足利氏(古河公方)

 足利(古河公方)氏は足利将軍家初代・尊氏の末子・基氏を祖とする関東公方家に始まります。足利尊氏は関東の押さえとして、初めに弟の直義、ついで長男の義詮を鎌倉府の主としましたが、貞和5(1349)年次男基氏を義詮と交代させ、以後基氏の子孫が相承しました。しかし四代持氏は六代将軍義教と対立し、永享の乱で関東公方は一時断絶することになりました。
 持氏の四子永寿王丸は宝徳元(1449)年許されて関東に下向し、成氏を名乗って鎌倉府を再興しましたが、関東管領上杉憲忠と対立を深め、享徳3(1454)年憲忠を誘殺、将軍家の追討を受けることとなりました。駿河守護今川範忠らに鎌倉を攻められ、康正元(1455)年下総の古河に逃れ、以後そこを本拠とし古河公方と呼ばれることになります。成氏の子政氏は山内上杉顕定とつながりを深めましたが、政氏の子高基は政氏の態度に不満をもち、その後高基の弟義明が父に反旗を翻すと、ここに政氏・顕定勢力と高基・義明勢力の争いに発展し、関東が再び戦乱の巷と化していくことになりました。
 その後、義明は高基とも仲が悪くなり、上総真里谷城主武田信勝らに奉ぜられ下総小弓城に入り、小弓御所と称しました。天文7(1538)年、義明は里見義尭と結んで、古河公方足利晴氏・北条氏綱らと下総国府台で闘いましたが、敗れて義明は戦死してしまいました。
 その後晴氏の跡を義氏が継ぎましたが、その頃には公方とは名ばかりで、後北条氏の庇護のもとかろうじてその地位を保つばかりでした。しかし、天正11(1583)年義氏が没すると後嗣がなく古河公方家は断絶してしまい、その娘氏姫のもと近臣らの連判衆が家務を処理しました。
 天正18(1590)年、小田原落城後、氏姫は近臣とともに鴻巣館に移り、豊臣秀吉から堪忍分として三百貫文の地が与えられましたが、翌19年、小弓御所義明の孫国朝との縁組みを秀吉に命じられ、国朝が古河公方家の名跡を継ぐことになりました。国朝は父頼淳に従い下野喜連川に移り、喜連川氏を称しましたが、文禄2(1593)年朝鮮の役に出陣中に病死し、国朝の弟頼氏を元服させ、氏姫を再嫁させました。頼氏は兄の遺領3500石に加え1000石加増され4500石を領しましたが、古河公方の末裔という家格から十万石の格式を認められました。その後、九代彭氏の代に加増され五千石となり、明治維新を迎えました。維新時の当主縄氏は明治元(1868)年、喜連川氏から足利氏に復し、その子於菟丸の時には子爵に列せられました。
 この喜連川家とは別にもう一家、古河公方の血脈を伝えた系統があります。それは古河公方四代晴氏の弟である晴直の子孫宮原氏です。晴直ははじめ上杉憲房の養子となって憲広を名乗り関東管領を務めましたが、のち復帰して足利晴直を称し上総宮原に住して宮原御所と称しました。その孫義照は旗本となって千百四十石を知行して宮原を姓とし、その子孫は高家に列し維新まで存続しました。この宮原氏からは二度喜連川家に養子を送りこんでおり、そのつながりの深さを感じさせます。

新田氏

 新田氏は清和源氏の名流で、八幡太郎義家の三男で関東に土着した義国の長男義重を祖とします。義重は上野国新田郡の開発を行い、新田氏を興しました。しかし彼は源頼朝の挙兵の際に遅参したため、分家の山名・里見両氏の自立を許してしまい、また同族である足利氏にも数段の差をつけられてしまいました。その後も世良田氏・岩松氏などの庶流に所領を分け、次第に惣領家の統制力を弱めていきました。そして、三代政義は京都大番役勤仕中に勝手に帰郷し、自由出家をするという幕府禁令に背いた大罪を犯したため惣領権を没収され、ますますその勢力を弱めていきました。
 新田本宗家が総領の座に復帰したのは、政義の曾孫朝氏の代でしたが、その頃には新田荘内の土地の大半が北条得宗領と化し、世良田・岩松・山名など有力諸家への統制力はほとんど失われていました。そんな中、家督を継いだ朝氏の子義貞は、北条得宗家への反発もあって、元弘3(1333)年5月8日、一族とともに挙兵し鎌倉を目指して驀進しました。しかし幕府側の抵抗は意外に弱く、同年5月22日、北条一門は鎌倉東勝寺において自刃し、ここに鎌倉幕府は滅びました。
 義貞を始めとした新田一族は、建武政権から莫大な恩賞を受けましたが、次第に建武政権への不満をを深めていく足利尊氏ら武家派と対立し、義貞は公家方の総大将として足利勢との戦いを繰り広げていきました。しかし、延元3(1338)年7月、越前灯明寺畷にて足利勢との遭遇戦で戦死してしまいました。
 義貞死後家督を継いだのは、三男義宗でした。義宗も、父と同様足利勢との戦いに明け暮れ、各地を転戦し、正平7(1352)年には観応の擾乱を機として鎌倉奪還を敢行しました。しかし、新田軍の鎌倉占領はわずか16日で破れ、その後越後に潜伏しました。そして正平23(1368)年義宗と従兄弟・脇屋義治が率いる越後新田党は再び挙兵しましたが、関東管領上杉憲顕軍に破れ、義宗は越後村松郷で戦死しました。
 義宗の嫡男貞方は、弘和年間(1381~1384)陸奥信夫・白河両郡周辺で転戦しましたが、破れて地下に潜伏し、元中6(1389)年陸奥田村荘にて再び挙兵しましたがこれにも失敗しました、明徳3(1392)年の南北朝合一後もなおも戦いを続け、関東公方三代満兼が重病になり、鎌倉府が混乱に陥った時を狙って貞方は余党の糾合を図りましたが、鎌倉府に探知されて捕縛され、応永16(1409)年または翌17(1410)年斬死し、新田党の組織的な抵抗はこれをもって途絶えました。

 貞方には一子貞政があったと伝えられ、彼は武蔵国稲毛荘周辺に隠れ住み堀江新十郞を名乗りました。この堀江家の四代政貞は、後北条氏の家臣となりましたが、六代政邦の時に致仕して、相模国西富岡村に土着して、以後子孫は代々西富岡村の名主を務め、現在に至っているとのことです。
 また世良田郷に住した堀江氏は、同じく貞方の子・を祖としていると伝えられています。この新田堀江氏は、初代が上野国佐貫庄に移り舞木氏の客将となり、舞木氏滅亡後は赤井氏の家臣となり、天正年間には世良田郷に土着し、江戸末期には同じ世良田郷上新田の名家高橋忠兵衛家の養子となって高橋氏を名乗り、現在に至るそうです。

 また仙台藩伊達家の家臣中村氏は、同じく貞方の子と伝えられる貞長の子孫と伝えられています。貞長の子孫は、奥州伊達家の家臣となり、のちには中村姓を賜り一家に列し、4500石余を知行したとのことです。その分家は藤沢を称し、こちらも伊達家臣として400石を知行しています。

 また、貞方の弟・容辻王丸は同族岩松氏に養われ、のちには岩松氏の家督を継いで岩松満純を名乗りました。(ただし、年齢的な疑問があり、満純は義宗の子ではないとの説もあります。)
 上杉禅秀の乱が起こると、満純は新田満純を名乗り新田党を糾合し、禅秀に呼応して挙兵しましたが敗れて斬罪となりました。のちに満純の遺児長純(のち家純)は永享の乱の戦功によって岩松氏の家督を回復し、金山城(太田市金山)に移り住みました。しかし、次第に老臣横瀬氏(新田義宗の三男貞氏の子孫)が勢力を伸張させ、守純の代には金山城から逃れ、桐生郊外に隠棲しました。
 小田原の役後、関東に徳川家康が入国すると守純は家康に面接しましたが、その応対が家康の意を得ず、わずか二十石を与えられたに過ぎませんでした。守純の孫秀純の時に岩松姓に戻り百石を加増され、交代寄合四州に準ずる扱いとなりました。幕末の当主俊純は戊辰戦争に際し、上州で新田勤王党を結成して官軍に味方して戦い、その功績と新田義貞の末裔ということで男爵を授けられ新田姓に復し、その後現在に至っています。
 またこの新田岩松氏には支流が2系統あります。まずは秀純の庶子・半兵衛純嗣を祖とする清水氏です。長く民間にあり商人をしていたようですが、六代恒光の代に御家人株を買い、七代純畸は御家人から、維新後は新政府の役人となり岩鼻県少参事・磐前県権典事・飾磨県八等出仕・内務大麓などを歴任し、明治21年(1888)には新田姓に復しています。
 もう一つは守純の子・庄左衛門重政を祖とする脇屋氏で、はじめは御家人でしたが三代義矩の代に岩松氏に復し、四代純睦の代に旗本の列に進み、純睦とその子純春は代官をつとめています。

 また、貞方・満純の弟貞氏は父義宗が討たれたとき、未だ幼少で、家臣の横瀬時清に養われ、のちその婿となって横瀬を称したと伝えられています。ただ、横瀬(由良)氏が新田氏の子孫というのは仮帽で、後に主家の威勢を越えた際に主家の家系を詐称したものと思われ、もともとは小野姓猪俣党のようです。
 横瀬氏は、四代国繁の代には岩松家の執事としての位置を確立し、その後は主家・岩松氏をしのぐようになり、、八代成繁の頃には主家に変わって金山城主を務めるようになり、先祖・新田政義が新田庄由良郷内に住んで由良を号したという家伝にもとづき、由良氏を称するようになりました。その後は、上杉氏、ついで後北条氏に属して、豊臣秀吉の小田原攻めの際にも、九代国繁とその実弟・長尾顕長は小田原城に籠城しました。しかし、秀吉の部将前田利家が上野国にはいると、国繁の母妙印尼は孫貞繁を連れて利家に会見し、秀吉から常陸牛久領五千石余を与えられました。
 その後由良氏の嫡流は、一旦改易の憂き目にあいますが、千石の知行を再び与えられ、子孫は旗本高家に列し、維新まで続きました。また、その支流は2系統あり、横瀬を称して知行千石で高家を務めた貞顕の系統と、二百俵を与えられ旗本となった貞寛の系統が維新まで続きました。
 由良氏嫡流の幕末期の当主・貞靖は高家肝煎を務め、慶応4年(1868)には本姓新田に復し、維新期には朝廷に帰順し朝臣として中大夫席を与えられました。その後は士族に編入され、貞観、その後を継いだ貞康、貞靖娘観光尼が授爵・華族昇格を誓願しますが、不許可となりました。

 またこの他にも、義宗の子という小太郎義則を祖とする山士流新田氏、同じく義宗の子という義時を祖とする肥後酒井氏、同じく義宗の子新田四郎義一を祖とする後閑氏など、新田氏の末裔を名乗る一族は各地にありますが、その信憑性については何ともいえません。

世良田氏

 世良田氏は新田氏の祖義重の四男義季を祖とします。彼は家督を継いだ兄義兼に次ぐ所領を父義重から譲られており、義季かその母が父義重に特別に愛されていたと考えられます。成長した義季は世良田郷に館を構え、世良田氏を称するようになりました。また惣領家の新田政義が失態を重ね、総領の地位を没収された後、新田一族の惣領権はこの世良田義季と岩松時兼がそれぞれ「半分ノ惣領」に任じられた(義季は一族を代表して鎌倉に勤仕した。)ことからも、世良田氏の一族内での地位の重さが感じられます。
 義季の死後、その「半分ノ惣領」の地位は次男頼氏に受け継がれたようで、宗家の政義が果たせなかった国司就任も果たし、彼は三河守を名乗っています。しかし北条得宗家の専制体制が成立していく中で世良田氏に対しても次第に圧力が強まり、ついに文永9(1272)年頼氏が勘気を被って、佐渡に配流となるという事件が起こり、頼氏はついに帰郷することなく佐渡で死を迎えました。
 頼氏の家督を継いだのは次男教氏で「半分ノ惣領」も同時に受け継いだようですが、その子家時は父より早く没し、その跡を継いだのは家時の三男満義でした。満義は宗家の新田義貞とともに鎌倉を攻め、霊山攻撃では一方の大将となりました。しかし、義貞死後は世良田に隠棲し、嫡男政義が南朝方として各地で戦い続けました。政義は宗良親王、その子尹良親王に仕え、下野・信濃などを転戦しましたが、信濃国浪合村にて尹良親王とともに討ち死にしました。その際、政義の子政親と尹良親王の子良王は難を逃れ三河国に移りましたが、政親はそのまま三河国で没したとも、下野国真船村で没したともいわれているようです。

 一般的な系図などには、この政親の子孫は載っておらず、政親の弟親季の子有親とその子親氏が北朝方の追捕を振り切り三河国に潜伏し、松平郷の松平太郎左衛門信重家に入り婿して松平親氏と名乗り、その子孫が後に江戸幕府を開いた徳川家康だということになっていますが、これはかなり疑問です。この松平氏は賀茂氏とも在原氏ともいわれていて、世良田氏の子孫であるというのは仮帽でしょう。家康の祖父松平清康は「世良田二郎三郎」を名乗っていたことがありますが、これは東から三河を圧迫する今川氏に対抗して新田支流の血筋を主張したものと言われています。
 いずれにしても、世良田氏の血統は南北朝の戦乱の中で散り散りとなり消え去っていったと思われていました。

 しかし、会津にこの政親の子孫という真船(世良田)氏という一族がいることがわかりました。その家伝によりますと、政親のあと世良田氏を継いだのは政親の姉と新田義宗の子義則(貞方)で、義則とその子貞邦は各地を転戦し、義則は相模国底倉で襲われて討ち死にし、貞邦も挙兵の謀がもれ捕らえられて七里ヶ浜で斬られてしまったため、真船村で生まれ育てられた義則の三男祐義が世良田氏を継ぎました。祐義は、父や兄のように南朝の武将として生きる道ではなく、土豪となって一族の安泰を図る路を選び、その子孫は真船氏を名乗って太田氏や武田氏などに仕えました。
 そして十三代祐親の長男祐充は真船村に残って真船氏を名乗り、次男祐元は会津の芦名氏に属する安積庄赤津領主伊藤弾正正綱に仕えました。しかし、伊達政宗によって芦名氏が滅ぼされると、仏門に入り赤津の大楽院(のち真光院)の跡目を継ぎ、以後代々真光院の神職を世襲しました。
 二十八代宥教は会津戦争の際に「修験隊」を組織して新政府軍に向かいましたが、白河口で戦死し、三十代繁利の代に神職を一族良田氏に譲り、赤津を離れました。

小山氏

 小山氏は秀郷流藤原氏の流れで、太田行政の子政光が下野国小山庄に居住し、小山四郎と称したのが始まりです。政光の嫡男朝政が小山氏を継ぎ、弟宗政が長沼氏の、朝光が結城氏の祖となりましたが、小山氏は代々下野国権大介職および押領使を世襲し、また鎌倉時代は一貫して下野守護を務め、幕府においても重きをなしました。
 ところが、南北朝時代になると義政は南朝方となって宇都宮国綱と戦い、永徳2(1382)年に自殺、その子若犬丸(隆政)も奥州に逃れ、応永4(1397)年会津にて自害し、小山氏の嫡流は断絶してしまいました。
 しかし関東公方足利氏満は関東の名族小山氏の滅亡を惜しみ、同族結城基光の次子泰朝に小山氏の名跡を継がせることとなりました。(重興小山氏) しかし、もはや鎌倉時代のような勢威は失われ、結城氏の指揮下におかれていました。そのため小山・結城両氏の関係は冷え切り、結城合戦の際も持政は伯父結城氏朝やこれに味方する叔父の小山広朝良を激しく攻撃しました。結城合戦後は、その功によって下野守護職も回復し、重興小山氏の最盛期を築き上げました。
 そして、戦国末期の当主秀綱の代には、上杉謙信と北条氏康・氏政父子との間で去就に迷うこととなり、天正3(1575)年には後北条氏によって本拠祇園城を開城し、佐竹義重を頼りました。天正10(1582)年には後北条氏と和睦し小山に復したものの、以後は後北条氏傘下の一城主に過ぎず、小田原の陣の際も後北条氏と運命をともにしました。
 秀綱は所領を没収され、浪々の身となり、子の秀広に家督を譲りましたが、秀広に先立たれました。秀広の子秀恒が家督を継ぎ仕官を目指していましたが果たせず、秀恒の子秀泰の時にやっと下総山川藩水野忠元に客分として迎えられました。忠元の子忠善が駿河田中に転封となると、秀泰は郷土の地と離れがたく致仕し、再び浪々の身となりました。
 秀泰の跡は弟秀堅が家督を継ぎ寛文5(1665)年、水戸家に仕えることとなり、以後代々水戸家の家老職をつとめ、幕末を迎えました。
 そして現当主泰朝氏は現在先祖の地小山に住んでいらっしゃるとのことです。

里見氏

 里見氏は清和源氏新田氏流で、新田義重の子義俊を祖としています。二代義成は源頼朝挙兵の際に京都から鎌倉に馳せ参じ、その後頼朝の側近として近侍していました。しかし、その後の庶家の分立によって家領を分割し、鎌倉末期には里見氏は地方の一土豪と成り果てていました。
 新田氏惣領の新田義貞が鎌倉幕府に反旗を翻した時、里見氏惣領の里見義胤もこれに参陣しましたが、その後の南北朝内乱の中で里見一族は南朝方にとどまるもの、あるいは室町幕臣となるものなど四分五裂となっていきました。
 そして室町中期頃、里見家兼は常陸小原城主となっていましたが、その子家基の代に永享の乱が起こりました。家基は関東公方足利持氏方に属したものの敗れ、持氏の遺臣が起こした結城合戦にも参陣しました。家基は最後まで勇戦して戦死しましたが、その子義実は安房に入部し、白浜城を拠点として一代で安房一国を平定しました。
 以上が今までの定説でしたが、近年では、持氏の子成氏が関東管領上杉憲忠らと対立して起こった享徳の大乱の際に、成氏によって上杉氏の勢力を房総から駆逐する為に派遣されたのが里見義実だったとし、その子二代義成(成義)は年代の整合性をもたせるために創作された人物であると言われています。また義実自身の出自も、関東里見氏から別れて室町幕臣となった美濃里見氏の出身であるとの学説も出されているそうです。
 また三代義通の死後、子義豊が幼かった為、義通の弟実尭が家督を継いだが、なかなか家督を返そうとしない実尭を義豊が急襲して自殺させ、その後義豊と実尭の子義尭の抗争が繰り広げられ、最終的に義尭が義豊を討ち、里見氏の家督を継ぐことになった、というのが通説でしたが、これも義尭以降の後期里見氏が嫡流を滅ぼしたことを正当化する為に創作されたもので、実際には実尭は家督を継いでおらず、正木氏と結んで勢力を拡大した実尭を義豊が恐れ、稲村城に召喚した上で殺害したというのが真相のようです。
 ちなみに義豊の子家宗(義貞・義員)は越後に奔り、越後里見氏になったといわれています。

 いずれにしても、嫡流を滅ぼすことで。義尭は里見氏の宗主権を握り、上総の久留里城を拠点としてその子義弘とともに後北条氏と対決し房総里見氏の全盛期を築き上げました。しかし次第に後北条氏に圧迫されました。義弘の死後、養子となっていた弟義頼と実子梅王丸の相続争いが起こったが、義頼が勝利し梅王丸は捕らえられて出家させられてしまいました。
 義頼の子義康は、上総の奪回に手間取ったため小田原参陣に遅れ、上総を没収されて安房一国のみを安堵されました。関ヶ原の合戦には徳川方にあって下野宇都宮に出陣し、戦後常陸国鹿島郡三万石を加増されました。また、弟義高(忠重)も上州板端にて一万石を知行されました。
 義康の死後は、子忠義が家督を継ぎましたが、妻の祖父大久保忠隣の改易に連座して、慶長19(1614)年領国安房を没収され、伯耆倉吉三万石に転封となってしまいました。とはいっても、これは事実上の配流で、元和3(1617)年には三万石を召し上げられて百人扶持となり、同8(1623)年家名再興もかなわぬまま、病没しました。

 彼は正室大久保氏との間に二女がありましたが、男子がなかったため家名断絶となりましたが、実はこの二女の他にも今知られるだけで三人の男子がいたといわれています。
 まず豊後利輝は、忠義が倉吉に改易になった際、2歳でしたが、家臣に託されて房州に残り、世に出る機会のないまま31歳で没しました。その孫義旭は上州高崎藩主間部詮房に仕え、次の義孝は越前鯖江藩主となった間部詮言の家老となり、以後鯖江藩の家老職を世襲して幕末まで続いたそうです。この義孝とその子義徳、孫義豪は、祖先里見氏の事績を熱心に調べたり、各地の里見氏の史跡を整備したりしているそうです。
 次に山下休三貞倶は、山下休三という人物の娘と忠義との間に生まれ、寛永11(1634)年150俵取りの表坊主として幕府に召し抱えられたとのことですが、仮にもその数十年前まで国持大名であった忠義の子としてはあまりにも待遇が低く、ちょっと信じられません。滝川恒昭氏は『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史』の中で「庶流の出身だったのではなかろうか。」と書いています。また同書によると、貞倶の子孫で幕末の当主里見啓次郎は二百俵取りの御家人で、その子義氏は維新後主家に従い駿府に移住するも、廃藩置県後は零落して房州に移住し、船形の正木家に寄寓し、さらにその子孫は富浦の代田家に寄寓し、大正期以降は行方不明となったそうです。
 もう一人は忠三郎義次といい、母は広部高次という人物の娘で母方の姓を冒して広部と称し、のち若狭国小浜に移住し、その子孫は天明年間(1781-1789)に里見姓に復し、現在に至っているそうです。
 その他にも君津市の田中家など里見忠義の子孫を名乗る家が何家か存在するとのことです。

三浦氏

 三浦氏は桓武平氏良文流でであると言われています。しかし、諸系図類によってその代数が違っていたり、名前が違っていたりと疑問な点が多くあり、三浦氏が桓武平氏であるというのは後世の仮託で、実は古代以来三浦半島に根を張っていた豪族の出ではないかとの説もあります。
 いずれにしても、鎌倉時代の三浦氏は後三年の役で源義家のもとで軍勢を率いていた為継を「嚢祖」と言っており、その子義継の代には三浦半島の支配地を三浦荘となし、自らは荘司となって支配していたようです。
 義継の子義明は三浦介あるいは三浦大介と称して相模の国衙をも支配し、一族を相模中心部に配して、三浦党と呼ばれる武士団を形成していました。源頼朝が平氏追討を称えて挙兵した際には、平氏軍の攻撃を受け、衣笠城で義明が討ち死にしたものの、鎌倉幕府成立後はその子義澄が相模守護となり、その子義村、孫泰村と幕府内で北条氏に次ぐ勢力を誇る有力御家人となりました。
 その結果、北条氏との対立が高まり、宝治元(1247)年、北条方の攻撃を受け、泰村は一族276人を含む500余人とともに法華堂(頼朝の墓所)で自害し、三浦氏嫡流は滅びました。
 この際、同族の佐原盛連の子等は北条方に加わり、宗家滅亡後は盛連の子盛時が三浦介を継承しましたが、相模守護は不設置となって三浦氏の手から離れ、以後の三浦氏の力は往時に比べるとかなり衰えたようです。
 南北朝期、足利方に味方して功のあった三浦高継は本領を安堵され、その子高通の代には相模守護職を回復しました。その後、高連高明と相模守護職を継承しましたが、関東公方足利持氏は三浦氏の相模守護職を奪い自分の母の出身である一色氏に与えてしまいました。そのため持氏が幕府によって討伐された永享の乱の際、高明の子時高は幕府方に寝返って鎌倉に攻め入りました。三浦氏の勢力を回復した時高でしたが、男子に恵まれず、上杉高救を養子として三浦介を名乗らせましたが、やがて高救が上杉氏に復したため、高救の子義同を養子としていました。しかし、晩年に実子が生まれると時高は義同を疎んじ殺そうとしたため、義同は外戚大森氏の助けも得て時高の拠る荒井城を攻め破り、三浦氏を継ぎました。しかしその義同も、伊豆から西相模へ勢力を伸ばしてきた伊勢宗瑞こと北条早雲と対決することとなり、数年間に及ぶ籠城戦の末、その子義意とともに討ち死にし三浦介の家系はここに途絶えました。

 義同・義意父子で嫡系三浦氏は滅びましたが、房総の正木氏はその後裔といわれています。正木氏の祖通綱(時綱)は義意の弟とも義意の子あるいは時高の子ともいわれ、三浦氏滅亡の際に安房国に渡り、のち正木氏を名乗って里見氏の家臣となったと言われていますが、その確証はなく、それ以前から房総に勢力を持っていた三浦氏系の一族の中から戦国期に台頭してきたのが通綱ではないかとも言われています。
 いずれにしても、通綱にはじまる正木氏は里見氏の家臣というよりもその「同盟者」ともいうべき性格をもっていたと思われます。そして通綱の子の代には時茂が大多喜城主、時忠が勝浦城主となり、上総の領国化に力を入れました。時茂の子憲時は里見氏に背き大多喜城を落とされ家臣に殺されてしまいました。憲時には子がなかったため里見義頼の二男が名跡を継ぎ正木弥九郎時茂と名乗りました。時茂は里見氏が倉吉に転封になった際には倉吉を領する因幡鳥取藩池田家に預けられ、のち病死しましたが、その子孫は池田家が岡山に転封する際にも行動を共にし、のち千五百石取りの上士として家臣に列せられたとのことです。
 また時忠の系統は長子時通が跡を継いだものの父に先立って没したので、弟頼忠が跡を継ぎ勝浦城主となりましたが、天正18(1590)年の上総没収以後は安房に帰り、入道して環斎と号しました。頼忠の娘お万はのちに徳川家康の側室となり、紀伊の徳川頼宣、水戸の徳川頼房を生んだため、兄の為春は徳川家康に召され、紀伊徳川家の家老となって三浦氏に復しました。その子孫は代々紀伊徳川家の家老をつとめ、明治以後は男爵となりました。
 また、為春の弟康長は正木左近と名乗り幕臣旗本となり、子孫は千石の上級旗本として存続しました。

 その他に三浦氏の末裔といわれているものとしては、江戸期に美作勝山藩主となった三浦氏があります。この三浦氏は三浦嫡宗家の泰村の弟家村の子孫といわれており、江戸初期正次が徳川家光に仕えて若年寄となり、寛永16(1639)年下野壬生2万5000石で諸侯に列し、明和元(1764)年、明次が美作勝山2万3000石に入封し、明治期の顕次の時に子爵となっています。
 また、戦国期に美作高田城主だった三浦氏は、南北朝期に美作国真嶋郡の地頭となった貞宗を祖としますが、貞宗は佐原系三浦宗家の祖盛時や芦名氏の祖となった光泰(光盛)らの末弟六郎左衛門尉時連の孫であると言われています。その後在地豪族として勢力を築き七代貞連の時に全盛期を迎えました。しかし、その後尼子氏や毛利氏の攻撃を受け、十一代貞広の時に高田城を毛利氏に明け渡しました。貞広の子孫は民間に下り、苫田郡奥津村に土着したとも、真庭郡草加部に土着した、三船氏を号して大庄屋になった、後藤氏あるいは近藤氏と号した等々、様々な伝承があるようです。

宇都宮氏

 宇都宮氏は藤原氏北家流の関白藤原道兼の孫兼房の子宗円に始まるとされています。しかし『尊卑分脈』では宗円の子宗綱の所に「中原宗家之子」という注記がされているなど中原氏の一族の出身という説もあります。宗円については不明な点が多く、天台座主あるいは日光座主・宇都宮座主などとする所伝も疑問視されています。
 二代宗綱は当初常陸国真壁郡八田を拠点としていましたが、次第に下野に進出し、後には嫡子朝綱とともに宇都宮に本拠を移し、下野の在地領主としての基礎を固めていきました。三代朝綱は源頼朝が挙兵した際に帰属し、所領を与えられ鎌倉御家人となるとともに、宇都宮検校職を安堵されました。のちには伊予守護にも補任され幕府内での地位も高まっていきました。鎌倉後期には北条一門との婚姻政策をとって、北条氏との結びつきを強めることで幕府中枢へ参画を果たしていきました。それは八代貞綱、九代高綱(のち公綱)と北条得宗家の偏諱を受けていることからも理解できます。しかし、公綱は鎌倉幕府の滅亡後は後醍醐天皇方に降伏し、足利尊氏が反旗を掲げたのちも天皇方の立場をとりました。
 しかし公綱の嫡子氏綱は終始足利方に属し、やがて上野・越後の守護に補任されました。しかし上杉憲顕が関東管領に復帰すると守護職を取り上げられ、勢力を大きくそがれました。その後、基綱満綱と勢力回復に励みましたが、満綱には男子がなく、娘婿として一族武茂綱家の子持綱を迎え家名存続を図りました。しかし武茂氏出身の持綱に不満を抱いていた一族の塩谷伯耆守に殺害され、宇都宮氏は再び大きな危機を迎えました。
 持綱の謀殺後、その子等綱はしばらく諸国を流浪していたといわれますが、のち宇都宮に帰還し、結城合戦に際しては幕府軍に加わり、足利持氏の遺児成氏の関東復帰後も幕府側について反成氏の立場をとったため、宇都宮城を攻撃され敗北しました。その子明綱は父とは逆に古河公方方に属しましたが、若くして没し子がなかった為、芳賀成高の子正綱を養子に迎えました。その後は芳賀氏が勢力を増し、正綱の子成綱の頃は、従兄弟の芳賀景高が絶大な権力をふるい、家中は成綱派と景高派の二つの派閥が形成されました。それを危惧した成綱は忠綱に家督を譲る際に、芳賀景高の子高勝を粛正し、芳賀氏へ弟の興綱を送り込みました。忠綱は武茂兼綱・芳賀興綱・塩谷孝綱の三人の伯叔父に支えられていましたが、大永6(1526)年、芳賀興綱は忠綱に叛し、宇都宮城を奪取して宇都宮当主の座を得ました。
 その後、俊綱(尚綱)・広綱と続き、広綱の時代の後半からその子国綱の時代は芳賀高継が家政の中心になり、後北条氏の侵入に必死に抵抗しました。
 そして、天正18(1590)年小田原参陣を迎え、豊臣大名として存続することになりましたが、慶長2(1597)年9月に突如改易され、備前岡山の宇喜多氏に預けられました。国綱は翌年の朝鮮出兵の戦功で御家再興を目指しますが、ついに果たせず、その後国綱の子義綱は水戸藩に召し出され、子孫は家老などをつとめ維新を迎えました。
 また、国綱の弟は結城晴朝の養子となって七郎朝勝と名乗り、結城氏の継承者となりましたが、豊臣秀吉縁者の結城氏への養子話が持ち上がると、朝勝は結城からの退去を余儀なくされ、実家の宇都宮氏に帰りました。慶長2年に宇都宮氏が改易になると、兄・国綱の説得で関東にとどまって従兄の佐竹義宣の許に身を寄せ、関ヶ原の合戦の時は上杉景勝軍に参陣しましたが、徳川方の勝利で佐竹氏が出羽久保田(秋田)に転封になると、朝勝もこれに従い、やがて宇都宮姓に復し、宇都宮恵斎宗安と名乗りました。その後は客分の待遇を受け、男子がなかったので真壁重幹の次男を養子として跡目を継がせ、以後は佐竹氏の重臣として代々続きました。

 ※ 水戸藩士宇都宮氏については蔵屑斎(くらのすけ)さんに、秋田藩士宇都宮氏については
   松本好晴さんにご教示をいただきました。どうもありがとうございます。

下総千葉氏

 千葉氏は桓武平氏良文流で、その祖平良文の子孫は上総・下総・武蔵など関東南部に広がりました。良文の孫忠常は下総・上総を地盤とし長元元年(1028)叛乱を起こしまし、征伐されましたが、その子常将は赦されて上総権介・下総介となり、下総国千葉郡に住み、千葉氏を称したと言われています。
 常将の曾孫常重の頃には、相馬郡を開発し、相馬御厨の下司となり、それまで本拠としていた大椎城(千葉市大椎)から千葉城(千葉市亥鼻山)に移り住んだと言われています。
 常重の子常胤は下総権介に任じ、千葉介を称しました。そして源義朝の部下として活躍し、治承元年(1180)義朝の子頼朝の挙兵に際しては、いち早く参陣し鎌倉幕府創業の功臣として頼朝の厚い信頼を得て、幕府創設後は下総守護職に任じられ、その嫡流は代々この職を継承しました。また常胤の子息六人は、世に千葉六党と称せられ、嫡子胤正は千葉本宗家を継ぎ、次男師常は相馬郡をうけ相馬氏を、三男胤盛は千葉郡武石郷・奥州宇多郡を領して武石氏を、四男胤信は香取郡大須賀保を領して大須賀氏を、五男胤通は葛飾郡国分郷を領して国分氏を、六男胤頼は香取郡東荘を領して東氏を称し、下総各地に蟠踞して、勢力を扶植しました。
 千葉市の本宗家は以後歴代が千葉介を通称とし、成胤の娘(千田尼)が北条時頼の後室となるなど執権北条氏とも密接な関係を結びました。蒙古襲来の際には肥前小城郡に所領を持つ頼胤が文永の役に出陣し、傷を負って小城の地で他界したため、長子宗胤が引き続き防衛のため九州に滞留しましたが、永仁2年(1294)30才で没したため、下総在住の弟・胤宗が千葉介を継承したため、胤宗の子貞胤が嫡家となり、幼少であったため千葉介を継げなかった宗胤の子胤貞は一族として脇役の立場となりました。
 南北朝期は、貞胤は南朝方に、胤貞は北朝方に属して対立しましたが、貞胤が足利方に属することで終息し、胤貞は九州へ下向し小城を本拠とする九州(肥前)千葉氏の祖となりました。
 貞胤の子氏胤の没後、幼年の満胤が家督を継ぐと、一族庶流や有力家臣らは独立性を強め、千葉介の実力は弱体化しつつありました。上杉禅秀の乱に際し、満胤の子兼胤の妻は禅秀の娘であったため、満胤父子は禅秀側に参加しましたが、戦況の悪化により鎌倉公方足利持氏に降伏し、所領は何とか安堵されました。
 その後、持氏と関東管領上杉憲実の対立が激化すると兼胤の子胤直は上杉方に投じ、永享の乱では上杉方に属し持氏を自殺に追い込み、結城合戦では結城城を攻め落としました。持氏の子成氏が鎌倉公方となると成氏を支持したものの、成氏と上杉氏の対立が深まると、成氏に背き上杉氏の側に組しました。享徳4年(1455)成氏党の原胤房に千葉城が襲われると、胤直・胤宣父子は敗れて千田荘に逃れましたが、胤直の叔父で下総馬加城主の康胤も成氏に味方し、胤直・胤賢兄弟および胤宣は自害し、成氏は康胤の系統に千葉氏の本宗家を継がせました。一方、上杉氏は胤直の弟胤賢の子実胤・自胤を助けて、市川城(市川市国府台)を与えて千葉氏を再興させ、千葉氏は古河公方側と室町将軍側に分裂し、さらなる衰退を余儀なくされました。
 実胤・自胤兄弟はその後市川城を追われて、武蔵国石浜・赤塚両城に拠り武蔵千葉氏を称して下総千葉氏と対抗しました。武蔵千葉氏はその後、小田原の後北条氏の配下となり、胤宗の死後はその娘を娶った北条氏繁の息子・二郎胤村(のち直胤)が家督を継ぎましたが、家中騒動によって石浜領を没収され武蔵千葉氏は断絶しました。
 一方、下総千葉氏は孝胤の頃に荒廃した千葉城から佐倉城に本拠を移し、古河公方側に属していましたが、しだいに後北条氏との関係を深めていきました。天文16年(1547)親胤が千葉介を継ぐと、その驕慢な性格が一族諸臣に疎んじられ、弘治3年(1557)家臣により殺害され、叔父の胤富が千葉介を継ぎました。胤富の没後は次男良胤が家督を継ぎますが、、親後北条氏の重臣に隠居させられ、公津城に幽閉され、さらに陸奥国伊達郡に追放され、双子の弟邦胤が家督を継ぎました。
 良胤はその後、子の当胤と出羽に移り、その子孫は下総国武田村に定住しました。また良胤が陸奥に残した子道胤は陸奥栗原郡照越領主矢目氏に仕え、その子久胤の子孫は真坂村に土着して酒造業等を営み、現在に至っています。また、道胤の養子常道の子孫は玉造郡下真山村領主白川氏に仕えて家老職等を務め、現在に至っています。
 邦胤が没すると、後北条氏は北条氏政の七男・七郎直重と邦胤の娘の婚姻を進め、直重を千葉介に就任させ、佐倉領を直接支配しようとしました。そのため、邦胤の妻と嫡子重胤らは小田原に送られ、人質とされました。
 小田原の陣で後北条氏が滅ぶと、直重は蜂須賀正勝に預けられ、のち蜂須賀家に仕え五百石で召し抱えられました。直重の跡は蜂須賀家の宿老・益田豊正の三男・熊之助が養子となり、大石重昌を名乗りました。重昌はのち暇願いを出し浪人しますが、重昌の次男直玄が新知二百石で分家し、直玄の孫直武の代に、「大石」姓から後北条氏の本姓「伊勢」に改姓し、以後幕末まで代々徳島藩士でした。
 また重胤は小田原の陣で後北条氏が滅びると佐倉領を失い、以後江戸にて浪人をしており、寛永10年(1633)亡くなりました。一般的にはこれで千葉本宗家は断絶したと言われていますが、重胤の死後は弟・俊胤が千葉宗家を継ぎ、その跡は重胤の子定胤が千葉氏を継承しました。(但し一般的には重胤に子はなかったとされています)
 定胤が慶安2年(1649)病死すると、嫡男七之助完胤も早世していたため、千葉家の旧臣は宗家の相続者を探し、下総国武田村に住んでいた良胤の孫・知胤を見いだし、知胤が千葉宗家を継承しました。そして千葉宗家は江戸時代後期に江戸本所に移って医師を営み、現在に至っています。
 また俊胤の長男胤正の系統は浅草鳥越神社の神主をつとめて「鏑木」姓に改め、次男正胤の系統は代々浅草第六天神社の宮司をつとめました。

 ※千葉氏の子孫については「千葉一族」を大変参考にさせていただいています。どうもありがとうございます。

後北条氏

 後北条氏は戦国時代、関東を制した戦国大名の雄ですが、その家祖・北条早雲こと伊勢新九郎(諱は長氏とも氏茂とも云う)は従来伊勢出身の素浪人から周囲を切り取り戦国大名化していったと考えられていましたが、今日の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の一族で、備中高越山城主伊勢盛定の子で、一族・伊勢貞道の養子となった伊勢新九郎盛時であると考えられています。
 早雲は初め、将軍足利義政の弟・義視の近侍として仕えていましたが、応仁の乱の時に伊勢に下り、その後、駿河守護今川義忠に嫁ぎ、その嗣子竜王丸(後の氏親)を産んでいた妹北川殿の招きで駿河に下り、竜王丸が家督を継ぐ際の功績で駿河興国寺城主となり、それを基盤として伊豆に討ち入り、堀越公方を滅ぼし、小田原の大森藤頼を攻め、三浦半島の三浦義同・義意父子を討ち、伊豆・相模二国をその手にしました。
 早雲の死後、家督を継いだ嫡子の氏綱(北条氏を称す)は、さらに武蔵へと進出し、扇谷上杉氏・里見氏を破り、三代氏康の代には、扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏を越後に逐い、関東の旧勢力の代表である両上杉氏から関東の覇権を奪いました。
 越後に逃れた山内上杉憲政から山内上杉氏の家督を継いだ上杉謙信が何度も関東に攻め寄せましたが、氏康の息子を謙信が養子として景虎を名乗らせることで一時は同盟関係を結びました。しかしそれも氏康の死によって破れ、四代氏政は謙信との戦い、また武田勝頼との対立関係が続きました。天正8年(1580)年には氏政から息子氏直に家督が譲られましたが、以前実権は氏政に握られたままでした。
 北条氏は織田信長の武田攻めの際にはそれに協力しましたが、本能寺の変で信長が死ぬと、態度を豹変させ、信長の部将・滝川一益を上野から追い出し、徳川家康とも対陣しましたが、甲斐・信濃は家康、上野は氏直が領有し、家康の娘督姫が氏直のもとに嫁ぐということで和睦しました。
 一方、西日本では豊臣秀吉による天下統一が進み、結局北条氏は秀吉と対決することとなりました。天正18年(1590)、秀吉は20万を超す大軍で小田原城を攻め、とうとう北条氏は降伏を余儀なくされました。氏政と弟氏照は切腹を命じられましたが、氏直は高野山に登ることで助命され、後には食邑1万石を与えられましたが、文禄元年(1592)年に没し、北条氏の嫡流は断絶しました。氏直には娘が一人いて、母督姫が池田輝政に再嫁する際に連れ子となり、輝政の嫡子利隆の許嫁となりましたが、嫁ぐことなく夭折しました。
 公式には氏直にはこの娘一人しか子どもがいませんが、『仙台金石志』によると、仙台城下五台山松山寺にある墓碑によると、氏直と督姫の間に生まれた善右衛門尉氏次入道安政が寛文12年(1672)に88才で没したとあるそうです。この氏次がなぜ仙台に来たのかはわかりませんが、その子氏時の台に桑島と改姓し、その子孫は維新勤王の志士桑島孟を経て、現在に至っているそうです。
 また、氏直の側室で松本豊後守の妹・阿栗が竹千代丸という男子を出生し、この竹千代丸はのちに相模藤沢の住人金井昌与の婿養子となって新四郎直久と名乗って寛文3年(1673)74才で没したとのことで、その子孫も現在に至るそうです。
 また、以前東京神田須田町にあった「小田原屋」という酒屋の家伝では、先祖は北条氏の家臣で小田原落城の際に氏直の幼女を連れて江戸へ逃げ、漬物屋を始めたそうで、戦後、酒屋に転業したが、当主は17代に及ぶとのことです。

 こんな御落胤伝説もありますが、北条氏の家系は、氏直の没後、その叔父で韮山城主だった氏規の系統によって伝えられ、その子孫は河内狭山藩一万石の大名として存続し、明治に至って華族(子爵)に列しています。現当主・氏は先代雋八の甥ですが、その実兄北条浩氏は創価学会第四代会長を務めています。

 氏直の弟で千葉氏の家督を継いだ七郎直重は、小田原の陣で後北条氏が滅ぶと、蜂須賀正勝に預けられ、のち蜂須賀家に仕え五百石で召し抱えられました。直重の跡は蜂須賀家の宿老・益田豊正の三男・熊之助が養子となり、大石重昌を名乗りました。重昌はのち暇願いを出し浪人しますが、重昌の次男直玄が新知二百石で分家し、直玄の孫直武の代に、「大石」姓から後北条氏の本姓「伊勢」に改姓し、以後幕末まで代々徳島藩士でした。

 また氏綱の娘婿で養子となった北条綱成(福島正成の子)の子孫は宿将として北条宗家を支えましたが、小田原落城後は徳川家康に仕え、綱成の孫氏勝は下総岩富一万石の大名となり、その養子氏重は遠江掛川三万石を領しましたが、男子がなく無嗣除封となりました。氏勝の弟繁広の子正房は軍学者として知られており、その子孫は二家に分かれながら、上級旗本として維新に至りました。

大道寺氏

 大道寺氏は戦国大名・後北条(小田原北条)氏の重臣を務めた家柄で、その出自は藤原南家貞嗣流とも桓武平氏維衡流とも言われています。『古代氏族系譜集成』所載の系図では後白河院の近臣・藤原通憲(信西)の末裔である義清を祖とし、小栗栖の領主でその地名から大道寺と称したとしています。
 桓武平氏維衡流というのは、重時(発専)が伊勢盛種の娘を母とするところから仮冒したものとみられますが、いずれにしても重時、そしてその子重旨に至るまでの系譜は明かではありません。
 伊勢新九郎長氏(北条早雲)が駿河に下った時に同行した仲間が六人いたといわれ、その子孫は御由緒家と呼ばれ重んじられたと云いますが、前記の重時(発専)または重旨がその一人大道寺太郎といわれています。これは上にも書きましたが、重時の母が伊勢盛種の娘であること、つまり早雲と重時が従兄弟であることから同行したと思われます。また大道寺氏の系図を見ると、重時の妹が多米玄蕃助の妻になっていますが、上記の六人の仲間の一人に多目権兵衛がいますので、多目権兵衛も縁戚だったのかもしれません。
 いずれにしても重旨の子・重興は武蔵川越城を、その子政繁(政重)は上野松井田城を任され、重臣として後北条氏を支えていました。
 しかし、豊臣秀吉の小田原攻めに際して政繁は松井田城を守っていたものの前田利家らの猛攻で開城し、その後は先鋒として忍城攻めに加わりますが、小田原開城後に北条氏政等とともに切腹を命じられました。
 その後、大道寺一族は全国に散らばり、政繁の長子直繁は二代将軍徳川秀忠に仕え、その子繁久は秀忠の弟松平忠輝に仕えましたが、忠輝の改易後は浪人となって越後で没しました。繁久の子重祐(友山)は初め浅野長治に、次いで会津藩主松平正容に仕えましたが、正容に疎んぜられて武蔵国岩淵に隠棲、のち福井藩主松平吉邦に仕官しました。友山は小幡景憲・北条氏長・山鹿素行らについて甲州流の兵法を学んだ兵法家でした。そしてその子重高は三百石を知行し江戸留守居役も務めており、その子孫は幕末まで福井藩士として代々続きました。

 また政繁の次男直重は、将軍秀忠の同母弟松平忠吉、そしてその死後はその弟で尾張徳川家祖の徳川義直に仕え、その子孫は尾張藩士として代々続きました。また、『愛知県姓氏歴史人物事典』によると、『九十九之塵』には直重の弟という新十郞直政を祖とする系が載り、その当主の名が大道寺玄蕃直寅で、3500石を知行したとあるそうですが、「玄蕃」という通称から直重の系のような気もしないでもありません。また尾張国知多郡内海(南知多町)にも直重を祖とする系があり、十二代という大道寺直之は明治期に県会議員・衆議院議員を務め、明治38年日露戦争で戦死したそうです。

 政繁の四男直次は、後北条氏の没落後は遠山長右衛門を名乗り黒田孝高・豊臣秀次・福島正則に仕え、正則の改易後は三代将軍徳川家光に召し出され幕臣旗本となり、大道寺姓に復しています。その子孫は七百石と三百石の旗本として明治維新まで続きました。

 そして政繁の養子直英は御北条氏の没落後駿河に住み。のち尾張の徳川義直のもとに寄食し、大坂冬の陣には義兄直重とともに義直に従って出陣しました。その際に津軽信枚に出会って、大坂の陣後その家臣となり、奉行職(家老)に任命されています。男子がなかったため長女佐武の婿に津軽石見直秀を迎え養子としました。直秀は福島正則の嫡子正之と徳川家康の養女満天姫の子で、母が福島氏改易によって離縁となり、津軽信枚に再嫁した時に連れ子として津軽に来て信枚の養弟に遇されていました。しかし寛永13年(1636)福島家再興を志して江戸へ上ろうとした直前に急死し(直秀の行動が津軽家に災いとして及ぶのを恐れた母満天姫が毒殺したとも云う)、直秀の家督は孫喜久の婿に迎えた為久(藩主信義の実弟)が継ぎました。以後大道寺氏は代々津軽藩の家老をつとめる重臣として続き、明治維新を迎えました。

関東長尾氏

 長尾氏は桓武平氏良文流でであると言われています。鎌倉幕府初期の有力御家人として知られる大庭氏・梶原氏の一族ですが、その出自は本宗家大庭氏・梶原氏の系譜と同様に系図によって異同・混乱が激しく、村岡忠通の子・景村の子孫であるというもの、景村の弟景成の子・鎌倉権五郎景政の子孫というものなどもあり、はっきりしません。
 為景・定景兄弟は、源平合戦に際して平家方の大庭景親に属したため、合戦後三浦一族に預けられ、その後三浦氏の被官となりました。そして宝治合戦(1247)に際しては三浦氏に与して運命をともにしました。
 その後、定景の系統は景為の時に上杉氏の執事となり、その子・景忠は越後・上野両国の守護代を務めました。そして景忠の子孫が上野守護代を、景忠の弟・景恒の子孫が越後守護代を継承し、景忠の系統を関東長尾氏、景恒の系統を越後長尾氏と称しました。戦国大名の雄・上杉謙信(長尾景虎)は景恒の子孫になります。
 景忠の子孫である関東長尾氏は山内上杉氏の家宰(執事)職を独占し、その後いくつかの支流に分かれていきました。

 景忠の子忠房の孫忠政は山内上杉氏の家宰職を務め、その一族は惣社長尾氏と呼ばれました。忠景の子景棟の家督は白井長尾景仲の子忠景が継ぎ、忠景の実兄景信の死後、山内上杉氏家宰職を継ぎましたが、景信の子景春は家宰職を継げなかったことに不満をもち、山内上杉氏に叛しました。
 忠景の子顕忠、その養子顕方は山内顕定の家宰として武蔵国鉢形城に在城しました。そのため、上野守護代は一族の高津長尾氏(忠政の弟憲明の子孫)が務めていました。顕方は長尾氏内部の争いから、その頃相模から武蔵に進出しつつあった北条氏綱に味方するようになりました。
 永禄6年(1563)、東上野に武田信玄が侵入し惣社城が落とされたため、顕方は上杉謙信を頼って越後に移り、天正11年(1583)、その子景秀は上杉景勝に従って新発田城を攻めた際に討ち死にし、惣社長尾氏は断絶しました。

 次に景忠の子景直の子孫は鎌倉に在住しました。実景は山内上杉憲忠の家宰職を務めましたが、享徳3年(1454)憲忠とともに古河公方足利成氏に殺され、その子景人は成氏方との合戦の功績により、下野国足利庄の代官職に補任され、その子孫は足利長尾氏と呼ばれました。景人とその子定景は上野守護代を務め、定景の家督を継いだ弟景長は、惣社長尾氏に代わって山内上杉氏家宰となり、景長の子憲長、その子当長も山内上杉氏家宰職を務めました。
 山内上杉憲政(憲当)が北条氏康に敗れ越後の長尾景虎の許へ逃れると、当長は景虎(上杉輝虎のち謙信)に従い景長と名を改めました。永禄5年(1562)、輝虎が館林城を攻め落とすと、同城は景長に預けられ、館林領は足利長尾氏に与えられました。景長の死後、その娘に上野国金山城の由良成繁の子顕長が婿入りして家督を継ぎました。
 その後顕長は上杉謙信から離れ北条氏政に属しましたが、天正10年(1582)北条氏直の館林城明け渡しの要求に屈し、足利庄岩井山(勧農城)に移りました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めには実兄の由良国繁とともに小田原城に籠もりました。後北条氏の滅亡後、本領の足利城を奪われ、常陸の佐竹義宣に一旦預けられましたが、のち流浪の身となりました。
 顕長の子宣景は、浪人として上野に居住していましたが、慶長の頃土井利勝に召し抱えられ、大坂の陣の時には武者奉行を務め1200石を与えられました。その子孫は家老等を務める重臣格として明治維新を迎えました。またその他にも二流、古河藩土井家家臣となった分家がありました。

 足利長尾氏の房景の甥でその猶子となった景仲の系統は上野国白井に拠って白井長尾氏と呼ばれました。景仲は実景のあと山内上杉氏家宰となり、その景信も家宰職を務めましたが、その後は景信の実弟である惣社長尾忠景が家宰職を継いだため、景信の子景春は不満をもち、山内上杉氏に叛し古河公方足利成氏と結びました。その後景春は扇谷上杉氏・北条早雲と結び、山内上杉氏と徹底して争いました。その子景英は古河公方の勧めで山内上杉氏と和睦したものの、その子景誠は父景英の法事の席で家臣に殺されたため、惣社長尾顕忠の子景房が家督を継ぎ、山内上杉憲政の一字を与えられ憲景と名を改めました。山内上杉憲政が越後に退去すると、越後の上杉謙信に従いましたが、謙信死後は武田氏に従い、天正10年(1582)武田氏が滅亡すると上野国厩橋城に入った織田信長の部将滝川一益に、信長の死後一益が退去すると、後北条氏に属するなどその去就は目まぐるしく変動しました。
 憲景の死後、嫡男憲春は早世し、次男玄勢丸輝景は病気がちのため白井城にあり、三男で小田原に人質となっていた烏坊丸が家督を継ぎ北条氏政の一字を与えられ政景と名乗りました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際し、政景は白井城の警護を命じられましたが、白井城を攻撃した前田利家に政景は降伏して白井城を明け渡し、浪人となって加賀に住しました。慶長5年(1600)会津に来て田中氏の後家と配偶し田中権四郎景広と称し、上杉景勝に仕えて六十石を与えられました。のちに白井長尾氏の正統であることが知られ、長尾氏を称し、侍頭となって二千石を賜りました。その跡は、中条三盛次男景泰が家督を継ぎ、以後侍頭・江戸家老・奉行などを歴任する米沢藩上杉家の重臣として維新まで続きました。また景泰の子伝四郎重景を祖とする分家もありました。

成田氏

 成田氏は出自のはっきりしない一族です。『群書系図部集』所収の「成田系図」では藤原北家謙徳公伊尹の子孫という系図を載せ、『藩翰譜』では藤原道長の孫・任隆の末裔という系譜を乗せていますが、どちらも仮冒であるのは間違いないでしょう。また小野姓横山党説・幡羅郡幡羅郡領家後裔説・私市氏族説もあり判然しませんが、古くから幡羅郡の土豪であったと思われます。
 成田氏の活動がはっきりするのは、保元の乱(1156)の頃からで、源義朝に従った武蔵の武士に助隆の四人の子成田・別符・奈良・玉井の名前が見えます。その後も助綱は奥州征伐の際に、資泰は承久の乱の際に名前が見えるなどは鎌倉御家人として活躍しています。鎌倉幕府滅亡の際に成田本宗家は没落し、庶流が本領成田郷を預けられたようです。
 『群書』の「成田系図」では、上記の通り忠綱、家綱、家時と続いていますが、宝賀寿男氏は家時は家綱の子ではなく、資泰の弟家資の娘の血を引く丹党の安保氏系成田氏の流れとしています(*)。つまり、

として、行員が祖母を通じて成田氏の所領を継承し、その子基員からは成田氏を名乗り、泰員の代には成田氏本領たる成田郷も所有し、没落した御家人成田氏の領地や名跡を継承したものと見られます。
 その後成田氏は、関東公方家、そして山内上杉氏に属し、武蔵国忍城を中心に勢力を広げました。しかし山内上杉憲政が北条氏康に敗れ、越後の長尾景虎を頼って逃走すると、長泰は小田原北条氏に属するようになりました。永禄3年(1560)長尾景虎(上杉謙信)が関東に出兵するとこれに従いますが、謙信の不興を買うと再び小田原北条氏に属しました。
 戦国末期の当主・氏長は、天正18年(1590)の小田原の陣の際に、親交のあった豊臣秀吉の右筆山中長俊の再三にわたる手紙によって内応したが、忍城の留守部隊が攻め寄せた石田三成に抗戦したため、結局所領没収となり、蒲生氏郷に預けられました。しかし翌年には那須氏の旧領・下野烏山2万石を与えられ、大名へと復帰しました。
 氏長の跡は弟長忠が継ぎ、のち加増されて3万7000石となりましたが、その死後家督争いで家中騒動があり、家中向不取締にて一万石に減じられ、氏宗が相続しました。しかし、元和8年(1622)氏宗が急死すると、弟泰直と甥重長の間で再び家督争いが起き、結局実子がいないということで改易絶家となりました。
 『寛政重修諸家譜』には氏長の子孫という成田家が載っており、元禄4年(1691)に正安が御家人となり、子の正末の代に旗本に昇格したとあります。正安が誰の子孫なのか不明ですが、上の系図では宝賀氏の論文に従い房長の系に繋げておきました。
 一方、映画「のぼうの城」で有名となった忍城籠城戦の際の城代・成田長親(氏長の従弟)は、氏長とともに一時蒲生氏郷のもとに身を寄せましたが、氏長と不和となり晩年は尾張に住みました。長親の子・長季は尾張徳川家に仕え、その子孫は多くの系統に分かれながらも尾張藩士として続きました。また、長季の次の弟・泰家の系統は鶴岡藩酒井家に、次の弟・元由の系統は白河藩阿部家に仕えました。
 長季の系統の系図には載っていませんが、長久という兄弟がいたといい、長久は三河国宝飯郡篠田村に住んで篠田を名乗り、その系統の久隆は御家人に召し出され、その養子隆光の代に旗本に昇格しました。

 …『「のぼうの城」と天秀尼の母系―北武蔵の成田一族―』(『家系研究 第54号』所収)を参照

太田氏

 太田氏は、一般的には清和源氏頼光流とされ、『寛政重修諸家譜』では源三位頼政の末裔である資国が丹波国桑田郡太田郷に住んで太田氏を名乗ったと言われています。ただこれには昔から疑問が投げかけられていて、『古代氏族系譜集成』では孝昭天皇の末裔で、武蔵七党の一つでもある小野姓猪俣党を出自とし、太田二郎資綱の子が資治で、以後歴代は清和源氏説と同じとなっています。
 『太田家譜』では、資国は上杉重房に属して宗尊親王に供奉して鎌倉に下向し、太田氏は上杉氏に仕えたとありますが、詳しい動向はよくわかっていません。資清(道真)は扇谷上杉持朝の家宰となり、持朝隠退後は家督を継いだ持朝の子・顕房がまだ幼かったので、出家して道真と号した資清が政務を執行しました。鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立し享徳の大乱が起こると、道真は武蔵国岩付城を、息子・資長(道灌)は江戸城を築きました。
 山内上杉顕定の家宰長尾景信が死に、景信の弟忠景が家督を継ぐと、景信の子景春は公然と顕定に離反し、古河公方成氏と結びました。道灌は山内上杉顕定・扇谷上杉定正を助け景春方の与党と武蔵・相模国で戦いましたが、やがて主君定正と齟齬を生じ、相模国糟屋の館で謀殺されました。
 道灌の死後、太田氏は江戸系と岩付系に分かれました。道灌は弟とも甥とも言われる資忠を養子にしていましたが、資忠が討ち死にしたため、同じく甥と言われる資家を養子とし。彼が道灌の死後岩付城主となりました。これが岩付太田氏です。一方、道灌晩年の実子である資康を祖とするのが江戸太田氏で、太田氏伝来の文書を引き継いでいる岩付太田氏が嫡流と思われます。
 資家の詳しい事績は明かではなく、次いで岩付城主となったのは資頼でした。その頃後北条氏が台頭し、二代氏綱は積極的に武蔵進出を図り、大永四年(1524)正月江戸城を手に入れたあと岩付城へと迫っていました。翌5年2月には岩付城は落城し、資頼の主君扇谷上杉朝興は越後の長尾為景に救援を求めたものの、為景は動かず自力で氏綱と対峙しました。資頼も体制を整え、享禄四年(1531)9月には岩付城を回復しました。その後、資頼は嫡子の資時に家督を譲りましたが、後北条氏の武蔵進出が活発化し、上杉氏の重臣として反北条の立場を守る父資頼・弟資正と北条氏康と妥協を図りながら太田氏の存続を狙う資時との間に対立が生じました。扇谷・山内両上杉氏と後北条氏が戦い、上杉氏が大敗北した河越夜戦でも、資時は北条氏に荷担しましたが、弟資正は両上杉氏・古河公方連合軍の部将として参戦し、兄弟で対立することとなりました。しかし程なく資時が病死したため資正が岩付城主となり、親北条系の家臣を放逐し、反後北条氏の姿勢を明らかにしました。
 資正は、その後宿敵後北条氏との戦いに心血を注ぎましたが、永禄七年(1564)正月に一族太田康資と里見義弘と連合して北条氏康と戦った下総国国府台合戦で敗れ、劣勢回復のため宇都宮に赴いた留守中に北条軍に岩付城を乗っ取られました。これは対北条強硬派の資正・次男梶原政景と柔軟派の長男資房の対立を利用し資正の留守中に締め出しを図ったものでした。以後岩付は後北条氏の有力支城として機能し、資房は氏康の娘を妻とし、名前も氏資と改め北条一門格に列しました。しかし永禄十年(1567)の北条対里見の上総三舟山合戦にて氏資は討ち死にし、岩付太田氏の正系は断絶することになりました。その後北条氏政の次男氏房が氏資の娘小少将の婿に入って、太田の名跡を継いで岩付城主となるものの、天正十八年(1590)に豊臣秀吉軍の攻撃により岩付城は落城しました。氏房はその後秀吉に召し出されたものの、九州名護屋の陣中にて没しました。
 岩付城を追放された資正は、常陸の佐竹義重の招聘により、常陸国片野城に移り、入道して三楽斎道誉と号しました。また次男梶原政景は柿岡城に配され、この地の旧領主小田氏牽制を期待されました。小田氏は結局旧領を回復することができず衰退していきました。天正十六年(1588)資正はすでに自立していた政景に代えて、片野旧城主の娘との間にもうけた資武に家督を譲りました。結局、旧領岩付への復帰はかなわず天正十九年(1591)資正は片野城にて没しました。
 家督を継いだ資武は、小田原落城後、結城秀康に仕官し慶長六年(1601)には越前北ノ庄に移り禄高千石、軍奉行を務めました。翌年には佐竹氏に仕えていた兄政景が浪人して、資武の口添えで秀康に仕え、大坂の陣では兄弟で参陣し戦功を挙げました。資武はその功で八千石に加増され、寛永二十年(1643)没しました。資武の跡は子の資信が継ぎ、その後資栄尹資と続きましたが、尹資の時に越前藩は減封にあい、越前を去って河内国交野に移り郷士となりました。その後嫡子延資を将軍綱吉に出仕させようとするがかなわず、宝永五年(1708)には延資が江戸で没してしまいました。その間に生まれた弓太郎を今度は将軍吉宗に出仕させようとするもまた早世し、享保十六年(1731)には尹資も死んで岩付太田氏は断絶しました。
 なお太田氏関連文書は尹資の娘が嫁いだ河内の慈明寺の兄弟寺にあたる専宗寺に伝わり、その中の一つの巻末由緒書に尹資の子六郎延資の倅として浄貞、以下浄習―浄超…と僧侶名が記されており、系図では弓太郎で断絶となっていますが、実際には系図に現われない出家僧がおり、その後も系譜が続いていたことがうかがえるようです。(「東大阪市専宗寺所蔵「岩付太田氏関係文書」について)
 この岩付太田氏の庶流として潮田氏が知られています。潮田氏は三楽斎資正と潮田常陸介の妹との間に生まれた資忠を祖とすると言われており、父の命で母方の潮田姓を継ぎ別家になったといわれています。資忠と嫡子資勝は秀吉の小田原攻めの際に、北条氏に属して籠城討ち死にし、次男資政は叔父資武に養われ、成人後土井利勝に仕えたそうです。潮田氏はその後代々土井家に仕え幕末明治まで続きましたが、大村進氏は資正の時に別家したのではなく、もっと古い出自を持つ太田庶流ではないかとしています。(『地方別日本の名族四』「太田氏」)

 一方、道灌晩年の実子である資康を祖とする江戸太田氏の動向ですが、資康は父の没後山内上杉顕定の陣に加わったものの、やがて扇谷上杉氏に復帰して江戸城に移り、永正十年(1513)妻の実家三浦道寸と北条早雲の合戦で三浦郡に出張し、討ち死にしました。資康の子資高は扇谷上杉朝興に仕えましたが、大永四年(1524)北条氏綱に呼応して朝興を攻め、その後子の康資とともに江戸城内の香月亭に入り天文十六年(1547)没しました。
 家督は子の康資が継ぎ、永禄六年(1563)弟資行と謀反を企てましたが、後北条氏にしられることとなり、岩付城へと逃れました。康資は次に安房の里見義弘を頼り、義弘・康資は永禄七年(1564)下総国国府台で北条氏に敗れ、その後常陸に移り佐竹義重に仕え、安房に隠退し天正九年(1581)上総国小田喜で没しました。その子重正も佐竹義重に仕えていましたが、天正十八年徳川家康が関東に入部すると道灌の末裔たるをもって召し出され、関ヶ原合戦等に従軍しましたが、慶長十五年(1610)駿河で病没しました。重正の妹於勝(英勝院)も家康に召し出されて寵愛を受け、水戸藩祖頼房の准母となりました。
 重正の子正重は水戸頼房に仕え、弟資宗は英勝院の養子となって幕臣となり、六人衆(若年寄の起源)に列し、加増を重ねて大名に列し三河西尾三万五千石を領しました。また資宗は儒官林羅山とともに幕府編纂の『寛永諸家系図伝』の編修を統括しています。また同家の一族数家は幕臣旗本となり、幕府体制を支えました。
 資宗の子孫は大坂城代・京都所司代・寺社奉行・若年寄・老中等の幕閣の要職を歴任し、延享三年(1746)資俊が遠江国掛川五万石を領して以降同地に在封して明治を迎え、維新後は華族子爵に列しました。