上川管内(0)
留萌管内(3)
秋田藩増毛元陣屋(増毛町)

【城 跡 名】秋田藩増毛元陣屋跡
【訪 城 日】2006年10月23日、2013年7月13日
【所 在 地】北海道増毛郡増毛町永寿町
【創建年代】安政3年(1856)
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
 秋田藩は安政3年(1856)5月、蝦夷地警護を命じられ元陣屋を増毛に置きました。その他に樺太と宗谷に出張陣屋を置き、夏の間はそちらで警備をし、冬の間は増毛に戻って越冬したようです。
 この増毛元陣屋は総建坪1160坪、平屋建28棟からなり、後年周辺に河川の水を導き入れ、濠としていました。陣屋外にも侍屋敷28軒、足軽長屋75棟を築き、150名から200名ほどの衛士が駐在していました。
 秋田藩は大暴風などの災害や京都守護の任務などから財政は火の車で、蝦夷地警備の免除を願い出ていましたが、慶応3年(1867)3月度重なる陳情により幕府は秋田藩の警備を免じ、秋田藩が警備していた増毛や宗谷は再び幕府の土地として上知されました。後年、この陣屋は山口藩の役人の住居として利用され、明治30年頃まで陣屋として残っていたそうです。
【訪 城 記】
 増毛には秋田藩の陣屋があったのを以前から知っていたので一度行きたいと思っていたのですが、夏に職場の職員旅行で増毛に行った時には国稀酒造や旧本間家などの建造物を見ただけで、陣屋展望台(遠望しただけ)も元陣屋(近くにあったのに気づかなかった)にも行けなかったので再訪しようと思っていたら、すっかり遅い時期になってしまいました(^^;)
 石狩から厚田・浜益と国道231号線を北上し、増毛の街に入る少し手前、暑寒別川にかかる暑寒別橋の手前に陣屋展望台があります。ここが、秋田藩増毛元陣屋第二台場跡です。そこにあった説明板によると、昭和45年、国道231号線の道路整備の際に出土した砲座から確認されたこの台場は、安政4年(1857)5月古茶内三吉神社岬台地に和製大砲二門の砲塁を築き、他に見張台、狼煙台を設け海上よりの防衛に当たっていたそうです。
 現在は陣屋展望台になっていまして駐車場もあり、気軽に訪れることができます。遺構らしきものは見あたりませんでしたが、台場跡の説明板、標柱、そして大砲のレプリカが置いてありました。
 それから増毛の街に入り、増毛駅の裏の砲にある増毛灯台の場所が第一台場跡らしいです。ここにも行ってみましたが、本当に灯台があるだけで第二台場跡のような説明板や標柱すらありませんでした。
 そして元陣屋跡。町役場や厳島神社から少し西に行った辺りにありますが、現在はそれこそ「元陣屋」という名前の総合交流促進施設(コミュニティセンターや図書館等を兼ねたもののようです。外観は「陣屋風?」)が建っています。丁度行った日は月曜日で建物の中には入れませんでしたが、中には若干展示もあるようです。建物の前に元陣屋跡の説明板と復元?井戸があるくらいが往時を偲ばせるものです。石垣(復元?)らしきものもあるという話を聞きましたが、これは良く分かりませんでした。(2006/10/23)


 この日は浜益でさくらんぼ狩りをした後、北上して増毛へ向かいました。第二台場跡にまず寄りました。雰囲気は以前と変わりありませんでしたが、「にしん街道」という標柱とニシン漁についての説明板が新たにできていました。(2年ほど前に建てられたようです。)
 その後は、以前見つけられなかった第一台場跡の標柱と説明板を捜しに、増毛町中心部へと向かいました。以前探索した灯台の一段下にあると聞いていたので、探してみるとあっさり見つかりました(^^;) 遺構らしいものはありませんが、すぐ目の前に増毛の町や海が一望できるので、台場跡としては最適な場所だったというのが感じられました。(2013/7/13)

津軽藩増毛勤番越冬陣屋(増毛町)

【城 跡 名】津軽藩増毛勤番越冬陣屋跡
【訪 城 日】2006年10月23日
【所 在 地】北海道増毛郡増毛町
【創建年代】文化6年(1809)
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
 文化4年(1807)、江戸幕府は仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じているが、津軽藩は宗谷・斜里・樺太の守備を命じられ、同年より交替出兵となった。しかし、北蝦夷地及び宗谷の気象条件が厳しく、特に冬期間の寒気により相当数の死者を出している。このため津軽藩は幕府に善処方を願い出、文化6年(1809)以降宗谷の越年を増毛に変更し勤番陣屋を築造している。
【訪 城 記】
 秋田藩元陣屋跡を訪れたあと、この津軽藩越冬陣屋跡の説明板が増毛駅と元陣屋跡の間にあるという話を聞いていたので、それを探し回ったのですがなかなか見つからず、そろそろあきらめかけていた頃に見つけることができました。場所的には旧本間家から国稀酒造側に少し寄ったところです。今は本当に街の中ですので説明板があるだけです。斜里の陣屋跡も同じような感じでしたが、幕末期ではなく、文化文政時代の築造ですから、遺構が残っていないのも仕方のないところですね。
 こんな北の大地で冬を越した津軽藩士達は本当に苦労したことでしょうね。

苫前 荘内藩脇陣屋(苫前町)

【城 跡 名】苫前 荘内藩脇陣屋跡
【訪 城 日】2013年9月21日
【所 在 地】北海道苫前郡苫前町香川10-1,11-1・2,12-1,13,15~17,42,45~47
【創建年代】安政6年(1859)
【歴史・沿革】
 安政6年(1859)年に荘内藩は幕府に西蝦夷地警備を命じられ、秋田藩領の増毛を除く浜益から天塩までを領地として与えられハママシケ(浜益)に陣屋を作って総奉行をおきました。
 この陣屋はその際に出張陣屋としてこの苫前に置かれたものです。
【訪 城 記】
 この日は久しぶりに道の駅巡りに行きました。まずは高速で留萌まで行き、そのあと国道232号線を北上しました。小平の道の駅のあと苫前に向かい、この陣屋の碑があるという場所を探しました。苫前の町の2kmほど手前で、古丹別川を渡ると左に分かれる細い道があるので左折し、またすぐに分岐があり、それを左に進むと草むらの中に何か見えたので、車を停めて草をよけてみると「陣屋の跡」と書かれた碑(というか標柱)を見つけました。陣屋の名前も表記されず、単に「陣屋の跡」としか書かれていない碑が草むらの中に埋もれている… まさに忘れられた史跡という感じです。

宗谷管内(1)
津軽・会津・秋田藩陣屋(稚内市)

【城 跡 名】津軽・会津・秋田藩脇陣屋跡
【訪 城 日】2016年8月9日・2025年8月2日
【所 在 地】北海道稚内市大字宗谷村字宗谷
【創建年代】文化4年(1807)?
【歴史・沿革】
 文化3年(1806)年~文化4年(1807)ににかけて、レザノフ率いるロシア海軍が樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり番屋をおそったりという事件が頻発していた、そのため幕府は文化4年(1807)宗谷地域を天領とし仙台・南部・会津・秋田・庄内の東北諸藩に蝦夷地警備を命じた。会津藩は総勢1558名が宗谷岬、利尻島、樺太に駐留し、津軽藩はソウヤに出張陣屋を築き警備に当たったが、宗谷の気象条件が厳しく、宗谷の越年を増毛に変更し勤番陣屋を築造している。
 文政4年(1821)宗谷場所は松前藩領となるが、安政2年(1855)宗谷場所は再び天領となり、秋田藩が出張陣屋を築き宗谷警備を行うこととなった。
【訪 城 記】
 道北旅行の二日目、増幌川口1・2チャシのあと宗谷岬へ向かう途中、宗谷公園の方へ向かう交差点でこの標柱を見つけました。周囲にはなにもなくこの標柱のみが往時を偲ばせるものですが、この奥の宗谷公園周辺には宗谷厳島神社・宗谷護国寺・旧藩士の墓などの史跡があります。


 2年ぶりの家族旅行、二日目は豊富町を出発し稚内へ。その後宗谷岬を目指し、そこから「白い道」を目指しました。そのゴール地点がなんと9年前に寄ったこの「津軽・会津・秋田藩陣屋跡」でした(^^;) (2025/8/2)