32.有馬家⑱ 500石



有馬家は村上源氏嫡流久我家の分家となります。村上源氏は村上天皇の子具平親王の子の土御門右大臣師房を祖とする賜姓源氏の一つで、師房の姉隆姫女王が関白頼通室となっていたことにより頼通の猶子として養育され、13歳で元服して源朝臣姓を賜りその後累進して右大臣従一位まで昇進しました。師房の孫久我太政大臣雅実を家祖とし、久我の称は師房以来、京都の南西方の地久我に別荘を営みこれを伝領したことに由来しますが、久我の家号が定着したのは鎌倉前期、後久我太政大臣と称された通光以降のことです。
雅実は藤原氏以外で太政大臣に昇った最初ですが、雅実の祖母が藤原道長の娘尊子で藤原摂関家の血を引いてその庇護を受けていたこと、そして姉賢子が白河天皇の中宮となって堀河天皇の外戚となったことがその急速な昇進の力となりました。雅実の曾孫が後白河法皇、そして後鳥羽上皇の側近として辣腕を振るった土御門内大臣通親で、養女在子を後鳥羽天皇の後宮に入れ土御門天皇の外祖父となり、その権勢は他に並ぶ者なきという状況になりました。(ちなみに曹洞宗の開祖道元は通親の子といわれています。)
その後久我家は、摂関家に次ぐ大臣・近衛大将に昇進する清華家となり、また源氏一の公卿が補される源氏長者、淳和奨学両院別当を兼ねる慣例により、久我家当主がこれらを独占するようになりました。ただし室町時代には足利将軍が淳和奨学両院別当に補されることが起き、江戸時代には源氏長者、淳和奨学両院別当は征夷大将軍と一体のものとして徳川将軍が補されるようになりました。戦国期には通言の嫡子邦通が25才の若さで頓死し、他家から初めて近衛尚通の六男晴通を養子に迎えました。
有馬家の祖広益は久我権中納言通名の子で、宝永7年(1710)六代将軍家宣に御目見得して堀川広益と名乗って御側高家となり、享保元年(1716)には奥高家となり、のちに高家肝煎も務めました。その子広之も奥高家となり、安永7(1778)には筑後久留米藩主有馬頼徸と祖が同じ(村上源氏赤松氏流)ということで、家号を有馬に改めました。その後、三代広春、四代広籌、五代広憲、六代広衆と奥高家を務め、維新を迎えました。
28.大沢家⑲ 600石


大沢家は、藤原北家の最盛期を築いた藤原道長の次男頼宗にまで遡ります。頼宗の母源明子(源高明[醍醐源氏]の娘)は道長の嫡妻ではなく、当時現職大臣だった源雅信(宇多源氏)の娘・倫子が嫡妻とされていたので、倫子腹の頼通・教通に比べ、頼宗の昇進は遅れ、その子孫は中御門・持明院・坊門の三家に別れ、中御門流と称しました。坊門家は室町時代には断絶し、後世に伝わったのは中御門(松木)家と持明院家でした。
持明院家は頼宗の孫基頼を遠祖とし、その称は基頼が康和年中(1099~1104)邸内に持仏堂を建立し持明院と称したことに由来します。その子通基の代には持明院を家名とし、その子孫は羽林家(近衛少将・中将から参議・中納言、最高は大納言まで昇進することのできる武官の家柄)の一つとして連綿と続きました。ちなみに天皇家の後に北朝となる系統を「持明院統」と称するのは、通基の子基家の娘陳子が守貞親王(後の後高倉院)の妃となって後堀河天皇を生み、後堀河天皇が譲位後、持明院殿を仙洞(上皇の御所)とし、のちに後深草上皇も持明院殿を仙洞としたことによります。以後伏見・後伏見・花園・光厳・光明の各上皇は持明院殿を仙洞とし、崇光天皇は一時持明院殿を皇居としたそうです。
戦国期の当主基春は参議まで昇りましたが、参議を辞した後は美濃国に在国し、その子基親(基規)は周防長門他の太守大内義隆を頼って周防に下国中に陶隆房(晴賢)の乱に遭って横死し、その子基孝は嗣子がなく、正親町季秀の子基久が養子に入りました。しかし基久は豊臣氏の大坂城に入り、慶長20年(1615)5月大坂夏の陣において戦死し、家名断絶の危機に瀕しました。
この時、基孝の娘で後陽成天皇の典侍となっていた基子(長橋局)の取りなしにより、持明院家の流れであった幕臣高家の大沢基宿の二男基定を養子として家名を相続させることとなりました。そして基定の孫基貫(基禎)がこの高家大沢家の祖となります。
基貫は元禄12年(1699)9月に召し出されて幕臣寄合となり、同年11月には御小性並となり、翌年には従五位下侍従遠江守に叙任されました。従五位下侍従というのは高家が任官されるものですので、この時点で高家候補となったと思われます。その後宝永6年(1709)には奥高家に転任となりました。しかし正徳3年(1713)には36才の若さで亡くなり、実弟の基清が家督を継ぎ、以後基清・基季(とし)・基隆・基休(やす)と奥高家となり、基季は高家肝煎を務めています。
25.中条家⑳ 1000石


中条(ちゅうじょう)家は藤原北家高倉流樋口家から分かれた家で、藤原氏最初の摂政・良房の兄長良(ながら)にまで遡ります。長良は弟で人臣最初の摂政となった良房に官位昇進では後れをとりましたが権中納言まで昇進し、娘高子が清和天皇の女御となり、死後太政大臣を贈られました。また三男基経は良房の養子となって初の関白を務め、後の摂関家の祖となっています。
中条家の源流である高倉家は長良の六男清経を祖とし、鎌倉時代の末、清経十一代の孫範昌の後高倉・冷泉の二流に分かれました。高倉流は後断絶し、冷泉流も四代範賢の子の代で兄範康が冷泉家を継ぎ、弟永季が分家し高倉の号を用いました。範康流冷泉家は戦国期に絶家し、永季流高倉家は装束・有職故実を家職として江戸時代以降続いていきました。
戦国期の高倉永相(すけ)の弟親具は水無瀬親氏(兼成)の養子となって侍従、左中条と昇進しましたが、天正10年(1582)養父と義絶して嵯峨に閑居、後に関東に下向して徳川家康の知遇を得て、家康の計らいにより親具の長男康胤は堀河の家号を得て新家を創設し、二男信孝も後に樋口家を創設しました。
樋口信孝の次男信慶は明暦3年(1657)に将軍家綱に召し出されて幕臣となり、家綱の命により外祖父中条出羽守の姓を称しました。信慶の姉妹が大奥に仕えており、その関係で召し出されたようです。二代信実は元禄14年(1701)に父の跡を継ぎ、その直後に奥高家となり、高家肝煎も務めました。その後、信秀・信復(より)・信義(のり)・信徳・信礼と代々奥高家を務め、信復・信義・信礼は高家肝煎も勤めています。ちなみに信義は秋月種美の八男で上杉鷹山(治憲)の弟にあたります。
10.戸田家㉑ 2000石


戸田家は、堂上公家六条家の庶流となります。六条家は鎌倉時代に村上源氏の嫡流久我(こが)家より分かれ、久我家の祖通光の五男通有が祖となります。通有の子・有房は後宇多上皇の信任厚く、内大臣まで昇り、その子有忠も大覚寺統の公家として活躍しました。以後六条家は大納言を極官とする羽林家として続きました。
有忠の子千種(ちぐさ)忠顕は後醍醐天皇の近臣となって建武の新政では権勢を振るい、結城親光、楠木正成、名和伯耆守長年らと共に「三木一草」と称されました。
その後、六条家は有定に後嗣なく、千種忠顕の曾孫・具定の子・有継を養子に迎えますが、有継が永正9年(1512)没すると六条家は一旦断絶しました。そして天正4年(1576)冷泉為純の四男俊久が家督を継ぎ六条家を復興させると有親(有広)を名乗りました。
有親の娘で慶光院院主から三代将軍家光の側室となったお万の方(永光院)の弟忠元(光教)は大垣藩主戸田一西(かずあき)の娘を娶り一西の子氏鉄(うじかね)の許で寄食していましたが、お万の方の縁でその子忠豊(氏豊)が幕臣に取り立てられ戸田氏を名乗り、のち高家となりました。(於万の弟は氏豊で、於万・氏豊の母が戸田一西の子為春の娘で氏鉄の養女であるとも言われ戸田氏の出自は混乱があるようです)
氏豊の代は千石でしたが、氏興の代には二千石となり、以後は氏興・氏富・氏朋・氏倚・氏敏・氏範・氏貞と奥高家を務め、氏興・氏朋・氏倚は高家肝煎を務め、維新まで続きました。
30.長沢家㉒ 1400石

長沢家は藤原北家日野流の外山家の分家となります。日野流は以前紹介したとおり、人臣最初の摂政となった藤原良房の伯父真夏から始まり、室町時代には足利将軍家の御台所を出す家として繁栄し、江戸初期には旗本となった分家を出し、のち高家になっています。
外山家は江戸初期に日野弘資の二男光顕が興した家で、光顕は後西上皇に院中祗候して累進し一家を立て、家格としては名家(新家)の家でした。長沢家はその光顕の二男資親を祖とします。資親は元禄12年(1699)、五代将軍綱吉に御目見得し、新規召し抱えとなり寄合となりました。同年、御小性並となって将軍に近侍し、従五位下侍従壱岐守に任官しましたが、小性としての叙位任官では「従五位下○○守」が通例で、「侍従」任官は特例でした。「従五位下侍従」任官は高家職就任以外ではあり得ないもので、将来の高家職候補となったといえます。資親が奥高家となったのは宝永6年(1709)のことで、のちに高家肝煎も務めました。以後、長沢家から高家となったのは二代資祐(やす)のみで、明治維新を迎えました。
8.日野家㉓ 1553石




日野家は藤原北家の内麻呂の子・真夏に始まります。真夏の弟が蔵人頭から大臣へと出世していった冬嗣、その子が人臣初の摂政となった良房で、その後の藤原摂関家そして五摂家へとつながっていきます。一方、真夏の系統は中級貴族として続いていき、資業が山城国宇治郡日野(京都市伏見区日野)に法界寺薬師堂を建立したのが日野家の始まりとなります。
資業の曾孫・有範の子が浄土真宗の開祖となった親鸞で、彼の娘と同族・広綱の子孫が本願寺の門主となり現在の西本願寺・東本願寺の大谷家へとつながっていきます。(上記の系図では広綱が二か所に出ているが、宗光系は「別本本願寺系図」に、範綱系は「尊卑分脈」に拠る。)
日野家は儒道・和歌の家で、鎌倉時代は天皇の侍読、院の伝奏などをつとめ、鎌倉末期には、大覚寺統の庶流である後醍醐天皇の側近となった資朝や俊基を輩出しますが、資朝の兄資名の系統は持明院統(北朝)に仕え、そこから足利将軍家とのつながりを深め、三代将軍義満の御台所業子と康子にはじまり、四代義持の正室栄子、六代義教の正室重子、八代義政の正室富子など将軍の御台所を輩出し、繁栄を極めました。
室町初期に裏松・烏丸・日野の三家に分かれ、時光の二男資教が日野を号しましたが、その子有光は南朝の尊秀王とともに朝廷を襲撃し、やがて討たれ日野家は一旦断絶しました。その後裏松政光(重政)の子勝光(富子の兄)が日野家を継ぎ、妹富子が将軍義政の正室となって義尚を生むと、勝光も権勢を誇り、室町幕府の政策・人事にも関与し、本来の家格では昇進できない左大臣にまで昇りつめ「押大臣(おしのおとど)」と呼ばれました。勝光の後は政資が継ぎましたが早世し、政資の跡は徳大寺実淳の次男高光(のち澄光、内光と改名)が継ぎました。しかし彼の死後、家運はしだいに傾き、さらに内光の子息晴光の嗣子である晴資も下向していた駿河において父に先立って早世し、その後の晴光の死により日野家は、またもや断絶することとなりました。
しかし晴光の妻で晴資の母である春日局は13代将軍義輝の乳母であり、彼女の尽力により同じ日野流の広橋家から輝資を養子として迎え日野家は復活しました。輝資は出家し唯心院と号した後は徳川家康の側近となり采地1030石を賜りました。その後、堂上公家としての日野家は輝資の長男資勝が継ぎ、輝資の外孫で旗本花房正栄(旧宇喜多家家臣の花房正成三男)の長男である資栄(すけよし)が祖父の養子となり徳川家から与えられた1030石の領地を本家より分知され、旗本日野家が誕生しました。
資栄はのちに500石を加えられ1530石を知行し、3代将軍家光の代に表高家衆に列し、以後資栄・資陽・資施・資敬と奥高家を務めました。
29.前田家㉔ 1400石



前田(押小路流)家は、藤原北家閑院流の押小路家の分家となります。閑院流は摂政兼家の弟で御堂関白道長の叔父にあたる閑院太政大臣公季(きんすえ)を祖とします。閑院の称は公季の邸宅が基経・兼家らの伝領をへて領有することとなった閑院大臣冬嗣の邸であったことに因むそうです。閑院流はその後、公季の四代の孫公実ののち三家に分かれ、三男実行の子孫が三条(転法輪三条)家、四男通季の子孫が西園寺家、五男実能の子孫が徳大寺家と五摂家に次ぐ清華に連なる諸家となりました。
鎌倉時代に入り、西園寺家から洞院(とういん)家・今出川(菊亭)家が分かれ、三条家から正親町(おおぎまち)三条家が分かれ、室町時代には正親町三条家から三条西家が分かれ、これらが全て代々大臣を出す清華家・大臣家となり、閑院流は七清華家のうち四家(西園寺・三条・徳大寺・今出川)、三大臣家のうち二家(正親町三条・三条西)を出し、堂上諸家のうちもっとも多数を占める一群となりました。
前田家の源流である押小路家は三条西家の庶流で、三条西実条(さねえだ)の孫公音(きんおと)を祖とし、家格・羽林家として寛文期に創立されました。ただし公音の父とされる公勝は寛永3年(1626)に30才で没しており、公音の出生は慶安3年(1651)とされるので公勝の実子ではなく、『諸家伝』では実条の「四男公紀男」、「実父武家」とも注しています。
この公音の二男が前田家の初代・出雲守玄長(はるなが)となります。元禄15年(1702)、17歳の時に京都より召し出され、五代将軍綱吉へ御目見得、御小性並を仰せつけられ稟米300俵を与えられ旗本となり、前田式部玄長と名乗ります。前田姓を名乗ったのは、玄長の曾祖父・三条西実条が前田玄以(豊臣家五奉行の一人)の娘を正室にしていた縁により名字としたそうです。また前田家の口伝では絶えていた豊臣家の家臣堀尾吉晴の家(旧出雲松江藩主)の祭祀を継がせ、吉晴の一族(吉晴の嫡男忠氏の妻が前田玄以の娘)である前田玄以の氏を負いて前田とし、玄以の一字を負って玄長と称した、また代々任官する時は堀尾氏が領した国である出雲守あるいは隠岐守を称したと伝えられているそうです。(明治9年に長礼の弟長興が分家し堀尾氏を名乗らせている。)
玄長は、同年12月には従五位下侍従に任官し将来の高家候補となりました。その後加増を重ね、宝永4年(1707)には1400石となり奥高家となり、享保16年(1731)には高家肝煎となりました。以後は、2代房長・3代清長・6代長義・7代長徳と奥高家を務め、8代長礼の代に明治維新を迎えました。前田家を含む高家衆26家は勤王の意思を表明し、朝臣となり中大夫席を与えられました。しかし明治2年(1869)には領地は上知されて蔵米取りとなり士族に編入されました。長礼は、その後町惣代・小学校世話掛などを務め地域の名望家として活動したようです。そして9代長善は維新後昌平大学校(旧昌平坂学問所を引き継いだ維新政府の高等教育機関)にて学び、その後は大教院・教部省・太政官・内閣統計局・会計検査院など維新政府の官員として勤めました。
現在の当主は12代明久氏で、家蔵の資料を公開し、高家今川家の研究もしていた大石学氏をはじめとした研究者により研究解明が進められ、平成20年(2008)にはその成果として『高家前田家の総合的研究―近世官僚制とアーカイブス―』(東京堂出版)が出版されました。
30.長沢家㉒ 1000石


こちらの前田家は、押小路流のの前田家と同じ名字ですが、出自が全く違い、菅原道真の嫡系である高辻家の分家となります。
菅原道真は宇多天皇の信任を得て、文人出身としては異例の昇進を遂げ、右大臣兼右大将にまで上り詰めますが、藤原氏や皇親系諸族の嫉妬を受けて太宰権帥に左遷され、失意の内に太宰府にて生涯を閉じました。しかし没後、数々の異変が起こり、道真の祟りと一般には恐れられ、北野天満宮の天神として祀られました。
道真左遷の際に、その子どもたちも連座して地方へとおいやられましたが、のちには中央に召還され、以後の菅原家は多くの学者を輩出し、大学頭・文章博士等を務めました。子孫が栄え、菅家の学統を伝えたのは高視の流れで、定義の子の代には高辻家・唐橋家・菅原家(後断絶)の三流に分かれ、高辻家が嫡流とされました。高辻家の家格は半家、代々文章博士として紀伝道・詩文を掌ることを家職としました。鎌倉時代には五条家が分かれ、室町時代の継長は権大納言にまで昇り、以後は正二位権大納言が高辻家の極位極官となりました。しかし、戦国期に入り継長の孫章長は越前国一乗谷に在国して死没し、その子長雅は嗣子なきまま天正8年(1580)に没し、いったん高辻家は断絶します。高辻家が再興されたのはその55年後の寛永11年(1634)で、かつて長雅の養嗣子と一時なっていた同族五条為経の三男遂長が長雅の遺跡を相続しました。その子長純が30歳で没した後は同族の東坊城家から豊長(遂長の甥)・長量(豊長の甥)が養子となって家を継ぎました。
高家・前田家を起こした長泰は長量の次男で、宝永4年(1707)に五代将軍綱吉に御目見得して旗本として取り立てられ、前田玄長・長沢資親・大沢基貫と同じく御小性並となって従五位下侍従伊豆守に叙任され、他の三名と同じく高家候補となったと思われます。長泰が奥高家となったのは他の三名と同じく宝永6年(1709)で後には高家肝煎も務めました。以後、二代長敦・三代長禧・五代長粲・七代長猷と奥高家を務め、明治維新を迎えました。
18.六角家㉖ 2000石


六角家とはいっても、守護大名から戦国大名となった近江源氏佐々木氏流の六角家とは関係ありません。こちらは、藤原北家日野氏流日野家の支流で室町初期に別れた烏丸(からすまる)家をその源流とします。室町初期に日野資康の三男権中納言豊光は烏丸家を起こし、足利将軍家の恩寵のもとに累進し、応永20年(1413)には後小松院執権となり、院の実権を掌握しました。三代益光が文明7年(1745)に36歳で没すると、子息が幼少だったため、同族嫡流の日野勝光の二男冬光が烏丸家の家督を継ぎました。ところが後年、益光の子資教が成人すると、冬光と資教が対立し、結局資教が暗殺され冬光のもとに統一されることになりました。
江戸初期の光広の代には二男資忠が新家を起こし勘解由小路(かでのこうじ)と号し、三男(二男?)広賢(かた)が六角家を起こしました。広賢は初め桃園を称したと云われ、後水尾天皇の皇子・守澄法親王が日光山輪王寺門跡となった時にその東国下向に随従し、その後京都へ戻りませんでした。広賢没後、二代広治は幼少のため外祖父本庄道芳のもとで養育され、後幕臣となり稟米200俵を賜りました。そして元禄2年(1689)には表高家に列し千石を知行しました。実際に奥高家を勤めたのは六代広孝・八代広泰で、広孝は高家肝煎を勤めています。また広孝の養子広籌(かず)・広胖(やす)、広籌(かず)の子広教は高家見習を勤めています。
3.一色家㉙ 1000石:一時高家のち300俵


一色家は、その名字から足利の庶流かと思うかも知れませんが、こちらは公家の唐橋家の分かれです。唐橋家は菅原道真の末裔で、平安中後期の菅原在良を祖とします。(ただし唐橋を名乗るのは南北朝期の在雅から)唐橋家は菅原氏の嫡流と見なされ、氏長者を多数輩出していましたが、室町時代には摂家九条家の家司となり、室町中期の在数が九条家の経営についてのトラブルで殺害される事件が起こり、以後唐橋家は衰退し氏長者を出すことはなくなりました。
一色家は在数の孫在通を祖とします。在通の母は一色左京大夫の娘であったので、はじめ一色姓を名乗り、将軍足利義昭に仕えてその偏諱を賜り一色昭孝と称していました。のちに徳川家康に仕えて采地千石を賜り高家に列していましたが、のちに実家唐橋家を継いで唐橋在通を名乗り、以後隔年で在府したと『寛政重修諸家譜』にあります。
しかし、「唐橋家譜」では昭孝と在通は兄弟、『系図纂要』では父子になっており系譜関係に混乱が見られます。

これらの系図あるいは他の史料を見ると在名の子は昭孝と定雄で、定雄が早く死んだため定雄の子在忠が唐橋家を継ぎ、在忠が継嗣の無いまま死んだので、昭孝の子在通(在忠の従兄弟)が唐橋家を継いだとみるのが妥当かなと思われます。いずれにしても一色家の創立、そして唐橋家の相続についてははっきりしたことが分からないというのが、正直なところです。
いずれにしても高家一色家はその後在種に受け継がれたものの、元和4年(1618)に「こひ申さずして近國にゆきし事を咎められ」采地を没収され、一旦改易となります。その後生まれた在種の子・昭種と昭晴の兄弟は叔母の円龍院(二代将軍秀忠の正室浅井氏に仕えていた)のもとで育てられていましたが、慶安元年(1648)に許され兄弟共に稟米二百俵を賜り旗本に復帰しましたが、高家の格式は許されませんでした。以後は一般の旗本として幕末まで存続しました。
