけました。
しかしフランス革命下の1791年、精神錯乱の発作で窓から転落死したとのことです。


※ ●はロングヴィル伯(公)、配は配偶者、1)2)は結婚の順序です。
ヴァロア・ロングヴィル家はヴァロア・オルレアン家の傍系で、オルレアン公ルイ1世の庶子・ジャンを祖とします。当初はデュノワ伯・ロングヴィル伯の称号を名乗っていましたが、三代目のフランソワ2世の時にロングヴィル公となり、17世紀末まで存続しました。
ルイ2世の妃マリー・ド・ロレーヌは名門ギーズ家の出で、ルイ2世の没後はスコットランド王ジェームズ5世に再嫁し、のちの女王メアリ・スチュアートを生んでおります。
またその他にも、後半になるとヴァロア朝の分家アランソン家、ブルボン家の分家コンデ家など王家につながる各家と縁組みを結んでいます。特にアンリ2世の妃でコンデ家出身のアンヌ・ジュヌヴィエーヴは、「大コンデ」と呼ばれたフランス最大の将軍の一人コンデ公ルイ2世の姉で、フロンドの乱の有力な指導者の一人でした。

※ 配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順ですです。
ヴァロア・モンテージュ家はシャルル5世の庶子ジャン・ド・モンテージュを祖とします。とはいってもジャンの子どもたちの代で断絶してしまいますが... ジャンには一男三女があったようですが。長男シャルルはアルブレ家のカトリーヌと結婚するも、父の死の8年後19歳の若さでこの世を去り、モンテージュ家は絶えてしまいます。シャルルの妹たちはそれぞれ各地の貴族のもとに嫁ぎ、次女イザベルと三女ジャンヌはブルボン家の傍系ラ=マルシュ家の分家プロー家の二兄弟ピエールとジャックに嫁いでいます。
