*那須衆
○下野福原1000石 那須家(元大名)
○下野佐久山3500石 福原家
○下野芦野3016石 芦野家
○下野森田1300石 大田原家
*美濃衆
○美濃多良2300石 高木(西)家
○美濃多良1000石 高木(東)家
○美濃多良1000石 高木(北)家
*信濃(伊那)衆
○信濃阿島2700石 知久家
○信濃伊豆木1000石 小笠原家
○信濃山吹1115石 座光寺家
*三河衆
○三河松平440石 松平(松平郷)家
○三河大崎607石 中嶋家
「交代寄合衆」十二家は、那須衆・美濃衆・信濃衆・三河衆をあわせて「四州」と呼ばれますが、多くが中世以来の豪族の子孫で、一応全ての家が譜代に所属していたそうです。相対的に「表御礼衆」に比べると小禄ですが、領内統治に関しては完全な領主権を行使していました。
第21回は、下野福原1000石の那須家です。


那須家は下野の豪族として知られています。源平の合戦の一つ、屋島の戦いで扇の的を射て喝采を浴びた那須与一宗隆の名前はよく知られているでしょう。
この家の出自ですが謎に包まれています。『続群書類従』の「那須系図」「千本系図」などでは、藤原道長の子長家の子に通家をおきその子孫とするなどし、すべて藤原姓としていますが、どうやらそうではなく古代の那須国造の後裔のようです。資房以降はどの系図でも一致しますので間違いないところだと思いますが、それ以前にはどの系図にも問題があるようです。上記の系図のはじめの部分は『古代氏族系譜集成』に拠りましたが、一番はじめの「大臣命」は、阿部氏族の建沼河別命の孫のようです。
さて、那須資隆には十一人の息子がありましたが、十郎為隆と与一宗隆だけが源氏に従い(のち為隆は義経の命に背いた)、その他は平家に属したため宗隆が家督をました。宗隆は戦功の賞として、丹波国五賀庄、信濃国角豆庄、若狭国東庄宮川原、武蔵国太田庄、備中国桧原庄を賜り、宗隆改め資隆の跡は兄の五郎之隆、そして宇都宮朝綱の子頼資が承け継いで栄えました。
しかし資之の代には弟の沢村五郎資重と不和となり、資重は烏山に分立し、資之流の上那須家、資重流の下那須家に分かれました。上那須家の四代資親の跡は養子の資永が継ぎましたが、弟で実子の資久と争いを生じて両者とも死に、上那須家は断絶します。そして下那須家の資房が跡を継ぎ、上下両那須家を統一することになります。
資房が両那須家を統一した後、那須氏は周辺の宇都宮氏、佐竹氏、芦名氏、白河結城氏などと戦って勢力を保ちましたが、資晴は小田原遅参により所領を没収され、かろうじて那須郡内で五千石を領しました。
その子資景は、その後加増され下野福原にて一万四千石余を領し大名に復帰しました。のち子資重が無嗣で没したため封地を収められましたが、家名が絶えることを惜しまれ隠居資景に五千石が与えられました。
資景は四代将軍家綱の叔父に当たる増山正利の弟資弥を養子として家名を継がせ、資景はその後加増され一万二千石を領し大名に復帰しました。そしてさらに八千石加増され烏山城を賜い二万石を領しました。
資弥没後、養子(増山正利の孫)資徳が跡を継ぎましたが、養父資弥が実子資寛がありながら資徳を養子にしたことを咎められ所領没収、資徳は実父信政に預けられました。彼はその後許され寄合に列し、采地千石を賜い交代寄合那須衆の上座に列し、その後幕末まで続きました。
第22回は、下野佐久山3500石の福原家です。

今回の福原家は、前回の那須家と深い関わりのある家系です。その祖は那須与一宗隆(資隆)の兄福原四郎久隆に溯ります。
久隆以降、本家の那須家から養子が入ったりもして、那須家とは深い関わりを持ち続けました。この福原家を含め、那須一族の芦野家・千本家・伊王野家、重臣の大関家・大田原家、そして本家那須家を加え、これを那須七騎と呼びましたが、これらは非常に独立性が強かったようです。
それは小田原の役の時の対応にあきらかで、本家那須家が遅参して所領を没収されたのに対し、大田原家・大関家は率先参加し本領安堵され近世大名として存続しています。
第23回は、下野芦野3016石の芦野家です。

芦野家は福原家と同じく那須家の一族になります。那須資忠の四男の芦野三郎資方を祖とし、代々那須家の重臣として仕え、那須七騎の一つに数えられました。(但し『古代氏族系譜集成』では那須権守通経の弟芦野三郎大夫通守を祖としています。)
小田原の役では、本家那須家は遅参し所領を没収されましたが、芦野盛泰は小田原に赴き豊臣秀吉に謁見し、奥州仕置きの際は芦野に茶亭を構え諸軍を労うなどし秀吉より腰刀及び黄金を与えられています。
その子政泰は、芦野にて千百石を領し、のち千六百石を加増され二千七百石を領しました。その子資泰の頃より代々采地に住し交代寄合となりました。その後新墾田を加え三千十六石を知行し幕末に至りました。
第24回は、下野森田1300石の大田原家です。

大田原家は、前三者(那須家・福原家・芦野家)とは違い那須一族ではありません。その祖は武蔵の武士団として知られる武蔵七党の一つ丹党であるといわれています。
一般に丹党は宣化天皇の末裔である多治比(丹治比)姓であるとされていますが、『古代氏族系譜集成』では紀国造の末裔大丹生直(オオニウノアタイ)の後で、丹党の丹は丹治比氏を略したのではなく丹生氏を略した丹であるとしています。
この丹党は武蔵の西北部、特に秩父郡に広がりました。その中でも特に勢力があったのは、新里丹三大夫恒房の子安保二郎実光より起こる安保氏です。実光は源頼朝の挙兵以来付き従い有力御家人となりました。
那須七騎の大田原家・大関家はこの安保氏の後といわれています。しかしその祖忠清は『系図綜覧』所載の「武蔵七党系図」には名前がなく、そのつながりは曖昧です。
『寛政重修諸家譜』では忠清の子孫康清が下野国那須郡に移り住んだとありますが、この忠清から康清そして資清に至る系譜も議論があるようです。ここでは『系図研究の基礎知識 第一巻』所載の「武蔵七党系図」によりました。
いずれにしても康清が那須郡に移って後は那須家に仕えて頭角を現し那須七騎の一つにまで数えられるようになりました。那須家が分裂したときには上那須家についたようですが、上那須家が内紛を起こした際には、胤清は那須資永を攻めてこれを滅ぼしています。
その子資清はなかなかの人物だったようで、自分の長男高増に大関家を継がせ、二男資孝を福原家の養子とし、娘を那須政資の夫人として勢力を固めました。その後を継いだ縄清は、芦名・白河結城・佐竹・宇都宮氏らの那須侵入には主家を助けて防戦に努めました。
小田原の役では開戦前に晴清が沼津まで赴いて秀吉に謁見して所領を安堵され、主家那須家が遅参して所領を没収された後は、主家那須家に代わり那須衆を主導することとなりました。関ヶ原の戦いでは上杉軍の押さえとしての役割を果たし、幕末まで一万一千石の大名として存続しました。
交代寄合となったのは晴清の弟増清を祖とする家で、増清は関ヶ原以前から徳川家に仕え小姓をつとめていました。関ヶ原の際も皆川隆庸、服部正成に属して大田原城を守りました。この時に、那須郡内で千石を賜い、のち加増され千五百石となりました。二代政継以後は代々采地に住し、年毎に参勤交代をし、交代寄合衆に列し、幕末まで続きました。
以上、那須衆四家は古来より那須七騎として比較的堅い結束力を保ち、明治維新の際の下野戦争の際にも、同じ那須党に属した黒羽藩大関家等と共に新政府側として行動したそうです。
第25回は、美濃多良2300石の高木(西)家です。

今回の高木(西)家よりは「美濃衆」と呼ばれる諸家になります。この高木家は清和源氏頼親流と言われています。頼親の子孫は頼親が大和守となり、以後大和を地盤としたことから大和源氏と呼ばれていますが、その子孫の高木判官代信光が高木家の祖と言われています。この子孫では河内丹南1万石の大名となった三河の高木氏があり、この美濃の高木氏もそれと同じく信光の子孫を称していますが、『寛政重修諸家譜』では貞政以前の系譜は不明で、その出自は明かではありません。
貞政の孫貞久は斉藤道三、そして織田信長に仕え美濃駒野城主を務めましたが、その子貞利も信長に仕え今尾城主となり、長篠の戦い等で軍功を重ねました。信長の死後は信長の次男信雄に仕えましたが、信雄の改易後は甲斐の加藤光泰の許に寓居し、後召し出されて家康に仕え上総にて千石を領しました。関ヶ原以後は旧領の美濃で二千石余を知行し、一族の北家・東家とともに多良郷に住みました。
寛文8年(1668)以降は毎春二家が参府し、一家が在国するという方法で交互に参勤交代を行いました。高木家をはじめ「四州」と呼ばれた交代寄合衆は、みな在府期間が短く、那須、中島、松平、岩松家などは12月に参府し新年を賀して帰国、信濃衆も4月に参府し翌月帰国したそうです。
また交代寄合衆は中世以来の豪族の子孫がほとんどで在地性が強く、中世武家の特色をよく留めているそうです。江戸時代の史料でも交代寄合ではなく美濃郷士などと記したものがあるそうです。
第26回は、美濃多良1000石の高木(東)家です。

この高木(東)家は前回の高木(西)家の一族です。高木貞久・貞友親子は斉藤道三、織田信長に仕え、信長の死後は信長の三男信孝に仕えましたが、信孝死後は所領の美濃駒野城に閑居してしまいました。貞久の死後は貞友が家督を継ぎ、信長の次男信雄に属しましたが、信雄が配流されると甲斐の国に赴き加藤光泰の許に寓居し、朝鮮の役では光泰に属し渡海しました。
帰朝後、家康に属し上総国望陀郡内六十石余の采地を賜い、のち加恩され五百石を知行しました。関ヶ原後は美濃多良郷にて千石余を知行し、以後代々多良郷に住し維新を迎えました。
なお貞久の家督を継いだのが貞友であることから『寛政重修諸家譜』ではこの系統を嫡流として載せていますが、『別冊歴史読本 徳川八万旗総覧』所載の藤本正行氏の「参勤交代をした旗本たち―交代寄合―」では、西家を本家としていますので、それに従いました。
第27回は、美濃多良1000石の高木(北)家です。

この高木(北)家は、高木貞久の孫で養子の貞俊を祖としています。貞俊ははじめ織田信長に仕え、信長死後はその次男信雄に属し、のち美濃国石津郡安田城を賜りました。
信雄が配流されると、一族とともに甲斐に赴き加藤光泰の許に寓居し、のち徳川家康に属し、上総国望陀郡内六十石余、そして武蔵・相模国内にて五百石を加増されました。関ヶ原後は美濃多良郷にて千石余を知行し、以後一族三人で隔年に参府するのを代々例とし、明治維新に至りました
第28回は、信濃阿島2700石の知久家です。

知久氏は信濃伊那郡の小豪族で、『寛政重修諸家譜』では清和源氏満快流を称し、清和源氏の祖源経基の子満快の子孫中津小太郎頼継を知久氏の祖としていますが、どうもその出自は諏訪上社・下社の大祝家と先祖を同じくする他田直に溯るようです。
他田左衛門尉信隆の三男信貞が上社大祝敦光の子知久十郎敦俊の養子となり知久右衛門尉を称し、伊那郡の土豪として続きました。南北朝の頃は南朝に属しました。頼元は武田信玄と戦い没落しましたが、その子頼氏は信長・家康に仕え、その子則直の時に采地三千石を賜い交代寄合に列しました。
昌直の代に叔父直次に三百石を分知し、二千七百石で明治維新まで続きました。
ところで、文政12年(1829)5月に、知久頼衍は江戸からの帰途、天竜川の竜ノ口の渡し場を渡ろうとしたところ、雨降りで増水していたため頼衍の駕籠とお供の人々や道具類を満載した船が転覆し、頼衍自身は百姓に辛うじて助けられたそうです。この話は「知久の殿様川流れ」として語り伝えられているそうです。
第29回は、信濃伊豆木1000石の小笠原家です。


交代寄合シリーズも「四州」の方に入ってからはマイナーな一族が続きましたが、久しぶりにメジャーな一族の登場です。(といっても分家ですが)
小笠原家というと清和源氏の大族として知られています。その祖は甲斐の武田氏の祖武田信義の弟加賀美遠光に遡り、その子長清が甲斐国巨摩郡小笠原に住んで小笠原を称したのに起こりました。
この一族はすこぶる多く、全国的に広がっていますが、その系図は異同が多く相当作為が加わっていると思われます。ともかく鎌倉時代の小笠原氏のことはあまり明かでなく、長忠の子孫が室町時代になって信濃国の守護をほぼ世襲するようになったので自ずから嫡宗家と見なされるようになったようです。
長忠の子孫は守護所を深志城に置いたので「深志小笠原氏」と言われますが、貞宗は足利尊氏の部将として活動し、以後断続はあったものの小笠原氏が守護職を世襲しました。
長基の子の代から深志家と松尾(伊那)家の二流に分かれ、深志家は長時の時に武田信玄に敗れて所領を失いましたが、その子貞慶は徳川家康に仕え、その子孫は豊前小倉十五万石をはじめ数家の大名を出し栄えました。
一方、松尾家は信嶺の時に武田信玄に仕え、その一部将となりましたが、武田家滅亡後は徳川家に仕え、その子孫は越前勝山二万二千石の大名となりました。
交代寄合となった小笠原家は、この勝山藩小笠原家の分家で、信嶺の弟長臣を祖とします。長臣は兄信嶺とともに徳川家康の麾下に入り、関ヶ原後、信濃伊那郡にて千石の采地を賜り、伊豆木を居所として交代寄合に列しました。
以後、代々幕末まで続きましたが、この小笠原家は江戸の拝領屋敷はなく、木曽家の旧臣で尾張藩の家臣となった千村家の屋敷内を借地していたそうです。
また系図を見ても、千村家と同じく木曽家の旧臣で尾張家の家臣となった山村家や、同じ「信濃衆(伊那衆)」である知久家・座光寺家との結びつきが強いことがわかります。
また、この小笠原家の伊豆木陣屋は保存状態が良く、中世以来の山城のふもとに石垣をめぐらせた居館を構え、書院なども残っているそうです。
第30回は、信濃山吹1115石の座光寺家です。

今回の座光寺家の出自は、諏訪氏の族であるとも、清和源氏片桐氏族であるとも言われています。
また『寛政重修諸家譜』では鎮西八郎為朝の子大嶋二郎為家が伊豆国大島を去り、信濃国伊那郡下条に住し、のち同郡座光寺村に移り座光寺を称したとしてますが、なぜか藤原氏支流に収めています。
いずれにしても信濃国伊那郡を本拠とする小豪族の出で、為清の代には武田氏に属していましたが、その没落後徳川家康に仕えるようになり、為清の子為時は家康の関東移封にも従い上野国内で九百五十石余を知行しましたが、関ヶ原後、信濃国伊那郡にて千石を賜い、山吹を居所としました。その後千四百十石余となりましたが、三百石を分知し千百十石余で維新を迎えました。
幕末の座光寺家は、家老の片桐為淳が平田篤胤の門人となって以来、家中に勤王思想が浸透し、鳥羽・伏見の戦いが起こるや否や朝廷に献金し、当主為[巛+邑]の子為永率いる四十九人の座光寺隊は官軍の東山道軍に属しました。途中の宿場では歓待されるが、これは座光寺という公家風の名前の一団が菊紋の旗を掲げているのでよほどの大物と勘違いされたためだったようです。
結局、彼らは一度も戦闘に参加することなく、江戸に入った後は山吹藩を称することを許され、江戸城を警備するなどしていました。しかし、いったん藩として認められたはずの座光寺家は、明治四年の廃藩置県の際には千百石から七十五石に減封され、一般の旗本同様の処分を受けて解体されてしまったそうです。
第31回は、三河松平440石の松平(松平郷)家です。

今回の松平郷松平家は、松平太郎左衛門家とも言われ、三河松平の庶宗家です。その祖は三河松平の祖松平親氏の庶長子で、叔父泰親と弟信光が岩津・岡崎の両城を築き移ったのちは松平家の故地加茂郡松平郷を譲り受け代々住したそうです。
宗家に従い、たびたび軍に加わり功績を挙げていますが、二代長勝・三代勝茂・勝茂の子信茂・四代信吉・信吉の子勝吉・五代親長の子重長と討ち死し、六代由重は戦いの傷により軍事に従うことが出来ず松平郷に閑居するなどして、機会に恵まれず、結局四百四十石余の微禄ですが、交代寄合として残りました。
また江戸の拝領屋敷はなく、参府の際は分家または奥殿(のち田野口)の大給松平家に宿したそうです。
ちなみに松平郷松平家の末裔で大正・昭和前期の当主信博氏は殿様作曲家として知られ、映画主題歌や伴奏音楽などに多くのヒット曲を出したそうです。
第32回は、三河大崎607石の中嶋家です。

中嶋家は、俵藤太藤原秀郷の後胤、波多野義通の子義職の子(或いは孫)中嶋太郎義泰の末孫と言われています。
『寛政重修諸家譜』には与五郎政成から記述があり、政成は信長の娘徳姫が家康の長男岡崎三郎信康に嫁いできたときに従い、尾張から三河へやってきたそうです。
その子重次は天正4年(1576)武田勝頼が駿河に出張ってきたときに物見に出て討ち死しましたが、その時嗣子重好は十歳だったため、母は重好とその姉二人を連れて板倉勝重に再嫁し、二女及び重好は勝重の養子となりました。
重好は成長した後、家康に拝謁して三百俵を賜い、再び中嶋の家を興し、後には三河国渥美郡大崎において六百石余を知行し、その子重春の代より交代寄合となりました。
このように中嶋家は備中松山藩板倉家の類家であり、参府に際しても拝領屋敷はなく、松山侯邸に同居したそうです。
