空知管内(20)~夕張・浦臼・新十津川・芦別・岩見沢
滝の上チャシ(夕張市)

【城 跡 名】滝の上チャシ
【訪 城 日】2000年4月29日
【所 在 地】北海道夕張市滝の上
【形  態】丘先式
【主な遺構】壕:弧状1条
【訪 城 記】
 芦別市をあとにすると、国道452号線を通ってひたすら南下しました。この道の両側も一面雪が残っていて、一見するとまだ3月ぐらいの感じでした。途中にある「三段滝」も雪が残っていて、川淵に下りるのは断念しました。
 夕張市に入り清水沢、沼ノ沢、紅葉山を通り、滝の上駅を少し過ぎると左手に「滝の上公園」があります。この公園内に滝の上チャシはあります。以前歴史フォーラムで「滝の上公園にチャシがあったよ」と聞いていたので、探し回らずにすみました(^^;)
 滝の上チャシは滝の上公園の一番奥にあります。丁度、夕張川とJR石勝線に挟まれた狭い場所で、駐車場からは10分ほど歩きますが、夕張川と草木舞沢川の合流点近くにあります。二つの川の合流点に向かって突き出た段丘先端部を囲むように壕が伸びていますが、広く浅い壕でかなり傾斜が緩いので、一見すると壕ではなくただの窪みに見えるかもしれません(^^;) 公園内の他の場所はきれいになっていましたが、このチャシ内は草が伸び放題で、倒れた木などもそのままになっていたから余計見難かったのかもしれません。
 滝の上公園内にはこのチャシの他に、竜仙峡・千鳥ヶ滝、それにレンガ造りの滝の上発電所などいろいろと見どころがあるので、なかなかおすすめです。5月から6月にかけては2000本の桜が咲き乱れるとのことなので、その頃に再訪するのもいいかもしれません(^^) (桜はまだ蕾程度でした)


 遊張の滝上公園に紅葉を見に行きました。それで公園の奥にある滝の上チャシを見に行ったところ、理由はわかりませんが写真のように立ち入り禁止となっていました。残念です… (2013/10/27)


 その後も滝上公園に行くたびに見に行っていますが、チャシ方面には立ち入り禁止のままです。(2022/10/22)

鶴沼チャシ(浦臼町)

【城 跡 名】鶴沼チャシ
【訪 城 日】1998年10月11日、2011年9月19日
【所 在 地】北海道樺戸郡浦臼町字黄臼内(きうすない)
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状1条
【訪 城 記】
 はじめて行った時には「どこだろう?」とぐるぐる回りとうとう発見できなかった鶴沼チャシでしたが、25000分の1地形図と「日本城郭大系」に載っている地図を見比べて場所の見当を付けていたので、鶴沼公園近くの釣り堀の横を通る道を上り、途中に車を止め、チャシがあるとおぼしき方向へと進みました。しばらく進むと浅く切れ込んだ壕がありました。
 晩生内1号チャシは二条の壕がありましたが、鶴沼チャシの壕は一条で長さが約40m、幅6m、深さ2mだそうです。晩生内1号チャシと同じく、掘り上げた土は盛り上げられて低い土手となっていました。
 壕を渡り、細い道をしばらく進むと、チャシの先端部に出ました。晩生内1号チャシに比べると先端部は急で道らしきものもついていませんでした。
 この鶴沼チャシは、黄臼内という石狩平野に向けて口を開いている沢の一番奥に飛び出している台地の先端部に作られています。眺望はかなり悪いですが、防御という面では良いのかもしれません。ここも壕ははっきりとしていてなかなか綺麗でした。(1998/10/11)


 浜益の川下チャシのあと、浦臼方面に抜け、まずは鶴沼チャシへ。草も伸びておらず見やすかったです。壕の様子もよく見えました。この後は昨年断念した札的チャシへ。 (1999/5/19)


 この日は道の駅とチャシの旅で南空知を旅しました。三笠→奈井江と回ったあと浦臼に抜け、晩生内1号チャシを見たあと浦臼の道の駅「つるぬま」に行きましたが、坂本家の系図が大きく掲示されていたり、龍馬の姿や家紋柄の手ぬぐいが売っていたり、トイレの壁に龍馬の姿が描かれていたりで、以前と比べると龍馬ゆかりの地を売り出しているようでした。
 そして最後に鶴沼チャシに行きましたが、ここに行ったのは10年ぶり以上かも?ここも晩生内1号チャシ同様きれいになっていて、壕の部分だけじゃなく郭部分もしっかり草刈りされていました。この2カ所はホントおすすめできますね。(2011/9/19)

札的チャシ(浦臼町)

【城 跡 名】札的(さってき)チャシ
【訪 城 日】1998年10月11日・1999年5月16日・2013年10月5日
【所 在 地】北海道樺戸郡浦臼町札的447の1
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状2条
【訪 城 記】
 札的チャシに行く前に、札的の墓地に坂本龍馬の一族の墓があると聞いたので、ちょっと寄ってきました。坂本龍馬の甥(姉の子)で海援隊士だった高松太郎はのちに龍馬の養子としてその名跡を継いで坂本直と改名しましたが、直の妻・留と長男直衛の墓が札的の墓地にあります。これは直の弟で龍馬の兄権平直方の名跡を継いだ直寛(南海男)が浦臼に入植していたため、直の死後、留と直衛が直寛を頼って移住してきたためです。郷土資料館にも坂本一族についてのパネル展や遺品が展示してありました。
 さて、札的チャシですが、札的の近辺をぐるぐるしたあと、札的と晩生内の間の国道275号線沿いに、例によって「札的チャシ(この先150m)」という丸太の標柱を発見しました。周辺を見ると、丘陵が突き出ていて、その両側に沢が切れ込んでおり、晩生内1号チャシ・鶴沼チャシと同じくW字状の地形になっています。チャシに上る道がないかと周囲を探してみましたが、藪が深く結局チャシに上るのは断念しました。郷土資料館の展示によると、この札的チャシには先端部と少し奥に二条の壕があるそうです。資料館にはこのチャシの壕を撮った写真もありましたので確認したかったのですが、残念でした。(1998/10/11)


 再度挑戦したかったのですがそのまま冬に突入してしまい、翌年の5月に再チャレンジしました。道路沿いの「札的チャシ」という丸太の標柱から左に進むと沢があり、そこから登ろうと思いましたが、沢の下の部分に水が溜まり水路のようになっているため、結局最後は飛び越える感じになりました。
 沢を登っていくと、途中木が倒れていて、前方に進めなかったので、そこから左の方に登っていくと壕らしきものを発見しました。深さは2m弱、長さは10数mぐらいでしょうか。壕の底に倒れた木や枯れ葉が積もっていて、実際にはもう少し深そうです。壕の形はV字型で、少しカーブした感じでした。
 このチャシの先端は、JRの路線で斜めに削られていて、そちら側は笹藪がないので、そちらから登った方が楽だったかもしれません(^^;)
 あとから「城郭体系」を見て思い出したのですが、このチャシには先端と少し奥の2本の壕があるということなので、私が見たのは奥の方の壕だったようです。(先端の壕は見損なってしまいました(^^;)) (1999/5/16)


 この日は、息子が道プレのマグネットを買っていない空知の道の駅に行きたいというので、空知方面に行きました。まずは浦臼の道の駅つるぬまへ向かいましたが、その前に浦臼のチャシのうち、札的チャシの壕をまだ1本しか確認していないのでダメ元で行ってみました。久しぶりに行ってみると、標柱の上の矢印はなくなっているし、「札的チャシ」の文字もほとんど見えなくなっていました… 標柱から左に進んでみると、以前飛び越えることができた水路が水たまりというか池のようになっていて進めません。左側は急斜面になっていますので、今回は無理せず撤退しました。残念…(-_-;)
 (2013/10/5)

晩生内1号チャシ(浦臼町)

【城 跡 名】晩生内(おそきない)1号チャシ
【訪 城 日】1998年10月11日・2007年9月2日・2011年9月19日
【所 在 地】北海道樺戸郡浦臼町字晩生内
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:直状2条
【訪 城 記】
 浦臼には4つのチャシがありますが、まず一番南の方にある晩生内の二つのチャシから探すことにしました。浦臼にあるチャシは左右に沢が切れ込んだW字状の丘陵にあるということなので25000分の1の地形図で見当を付けて探したら、すぐに「晩生内一号チャシ(この先300m)」という丸太でできた標柱を発見しました。そこからすぐ近くの丘陵の方に向かう道があるのでそこを進むと丘の上の方に進む道がありました。最初の方はかなり急でしたが、次第になだらかになり、しばらく進むと第一の壕が切れ込んでいました。V字状の壕が掘りこんであり、両側に土を盛り上げたような形になっていました。
 そこからもうしばらく進むと第一の壕よりさらに深い第二の壕があり、そこで道は途切れていました。第二の壕も第一の壕と同じように土が両側に盛り上げていました。第二の壕はかなり深く、その内側にチャシの名の通り柵があったら、そうすぐには越えられないのではないかと思いました。
 江別チャシ以来、久しぶりにチャシらしい遺構を発見できて嬉しくなってしまいました(^^) (知らない人が見たら、何やってるんだろうと思われそうですが(^^;))
 「城郭大系」によると、第一の壕は長さ5m、幅3m、深さ2m、第二の壕は長さ13m、幅5m、深さ3mであり、第二壕と第一壕は33m離れており、第一壕から先端までは11mあるそうです。このチャシは壕もはっきりしておりなかなかおすすめです。
 浦臼は江戸時代初期の石狩の大将ハウカセの居所だったそうですので4つのチャシはハウカセに関係あるものと考えることができそうですが、、4つのうちどれがハウカセに関わるものなのかは不明だそうです。(1998/10/11)


 浜益から浦臼方面に抜け、鶴沼チャシ→札的チャシ→晩生内2号チャシと見たあと、晩生内1号チャシへ。ここのチャシは相変わらず2条の壕がはっきりと見え、非常に見ごたえあります。 (1999/5/19)


 先日浦臼町で開拓記念館の公開講座があって、その帰りに久しぶり(8年ぶり?)に浦臼町内のチャシを見てきました。時期が時期ですのでどうかなと思いましたが、鶴沼チャシ・札的チャシ・晩生内2号チャシはやはり草が茂っていてとても近づけず、断念しました。
 晩生内1号チャシは公開講座の中でも言ってましたが、この講座の直後9月5日より地形測量調査を行うそうで(昨年度は晩生内2号チャシの調査を行ったそうで、公開講座の中でその報告もなされていました。)、そのためだと思いますが、きれいに草刈りがしてあって非常に見やすくラッキーでした。
 このチャシの壕(晩生内2号・札的チャシの壕もそうですが)は、Vの字で薬研堀のようで、深さも3mほどあり非常に防御性を感じます。それに比べると鶴沼チャシの壕は緩やかなU字型で、他の3つのチャシとはちょっと違いを感じます。(場所的にも鶴沼チャシだけは他の3つと離れています。)そう考えると鶴沼チャシだけは築造者が違うのかもと、素人考えをしてしまいそうですが...
 また来年晩生内1号チャシの調査の報告があれば参加したいなと思います。(2007/9/2)


 この日は道の駅とチャシの旅で南空知を旅しました。三笠→奈井江と回ったあと浦臼に抜け、本当は鶴沼の道の駅に向かうべきですが、せっかく浦臼に来たので浦臼の4つのチャシを巡って見ることにしました。最初は晩生内1号チャシです。うちの坊主くんも「ぼくも行く。」といってついてきたのですが、雨が降ったあとで土が滑りやすくなっていたし坂もきついのでやめさせ、一人で行きました。ここは4年ぶりでしたが、下草が刈られていて手入れされていました。二条の壕もしっかりと確認でき非常に満足でした。(2011.9.19)

晩生内2号チャシ(浦臼町)

【城 跡 名】晩生内2号チャシ
【訪 城 日】1998年10月11日・1999年5月16日
【所 在 地】北海道樺戸郡浦臼町字晩生内365
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:直状2条
【訪 城 記】
 晩生内1号チャシを見つけたあと、近くにあるはずの晩生内2号チャシを探すことにしました。郷土資料館で見た地図には、1号チャシより奥の方にあったので、奥の方へ延びる道を進みましたがみつからず、あきらめてもとの道へ戻ってきたら、その交差点のところに1号チャシと同じ形の「晩生内2号チャシ(この先1200m)」という標柱を発見しました(^^;) それで地図で距離を考えて場所を見当つけてみたのですがやはり見つからず、あとでもう一度探すことにして鶴沼チャシ・札的チャシを探しました。そのあと、もう一度2号チャシを探してみたのですが、こちらは結局場所を確認できずじまいでした。こちらは壕が二条あるようで、郷土資料館にもその写真が展示してありました。(1998/10/11)


 それでそのまま冬に入ってしまったので再訪したのは次の年の4月でした。ですが、その時にはまだ雪が残っていたので場所の見当だけ付けて、5月に再度探索しました。まず4月に来たときに見当を付けた場所で探してみたんですが、あっさりと見つかってしまいました(^^;) (去年のあの苦労は何だったのか...(^^;))
 晩生内2号チャシは、晩生内1号チャシの後背地に位置しています。壕は一条でかなり深く2~3mほどはありそうです。(実はあとで調べたところ堀は2条あることが判明) ただし長さは短く、10mもありません。壕を越えると少し平らな部分が広がっています。浦臼町にある4つのチャシを比べてみると、チャシの大きさ(丘陵の先端部分の壕で区切られた部分の広さ)は鶴沼チャシが一番大きそうです。晩生内1号チャシは舌状台地部分が長いですが、幅が少し狭いです。晩生内2号チャシが一番小さいでしょうか。
 晩生内2号チャシは、位置的にいっても晩生内1号チャシの控え的なものだったような気がします。(1999/5/16)

ポンチャシ(新十津川町)

【城 跡 名】ポンチャシ
【訪 城 日】2000年4月29日
【所 在 地】北海道樺戸郡新十津川町字学園
【形  態】丘先式
【主な遺構】壕:弧状1条
【訪 城 記】
 浜益村をあとにして国道451号線を通って新十津川町へと向かいました。去年も同じ時期に同じ道を通っていますが、去年に比べるとさらに雪が多く残っているような感じをうけました。
 さてポンチャシですが、国道451号線に沿って進むと、途中で新十津川市街地へと進む道が右に折れるところがあります。そこを過ぎて少し進むと里見峠というちょっとした峠があります。そこがポンチャシの場所になります。現在は国道が真ん中を突っ切ってチャシ先端部を切り離した形になっています。
 近くに車を止め、登れそうな場所を探して登ってみたら、頂上部分に半円形の壕といいますか、段のような感じになっている部分がありました。その名の通り、ホントに小さなもので広さ的には10m四方もあるかないかという程度でしょうね。
 その壕の背後(道路側)の少し下ったところに段のようなものがありますが、これはもともとあったものなのか、道路工事によってできたものなのかよくわかりませんでした。
 さてこのポンチャシという名前、伊達市有珠のポンチャシと同じ名前なのにお気づきと思いますが、これはポンチャシというのが「小さいチャシ」の意ですので、普通名詞のようなものだったのかもしれません。今は見あたりませんが、ひょっとすると近くにポロチャシ(大きなチャシの意)というのがあったのかもしれません。

野花南金比羅神社チャシ(芦別市)

【城 跡 名】野花南金比羅神社チャシ(のかなんこんぴらじんじゃちゃし)
【訪 城 日】2000年4月29日・2011年8月10日・2011年9月23日
【所 在 地】北海道芦別市野花南町
【形  態】丘先式
【主な遺構】壕:弧状2条
【訪 城 記】
 新十津川のポンチャシをあとにして、滝川市内を通り過ぎ国道38号線を通って芦別市へと向かいました。芦別市には2つのチャシがありますが、ともに中心部から10kmほど離れた野花南(のかなん)地区にあります。
 まずは野花南金比羅神社チャシを捜してました。「数値地図25000」で確認したときには野花南駅の近くに鳥居のマークを見つけたので、これがそうだろうと思って捜してみましたが、なんだか材木置き場のような所が広がっていて地図のその場所に近づけません。反対側から近づいてみましたが、そちらがわにも潰れた家が一軒と材木置き場があるだけで神社らしきところは見あたらないので、結局捜すのを断念しました。
 家に帰ってきてから、『北海道のチャシ』のチャシ一覧や地図を見直してみましたが、どうも両方とも違う場所を探していたのではないかという気がしてきました(^^;) まあ、そのうちに再訪したいと思います。(2000.4.29)


 今年の夏に、久しぶりに富良野方面に家族旅行に行ってきたんですが、その帰りに芦別を通ったので、11年ぶりに寄ってみました。今回は「北の遺跡案内」で場所を確認していきましたが、以前探した場所は間違いないようで、やはり製材所(ベニヤ工場?)か何かの敷地内のようでしたので、写真も写さずに退散しました。(2011.8.10)


 道の駅巡りの旅で「スタープラザ芦別」まで来たので、ちょっと足を伸ばして野花南地区まで行き、2つのチャシの再探索を試みてみました。
 まずは野花南駅の裏手の方にある野花南金比羅神社チャシを探してみましたが、前々回・前回と同様、製材所(ベニヤ工場?)のような所の敷地内のようで、結局その近くの空知川に架かる新共栄橋の方から遠景を撮ったことで満足しました(^^;) 次にもう一つの野花南オチヌンベチャシの方へ向かいました。(2011.9.23)

野花南オチノンベ(落辺)チャシ(芦別市)

【城 跡 名】野花南オチノンベ(落辺)チャシ
【訪 城 日】2000年4月29日・2011年8月10日・2011年9月23日
【所 在 地】北海道芦別市野花南町
【形  態】丘先式
【主な遺構】壕:弧状1条
【訪 城 記】
 このチャシは空知川とオチヌンペ川の合流点にあるというので、国道38号線をもう少し進み、野花南大橋を渡ったところで左折しました。するとその角に「松浦武四郎探検記念碑」というのがありました。そこから少し進みそれらしい台地があったので少し登ってみたりしましたが、結局よくわかりませんでした。
 家に帰ってきてから、『北海道のチャシ』のチャシ一覧や地図を見直してみましたが、どうも両方とも違う場所を探していたのではないかという気がしてきました(^^;) まあ、そのうちに再訪したいと思います。(2000.4.29)


 今年の夏に、久しぶりに富良野方面に家族旅行に行ってきたんですが、その帰りに芦別を通ったので、11年ぶりに寄ってみました。今回は「北の遺跡案内」で場所を確認していきましたが、以前探した場所より北側の川を渡った西側のようでした。ただネットで検索したところ、以前その近くで見つけた「松浦武四郎探検記念碑」を探しに行った方がいて、道路が通行止めになっているというようなことを書いていらっしゃったので、ちょっと心配していましたが、やはり以前はあった道がなくなっており、南の方からは近づけないようになっていました。
 そこでぐるっと道路を回って北側から近づいてみたところ、すっかり草藪になっていて以前はあったオチヌンベ川にかかっていた橋もなくなって川が渡れなくなっていました。せめて対岸から写真を撮れないかと思い、もう一つの道の方に行ってみると、北電の敷地で立入禁止になっていましたので万事休す。あきらめてもう一つの野花南金比羅神社チャシの方へ向かいました。(2011.8.10)


 道の駅巡りの旅で「スタープラザ芦別」まで来たので、ちょっと足を伸ばして野花南地区まで行き、2つのチャシの再探索を試みてみました。
 野花南金比羅神社チャシを探したあと、もう一つの野花南オチヌンベチャシの方へ向かいました。ただやはり野花南大橋を越えた所にあった左折する道が無くなっており、何とか突入できないかと思いましたが断念、結局野花南大橋から遠景を撮ってあきらめることにしました。(ただしこの橋は歩道がないし、交通量も結構あるので、こちらから写真を撮るのはおすすめしません(^^;)) (2011.9.23)

クッタリチャシ(岩見沢市)

【城 跡 名】クッタリチャシ
【訪 城 日】2000年6月1日
【所 在 地】北海道岩見沢市栗沢町栗丘101-1(旧空知郡栗沢町)
【形  態】面崖式
【主な遺構】空壕:弧状2条
【訪 城 記】
 千歳市内のチャシを見たあとは空知地方に抜けまして、前回行けなかった栗沢町のクッタリチャシを探しました。たぶんここで間違いないと思いますが、私が見当を付けたのは国道234号線とJR室蘭本線が併走し、夕張川を渡る長栗大橋と交差する地点です。この長栗大橋の西側にこんもりと盛り上がった台地がありますが、これがクッタリチャシではないかと思われます。
 現在は国道とJRが切り通しのように走っているため独立丘のようになっていますが、もともとは背後の台地から伸びる舌状台地の先端だったと思われます。
 周りをぐるぐると回りましたが、登る道を見つけられず2条あるという弧状の壕は確認できませんでしたが、高さは30mほどもありそうでした。

おまけ・小達布山(三笠市)

【地  名】小達布山
【訪 問 日】2000年6月1日
【所 在 地】北海道三笠市いちきしり
【形  態】
【主な遺構】
【訪 問 記】
 この日の最後は三笠市にある小達布山に行きました。なぜここに行ったかというと、先日札幌の古書店でお会いした美唄在住のアイヌ語地名研究家の方に「私は専門家ではないのではっきりとはわかりませんが、三笠インターの横にある達布山の隣の小達布山はチャシではないかと思います。」と教えていただいたからです。その方のお話だと、ここから黒曜石のやじりなどの遺物も出土しているそうです。
 達布山は周辺を見渡すことができ、西郷従道・山田顕義・山県有朋・板垣退助等、多くの著名人が訪れているそうですが、小達布山はその手前にぽこんと盛り上がっている山です。すぐ南側には幾春別川も流れており、川・海等に面した舌状台地の先端に位置することになりますので、チャシの典型的な立地と一致しますので、ここにチャシがあっても不思議ではないと思います。
 周りをぐるぐる回ってみましたが、丁度畑の裏山になり、無断で入るわけにも行きませんので、取りあえず遠景写真だけを収めて帰ってきました。