栃木県(1)
足利市(1)
足利学校

【史 跡 名】足利学校
【訪 問 日】2001年1月13日
【所 在 地】栃木県足利市昌平町2338
【訪 問 記】
 職場の職員旅行で初日は横浜方面、二日目は鎌倉方面へ行き、三日目・四日目は渋谷・お台場・神田神保町・池袋・秋葉原など東京近辺を周り、最後の二日間はお城巡りMLのお仲間と史跡&城巡りをしました。
 この日は館林駅でまず大村さんと合流し、館林城を少し見たあと足利へ向かいました。太平記館の駐車場で越後からおいでの井比さんと合流し、まずは足利学校へ。足利学校前の歩道橋に登ると、丁度足利学校が一望にでき、方形の土塁と堀がとてもきれいに見えました。大村さんのお話によると数年前、天皇・皇后両陛下が訪問された際に、それに会わせてかなり整備されたそうです。

 足利学校は日本最古の学校といわれ、その創建者については、小野篁・足利義兼・上杉憲実などいろいろな説があるそうですが、永享11年(1439)衰微していたところを上杉憲実が再興しました。鎌倉五山から庠主(校長)を招き、上杉氏・足利長尾氏の保護のもと盛んとなり、学徒三千人といわれました。江戸時代に入ると次第に衰微し、幕末には足利藩主戸田氏に足利学校は移管され、維新後は栃木県の管理となったものの荒れるに任せていましたが、足利町民の保存運動により平成2年(1990)には1750年代(宝暦年間)の建物群が復原されています。

 入口の入徳門の近くに管理事務所があり、そこで足利学校についてのビデオを見たあと校内に入りました。入徳門からしばらく歩くと学校門がありますが、その左右には土塁や堀が伸び往時の姿を偲ばせます。学校門をくぐり、しばらく進むと杏壇門がありますが、修復中でした。その奥には孔子廟がありますが、中国明時代の聖廟を模したものといわれており、確かに日本の建物とはやや違いを感じました。
 杏壇門から右に行くと方丈・庫裏・書院がありますが、これらは復元されたものです。中に入ってみましたが、床が冷たくてスリッパが欲しかったです(^^;)その周囲には庭園や庠主の墓などもありました。

群馬県(1)
太田市(1)
大光院

【史 跡 名】大光院
【訪 問 日】2000年1月16日
【所 在 地】群馬県太田市金山町
【訪 問 記】
 この日はNiftyのFSIROの冷や奴さんの金山城の発掘説明会に行ってきました。金山城をじっくりと堪能したあとはゆっくりと歩きながら麓まで降りてきて、大光院まで行きました。
 大光院は正しくは義重山大光院新田寺といい、徳川家康が先祖とする新田氏の祖・新田義重の供養のために建てたものです。芝の増上寺から迎えられた呑龍上人を開山とし、「呑龍様」という通称で親しまれています。
 寺門の吉祥門は丁度修復中で見ることができませんでしたが、江戸初期に建てられた本堂や昭和初期に建てられた開山堂は立派なものでした。また境内には立派な灯籠がいくつもありました。

茨城県(0)
千葉県(0)
埼玉県(0)
東京都(1)
文京区(1)
東大赤門

【史 跡 名】東大赤門
【訪 問 日】2001年1月12日
【所 在 地】東京都文京区本郷7丁目
【訪 問 記】
 この日本当は千葉県の佐倉まで行き佐倉城や歴史民俗博物館を見てくる予定だったのですが、前日までの疲れが溜まっていたので、同行の杉本さんと相談してそれは取りやめて午前中は神田神保町の古本屋街を回りました。昼からは少し元気も出てきたので池袋に行き、その後後楽園の東京ドームに行き、そして本郷の東大へ行ってみました。営団丸の内線の本郷三丁目駅で降りしばらく歩くと、東大のシンボルともいうべき赤門が見えてきました。
 東大は江戸時代の加賀藩前田家上屋敷跡にあり、赤門は前田家十三代斉泰が文政11年(1828)に十一代将軍家斉の娘溶姫を迎え入れたときに建造された門で、朱の漆で彩られたことから、表の黒門に対して赤門と呼ばれるようになったそうです。
 赤とはいっても、ちょっと落ち着いた感じの赤色で、とても清澄であると同時に女性が出入りするのにふさわしい華麗さ優雅さも兼ね備えた感じのする門でした。
 ここからしばらく歩いて安田講堂を見て、再び本郷三丁目駅まで戻り、そのあと秋葉原まで行ったのでした。

神奈川県(7)
鎌倉市(4)
鶴岡八幡宮

【史 跡 名】鶴岡八幡宮
【訪 問 日】2000年1月14日、2001年1月11日
【所 在 地】神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
【訪 問 記】
 源頼朝の墓のあとふたたび西の方に戻り、横浜国大付属小・中の前を通って鶴岡八幡宮の方へ向かいました。しばらくすると三の鳥居から本宮へ向かう参道に辿りつきました。正面には舞殿とも呼ばれる下拝殿がありました。その奥の石段を登ると本宮がありますが、ともに壮麗な造りで見応えがあります。本宮の左奥には宝物殿があり各種の社宝が展示してあります。
 ふたたび石段を下ると、本宮の右手に下宮とも呼ばれる若宮があります。これまた舞殿や本宮に負けず劣らず朱塗りの美しい建物です。
 そこから三の鳥居の方に下っていくと太鼓橋があり、その両側に源平池があり、東側の源氏池に突き出ている島には旗上弁財天社という小さな社がありました。
 そして昼食を取ったあとは三の鳥居から二の鳥居まで若宮大路の参道を通り、そのあとさらにもっと南の方にある一の鳥居まで行きました。二の鳥居・三の鳥居が朱塗りであるのに対し、一の鳥居は石造りで4代将軍徳川家綱が寄進したものだそうです。
 ちょっと疲れていたので行きませんでしたが、もし今度行くときには境内にある鎌倉国宝館や白旗神社にも行ってみたいですね。(2000/1/14)


 思いがけず、1年ぶりに再訪することになりました。職場の職員旅行で初日に横浜、二日目に江の島・長谷寺と回ったあと、江ノ電で鎌倉まで行き鶴岡八幡宮まで歩くことになりました。去年もそうでしたが、普段歩き慣れていないせいか、この頃には足の裏や太股の辺りが痛くて大変でしたが何とか鶴岡八幡宮までたどりつきました。境内の休憩所で少し休んだあと、本宮へと向かいましたが、去年撮りそこなった石段横の「隠れ銀杏」(三代将軍実朝を暗殺した公暁が隠れていたという伝説がある)の写真を撮りました。奥の宝物殿では外国の某博物館(名前忘れた(^^;))所蔵という源頼朝像を展示していました。
 今度行くときこそは、足が痛くない状態で回りたいです(^^;) (2001/1/11)

鎌倉幕府関係史跡

【史 跡 名】(1)宇都宮辻子(ずし)幕府跡、(2)若宮大路幕府跡、(3)大蔵幕府跡、
      (4)畠山重忠邸跡、(5)畠山重保邸跡、(6)問注所跡
【訪 問 日】2000年1月14日
【所 在 地】神奈川県鎌倉市
【訪 問 記】
 旅行3日目、この日は鎌倉へと行きました。JR鎌倉駅で降りると、まず駅横のレンタサイクルで自転車を借り、鶴岡八幡宮方面へと向かいました。『神奈川県の歴史散歩』を見ると、途中の脇道に幕府跡の史跡が載っていたので、途中から小道には入り、まず最初に宇都宮辻子幕府跡の石碑を見つけました。ここは宇都宮稲荷という小さな社があり、4代将軍藤原頼経が執権北条泰時らとともに、幕府を源頼朝以来の大蔵から鎌倉の中心部に移して、嘉禄元年(1225)から嘉禎2年(1236)まで政治を見たところです。(今はこの石碑以外何もありませんが)
 そこから少し進むと今度は若宮大路幕府跡の石碑がありました。ここは嘉禎2年(1236)から元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡までの間幕府が置かれたところです。
 そこからまたしばらく北に進むと鶴岡八幡宮の前に出たのですが、自転車を置く場所が見つけられなかったので、鶴岡八幡宮はあとにして、その東側にあるという源頼朝の墓の方へ進みました。すると途中で大倉幕府跡の石碑を見つけました。ここは治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に入ってつくった邸で、やがて最初の幕府が置かれた場所です。源氏三代の幕政の中心地でしたが、嘉禄元年(1225)執権北条泰時は宇都宮辻子に幕府を移しました。
 源頼朝の墓にお参りしましたあとは西の方に戻り、途中に自転車をちょっと置いて鶴岡八幡宮の方へ向かいましたが、そのすぐ近くに、鎌倉幕府の有力御家人である畠山重忠邸跡の石碑を見つけました。
 そして鶴岡八幡宮に参詣したあと昼食を取り、鎌倉駅前を通りすぎ鶴岡八幡宮一の鳥居の所まで行くとすぐ近くに畠山重保の墓と畠山重保邸跡の石碑がありました。(この墓も明徳4年(1393)の銘があるので当時のものではありませんが) その後、途中で古本屋に寄ってしまったり、ぐるぐると回っているうちに駅の裏の方に行ってしまいましたが、御成小学校の前の道路脇に問注所跡の石碑を見つけました。
 そんなことをしてたら疲れてしまったので、まだ時間があったのですがこの日はこれで鎌倉散策を終えて東京方面へ戻りました。行きたいと思っていた建長寺や円覚寺等にも結局行かず仕舞いでしたので、いつか再訪したいですね。

源頼朝他の墓所

【史 跡 名】(1)源頼朝の墓、(2)法華堂跡、(3)毛利季光の墓、
      (4)大江広元の墓、(5)島津忠久の墓、(6)畠山重保の墓
【訪 問 日】2000年1月14日
【所 在 地】神奈川県鎌倉市
【訪 問 記】
 大蔵(大倉)幕府跡の石碑から北に進むと白旗神社が見えてきます。ここは法華堂跡で、もとは頼朝の持仏を祀る場所でしたが、その死後は廟所となり大蔵幕府を見下ろす大倉山の中腹に源頼朝は葬られました。
 石段を登ると頼朝の墓がありましたが意外と小さなものでした。(ただしこれは源頼朝の子孫と自称する薩摩藩主島津重豪が整備したものらしいです。)
 その右奥に登っていくと、大江広元の墓、その子で毛利氏の祖である毛利季光の墓、島津氏の祖で頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓が並んでいました。これも頼朝の墓と同じく島津重豪が整備したり、毛利家が後に墓を動かしたものらしく、実際にこれらの人々の墓とは思われませんが、のちに幕府を倒すことになる薩長両藩の先祖の墓が並んでいることに苦笑してしまいました(^^;)
 うっかりして行きませんでしたが、大江広元等の墓所の下側に北条氏と幕府の主導権争いをして敗れ宝治合戦で滅亡した三浦一族の墓があるそうです。三浦一族は最後は追い詰められ、この法華堂に籠もって自害しました。
 そのあと鶴岡八幡宮を見て、一の鳥居の所まで行きましたがそのすぐ近くに畠山重保の墓と伝えられる宝篋印塔がありました。これは明徳4年の銘があるので当時のものではありませんが、高さ3m以上もある立派なものでした。

長谷寺

【史 跡 名】長谷寺
【訪 問 日】2001年1月10日
【所 在 地】神奈川県鎌倉市長谷3-11
【訪 問 記】
 江の島から再び歩いて江ノ電の江の島駅まで戻り、今度は江ノ電で長谷まで行きました。長谷で降りると再び歩き、長谷観音で知られる長谷寺へ行きました。
 この長谷寺は開基は藤原房前、開山は徳道、天平8年(736)の創建と伝えられますが、確実な創建年代は明らかではありません。本尊の十一面観音は高さ9mを越す大きなもので木造の観音では日本最大のものだそうです。確かに大きなもので、見上げるような大きさでした。
 ここを出発する頃には膝が痛くなってきました(T_T) 駅に戻る途中で入った食堂で、「鎌倉丼」という海老とじ丼のようなものを昼食に食べ、人心地ついたところで長谷の駅まで戻りました。

藤沢市(1)
江の島神社

【史 跡 名】江の島神社
【訪 問 日】2001年1月10日
【所 在 地】神奈川県藤沢市江の島
【訪 問 記】
 ここは職場の職員旅行で行きました。この日は旅行二日目で、横浜からJRで大船まで行き、湘南モノレールに乗って江の島まで行きました。そこから道なりに進み、江の島大橋を渡り歩くこと約1.5km(?)、やっと江の島に着きました。
 この江の島は、養和2年(1182)源頼朝が文覚上人を招いて、戦勝を祈願し江の島の岩屋に弁才天を勧請したことから霊地としてされ、室町時代には幕府直轄の御料所となり、鎌倉府の保護を受けていました。宝徳2年(1450)には関東管領山内上杉氏と対立した鎌倉公方足利成氏が江の島に逃げ込み、江の島合戦が行われました。成氏が下総古河に退去し古河公方を名乗ってからも江の島との関係は続きますが、江戸時代には岩本院・上之坊・下之坊の間で本山の地位をめぐる紛争がくり返され、結局岩本院がその地位を確立しますが、明治にはいると神仏分離で宗像三女神を祀る辺津宮・中津宮・奥津宮と岩屋からなる江の島神社に改められ今日に至っています。
 一番下の辺津宮までは歩いて登りましたが、なかなか趣のある建物でした。そこから中津宮、そしてその上の植物園の辺りまでは「エスカー」というエスカレータで登りました。奥津宮はさらにその奥にあるのですが、私は前日から歩きすぎで足が痛くなってきたので、そこから戻ってしまいました(^^;) でも、この日はこれからまだまだ歩かなくてはいけないのでした...

小田原市(1)
北条氏政・氏照墓

【史 跡 名】北条氏政・氏照墓
【訪 問 日】2000年1月12日
【所 在 地】神奈川県小田原市
【訪 問 記】
 関東方面への2度目の旅行、まずは小田原方面へと向かいました。この時は、千歳空港の滑走路が凍り付き飛び立つのが1時間も遅れたため、余裕があったはずの特急に乗り遅れそうになりましたが、何とか予定通り午後2時過ぎには小田原駅に着きました。荷物を置くために、早速ホテルに向かうと、そのすぐ手前に北条氏政・氏照の墓が...
 ホテルに荷物を置くと、早速お墓に参詣しました。周りは駅前の繁華街で人通りも多いのですが、その一画にひっそりと佇んでいました。思ったよりも小さなもので、何だか敗者のわびしさを感じました。
 その後、小田原城へと向かいましたが、この日はずっと雨でした(T_T)

箱根町(1)
早雲寺

【史 跡 名】早雲寺
【訪 問 日】2000年1月13日
【所 在 地】神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
【訪 問 記】
 旅行2日目、まずは石垣山城を訪城し、その後山中城へと向かう途中、箱根町の早雲寺を訪れました。早雲寺は後北条氏の菩提寺として戦国時代には数多くの塔頭をもち、天文11年(1542)には後奈良天皇綸旨により勅願寺となりました。しかし豊臣秀吉の小田原征伐では早雲寺が本営とされ、後北条氏滅亡とともに衰退しました。
 奥の方には寛文12年(1672)に後北条氏の末裔・河内狭山藩主北条氏治が建てたという北条五代の墓所(供養塔)がありますが、この時には周囲に駐車するスペースを見つけることができず、道路脇にちょっと停車した隙にのぞいた程度ですので、山門と本堂を少し眺めただけで墓所までは見ることができませんでした(残念...(T_T))