【城 跡 名】足利氏館(鑁阿寺館)
【訪 城 日】2001年1月13日
【所 在 地】栃木県足利市家富町2220
【創建年代】平安末期・鎌倉初期
【創 建 者】足利義兼
【主な遺構】土塁・水堀
【歴史・沿革】
足利氏館の創建者といわれる足利義兼は、八幡太郎義家の孫で足利氏の祖義康の息子に当たります。義兼は鎌倉幕府の有力御家人としての地位を築き、足利にあっては平氏方の藤原系足利氏(秀郷の子孫)を滅ぼし、足利荘一円を支配し、当館を建てました。義兼は建久7年(1196)居館の内に持仏堂を建て、出家して鑁阿と称しました。そして、その持仏堂を中心に寺院としての形を整えられ、以後この鑁阿寺は足利氏の氏寺として室町将軍家・関東管領家の厚い保護を受けました。戦国時代は一時戦乱に巻き込まれ荒廃しましたが、天正19年(1591)徳川家康から朱印地を賜り、以後歴代将軍がこれを安堵しました。明治以降、衰退を余儀なくされましたが、足利学校同様、足利町民の力で復旧・維持され現在に至っています。
【訪 城 記】
職場の職員旅行で初日は横浜方面、二日目は鎌倉方面へ行き、三日目・四日目は渋谷・お台場・神田神保町・池袋・秋葉原など東京近辺を周り、最後の二日間はお城巡りMLのお仲間と史跡&城巡りをしました。
この日は館林駅でまず大村さんと合流し、館林城を少し見たあと足利へ向かいました。太平記館の駐車場で越後からおいでの井比さんと合流し、まず足利学校を見たあと、その裏側にある足利氏館(鑁阿寺)へと向かいました。しばらく歩くと左側に足利尊氏の銅像があり、その先に鑁阿寺の正門がありました。この正門は楼門と呼ばれ室町期のものですが、その手前の堀には屋根付きの太鼓橋がかかっています。この太鼓橋の両側には堀と土塁が伸びています。足利氏館はこの方形の堀と土塁に囲まれていますが、この土塁の外側は植え込みになっていて、はとてもきれいに手入れされています。しかし内側の方が本来の土塁の雰囲気を残しているように感じました。
楼門をくぐり境内にはいると土塁の内側には大木がそびえ、正面には本堂(大御堂)が見えます。本堂に左側には多宝塔や経堂も見えますが、数日前の雪が境内に少し残り東京に比べると寒さを感じました。
そのあと大御堂の前を右に抜け東門を通って、車を停めた太平記館まで戻りました。ここでは何年か前に放映した大河ドラマ「太平記」で使われた鎧などが展示されていました。足利氏関係の資料などがあるかなあと思いましたが特に何もなくちょっとガッカリでした(^^;)
でも足利学校といい鑁阿寺といい、とてもきれいな堀と土塁に囲まれなかなかいい雰囲気でした。








【城 跡 名】赤見城(町屋城)
【訪 城 日】2001年1月13日
【所 在 地】栃木県佐野市赤見町3215
【創建年代】安元元年(1175)
【創 建 者】足利俊綱
【主な遺構】本丸・土塁・水堀
【歴史・沿革】
赤見城は安元元年(1175)足利城から佐野能忍寺郷に移った藤原姓足利俊綱が築城を開始し、治承2年(1178)に居城にしたと伝えられています。俊綱は同5年(1181)志田義広が源頼朝に背き挙兵するとそれに応じましたが、家臣桐生六郎が頼朝に内通したため殺害され、城も落とされました。
その後、建久元年(1190)には戸賀崎義宗が城主となり城を再興しました。戦国期に入り、戸賀崎氏の子孫赤見伊賀守は佐野泰綱に攻められて常陸に敗走し、以後佐野家が改易となる慶長19年(1614)まで佐野氏の支城の役割を果たしました。
【訪 城 記】
足利を後にして、昼食をとったあとは、佐野市へ向かい、まず赤見城へ行きました。ここは本丸部分が保育園になっていて、本丸の土塁の内側にブランコなどの遊具が並んでいるのには苦笑いしてしまいました(^^;) でも、本当にきれいに方形の土塁が残っており、おもわず函館の志苔館を思い出してしまいました。(志苔館よりは本丸部分は狭いのですが) また、土塁の高さ・堀の深さも結構あって、土塁のてっぺんから堀底を見ると7~8mくらいあるかもしれません。
本丸の西側には堀も残っていて、その堀のさらに外側には二の丸の土塁が残っているので二重土塁のようです。この土塁の外側にも堀の跡がありますが、その並びが住宅地になっていますので一見堀跡とは気づかないかもしれませんね。
いずれにしても、ここはなかなか土塁がきれいで気に入ってしまいました(^^) おすすめの一城ですね。






【城 跡 名】唐沢山城(根古屋城・栃本城・牛ヶ城)
【訪 城 日】2001年1月13日
【所 在 地】栃木県佐野市富士町・吉水町・栃本町(旧安蘇郡田沼町大字吉水・栃本)
【創建年代】天慶3年(940)
【創 建 者】藤原秀郷
【主な遺構】本丸・二の丸・三の丸・郭・空堀・石塁・石垣・井戸
【歴史・沿革】
唐沢山城は天慶3年に藤原秀郷が築城をはじめ、同5年に落成したと伝えられています。秀郷は平将門の乱の鎮定に功があり、下野国に勢力を張り、子孫は小山氏・結城氏・足利氏(藤原姓)などの有力武士団となりました。唐沢山城はやがて廃城となりましたが、足利信綱の弟成俊が佐野庄司と称し、唐沢山城を再興し、以後代々佐野氏の居城となりました。
戦国時代には佐野氏中興の祖といわれる佐野盛綱が修築しましたが、南の北条氏・北の長尾(上杉)氏に挟まれ、時には抗戦し時には服従するなど、両勢力の狭間で苦闘しました。天正6年、上杉謙信が死ぬと、佐野宗綱は佐竹と組み北条氏と戦いますが、宗綱が隣の足利の長尾顕長に敗れ討ち死にすると、北条氏照らに佐野は制圧され、北条氏康の六男氏忠が佐野氏の養子として跡を継ぐ形で佐野氏を後北条氏のもとに組み入れました。宗綱の弟(又は叔父)天徳寺了伯は豊臣秀吉に従い、小田原征伐の功で佐野領三万九千石を安堵され佐野房綱と名を改めました。の際に唐沢山城の大改修を行っていますが、現在残っている石垣はこの時のものといわれます。房綱が二年後に隠居し、秀吉の家臣富田信高の次男信吉を養子として家督を譲りましたが、信吉は慶長7年(1602)唐沢山城から佐野春日岡の地に移転を命ぜられ同12年には唐沢山城を廃して春日岡城(佐野城)に移りました。
【訪 城 記】
赤見城を後にして、いよいよこの日のメインの唐沢山城へ向かいました。頂上のレストハウスで霧隠さんたちのグループとまず合流し、そのあと地元の郷土研究家の大高さんにガイドしていただきながらいろいろと見て回りましたが、とても詳しく説明していただいたので、わかりやすかったです。
天狗岩からの眺めを堪能したあと、大手桝形・四つ目堀・三の丸・二の丸と進みました。圧巻は本丸の高石垣です。これは高さもかなりありますし、100mほど石垣が続いているもので見応えがあります。ただ、大高さんのお話によると唐沢山城の本丸の石垣はかなり手が入っているようで、よく唐沢山城の写真というとよく見る大手桝形付近の石垣も本来はもっと狭かったようですし、あの素晴らしい本丸の高石垣も、右側の方は現在本丸にある神社建築の際に積み直しているようです。そういわれてみると確かに積み方が右側と左側では少し違っていました。
このあと現在社務所となっている南城の算木積みの石垣を見たり、後北条氏時代の虎口や上杉氏時代の竪堀・石垣を見たりと、きっと自分で来たのでは見ることのできなかったであろう遺構をたくさん見ることができ大満足でした。なぜか途中で竪堀を登ったり、道無き道を進んだりとなかなかスリリングな体験もしましたが...(をい(^^;))









(上杉氏時代のもの)

【城 跡 名】金山城
【訪 城 日】2000年1月16日
【所 在 地】群馬県太田市金山町
【創建年代】文明元年(1469)
【創 建 者】岩松家純
【主な遺構】本丸などの曲輪跡・日の池・月の池・櫓台・城門跡・石垣・空堀等
【歴史・沿革】
この金山城の歴史は文明元年(1469)に新田一族である岩松家純によって築かれたのに始まります。しかしやがて岩松氏は次第に重臣横瀬氏に実権を握られ、享禄2年(1529)12月、家純の孫昌純は横瀬泰繁父子をしりぞけようとして失敗し、以後金山の実権は完全に横瀬氏に移り。泰繁の子成繁は由良と苗字を改め、以後金山城は由良氏の本拠として、難攻不落を誇りました。
天正12年(1584)2月、北条氏政は謀略により、金山城主由良国繁(成繁の子)と館林城主長尾顕長(国繁の弟)を抑留し、兵を送って金山・館林両城の明け渡しを迫りましたが、金山城では家老横瀬勘九郎がそれを断ったためため、鉢形城主北条氏邦を大将とした北条軍三千五百が攻撃を開始しましたが、城兵に射伏せられ五百余人が討ち死にする有り様。結局、北条方は両城主を帰しましたが、国繁は北条方の圧力に屈し、城を渡して桐生に移りました。以後は、北条方がこの城を押さえましたが、天正18年の小田原落城とともにこの金山城も廃城の運命となりました。
【訪 城 記】
旅行最終日は、群馬県まで足をのばしました。この日は金山城の発掘説明会があるというので、浅草駅でNiftyのFSIRO(城郭フォーラム)の冷や奴さんと待ち合わせをし、東武伊勢崎線で太田市へと向かいました。太田に着くとタクシーで金山城まで行き、9時半頃には着きました。まず受付の方に行こうと登っていくと、途中でFSIROの旱雨さんに遭遇、三人で受付の所まで行き発掘説明会が始まるのを待ちました。
初めはそんなに人もいなかったのに、10時ちょっと前にはたくさんの人が集まり説明会が始まりました。今回は馬場曲輪・その先の見張台跡・見張台下の堀切・西城の筋違い土塁などの説明でしたが、馬場曲輪にしても、見張台跡にしてもかなり石垣が出ていました。物見台下の堀切は岩を削って作られていましたので、かなり苦労したのではないかと思います。また、筋違い土塁の所ですが、こんな所にまで石垣が使われていたというのには驚きました。でも金山って全山岩山ですから、材料は豊富にあったんでしょうね。
説明を聞き終わったら11時過ぎでしたので、後は月の池・大手虎口・日の池の辺りを散策、と言うよりは写真を撮りまくってました(^^;) でも、あまりにもきれいな石垣に違和感ありあり... ホントにこんな立派だったのかあ?と思ってしまいました (^^;)
その後少し早めの昼食を取り、旱雨さんは用事があるということでそこで帰られ、冷や奴さんと二人で本丸の方に行き、さらにその裏にある石垣を確認しました。その後、北城(坂中城)の方へ行き、ここで堀切を二つほど確認しました。また、途中に削平された曲輪らしきところもありました。そのあと、本丸まで戻り下っていったのですが、その途中でも石垣を見つけました。(南木戸残存石垣という石柱がありました)ちょっと落ちそうで怖かったですが(^^;)
その後下っていって舗装道路に出たので、そのまま下るのかな?と思ったら、石垣でできた櫓台があるという話なので、車道沿いにまた上へ。丁度道路がカーブした辺りで櫓台発見! じゃ下におりてみようと冷や奴さんが言ったので、心の中では「えっ、やっぱり下りるの?」と一瞬思いましたが、下りて櫓台を見たらそんな思いは吹っ飛んでしまいました。
近づいてみると石垣でできた高さ2~3m、幅6~7mほどの立派な櫓台がありました。これを見たら、上の復元された新しい石垣が色あせて思えました(^^;) でも逆にこんな立派な櫓台があったのだから、あの石垣もまんざら嘘でもないのかなと思いました。この櫓台の下に道があったので、そのまま下っていくと金龍寺の近くに出ました。途中に標柱がありましたが、この道がもともとは大手道だったようです。
大光院に着いたのが2時20分ぐらいで、後はタクシーで駅まで行って東京まで戻り、そのまま羽田に向かって北海道に帰ってきました。
今回は石垣山城の井戸曲輪、山中城の障子堀、そしてこの金山城の櫓台と三つも良いものを見ることができて良い旅でした。
と書いたんですが、どうもこの大手道の石積みは櫓台ではないそうです(^^;) FSIROで寿太さんの書き込みがありましたが、「太田市の文化財関係者の見解は『極・最近のものだ』と言うこと」だそうです。ちょっとショックでしたが、確かによく考えてみれば、本丸裏手や南木戸の残存石垣に比べると石も小さいし、ちょっと違和感があります。まあ、これがもともとのものではないとしても、金山城自体の価値は変わりませんけどね。素晴らしいお城ですので、是非行ってみて下さい。












ではなく実は極・最近のものだそうです。残念...(^^;)
【城 跡 名】館林城(尾曳城)
【訪 城 日】2001年1月13日
【所 在 地】群馬県館林市城町甲23-1
【創建年代】天文元年(1532)
【創 建 者】赤井照光
【主な遺構】三ノ丸土橋門(復元)・土塁・塁濠
【歴史・沿革】
館林城は赤井照光が狐の導きで縄張りし、城を築いて移ったという伝説があり、城中には尾曳稲荷が祀られ、尾曳城の別名があります。永禄5年(1562)上杉謙信は由良成繁・富岡重朝を先鋒として館林城を攻略、赤井照康は忍城に逃れ、謙信は足利城主長尾景長に館林を与えました。
天正12年(1584)景長の養子顕長は実兄由良国繁と共に小田原に抑留され、翌13年北条勢に城を明け渡して足利に退きました。同18年(1590)、石田三成率いる豊臣勢は城を囲んで攻め立てましたが攻略できず、北条氏勝のすすめで開城しました。
徳川家康の関東入部後は、榊原康政が10万石で封ぜられ、大給松平氏を経て徳川綱吉が25万石で封ぜられました。綱吉の五代将軍就任後、城主となった一子徳松丸が夭折すると、一時廃城となりますが、宝永4年(1707)松平清武(6代将軍家宣の実弟)が入部すると再築され、以後太田・井上・秋元氏を経て維新を迎えました。
【訪 城 記】
職場の職員旅行で初日は横浜方面、二日目は鎌倉方面へ行き、三日目・四日目は渋谷・お台場・神田神保町・池袋・秋葉原など東京近辺を周り、最後の二日間はお城巡りMLのお仲間と史跡&城巡りをしました。
この日は館林駅でまず大村さんと合流し、まずは足利へ向かう予定でしたが、大村さんのご好意で、少しの時間館林城へ回っていただきました。館林城は明治7年(1874)の大火で城も城下町も大半が焼失し、往時を偲ばせるものは三ノ丸土橋門とその付近の土塁、外郭の一部に残る塁濠だけですが、土橋門は古記録や発掘調査の結果を踏まえて昭和58年(1983)に薬医門・切妻屋根として復元されたものです。この門は復元ながらなかなかいい雰囲気で、門に続く土塁もきれいにカーブしていてとてもきれいでした。
予定外の行動でしたので、そのあと急いで足利へと向かいました。



【城 跡 名】川越城(初雁城・霧隠城)
【訪 城 日】2001年1月14日
【所 在 地】埼玉県川越市郭町2-13-1
【創建年代】長禄元年(1457)
【創 建 者】太田道真・道灌
【主な遺構】本丸・堀・櫓跡
【歴史・沿革】
川越城は関東管領扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗するために太田道真・道灌父子に命じて築城したものです。扇谷上杉氏はこの川越城に約80年間城主として君臨しましたが、山内・扇谷両上杉氏の抗争をよそに伊豆・相模方面では後北条氏が勢力を伸ばし、大永4年(1524)扇谷上杉朝興は北条氏綱に居城江戸城を攻め落とされ、天文6年(1537)朝興の子朝定は川越城を攻め落とされました。
両上杉氏は古河公方足利晴氏と手を組み、川越城を奪還すべく八万の大軍で攻め寄せましたが、両上杉連合軍は大敗北を喫し、扇谷上杉朝定は討死にし扇谷家は断絶しました。以後、豊臣秀吉の小田原征伐まで川越城は後北条氏の拠点として機能し、徳川家康の関東入部後は酒井重忠が城主となりました。川越は江戸城の出城的存在として江戸時代を通して重要視され、譜代の重臣が配置され、歴代城主のうち老中・大老などの重職を務めた人物は八名を数えます。特に「知恵伊豆」の異名を持つ松平信綱は川越城の城域を拡張し、この時の城域が明治まで続きました。明治以降は城の遺構も次第に失われ、現在は本丸御殿の玄関及び大広間の一部、天守の役割を果たした富士見櫓跡、それに土塁の一部が散見されるだけとなりましたが、酒井忠勝が作ったという時の鐘や蔵造りの町並み、喜多院・仙波東照宮などかつての城下町の雰囲気を色濃く残しています。
【訪 城 記】
菅谷館を後にして下総介さんの車で川越まで移動しましたが、途中武州松山城を横目に眺めていきました。(時間があれば寄りたかったのですが...)
川越に着くとまずは本丸御殿へ行きました。さすがに立派なものでしたが、足の裏が冷たくて早々に退散(スリッパが欲しかった...(^^;))、次は富士見櫓跡へ向かいました。ここは現在御嶽神社が建っていてあまり櫓跡という面影はありませんけど、この周辺に若干土塁らしきものが残っていました。また、櫓台跡に建っていた神社がすぐ横に移動していましたが、これは富士見櫓を再建する準備のためとのことですので非常に楽しみです(^^) その後、三芳野神社へ行きましたが、この神社の手前と裏手にも若干土塁跡らしきものが残っていました。
その後、市役所前の大手門跡の碑や太田道灌像、その先の時の鐘を眺めながら蔵造りの町並みを歩き昼食、いもそうめんを食べました(^^;) そのあと蔵造り資料館をちょっとのぞいて、本丸御殿の近くまで戻り、川越市立博物館へ、ここでも二冊ほど資料を買いました。太田道灌関係のビデオなんぞも流れておりました。意外と太田道灌の扱いが大きかったですねえ(市役所前の銅像といい)。
帰りの飛行機の時間もありましたので、お二人とは3時に川越駅でお別れし羽田空港へと向かいました。
川越城は遺構的にはそれほど見るべきものはありませんが、町の雰囲気が良かったですね。今度行く機会があったら喜多院や仙波東照宮などにも行ってみたいところです。




(童謡「通りゃんせ」の地)



【城 跡 名】菅谷館(重忠館)
【訪 城 日】2001年1月14日
【所 在 地】埼玉県比企郡嵐山町字城757
【創建年代】鎌倉時代
【創 建 者】畠山重忠
【主な遺構】郭・空堀・泥田堀・土塁・門跡
【歴史・沿革】
菅谷館の創建年代は不明だが、鎌倉時代に畠山重忠の居館だったことは間違いないようです。重忠は鎌倉幕府草創期の重臣ですが、北条氏の謀略により謀殺されていますが、この時菅谷館から出発していると記録に残っています。その後、菅谷館が再び歴史の表舞台に出てくるのは室町時代後期で、山内・扇谷両上杉家の争いにより謀殺された太田道灌の子資康がここを城塞化しています。以後の菅谷館については詳しいことはよくわかっていませんが、その構造から後北条氏支配下の城として機能していたようです。
【訪 城 記】
いよいよ旅行六日目、最終日です。この日はお城巡りMLのすずりんさん・下総介さんに案内していただくことになっていたので、まずは川越駅ですずりんさんと合流、下総介さんとは武蔵嵐山駅で合流し、まずは菅谷館の三ノ郭にある県立歴史資料館へと向かいました。
資料館の入口では畠山重忠の人形がお出迎え(^^;) 中では菅谷館をはじめとする埼玉県のお城や史跡に関する資料が展示されていました。受付の所には菅谷館のガイドブックの他「中世の城館跡」という埼玉県内のお城に関するガイドブックがあったのですかさずGETしました(^^;)
さあそしていよいよお城巡りです。まずは歴史資料館の入口となっている搦め手門跡から外側の泥田堀に沿って進みますが、すずりんさんたちのお話では普段はかなり湿っていて歩けないとのこと。この時はそれほどぬかるむでもなく、歩くことが出来ました。
そのあと三ノ郭に戻り蔀土塁を横目に見ながら三ノ郭正[土占]門跡へ。ここには木橋がかけられていますが、壕は深く土塁は高く見応えがあります。(堀にちょっと段が出来ているのが不思議でしたけど)
木橋をわたって西ノ郭へと進みその西南隅に行くと、ここが大手門跡ですとお二人に教えていただいたのですが、すっかり草に埋もれていてこれが大手門跡だったとはちょっと信じられませんでした(^^;) その後、二ノ郭との間の堀沿いに戻りましたが、この堀もかなり深く、途中で折ができていました。
そして、二ノ郭へ入り畠山重忠像を眺めると、いよいよ本郭へと向かいます。本郭はきれいに整備されていて、土塁も堀もきれいに形を眺めることができます。本郭の小口のちょっと横には堀の方に少し突き出た出桝形土塁があり、本郭の小口の防御を固めています。
そのあと、堀と土塁を眺めながら、二ノ郭から再び三ノ郭へと戻りましたが、まさに土の芸術品という感じがしましたね(^^) あの土塁と堀は一見の価値があると思います。












【城 跡 名】江戸城(千代田城)
【訪 城 日】1999年1月17日・2000年1月15日
【所 在 地】東京都千代田区
【創建年代】長禄元年(1457)
【創 建 者】太田道灌
【主な遺構】本丸、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸、天守台、石垣、土塁、堀、
櫓、城門など多数
【歴史・沿革】
江戸の地に城が築かれたのは長禄元年(1457)のこと、扇谷上杉持朝の命で同家の執事太田道灌が築城しました。その後は道灌が城代をつとめますが、文明18年(1486)道灌は主家の上杉定正により誘殺されます。永正2年(1505)には上杉朝良が入城し、大永4年(1524)に北条氏綱により陥落するまで扇谷上杉氏の本拠となります。北条氏は遠山氏を城代として江戸城を守らせ、天正18年(1590)には遠山景政の弟川村秀重がありましたが、秀吉麾下の大軍に包囲され開城しました。
同年8月関八州の太守となった徳川家康は江戸城を居城と定めて入城し、文禄元年(1592)からは拡張工事に着手しました。慶長8年(1603)家康は江戸に幕府を開き、江戸城は天下の府城となりました。その後三代家光の代まで普請を続け、寛永13年(1636)一応の完成を見ました。
家光の代には五層の豪華な大天守がありましたが、明暦の大火(1657)でこの大天守をはじめ本丸・二の丸殿舎などが焼失、以降明治に至るまで13回の火災を経験しました。
【訪 城 記】
この江戸城は1999年の1月に東京へ旅行したときに、NIFTY-SERVEの城郭フォーラム(FSIRO)のみなさんと訪城しました。まずは和田倉橋を渡り、桔梗門を横目で見ながら大手門の方へ... そして百人番所の前を通って本丸の方へ。この途中で富士見櫓を裏側から見ることができました。この時点ですでに、石垣の多さ、そしてその石の大きさに圧倒されました。そして松の廊下跡や富士見多聞を眺めながら天守台の方へ。この天守台は明暦の大火の後、加賀前田家が再建したのに結局天守は再建されなかったそうですが、何とも残念なことでした。
その後、北詰橋門から一旦東御苑の外に出て堀づたいに歩きましたが、ここから見える石垣の何と高いことか... そして平川門から再び東御苑に入り汐見坂を下って大手門の方へ戻りました。
皇居東御苑を中心に回りましたが、感じたのはやはり江戸城は天下に名だたる名城だということです。何といっても石垣の高さ、堀の深さなどはやはり並みのものじゃありません。さすがは天下人の城だなあと思いました。(1999/1/17)









昨年に続き、今年(2000年)もFSIROの冷や奴さんと訪城しました。今回はまだ見ていない部分ということで北の丸とJR飯田橋駅の近くにある牛込見附を見ることにしました。飯田橋駅に着くとすぐそばに大きな石垣を発見しました。ここは三十六見附といわれる江戸城の外郭の一つでかつて桝形門になっていたようです。去年見た江戸城の石垣によく見た作りで(当たり前ですが)、すぐ近くには「阿波守」と書かれた石がありましたが、ここの石垣は蜂須賀家が担当したとのことですのでそれを示したものだったのでしょう。
その後北の丸の方へ移動。まず田安門ですが、石垣が積み直されているとのことですので、何か新しい感じを受けました。ですが、門の横の牛ヶ渕側の土塁はかなりの高さでこれにはやはり規模の違いを感じました。
その後清水門まで移動しましたが、こちらは田安門に比べて閑静な感じ、門自体もかつてのそのままのようです。そして内堀通りに沿って竹橋のところまで行き、その後は喫茶店に入ってしばらく冷や奴さんと城の話をして別れました。
本当はその後、大手町経由で神保町に帰るつもりだったんですが、ついフラフラと大手門の方へ行き、結局桔梗門→坂下門→皇居正門・二重橋→桜田門と見て回ってしまいました(^^;) (足が痛いと行っていたのに) まあでも、これで江戸城の東半分は見たことになります。冷や奴さんに1月2日の一般参賀は是非行った方がいいよとすすめられましたが、来年どうしましょうかねえ(^^;) (2000/1/15)









【城 跡 名】品川台場
【訪 城 日】1999年1月17日
【所 在 地】東京都港区台場1丁目
【創建年代】嘉永7年(1854)
【創 建 者】江戸幕府(江川英龍)
【主な遺構】石垣、土塁
【歴史・沿革】
嘉永6年(1853)6月、4隻のアメリカ艦隊を率いたペリー提督は国書を幕府に提出し、来春までに回答するよう要求して去っていきました。幕府は、若年寄本多忠徳・勘定奉行川路聖謨・韮山代官江川英龍等に江戸湾防備の方策をまとめるように命じました。彼らは台場(12ヶ所の砲台)築造を進言し、8月には江川を奉行として昼夜兼行の工事が開始されました。そして翌7年4月までには第一・二・三台場が完成し、11月までには第五・六台場及び品川猟師町台場が竣工しました。
しかし、すでに同年1月、台場がまだ一つも完成を見ない時にペリーは再び来日し、3月には日米和親条約が調印され、続いてロシア・フランス・オランダとも和親条約を調印するに至りました。こうして国際情勢の変化と台場築造費が予想外にかかったことも重なり、第四・七台場は工事を中断、その他は未着手のままになりました。
【訪 城 記】
ここも昨年(99年)の1月に、FSIROのみなさんと行きました。まずゆりかもめでお台場海浜公園駅まで行き、あとは第三台場まで歩いてきました。第三台場に近づくと同じ時期に作られたためか、箱館の五稜郭の石垣と非常によく似ているような気がしました。左側の石垣の上に跳ね出しがある所などはそっくりです。また、この左側と右側の石垣に積み方は変えてあるそうです。
北側の方に船着き場がありますが、ここの石垣を見ると鉄の棒(チキリ)を石に通して地震などで石が崩れないようにしてあるのがわかります。(一ヶ所石が欠けてチキリが見えるところがあります。)また、台場は海を埋め立てて作られていますので基礎が波に洗われないように亀張りという石畳をはっています。(写真6参照)
第三台場から第六台場がよく見えますがここは立入禁止になっているそうです。それですっかり鳥の住みかになっているそうで...
ちょっと風が冷たかったですが、いろいろな見どころを教えていただきながら訪城できとても良かったです。







【城 跡 名】八王子城
【訪 城 日】1999年1月15日
【所 在 地】東京都八王子市元八王子町
【創建年代】天正年間
【創 建 者】北条氏照
【主な遺構】空堀、堀切、土塁、石塁、石垣、御主殿跡(復元)
【歴史・沿革】
八王子城を築いた北条氏照は北条氏三代氏康の子で、山内上杉氏の重臣として武蔵に勢力を張っていた大石氏の名跡を継いだ人物です。氏照は大石氏の居城滝山城を受け継ぎ、大改修を施しましたが、甲州口の要として天然要害の八王子に新城を築きました。しかし、天正18年(1590)の小田原の役の際は前田・上杉軍の総攻撃をくらい落城しました。
【訪 城 記】
八王子城に昨年(99年)の1月に、NIFTY-SERVEの城郭フォーラム(FSIRO)のみなさんと訪城したところです。まずは大手道を進み、復元された曳き橋のところまで行きました。この曳き橋と橋の向こうの大手虎口の石垣や石段は、さすがに新しく復元されたものらしく初々しかったですが、なかなかの迫力で思わず何枚も写真を撮ってしまいました。(まあ氏照の時代にこんな立派なものがあったのかというと、どうなのかなとは思いますが...)
その後は御主殿跡の裏山の道無き道を登り始めました(^^;) 所々に当時のものと思われる石垣を発見しました。そして本丸まで登り、馬冷やし場を通って天守閣跡といわれる詰めの城まで行って戻ってきました。
私はどうも山城というものはあまり知らないので、よく分からないのですが、あれだけの山城に石垣をほどこすなんて、大変だったろうなと思います。まして関東は石垣の城はほとんどなかったそうですし... それから、あの道無き道を進むみなさんのパワーにも感心しました(^^;)








【城 跡 名】片倉城
【訪 城 日】1999年1月15日
【所 在 地】東京都八王子市片倉町
【創建年代】15世紀後半
【創 建 者】長井氏
【主な遺構】空堀、土塁など
【歴史・沿革】
現存する遺構は15世紀後半山内上杉氏と連合して古河公方足利成氏に対抗した扇谷上杉の家臣長井氏(大江広元の二男時広の末裔)によって築かれたと推定されています。その後両上杉氏は対立するようになり、永正元年(1504)の立河原の戦いのおりには長井氏は扇谷陣営の一翼を担っています。だが、合戦の後山内方の攻撃を受け長井八郎は囚われの身となっています。これ以、降長井氏は多摩郡片倉付近から姿を消し、片倉城のその後についてもつまびらかではありません。
【訪 城 記】
FSIROのみなさんと八王子城を訪城した後、片倉城に移動しました。ここは現在公園となっており城跡としての面影はあまりありません。本丸と二の丸を区切る堀には現在橋が架かっていますが、この堀もかなりなだらかなものになっています。他には二の丸の外側を囲む堀も残っています。
北海道よりはもちろん暖かいものの、この日は八王子城で雪がちらつくなど結構冷えましたので、片倉城のあと近くのコーヒーショップでみんなで一息いれました。温かいコーヒーが何とも美味しかったです(^^)




【城 跡 名】小田原城
【訪 城 日】2000年1月12日~13日
【所 在 地】神奈川県小田原市栄町城内
【創建年代】14世紀末頃
【創 建 者】土肥氏?
【主な遺構】石垣、堀(天守、櫓、門は復元)
【歴史・沿革】
伝承によると小田原城は14世紀末、土肥氏が取り立てたといいます。しかし土肥氏は上杉禅秀の乱に加担して小田原を追われ、応永24年(1417)代わって大森頼顕が城主になりました。
明応4年(1495)、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は小田原城主大森藤頼を敗走させ、以後、後北条氏五代の本拠となり、代々改修が行われ城下町をすっぽり包んだ大城郭が出現しました。しかし、この大城郭も五代氏直の時に、天下統一をめざす豊臣秀吉の大軍が押し寄せ数ヶ月の籠城の末降伏しました。小田原平定後関東は徳川家康に与えられ、家康は大久保忠世を小田原城に入れました。しかしその子忠隣の時、大久保長安事件に連座して改易となり、同時に城は大幅に破却されました。そしてしばらく城代が置かれましたが、元和5年(1619)に阿部正次(5万石)、寛永5年(1632)に稲葉正勝(8万5000石)が城主となりましたが、正通の代に越後高田に転封となり、下総佐倉から大久保忠朝が10万石で入封し、大久保氏が返り咲きました。以後子孫相次ぎ明治に至りましたが、明治3年(1870)新政府の命で建物はすべて破却されました。戦後の昭和35年、江戸時代の天守をほぼ忠実に模して鉄筋コンクリート製の天守が復元され、二の丸隅櫓、常盤木門、銅門も順次復元されました。
【訪 城 記】
この日は、羽田空港に着くまでいろいろとバタバタしまして、特急に乗り遅れそうになりましたが、何とか予定通り午後2時過ぎには小田原駅に着きました。早速ホテルに荷物を置き、小田原城に出かけようとしましたが、予報通り天気は雨... 結局、この雨はずっと止みませんでした。
まずはホテルを出るとそのすぐ前に北条氏政・氏照の墓があったので早速参詣、思ったよりも小さなもので、何だか敗者のわびしさを感じました。
その後はまっすぐ道なりに進み、『神奈川県の歴史散歩』を見ながら幸田門跡を探しました。立派な石碑がありましたが、その奥に三の丸土塁がきれいに残っていました。そのまま進むと、今度は右手に二の丸堀が見え、二の丸隅櫓も見えました。その辺りで左に曲がると市民会館の裏あたりに鐘つき堂が見えました。この辺りがかつての大手門のあったところで、立派な石垣が残っていました。 再びさっきの道へ戻り、二の丸堀に沿って右に曲がると、左側に和風建築の三の丸小学校がありす。ここは江戸後期に集成館という学校があったところでその先を左に曲がったところが箱根口門跡で、ここにはきれいに石垣が残っていました。
そしていよいよ城内へ。お茶壺橋を渡り右に行き、馬屋曲輪から住吉橋を渡ると復元された銅門です。まだ復元されて2年ぐらいですが、なかなかきれいでした。そして二の丸へと進むと歴史見聞館というのがありまして、取りあえず入ってみましたが、お城が目的という人は寄らなくても良いと思います。
そして常盤木門の方へ登ろうとすると、右側の方に本丸東堀跡が堀の形だけ復元されていました。常盤木門を抜けて本丸へ入ると、檻が...(^^;) なんでこんな所に動物園が...と思いつつ天守の方へ。やはりこの天守はきれいですねえ。子どもの頃にプラモデルを作ったことがありますが、写真に撮るとホント絵になります。そして常盤木門から図書館の前へ抜けて天守の裏の方に回ろうとしたら、途中で崩れた石垣らしき物を発見しました。そして遊園地前を通りすぎ、駐車場を抜けて、二の丸を通って、再び常盤木橋へ。最後は先ほど見た隅櫓を裏から見て、一日目の訪城を終了しました。
天守もきれいでしたが、それ以外の幸田門跡の土塁とか箱根口門跡の石垣とかそういう遺構が見れたのも良かったです。とにかくずっと雨が降っていて、参りました(^^;)
二日目は石垣山城・山中城を訪城して小田原に戻ってきたのがまだ3時ぐらいでしたので市内に残る小田原城外郭を見て回ることにしました。
最初に早川口遺跡に行こうと思ったんですが、車を止める場所が見つからず取りあえず後にすることにしました。
【お鐘ノ台大堀切】
小田原市内の地図を見ながらこの辺だろうと見当を付けながら進んだら、見事通り過ぎてしまいました(^^;) で、戻る途中で「小田原城外郭」の標柱を発見。車をどうしようかと思いましたが、近くにちょっとした空き地があって車が一台止まっていたのでそこにちょっと止めさせてもらいました。
標柱の所から見ると、確かに大きな堀切がありました。少し上から見てみようと思いましたが、柵があって道路側からは入れない状態でしたので、諦めて次へ進みました。
【早川口遺跡】
その後、報徳神社の駐車場に止め、早川口まで歩くことにしました。ですが、丁度この頃から雨足が強くなり、ほとんどびしょぬれ状態(^^;) 早川口につき、土塁の写真を数枚撮って早速退散しました。戻る途中で城郭風のういろう屋を発見しましたので取りあえずこれも写真に撮って、報徳神社まで戻りました(彦根城天守にそっくりでした(^^;)) そして車の中でホッと一息。蓮上院の土塁はどうしようかと思いましたが、まだ汽車の時間まで時間があるので取りあえず行ってみることに...
【蓮上院土塁】
ここは私有地ということでしたので、まずは蓮上院に行って一言ご挨拶を。その後裏に回ってみましたが丁度塀がジャマでよく見えず、まあ土塁だということがわかる程度でした。本当ならもっとよく見たいところですが、雨がひどいのでそこで止めてレンタカーを帰しに行き、二日目の訪城を終了しました。
とにかく、雨にたたられた二日間でした。










【城 跡 名】石垣山城(一夜城)
【訪 城 日】2000年1月13日
【所 在 地】神奈川県小田原市早川
【創建年代】天正18年(1590)
【創 建 者】豊臣秀吉
【主な遺構】天守台、本丸などの諸郭、石垣、井戸
【歴史・沿革】
小田原城を包囲する豊臣秀吉の本陣は、初め湯本の早雲寺に置かれましたが、力攻めは無理と見た秀吉は天正18年4月初旬から小田原城の西方にそびえる笠懸山に築城を開始しました。昼夜を分かたぬ突貫工事によって、およそ80日後の6月26日に城は完成し、夜中のうちに全面の杉林を伐り倒して夜明けを待ちました。翌朝、小田原城内では一夜にして石垣を連ねた大城郭が現われたのを見て驚きましたが、これによりこの城は一夜城とも呼ばれました。
急ごしらえとはいえ、最終的に完成された城は本格的なもので、5月には秀吉はこの城へ淀殿他の側室を呼び寄せ、諸将もそれぞれ妻妾を呼び寄せ、悠々たる陣中生活を送ったとのこと。この間、小田原城内では次第に戦意を失い、7月6日にいたって北条氏政・氏直父子はついに降伏しました。
石垣山城は箱根を押さえる要害として重要だったためか、江戸時代を通じてよく管理されましたが、残念ながら関東大震災などでかなり石垣が崩れてしまっているようです、
【訪 城 記】
さて小田原城を訪城した翌日はまず石垣山一夜城に行きました。小田原駅前からレンタカーで出発し、ほとんど迷わずに石垣山城まで着きました。駐車場に車を止め左に進むと、早速南曲輪下の石垣に遭遇。ここでまず感激してしまいました(^^;) そのまま道なりに進み途中から上がると広いところに出て、隅の方に櫓台のようなものがありましたが、ここは西郭跡です。ここにも崩れたらしき石垣が散乱していました。そのあたりに登る道らしきもの(ほんとは道じゃなかったらしい(^^;))があったので登ってみると天守台の前に出ました。してみると先ほどの崩れた石は天守台のものだったのかもしれません。
天守台の前には本丸跡が広がり、端の方には展望台がありました。そこから眺めてみると少しもやがかかっていましたが、小田原城の天守を確認することができました。まさに小田原攻めの本営としては絶好の立地です。本丸跡の端には櫓台跡らしき物があり、その辺りが本丸正門だったようです。虎口の所にも石垣が散乱していました。
そこから下ると二の丸跡でですが、ここは植木が植えられ庭園のようでした。端の方には櫓台が残っています。そこから先は馬出郭ですが、右側の方に井戸郭へと下りていく道がありましたのでそちらへ進みました。井戸郭の石垣はスゴイ!と聞いていたので期待しながら下りていきましたが、眼前に広がる石垣は予想を超える美しさでした。よくこれだけのものが残っていたなあと感心してしまいました。井戸郭にこれだけの石垣があったとすると、かつての石垣山城全体はどれだけ立派なものだったかと思うと、秀吉の凄さを感じました。結局、ここの石垣だけでかなり写真を撮ってしまいました。(電池交換の時に石の上にデジカメを落としてしまいましたが、傷が付いただけで壊れなかったのは不幸中の幸いでした...)
二の丸に戻ってみると、もやがかかってきていたので、あわてて南郭の横を通って入口の方へ戻りました。この途中にもかなり石垣が残っていました。
とにかくあの井戸郭の石垣は必見ですね。いいもん見せてもらいました(^^)








【城 跡 名】小机城
【訪 城 日】2017年12月26日
【所 在 地】神奈川県横浜市港北区小机町
【創建年代】室町時代
【創 建 者】?
【主な遺構】郭、土塁、空堀、土橋、櫓台
【歴史・沿革】
小机の地に本格的に城郭が構えられたのは文明8年(1476)の長尾景春の乱の頃と考えられています。扇谷上杉氏の家宰太田道灌によって攻め落とされ、その後、16世紀には後北条氏の有するところとなり、『諸国廃城考』によると北条氏綱が大規模な改修を行い、その家臣笠原越前守信為を城代とし、近隣の国衆を組織して「小机衆」として笠原氏の支配下に置きました。その後、北条氏秀・氏堯が城主となりましたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は廃城となりました。
【訪 城 記】
昨年の末ですが、十数年ぶりに道外に行ってきました。今回は出張で東京に行ったのですが、前の日に前乗りして午後から時間があったので、どうしようかと考え、以前道内のチャシをご案内したKさんにメールしたところ、「それなら横浜の小机城はいかがですか?案内しますよ。」と言って下さったので、お願いした次第です。
12/26の11:00のJALで東京に向かったのですが、前日からの天候不良で約30~40分ほど遅れ、東京に着いたのは13:30頃でした。(まあ飛んでくれただけありがたいですが)
早速Kさんと合流し、電車を乗り継ぎ、途中の駅のコインロッカーに荷物を預け、いざ小机駅へ。駅から少し歩くとこんもりと緑に覆われた小山が見えてきました。これが小机城でした。そのまま進み住宅街の中の道を歩いて行くと「小机城址市民の森」という看板があちこちにあり、それに従って小山の方へ進むとまずは「根古屋広場」がありました。Kさんはここで一服するというので、私だけそのまま進み、突き当たりを左の方へ。
すると本丸(西郭)への土橋と大きな空堀が見えてきました。そして本丸(西郭)へと入ると虎口に大きな土塁がありぐるっと取り囲んでいます。そのまままっすぐ進み本丸(西郭)の反対側に行ってみると、そちらにも大きな空堀がありました。
今度は本丸から東側の細長い郭へ進むとKさんと合流し、櫓台跡を見た後北側の空堀の方へと下りていきました。かなり深い壕で、十数mはありそうな規模でした。その壕がぐるっと本丸(西郭)・二の丸(東郭)の北側を取り囲んでいます。
そのあとまた本丸に戻り二の丸を回って、先ほどの櫓台跡の外側の空壕へと進みました。こちらも大きく防御がしっかりしていることがうかがえます。
そしてそのまま堀沿いの土塁の上を歩き、第三京浜道路の方へと進むと、堀切?竪堀?のようなものが?
その後は神保町まで移動し、書泉グランデにて書泉グランデにてお城の本やらTEAMナワバリンググッズやらを物色。本1冊と「杉山城と仲間たち」&縄張図クリアホルダーをGETし、新宿にてKさんと反省会。お城の話やら何やらで楽しい時間を過ごしました。
次の日は、一日研究会に参加し、19:30の飛行機で北海道に帰る予定が1時間遅れ、北海道に着いてからもJRが遅れ、自宅に着いたら日が変わって12時半を過ぎていました(--;)
今度はいつ道外のお城に行けますかねえ?




















