石狩管内(1)
荘内藩ハママシケ陣屋(石狩市)

【城 跡 名】荘内藩ハママシケ陣屋跡
【訪 城 日】1998年4月19日・2000年4月29日
【所 在 地】北海道石狩市浜益区川下(旧浜益郡浜益村)
【創建年代】文久元年(1861)
【創 建 者】酒井左衛門尉忠篤
【主な遺構】空堀、土塁
【歴史・沿革】
 浜益村(現石狩市浜益区)は石狩湾の北部、北海道の日本海側沿岸のほぼ中央に位置します。かつてはマシケと呼ばれ、松前藩独特の場所請負制度による益毛場所がありましたが、のちにこの場所を二分し、北方を増毛(現増毛町)、従来の益毛を浜益毛(のちに浜益)としました。
 安政6年(1859)年に荘内藩は幕府に西蝦夷地警備を命じられ、秋田藩領の増毛を除く浜益から天塩までを領地として与えられハママシケに陣屋を作って総奉行をおきました。
 この陣屋は浜益川を天然の堀とし、海岸から500mほど東に入った丘陵部に大手門を設け、5haほどの土地を開いて本陣とし、千両堀といわれる物資輸送のための運河を掘ったそうですが現在は残っていません。
 荘内藩は土地開墾に力を入れ、藩内から1300人余の農民のほか、日常生活に必要な大工・鍛冶・味噌・醤油などの職人に至るまで移住させました。しかし明治維新の際には全員帰国し、田畑は荒れ果ててしまったそうです。
【訪 城 記】
 ドライブを兼ねて行ってきましたが、途中に案内板などは全くなくなかなか見つけることが出来ませんでした。八幡神社の近くにあるということはわかっていたのですが、そこにはいる道がわからずだいぶんウロウロしてしまいました(^^;)
 八幡神社の正面から右の方へ伸びる道を進むと復元された大手門があります。大手門の脇には土塁が残っており、門をくぐると土塁で囲む形に郭になっています。その奥の本陣の部分はすっかり山林田畑と化しており、所々に立っている「長屋跡」「井戸跡」などと書いた標柱が往時を偲ばせるだけでした。昭和63年に国指定史跡となっていますが、この大手門の部分ぐらいしか整備していないようです。(1998/4/19)


 あの陣屋の奥の方は段々畑になっていますが、井戸跡や長屋跡のある部分は畑ではないのに段になっている部分がありました。ということは陣屋を作った時に段を作りそれを畑に利用したのでしょうかね?
 それからもう一つ、陣屋の奥の左手側にも段々畑がありますが、その段の部分に石積みを2ヶ所ほど見つけました。陣屋の遺構ではなさそうですけど...(1999/4/25,2000/4/29)

空知管内(0)
後志管内(1)
寿都津軽藩陣屋(寿都町)

【城 跡 名】寿都津軽藩陣屋
【訪 城 日】2000年8月12日
【所 在 地】
北海道寿都郡寿都町字開進町
【創建年代】安政3年(1856)
【創 建 者】津軽藩
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
 津軽藩は安政2年(1855)に箱館千代ヶ岱から恵山岬に至る地及び乙部町から北方神威岬に至る地までの警衛を幕府に命じられ、元陣屋を箱館千代ヶ岱に出張陣屋を寿都に設けました。寿都陣屋には武家屋敷13棟が建てられ、約100名が駐屯しましたが、慶応4年(1868)廃止されました。
【訪 城 記】
 この陣屋跡はナカウタ沢チャシと沢をはさんで反対側にあります。大正年間には土塁や空堀が残っていたそうですが、その後グラウンド造成により土塁は破壊されました。また昭和53年国道の改良工事に伴う発掘調査では、埋没した状態で堀跡が発見されたそうです。
 現在は全く遺構は残っておらず、きれいに整地されてスポーツ施設になっており、その一画にある「津軽藩出張陣屋跡」の説明板だけがかつてを偲ばせるものとなっています。