さて、交代寄合に列した諸家の紹介はこれで終わりですが、小川恭一氏の、「江戸幕府旗本人名事典 別巻」に、「旧交代寄合の家」2家、「以前交代寄合だった家」21家、「以前に交代寄合と推定される家」5家が作表されて出ており、それ以外に交代寄合であったと推定される家があと4家、本文中に載っていますので、これらの諸家を紹介してこのシリーズの最後とします。
(系図は略系図とします)
北海道唯一の大名家で、その家系は甲斐武田氏の庶流若狭武田家より出たとし、蝦夷管領安東氏(のち秋田氏)の配下として実力を蓄えました。
『寛政譜』には、藩祖・松前慶広の項に「慶長5年3月15日はじめて采地にゆくの暇賜う、後例とす。」とあるので、当初は交代寄合扱いだったのは間違いないでしょう。(「武鑑」でも交代寄合として挙げています)
その後、矩広の代に万石以上に準ぜられ(触書等は従来通り交代寄合並)大名扱いとなりました。(正式に1万石格となったのは天保2年)

(2)松平(久松)家〔下総多古8000石〕
2番目に紹介した、下総飯笹6000石の松平(久松)家の一族で、家康の異父弟松平(久松)勝俊を祖とします。
勝俊は若死にしたため、水野政俊の五男勝政が養子となり8000石を領しました。その子勝義は寛永12年に下総多古に居所をおきましたが、『寛政譜』に「寛永12年、はじめて采地にゆくのいとまをたまふ」とありますので、交代寄合として遇されていたようです。
正徳3年、勝以の時に1万2000石に加増となり大名に列し、以後幕末まで続きました。

『寛政譜』によると、清和源氏頼親流石河冠者有光を祖とするとあります。光政・光重の兄弟は、はじめ豊臣秀吉に仕えていましたが、光政の子貞政は関ヶ原にて東軍に属し、その後5020石を領していました。(光重の子孫は尾張藩士)『呈書書込』『諸家系譜』によると、貞政・貞利・貞代まで、交代寄合でしたが、万治2年家督の後願により若年寄支配寄合となったそうです。子孫は、 4250石の旗本として存続しています。

この一色家の祖直明は、家伝によると足利将軍義量の孫義嗣の次男で一色氏兼の子長兼の養子となったとしていますが、義量は早世して子がなく、義嗣はその叔父であるので疑わしいと『寛政譜』ではしています。武蔵国葛飾郡幸手庄を領していましたが、直明の玄孫義直の時に徳川家康に本領を安堵され、5160石を領しました。息子照直は加増され7160石余を領し、交代寄合となりましたが、嗣子なく父義直が再仕し、外孫直氏が5160石を相続しました。その子直房は4500石を継ぎましたが、病身のため江戸に居住し、交代中絶となりました。子孫は、3500石の旗本として存続しています。

打越家は出羽国由利郡に割拠した由利十二頭の一つで、清和源氏小笠原流と言われています。大井朝光の十一代氏光が出羽国由利郡打越郷に住して打越と称しました。光隆の時に徳川家康に仕え、常陸新宮にて3000石を賜い、後出羽矢島に移り、寄合に列しました。その子光久は、旧領新宮にて3000石を領し交代寄合となりましたが、嗣子なくして没し、絶家となった。光久の弟光種の子孫は、500石の幕臣として存続しています。

大嶋家は清和源氏新田庶流里見氏の一族と言われています。光義は織田信長・豊臣秀吉に仕え1万1200石を領しました。関ヶ原の役では東軍に属し、1万8000石に加増されましたが、その死後遺領は子どもたちで分割し、本家は長男光成が継ぎ7500石となり大名の列から降りました。(光成の孫義豊の時に無嗣絶家)
光義の三男光俊は、父の遺領の内3250石を領しました。『呈書書込』『諸家系譜』によると光俊、義治は交代寄合に列しましたが、義雄家督後分知減高に付き伺いの上交代御免となったそうです。子孫は2000石の旗本として存続しています。

この織田家は、信長の次男信雄の子孫である大和松山藩織田家(のち丹波柏原藩)の分家です。信雄の五男高長は父の遺領の内3万1200石を領しましたが、その三男長政は兄長頼から3000石を分知され、交代寄合に列しました。その子信明は、弟信清に分知し2700石を知行しましたが、故ありて小普請に落とされ、のち表高家となり、子孫は高家となって2700石を領しました。

この京極家は、室町幕府の四職をつとめ、江戸時代は数家の大名を出した京極家の一族です。丹後宮津で12万3200石を領した高知の六男満吉を祖としますが、満吉は田中を称し、交代寄合に準ぜられました。のち書院番士に列し、稟米1000俵を賜い、孫高久の時に京極姓に復し、子孫は1000石の旗本として存続しました。

この新庄家は常陸麻生藩新庄家の分家です。新庄家は藤原北家秀郷流と言われますが、直頼は豊臣秀吉に仕え、常陸麻生3万300石を領しました。(のち2万7300石)三代直好は嗣子がなかったので、従弟直時を養子として跡を継がせましたが、その後養父直好に実子直矩が生まれたので、直矩の成長の後2万300石は直矩に継がせ、自らは7000石を領し交代寄合格となりました。しかし、直矩の養子を定める時に不手際があり領地没収となりました。しかし、隠居直時に3000石が与えられ、合わせて1万石となり本家の名跡を継ぎました。その子孫は、常陸麻生藩1万石を継承し維新を迎えました。

神保家の出自は惟宗氏とも桓武平氏とも言われています。畠山家の家臣でしたが、春茂の時に豊臣秀吉に仕え大和高市郡にて6000石を領しました。その子相茂は関ヶ原の役で東軍に属し、加増され7000石を知行しました。その遺跡は息子茂明が継ぎましたが、『諸家系譜』に寛文延宝に交代の例があるそうです。子孫は6000石の旗本として存続しています。

この神保家も、上と同じく畠山家の旧臣ですが、その呈譜では桓武平氏となっています。氏張は神保氏純の養子で畠山義隆の次男だそうですが、織田家に属したものの後浪人し、天]正17年徳川家康に仕え、下総香取郡にて2000石を賜いました。『諸家系譜』によると、この時に交代寄合を仰せ付けられ追って取立てを約されたそうです。子の氏長は文禄元年家督を継ぎ寄合となったそうです。(天正年間に交代寄合・寄合の名称が存在したか疑問ですが)子孫は、1500石の旗本として存続しています。

高原家は、代々讃岐国直島及び男木島・女木島等の地を領し、次利は豊臣秀吉に仕えました。その子次勝からは徳川家に属し、その子直久は直島、男木島、女木島において600石を賜い交代寄合となり、のち旧領をあわせ2000石を領しました。その曾孫仲頼は親不孝の廉により改易となりました。

本能寺の変後、伊賀越えをして三河へと帰った徳川家康でしたが、伊賀越えの際に家康を助けたのが甲賀の多羅尾光俊親子でした。多羅尾家はその家譜によると、近衛太政大臣経平の子・左近将監師俊を祖とし、はじめ高山を称しましたが、のち近江国甲賀郡信楽を領し、多羅尾を称したそうです。
光俊はその後豊臣秀吉に仕えましたが、関白秀次の事件の時に改易され、その子光太・光雅は家康に仕え、光太の子孫は1500石の旗本として存続しました。一方、光雅は2300石を知行し、その子光重が遺跡を継ぎましたが、病により弟光房に遺跡を継がせましたが、光房の死により再び家督を継ぎ寄合に列しました。光武の没後、遺跡は収められましたが、先祖の旧功により光之に名跡を継がせ500石を賜いました。子孫は500石の旗本として存続してました。

この津軽家は、陸奥弘前藩津軽家の分家です。津軽信牧の次男信英が5000石を分知され、その子信敏の時には弟信純に1000石分知して4000石となりました。政兕(たけ)は家督後小普請入し、交代寄合の列からは外れたようですが、親足の代には本家より6000石を分与され、1万石で大名に列し、明治維新まで存続しました。

津田家は織田家の一族になります。秀政は織田信長・豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の役後徳川家康に仕え4010石を領しました。『諸家系譜』には、3代正勝が家督後、寛文5年知行所へお暇、同6年帰府とありますが、『寛政譜』では当時書院番勤仕中なので、不審が残ります。その子孫は、3010石余の旗本として存続しました。

妻木家は美濃土岐氏の一族ですが、頼忠の時に徳川家康に仕え、その子頼利は7500石を知行し交代寄合に列しました。その子頼次は弟幸広に500石を分知して7000石を領しましたが、嗣子なく絶家となりました。幸広の子孫は500石の旗本として存続しました。

遠山家は藤原北家利仁流加藤景廉の子景朝が遠山を称したのに始まります。その子孫は美濃国に住し、そのうち明知を領したのがこの遠山家です。利景ははじめ僧となりましたが、明知城没落の後還俗して利景と称し、のち徳川家康に仕え本領明知を賜い6530石世を領しました。その子方景の代より伊次の代まで交代寄合に列しました。子孫は6530石余の旗本として存続しました。

能勢家は清和源氏頼光流で、国基が摂津国能勢郡を領し、能勢を家号としました。頼次は豊臣家に仕えていましたが、関ヶ原の役の後は徳川家康に仕え3000石を知行し、のち2300石を加増されました。頼次代に交代の例がありました。その子孫は4000石余の旗本として存続しました。

花房家は清和源氏足利流で、足利泰氏の八男上野律師義弁の子五郎職通が常陸国花房郷に住して花房と称したのに始まります。この花房家は職忠の三男正定を祖とし、その子正幸は宇喜多直家・秀家に仕えて1万8000石を領しました。その子正成は3万1000石を領しましたが、家中争論により宇喜多家を離れ、徳川家康に仕え5000石を領しました。『諸家系譜』では正成・正次(幸次)が交代寄合とあるそうです。幸次はその後加増を重ね、9500石余を知行し、子孫は5000石の旗本として存続しました。

平岡家は清和源氏頼光流ではじめ溝杭と称しましたが、頼勝の時に平岡に改めました。頼勝は小早川秀秋に仕え備前小島2万石を領しましたが、讒言により浪人し、徳川家康に仕え美濃国内にて1万石を知行しました。その後、頼資が継ぎ、頼資の死後、相続争論により除封されましたが、旧功によりその子・頼重に1000石を賜い、柳間大名並老中支配となりましたが、のち願いにより若年寄り支配寄合となりました。子孫は2000石の旗本として存続しました。

この本多家は三河岡崎藩(のち信濃飯山藩)本多家の分家です。家祖の助久は本多忠利の長男ですが、庶子であったので家督を継がず4560石余を分知され寄合に列しました。『呈書書込』『諸家系譜』によると助久・利重が交代寄合・帝鑑間席とあるそうです。子孫は4260石余の旗本として存続しました。

この松平(長沢)家は、(35)松平(長沢)家の一族で、上野介親広の五男近清を祖とします。近清の子清直は松平忠輝の付家老となり、忠輝改易の時に浪人となります。のち再び幕臣となり三河形原にて5000石を賜い、交代寄合に列しました。しかし三代信実の時に嗣子がなく絶家となりました。

この溝口家は越後新発田藩溝口家の分家で、溝口宣勝の三男宣俊を祖とします。宣俊は、父の遺領より5000石を分知され寄合に列し、池端に居所を営み、子宣鎮の代まで交代寄合に列しました。子孫は、5000石の旗本として存続しました。

赤松家は室町幕府の四職の一として知られていますが、この赤松家はその一族で、赤松円心(則村)の長男範資の子孫に当たります。氏貞の時に石野城に住し以後石野と称し、その子氏満は豊臣秀吉・前田利家に仕え、その子氏置は徳川家康に仕え、3150石余を知行しました。氏置の子氏照は2150石余を相続し、上総国の采地に住し、のち新田を合わせ2510石余を知行しました。のち参府して書院番士となり、孫範恭の時に赤松姓に復し、子孫は5015石余の旗本として存続しました。

(3)戸田家〔美濃5000石〕
この戸田両家は、美濃加納藩(後信濃松本藩)松平(戸田)家の分家で、(2)の戸田家は松平光重の次男光正を祖とします。光正は父の領の内5000石を分知され、領地美濃加納に赴いています。のち寄合に列し、子孫は5000石の旗本として存続しています。
また(3)の戸田家は、(2)の戸田家と同族で、光正の弟光直を祖とします。光直は光正と同じく父の遺領の内5000石を分知され、領地美濃加納へと赴いています。のち寄合となり、子孫は5000石の旗本として存続しています。

宮原家は関東(古河)公方足利家の分家に当たります。家祖晴直は、古河公方足利高基の長男で、はじめ上杉憲房の跡を継ぎ関東管領職に補せられ、上杉憲広と称しましたが、のち管領職を憲房の子憲政に譲り古河へと帰り、その後真理谷信政の勧めにより上総国宮原に移りました。そして、その子義勝、その子義照と続き、義照は関東に入国した徳川家康に拝謁して1140石を賜り、のち家号を宮原としました。その弟義久は兄の遺跡を継ぎ、格式無官の高家となり、采地に住し、随意に参府し奉仕すべしとされたそうです。その子孫は、1140石の高家として存続しました。

由良家は新田義貞の子義宗の子貞氏の子孫と言われています。はじめ横瀬と称しましたが、成繁の時に由良と改めました。代々、岩松氏の家老をつとめましたが、のち主家に代わって実権を握り、上野金山城に拠りました。小田原の役後、豊臣秀吉より常陸牛久5400石余を知行し、のち加増されて7000石余を領しました。その子貞繁は采地へ行く暇を賜いましたが、貞繁の死の際に不手際があり采地を収められました。しかし旧家であることから牛久に采地1000石を賜い、子孫は1000石の高家として存続しました。

岡本家は宇都宮芳賀の末流岡本信濃守富高の後胤で、下野塩谷庄に住したそうです。正親の時に豊臣秀吉に塩谷庄内3360石を安堵されました、義保より徳川家に仕え、加増され3860石を領しました。しかし義政は故ありて采地を没収され、岡本家は断絶となりました。

千本家は、(21)那須家・(22)福原家・(23)芦野家・(24)大田原家と同じく那須七騎の一つに数えられた一族で、那須資隆の十男戸福寺十郎為隆を祖とします。為隆はその後千本と称し、以後代々下野芳賀郡山口及び千本を領しました。義政は小田原の役後、旧領の内2070石余を安堵され、その子義定は加増され3370石余を知行しました。その子義昌は500石の采地を賜いましたが、病により家督を継がず、孫義等が遺跡を継ぎました。義等は父の采地と合わせ3870石余を領しましが、嗣子がなく絶家となりました。しかし義等の弟和隆は1050石を賜い、その子孫は1050石の旗本として存続しました。

近藤家は藤原北家秀郷流で秀郷の後胤近藤左近将監長安が三河に住し、その末孫九十郎景春から『寛政譜』の系図は始まっています。景春の孫重勝は織田家の臣間見仙千代に属し、その死後堀秀政に属し5000石を与えられました。秀政の死後はその次男親良に属し、越後において1万石を与えられました。重勝の養子政成(堀秀政四男)は徳川家康に仕え、父の遺領1万石を賜いましたが、その子重直(重尭)は幼かったため、信濃高井郡川中島にて5000石を賜り、寄合に列し、残り5000石は伯父堀親良に賜り、重直の成長まで親良が後見することを命ぜられました。重直の死後、子重信が4300石を継ぎ、700石を甥(実弟)重郷に分知しました。重直(重尭)・重信の代は交代寄合であったようですが、のち願いにより若年寄支配となったようです。子孫は4300石の旗本として存続しました。

此の松平(久松)家は、このシリーズの2番目の松平(久松)家の分家になります。徳川家康の異父弟康元の子で美濃大垣5万石を領した松平忠良の長男忠利が家祖ですが、庶子であったため父の跡は弟忠憲が継ぎ、忠利は父の遺領の内5000石を分知され、寄合に列しました。忠利は寛永の頃に交代寄合に列したようですが、その後免ぜられたようで、子孫は5000石の旗本として存続しました。

