【史 跡 名】野幌屯田兵第二中隊本部
【訪 問 日】1996年9月21日・2001年6月23日
【所 在 地】北海道江別市野幌代々木町39
【訪 問 記】
江別の野幌駅前通を北に行くと江別第二小学校がありますが、その近くにこの第二中隊本部はあります。
野幌に屯田兵が入ったのは明治18年(1885)で、その年に138戸、翌年に87戸が移住し、計225戸の兵村として発展していきました。江別兵村は篠津兵村とあわせて第三大隊第一中隊を構成し、野幌兵村は第三大隊第二中隊となり、この中隊本部が建てられました。木造の洋風建築で中には屯田兵関係の資料が展示してあります。(1996/9/21)


湯川庭園の屯田兵屋を見たあと、第二小学校近くにある野幌屯田兵第二中隊本部へ行きました。写真を撮っていると、係の方が入りませんかとおっしゃって下さいましたが、以前入ったことがあるので今回は入らず中隊本部の写真と裏にある被服室の写真だけを撮って帰ってきました。(2001/6/23)




【史 跡 名】江別古墳群(後藤遺跡)
【訪 問 日】1999年8月4日
【所 在 地】北海道江別市元江別858-1
【訪 問 記】
北海道東北史研究会石狩シンポジウムの巡検、伊達邦直移住記念碑の次は江別古墳群です。ここは以前は発見した人物の名を取り「後藤遺跡」と呼ばれていましたが、一昨年国指定史跡となり「江別古墳群」という名になりました。ここは北海道式古墳と呼ばれる古墳が20数基も分布しています。本来はもう少し高さがあったようですが、現在では頂部の土がなくなり高さは数十cmぐらいになっています。(このすぐ近くに江別チャシがあります。)
昭和6年(1931)、小学校の教師だった後藤寿一氏がこの遺跡を発見。縄文中期から擦文期までの遺物が出土するが、特に北海道が擦文文化の時代となてからしばらくした8世紀後半に作られた東北地方の終末期古墳と同じ構造の「北海道式古墳」がこの周囲に広く分布しています。



【史 跡 名】樺太アイヌ慰霊碑
【訪 問 日】1999年8月4日
【所 在 地】北海道江別市対雁
【訪 問 記】
北海道東北史研究会石狩シンポジウムの巡検、江別古墳群の次は樺太アイヌ慰霊碑です。これは旧北電江別発電所西側の対雁墓苑内にあります。
明治8年(1875)の千島樺太交換条約によって、841人の樺太アイヌの人々は宗谷に移住させられましたが、黒田清隆はロシアとの接触を恐れ、追試雁に強制移住させました。開拓使は彼らに農業の指導や日本語の教育を行いましたが、石狩浜への出稼ぎや移住が相次ぎ、さらには天然痘の流行などで多くの人々が死亡するなど離散壊滅の運命をたどりました。(ちなみに石狩浜へ出稼ぎに来たアイヌ達がいたところは我が家の川向こうにある八幡町来札というところです。)
墓苑の奥の一画に樺太アイヌたちの霊を慰めるために昭和6年(1931)に建立された「樺太旧土人先祖之碑」がありました。またすぐ近くには1890年建立の本願寺北海道出張所長の手による「乗仏本願生彼国の碑」もありました。


【史 跡 名】千古園
【訪 問 日】2001年6月23日
【所 在 地】北海道江別市東野幌375・376
【訪 問 記】
恵庭まで用事があって出かけた帰り、時間があったので以前住んでいた江別の史跡をちょっと見てきました。
まずは千古園です。ここは以前に何度か来たことがありますが、この地に初めて入植し現在の東野幌・西野幌の基礎を作り上げた北越殖民社の2代目責任者関矢孫左衛門ゆかりの地です。
北越殖民社は明治19年(1886)に新潟県人の大橋一蔵・関矢孫左衛門が中心となって設立された開拓会社ですが、大橋の急死により衆議院議員の地位を擲って関矢孫左衛門は渡道し、村づくりに専念しました。
この一帯は孫左衛門が「道庵」と呼んだ茶室、髪や愛用品を埋めた留魂碑などがあり、千古園と呼ばれて史跡公園に指定されています。なかなか落ち着いたたたずまいの所ですよ(^^)





【史 跡 名】第三大隊本部火薬庫
【訪 問 日】2001年6月23日
【所 在 地】北海道江別市萩ヶ岡
【訪 問 記】
千古園のあとは、江別駅の近くにある江別小学校の所まで来ました。この周辺の丘にはかつて屯田兵第三大隊本部が置かれていました。その名残がこの火薬庫です。江別小の裏口の方にこの火薬庫はありますが、日本で唯一のレンガ造りの火薬庫で、明治19年(1886)頃に建てられたと推定され、建設当時は小学校の体育館付近にあり周囲に土塁が盛られていました。昭和9年(1934)に大隊本部は焼失しましたが、火薬庫のみ延焼をのがれました。
実は初めて見たのですが、なかなかきれいなものでした。




【史 跡 名】榎本公園
【訪 問 日】2001年6月23日
【所 在 地】北海道江別市工栄町
【訪 問 記】
第三大隊本部火薬庫のあとは、石狩川の河川敷緑地の近くにある榎本公園へ行きました。ここはその名の通り、箱館戦争の立て役者・榎本武揚が開拓使から土地払い下げをうけて農場を営んだ跡で、中央には札幌の方角を示す榎本の馬上像があります。(彫刻家本郷新の手になるもの)
また、この近くの河川敷はかつての対雁市街で、享保年間に石狩十三場所のひとつとして商場が開かれ、その後津石狩(対雁)番屋が置かれ、鮭漁と交通の要所として栄えました。公園の入口には「史跡 津石狩(対雁)番屋」の説明板も建てられています。



江別発祥の地

【史 跡 名】野幌屯田兵屋
【訪 問 日】2001年6月23日
【所 在 地】北海道江別市野幌寿町
【訪 問 記】
榎本公園のあとは、江別チャシにちょっと寄り、湯川公園へと向かいました。ここは明治19年(1886)、広島から入地した湯川忠継の給与地跡で、現在は公園として整備されています。園内には復元された屯田兵屋があり、日常品などが展示されています。普段は閉まっていますが、土日は開放し説明をして下さる方もいらっしゃいます。誰もいないと思って中に入ったら、説明員の方がいてちょっとお話をして帰ってきました。




【史 跡 名】篠津太養蚕室跡
【訪 問 日】2017年4月24日
【所 在 地】北海道江別市篠津
【訪 問 記】
江別は屯田兵が開拓した土地として知られており、江別屯田・篠津屯田・野幌屯田があり、江別屯田の遺構としては旧江別小学校近くに第三大隊本部火薬庫と被服庫(野幌屯田第二中隊本部裏に移設)があり、野幌屯田の遺構としては錦山天満宮横に第二中隊本部が残り屯田資料館となっています。
一方、篠津屯田の遺構はなく、写真1の「史跡 篠津太養蚕室跡」碑が唯一名残をとどめています。篠津太には2つの養蚕室があったそうですが、明治30年代には養蚕は衰えはじめ、その後リンゴ栽培が進められたものの、これも明治末期には衰退し米作や酪農に転換していったそうです。
写真3の「旧兵村」のバス停は、かつて篠津地区を横断していた当江線のもので、平成28年(2016)3月に廃止になった際に寄贈されたものだそうです。




【史 跡 名】江当軌道
【訪 問 日】2017年5月5日
【所 在 地】北海道江別市篠津
【訪 問 記】
この標柱は江別から新篠津方面へと向かう石狩大橋を渡った篠津・美原側の道路の道ばたにあります。江当軌道は昭和2年(1927)に営業を開始した当別と江別を結ぶ11.2kmの軌道で、当別の農産物や木材を江別に運ぶために敷設されたそうです。その後、札沼南線(札幌-石狩当別間)開通により利用が減少して、昭和11年(1936)わずか10年間で廃止されたとのことです。

【史 跡 名】クラーク博士記念碑
【訪 問 日】1998年5月31日?
【所 在 地】北海道北広島市島松
【訪 問 記】
北広島市と恵庭市の境となっている島松川が形成した島松沢にはいくつかの史跡があります。その一つがこのクラーク博士の記念碑です。
クラーク博士は明治10年(1877)4月16日、札幌在住わずか9ヶ月で大きな影響を与えて札幌を去りましたが、当時石狩国境だったこの島松駅逓まで学生・職員が見送り、ここであの有名な「Boys. be ambitius(青年よ大志を抱け)」の言葉を残して去りました。この決別を記念して昭和25年(1950)11月にクラーク奨学会の発起で、この記念碑がたてられました。この記念碑には英語と日本語でこのクラークの言葉が刻まれています。


【史 跡 名】寒地稲作発祥の地碑
【訪 問 日】1998年5月31日?
【所 在 地】北海道北広島市島松
【訪 問 記】
クラーク博士の記念碑のすぐ近くには寒地稲作発祥の地碑があります。
開拓開始当時、開拓使は北海道での米作りには消極的でしたが、開拓民の米作りに対する執念は根強く、各地で米作りの試みが続けられていました。そうした中、初めて道央以北で米作りに成功したのが、河内出身の中山久蔵でした。久蔵は苦心の末生産した種籾を石狩・空知・上川地方の移民に無償で配布したり、道庁の依頼で各地で稲作の指導をするなど、米どころとしての北海道の基盤を作りました。
そうした久蔵の功績をたたえ建てられたのがこの碑です。近くには久蔵が米作りに用いた暖水路跡や水田址、久蔵が栽培した赤毛種の見本田があります。



【史 跡 名】旧島松駅逓所
【訪 問 日】1998年5月31日?
【所 在 地】北海道北広島市島松
【訪 問 記】
クラーク博士の記念碑・寒地稲作発祥の地碑・のすぐ近くに国指定史跡「旧島松駅逓所」があります。
この駅逓所は明治6年(1873)札幌本道(函館-札幌間)の開通に伴い設置されたもので、木造平屋建てで、明治10年代に建てられました。明治14年(1881)の明治天皇北海道巡行の際の休憩所に当てられた部屋が現存し、1884年に現位置の中山久蔵宅に移設されました。
こうした駅逓所は当時各地にあったようで、たしか札幌市厚別区にある「開拓の村」内にも移築された駅逓所が展示されています。


【史 跡 名】恵庭渓谷・ラルマナイの滝群
【訪 問 日】2013年10月14日・2017年10月21日
【所 在 地】北海道恵庭市盤尻
【訪 問 記】
この日は恵庭渓谷の方に紅葉を見に行くことにしました。まずは漁川ダムへ。ここへ行くのは何年ぶりでしょう。20数年ぶりかもしれません。新任の頃にはじめて一眼レフを買ってここに写真を撮りに行ったのを覚えています。
そして、その奥のラルマナイの滝群へ。紅葉シーズンで大型バスも来ていて駐車場は満杯でした。ラルマナイの滝・三段の滝と見て、最後に白扇の滝に行きました。iPhoneで白扇の滝写真をパノラマで撮りましたが、意外ときれいに撮れて驚きました。(2013/10/14)






2013年以降、毎年この時期になると恵庭渓谷から支笏湖へ紅葉狩りに行くのが我が家の定番となりました。今年も漁川ダム→ラルマナイの滝→三段の滝→白扇ノ滝→支笏湖と回りました。今年はちょっと紅葉のピークを過ぎてしまったようで、盛りを過ぎた感じがやや残念でした。でも写真にあるようにところどころきれいな紅葉が残っていて、思わず写真に撮ってしまいました。最後の支笏湖に着いた時には、すっかり暗くなってしまい、これまた毎年の定番となった水の謌のパティシエ・ラボで「しこつ湖」と「たるまえ山シュー」を買って帰路に就きました。(2017/10/21)








【史 跡 名】漁川ダム
【訪 問 日】2013年10月14日・2017年10月21日
【所 在 地】北海道恵庭市漁平
【ダム情報】河川名:石狩川水系漁川、型式:中央コア型ロックフィルダム、ゲート:クレストローラーゲート×2門・オリフィスラジアルゲート×1門・ジェットフローゲート×1門・スルースバルブ×2門、完成年:1980年
【訪 問 記】
STVの「ブギウギ専務」という番組をご存じでしょうか?その番組で行っている企画に「ダムカード巡りの旅」というのがあります。もともとは、ブギウギ専務が休止している間にやっていたマハトマパンチという情報番組の一コーナーとして、同じスタッフが担当していた「流れ星雁太郎」というコーナーの企画として始まったもので、国土交通省が管理しているダムで発行しているダムカードを集めながら各地を巡るというものでした。我が家はその番組のファンだったので、うちでもダムカードを集めてみようかと思い、最初に行ったのが我が家からもほど近い恵庭の漁川ダムでした。(ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ)
実は私は1980年代後半恵庭に住んでいたことがあり、その頃にはじめて一眼レフを買ってドライブがてらこの漁川ダムやその奥の恵庭渓谷まで写真を撮りに来たことがあったので、懐かしい場所でもありました。(今でも毎年秋になると恵庭渓谷に紅葉を見によく行きます。)昔と変わらない姿で、うちの奥さんと子どもは初めてなのでうれしそうでした。このダムは漁川を岩石でせき止めたロックフィルダムという形式で、重力式コンクリートダムとともに最もよくある形式のダムです。春には桜、秋には紅葉と季節ごとに楽しめる場所でもあります。この日は恵庭渓谷の方に紅葉を見に行くことにしました。(2013/10/14)




ここ数年は、毎年のように恵庭渓谷から支笏湖周辺へ紅葉狩りに行くのが我が家の通年行事となっていますが、「今年もそろそろだね」ということで行ってきました。まずは漁川ダムです。紅葉はややピークを過ぎた感じでしたか。久しぶりに管理事務所をのぞいてみたら、なんとダムグッズが並んでいるではありませんか。宮島咲さんの「ダム大百科」に「ダムカード大全集」、さらについ最近出たばかりだというダムカレーガチャコレクションまで。しかもちゃんとケースに入って、「いつの日か、「漁川ダムカレー」が恵庭市内の飲食店で販売になり、さらにそのフィギアが作られることを期待しております・・・」というコメントまで添えられておりました。う~ん、漁川ダムの職員の方の中にはなかなかのマニアな方がいらっしゃるようです(^^;) (2017/10/21)




飾られていたダムグッズ

飾られていたダムカレーガチャコレクション

飾られていたダムカレーガチャコレクションの解説
【史 跡 名】キウス周堤墓群
【訪 問 日】2000年6月1日
【所 在 地】北海道千歳市中央
【訪 問 記】
長都チャシのあと、以前訪れたケネフチのチャシに向かいましたが、その途中にあるキウス周堤墓群にちょっと寄ってみました。
ここには4年ほど前に一度行ったことがありますが、今から3000年ほど前、縄文時代後期に作られたお墓です。昔はアイヌのチャシ跡だと思われ、「キウスチャシ」と呼ばれたこともありましたが、その後内部の窪地に石柱や墓穴が見つかり、大規模な墓地であることがわかりました。地面を丸く掘り、その掘った土をその周囲に土手状に盛り上げ、その内側を墓地にしており、周囲に堤があることから「周堤墓」と呼ばれていますが、「環状土籬」とも呼ばれているそうです。国指定史跡になっており、指定地内に8基あり、最も大きいもので直径75m、高さが5m、穴の深さが2mほどもあります。
丁度、真ん中を国道で分断されているものがあります。なかなか見応えがありますので、機会がありましたらご覧になってみて下さい。土塁好きの方にはおすすめかも(をい(^^;))



(丁度国道で真ん中から分断されています)

【史 跡 名】ウサクマイ遺跡
【訪 問 日】1996年9月7日
【所 在 地】北海道千歳市蘭越
【訪 問 記】
ここは4年前に石社研のフィールドワークで訪れたところです。この時にはキウス周堤墓群などにも行きました。ウサクマイ遺跡は縄文時代早期から擦文期にかけての村の跡で、私が訪れたウサクマイC遺跡は75個も竪穴式住居の跡が見つかっているそうです。
とはいっても行ったのは9月で草が生い茂っていてよくわからない場所もありましたけどね...(^^;)

