石狩管内(21)~札幌・石狩・江別・北広島
発寒チャシ(札幌市)

【城 跡 名】発寒チャシ
【訪 城 日】2000年9月10日
【所 在 地】北海道札幌市西区山の手391
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:半円形1条
【訪 城 記】
 この日は札幌・小樽近辺のチャシを回ってみました。まずは札幌の発寒チャシです。
 ここは発寒川中流域の丘陵先端部にあり、半円形の壕が見られたそうですが、宅地造成により全壊しています。丁度、山の手橋後背の丘陵部がチャシのあったところのようですが、その先端部は宅地となっていてチャシの影すらありません。ですが、川に向かって伸びる丘陵先端部というチャシの典型的な立地にあり、かつての姿をうかがわせました。

天神山チャシ(札幌市)

【城 跡 名】天神山チャシ
【訪 城 日】2000年9月10日・2012年8月18日
【所 在 地】北海道札幌市豊平区平岸1条16丁目850ほか
【形  態】面崖式
【主な遺構】空壕:弧状1条、西から北にかけて段構造
【訪 城 記】
 発寒チャシの次は天神山チャシです。ここは平岸に「天神山緑地」という丘陵があったので、ここがそうだろうと目星をつけました。
 駐車場に車を止めると、天神山緑地内を歩いて探してみました。登ってすぐのところにあった展望台の後ろの台地がそれらしく見えましたが、丁度この頃小雨がふっていたので登ってみるのは止めにしました。その先に進むと南側には相馬神社、東側には天神山国際ハウスという建物がありました。そのあともぐるっと回ってみましたが、文学碑などがあっただけでそれらしい地形は見つかりませんでした。相馬神社がそうかなとも思いましたが、どうも違うようですし、最初に目星をつけた台地では面崖式にならないし、どうも違うところを探していたようです。もう一度行ってこなくてはいけないなと思っています。(2000/9/10)


 なんと12年ぶりの訪城となってしまいました(^^;) 以前行った時には場所がよくわかりませんでしたが、道教委に聞いたところ相馬神社の社殿の裏とのことでしたので、ふと思いつき行ってみました。現在では展望広場となっておりチャシの面影はありません。写真2の台地の一段上の部分でした。位置的には写真1の相馬神社と写真2の台地に挟まれた部分がチャシに当たるようです。
 『さっぽろ文庫90 古代に遊ぶ』(北海道新聞社)によると、この天神山一帯はT71遺跡(平岸天神山遺跡)と呼ばれ、山頂部にあるチャシ跡は昭和12年に後藤寿一氏によってチャシの実測図と溝の断面図の調査記録が報告されていて、平成元年には札幌市教育委員会によって試掘調査が行われ、後藤氏の調査と同様なチャシの溝跡が確認されているそうです。(2012/8/18)

川下チャシ(石狩市)

【城 跡 名】川下チャシ
【訪 城 日】1998年10月3日・1999年4月25日・1999年5月16日・2000年4月29日
【所 在 地】北海道石狩市浜益区川下(旧浜益郡浜益村)
【形  態】面崖式
【主な遺構】土塁・空壕:C字状1条
【訪 城 記】
 1回目の訪城ですが、「城郭大系」に載っている図によると、川下チャシはハママシケ陣屋跡のある川下の北の台地上にあるようなので、近くに車をおいてそれらしき台地の方へ歩いてみました。住宅の並ぶ道を進むと、電線の鉄塔に沿って草が刈てあったのでそこを進みましたが、予想通り途中から藪になっていてそれ以上進むのは断念しました。そこから左側にチャシがあるらしい丘陵が延びていました。
 「城郭大系」によると海に向かってC字状の一条の空壕が開いているそうです(写真もあり)が、海側の斜面は急崖になっていて崩落も見られるので、もとの壕は一周していたのかもしれないとのことです。(1998/10/3)


 川下チャシその後も何度か行きましたが、そのたびに藪が深くて断念してました(鉈で切り開きながら登るのはやだし~(^^;))
 そこで、次の年雪が解けると早速訪城してみました。足元に枯れた草木があってやや登りにくいものの、藪はまだ伸びていなかったので登ることができました。ですがチャシがあるとおぼしき頂上部分まで行くと笹藪が...(; 😉 ちょっとそこに突入するのは無理だったのでそこから横の方へと進みました。ですが、どうも壕らしきものは見あたりません。あちこち探したせいで途中でバテてしまい、しばらく座り込んでしまいました。
 どうもよく分からないので下りはじめると、何だかまっすぐ伸びる出っ張りのようなものが... ひょっとして土塁かなと思い、一応写真を撮りました。川下チャシの空壕はC字状のはずなのに変だなあと思いながら下ってしまったんですが、あとから「城郭体系」に載っている写真を見直してみると、C字状の壕の下の方に長く直線上に伸びるものが2本ほどあったので、私が見つけたのはどうもこれだったようです。
 ということは、もっと奥の方に空壕があるはずだということで、5月になってから再度チャレンジしました(しつこいヤツ) (1999/4/25)


 前回に比べるとさすがに草が伸びてきていました。結局、前回土塁らしきものを確認した場所より少し上手の方に出っ張りがあったのですが、それが土塁の跡なのかどうなのか結局よく分かりませんでした。ということで川下チャシは謎のままです。また今年行かなくちゃいかんだろうか? (1999/5/16)


 例によって円形の壕を見つけられないかと思ってウロウロと歩きましたが、結局昨年と同じ結果になってしまいました(^^;) 一ヶ所笹藪に覆われていて進入できない部分があるのですが、そこにあるのかもしれません。壕の外側にあたる段らしきものは相変わらず健在でした。(2000/4/29)

岡島チャシ(石狩市)

【城 跡 名】岡島チャシ
【訪 城 日】1998年10月3日
【所 在 地】北海道石狩市浜益区浜益(旧浜益郡浜益村)
【形  態】面崖式
【主な遺構】壕:弧状1条
【訪 城 記】
 国道231号を北へと進み、浜益へと向かい、まず荘内藩ハママシケ陣屋跡をちょっと覗いてきましたが、相変わらず草が茂っていて奥へは進めないので、岡島チャシへと向かいました。
 「城郭大系」に写っている写真を見ると、シェルのガソリンスタンドの裏山(というか崖の上)らしく、それらしいスタンドが役場庁舎へと曲がる角の辺りにすぐ見つかりました。
 現在崖のところは工事(崩落防止の工事?)をしていて、工事用の階段らしきものが崖の上まで延びていましたが、さすがにそこから登るわけにも行かず、他に登る場所がないかどうか探してみました。するとすぐ近くの民家の脇に石垣のような石積みがあり、その間から上に登る道があったのでそこを登ってみました。しかし、途中ぬかるんでいる所があったり、あまり良い道ではありませんでした。(道の脇に畑が作ってあったので、畑に登るための道かもしれません) 途中で左右に分かれていたので左に行ってみると、途中で道が崩れて斜めになっていたのでそれ以上進むのを断念、右の道も奥は藪になっていたので、結局チャシの様子はよくわからず、ズボンに付いた泥だけが収穫でした(^^;)
 このチャシは日本海に望む崖上に一条の弧状の壕がめぐらされているそうですが、伝承がないので構築時期などは不明です。崖の上にあって見通しが良いので、チャシとしては良い立地条件かもしれません。見張り場所としてでも使われたんでしょうか?

コタンチャシ(石狩市)

【城 跡 名】コタンチャシ
【訪 城 日】2000年4月29日
【所 在 地】北海道石狩市厚田区古潭(旧厚田郡厚田村)
【形  態】丘頂式
【主な遺構】4段造り
【訪 城 記】
 昨日は、去年の11月以来4ヶ月ぶりにチャシ巡りに行って来ました。まずは石狩のお隣厚田村(現石狩市厚田区)にあるコタンチャシへと向かいました。
 このチャシは『日本城郭大系』には載っていないのですが、北海道チャシ学会が作成した「北海道におけるチャシ跡遺跡一覧表」(『北海道チャシ学会研究報告5』1990.10 所載)に載っているものです。それによると丘頂式でテラス状の段が4段あるとのことでした。

 我が家から北上し聚富・望来を過ぎ、古潭の集落に下っていく坂のちょっと手前の右手(山側)にコタンチャシはありました。はっきりとは数えられませんでしたが、確かに何段かの段になっているようです。丁度海に面していて、一番手前に広く平らな部分があり、奥の方が盛り上がっていてその部分に段があります。端を少し登ってみましたが、笹藪が続くようでしたので奥には入りませんでした。

江別チャシ(江別市)

【城 跡 名】江別チャシ(江別第1チャシ)
【訪 城 日】1998年5月31日・1998年9月27日・2017年11月4日
【所 在 地】北海道江別市元江別857・858-2
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状1条
【訪 城 記】
 実はこの江別チャシが初めて訪城したチャシでした。札幌の古書店で『日本城郭大系』を手に入れたものですから、近くのアイヌのチャシ跡巡りをしてみようかと思ったんです。
 江別は以前住んでいたことがあり、住んでいた頃にチャシがあるというので一度行ってみたことがあるのですが、場所は間違いないはずなのに案内板なども発見できずに結局帰ってきたことがありました。
 それであまり期待せずに行ってみたのですが、電線を支える鉄塔の近くに「江別チャシ」と書いた標柱を発見しましたが、周囲には特に説明板などは見つけられませんでした。場所としては、旧豊平川右岸にある小高い丘の上でたしかに要害の地ではあるなという印象でした。後にたくさんのチャシを訪れることになりますが、この川に面した丘陵の上あるいは先端という立地条件はまず8~9割のチャシに適合します。
 この江別チャシには、特別古い文献伝承もなく、不明な点が多いそうです。『日本城郭大系』によると、沢を利用した形で一条の壕が弧状にめぐらされているそうですが、草が伸び放題になっていてはっきりいってよくわかりませんでした。またこのチャシの400mほど北東に江別第2チャシと称されたチャシがあったそうですが、宅地造成等で破壊されたようです。河野広道氏によるとこのチャシも丘先式のチャシで弧状の壕が2条あり、規模も江別チャシの倍近くあったそうです。(1998/5/31)


 2回目にはNIFTY-SERVE(現@nifty)の城郭フォーラム(FSIRO)で知り合った坂田さん(現山城守さん)が北海道にいらっしゃっているというので、一緒に訪城しました。
 前回はほとんど標柱しか発見できなかったので、今回もダメだろうと思いカメラを車の中においていったんですが、前回草がぼうぼうでよく見えなかった所がきれいに刈ってあったので、あわててカメラを取りに行きました(^^;)
 前方に世田豊平川があり、チャシの左右(東西)には沢が入っていて、川に向かって丘陵が突き出したようになっています。その沢の根元をつなぐような感じで、壕が弧状にめぐらされています。その縁が少し盛り上がっていますので、土塁があったのでしょう。壕の深さは1mもありませんが、『日本城郭大系』によると「この壕はほとんど埋まっている(幅2m、深さ0.5m)が...」とあるので、本来はもっと深かったのでしょうね。
 チャシの丁度真ん中辺りに少し土が盛り上がっている部分がありましたが、土塁でもあったのかもしれません。それほど大きくはありませんが、チャシとしての原型がよくわかります。

 このチャシは自宅から一番近いのでその後も時々行っています。初めて訪れた城である松前城に愛着があるように、初めて訪れたチャシであるこの江別チャシにも愛着があるのかもしれません(^^;) (1998/9/27)


 上に書いた通り何度も江別チャシには行っています。この時はすっかり草も少なくなっていました。(1999/11/28)


 この江別チャシは、私の自宅からほど近いということでたびたび訪れています。この日はTwitterのフォロワーさんが本州から来て道内のチャシを巡っていて、たまたま江別チャシに行ったというので、久しぶりに行ってきました。紅葉の落ち葉が壕や郭内に広がっていて、起伏がよく分かります。今回は壕の外側から郭内に向かって写真を撮ってみました。
(2017/11/04)

江別第2チャシ(江別市)

【城 跡 名】江別第2チャシ
【訪 城 日】2006年8月4日
【所 在 地】北海道江別市対雁125-1ほか
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状2条
【訪 城 記】
 実はこの江別第2チャシ、住宅街になって破壊されたと聞いていたので、いままで全く行こうと思っていませんでした。ですが今年になってから場所だけでも確認しておこうと思い、二度ほど行ったのですが写真を撮っていませんでした。この日、美沢チャシに行った帰りについでにちょっと寄ってみることにしました。周囲は家が建ち並び遺構は当然何も残されていませんし、江別チャシのような標柱も見た限りでは見つけることが出来ませんでした。
 地形的には江別チャシと同じく野幌丘陵の端に位置し、一段高くなった高台の上になっているのが写真からもわかると思います。ただ一般的なチャシは前面に川、湖、海などの水辺があるのに対し、この第2チャシは世田豊平川と石狩川の中間あたりに位置するのが不審といえば不審です。

中の沢チャシ(北広島市)

【城 跡 名】中の沢チャシ
【訪 城 日】1998年5月31日・1998年9月27日・1999年4月25日
【所 在 地】北海道北広島市中の沢248
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状2条(現存1条)
【訪 城 記】
 中の沢チャシですが、初めての訪城の時にはなかなか見つけられず、何度も行ったり来たりしてしまい、見つけた頃にはすっかり夕方になっていました。
 このチャシは石狩川の支流千歳川に注ぐ輪厚(わっつ)川の右岸にある丘陵上にあり、『日本城郭大系』によると北東に突き出す舌状丘陵端を幅約4m、深さ約2m、長さ約20mの弧状にめぐる壕によって区画されているということですが、場所を探し出すのにエネルギーを使ってしまい、遺構は殆どよくわかりませんでした。(1998/5/31)


 2回目の時にはFSIROの坂田さんと一緒でしたが、前回同様どこに壕があるのかよくわかりませんでした。チャシの横にある道をしばらく行ったら壕らしき物があったので少しのぞいてみましたが、Yの字型に別れていましたので、どうも壕ではなかったようです。一応、輪厚川の手前でチャシの全景をカメラにおさめたあと次へと向かいました。(1998/9/27)


 3回目といっても、本当はその後も何度か訪れているので本当は3回目ではありませんが、前の年に今ひとつ遺構がはっきりしなかったので、雪が解けるとまずこの中の沢チャシへと向かいました。
 以前の2回は、藪がひどく登れませんでしたが、さすがにこの時はまだ藪になっておらず登ることができました。やはり春先か晩秋でないと藪がジャマして上に登るのは難しそうです。とはいうものの、かなり勾配が急でしたし、足元は枯れた草木などがあって登りにくかったですが...
 上の方まで登ると少し平坦な部分が広がっています。とはいうものも、そんなに広いものではなく、江別チャシよりも狭いかもしれません。
 このチャシは、手前を流れる輪厚川に向かって伸びる舌状丘陵の先端部に位置しますが、その後背に弧状の壕を巡らしたいわゆる丘先式のチャシです。壕は深さ2mほどでしょうか。壕の端は道路の側壁工事で削られて途切れています。一応、写真は撮りましたが、ちょっとよく分からない写真になってしまいました(^^;) (1999/4/25)


 1999年の秋にもう一度訪城して登ったときに撮った写真です。数枚の写真を合成して広角にしたものですが、半円形の壕がうっすらわかります。(1999/11/28)


 これは99年の暮れに撮ったもので、遠くから見るとちょうどお供山型になっているのが分かります。(1999/12/27)

島松川左岸チャシ(北広島市)

【城 跡 名】島松川左岸チャシ(島松Aチャシ)
【訪 城 日】1998年5月31日・1998年9月27日・2012年6月16日
【所 在 地】北海道北広島市島松44-1
【形  態】面崖式
【主な遺構】空壕:C字状1条
【訪 城 記】
 島松川左岸チャシはちょうど北広島市と恵庭市のちょうど境界の辺りにあり、場所がよくわからず車でぐるぐる回ってしまいました(^^;)
 札幌方面から進むと北広島市と恵庭市の境界付近で「旧島松駅逓所」のある島松沢へと右折する場所がありますが、ここで右折し島松沢の方へと下っていきます。すると前方に旧島松駅逓所や彼のクラーク博士が学生達と決別した地であることを記念して建てられた「クラークの記念碑」(もちろん記念碑には「Boys beAmbitious」の言葉が刻まれています。)がありますが、その手前で左折し国道の下をくぐって横断する道をしばらく進みますと右側に橋が見え右折する道路とのT字路があります。そのすぐ近くの道路脇に「島松川左岸チャシ」の説明板があります。
 場所的には北広島・恵庭両市の境界を流れる石狩川の支流千歳川に注ぐ島松川左岸の丘陵にあたります。山間の谷間にあり、その周囲には山に囲まれるようにして田圃が作られていました。どうやら近くの民家の裏山がチャシ跡らしいのですが、木が生い茂っていてよく分からず、結局「この辺なのかなあ」と眺めてくるだけで終わってしまいました(^^;) (1998/5/31)


 2回目はFSIROの坂田さんと行きました。前回は看板だけで、「たぶんこの辺かなあ?」で帰ってきましたが、今回もあまりかわりはありませんでした(^^;)
 島松沢の旧島松駅逓所の近くを通り、チャシの説明板のある場所まで行きましたが、やはりどこがチャシなのかよくわかりませんでした。説明板は道路の縁に立っているのですが、その向こうに畑が広がり、その奥に丘陵が広がっているんです。たぶんその丘陵のどこかだと思いますが、説明板にある写真を見ると周囲から少し盛り上がる部分があるので、そこがチャシなのかなと坂田さんと話したんですが、どうも秋になって木の葉が落ちて山の形がわかるようにならないと確認できないねという結論に達しました(^^;) (1998/9/27)


 去年(1999年)買った『北海道身近な歴史紀行』(北海道新聞社)という本に、この島松川左岸チャシの写真が載っていましたが、ちょうど民家の裏山でお供山型に盛り上がっているのが分かりました。それで去年の12月に木の葉も落ちて雪がうっすらと被った頃に再び行ってきましたところ、きれいにお供山型の形を確認することができました。(写真3・4参照)
(1999/12/27)


 この日は北広島の某農場にいちご狩りに行ったついでに、チャシ巡りもしてきました。いちごをたっぷりいただいたあとに、まずは島松川左岸チャシに。(中の沢チャシは今回はパスしました。このチャシは民家の裏山なので、この日も遠景を撮影したのみ。その道路をはさんで反対側にある島松Cチャシも撮影してから、道央道と国道36号線をくぐって、旧島松駅逓所の方へ進みました。(2012/6/16)

島松Bチャシ(恵庭市)

【城 跡 名】島松Bチャシ(島松チャシ)
【訪 城 日】1998年9月27日・2012年6月16日・2015年10月3日
【所 在 地】北海道恵庭市字西島松
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状2条
【訪 城 記】
 島松チャシもFSIROの坂田さんと訪城したものです。国道36号線沿いにあるということなので、恵庭方面から北に戻る感じで進みました。私は運転しているので、坂田さんに周りを見てもらうことにしたら、島松沢の辺りでそれらしき所を発見。36号線から左折し、旧島松駅逓所のある方へと降っていくとその前方に見える台地(というか崖というか)が『城郭大系』に載っている写真と一致したので、たぶんここだろうということになり、駅逓所の駐車場に車を止め、近くまで歩いてみました。
 例によってチャシの前方には川(島松川)が流れていました。どうもチャシというのは近くに川が付き物のようです。川に面した崖面に浅い二条の壕が見えるということなので見てみるとどうもそれらしいものを発見しましたが、本当にそれが壕なのか自信がありません(^^;) 近くには説明板らしいものは全く見あたらず、地蔵尊と馬頭観音の石碑があるだけでした。
 そのあと、旧島松駅逓所をさっと見学したあと、この台地の裏側からチャシを見ることができないかと思い、車で上ってみたんですが、その入口の辺りに自衛隊の人が立っていて、おまけに「自衛隊専用道路」と書いた看板まであったのでドキッとしました。坂田さんがその自衛官の方に聞いてみると、まっすぐ行くと演習場があるようですが、右の方はゴミ処理場(だったかな?)に行く道なので問題ないということでした。そこで、右の方に行ってみましたが、チャシのある辺りは私有地のようでしたので、これ以上は無理と判断しました。(1998/9/27)


 その後も何度か近くに行ってみましたが、遺構を確認するのは難しそうです。(1999/11/3)


 下の写真は99年の暮れに、近くを走る高速道の上を渡る橋の所から見下ろすように撮ったものですが、全景が分かるでしょうか?(1999/12/27)


 この日は午前中にいちご狩りに行ったあと、せっかく北広島に来たので、恵庭・千歳にも足を伸ばして、しばらく行っていないこの周辺のチャシを「リアル攻城」してみることにしました。
  島松川左岸チャシの前の道をまっすぐ進んで道央道と国道36号線をくぐったところに国史跡「島松駅逓所」があり、そこから南側に見える小山が島松チャシ(島松Bチャシ)です。久しぶりに近くで見てみると、以前と比べると中央部が崩落しており、土嚢で土留めしてありました。どうしたんでしょうね?(2012/6/16)


この日は恵庭に行き、そのあと36号線を北上していたら島松Bチャシで工事をしているようだったので、途中で島松沢の方に下りて寄り道してみました。
 帰宅してから検索してみたら苫小牧民報社のサイトに詳細が出ていて、それによると2011年5月に長雨の影響でチャシ跡の崖の一部が崩れ、緊急崩落防止工事を行ったが、恒久的な対策が必要とのことで、2013年に試掘調査、14年に発掘調査を行ったそうです。その際に緩いカーブを描いた壕状の遺構が発掘され、周辺から出土した土器などの遺物から縄文時代の環壕と思われ、総延長は40mを越え、幅は最大3m、深さは最深1.5mあるそうです。2015年度には崖面の崩落防止工事を予定し、切り土工事で掘削される範囲については、記録保存で対応し、その他は遺跡の内容が把握できる程度の発掘調査として現状保存するととのことで、どうやら私が見たのはその崖面の崩落防止工事をおこなっているようでした。(2015/10/3)