【史 跡 名】槻御殿(楽々園)
【訪 問 日】2001年5月3日
【所 在 地】滋賀県彦根市金亀町
【訪 問 記】
彦根城天守、そして西の丸三重櫓などを見て黒門橋を渡り内堀の外に出ると「楽々園入口」の看板が見えてきます。そしてそのすぐ横に「井伊直弼生誕地」という碑が...
この楽々園、別称槻御殿は延宝年間(1673~81)に四代藩主井伊直興が下屋敷として作ったもので、井伊直弼もここで生まれています。広書院をはじめたくさんの部屋がありますが、中には「地震の間」という部屋があり、ここは普段は御茶座敷として使われていましたが、地震が起きた時に逃げ込めるように地盤を強固にしてあったり、下部の床組に大材を使用して重心を低くするなど耐震構造を意図して作られています。
現在は元々の建物のほんの一部しか残っていませんが、さすがに藩主の下屋敷として建てられた風格を感じさせる建物でした。




【史 跡 名】玄宮園
【訪 問 日】2001年5月3日
【所 在 地】滋賀県彦根市金亀町
【訪 問 記】
欅御殿(楽々園)から道なりに進むとやがて、東隣の玄宮園へと至ります。ここは欅御殿と同じ頃に造営されたもので、近江八景や竹生島等になぞらえて築庭され、中国・唐の玄宗皇帝の離宮にちなんで命名されました。池泉回遊式の広大な庭園で、庭園中央の鳳翔台からは庭園全体と背後の彦根城天守を望むことができます。
池の北岸から、対岸の鳳翔台、そしてその上に見える彦根城天守という図はなかなかの絶景でした。



【史 跡 名】埋木舎
【訪 問 日】2001年5月5日
【所 在 地】滋賀県彦根市尾末町
【訪 問 記】
この埋木舎(うもれぎのや)は、幕末の大老井伊直弼が17歳から32歳までの部屋住み時代を300俵の捨扶持で過ごした所です。直弼は父・直中の十四男で他家の養子となることも叶わず、自らを生涯花咲くこともあるまいと埋もれた木にたとえて埋木舎と呼び、ここで茶道・華道・禅・武道等の研究に励ました。しかし嗣子のいない長兄直亮の養子となり、彦根藩主、さらに幕府の大老へと昇進し、波乱の時代の幕政をリードしたものの、桜田門外の変で凶刃に倒れその生涯を閉じました。
現在の埋木舎には直弼が使用した駕籠や井伊直弼や歴代藩主の肖像が等が展示され、往時を偲んでいます。たしかに普通の武家屋敷とすればなかなか立派なものだとは思いますが、藩主の子息が住むにしては質素なものだと感じました。



使った駕籠

【史 跡 名】龍潭寺(りょうたんじ)
【訪 問 日】2001年5月3日・5日
【所 在 地】滋賀県彦根市古沢町
【訪 問 記】
竜潭寺は、井伊家発祥の地・遠州井伊谷の菩提寺を移して、元和3年(1617)に完成したもので、方丈・庫裏などの主な材木は遠州から運んだそうですが、山門は佐和山城の城門を、梵鐘は佐和山城の陣鐘をそのまま用いたそうです。現在の山門は当時のものではありませんが、梵鐘は現在でも残り、龍潭寺の玄関に吊されていました。
また、佐和山城城門の古材を使って建てたという茶席果然室がありますが、これは現在公開していないそうです。方丈の襖絵は芭蕉の高弟の森川許六の作で、境内には池泉鑑賞式の東庭、枯山水の南庭などすぐれた庭園もあります。(庭園の写真を撮るのを忘れました、残念(^^;))
また、境内入口には石田三成の供養塔や銅像があり、この龍潭寺の裏からは佐和山城址へと登る登山口があります。


(旧佐和山城陣鐘)

(創建当時の門は佐和山城の城門を移築したものだったという)

【史 跡 名】清涼寺
【訪 問 日】2001年5月5日
【所 在 地】滋賀県彦根市古沢町
【訪 問 記】
清涼寺は龍潭寺のすぐ右隣にありました。井伊直政の墓所として始まり、井伊家歴代の菩提寺で、背後の高台には旧藩主の無縫塔の墓石が6基並んでいるそうです。(あとから知ったので確認できませんでした(T_T))
厳しい修行道場として知られ、井伊直弼も参禅に通ったそうですが、その境内は石田三成の重臣島左近の屋敷跡だといわれています。
私が行った時にはもう夕方でしたので、外から少し眺めるだけで失礼しました。




【史 跡 名】井伊神社
【訪 問 日】2001年5月5日
【所 在 地】滋賀県彦根市古沢町
【訪 問 記】
井伊神社は龍潭寺・清涼寺のすぐ近くにあります。龍潭寺の左の方に進むと井伊神社という看板と鳥居があったので行ってみましたが、看板は真新しくなっていましたが、神社自体はかなり荒れ果てた感じになっていました。境内の草は伸びたまま、社殿はプレハブのような外囲いに囲まれて元は鮮やかであったろう柱の色もハゲかかっていました。
この神社は天保13年(1842)、井伊家の遠祖・井伊共保を祀る神社として創建され、井伊直政・直孝も祀られているそうです。社殿は弘化3年(1846)の建立で昭和13年(1938)に佐和山神社を合祠していますが、あとからびわこさんに聞いたところ今では祀る人がいなくなってしまい、あのような状態になっているとのことでした。周辺の龍潭寺・清涼寺がきれいなだけに何とも残念です。





【史 跡 名】宗安寺
【訪 問 日】2001年5月5日
【所 在 地】滋賀県彦根市本町
【訪 問 記】
宗安寺は、井伊直政の夫人東梅院が両親のために建立した寺で、もとは旧領の上野国箕輪にありましたが、移封にともない佐和山を経て現在地に移されたそうです。代々井伊家内室の菩提寺として続きましたが、道路に面した朱塗りの山門(通称赤門)は佐和山城の城門を移したものといわれています。
そのすぐ横に小さな黒門がありますが、これは朝鮮通信使が当時を宿館とした際に、料理に用いる肉類を山門から持ち込むことができないのでこの黒門から持ち込んだそうです。
墓地には豊臣家の忠臣木村重成の首塚があるそうですが、これもあとから気付いたため確認していません(T_T)
赤門はなかなか立派でしたよ(^^)

(通称赤門、佐和山城城門を移築したと云う)



【史 跡 名】摠見寺
【訪 問 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
【訪 問 記】
摠見寺は安土城築城の際に、織田信長が自分の従兄弟正仲剛下座元禅師を開山として、甲賀郡の江雲寺を移して建立した寺です。安土城炎上の際もその厄をまぬがれましたが、安政元年(1854)の火災で仏殿・書院・庫裏などほとんどの建物を焼失し、その後旧寺務所のあった大手口の家康屋敷跡の方に移り、当時のものとしては百々橋から上がったところにある仁王門と三重塔だけとなってしまったそうです。
私が安土城に行った際に見たのは、結局現在の摠見寺ではなく、かつての本堂跡とその近くに残る三重塔と仁王門だけでしたが、両者とも四百年の歳月を数えるだけの風格を持つ建物でした。本堂跡の周辺には石垣もたくさん残っていました。




【史 跡 名】安土城天守 信長の館
【訪 問 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
【訪 問 記】
安土城のあと、観音寺城の麓にある近江風土記の丘の「安土城天守 信長の館」に行きました。ここにはセビリア万博に出展したという安土城天守の5層目・6層目を復元したものが展示してありますが、何事も一見はしかず、復元とはいえかつての安土城の壮麗さを実感できるものとなっていました。
復元天守の横には全国の名城の天守閣の写真が展示されていましたが、残念ながら我が蝦夷地唯一の天守を持つ松前城の写真はなかったようです...(T_T)





【史 跡 名】旧柳原(りゅうげん)学校
【訪 問 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
【訪 問 記】
これは観音寺城の麓にある近江風土記の丘内にあり、安土城天守の信長の館から安土城考古博物館に行く途中にありました。県の指定文化財になっているようですが、詳しい来歴等はよく見ませんでした(^^;)
このあと考古博物館に行きましたが、第1展示室は考古がテーマだったのでさあっと流し、第2展示室は城郭がテーマだったので、安土城の復元模型やら、近江のお城のジオラマやらを興味深く見ました。

【史 跡 名】観音正寺
【訪 問 日】2001年5月5日
【所 在 地】滋賀県蒲生郡安土町石寺
【訪 問 記】
この観音正寺は西国三十三所の三十二番札所で知られ、開基は聖徳太子と伝えられ、寺には人魚のミイラと称するものが秘蔵されていましたが、平成5年(1993)に彦根城の欅御殿を拝領したという本堂は全焼し、このミイラも焼けてしまったようです。私が行った時にも本堂は工事中でしたので、その脇の細い道から観音寺城の本丸・平井丸方面へと抜けていきました。
この観音正寺までは参詣の人がたくさんいましたが、この奥の観音寺城の本丸方面にはひと一人いませんでした(あたりまえか...(^^;))
観音正寺は盛時には三十三の子院を擁したそうですが、戦国時代に佐々木六角氏が山上に観音寺城を築きはじめると山麓に移転させられ、六角氏の滅亡と共に衰微しました。慶長年間(1596~1615)には再び山上に戻り、諸堂を再興したそうです。

(奥に小さく見える本堂は再建中でした)

【史 跡 名】沙沙貴神社
【訪 問 日】2001年5月5日
【所 在 地】滋賀県蒲生郡安土町常楽寺
【訪 問 記】
観音寺城を回って満足したあとは、実は今回の旅で秘かに行くのを楽しみにしていた沙沙貴神社へと向かいました。
この社は延喜式内社で奈良・平安時代には蒲生・神崎両郡の大領をつとめた狭々城山君(ささきやまぎみ)という豪族の祖神を祀ったのがその起こりとされています。宇多天皇の皇子敦実親王の子孫と称する宇多源氏の佐々木氏は、源頼朝の平家追討の挙兵の武勲により近江守護職に任じられ、その後の勢力拡大の過程で古代豪族狭々城山君の子孫の佐々木氏と同化していったと考えられ、のちには佐々木氏の氏神として、その子孫である京極・黒田などの旧大名や旧財閥の三井氏、乃木希典将軍などに尊崇され、これらの人々が奉納した石灯籠や寄進札なども散見されます。
実は私の母方は「佐々木」といい、元々は岩手県にいたそうですが、家紋も「丸に隅立て四つ目結い」と宇多源氏佐々木氏の系統を思わせるものとなっているんです。もちろん本当に宇多源氏の子孫かどうかということはわかりませんが、岩手県は非常に佐々木姓が多いところですし、東北は鎌倉期の御家人の子孫があちらこちらに移り住み、その地の領主となっていた例がありますので、ひょっとしたらそうして移り住んだ佐佐木源氏の末裔かなあなんて思うところもあるわけです。母の話ですと岩手にいた頃は庄屋をしていたらしいという話も残っているので、余計そんな気になってしまいまして...(^^;)
そんなわけで、この沙沙貴神社訪問は秘かな宿願だったわけです。神社自体はとてもきれいでしたし、この日は子どもの日だったからか子ども神輿などもやっていまして、何だかとても心が温まりました。







(右手手前は
「乃木将軍手植えの松」)

【史 跡 名】瑞龍寺
【訪 問 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県近江八幡市宮内町
【訪 問 記】
旧八幡城の本丸は、現在瑞龍寺となっていますが、この瑞龍寺はもともとは京都村雲の地にありました。その創建は日秀尼といい、この八幡山城の城主だった関白豊臣秀次の母、つまり豊臣秀吉の姉「とも」だったのです。ともは秀次自害後出家して日秀尼となり、その菩提を弔い瑞龍寺を建てましたが、昭和38年(1963)に村雲から秀次ゆかりのこの城跡に移築され、現在に至っています。
正直なところ、ロープウェイで山頂まで登った人はほとんどこの瑞龍寺にお参りに来た人たちで、私のようにお参りもそこそこに石垣の写真を撮っている人間などは皆無でした(あたりまえだってば...(^^;))

(山門の両側には石垣が残り、
山門の中は桝形虎口になってました)


「村雲御所瑞龍寺門跡」
の石柱

【史 跡 名】日牟礼八幡宮
【訪 問 日】2001年5月4日
【所 在 地】滋賀県近江八幡市宮内町
【訪 問 記】
八幡城(瑞龍寺)を訪ね終わって、ロープウェイで降りると、下に日牟礼八幡宮という神社がありましたので、ここにもちょっと寄ってみました。
この地には、かつて大島郷と呼ばれ、延喜式内社大島神社が鎮座していましたが、比牟礼荘が開発されると新たに八幡神が勧請され、のちには大島神社に変わって主役の座を得、日牟礼八幡宮となりました。
三月中旬には左義長という祭りが行われるそうですが、行った時にはそんなことも知らず、「なかなかきれいな建物だなあ」なんて思いながら写真を撮っていただけでした。



【史 跡 名】観智院・東寺
【訪 問 日】1998年5月3日
【所 在 地】京都府京都市南区
【訪 問 記】
前日に姫路城・竹田城と兵庫県の名城2つを見て京都へと向かいましたが、この日は一日京都めぐりをしようということで、友人と相談し、まずは京都駅近くの東寺へ行ってみることにしました。近いと思っていましたが京都駅から意外と歩きました。「東寺」という提灯の下がっている門から入っていくと、手前に東寺の塔頭寺院である観智院があったのでまずここに入ってみました。
観智院は室町初期の創建で、東寺教学の基礎を成し、多数の教典を有することで知られているそうです。ですが、私たちが心ひかれたのは、その庭園でした。ここの庭園は枯山水の「五大の庭」と呼ばれるもので、小さいながらも心が落ち着く雰囲気がありました。庭園を眺めながら頂く御茶もなかなか風情がありました。
観智院をあとにしていよいよ東寺へと向かいました。桓武天皇が平城京の旧仏教勢力から逃れるために平安京へ遷都した際には京都に寺を建てるのを許されませんでしたが、その例外が官寺であったこの東寺と西寺でした。西寺は早くに廃れて残っていませんが、東寺(正式名:金光明四天王教王護国寺秘密伝法院)はいつの時代にも為政者の保護を受け繁栄してきました。金堂や講堂に安置された仏像群はもちろんのこと、高さ55mと日本一の高さを誇る国法の五重塔もさすがに立派なものでした。
もっと早く切り上げるつもりでしたが、意外と回るのに時間がかかり、東寺をあとにしたのはもう昼過ぎでした。そこで軽く昼食を取って、午後からの日程を検討し、二条城を見てから西本願寺を回ることにして、バスに乗って二条城へと向かいました。






【史 跡 名】西本願寺
【訪 問 日】1998年5月3日
【所 在 地】京都府京都市下京区
【訪 問 記】
二条城のあと、再びバスに乗って駅の近くまで戻り、この日最後の訪問地・西本願寺へと向かいました。ここはよく知られているように親鸞聖人を祖とする浄土真宗本願寺派の本山です。親鸞の娘覚信尼が親鸞の墓の側に御廟を建てたのが本願寺の始まりといわれています。3代目の覚如が本願寺と名付け、3代蓮如が巨大な教団に成長させました。現在の寺地は豊臣秀吉から寄進されたもので、伏見城から移築したという唐門をはじめ、秀吉ゆかりの建物が多くあります。非公開ですので残念ながら見ることはできませんが、秀吉の築いた聚楽第の遺構と伝えられる飛雲閣もあります。
この日は東側の門から入って、本堂で少しお参りしたあと、ぐるっと回って唐門を見て初めにくぐった門の方へ戻ってきました。我が家はお西の門徒なので、ちょっと感慨深いものがありました。時間があったら東本願寺も回りたいところでしたが、この日はこれで予定を終了しました。


(ちょっと建物の名前がわかりません)

(内側から見たところ)


(外側から見たところ)

【史 跡 名】竜安寺
【訪 問 日】1998年5月4日
【所 在 地】京都府京都市下京区
【訪 問 記】
東寺・二条城・西本願寺などを回った翌日はまず竜安寺へと向かいました。バスを乗り継いで金閣寺の近くまで行き、あとは歩いて竜安寺へと向かいました。(金閣寺は高校時代の修学旅行で行ったのでパスしました。)この日はちょっと小雨気味であまり天気は良くありませんでした。
竜安寺は、室町時代藤原実能の別荘を細川勝元が譲り受けて寺としたのに始まりますが、その石庭が有名です。土塀に囲まれた長方形の庭に白砂を敷きつめて数個の石を配置しただけのシンプルな枯山水で、”虎の児渡しの庭”と呼ばれる有名な庭ですが、たしかにながめていると心休まる感じがしました。この石庭の模型のようなものもありました。この石庭も良いですが、その右側の方にある苔むした庭園もなかなか良かったです。
しばらく石庭を眺めたあと、寺の横の鏡容池の周りをぐるっと回るようにあった遊歩道を歩きましたが、これもなかなか風情がありました。(雨が降っていなければもっと良かったんですけど)
そして、竜安寺をあとにして近くにある等持院へと向かいました。







【史 跡 名】等持院
【訪 問 日】1998年5月4日
【所 在 地】京都府京都市北区等持院
【訪 問 記】
竜安寺の次に等持院へと向かいました。等持院は立命館大学のすぐ近くにあります。室町時代に足利尊氏が起こした臨済宗の禅寺で、尊氏の死後は足利将軍の廟所となりました。
等持院へ着くと、まず奥にある霊光殿に向かいました。ここには足利歴代将軍の木像が収められています。よく歴史関係の書籍に載っている各将軍の写真はここの木像の写真が使われることが多いですが、やはり見覚えのある木像がならんでいました。室町幕府の最盛期を誇った3代義満はやはり貫禄がありましたし、応仁の乱を収められなかった8代義政はやはりぼんやりした感じでしたね(^^;)
そのあと庭園の方に回りましたが、これもなかなか見応えのあるものでした。芙蓉池をめぐるこの庭は開山の夢窓疎石が作庭したそうですが、花も咲き乱れとても美しく整えられていました。
ところで、この等持院の庭の片隅に足利尊氏の墓があって、その前に灯籠があるんですが、ある方からの情報によるとこの灯籠に寄進者の名前が書かれていて「足利第三十三代旧鯰公方○○○○(実名)」となっているそうです。私はそこまで気がつかなかったんですが、もう一度行って確かめなくてはいけないと思っております(^^;)





【史 跡 名】旧第三尋常中学校
【訪 問 日】2004年8月2日
【所 在 地】三重県伊賀市上野丸之内107(旧上野市丸之内107)
【訪 問 記】
これも旧崇廣堂と同様、伊賀上野城の高石垣の撮影ポイントを探している時に見つけたものです。この建物は明治33年(1900)に竣工した木造洋風建築で、日本洋風建築黎明期の代表作として重要なものだそうです。三重県有形文化財に指定されたているとのこと。
ちらっと眺めただけですが、校門も校舎も明治の雰囲気を漂わせたものでした。時間があれば、ここだけでなく伊賀上野の街をもっとゆっくりと散策してみたいところでした。

(明治校舎)


【史 跡 名】旧崇廣堂
【訪 問 日】2004年8月2日
【所 在 地】三重県伊賀市上野丸之内78-1(旧上野市丸之内78-1)
【訪 問 記】
ここは伊賀上野城の高石垣を写真に収めに行く途中で見つけたものです。
崇廣堂は文政4年(1821)津藩主藤堂高兌の時に藩士の子弟の教育のため、津の藩校有造館の支校として建てられたものだそうです。明治維新後藩校は廃され、私立上野義学校となり、その後も学校として使われましたが、明治38年からは図書館となり、昭和58年まで市立図書館として使われました。
もう着いた時は開館時間を終わっていましたので中を見ることはできませんでしたが、表門の赤門は藩校としての風格を感じさせるものでした。




【史 跡 名】開化天皇陵(春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)・念仏寺山古墳)
【訪 問 日】2004年8月3日
【所 在 地】奈良県奈良市油阪町字山ノ寺
【訪 問 記】
旅行四日目、この日は大和郡山城と淀城を回る予定でしたが、せっかく奈良に来てどこにも行かないのも寂しいと思い、朝早く起きちょっと奈良の町をぶらりとしてきました。
まずは開化天皇陵です。実は奈良で泊まったホテルのすぐ裏がこの開化天皇陵だったわけで、ホテルの横から玉砂利の道が続き、その奥に鳥居があって、その向こうの山が開化天皇陵でした。ネットで調べてみたら天皇陵はみんなその前に鳥居があるようですね。
ここに限らずこの辺りはあちこちに天皇陵やら古墳やら古代の遺跡やらがあるようで、生活する方々も大変ですね。



【史 跡 名】猿沢池
【訪 問 日】2004年8月3日
【所 在 地】奈良県奈良市登大路町
【訪 問 記】
興福寺を探訪したあと、そのすぐ前にある猿沢池に行きました。この池はもともと興福寺が秋の彼岸などに捕らえられている生き物を買い集めて逃がしてやる法会、放生会を行う放生池だったそうです。
本当なら、この池の周りとか奈良公園をゆっくりと回って、春日大社とか東大寺も行きたかったんですがねえ...(^^;)
そのあとホテルに戻り、朝食のあと、大和郡山城へ向かいました。

【史 跡 名】興福寺
【訪 問 日】2004年8月3日
【所 在 地】奈良県奈良市登大路町48
【訪 問 記】
ホテル裏の開化天皇陵を見たあと、奈良公園の方へと歩いていきました。10分ほど街中を歩いていくと、興福寺に到着しましたが、その手前の道ばたで鹿が道ばたの草を食べていました(^^;) 思わず、「さすが奈良!」と変な感心の仕方をしてしまいました。
興福寺は、669年、藤原鎌足が重病の折、夫人がその病気平癒を願って、鎌足の念持仏等を安置する堂舎を山城国宇治の山階(山科)に設けた山階寺が始まりだと伝えられていますが、710年の平城遷都の際に鎌足の子不比等が移建して興福寺と改めたそうです。その後藤原氏の氏寺として大いに栄え、中世は実質的な大和守護として権勢を誇りました。
明治維新後の廃仏毀釈では一時廃寺となりましたが、明治21(1888)年、法相宗の大本山として復興し現在に至っています。
現在残っている建物では、東金堂・五重塔・北円堂・三重塔が国宝に、南円堂が県文化財に指定されています。北円堂・三重塔は鎌倉初期の再建と中でも古く、東金堂・五重塔は室町時代のもの、南円堂が江戸中期に再建されたものです。
本来伽藍の中心にある中金堂は享保の大火後、文化年間に仮堂として再建されましたが、老朽化が進み、現在北の講堂跡に仮金堂(旧薬師寺金堂)が移建され、旧中金堂は解体され、平成22年の興福寺創建1300年に向けて再建中だそうです。
時間があれば国宝館などを見たいところでしたが、朝早かったこともあり、これらの建物をぐるっと見て回ったあと、すぐ前にある猿沢池を見て、ホテルまで戻りました。






(薬師寺の旧金堂を移建したもので、中金堂は現在再建中)







