(1)交代寄合表御礼衆

 *松平家の一門・譜代
  ○三河新城7000石 菅沼家
  ○下総飯笹6000石 松平(久松)家
  ○三河西郡4500石 松平(竹谷)家
  ○駿河久能1800石 榊原家(越後高田藩本家)
  ○遠江気賀3459石 近藤家
 *旧織田・豊臣系
  ○出羽矢島8000石 生駒家(元大名)
  ○備中撫川5000石 戸川家(元大名)
  ○美濃岩手5000石 竹中家
  ○大和田原本5000石 平野家
 *中世以来の豪族
  ○常陸志筑8000石 本堂家
  ○近江朽木4770石 朽木家(丹波福知山藩本家)
 *旧守護大名系
  ○但馬村岡6700石 山名家
  ○近江大森5000石 最上家
 *大名の分家・一族
  ○越前白崎3000石 金森家(美濃郡上八幡藩分家、本家は改易後旗本として存続)
  ○陸奥横田5000石 溝口家(越後新発田藩分家)
  ○豊後立石5000石 木下家(豊後日出藩分家)
  ○備中成羽5000石 山崎家(讃岐丸亀藩分家、本家は断絶)
  ○肥前富江3000石 五島家(肥前福江藩分家)
  ○日向飫肥2000石 伊東家(日向飫肥藩分家)
  ○播磨福本6000石 松平(池田)家(備前岡山藩分家、元大名)

 以上、「交代寄合表御礼衆」二十家は、大名並の参勤交代をなし四月毎の隔年参府を行う家が多く、最上・山名両家の様に「屋形号」(御三家及び国主大名にのみ許される称号)を有する国主並の家を始めとして、大名との差は単に石高が万石に達しないことぐらいといえます。実際、維新に際して、本堂・生駒・山名・池田・平野・山崎の六家は新たに実高が万石以上と認められ、新政府から藩に列せられています。(但しのちに授かった爵位は大名諸侯より一段下の男爵でしたが) 全体に外様系の諸家が多いですが、領内における統治権も諸侯同様全く独立した権限を有していたようです。

*松平家の一門・譜代
○三河新城7000石 菅沼家

第1回は、三河新城7000石菅沼家です。

 菅沼家は土岐氏の庶流で、『寛政重修諸家譜』では以上のように土岐光兼の子孫となっていますが、「菅沼系図」では土岐頼康の子島田満貞、その子木和多安逵、その子定直の時に菅沼を名乗るとなっています。
 野田菅沼氏定則は、はじめ今川氏親に仕えたが、のち家康の祖父清康に仕え、孫の定盈の代には武田信玄の攻勢にも離反することなく、のち高天神城攻め、小牧長久手の戦い等で軍功があり、家康の関東入国後は上野阿保で一万石を領しています。
 その後加増され定芳の時には四万石を領していますが、定昭の死後無嗣除封となっています。しかし、先祖代々の勲功により定実・定賞兄弟に一万石を賜い、定実が七千石、定賞が三千石を知行し、定実以後、譜第万石以上の末席に列しています。
 本多・酒井などの譜代諸家、あるいは松平諸家との縁組みが多いようですね。

○下総飯笹6000石 松平(久松)家

第2回は、下総飯笹6000石松平(久松)家です。

 久松氏は菅原道真の末裔といわれています。弾正左衛門尉道定の時に、尾張知多郡阿古居七千貫を領しましたが、この地は先祖菅原雅規が配流された所であり、雅規の幼名が久松丸であることから、久松を称号としたそうです。その後は代々斯波氏に仕え、定俊(俊勝)の時に、徳川家康の実母於大(伝通院、水野忠政の娘)を室にし、於大から生まれた康元・康俊・定勝の三子は家康の異父弟であることから、同姓に准じられ松平の称号を賜りました。二男康俊の子孫は下総多古藩主となり、三男定勝の子孫は伊予松山藩主・伊勢桑名藩主・伊予今治藩主となっています。
 この松平(久松)家は、長男康元の子孫になります。この家も、前回の菅沼家と同じで一時大名となりながら改易となり、旗本となっています。しかも、この松平(久松)家は、五万石まで達しながら、その後2回除封となり交代寄合となっていますし、初代康元は家康の異父弟三人の内の一番年上ですから、いわば久松系松平家の宗家ともいうべき系統ですが、三兄弟の子孫のうちでは一番小禄となってしまい、どうも運の悪い家系(?)のようです。
 以前から、不思議に思っていたのですが、久松系松平家三系統の内、なぜ末弟である定勝の子孫が繁栄したんでしょう? 康元系が5万石(のち6000石)、康俊系が1万2000石に対し、定勝系は15万石の本家松山藩・同じく15万石の桑名藩・3万5000石の今治藩と3家も大名を出してます。
 康俊は天正十四(1584)年に没してますし、康元も慶長八(1603)年に没しているので、残った末弟定勝の系統が本家格になったと言うことなんでしょうか?
 いずれにしても、初期は将軍家の養女となって福島・毛利・黒田などの大大名と縁組みするほどの家が、何だか尻すぼみになってしまい、印象の薄い家系ですね。

○三河西郡4500石 松平(竹谷)家

第3回は、三河西郡4500石松平(竹谷)家です。

 この竹谷松平家はいわゆる十八松平のうち竹谷松平の嫡流に当たりますが、菅沼家・松平(久松)家と同じく大名から滑り落ちてしまった家です。しかも家清・忠清と将軍家の諱の一字を賜ったり、家清が家康の異父妹を娶ったりと、将軍家との縁も深い家です。(前回の久松松平家も、康元・忠良と、将軍家の諱字を賜ってますが)
 ですが、忠清が慶長十七年(1613)に無嗣のまま死去したため、弟・清昌が五千石を与えられ、その後は譜代中大名とともに拝謁が許されるなどの厚遇を受けていますが、これも竹谷松平の嫡流という家柄の賜でしょう。
 もし、無嗣除封にならなければ譜代大名の中でも重きをなした家柄となったかもしれませんね。

○駿河久能1800石 榊原家(越後高田藩本家)

第4回は、駿河久能1800石榊原家です。

 榊原家は、足利支流仁木義長の末裔利長が伊勢国壱志郡榊原に住し榊原と号したと『寛政譜』にありますが、同じ『寛政譜』には藤原支流の榊原家もあり、そちらの家譜では藤原秀郷の後裔佐藤主計允基重が伊勢国壱志郡榊原に住し、その二男基氏の時から榊原を家号としたとあり、基氏の子孫清政の三男清長が、こちらの榊原家の祖であるとしています。これはどうやら源氏を仮冒したとしか考えられません。
 いずれにしても、清長の孫康政は徳川四天王のひとりとして徳川家康のもとで活躍し、その子孫は越後高田藩十五万石の藩主として明治維新を迎えています。
 この榊原家は康政の兄清政に始まる家で、本来ならば清政が家督を継ぐはずだったのが、家康の長男信康に属していたため、天正七年(1579)信康が自害すると隠棲してしまいました。のち慶長十一年(1606)に家康に召し出され、駿河国久能城の守衛を命じられました。
 その子照久も職を継ぎ、元和二年(1616)家康が久能山に葬られると、その宮司をも兼務しました。その子照清は宮司を辞し、久能山の守衛を司り、久能山の守衛のみを司り、代々当地に住しました。
 同家が譜代の名門であり、霊廟の守衛を行っていることから、大名格の待遇となったのでしょう。(江戸時代の久能山は参勤途中の大名の参拝が多く、その接待をするにも大名の格式が必要でした。)

○遠江気賀3459石 近藤家

第5回は、遠江気賀3459石近藤家です。

 この近藤家は藤原秀郷流近藤脩行の後といい、もとは三河国八名郡宇利庄に住したが、設楽郡に移ったのち、康用の時に遠江の井伊氏に属し井伊谷三人衆の一人と言われました。康用の子・秀用は井伊氏の配下から将軍秀忠に仕え、上野国青柳で五千石、更に相模で一万石を加封され、都合一万五千石を領して大名に列していました。その後一族に次々と領地を分知し結局旗本となっています。交代寄合となったのは嫡流ではなく、秀用の次男・用可の系統である気賀近藤家で、代々自領内にある気賀関所を守っていたそうで、関番という特定の任務にあたっていたことから交代寄合の格式を許されたと思われます。
 系図を見ていて目を引いたのは、近藤用可の妻です。「松平越後守家臣小栗美作某女」となってますが、年代からいうと越後騒動で知られるあの小栗美作正矩の祖父小栗重勝の娘ぐらいになりそうです。それから秀用の娘婿である小笠原権之丞というのは、ご存知の方もいると思いますが、徳川家康の庶子の一人と言われる人物で、切支丹となったので家康から放逐され、大坂の陣では豊臣方について夏の陣で戦死したという曰く付きの人物であります。

*旧織田・豊臣系
○出羽矢島8000石 生駒家(元大名)

第6回は、出羽矢島8000石生駒家です。

 この生駒家は藤原北家の末裔で、家広の時に大和国生駒邑に住したるにより生駒を家号とすという。文明・明応の頃(1469~1501)に尾張国丹羽郡小折邑に移り、その子豊政、その子親重(土田政久男)と続き、織田信長に仕えました。親重の二男親正は、織田信長の麾下、本能寺の変後は秀吉に属し、豊臣政権の中老職に選ばれ讃岐の国主となりました。関ヶ原の役では息子の一正を東軍につけ、自らは西軍に加わり、戦後所領は安堵されました。(真田家と同じパターンですね。)
 そんな苦労をして守った讃岐一国でしたが、一正の孫高俊の時に家臣が二派に別れて争う御家騒動(生駒騒動)により出羽にとばされ一万石まで減封され、その後分知により八千石の交代寄合となりました。
 幕末の戊辰戦争では、最初奥羽越列藩同盟に加わりましたが、のち官軍に復して賞典禄をうけ、交代寄合から諸侯へと列しました。そのおかげで華族に列し、旧諸侯に比べると一段低いですが爵位(男爵)も与えられています。
 そんな家柄ですから、さすがに初期の頃は堀家・藤堂家・池田家・土井家などの著名な一族と縁組みをしています。

 ところで、生駒家の先祖ですが、『系図研究の基礎知識 第三巻』の「華族諸家略系表」では建部姓(称藤原姓)になっていましたので、少し調べてみました。
 生駒親重の実父は土田政久ですが、その父土田秀久が「建部源八郎詮秀の曾孫」と書いてあったので、『姓氏家系大辞典』を見てみると、尾張の土田氏は「美濃土田氏の同族か」とあったので美濃土田氏を調べると、「佐々木氏族 山内秀遠の子・備前守秀久、美濃国可児郡土田村にありて、氏を土田とす」とありました。今度は建部を調べてみると、次のような系譜になるようです。(ちなみに播磨林田藩建部家はこの一族のようです。)

 また『寛政重修諸家譜』によると、建部頼重の弟に山内秀定という人物がいて、初め六角家に使えていたが後に斯波家に仕え美濃国に住す、と書いてありましたので、これが『姓氏家系大辞典』でいう山内秀遠の父なのかも知れません。
 以上をまとめると、次のような系譜になりそうです。(推測も入っていますが)

○備中撫川5000石 戸川家(元大名)

第7回は、備中撫川5000石戸川家です。

 戸川氏の出自は、越智姓河野氏、藤原氏、美作菅党など、いろいろ説があるようです。家譜では河野通信の後裔稲葉通弘の四代の孫富川正実が備中児島に住し宇喜多能家に仕え、その子定安を経て、孫秀安戸川に改めたといいますが、おそらくは美作で栄えた菅家党の末裔と思われ、『古代氏族系譜集成』の美作菅家党の系図では、有元氏の庶流に戸川菅四郎佐尚があり、その孫に富川正実があります。
 戸川氏は宇喜多家の重臣でしたが、逵(みち)安が家中騒動により宇喜多家を退去し、関ヶ原の戦いの功により備中庭瀬二万九千二百石を与えられました。その後一族への分知を繰り返し二万石となりましたが、安風の時に無嗣除封となりました。
 その後、安風の弟逵富が名跡を継ぎ、交代寄合となって備中撫川で五千石を領しました。

○美濃岩手5000石 竹中家

第8回は、美濃岩手5000石竹中家です。

 この竹中氏は、秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛尉重治の子孫です。
 竹中氏の出自ですが『寛政重修諸家譜』では清和源氏支流に収めていながら、具体的な系譜は不明ですが、『古代氏族系譜集成』は〔閑話休題〕「竹中半兵衛重治の系」を『諸系譜』によるとして次のように掲げています。

 これによると、竹中氏は豊後の大友氏の支族のようですが、ちょっと信じられません。やはり不明というのが妥当でしょうか?

 半兵衛の子竹中重門は関ヶ原合戦では西軍から東軍に寝返り、小西行長を生捕りにして五千石を安堵され、のち交代寄合になっています。幕末の当主重固は陸軍奉行を務め、鳥羽伏見の戦いの敗戦の後は江戸に戻り、さらに脱走して箱館に渡り、明治二年に降伏しました。このため新政府から朝敵として官位剥奪・領地没収されていますが、養父重明に五百石が与えられています。

○大和田原本5000石 平野家

第9回は、大和田原本5000石平野家です。

 平野家は、賤ヶ岳の七本槍の一人・平野権平長泰の子孫です。賤ヶ岳の七本槍というと、加藤虎之助清正・福島市松正則の二人が一番脚光を浴び、加藤孫六嘉明、脇坂甚内安治、片桐助作且元は以後の歴史のなかでたびたび名前が聞かれますけど、あとの二人、糟屋助右衛門武則とこの平野権平長泰はほとんど知られていないかもしれませんね。(私も名前ぐらいしか知りません) 前者は、関ヶ原役では西軍に属して失領し、この平野権平長泰は大名になれなかったということが原因でしょうか。
 この平野氏は北条高時の子時行に出る横井氏が累代尾張国海東郡赤目城に拠り、宗長の代に平野氏を称したとのことです。長泰の父長治が公家の清原氏船橋良雄(業賢)の二男とされていることは、「清原系図」にも出ているそうですので、事実のようです。
 権平長泰は尾張国津島に生まれ、秀吉の馬廻りとして転戦し、賤ヶ岳の闘いでは七本槍の一人(本当は九人いたようですが)とされ脚光を浴び三千石を賜ります。ところがのちに秀吉の勘気を被り千石に減知され、文禄四年(1595)に賤ヶ岳の旧功で五千石に加増されます。大坂の陣の際は大坂方につくことを家康に告げたが許されず、江戸留守居に留められたそうで、兄の長景は豊臣秀頼に仕え、大坂落城の際には運命を共にしたそうです。
 以後その子孫は代々五千石を領する交代寄合として、幕末を迎えます。しかしその際にうまく立ち回り、明治元年に一万石余で諸侯として認められ、のち華族に列し男爵となっております。

*中世以来の豪族
○常陸志筑8000石 本堂家

第10回は、常陸志筑8000石本堂家です。

 今回の本堂家は、今までの諸家に比べると歴史上著名な先祖を持つわけでもなくあまり知られていない家系だと思いますが、あの源頼朝の子孫だという家伝があります。
 家伝によると、源頼朝が伊豆に流刑中、伊東祐親の娘との間に千鶴丸が生まれたが祐親はそれを聞き怒り、千鶴丸を白滝の淵に沈めたが、乳母が密かに助け、陸奥に逃れて南部の和賀に住し和賀の御所と称したとのことですが、『大日本史』でも既にこのことを疑っています。奥州和賀氏の一族であるのは明白のようで、この和賀氏の出自は、小野氏あるいは清和源氏多田氏流といわれています。
 戦国期の本堂氏は、戸沢氏や小野寺氏に挟まれて微妙な立場でしたが、天正18年(1590)忠親は小田原に参陣し豊臣秀吉に本領の内八千九百八十石余を安堵され、関ヶ原の戦いに際しては徳川方につき、慶長七年(1602)常陸国志筑八千五百石に移され、子孫は交代寄合となりました。
 明治元年には諸侯に列し、華族・男爵となりました。

○近江朽木4770石 朽木家(丹波福知山藩本家)

第11回は、近江朽木4770石朽木家です。

 今回の朽木家は前回の本堂家に続き、中世以来の家柄を誇る家系です。近江佐々木氏の一族で六角家の祖泰綱、京極家の祖氏信の兄高信が近江国高島郡高島を領し高島氏を名乗り、高信の次男頼綱の子頼信が同郡横山荘を与えられ横山氏を、氏綱が田中荘を与えられて田中氏を、そして末弟の義綱が朽木荘の地頭職を得て朽木氏を称したのにこの系統は始まります。
 朽木荘は山間の荘園でしたが、京都に比較的近く、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたこともあって早くから開け交通上の要衝としても重視されていました。
 そうしたことから朽木氏は近江の守護であり同じ佐々木一族である六角家に属しながらも、足利将軍家とも深い関係があり、将軍義晴・義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがありました。
 戦国末期の当主元綱ははじめ六角氏に仕えた後、朝倉氏・足利義昭・織田信長と次々と仕える相手を変えていますが、これも近江という京都に近く政治情勢の変化が激しい地方の小大名としては致し方ないでしょう。元綱はその後豊臣秀吉に仕えており、関ヶ原の戦いでははじめ西軍に属し途中で東軍に通じたが、その際に事前の了解がうまくいっていなかったのか、戦前の二万五千石から九千五百石余へと減封されています。
 元綱の死後、所領は三分され、長男宣綱は六千石余、次男友綱・三男稙綱も分知されて旗本となり、稙綱はその後若年寄まで出世し、子孫は丹波福知山藩三万二千石の大名となっています。
 本家である宣綱の子孫はその後分知等で四千七百七十石となり代々交代寄合として幕末に至りました。

*旧守護大名系
○但馬村岡6700石 山名家

第12回は、但馬村岡6700石山名家です。

 今回の山名家は、説明するまでもなく今までの中でも随一の名族で、清和源氏の名門です。(次回紹介予定の最上氏とともに、交代寄合の中で国主並の「屋形」号を許されていることからもわかりますが...)
 源義家の子義国は、下野国足利庄に住み、義国の長男義重は上野国新田庄を譲られて新田氏の祖に、次男義康は足利庄を譲られて足利氏の祖となりました。新田義重の長男(三男とも)義範は上野国山名郷に住み山名氏の祖となりましたが、源平の戦いでは軍功をたてて伊豆守に叙任され、清和源氏の一族の中でも頼朝に信頼されていました。
 しかし、その後は振るわずほとんど歴史の表面に現れることもありませんでした。山名氏が頭角を現すのは、時氏の代に至ってからです。時氏とその一族は南北朝の動乱を期に発展し、一時は十一カ国の守護職を歴任し、幕府にあっては侍所所司を勤め「六分一殿」と呼ばれるほどの勢威を誇りました。
 その後、明徳の乱によって領国を三国に減らされましたが、嘉吉の乱の戦功により領国を増やし、持豊の代に再び勢力を盛り返しました。
 山名持豊(宗全)は将軍家の継嗣争い等をきっかけとして細川勝元と対立し、遂に応仁の乱を引き起こし、西軍の総帥として東軍の勝元と対陣しました。持豊と勝元はその後相次いで没し、山名政豊と細川政元の間で和議が成立し応仁の乱が終結したのは七年後のことでした。
 さしもの名族山名氏も、戦国時代になると衰退の一途をたどり、豊国の代には毛利氏に属して鳥取城主となっていましたが、秀吉の大軍に囲まれあっさりと降伏、その後は秀吉のもとで御伽衆を務めました。
 徳川の世になると、徳川と同じ新田一族のよしみで但馬に六千七百石を賜り交代寄合となり、明治元年には一万一千石で諸侯に列し、男爵に叙爵されました。

○近江大森5000石 最上家

第13回は、近江大森5000石最上家です。

 今回は、前回の山名氏と並び国主並の「屋形」号を許されている清和源氏の名門・最上氏です。
 最上氏は、足利氏の支流斯波氏の分家で、斯波高経の弟・家兼は、南北朝初期に奥州北朝方の四探題の一人として奥州に下向し(他の三探題は、吉良・畠山・石塔の三氏でいずれも足利氏の分族)、「大崎氏」を称しました。
 最上氏の祖・兼頼は家兼の二男で、羽州探題として最上郡山形に入部し「最上氏」を称しました。二代直家は屋形号を許され「最上屋形」と称しましたが、以来、最上氏は庶子を各地に分封し、広範な惣領制を敷いて統治しました。室町中期以降は、伊達氏の武威が強大となり、義定の頃は最上宗家は伊達の傀儡政権化し、これを不満とする一族・国人衆の反抗が相次ぎました。
 義守の代には、長男・義光との不和が表面化し、義守は次男・義時の相続を画策しましたが、宿老氏家伊予守の諫言によって義守の隠居、義光の相続が実現しました。
 義光は、当主の座に着くと一族・諸将に対する統制を強めたため、弟・中野義時を擁する反主流派が蜂起し一進一退の合戦が繰り広げられた。和解後は、反旗を翻した一族に対し怨みを抱き、中野・天童・東根・上山等の一族を次々に粛清して滅亡させていきました。
 豊臣秀吉の全国統一以降は、出羽山形24万石を領し、関ヶ原合戦後は57万石(52万石とも)の大封を領することになりました。彼は、娘の駒姫を秀吉の養子秀次の側室に差し出したり、次男の家親を徳川家康に仕えさせたりと、家を保つための努力をしましたが、それが裏目に出て、駒姫は秀次に連座して斬殺され、長男義康は讒言され高野山で害され、跡を継がせた次男家親も36歳で変死を遂げた。
 家親の跡を義俊が継いだが、最上一族の長老達のやまざる派閥抗争が原因で、元和八年(1622)最上家は改易され、義俊は近江に移され一万石を領しました。また、義俊も26歳の若さで死去し、跡を継いだ義智が2歳だったため、三河の五千石は削られ、近江の五千石を以後代々領しました。義智一代は高家をつとめましたが、以後は交代寄合表御礼衆として、明治を迎えました。
 現在でも御子孫は滋賀県(旧近江国)に在住とのことです。

*大名の分家・一族
○越前白崎3000石 金森家(美濃郡上八幡藩分家、本家は改易後旗本として存続)

第14回は、越前白崎3000石金森家です。

 今回の金森家は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた金森長近の末裔です。宗家はのち美濃郡上八幡藩主となり、頼錦の時に失政により改易(子頼興の時に旗本として再興)となった家です。
 交代寄合となった金森家は、金森可重の五男重勝を祖とし、最初は宗家の所領の内三千石を領していましたが、宗家が改易されたあとは越前国南条郡白崎三千石に移されました。縁戚関係を見ると、本家あるいは一族の金森家よりの養子が多いですね。あと土井・本多・森川・井上・太田など譜代系の一族との縁組みも意外と多いことに気づきます。

○陸奥横田5000石 溝口家(越後新発田藩分家)

第15回は、陸奥横田5000石溝口家です。

 今回の溝口家は、越後新発田藩十万石溝口家の分家です。
 溝口家は甲斐源氏逸見流の子孫といわれています。秀勝は初め丹羽長秀・長重に仕えていましたが、のち秀吉に仕え加賀大聖寺城主から越後新発田城主となりました。
 この家は新発田藩二代宣勝の二男宣秋を祖とする家で、宣秋が父の遺領の内から六千石を分知され成立しました。二代宣就の時に采地を稟米に改め、更にのち陸奥伊豆に於いて知行地を受けて、陸奥横田に居所を営み、代々六千石を知行していました。

○豊後立石5000石 木下家(豊後日出藩分家)

第16回は、豊後立石5000石木下家です。

 今回の木下家は、その姓でお察しの通り豊臣秀吉ゆかりの家系です。秀吉の正室北政所お禰(寧々)の兄家定は、秀吉との縁で木下家定と名乗りましたが、もともとは桓武平氏桑名氏族の杉原氏でした。
 しかし従来は家定・お禰の母方の祖父杉原家利の出自や、家定の実父定利と家利の関係ははっきりわかりませんでした。これについては『古代氏族系譜集成』では上記のように隆盛と隆利を挿入することによって伊勢平氏の杉原氏の流れであることを解明しています。(但し、これが真実であるかどうかについてはまだ研究の余地があるようですが)
 家定は妹との縁で秀吉によって取り立てられ、羽柴氏の称と豊臣姓を賜り、播磨姫路二万五千石を領しましたが、関ヶ原合戦後、備中足守に移封されました。嫡男勝俊は、若狭高浜六万二千石を領しましたが、関ヶ原合戦の際に任務を放棄した罪により所領没収となり、二男利定が父家定の所領を継ぎました。また三男延俊は、関ヶ原の功により豊後日出三万石を領し、利定・延俊の子孫が近世大名として明治に至りました。
 今回の立石木下家は、上記延俊の四男延次を祖とします。延次は父の没後遺領の内五千石を分知され、立石を居所とする交代寄合となりました。

 普段であればこれで終わるのですが、実はこの立石木下家の祖・延次にはちょっと面白い伝承があります。実は延次は、大坂の陣後捕らえられて処刑されたとされている豊臣秀頼の息子国松の後身だというのです。
 私がこの伝承を初めて知ったのは、『豊臣家存続の秘密』(日本文芸社、前川和彦著)という本によってです。この本によると、立石木下家の宗家・豊後日出藩木下家には一子相伝の秘事があって、それは秀頼・国松父子は大坂で死んではおらず、鹿児島に逃れ、国松はその後縁者である木下延俊を頼って日出に来て、延俊の子・縫殿助延次(延由)となったというのです。
 どこまで本当の話なのかはわかりませんが、非常に興味深い話です。
 立石木下家は11代俊清の時に明治を迎えますが、12代俊明(俊朗)が大正五年に没し、彼の代で同家は断絶したと同書には書いてあります。
 しかし、『旅とルーツ』第78号によると御子孫がいるという話で、現在は豊臣姓を名乗っておられると書いてありましたが...

○備中成羽5000石 山崎家(讃岐丸亀藩分家、本家は断絶)

第17回は、備中成羽5000石山崎家です。

 今回の山崎家は、以前出てきた朽木家と同じく近江佐々木氏を祖とする一族です。近江佐々木氏というと源平時代に活躍した佐々木秀義と息子たち(定綱・盛綱・高綱など)、そしてその子孫である六角・京極家が著名ですが、今回の山崎家は秀義の叔父(あるいは秀義の叔父行定の孫とも)家行から出ています。家行は愛智氏を名乗り、その五男憲家山崎氏の祖となります。
 憲家は、犬上郡山崎を名字の地とし、室町時代には守護六角氏の被官となりましたが、堅家は信長・秀吉に仕え旧城近江山崎より摂津三田に移り二万三千石を領しました。嫡子家盛は関ヶ原合戦では東軍に属し、因幡若桜三万石へと移りました。家盛の子家治は、備中成羽三万石、肥後富岡四万石、讃岐丸亀五万石と次第に加増されましたが、家治の孫治頼が夭折し山崎本家は改易となってしまいました。
 しかし、家治の次男豊治は讃岐仁保にて五千石を分知されており、豊治の子孫は五千石で存続を許され、のち旧縁の備中成羽に移り明治維新を迎えました。明治元年には新田等を会わせ一万二千七百四十六石余と高直しされ、諸侯に列しまし、のち男爵位を賜りました。

○肥前富江3000石 五島家(肥前福江藩分家)

第18回は、肥前富江3000石五島家です。

 今回の五島家は、肥前福江藩主五島家の分家になります。五島氏は元は宇久氏と言い、松浦党に属する水軍の一つでした。『寛政重修諸家譜』では、上記の系図のように清和源氏の新羅三郎義光の後裔武田次郎信弘が五島宇久嶋に山城を築き「宇久肥前守家盛」と改称し、松浦党の佐志扇を養子にしたとありますが、『寛永諸家系図伝』では同じく武田氏の庶流と称えながらその内容に相違を見せています。つまり、武田太郎信義の四男兵衛尉有義の後裔が代々肥前国巨勢に住み、武田義政の二男肥前守盛の時に宇久氏と改め、その末裔大和守純玄が五島氏に改めたとしています。
 このように宇久氏=五島(五嶋)氏の出自が不明確なのに対し、鈴木真年の『華族諸家伝』では、宇久氏を物部氏としており、『古代氏族系譜集成』に掲げられた「宇久氏系図」では末羅国造物部連多伊古に出たとし、その後裔物部直宣は平家に属して宇久大夫と号し、平家没落後"肥州"に蟄居したとあり、以下次のようになっています。

 ともかく、宇久氏を名乗っていた純玄は、豊臣秀吉の高麗陣に参加し、住地により五嶋氏と改め、その養子玄雅以降は福江藩主として明治に及びました。ところで、玄雅の曾孫盛勝は明暦元年(1655)に襲封した時は11歳であったため、幕府は叔父の盛清を後見役とし、福江藩領から三千石を与え、富江に陣屋を構え、交代寄合として明治維新に至りました。

 慶応四年(1868)、本藩福江藩主五島盛徳は王政復古による今後の警備体制強化の出費のため、富江領三千石を福江領に合併したい旨政府に願い出ました。富江領最後の領主は五島銑之丞盛明でしたが、まもなく福江藩の全五島支配と領地没収の代わりに蔵米三千石を賜るという沙汰を受けました。驚いた富江側は福江側と激しい対立と引き起こし、次第に一揆化の様相を帯びるに至りました。
 政府は説得に努めましたが、なかなか順調には進まず、翌明治二年、政府は嘆願に基づいて調査を行い、その結果により裁断を下しました。それは富江領の内千石の復領を認めるというものでしたが、実は行政権を持たないもので、福江藩主の五島列島全島支配はほぼ成功しました。
 同年九月、政府は領地争いに敗れた五島銑之丞に北海道後志国磯谷郡内尻別川(現寿都町)に支配地を与えるという沙汰書を出しています。政府は手にあまったものを北海道に移住させることで国内の平穏をはかろうとしたのでしょうが、銑之丞はその後四年八月の支配罷免まで、調査・移住の形跡はなく名目だけの分領地でした。
 ちなみに当時北海道には五島銑之丞と同じく分藩運動に敗れた阿波蜂須賀藩の重臣稲田邦植や、戊辰戦争の敗者である仙台伊達家の重臣伊達邦成・伊達邦直・片倉邦憲・石川邦光、会津士族などが入植しています。

○日向飫肥2000石 伊東家(日向飫肥藩分家)

第19回は、日向飫肥2000石伊東家です。

 この伊東氏は、元工藤氏を称し、曽我兄弟に討たれた工藤祐経の末裔になります。祐経は建久元年(1190)に日向国の地頭職に任じられ、代々受け継ぎました。鎌倉幕府滅亡後、貞祐は北条時行に属しましたが、のち足利尊氏に従い、以後伊東氏は着々と日向に地盤を築き、島津氏と対立する勢力に発展しました。
 義祐の頃には伊東氏の勢威は日向のほぼ全域に及び、わずかに県に拠る土持氏の領域と、諸県郡の南半部及び宮崎郡の南部を領する島津氏、それに諸県郡西端部に北原氏が拠るに過ぎなくなっていました。しかし伊東氏の隆運は永続せず、元亀3年(1572)島津軍と木崎原で戦って大敗、以後伊東氏は衰運に向かい、天正5年(1577)、島津軍の強襲に耐えかねた義祐は、佐土原城を放棄して大友宗麟を頼り、その後各地をさすらい、天正13年和泉堺で没しました。
 伊東氏はこうして没落したが、義祐の子祐兵は秀吉の九州征伐の案内役として先陣をつとめ、その後日向飫肥城を賜りました。以後代々飫肥藩主として明治に至りました。
 今回の交代寄合伊東氏は、祐兵の孫祐久の三男祐春を祖とします。明暦3年(1657)に父祐久の分知をうけ交代寄合となりました。以後代々、飫肥を居所として明治に至りました。

○播磨福本6000石 松平(池田)家(備前岡山藩分家、元大名)

第20回は、播磨福本6000石松平(池田)家です。

 ご覧の通り、この池田家はなかなか複雑な家系です。『寛政重修諸家譜』では、清和源氏頼光流に収め、頼光五代の奉政を祖としていますが、『尊卑分脈』の紀氏系図では、紀長谷雄の子淑望と美濃国池田郡領主惟将の娘の間の子維実に始まり、その子孫奉貞の養子として奉政の名が見え、源仲政子とあり同書の清和源氏系図でも確認できます。
 ですから、それらから考えると紀淑望池田維将の娘を娶って維実を生み、維実は母姓の池田を称したのがこの池田氏の始まりのようです。奉政以後の池田氏に、「紀八」「紀十郎」等の通称が見えることからも、この一族が紀姓と認識していたことがわかります。維実の外祖父維将は古代氏姓の池田首の後ではないかと思われます。
 奉政の子奉光以後は鎌倉御家人となりましたが、南北朝期にまた謎があります。『群書類従』「紀氏系図」(上記系図の●)では奉光の子孫奉任の弟長氏の子に孝長・長行・盛氏・教正の四子を掲げ、教正に「実は楠正行の子」と注してありますが、『古代氏族系譜集成』(上記の○)では奉光の弟望政の系統の教依が楠木正行の子を養い教正と名乗らせたことになっています。
 ともかく、それ以後は教正――佐正――家正と続き、家正の長子充正の系統は、摂津池田城主として続き、勝政の代に滅んでいます。
 近世大名家の池田氏は家正の三子恒正の系統とされていますが、何かしらの作為があるようです。恒利が実は滝川貞勝の男となっていますが、ということは滝川一益と池田恒興は従兄弟同士ということになります。ですが、それについて池田氏の家譜で全く触れていないというのもちょっといぶかしいことです。

 さて恒興は、生母養徳院が信長の乳母であった縁で、信長に仕えることとなりました。その後、信長に従い各地を転戦、荒木村重を倒したあとは摂津の有岡城主となりました。本能寺の変後は秀吉の招きに応じ、賤ヶ岳の合戦後は美濃岐阜城主となりました。小牧長久手合戦では徳川軍に敗れ、女婿森長可とともに討ち死にし、次男輝政が跡を継ぎ、三河吉田十五万二千石を領しました。
 輝政は、関ヶ原合戦では東軍に属し、家康の次女督姫を娶ったこともあって、戦後播磨姫路52万1300石に増封され、次男忠継の領する備前岡山28万石、三男忠雄が領する淡路洲本6万3000石を合わせ、87万石を領し「西国将軍」と称せられました。
 その後池田家は、備前岡山31万5000石、因幡鳥取32万石をはじめとしたいくつかの系統に分かれました。今回の交代寄合、福本池田(松平)家は輝政の四男輝澄を祖とする系統になります。輝澄は家康の娘督姫を母とします。兄忠継の没後、その遺領より3万8000石を分与され、播磨山崎藩主となりました。寛永8年に弟の赤穂藩主政綱が没し、その遺領の内3万石(2万5000石とも)を与えられ、6万8000石となりました。
 しかし、領地の拡大とともに家臣団が増加し、新旧藩士の対立が発生。小頭・足軽の金銭上の対立から新旧家老の対立に発展、林田藩主建部氏の調停も不調に終わり、家老伊木伊織以下十余名の藩士とその家族が城下を立ち退く騒ぎとなりました。伊木伊織等は切腹、輝澄は幕府から郡邑不治の罪を問われ、鳥取藩主池田光仲に「御預け」となり、光仲の領地の内、堪忍分として因幡鹿野一万石を与えられて蟄居となり、寛文2年に没しました。
 嗣子政直は遺領を継ぎ、同3年に播磨国内に一万石に改められ、神埼郡福本に居所を移しました。政直は寛文五年没しましたが、嗣子なきため遺領を弟政武に七千石、政済に三千石分知しました。
 政武以降は七千石(後分知し六千石)の交代寄合として続きましたが、政武から六代目の喜通の時に維新を迎え、高直しと宗家鳥取藩からの蔵米を差し加え1万1573石となり、諸侯に列しました。同年7月、子徳潤が襲封しますが、同3年には廃藩し、鳥取藩に合併されました。
 徳潤はのち男爵を授けられ華族に列しましたが、家産を傾け華族の対面維持が不能となったため、明治二十七年爵位を返上し、晩年は福本に帰住しました。