【史 跡 名】石狩弁天社
【訪 問 日】1999年8月4日
【所 在 地】北海道石狩市弁天町
【訪 問 記】
この神社は我が家(当時)のすぐ近くであります(^^;) 歩いて5分ぐらいですかね。以前にも行ったことがありますが、この日は北海道東北史研究会石狩シンポジウムの巡検で訪れました。
この弁天社は元禄7年(1694)創建という市内最古の社ですが、場所請負人だった阿部屋(あぶや)村山家が保護し、チョウザメ(妙亀法鮫)を祭神としています。かつては現在石狩八幡神社の場所にありましたが、明治7年に八幡神社が移ってきた時に現在地に移っています。
内部には「関羽正装図」「加藤清正虎退治図」「老武将図」など江戸後期に奉納されたらしい大絵馬額がかかっていました。また、文化年間に奉納された鰐口、天保年間のものらしい「妙亀法鮫大明神」の神額などがありました。








【史 跡 名】石狩八幡神社
【訪 問 日】1999年8月4日
【所 在 地】北海道石狩市弁天町
【訪 問 記】
北海道東北史研究会石狩シンポジウムの巡検、弁天社の次はそこからもう少し奥にある石狩八幡神社です。この神社は安政5年(1858)石狩川の右岸(現八幡地区)に函館八幡宮から勧請されて創建されました。当時の幕府石狩役所調役・荒井金助がその創立に関わりを持ったと言われています。その後、明治7年(1874)に「弁天社は村山家の内神」という理由で開拓使役人の命で弁天社が現在地に移されたその跡地に八幡神社は移され現在に至っています。
ですからその鳥居はもともとは弁天社のもので、文化年間に建立されたものです。よく見ると、場所請負人である栖原屋・米屋の名前が刻まれています。八幡神社の手水鉢も、実は弁天社時代のもので寛政元年の文字が見えます。また境内には木戸孝允筆という灯籠石が残っています。





【史 跡 名】金龍寺
【訪 問 日】1999年8月4日
【所 在 地】北海道石狩市新町
【訪 問 記】
北海道東北史研究会石狩シンポジウムの巡検、八幡神社の次は金龍寺です。この寺は当時の幕府石狩役所調役・荒井金助が弟・栄太郎の菩提を弔うために建立したと言われています。ここにも弁天社の手水鉢が残っています。安永3年(1774)に奉納されたもので、石狩市内最古の石造品だそうです。「千秋丸水主中」とあるので、船乗り達が奉納したものと思われます。また境内には、幕末の石狩詰役人天野傳左衛門正庸(あまのでんざえもんまさつね)と村田小一郎の墓も残っています。




【史 跡 名】紅葉山49号遺跡
【訪 問 日】2001年9月23日
【所 在 地】北海道石狩市花川
【訪 問 記】
この日は久しぶりに昔買った一眼レフのEOS700を使ってやろうと思い、あちこち行ってみました。最初は予定にはなかったんですが、たまたま近くを通りかかったので市内の紅葉山49号遺跡に行って来ました。実はここは以前から発掘をしていることは知っていたんですが、どこにあるか知らなかったんです(^^;) 私が行った時は発掘はしていませんでしたが、道路のふちから発掘現場の写真を撮りました。
ここは発寒川遊水池の建設予定地にあたり、その事前調査のため1995年に発掘が始まりましたが、縄文時代の土器・石器・木製品、獣骨、魚骨などが出土し、縄文時代の住居跡、続縄文期の墓、擦文時代の住居跡、近世アイヌの墓などの遺構が見つかり、昨年はサケ捕獲遺構が発見され新聞紙上などでも話題になりました。今後はサケの捕獲遺構を復元し、当時の生活の様子がわかるような展示公開を検討しているようです。
ちなみに、私の高校時代の同級生Kくん(後に石狩本町にできた「いしかり砂丘の丘資料館」学芸員となっていました。)が調査スタッフとしてこの発掘に関わっているようです(^^;)

【史 跡 名】伊達邦直移住記念碑
【訪 問 日】1999年8月4日
【所 在 地】北海道石狩市厚田区聚富(旧厚田郡厚田村)
【訪 問 記】
北海道東北史研究会石狩シンポジウムの巡検、金龍寺の次は伊達邦直移住記念碑です。弁天社などがある石狩本町から石狩河口橋を渡った石狩川右岸地区の八幡地区若生町には、かつては幕府調役荒井金助らが詰めた石狩役所、移転する前の八幡神社などがあって賑わいました。そこからさらに北に進むと厚田村(現石狩市厚田区)聚富地区に入りますが、その海沿いの土地に「新開地」という地名が残っています。
この辺りが、かつて仙台藩伊達家の一門で岩出山領主だった伊達邦直主従が入植したところです。国道を左折してしばらく行くと、伊達邦直移住記念碑があります。伊達邦直は維新後、家中まとまって北海道へ移住し、最初この地へ入りましたが、砂地で収穫はなく、翌年には当別町へと移り、そちらで開拓に成功しています。
記念碑が建っている周囲は、現在でもただ雑草が生えているだけの土地で、あんな所へ入植した苦労はいかばかりかと思いました。この記念碑は平成8年に建てられたもので、題字は邦直の子孫である現当別町長(当時)・伊達寿之氏によるものです。
※下の写真は2003年5月に撮影したものです。



【史 跡 名】厚田神社
【訪 問 日】1998年4月19日
【所 在 地】北海道石狩市厚田区厚田(旧厚田郡厚田村)
【訪 問 記】
この日は『北海道の歴史散歩』を見ながら自宅より北の厚田村(現石狩市厚田区)・浜益村(現石狩市浜益区)の史跡を巡りました。まずは厚田村の中心部にある厚田神社ですが、この神社の鳥居のすぐ前に「直心館の碑」があります。
直心館というのは、松前藩士の出身で新選組の副長助勤を務めた永倉新八こと杉村義衛が剣道を教えたという道場です。永倉は現在の月形町にあった樺戸集治監看守の剣術指南もつとめ。樺戸の脱獄囚に備えて直心館で村民を指導したそうです。

【史 跡 名】戸田旅館
【訪 問 日】1987年8月29日
【所 在 地】北海道石狩市厚田区厚田(旧厚田郡厚田村)
【訪 問 記】
ここも木村番屋等と同じく石社研のフィールドワークで訪れたところです。鮭漁で財を成し、道議会議員も務めた佐藤松太郎が隠居宅として建てたものだそうです。。
道路側から見てみるとところどころ崩れたところもありますが、往時はさぞ立派だっただろうと思わせるような建物でした。



【史 跡 名】浜益八幡神社
【訪 問 日】1998年4月19日
【所 在 地】北海道石狩市浜益区川下(旧浜益郡浜益村)
【訪 問 記】
この浜益の八幡神社は荘内藩ハママシケ陣屋のすぐ手前にあります。この日は目当てはハママシケ陣屋でしたが、八幡神社もかつて庄内藩士たちが開拓の志に燃えて移住してきた頃の面影が残っています。

【史 跡 名】大心寺
【訪 問 日】1998年4月19日
【所 在 地】北海道石狩市浜益区茂生(旧浜益郡浜益村)
【訪 問 記】
この大心寺も荘内藩がハママシケ陣屋を築いて開拓に取り組んでいた頃のもののようです。その本堂に往時の様子を偲ぶことができます。(でも実は近づくとこのお寺の犬がうるさいので、まだじっくりと見学していないのでした(^^;))

【史 跡 名】はまます郷土資料館(旧浜益村郷土資料館)
【訪 問 日】1998年4月19日
【所 在 地】北海道石狩市浜益区茂生(旧浜益郡浜益村)
【訪 問 記】
浜益村(現石狩市浜益区)の郷土資料館はかつて旧白鳥家がニシン番屋として明治32(1899)年に建てた物を昭和46年(1971)に開村百年記念事業の一環として改築復元して浜益村郷土資料館として使っていました。(石狩市との合併後「はまます郷土資料館」と改称)
中にはいると左側はかつてのニシン番屋そのままの姿を見せていて、あちこちにニシン漁に関する貴重な資料が展示してあります。右側に上がると座敷になっておりそちらにも多数の資料が展示してありますが、ハママシケ陣屋に関する資料も若干展示してあります。




【史 跡 名】木村番屋(旧木村家住宅)
【訪 問 日】1987年8月29日
【所 在 地】北海道石狩市浜益区濃昼(ごきびる)<旧浜益郡浜益村>
【訪 問 記】
正直なところこの木村番屋という名前もうろおぼえで、正確なものかどうかわかりませんが、これは87年に石社研(石狩管内の教育研究団体・石教研の社会科部会)のフィールドワークに参加して見学したところです。浜益村(現石狩市浜益区)の南端に位置する濃昼の集落にある番屋で和洋折衷のちょっと変わった建物です。私が見学した頃でさえ、もうすでにかなり傷んでいましたので、今はどうなっているかわかりませんが今度時間があれば再訪したところです。
※改めて調べてみると、かつて「濃昼の殿様」といわれた木村家が明治33年(1900)頃に建てたニシン番屋だそうです。八角形の張り出し窓のついた応接室を持つ和洋折衷の作りになっているのが特徴で、平成になって寿司屋が買い取って料理店を営んでいたそうですが、いまは閉店しているそうです。


【史 跡 名】(1)本庄睦男文学碑、(2)本庄睦男誕生の地碑
【訪 問 日】1998年11月28日
【所 在 地】北海道石狩郡当別町太美
【訪 問 記】
札幌のあいの里から当別町方面へと石狩川を渡る札幌大橋の当別側の堤防の上にちょっと変わった形の記念碑が建っていますが、これは本庄睦男の文学碑です。本庄睦男は当別町の出身で、当別の開拓に取り組んだ仙台藩伊達家一門・伊達邦直家中の苦闘を描いた名作『石狩川』が知られています。この碑は本庄の功績をたたえ、昭和39年にたてられたものです。その近くのロイズ工場の横には本庄睦男誕生の地碑もあります。




【史 跡 名】(1)伊達邸別館、(2)伊達記念館
【訪 問 日】1987年8月15日
【所 在 地】北海道石狩郡当別町大川上通り
【訪 問 記】
当別町は戊辰戦争の敗北によって朝敵となり、1万4640石から58.5石に削られた伊達一門である岩出山領主伊達邦直主従が開拓した土地です。
当別町にはこの伊達邦直主従の開拓の軌跡を省みるため、伊達記念館が昭和57年(1982)に建てられ伊達家の資料や遺品などが展示されています。
また伊達記念館の隣には開拓期の村政執政の諸会議のために使用されていた伊達邸別館が建っていますが、これは明治13年(1880)の建築です。
ここにはこの年初めて訪れましたが、それ以来よく訪問しています。
ちなみに、この伊達記念館・伊達邸別館のすぐ近くには現在も伊達邦直の末裔の方がお住まいになっており、現在の町長(当時)伊達寿之氏も邦直の子孫に当たります。

(「伊達邸別館」の文字は
伊達宗家十七代当主貞宗氏によるもの)



(邦直公と奥方に重臣が報告している場面を再現)


(伊達家の家紋「丸の内に竪三引」
「竹に雀」がついてます)



(京都の公家冷泉家から岩出山伊達家に嫁いできた方のものらしい)
【史 跡 名】当別ダム
【訪 問 日】2016年5月14日・2017年5月5日
【所 在 地】北海道石狩郡当別町字青山十万坪
【ダム情報】河川名:石狩川水系当別川、型式:台形CSGダム、ゲート:自然調節(ゲートレス)、完成年:2012年
【訪 問 記】
この日は国管理のダムカードの他に、新たに道管理のダムのダムカードができたということで、息子と一緒に近隣のダム巡り(といっても2か所)をしました。まずは当別ダムです。ここは以前仕事の関係で訪れたことがあるので2回目でしたが、台形CSGダムという日本で開発された技術に基づく初めてのダムだそうで、堤体の断面が台形で、河床砂礫や掘削ズリなどダムが造られる際に出る岩石質材料にセメント・水を加えて練り混ぜたCSG(Cemented Sand and Gravel の略)を材料としたダムです。一見、重力式コンクリートダムと変わらないように見えます。
この日は休日だったので、ダムカードを手に入れるためにはここからさらに20数km北上して道民の森神居尻地区の事務所まで行かなくてはいけません。「当別ふくろう湖」というダム湖を横目に見ながらロングドライブをしてダムカードをGETしました。時間的にもう一か所くらい行けそうだったので栗山ダムへ向かいました。(ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ) (2016/5/14)




去年は息子と二人だったので、この日は奥さんも一緒に当別ダムまでドライブです。当別ダムはやっぱりきれいですねえ。帰りは近くにあったジビエ工房に寄ってみました。味見してみたらおいしかったので鹿肉のソーセージ、プレーンと行者ニンニク入りを買ってきました。(2017/5/5)



