【史 跡 名】三内円山遺跡
【訪 問 日】2000年8月8日
【所 在 地】青森県青森市三内
【訪 問 記】
高速フェリー「ゆにこん」で函館から青森まで2時間。文庫本を丁度1冊読み終わる間に津軽海峡を渡ってしまいました(^^;)
青森に着いたら早速三内丸山遺跡へ。特に迷うことなく着きましたが、とにかく暑い! 短パンになって正解でした。入場すると、順路に沿って回ってみましたが、やっぱりあの大型堀立柱建物跡が気になります。あの巨大な柱穴の上にはどんな建物が建っていたんでしょうねえ?
正直な話、縄文時代など古代についてはあまり興味がないので、さあっとしか見ませんでしたけど、大型掘立柱建物跡、竪穴住居跡、盛土、墓などの遺構が残り、今後が気になる遺跡であります。













【史 跡 名】(1)旧坪田家住宅、(2)旧浪岡小学校
【訪 問 日】2000年8月8日
【所 在 地】青森県青森市浪岡大字浪岡字岡田(旧南津軽郡浪岡町大字浪岡字岡田)
【訪 問 記】
この二ヶ所は浪岡城に行く前に寄った「中世の館」という資料館のすぐ近くにあったものです。駐車場に車を止めると目に留まったので資料館に行く前にちょっと写真に収めてきました。
旧坪田家住宅はかつて浪岡町王余沢(かれいざわ)に所在した坪田家の住宅を移築復元したもので、江戸末期のものとみられているそうです。「広い『どま』や『じょい』の他に整形四間取りの部屋をもち、中二階をも上げている珍しい形をとっている。」と説明板にはありました。
旧浪岡小学校はいつ頃の建物かわかりませんが、ちょっと洋風建築のような雰囲気がありました。



【史 跡 名】最勝院五重塔
【訪 問 日】1991年8月9日
【所 在 地】青森県銅屋町63
【訪 問 記】
大学時代の友人との旅行の二日目、函館から列車に乗って弘前まで行き、弘前城を見たあとは最勝院五重塔に行きました。
この塔は、現在は大鰐町にある大円寺のものでした。3代藩主津軽信義が発願し、3代信政の寛文7年(1667)に完成しました。大円寺は文亀年間(1501~04)に津軽氏発祥の地種里(鰺ヶ沢町)に創建され、正保4年(1647)にこの地に移転しましたが、明治の神仏分離で大円寺が大鰐町に移り、その跡に城下の八幡宮の別当寺院であった最勝院が移ってきました。
最勝院は天文5年(1536)堀越に開創したといわれ、慶長17年(1612)に八幡宮とともに弘前城下に移転し、明治維新までその別当をつとめました。「津軽真言五山」の筆頭、領内寺社の総取締りとして寺格が最高で、領内の天変地異の際にはたびたび祈祷を行っていたそうです。
とても均整のとれた美しい塔で、しばらくは見惚れてしまいました。そのあと、新寺町から長勝寺のある禅林三十三ヶ寺の方まで歩いていきましたが、長勝寺に着いたのはもう夕暮れ時で津軽家霊屋なども見ることができなかったこと、良いカメラで写真が撮れなかったのがとても残念です。今度はこの辺りもゆっくり歩いてみたいですね。




【名 勝 名】展勝地公園
【訪 問 日】1994年5月3日
【所 在 地】岩手県北上市
【訪 問 記】
この日は北上市のホテルを出発したあと、遠野へと向かう予定でしたが、途中展勝地公園というのがあったので寄ってみました。北上川沿いに桜並木がずっと続いておりとてもきれいでした。雨がなければもっとよかったんですけどね(^^;)


【史 跡 名】松崎観音ほか
【訪 問 日】1994年5月3日
【所 在 地】岩手県遠野市
【訪 問 記】
北上市を出発し遠野に着いたのはお昼頃でした。そのあとレンタサイクルを借りて、市内を回ってみました。飢饉の碑・松崎観音堂・横田城跡・阿曽沼公歴代碑・太郎カッパ渕・清心尼公碑等々を回ったはずなのですが、正直「遠野物語」の世界には興味がなかったので余り印象に残っていません。(友人の趣味だったもので(^^;))
横田城跡や鍋倉城跡のすぐ近くを通ったのに行かなかったのをちょっと後悔しています(^^;)



【史 跡 名】毛越寺
【訪 問 日】1994年5月1日
【所 在 地】岩手県西磐井郡平泉町字大沢58
【訪 問 記】
毛越寺は初めての岩手県旅行の時に行きました。奥州藤原氏2代基衡が鳥羽天皇の勅願で長治2年(1105)に伽藍を建立、その後3代秀衡が継承しました。
ここの毛越寺庭園は国特別名勝に指定されており、東西180m・南北90mの池がありますが、とてもきれいなものでした。


【史 跡 名】中尊寺
【訪 問 日】1994年5月1日・2002年8月13日
【所 在 地】岩手県西磐井郡平泉町字衣関202
【訪 問 記】
中尊寺は奥州藤原氏初代清衡が前九年・後三年の役の死者を弔い、奥羽の安寧を願って建立されました。兵火や火災に何度もあい、往時の建物は金色堂と経蔵のみになりましたが、さすがに歴史の積み重ねを感じます。
金色堂の写真は撮れませんでしたので、ここにはありませんが、さすがに壮麗なものでした。(1994.5.1)

8年ぶりの訪問は嫁さんと一緒でした(^^) 花巻をあとにし、昼頃に中尊寺に着くと、早速坂道を上り始めましたが、この日は30度近くあったようで、途中で休みながら上まで行きました。途中、いろいろお堂を眺め、讃衡蔵に収蔵の仏像を見たりしながら、金色堂まで来ました。中尊寺は二回目でしたが、やはりこれだけのものがそのまま残っているというのはすごいもんですね。(2002.8.13)


(この中のガラスケースの中に
金色堂があります)

(国重要文化財)


【史 跡 名】高館・義経堂
【訪 問 日】1994年5月1日
【所 在 地】岩手県西磐井郡平泉町高館
【訪 問 記】
高館は源九郎義経の居館があったところとして知られています。義経は兄頼朝の追求を逃れ、藤原秀衡を頼りました。秀衡は義経にこの要害の地を与えましたが、秀衡の子泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経一族を襲い、自殺に追い込みました。この地にある義経堂は、天和3年(1683)仙台藩主伊達綱村により建てられたものです。
ここからは北上川が一望でき、とてもいい眺めでした。


【史 跡 名】達谷の石窟毘沙門堂
【訪 問 日】1994年5月1日
【所 在 地】岩手県西磐井郡平泉町字北沢16
【訪 問 記】
この達谷の窟(たつこくのいわや)という岩窟は、平安時代の初めにこの地の首領悪路王がこもったところと伝えられています。のちに坂上田村麻呂が鞍馬寺から毘沙門天を勧請し本尊としたと寺伝にあります。舞台造りの現毘沙門堂は昭和36年(1961)の再建で、かつては堂内に108体あったという仏像も現在は27体を残すだけとなりました。
ここは中尊寺や毛越寺を訪ねたついでに寄って外側から眺めただけなのですが、岩窟から堂が外側に突き出ている独特の建物はとても印象が残りました。



【名 勝 名】一首坂
【訪 問 日】1994年5月2日
【所 在 地】岩手県奥州市衣川区古戸(旧胆沢郡衣川村古戸)
【訪 問 記】
厳美渓から戻るときにどこをどう間違えたのか衣川村に出てしまいました(^^;) 丁度交差点に案内図があったので友人と二人ながめていると、通りすがりの男の方がその地図でこんな史跡があるよというのを教えて下さいました。実はその方は衣川村の村長・佐々木秀康さんという方でした(^^;)
それでまずは一首坂に行ってみました。前九年の役の折、敗走する安部貞任を追った源義家が「衣のたてはほころびにけり」と歌で呼びかけたところ、貞任が「年をへし糸のみだれのくるしさに」と上の句を返したという逸話の残る地です。説明板と二人の歌を刻んだ歌碑、そして二人の位置を示すと思われる「義家石」「貞任石」という石がありました。
そのあと安倍氏の館跡という安部館跡、安倍氏が尊崇したという磐神社に行きました。最後に義経の位牌があるという雲際寺に行きましたが、時間が遅く位牌を見ることはできませんでした。



【名 勝 名】猊鼻渓(げいびけい)
【訪 問 日】1994年5月2日
【所 在 地】岩手県一関市東山町(旧東磐井郡東山町)
【訪 問 記】
この猊鼻渓は平泉の東10kmほどの所にある東山町にある名勝で、高いところで100mにもなる断崖絶壁が2kmにわたって続きます。北上川支流の砂鉄川が作り出した渓谷で、まるで山水画でも見ているようです。この猊鼻渓を船で下ってみることが出来る「舟下り」というのがあったので友人と一緒に乗ってみることにしました。往復1時間ほどでしたが、とても美しい景色を堪能しました。なぜか戻ってきてから、鮎の塩焼きを食べたのを憶えています(なんでこれだけ憶えてんだろう(^^;))






【名 勝 名】厳美渓(げんびけい)
【訪 問 日】1994年5月2日
【所 在 地】岩手県一関市厳美町
【訪 問 記】
東山町の猊鼻渓の跡は一関市の厳美渓に行きました。ここは北上川の支流磐井川が、石英粗面岩の河床を洗って作り出した渓谷で、猊鼻渓が見上げるような高い断崖絶壁が見所だったのに対し、磐井川の清流とそれを挟むように並ぶ岩の姿が見所です。
また川の向こうにある団子屋さんと、川の上を滑るように走るケーブル付きの籠でお金と団子をやり取りするのも面白かったです。「郭公だんご」美味しゅうございました(^^)






【史 跡 名】羅須地人協会
【訪 問 日】1996年5月4日・2002年8月13日
【所 在 地】岩手県花巻市葛 花巻農業高校内
【訪 問 記】
この年も例によって高校時代の友人と旅行に出かけましたが、5月3日・4日・5日の3日間しか休みが取れなかったので、近場ということで東北方面に行くことにしました。この年は丁度宮沢賢治生誕100年の記念の年だったので賢治ゆかりの地・花巻へ行きました。(これは友人の趣味(^^;))
そこで初日は千歳空港から仙台空港まで飛び、レンタカーで北上まで行き、次の日花巻へ行きました。この日は宮沢賢治記念館・宮沢賢治イーハトーブ館・イギリス海岸等回った後、羅須地人協会へと向かいました。ここは現在花巻農業高校の敷地内になっていますが、大正15年、賢治が独居生活に入り青年たちに農業指導を行った所だそうです。当時のオルガンも残され、2階の住居もそのままに残っているそうです。入口のすぐ横の黒板には今でも賢治がいるかのように「下ノ畑ニ居リマス 賢治」と書いてあったのが印象に残っています。(1996.5.4)




花巻城に行ったあと、花巻縁の宮沢賢治の家だった羅須地人協会へ行きました。これは現在花巻農業高校に移築されているものですが、なかなか風情があります。羅須地人協会のすぐ近くに「宮野目方八丁遺跡」というのがありましたが、これは前九年の役の時の源義家の陣場跡とも言われていますが、発掘調査によりそれよりさらに古い平安初期(9世紀)の遺跡と判明したそうです。現在も堀が残り中世には館として転用されていたようです。
このあと宮沢賢治記念館などに行こうと思いましたが、嫁さんがあまり興味なさそうだったのでパスして平泉へ向かいました。(2002.8.13)







【史 跡 名】角館武家屋敷群
【訪 問 日】2002年8月12日
【所 在 地】秋田県仙北市角館町東勝楽丁、表町下丁
【訪 問 記】
角館城から下り、武家屋敷群の近くの駐車場に車を入れたあと、まずは昼食です。昼食のあと、江戸初期の角館城主・芦名家の菩提寺・天寧寺を見てから武家屋敷群を見て回りました。
武家屋敷の方はいま公開している所は6つほどあるそうですが、そのうちの小田野家・河原田家・岩橋家の順に見て回りました。
小田野家は秋田蘭画の創始者である小田野直武の分家で剣術指南役を務めた家柄で、河原田家・岩橋家は会津芦名時代からの古い家柄で、芦名氏2代盛俊が若死にした際には岩橋又右衛門が殉死を遂げています。
この武家屋敷群はやはりなかなか風情がありましたね。雨が降ってなけりゃあ、残りの青柳家・石黒家・松本家などを見て回ったり、じっくりと周囲を歩いて城下町の雰囲気を味わいたい所でしたが、雨がやまないので一通り見終わると角館をあとにしました。







【史 跡 名】天寧寺
【訪 問 日】2002年8月12日
【所 在 地】秋田県仙北市角館町山根町
【訪 問 記】
角館城から下り、武家屋敷群の近くの駐車場に車を入れたあと、まずは昼食です。昼食のあと、江戸初期の角館城主・芦名家の菩提寺・天寧寺に行きました。
この天寧寺は芦名盛重(義勝)が角館に移って菩提寺を建てる必要が生まれ、横手の正平寺住職鉄心快牛和尚を迎えて開山し、芦名氏の会津時代の菩提寺、会津天寧寺から寛永年間に分れて建立されたものです。芦名氏はその後3代50年で断絶しましたが、芦名氏の墓所には初代義勝から3代千鶴丸までの墓が2代盛俊に殉死した岩橋又右衛門の墓に守られて静かに眠っています。
この墓所を見た時には、かつては東北随一の戦国大名だった芦名家の終焉の地がここかと思うと感慨深いものがありました。






