【城 跡 名】彦根城(金亀城)
【訪 城 日】2001年5月3日・4日・5日
【所 在 地】滋賀県彦根市金亀町
【創建年代】慶長8年(1603)
【創 建 者】井伊直勝
【主な遺構】本丸、西の丸、太鼓丸、鐘の丸、二の丸、天守、櫓、馬屋、門、石塁、堀、井戸
【歴史・沿革】
関ヶ原合戦後、徳川家康は畿内北方の要として井伊直政を佐和山城に配しましたが、北国道・中山道を抑える佐和山城に変わる新城を計画し、直政の子直勝の代に諸大名12家に助役普請を命じて、約20年の歳月を費やして、これを完成させました。
彦根を中心とした湖東周辺は佐々木六角氏・織田信長・豊臣秀吉といった旧勢力ゆかりの地であるとともに、宗教勢力の根強い地域であったため、これらに代わる支配者の登場を意識づけるため、旧勢力の主な建築物を移築して彦根城の飾りとしています。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城、太鼓門・佐和口多聞櫓は佐和山城、西の丸三重櫓は小谷城天守より伝わり、破却されていますが、山崎三重櫓は長浜城天守の移築といわれており、石垣の石材は安土城、大津城、長浜城から移したといわれ、寄せ集めの城として彦根城は成立していったといえます。
以後、明治維新まで井伊家の居城として続き、廃藩後は陸軍省の管轄となり、多くの建物が撤去されましたが、たまたま明治11年明治天皇の北陸・東海巡幸があり、旧城郭を保存すべき旨の沙汰によって天守は保存され、現在天守は国宝に、太鼓門・天秤櫓・西の丸三重櫓・佐和口多聞櫓・馬屋は重文に、彦根城跡全体は特別史跡に指定されています。
【訪 城 記】
今回の旅行は彦根に三泊しましたので、彦根城には結局三日間で四回も行ってしまいました(^^;)
初日(3日)は、彦根駅でお城巡りMLの隠密かたてわざさんとオンライン三成会のびわこさんと合流し、まず彦根城の外堀周辺を回りました。遺構らしいものはあまりありませんでしたが、三の丸の土塁がほんのわずかですが残っていました。その後、お城MLの箕浦さん・ぶんさんと合流し、5人でいよいよ彦根城へと向かいました。
まずは佐和口多聞櫓ですが、東部分はコンクリートで復元されているとのことで、ところどころ色がはげていてなんとも残念な感じがしました。そのあとは鐘の丸下の竪堀&登り石垣2ヶ所を先ず見て、それから天秤櫓の中に入りました。中に、太鼓門下の竪堀&登り石垣、そして太鼓門を通って天守へと向かいました。
彦根城天守は見る方角によって印象がかわりなかなか見飽きませんでしたね。それから天守付櫓の下の石垣に墓石らしきものや石仏らしきものを見つけました。そのあとは、西の丸三重櫓を見て、三重櫓下の空堀に降りて第4・第5の竪堀&登り石垣を確認しました。
そして黒門跡から楽々園・玄宮園へと回りましたが、こちら側から見る天守も、鳳翔台から見る天守もなかなかのものでした。
箕浦さんには随所でいろいろと説明をしてもらいまして、天守や天秤櫓などに隠し狭間があっていざというときは漆喰を突き破って使うこと、天秤櫓の窓の柱は鉄砲が打ちやすいように斜めになっていることなどを教えていただきました。
二日目(4日)は安土城・八幡城などを回ったあと、夜にかたてわざさんと合流して食事をしながらいろいろとお城の話をしたのですが、そのあとなんと夜の彦根城散策をしてしまいました(^^;) 初日に通らなかった京橋口から大手門跡へと抜け梅林(米蔵跡)を通って山崎郭へ、そして天守・天秤櫓を抜けて表門へと出てきました。時間が時間だけに天守などのライトアップもとっくに終わっていて、さすがにちょっと恐かったですね(^^;) ですが、地元のかたてわざさんにいろいろと教えていただきながら回ったのはとても良かったです。おかげで次の日は、「これが昨日言っていたあれだな」なんて確認しながらお城巡りができました。
三日目(5日)は午前中観音寺城を回り、昼からは彦根に戻ってきてまずは初日にパスした埋木舎や彦根城博物館(表御殿を復元したもの)を見たあと、前日にかたてわざさんと通ったルートを逆に回ってみました。梅林の手前に登り石垣がありましたが、さすがに迫力がありました。旧中濠周辺にある旧池田屋敷長屋門・旧西郷屋敷長屋門・旧鈴木屋敷長屋門の3つの家臣屋敷の長屋門も見ましたが、旧西郷家屋敷長屋門は五千石の大身庵原家が建てたものということで、その大きさに驚きました。
彦根城からの帰り、えらく足が痛むなあと思って、ホテルに帰ってから見てみたら、右足の薬指は水ぶくれ、左足の中指は爪の下に血が溜まってました(^^;) まったく、普段歩かないとこうも弱いもんかなと我ながら呆れてしまいました(^^;)
そして夕食を食べたあと、こりもせず再び彦根城へ(をい(^^;)) 次の日には北海道に帰らねばなりませんのでライトアップされた天守をみようと出かけました。夜は光が弱いせいかシャッターが降りるのが遅くて、手ぶれしてしまい何度も写真を撮り直してしまいましたが、なんとか天守の写真を何枚かカメラに収めることができました。
一回の旅行でこんなに何度も同じお城に行ったというのは初めてでしたが、彦根城はそれだけの価値のある城だなあと思いました。いいもん見せてもらいました(^^)

















【城 跡 名】佐和山城(佐保城)
【訪 城 日】2001年5月3日
【所 在 地】滋賀県彦根市古沢町・佐和山町
【創建年代】建久年間
【創 建 者】佐保時綱
【主な遺構】土塁・堀・本丸・二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸・井戸・石垣
【歴史・沿革】
佐和山城は別名佐保城といい、その創築は鎌倉期に遡るといわれています。佐々木氏の一族佐保時綱が建久の頃に築いたといわれ、室町期には佐々木六角氏の重臣小川氏、のち磯野氏の居城となり、戦国期には浅井氏の領有となり磯野員吉・員昌が城将となりました。
本能寺の変後、豊臣秀吉は堀秀政に五万石を与え守らせていますが、その後何度も城主が変わり天正13年には堀尾吉晴が、天正18年には石田三成が城主となりました。関ヶ原合戦で落城後は井伊氏が入りましたが、彦根築城により廃城となりました。
【訪 城 記】
初日(3日)に、彦根城を回った後佐和山城へと向かいました。隠密かたてわざさんはお仕事があるとのことでしたので、箕浦さん・ぶんさん・びわこさん、そして私の4人で、龍潭寺の参道を進むと石田三成の銅像がお出迎え。まずは龍潭寺へと行ってみました。この龍潭寺には佐和山城縁のものが多くあり、建立当時の山門は佐和山城の城門を移築したものだそうで(現在のものは違うようです)、佐和山城の陣鐘も晩鐘となり龍潭寺の玄関に吊されていました。また、佐和山城の部材を使った茶室があるそうですが、それは公開していないそうです。
この他にも佐和山城の建物を移築したといわれるものはいくつかありまして、彦根城の佐和口多聞櫓・太鼓門櫓、宗安寺の赤門、それから彦根市の隣の多賀町にある高源禅寺の山門(佐和山城の裏門)などがあり、清涼寺の建立当時の山門も佐和山城からの移築といわれているようです。
そのあと、裏の登山道を登りはじめましたが、山城初心者の私にはいささか急で、半分ほど行ったところですでにバテはじめ、西の丸で若干休憩したものの、次第に他の皆さんから遅れはじめ、本丸に着いた頃にはダウン寸前... 取りあえず回復するのに20~30分もかかってしまいました。おかげで本丸にあったはずの石碑や頂上からの眺めもろくに覚えていない始末です。
その後なんとか回復したので、2個だけ残っている石垣の残石、そして千貫井戸を見たあと、今度は太鼓丸・法華丸へと行きました。しかし、かなり草木が伸びていてだんだんと道がわかりにくくなり、ふと気がつくと土塁の上を歩いていました。太鼓丸でも法華丸でも土塁を確認しましたが、撮ってもわけのわからない写真になるだけと思い写真は撮りませんでした。
そして登山道を降りていくと国道8号線へと出まして、近くに「偽佐和山城」「偽金閣寺」がありましたので、これもついでに見てきました。
その後、龍潭寺まで戻り、車で佐和山城大手口まで行きました。田圃の中にかつての大手道がしっかりと残っていますが、大手口の両側にも土塁がきれいに残っていました。
かつての佐和山城の姿を偲ばせるものは、土塁や堀、石垣の残石に千貫井戸等しかありませんが、かつては五重の天守がそびえる壮麗な城だったことを思うと、感慨深いものがありました。




(中央を走る道が大手道)


(後ろの山が佐和山城)
【城 跡 名】長浜城(今浜城)
【訪 城 日】2001年5月3日
【所 在 地】滋賀県長浜市公園町
【創建年代】建武3年(1336)
【創 建 者】佐々木高氏(京極道誉)
【主な遺構】石垣・太閤井戸・模擬天守
【歴史・沿革】
長浜城というと羽柴(豊臣)秀吉が有名ですが、それ以前にも城郭はあり今浜城と呼ばれていました。京極道誉が水運の必要性から構築したものといわれ、六角氏の被官今浜氏の居城であったともいわれます。
天正3年(1575)羽柴秀吉が入城すると長浜城と名を改められ、旧浅井領支配のため改めて築城しました。秀吉が中国征伐軍の指揮を執るため姫路城へと転じたのちも長浜城はその本貫地として残りましたが、本能寺の変後柴田勝家の領するところとなり、勝家の甥勝豊が城主として入城しました。
その後山内一豊が城主を務め、関ヶ原合戦後は内藤信成が入城しましたが、大坂の陣後、子の信正は転封となり、長浜城下は彦根藩領となり、廃城となりました。建物・石垣は解体され、彦根城築城のために運び去られたといいます。彦根城天秤櫓は長浜城からの移築といわれ、今はありませんが彦根城の搦め手にあった山崎三重櫓は長浜城の天守を移築したものといわれています。また、城下の大通寺台所門と書院の一部も廃城後移されたものといわれています。
現在城跡は豊公園となり、昭和58年に市制40周年を記念して模擬天守が建てられ、内部は歴史博物館となっています。
【訪 城 記】
一応、予定では佐和山城のあと長浜城に行く予定でしたが、この時点ですでに5時近く。皆さんも予定があるというので、ここでお別れしましたが、びわこさんはまだ時間に余裕があるとのことで長浜城まで車で送って下さいました。
そしてびわこさんと別れ、長浜城のある豊公園へと向かいました。歩いていくと太閤井戸の看板もありましたが、まずは模擬天守の方へと向かいました。すでに6時近かったので当然模擬天守内の歴史博物館は閉まっていましたが、外から眺める天守もなかなか良い雰囲気でした。長浜城の歴史を考えると?という感じも受ける模擬天守ですが、建物としてはなかなか見栄えがするものでした。
そのあと、天守の裏側に回ってみると、遊歩道の端に古めかしい石垣が... まさか遺構じゃないよなあ?と思いつつ通り過ぎましたが、あとで手に入れた『近江戦国の道』(サンライズ出版)という本によると、明治42年、長浜町が城跡を公園化するにあたり付近に散乱していた残石を積み直したものだそうです。ですから、遺構とはいえませんが、もの自体はかつての長浜城のもののようです。
そのあと、先ほどの看板に従って太閤井戸を探しましたが、道の端に到達しても見つかりません。おかしいなあ?と思いつつその道を戻るとなんか湖岸に標柱のようなものが... それが太閤井戸の跡でした(^^;) 渇水時には現われるようですが、今は湖の中に沈んでしまっているそうです。
というわけで、かつての長浜城を忍ばせるものはほとんどないに等しい今の長浜城跡ですが、すっきりした模擬天守は一見の価値はあると思います。

(長浜城歴史博物館)

(長浜城歴史博物館)

(長浜城歴史博物館)



【城 跡 名】安土城
【訪 城 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
【創建年代】天正4年(1576)
【創 建 者】織田信長
【主な遺構】天守台・本丸・二の丸・三の丸・八角平・薬師平・黒金門跡・東門跡・土塁・石垣・堀・井戸
【歴史・沿革】
安土城が築かれた安土山は佐々木六角氏の家臣目賀田氏が拠ったため目賀田山と呼ばれたようですが、天正4年正月、織田信長は丹羽長秀を総奉行として、ここに空前の築城工事を始めました。その年の4月には石垣の工事に着手し、一応の完成は翌5年夏頃といわれ、天守が完成するのは同7年5月でした。瓦には金箔を置き、狩野派の襖絵や異国の文物で飾られるなど、壮麗をきわめた天守は五重とも七重ともいわれ、我が国最初の本格的天守閣を有する城郭であったといわれます。
天正10年6月、本能寺で信長が明智勢に殺されると天守以下は灰燼に帰してしまいましたが、これは明智左馬之介が一時占拠したあと空城になった際に土民の放火によって焼失したという説や、信長の次男信雄が明智勢の襲来に備えて城下町に放った火が城に燃え移ったという説などがあり定かではありません。
本能寺の変後、信長の嫡孫三法師が安土城主となり、信雄がその後見として安土に入城し、その折り二の丸に信長廟が築かれました。しかし豊臣秀吉はその後数年を待たず安土廃城を決め、近江八幡に新城を築き、残存する建物と城下町を移してしまいました。
【訪 城 記】
さて旅行2日目はレンタカーを借り、まず安土まで行きました。駐車場に車を停めて進むとまずは壮大な大手道が見えてきました。幅が広い石段が長く伸びる姿に思わず圧倒されるとともに、以前行った八王子城の御主殿へと登る石段を思い出してしまいました。(こちらの方がオリジナルでしょうが) 両側にも前田利家邸跡・羽柴秀吉邸跡等の石垣が広がり圧倒されます。
普段歩いていない報いか、この辺から足が痛くなってきましたが、素晴らしい石垣を見ているとその痛みも吹っ飛んでしまいました。さらに登ると・武井夕庵邸跡・織田信忠邸跡・織田信澄邸跡(津田じゃないのかなあ?)・森蘭丸邸跡などが左右にあり、黒金門跡に到達します。
ここの石垣は本当に立派でひとしきり写真を撮るのに没頭してしまいました(^^;) そこを左に行くと信雄以下の大和宇陀藩(のち丹波柏原藩)織田家四代の墓があります。再び黒金門跡まで戻ると、今度は右へ進み、さらに左に曲がると二の丸があり、ここには信長廟がありました。そこから右に進むといよいよ本丸です。左側に立派な石垣が伸びていますが、そちらに登っていくといよいよ天守台が見えてきました。天守台に上がるとあのよく見る写真通りに礎石が並んでいます。ここに天守が建っていたんだなあと思うと、ちょっと感激してしまいました。
ただ、この天守台の先にある八角平を含め、あちこちに立ち入り禁止の場所があってあまり自由に見ることができませんでした。かたてわざさんのお話だと以前はそういうものがなく自由に見れたとのことで、非常に残念でした。
そのあと再び織田信忠邸跡の所まで降り、今度は摠見寺跡がある方へと降りていきました。三重塔や仁王門も立派でしたが、その周辺に残る石垣がこれまたきれいでした。そのあと百々橋の所まで降りると、駐車場でもらった案内図に載っていた「内堀」を見にそちらの方に進みました。すると内堀跡はすっかり草が伸びていて何が何だかわからん状態でした(^^;) そのあと駐車場まで戻ると、そのあと信長の館で天守最上部を復元したものを見たり、安土城考古博物館・安土町城郭資料館などを見て回りました。
その日の夜、城MLのかたてわざさんと食事をしながら話をしていると、ほんとの大手道はいま復元されているのとは違うらしいということを聞きました。いまの大手道は徳川家康邸跡の上のあたりで、左に曲がりさらに右に戻るというルートになってますが、そこを右に行って本丸に出るのが本来の大手道だったらしいとのことでした。でも時すでに遅し、それを確かめるのは次回ということになりました。でも今度安土城に行くのはいつになることか...










【城 跡 名】観音寺城(佐々木城)
【訪 城 日】2001年5月5日
【所 在 地】滋賀県蒲生郡安土町石寺
【創建年代】応仁・文明年間(1467~1487)
【創 建 者】佐々木六角氏
【主な遺構】本丸・平井丸・落合丸・池田丸・淡路丸・土塁・石垣・井戸・門跡
【歴史・沿革】
佐々木六角氏がいつ頃観音寺城を築いたのかは明らかではありませんが、『太平記』には佐々木氏頼が建武2年(1335)に北畠顕家軍の侵攻をくい止めるために、観音寺を城郭化したことを記しています。しかし、これは臨時の城砦であったようで、本格的な城郭となるのは応仁文明の頃からのようです。
応仁文明の乱では京極高清が東軍、六角高頼が西軍について争い、たびたび観音寺城に籠城しています。その後、同族の六角政尭を破ると高頼はしだいに勢力を増大し、次代定頼の享禄年間(1528~1532)には将軍足利義晴の庇護者となって、観音寺城は大改修が行われたようです。
永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛軍を起こすと、六角勢はそれを阻止しようとしたため、信長軍の攻撃を受け、陥落してしまいました。
【訪 城 記】
さて、いよいよ旅行三日目最終日です。この日は、前日訪城を断念した観音寺城にまず向かいました。さすがに駐車場の渋滞もなくスムーズに車を停め、いよいよ攻城開始です。
初日に箕浦さんに観音寺城の地図をコピーしていただき、おすすめの場所も教えていただいていましたので、その地図を見ながらまずは淡路丸を探しました。しばらく歩くと淡路丸という標識があり、その先に登り口があったので上ってみると見事な石垣に囲まれた郭が現われました。高さ1mほどの石垣がぐるっと取り囲み圧倒される感じでした。真ん中にあった石で囲まれた窪みのようなものは井戸跡でしょうか?
そして元の道に戻りまたしばらく歩くと「奥之院」という看板がありました。例の地図によるとその奥の方に「佐佐木城址」という碑があるらしいので、登っていくと大正の頃(だったかな?)に建てられたらしい立派な碑がありました。次にその近くにあるらしい「伊庭邸」を探して奥へ通じる道を進んだのですが、見つからないので佐佐木城址碑の所まで戻り、左に進むとこれまた高さ1mほどの石垣を発見。そこから石段を下りていくと烏帽子岩があり、その先で元の道と合流しました。
そこから少し進むと観音正寺に到着。自販機でお茶を買い、しばしのどを潤しました。観音正寺は数年前に本堂を焼失したそうで、現在も工事中でした。例の地図では本堂の裏から本丸方面に進む道が載っていたので、その道を探し歩き始めました。観音正寺までは参詣の人がたくさんいましたが、さすがにこちらの方に来る人はいないようで再び観音正寺に戻るまでだれにも会いませんでした(^^;)
この頃にはかなり足に疲労が溜まり、膝を曲げると痛みが走る始末で、途中に別の郭へ通じる登り口らしきものもありましたが、そちらには行かずひたすら本丸を目指しました。
しばらく進むと苔むした石段を発見、ここを登るといよいよ本丸。石段からまっすぐ進んだところにある虎口には、私の背ぐらい高さがある櫓台のような石垣があり感激しました。石垣で囲まれた井戸跡らしきものもありました。
左側奥の虎口から降りていくと平井丸です。降り口の左側の方に高さ1m弱ほどの四角い石積みがあり、この他にもあちこちに似たような石積みがありました。これって何だったんでしょうね? ご存知の方は教えて下さい。
平井丸の見所は下の落合丸に通じる虎口の左右に広がる石垣ですね。ここは虎口の左右にそれほど高さはありませんが、長く石垣が残っています。その下の落合丸・池田丸も至るところに石垣が残り、戦国前期に築かれたとはとても思えません。
このあと観音正寺まで戻り、しばらく足を休めると再び来た道を戻りながら先ほど見逃した権現見附・大石垣・伊庭邸を探しました。権現見附は、道の両側に向かい合うように石垣が残っていたのですぐにわかりました。例の地図では、その近くに大石垣が載っているので、探してみると藪の向こうに石垣を発見、痛む足をなだめながら権現見附の所から何とか上に登ると私の身長の2倍以上も高さがありそうなまさに「大石垣」が広がっています。
そのあと、参道に戻ると観音正寺に向かう人が不思議そうな顔をして見上げていました(そりゃあそうだ(^^;))
そのあと先ほど見逃した伊庭邸を探していると、登り口らしきところを見つけたので、そこを登ってみると石垣のある郭を発見、でも、そこは草木が伸び放題で藪になっていたし、降りてみると登り口が淡路丸の登り口のすぐ近くだったので、全く違う郭だったようです。結局、伊庭邸は発見できず仕舞いでした(^^;)
主要な曲輪をいくつか見ただけですが、とにかくこの観音寺城には彦根城・安土城とは違う意味で圧倒されました。いいもん見せてもらいました(^^;)
このあとは近くの沙沙貴神社に少し寄ったあと彦根まで戻り、午後からと夜は彦根城を再訪しました。(彦根城の項参照)












【城 跡 名】八幡城(近江八幡城、八幡山城)
【訪 城 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県近江八幡市宮内町
【創建年代】天正13年(1585)
【創 建 者】豊臣秀次
【主な遺構】堀・石垣・本丸・出丸・北の丸・西ノ丸・二の丸
【歴史・沿革】
豊臣秀吉の甥である秀次がここ近江八幡の地に43万石で封ぜられたのは天正13年(1585)のことでした。山内一豊・田中吉政・堀尾吉晴らを補佐役として築城を始め、旧安土城の石材等を運ぶとともに、安土城下町の住民を移住させ、城下町を形成していきました。
天正18年(1590)、秀次は小田原攻めの功で尾張清洲へと移り、大溝城主であった京極高次が代わって城主となりました。しかし、文禄4年(1595)、秀吉のあとを受け関白となった秀次が失脚すると八幡城は直ちに破却され、京極忠次も大津に移りました。
昭和37年(1962)、八幡城本丸跡に京都村雲の地にあった瑞龍寺が移されましたが、これは瑞龍寺が秀次の母とも(日秀尼)が秀次の菩提を弔うために創建したという縁によってでした。
【訪 城 記】
安土城を堪能したあと、本来の予定では観音寺城に行く予定でしたが、林道を通って駐車場に向かうとなんと満車で車が並んでいる始末。30分ほど待ち、料金所まであと少しというところまで行きましたが、すでに3時近くになっており、このままでは駆け足で回ることになってしまうと思い、観音寺城は翌日に回して八幡城へと向かいました。
八幡山山頂まではロープウェイで登りましたが、早速石垣がお出迎えです。ロープウェイ乗り場のあたりはかつての二の丸跡らしいですが、そこから進むと本丸跡の石垣があちこちに残っており、圧倒されます。瑞龍寺の山門のあるところも両側に石垣が残っており、桝形虎口になっています。そこを登ると本堂があり、そこからは眼下の近江八幡の町や周辺を見渡すことができました。
そして山門から出て、一段下の所を周回している遊歩道を右に進むと、西の丸です。ここからはちょうど観音寺城・安土城を眺めることができます。そこからさらに右に進むと北の丸に出て、琵琶湖を眺めることができました。
麓には秀次の館跡があり、そこにも石垣が残っているようですが、時間の関係でそこまでは回ることができませんでした。とにかく、この山頂周辺にはかつての石垣がきれいに残っており、なかなか見応えがありました。







【城 跡 名】水口城(碧水城)
【訪 城 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県甲賀市水口町本丸(旧甲賀郡水口町本丸)
【創建年代】寛永9年(1632)
【創 建 者】坪内玄蕃(城代)
【主な遺構】石垣・堀・模擬櫓
【歴史・沿革】
水口城は寛永年間に将軍の御茶屋として築かれ、小堀政一(遠州)が作事奉行となりました。3代将軍家光が上洛する際にはその宿城となりました。
家光上洛後しばらくは幕府の管理下にありましたが、天和2年(1682)加藤明友が2万石で入封し、この御茶屋を居城として水口藩を興しました。以後、一字鳥居氏に代わりますが、加藤氏が間もなく返り咲き、明治に至っています。
現在出丸に建っている櫓は、城下に移築されていた乾櫓(平櫓)を本来あった本丸北西ではなく出丸に再建し資料館としたものです。
【訪 城 記】
八幡山から下りて日牟礼八幡宮を見て回って車に戻ると、まだ4時過ぎと時間がありそうでしたので、これも本来は翌日行く予定でした水口城まで足をのばしてみることにしました。
5時過ぎには水口に着き、城跡横の駐車場に車を止めました。駐車場のすぐ横には本丸の堀が伸びており、右の隅の方には櫓台が見えました。そちらは後から見ることにして、本丸の中にはいると中はグラウンド... 隅櫓はどこにあるのかなと探すと、左の方に出丸がありそこにありました。当然、資料館は閉まっていましたが、隅櫓と橋・石垣・堀の雰囲気はなかなか良かったです。ただ、本来本丸北西にあった隅櫓をなぜ出丸に再建したのかというのが何とも不思議です。現在の雰囲気がなかなか良いだけに残念に思いました。
そのあとは隅櫓を横目に見ながら堀の周りをぐるっと回ってみました。現在は北西の櫓台部分しか石垣が残っていませんが、この櫓台がやはり良いです。いかにも江戸期に入ってからの築城というのを感じさせるきれいな石垣でした。





【城 跡 名】水口岡山城(水口古城)
【訪 城 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県甲賀市水口町古城山(旧甲賀郡水口町古城山)
【創建年代】天正13年(1585)
【創 建 者】中村一氏
【主な遺構】石垣・土塁・竪堀
【歴史・沿革】
この城は天正13年に、羽柴秀吉が家臣の中村一氏に命じて築かせた山城で、当時は水口城と呼ばれました。その後、中村一氏が転封となると、増田長盛・長束正家ら五奉行を務めた豊臣政権中枢の人物が相次いで城主となっています。関ヶ原合戦に際し、長束正家は西軍に同調したため、池田長吉等に攻められ落城し、廃城となりました。
その後、新しい水口城築城の際にはここの石材が転用され、石垣もわずかに残るだけとなっています。
ところで、『関ヶ原軍記大成』に天正の末年に五奉行の一人石田三成が水口城主に封じられ、四万石を与えられたとの記述があるそうですが、上記のように天正13年に中村一氏が水口城主となっていますので、三成が水口城主となったのはそれ以前ということになり、渡辺世祐博士は『稿本石田三成』で天正11年頃のことであろうと言っています。いずれにしてもその頃の水口城のことはよくわからないようで、城郭関係の文献ではたいてい中村一氏の時代から水口城の歴史に関する記述が始まっています。
【訪 城 記】
せっかく水口まで来たんだから古城も行こうということで、古城山まで車を走らせました。山へ登る道があったのでそこを車で登っていくと、遊具公園のような平場に出たので、そこへ車を停め、遊歩道を登ることにしましたが、ほんとに城跡か?と思えるほど城らしい表示はありませんでした。「○○広場」なんていう表示はありましたが...(^^;) 堀切らしいものはありましたが、ほんとにここでいいのかなと思いながら登っていくと、「石垣探訪の道」なる看板が...その道を進むと確かに若干ですが、かつての石垣の遺構がありました。その周辺にも石垣の残石らしきものが転がっていたので、かつては石垣に囲まれていたんでしょうねえ。(後から知りましたが、どうやら他にも石垣が残っているようです。)
そこから上に登るとそこが頂上で、どうやら本丸跡のようです。
時間がなかったので、ほんと駆け足で回りましたが、お城らしさを感じたのは登り口にあった「岡山城跡」の石柱と説明板、それに堀切、石垣くらいで、現在は市民の憩いの場という感じが強くなってしまっているのが残念でした。
このあとは彦根に戻り、彦根城の項に書いたように城MLのかたてわざさんと夜の彦根城散策をしたわけです(^^;) 結局、ホテルに戻ったのは1時頃でした(^^;)




【城 跡 名】大阪城(大坂城)
【訪 城 日】1995年5月7日・1999年5月5日・2004年8月1日
【所 在 地】大阪府大阪市中央区大阪城1-1
【創建年代】天正11年(1583)
【創 建 者】豊臣秀吉
【主な遺構】徳川時代の城跡73ha(特別史跡)、大手門・多聞櫓・千貫櫓・焔硝
石蔵・金蔵等の古建造物13棟(重要文化財)
【歴史・沿革】
大阪城の創始は遡ると、戦国期に浄土真宗の総本山であった石山本願寺へとたどり着きます。
その後、豊臣秀吉が天下統一の拠点として築城を開始し、工事は2~5万人の人夫を動員して前後15年余にわたって行われ、完成した本丸には五層の豪華絢爛な天守閣がそびえていました。2回にわたる大阪の陣の結果、豊臣氏が滅ぶと以後は幕府直轄地となり、3期に渡る大阪城築城工事が進められ、豊臣氏の旧城をはるかに凌ぐ巨大な石垣や広大な堀を持つ天下の名城が出現しました。
大手門・多聞櫓・千貫櫓・乾櫓などは当時のまま残り、昭和7年に建てられて鉄筋コンクリート制の天守は徳川の石垣上に秀吉の天守を模した形で、大阪のシンボルとして市民に親しまれています。
【訪 城 記】
大阪城に初めて行ったのは95年に高校時代の友人と行った関西旅行の最終日でした。帰りの飛行機の時間が迫っている中、無理に時間を作って駆け足で天守まで行き、慌てて帰ってきたというものでしたので、ゆっくりと見ることはできませんでした。(1995/5/7)



二度目は99年、大学時代の友人と行きました。JR大阪城公園駅で降りて大阪城ホールの横を通って青屋門へ向かいました。青屋門近くの外堀では釣りをしている人がたくさんいて、濠の奥の方まで石垣を伝っていって釣りをしている人までいました(^^;)
青屋門を抜けて極楽橋の手前には非常に高い石垣があり迫力がありました。そして極楽橋を渡り山里丸に入ると左の方に「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」という碑がありまして、そこから右の方に行くと石垣刻印の説明板がありました。
そこからさらに進むといよいよ天守閣が目の前に... 再建とはいえ、さすがに迫力がありました。中は歴史博物館となっていて、ざあっと眺めました。売店では「大阪城 櫓・蔵」というパンフレットをGET、この小冊子は写真も豊富ですし、とてもいいです(^^)
そのあとは桜門で城内第1の巨石・蛸石にご対面! それから二の丸、玉造門をへて濠の外側から石垣・濠・櫓等を見て回りました。一番櫓・六番櫓・そして大手門を抜け、連休中特別公開していた多聞櫓・千貫櫓を見ました。
その後、友人がちょっと疲れてしまったので、ここで別れ彼は西の丸庭園へ抜け、私は濠の外側から石垣・櫓を眺め京橋門跡付近で落ち合うことにしました(これが失敗の元)
濠に沿って歩きながら、千貫櫓・乾櫓の写真を撮り、京橋門跡で城内第2の巨石・肥後石を発見しました。また、こちら側からの天守閣の眺めもなかなか良かったです。ですが、その後、こちら側から西の丸庭園に抜けられないことを発見、あわてて大手門まで戻りました。大手門付近で友人と何とか落ち合うことができましたが、大失敗でした(^^;) ですが、私は京橋門跡方面から見た天守閣を見ることができましたし、友人も西の丸庭園から見た天守閣を見ることができたのは良かったです。(私も西の丸庭園から見た天守閣も見たかったです。ちょっと残念...)
余分に歩いてしまったので桜門付近でアイスクリームを食べてちょっと休憩、時間が迫ってきたので、再び本丸を抜けて大阪城公園駅へ戻りました。
時間的には3時間半ぐらいあったので、十分かなと思いましたが、かえって時間が足りないくらいでした。さすがに天下に名高い大阪城。その大きさ・広さに驚きました。また、江戸城ほどではないにしても石垣がとても高く迫力がありました。見れなかったところもあるので、いつか再訪城したいと思いますが、いつになることやら...(1999/5/5)















旅行二日目、この日は午後から家系研究協議会の夏の例会があるので、早めに7時頃にホテルを出て、歩いて大阪城へと向かいました。ホテルは森ノ宮駅の近くでしたので、森ノ宮駅方面から大阪城方面へと向かいますが、朝7時なのにもう既に人が結構歩いていますし、気温も上がってきていてタオルが離せません(^^;)
まずは南外濠の外側をぐるっと回って、一番櫓、そして六番櫓をながめますが、この両者は本当によく似ています。しばらく歩くと大手門が見えてきます。この日はどうやら「オオサカキング」とかいうイベントを大阪城でやっているらしく、大手門前に係員がいますし、ひっきりなしにミニトラックが大手門を入っていくので、落ち着いて写真も撮れません(^^;) 中の多聞櫓も写真に収めると、また南外濠の外側をぐるっと回って千貫櫓、次いで乾櫓を写真に収めながら京橋口へと向かいます。京橋口の内濠前から眺める天守もなかなかいいです。
内濠にそって極楽橋のところまで行きますが、前回はここから本丸方面へ向かっていますので、今回はパスして、青屋門をちょっと眺めてから梅林の横を内濠に沿って進みます。やはりここから眺める高石垣は迫力があります。そして、一番櫓を裏から眺め、豊国神社に寄ってから桜門から本丸へと入りました。まずは天守へとは向かわず、前回見逃した金蔵へ向かいます。ちょうど「オーサカキング」に合わせて金蔵・六番櫓・多聞櫓・千貫櫓は内部を公開していました。天守は外側から数枚写真を撮ると中には入らず、天守前の売店でちょっと休憩。
再び桜桜門から二ノ丸に出て六番櫓へ向かい、内部を見学。そして今度は西の丸庭園で煙硝蔵と乾櫓を内部から見ようと思ったんですが、なんとイベントで夕方4時まで入れないとのこと...ガックリ(; 😉 仕方なく多聞櫓・千貫櫓の内部を見て、だいたい予定の時間になったのでホテルへと戻りました。今回は3時間の探索でしたが、前回見れなかった金蔵や、六番櫓の内部などが見れたのは良かったです。しかし煙硝蔵と乾櫓を内部から見れませんでしたし、とても眺めが良いという西ノ丸庭園からの天守の姿も見れませんでしたので、もう一度再訪せねば行けませんねえ...(^^;)
P.S.
天守前の売店で売っていた『大阪城ふしぎウォーク』という本はちょっと手軽に読めて良かったです。本の帯に「浜村純も絶賛!」なんて書いてありましたが、その浜村純がイベントの一つなんでしょうか、天守前の特設ステージでラジオのトークを生でやっていたのには思わず笑っちゃいました(^^;) (2004/8/1)


















【城 跡 名】岸和田城(岸ノ和田城、蟄亀利城、猪伏山城)
【訪 城 日】2004年8月2日
【所 在 地】大阪府岸和田市岸城町
【創建年代】応永年間(1394~1428)頃
【創 建 者】信濃泰義
【主な遺構】本丸・二ノ丸・内堀及び外堀の一部、防潮石垣
【歴史・沿革】
この地はもとは楠木氏の一族和田氏が拠点としていましたが、楠木氏のあと和泉守護となった山名氏清が和田氏のあとへその一族といわれる春木の住人信濃氏を入れたと伝えられています。信濃氏は民部大夫泰義から四代在城しましたが、山名氏清没落後は細川氏が和泉半国守護となり、在城しました。永禄元年(1558)頃から三好義賢・十河一存・安宅冬康ら三好勢が在城するようになりましたが、同11(1568)年織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、和泉も信長の勢力下となりました。
天正11年(1583)、豊臣秀吉は中村一氏に和泉の国を与え、岸和田城の城主としました。同13年雑賀・根来を攻略すると秀吉は、中村一氏を水口に移して、岸和田に小出秀政を入れました。元和5年(1619)小出吉英は出石に移り、丹波篠山から松平康重が5万石で入城しました。寛永17年(1640)には高槻から岡部宣勝が6万石で入城し、以後岡部氏は十三代に渡り在城しました。
天守は五層でしたが、文政10年(1827)落雷により焼失し、再建されず幕末に至りました。現在の物は昭和29年に建てられた復興天守で、昭和45年には大手門・多聞続櫓・隅櫓を利用して郷土資料館が開館しました。
【訪 城 記】
さあ旅行三日目です。朝ホテルを出るとまず大阪駅へと向かいます。駅近くでレンタカーを借りるとまずは岸和田へと向かいます。9時半頃には岸和田城へと着きました。早速、中に入って天守などを見たいところですが、この日は月曜日で隅櫓にある郷土資料館は閉館で大手門も開いていませんでした。そのことは事前に分かっていたのでそれほどショックもありませんでしたが、やっぱり残念でした。
それで本丸の周りを水堀に沿ってぐるっと回ってみます。模擬天守であることは判っていますが、なかなか絵になります。大手門の向かいは二ノ丸で二ノ丸多聞櫓?がありますが、ここはトイレになってました(^^;) また、もう一つ建物がありましたが、これは市民道場で心技館というそうです。この二ノ丸の石垣とそれを囲む百間堀はなかなか良い雰囲気でした。




(手前に犬走りがあります。)



(上にあるのは心技館という市民道場)
【城 跡 名】元離宮 二条城
【訪 城 日】1999年5月3日
【所 在 地】京都府中京区二条通堀川西入ル二条城町541
【創建年代】慶長8年(1603)
【創 建 者】徳川家康
【主な遺構】全域(史跡)、二の丸御殿6棟(国宝)・東大手門など22棟(重要文化財)・二の丸庭園(特別名勝)
【歴史・沿革】
史上、二条城と呼ばれる城はいくつかありますが、この二条城は慶長6年(1601)家康の京都における宿所として着工されました。当時は今のほぼ東半分、堀も狭く、石垣も低かったそうですが、寛永元年(1624)三代将軍家光が後水尾天皇を迎えるために大増築をし、現存の規模になりました。
その後寛延3年(1750)には天守が落雷により焼失、天明の大火では(天明8=1788)では本丸御殿以下多数を失いました。幕末には文永3年(1863)の十四代将軍家茂の上洛、慶応3年(1867)の十五代将軍慶喜の大政奉還という歴史の大きな一齣の舞台となりました。
【訪 城 記】
前日に姫路城・竹田城という二大名城を訪城し、この日は京都散策です。午前中に観智院・東寺を見て回り、午後からは二条城・西本願寺を回ることにし、バスで二条城まで移動しました。
到着したらまず東大手門から入城。この東大手門も重要文化財に指定されていて風格のある門でした。その後二の丸御殿の方へと移動、入り口の唐門は金の飾り金具が付いていて、いかにも桃山時代を思わせるものでした。その後二の丸御殿へと入りましたが、さすがにゴールデンウィーク、人でいっぱいでした。
15代将軍徳川慶喜が大政奉還を発表した大広間一の間・二の間、あるいは徳川家康が豊臣秀頼と会見したという部屋もあり、歴史を感じさせました。狩野探幽が描いたという松の襖絵や細かな欄間彫刻など将軍の城館として使用されたこの城の豪華さが感じられました。
その後二の丸庭園を眺めながら、本丸の方へ。本丸への入り口本丸櫓門はちょっと面白い形をしていました。現在本丸にある本丸御殿は、元京都御所にあった旧桂宮御殿を明治時代に移築したものだそうですが、二の丸御殿の豪華さに比べると落ち着いた感じがしました。また、本丸の角には天守台にはもと5層の天守閣があったそうですが、江戸中期に消失したとのこと、現在残っていたらどんな感じだったのだろうと思いました。
その後西橋を渡り、東大手門まで戻ってきました。さいごに外から東南隅櫓を写真に収めました。時間があればぐるっと周囲を回りたいところでしたが、そのあと西本願寺を見て、ホテルへと帰りました。










【城 跡 名】淀城
【訪 城 日】2004年8月3日
【所 在 地】京都府京都市伏見区淀本町
【創建年代】元和9年(1623)
【創 建 者】松平(久松)定綱
【主な遺構】堀・石垣
【歴史・沿革】
淀城というと、豊臣秀吉の側室淀殿の城が思い浮かぶと思いますが、それは現存の淀城の北方に位置し「淀古城」と呼ばれます。淀古城は室町中期に山城守護畠山政長によって築かれたといわれています。その後は守護代級の被官によって守衛されていましたが、永禄11年(1568)織田信長の入京の際に落城しています。豊臣秀吉の天下となってからは、天正17年(1589)秀吉の弟秀長が再び修築し、秀吉の側室淀殿が入りますが、文禄元年(1592)には木村常陸介が居城とし、同4年(1595)廃城となりました。
現存の淀城は、伏見城廃城に伴って、それに代わって京都を守護する役割を担わされ、元和9年(1523)に松平定綱が入部し、寛永2年(1625)にはほぼ完成しました。淀城の天守台は伏見城の天守を移築しようと築かれましたが、伏見城の天守は二条城に移され、二条城の旧天守が淀城に移されました。しかし、天守台が広すぎたため、天守台の四隅に小櫓を設けて全体の形を整えました。
寛永10年(1633)松平定綱が美濃に転封後は永井尚政が10万石で入部し城下町の拡張と屋敷の造成を行いました。寛文9年(1669)永井尚征が丹後に転封して、石川憲之が6万石で入部し、さらに宝永8年(1711)石川総慶が備中に転封して戸田光煕が同じく6万石で入部、その後享保2年(1717)に松平乗邑が6万石で入部とめまぐるしく城主が交替しました。しかし、享保8年(1723)松平乗邑が下総に転封し、稲葉正知が10万石で入部すると、以後明治まで稲葉氏が城主を務めました。
【訪 城 記】
大和郡山を後にすると、北へ進み淀城へと向かいました。淀城跡は京阪電鉄淀駅の西北方にありますが、周囲に車を駐めるところがなくグルグルとしてしまいましたが、結局淀駅前のタイムパーキングに駐め、急いで回ることにしました。淀駅横の踏切を渡ると奥に自転車置き場がありますが、そのさらに奥が淀城の本丸跡で現在は公園になっています。ですが、石垣と堀は良好な状態で残っており、天守台もきちんと残っています。大きな天守台の上に小さな石垣の天守台がありますが、これは上に書いたように伏見城天守を移築するはずだったのに、二条城天守を移築することになり、寸法が合わなかったためのようです。天守台にも登ってみたかったのですが、登らないようにという看板があったのでやむなく断念しました(--;) 本丸の石垣の上からは淀駅が目の前に見えますので、淀駅からも本丸の石垣がよく見えることでしょう。
そのあとは、堀の外側を歩きながらぐるっと回ってみました。周りはほんと住宅街になってしまっていますが、ちょうど南側に駐車場のような広い空き地がありますので、ここから本丸の石垣が堀越しにきれい見通すことができました。そしてまた淀駅の前まで戻り、大坂方面へ向かい今回の旅は終了しました。



(堀の向こうに見えるのは京阪本線淀駅)



【城 跡 名】伊賀上野城(白鳳城)
【訪 城 日】2004年8月2日
【所 在 地】三重県伊賀市上野丸之内106(旧上野市丸之内106)
【創建年代】天正13年(1585)
【創 建 者】筒井定次
【主な遺構】復興天守、郭、本丸高石垣、堀
【歴史・沿革】
天正13年(1585)、大和郡山城主筒井定次が伊賀国に移封となり、城を築いたのが伊賀上野城の始まりです。慶長13年(1608)江戸幕府は親大坂方と見られていた筒井定次を家臣統制不統一、異教信仰を理由に改易し、伊予今治から藤堂高虎が伊賀・伊勢20万石、伊予2万石、計22万石を与えられました。高虎は大坂方に備えて堅固な城を築くよう徳川家康に命ぜられ上野城の大改修に着手しました。高虎は、筒井氏の古城を郭内に取り込み、城域を三倍に拡大し、深く広い堀に囲われた日本一高い石垣、五層の天守を築かせた。しかし完成間近い慶長17年(1612)大暴風で天守は崩壊し、同19年(1614)~元和元年(1615)の大坂の冬の陣・夏の陣が徳川方の勝利に終わると、大坂方に備えた上野城の防備は不必要となり、天守も再建されませんでした。そして、交通の便利な津城を本城として上野城を支城とし、筒井氏時代の本丸に城代屋敷が置かれ、元和6年(1620)高虎の弟高清を城代とし、寛永17年(1640)高清の死後は伊賀出身の藤堂采女が城代となって、明治維新まで世襲しました。明治に入ると、東大手門・西大手門は解体され、わずかに武具蔵の一つ手当蔵が残され、市の文化財に指定されています。現在の天守は、昭和10年(1935)に建てられた模擬天守で、地元出身の政治家川崎克が私財を投じて復興させたものです。
【訪 城 記】
和歌山城訪城後、昼食をとって、伊賀上野まで移動し、上野城についたのはもう夕方の4時でした。駐車場に車を置き、早速お城へと向かいます。するとまず見えてきたのは筒井時代の古城である本丸の石垣です。石段を登り、本丸へと入ると発掘をしているようでした。それで、城代役所跡の石碑は確認したんですが、筒井城跡の石碑は確認し損ないました(^^;) 次に大天守・小天守の方へ進みましたが、ちょうど太陽が天守の向こうにあって逆光でうまく写真が撮れません(; 😉 これはちょっと失敗でした。そして天守の中へと入りましたが、模擬天守とはいえ木造で復興されていますのでなかなか風格があります。天守最上階の天井には天守竣工を祝って贈られた大色紙が飾られ、その中には徳川宗家十六代徳川家達公爵のものもありました。
そのあと天守の周りを歩きながら30mの高石垣を上から眺めましたが、足がすくみました。そのあと南の方へ下り、上野城の碑や石垣をながめながら高石垣をしたから写真に収めるポイントを探しながらぐるっと回ってみましたが、どうも見つかりません。そろそろ資料館などの閉館時間で駐車場に車を置いておくわけにもいかなかったので、一度車を出し別の駐車場に車を入れ直し、歩いてみました。
すると白鳳門という模擬門があったり、旧藩校の崇廣堂などがありました。そして上野高校の前の通りを進むと、高石垣の所に出ました。しかし、残念なことに夏草がじゃまでうまく高石垣の写真が撮れません。これが春か秋なら草も少なく内堀のふちまで下りることができたんでしょうが、ぐるっと回ってみましたがあまりいい写真は撮れませんでした。
まあでも、この高石垣はやはり一見の価値ありです。やや不満が残りつつも、伊賀上野をあとにして、この日の宿泊地・奈良へと向かいました。










【城 跡 名】大和郡山城
【訪 城 日】2004年8月3日
【所 在 地】奈良県大和郡山市城内町
【創建年代】戦国時代初期および天正8年(1580)
【創 建 者】郡山氏および筒井順慶
【主な遺構】堀・石垣、追手門(梅林門)・追手東隅櫓・追手向櫓(復元)
【歴史・沿革】
郡山には中世に郡山衆と呼ばれる郡山八幡の氏人を構成員とする武士団の居館が点在していました。その中で郡山中氏が優勢で、中氏の居館が次第に城郭化したものと思われます。明応7年(1498)、郡山中氏が筒井氏に攻められ没落すると、郡山衆は筒井の軍門に下り、筒井氏傘下の西脇衆として行動するようになり、筒井・松永両氏の抗争期には激しい争奪戦が繰り広げられました。
筒井順慶は松永氏の没落後、筒井城の拡張工事を開始しますが、地形の不利から断念し、郡山城を本城として改修することにしました。郡山築城は、天正11年(1583)天守を築いて一応の完成を見ました。同13年(1585)に順慶の養子定次が伊賀に転封され、筒井氏の大和支配は幕を閉じ、代わって豊臣秀吉の弟秀長が郡山に入城し、大和・紀伊・和泉百万石の太守となりました。秀長は城と城下町の整備を手がけましたが、同19(1591)年に没し、跡を継いだ秀保も文禄4年(1595)に急死したので、代わって五奉行の一人増田長盛が入城しました。
関ヶ原で西軍に属した長盛は改易となり、大久保長安・山口駿河守・筒井定慶が在番しました。大坂の陣の後は、水野勝成が6万石で入城し、以後、松平・本多と続き、享保9年(1724)甲府から柳沢吉里が入封して、幕末まで柳沢15万石の居城として続きました。
【訪 城 記】
早朝に奈良の町を徘徊した後、今日のめあての大和郡山城へと向かいました。城跡へ向かうとまず桜門跡の石垣が目に入ってきたのですが、車をどこに駐めたらいいのかわからずぐるっと回ってしまい、結局近鉄郡山駅近くの一般の立体駐車場(三の丸駐車場)に駐めました。(後からわかったんですが、梅林門(追手門)前に駐めれたようですね)
まずは先ほど見かけた桜門跡の石垣を目指します。途中、線路越しに水堀と復元された追手東隅櫓を眺めます。桜門跡の石垣ですがなかなか立派なものでした。もとはここから城内に入れたのでしょうが、現在は線路で分断されてますので、再び水堀と線路沿いに戻り、鉄門跡から城内へと向かいます。この鉄門跡の石垣もなかなかの迫力です。鉄門から入ると道が左右に分かれているので右の方へ水堀を左に見ながら進みますと、復元された梅林門(追手門)と追手向櫓(御弓櫓)、追手東隅櫓が見えてきました。復元ですが、下見板張りの丸岡城天守・高島城天守を思わせる雰囲気があります。梅林門をくぐり右に行くと梅林門追手向櫓などに雰囲気を雰囲気を合わせた和風建築が立っていますが、これは市民会館だそうです。この辺りはかつての法印曲輪です。
梅林門の所まで戻り、今度は左の方へと進んでいくとかつての毘沙門曲輪ですが、ここに現在立っているのが柳沢文庫です。柳沢家関係の資料等が収集されていますが、ここでしばらく開架されている資料等に見入ってしまいました。頒布している史料に柳沢家の系譜関係のものがあったので尋ねてみると、残念ながら品切れとのことでした。
気を取り直し、本丸方面へと進みますとかつて極楽橋がかかっていたところの石垣が見えました。そしてその奥の御台所橋から本丸に入りましたが、現在は柳沢氏を祀る柳沢神社が建っています。その裏の方に天守台の石垣がひっそりと残っています。夏でしたので草がかなり伸びていましたが、まさに兵どもの夢の跡という感じでした。天守台の裏の方には石仏等が並んでいまして、これは石仏・五輪塔・墓石などを石垣に転用した為です。増田長盛が改易となったあと、郡山城は破壊つくされ、大坂の陣後、水野勝成が入封後、その残骸だけでなく方々の寺院から手っ取り早く石という石を集めた結果、千を越える転用石が郡山城には残っているそうです。
そのあとは現在は柳沢神社の入り口となっている竹林門跡から鉄門跡まで戻り、そのあと駐車場に戻る途中、市役所前に残っている柳御門跡と頬當門跡の石垣を見てから、大和郡山を後にしました。












【城 跡 名】和歌山城(伏虎城・竹垣城・虎伏城)
【訪 城 日】2004年8月2日
【所 在 地】和歌山県和歌山市一番丁
【創建年代】天正13年(1585)
【創 建 者】羽柴秀長
【主な遺構】復元天守群、岡口門、追廻門、狭間塀、石塁、水堀、本丸御台所(移築)
【歴史・沿革】
天正13年(1585)、豊臣秀吉が紀州を平定すると、弟秀長に紀州を与え、みずから縄張りし、藤堂高虎らを普請奉行としてこの地に築城を開始しました。同年、城は完成したものの秀長は大和郡山城を居城としていたため、重心の桑山重晴を城代としました。慶長6年(1601)浅野幸長が関ヶ原の戦いの戦功で甲斐府中より37万石で入城し、内堀・石垣などの増修築工事を行いました。しかし、元和5年(1619)跡を継いだ弟長晟の代に安芸広島へ国替えとなり、代わって徳川家康の第十子頼宣が55万5000石で入城し、徳川御三家の一つ紀伊徳川家が成立しました。頼宣はそれまで東南の岡口門を大手としていたのを東北の一ノ橋口に改め、南の丸に高石垣を築きました。天守は弘化3年(1846)念に落雷で焼失し、御三家という家格から特例として天守再建が幕府から認められ、嘉永3年(1851)落成した。
明治4年(1871)廃城となり、建造物も順次取り壊されたが、天守は保存されることとなり、昭和10年、国宝に指定されましたが、昭和20年7月戦災で焼失しました。現在の天守は昭和33年に再建された鉄筋コンクリート造りのものである。
【訪 城 記】
岸和田城をあとにして11時頃和歌山城へ着きました。不明門跡駐車場に車を止め南の丸の動物園を横目にながめながら、まずは岡口門(現存)に向かいます。すると左手に高石垣があり中御門跡の石垣は迫力抜群です。この上にはかつて松の丸櫓があったそうです。そのあと岡口門を見て、内堀を眺めてから、再び中御門跡まで戻り、表坂から本丸・天守曲輪方面へ向かいます。本丸は現在浄水場となっていて入ることはできませんので、左手に登り天守曲輪へと向かいます。この日はとても良い天気で熱くてたまらないので、天守曲輪にある売店で一休みします。そして楠門をくぐるといよいよ大天守が目の前です。この大天守の周りには小天守、台所、乾櫓、二ノ門櫓などが多聞櫓で連結されていて、ぐるっと回ってみることができます。
そのあと、今度は裏坂をその苔生した石垣をながめながら下ります。台所門跡から左に回ると切手門跡があり、その先に山吹渓が伸びていますが、ここの石垣も一瞬圧倒されます。その先鶴の渓を通ってその向こうは砂の丸ですが、今はグラウンドとなっており、石垣で周りを囲まれています。その左手奥には赤い追廻門(現存)があります。
ここから鶴の渓まで戻り、西の丸の紅葉渓庭園を通って、今度は内堀の外側から眺めてみます。するとちょうど内堀がまっすぐ伸び、その奥に先ほどの切手門跡があり、さらにその奥の山の上に天守群が見えるポイントがあります。ちなみにこの切手門跡の少し手前にかつては御橋廊下があったそうですが、これを復元するそうです。完成は平成18年(2006)らしいですが、これもまた楽しみです。
さて、内堀の外側をぐるっと回って、大手の一の橋まで来ると、再び城内に入り、一の橋御門跡を通って先ほどの中御門跡まで戻り、再び南の丸を通って駐車場へ戻りました。この間約2時間、じっくりと和歌山城を堪能しました。いやあ、いいお城でした。















【城 跡 名】姫路城
【訪 城 日】1995年5月6日・1999年5月2日
【所 在 地】兵庫県姫路市本町
【創建年代】元弘三年(1333)~正平元年(1346),慶長六年(1601)
【創 建 者】赤松則村・貞範父子,池田輝政
【主な遺構】大天守、東・乾・西小天守など8棟(国宝)、櫓27棟、門15棟、塀、
内濠中濠の一部
【歴史・沿革】
姫路の中心部にある姫山が城地に選ばれた最初は、南北朝の初め、正平元年と伝えられる。縄張りを行ったのは赤松則村の次男貞範で、のちには家臣の小寺氏が居住しました。赤松満祐が嘉吉の変を起こし、赤松氏が一旦滅亡した際には小寺氏もそれに殉じ、あとには山名持豊の家臣が入りました。しかし応仁の乱で赤松氏が再興されると、小寺氏が再び姫路城主となりました。しかし小寺則職が御着城に移ると姫路城は重臣黒田重隆が預かり、重隆の嫡子職隆は小寺の姓を称しました。
天正5年(1577)に織田信長の軍団長として羽柴秀吉が播磨に入ってくると、姫路城を預かっていた職隆の子・小寺孝高(後の黒田如水)はこの城を秀吉に献じ、秀吉は三層の天守を築きました。天正11年(1583)秀吉は大阪城に移り、姫路城は義兄木下家定(北政所ねねの兄)に預けられ関ヶ原の合戦を迎えました。関ヶ原後は播磨52万石は徳川家康の女婿池田輝政に与えられ、彼によって姫路城は現在見られるような壮大な規模で築かれました。池田氏の後は譜代の名門・本多氏が入部して西の丸などを完成させ、その後は奥平系松平・越前系松平・榊原・本多・酒井と、西の要として徳川一門あるいは譜代の重鎮が姫路城に入り、幕府の関西方面への押さえとなりました。
【訪 城 記】
姫路城にはじめて訪城したのは1995年5月に高校時代の友人と関西に旅行した時です。この時は姫路城の美しさに感激して、ひたすら写真を撮りまくっていた記憶があります。夜もわざわざライトアップされたお城を見に行きました。後から考えると天守閣ばかりに目がいっていて、西の丸の方を回っていなかったのですが...(1995/5/6)






そして99年の5月は2度目の訪城で、今回は日程の都合で午前中のみの訪城となりました。今回の旅行は大学時代の友人とまわりましたが、彼は姫路城をはじめ、本州を旅行するのはほとんど初めてでしたので非常に楽しみにしていました。
まず、NIFTY-SERVEのFREKISHIのマハラジャさんと姫路駅で待ち合わせをして、いよいよお城方面へと向かいました。国道2号線の交差点までくると石垣の遺構がありましたが、これだけでも姫路城の壮大さが感じられました。
三の丸広場までくると天守閣が見えてきましたが、改めてその美しさに感動しました。今回は前回行かなかった西の丸の渡櫓の方から入りました。
長局が長々と続いていましたが、連休中でとても込んでいて、途中階段がある手前で「渋滞」してました(^^;)
化粧櫓を過ぎ、いよいよ天守方面へ。ぐるぐると回り備前丸まできまして、以前と同じようにカメラのファインダーに天守全景を入れようとしてちょっと苦労しました(^^;) 天守の中は、いろいろ展示品もありましたが、ホント昔ながらの城の雰囲気が残っていました。
その後腹切丸、お菊井戸を経由して菱の門まで戻ってきました。菱の門の手前で、マハラジャさんに元は濠だったところを埋め立てて(?)石垣にしたという部分を教えてもらいました。(確かによく見ると石垣の角のラインがはっきりと分かりました)
その後、お城の裏の県立歴史博物館ものぞいてきましたが、そちら側から見る天守の眺めも良かったですね・博物館の中のお城のコーナーにはいろいろとお城に関するパネルや模型などもありました。午後からは竹田城に行く予定だったのであわただしく姫路城をあとにしました。(1999/5/2)











【城 跡 名】竹田城
【訪 城 日】1999年5月2日・2004年7月31日
【所 在 地】兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山(旧朝来郡和田山町竹田字古城山)
【創建年代】永享~嘉吉年間(1431~1443)
【創 建 者】太田垣氏
【主な遺構】石垣、堀切、竪堀、曲輪、土塁等(国史跡)
【歴史・沿革】
竹田城は山名宗全の家来太田垣光景が最初の城主といわれています。宗全が播磨に攻め込み赤松氏を滅ぼした後にここを与えられて居城としたそうです。光景の後は景近・宗朝・宗寿・朝延と相続し、その頃には山名氏を離れ独立した形になり、南但地方に勢威をはっていました。
羽柴秀吉が但馬に進攻すると、朝延はその軍門に下り、秀吉は弟秀長を城代とし但馬における山名氏の勢力を覆していきました。天正8年(1580)秀吉が播磨全土を平定すると但馬もその制圧下に入り、桑山重晴が城主に任命されました。
天正13年(1585)重晴が紀伊に転じると、播磨龍野城主赤松広秀が後に入りました。広秀は竹田城主として民政に励み、領民からも慕われましたが慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍に味方し自刃して果て、竹田城は廃城となりました。
【訪 城 記】
この竹田城訪城は私の念願の一つでした。姫路駅から播但線に乗り和田山駅に向かいました。和田山駅で降りるとタクシーに乗り竹田城へと向かいました。途中の駐車場で竹田城のパンフレットをGETし、竹田城の入り口まで行きました。
天気が良かったせいか、結構来ている人が多くて家族連れの人もいました。大手口を登っていき、まずそこの石垣でおっと思い、北千畳まで行くとその広さ、そして石垣の迫力に圧倒されました。そして三の丸、二の丸を抜けて本丸へ。
FSIROのライブラリに登録されていた写真を見ていたので、ある程度予想はしていましたが、その予想を遥かに上回る美しさでした。石垣の重なり合うその美しさ、そして周りにパノラマ写真のように広がる景色。”空間を堪能する城”(FSIROの城狂四郎氏・談)という言い回しがまさにピッタリときました。
その後、南二の丸から南千畳、そして花屋敷へと抜けましたが、何だかあっという間に時間が過ぎ去っていくというかホント不思議な城でした。結局姫路城より多く写真を撮ってしまいました。
一緒に行った友人も、竹田城のことはそんなに期待していなかったようですが、その迫力に感嘆していました。彼は大学時代日本史の研究室でしたので、南千畳にある石碑の文字を解読しようと一生懸命になってました(^^;) (結局、「...兵どもの夢の跡」というあの有名な句でしたが...)
およそ1時間半ほど見て回った後、竹田駅への近道を下りました。お城の中を歩いていたときには感じなかった疲れが下り道でどっと出てしまいました(^^;)(お城の中も結構歩いていたはずなんですが...)
まさに1999年のBEST1のお城でした(^^) (1999/5/2)












5年ぶりの訪城でした。今回は8月1日に行われる家系研究協議会の夏の例会で「松前・蠣崎一族」について発表するので関西行ったのですが、それにあわせて休みを取り関西の城巡りをしてきました。数年前に札幌の城巡り仲間と関西城巡りを計画したものの、父の死で中止したことがありましたが、そのリベンジです。
伊丹空港に着くと、家研協の馬原(マハラジャ)さんと須貝さんが待っていて下さいました。馬原さんの車でまずは竹田城へと向かいます。この日は四国方面に台風が来るというので天気を心配していましたが、やはり一日雨模様でした。
和田山で昼食を取り、竹田城へと向かいますが、FSIROで南側のルートが通れなくなっていることを聞いていたので、北側(山城の郷方面)から向かいました。駐車場に車を置くと、そのすぐ横に「山名氏・赤松氏両軍陣没諸霊供養塔」というのが建っていました。これは前回は気づきませんでした。
そのあと駐車場脇から花屋敷跡へとまっすぐ登る道を登っていきましたが、先頭になってしまったので、つい自分の力を考えずにがんばりすぎ、花屋敷跡についた頃にはダウンしてしまいました(佐和山城の悪夢が...(T_T))。取りあえず回復するのにかなり掛かってしまいました。つくづく山城には向かない人間ですねえ…
その後は花屋敷から本丸・南二の丸・二の丸・三の丸・北千畳と見て回りましたが、本当にここの石垣は見て飽きないです。唯一、ずっと小雨が降っていたのが残念でした。帰りは大手口からなだらかな道をのんびりと駐車場まで戻りましたが、その途中何カ所か畝状竪堀らしきものを発見しました。
そして車で戻る途中、竹田城の裏手にある山城の郷という施設に寄りました。ここの売店では「国史跡 竹田城跡」というパンフレットと、竹田城最後の城主・赤丸広秀を主人公とした『残月』という歴史小説が売っていましたので買ってしまいました(^^;) (2004/7/31)











【城 跡 名】龍野城(台山城・朝霞城・霞城・朝霧城)
【訪 城 日】2004年7月31日
【所 在 地】兵庫県たつの市龍野町上霞城(旧龍野市龍野町上霞城)
【創建年代】明応8年(1499)頃か
【創 建 者】赤松村秀
【主な遺構】山頂の古城跡は郭跡・帯郭・一部の石垣・竪堀など
山麓の城跡は石垣・多聞櫓と御殿(復元)、埋門と隅櫓は模擬新築。
【歴史・沿革】
龍野古城が築かれたのは室町時代後期で、播磨守護赤松氏の庶流・赤松村秀が築いたと言われています。赤松時代は四代続き、天正5年(1577)羽柴秀吉が播磨に入った時、城主・広秀は戦わず退去謹慎し、同9年(1581)には蜂須賀正勝に与えられました。正勝が同13年(1585)阿波徳島に移ったあとには木下勝俊、次いで小出吉政が城主となりましたが、慶長5年(1600)池田輝政が播磨52万石を賜り姫路に入部すると、その所領となり、家老荒尾但馬守が城代となりました。
元和3年(1617)には姫路城主本多忠政の次男・政朝が5万石で入部しましたが、兄忠刻が病死したため、父の死後はその跡を継いで姫路城主となり、寛永3年(1626)に小笠原長次が6万石で入部しました。その後、岡部宣勝、京極高知が入り、万治元年(1658)京極氏が讃岐丸亀に移ると、寛文12年(1672)脇坂安政が5万3000石で入部するまで天領となりました。その後、脇坂氏は十代続き幕末まで龍野藩主でした。
維新後、城門や櫓・塀などは次々取り払われましたが、城下町の面影は割合残っており、御殿・多聞櫓・埋門・隅櫓などが復興されている。
【訪 城 記】
関西旅行の第一日目、竹田城に次に向かったのはこの龍野城でした。竹田城で意外と時間を取ってしまったので、龍野に着いたらもう4時近くなっていました。最初に復興された埋門を横目で見ながら進み、まずは復元された本丸御殿へ向かいます。屋根瓦には脇坂家の家紋「輪違い」「桔梗」が刻まれていました。中はなかなかきれいな御殿でしたが、それよりも家研協の三人が注目したのは入ってすぐの壁に貼られていた脇坂家の家系図(^^;) 私も写真に撮りましたが、ちょっとぼけてしまいました。
そして本丸御殿を出ると埋門をくぐり外からこの櫓門を眺めます。このあと確か復興された隅櫓があるはずと思い、埋門前から左にぐるっと回ってみるとありました。二重の隅櫓とその下の石垣、そしてそこから伸びる白壁、これがなかなか絵になります。
そのあと駐車場まで戻り、その横にある歴史文化資料館をのぞきますが、あまり脇坂家あるいは龍野城に関する展示はありませんでした。それよりもそこの資料室にはたくさんの文献がありました。特に龍野藩士の系譜集らしきものがあり、龍野藩と関係のあるらしい須貝さんは熱心に資料を見ていました。
またこの城の裏山・鶏籠山には龍野古城と呼ばれる山城があり、竪堀などが見られるそうですが、今回は行きませんでした。まあ、行っていたらここで倒れていたかも(をい(^^;))






【城 跡 名】明石城(喜春城・錦江城)
【訪 城 日】2004年7月31日
【所 在 地】兵庫県明石市明石公園
【創建年代】元和4年(1618)
【創 建 者】小笠原忠真
【主な遺構】隅櫓二棟・天守台・本丸・二の丸・東の丸・稲荷郭・東西帯郭の石垣・中堀・薬研堀・桜堀・箱堀・北の丸の一部・中堀の土塁・大手門の枡形
【歴史・沿革】
大坂の陣の戦功で明石10万石に封ぜられた小笠原忠真が二代将軍秀忠の命で築城したのがこの城のはじまりです。忠真は岳父で姫路城主だった本多忠政と相談しながら工事を進め、元和6年(1620)の秋には大部分が完成しました。寛永9年(1632)、忠真が豊前小倉に栄転すると、姫路城主本多家が在番しましたが、その後松平(戸田)光重、大久保忠職、松平(藤井)忠国・信之父子、本多政利とめまぐるしく城主が変わりましたが、天和2年(1682)越前大野から松平(越前)直明が6万石で入部すると、明治維新までの10代186年間松平家は続きました。
明治維新を迎えると、明石城は廃城となり、跡地は学校が建てられたり、公園になったりしたのち、宮内省の管轄となり、のち兵庫県に払い下げられ、県立明石公園となりました。
【訪 城 記】
関西旅行の第一日目、竹田城・龍野城と続き、次は本当なら赤穂城に行くつもりでしたが、時間はもう4時半過ぎ。そこで赤穂城は断念し、明石城へと向かいました。明石駅前の駐車場に車をとめ、明石公園内に進むと正面左に坤(ひつじさる)櫓、右に巽(たつみ)櫓が見えます。
右側に宮本武蔵が作ったという庭園(復元)が見えますが、かまわず進み、坤櫓・巽櫓両者が左右に美しく並ぶ様を見ながら、右の石段をぐるっと登っていくと、まず巽櫓が見え、その奥の方にしばらく歩くと坤櫓が見えます。そして坤櫓の近くには天守台の石垣が残っています。
さらに北側に進むと埋門跡や乾櫓跡・艮櫓跡などがありますが、この頃は雨がかなりひどくなっていたので艮櫓跡をさらっと見ただけで、二の丸の方へ進んでしまいました。二の丸の中をぐるっと回り石段を下りていくと、途中の石垣に刻印があるのを見つけました。
そして下の旧三の丸付近を通ってまた明石駅の方へと向かいました。その頃には三人ともすっかりびしょぬれになってしまっていましたので、明石駅近くの居酒屋に潜り込みました。そこでしばらく過ごしお二人とお別れし、その日の宿に向かうため明石駅に行きホームに登っていくとなんと坤櫓・巽櫓がライトアップされているのがきれいに見えました。デジカメで写真を撮りましたが、三脚を使わなかったので残念ながらあまりきれいには写りませんでした。
この日は一日雨続きで、案内して下さった馬原さん・須貝さんには大変ご迷惑をおかけしました。本当にありがとうございました。








