【城 跡 名】五稜郭(亀田役所土塁)
【訪 城 日】1997年8月8日・2000年8月11日・2001年6月16日・2003年5月3日・2012年8月7日
【所 在 地】北海道函館市五稜郭町44
【創建年代】安政4年(1857)着工、元治元年(1864)
【創 建 者】江戸幕府
【主な遺構】遺構総構え、堀、石垣、胸壁、厩
【位 置】北の遺跡案内参照
【歴史・沿革】
安政元年(1854)、江戸幕府はアメリカと神奈川条約を結び、翌年3月から箱館港を開くことになり、箱館周辺の地を松前藩から上知させ奉行を配置して事に当たらせることとし、竹内保徳・堀利熙両名を任命しました。その後幕府は和人地以外の東北蝦夷地を松前藩から上知させて箱館奉行に管轄させました。奉行の政庁には松前藩の旧箱館奉行所が当てられましたが、庁舎は狭く防御も弱いという欠点もあり、安全な場所に移そうとして現在の五稜郭の地に本城を築きそこに政庁を移すこととなりました。
この城は蘭学者の武田斐三郎が西洋の築城書をもとに設計した西洋式保塁で我が国最大のものです。(国内に同形の物は長野県臼田町の龍岡城がある。) よく「日本最初の西洋式城郭」と呼ばれることがありますが、これは間違いで函館市の隣北斗市にある松前藩戸切地陣屋が安政2年(1855)に完成しているので、こちらが「日本最初の西洋式城郭」となります。
工事は安政4年に着工され8年の歳月を経て元治元年に完成しました。石垣を積み重ねた土塁が五稜星型なので五稜郭と呼ばれていますが、それは俗称で正式には「亀田役所土塁」といいます。
五稜郭を本拠とする幕府箱館奉行所の行政は慶応4年(1868)まで続き、明治維新後、新政府は箱館裁判所(のち箱館府)を設けました。しかし、明治元年(1868)10月26日旧幕府軍の榎本武揚等に占領され、つかの間の「蝦夷共和国」の拠点となりましたが、翌年5月18日の降伏開城によって箱館戦争は終わりを告げました。
五稜郭内は建物のほとんどが大被害を受け、庁舎も同5年(1872)に解体され、その後五稜郭は陸軍省の所管となり、大正3(1914)年には五千本の桜が植樹され、道内有数の桜の名所となりました。同11年(1922)国指定史跡、昭和27年(1952)には国特別史跡となっています。
【訪 城 記】
ここも中学の修学旅行で1回、職場の研修旅行で1回と計2回来たことがありましたが、以前2回は団体行動でしたので、自由に見て回るわけにもいきませんでしたのでかず、ゆっくりと訪城したのは97年の道南旅行の時が初めてでした。この時は一通りぐるっと回ってみました。
五稜郭タワーから中にある函館博物館分館の辺りまでは、たくさん観光客がいましたが、さすがに裏側の方に行くとほとんど人がいませんでした。
また五稜郭というと、西洋式城郭ということがよく言われますが、堀の端にはしっかりと石垣があり、石垣の上の所に武者返しのようなものがついていたりして、やっぱり日本の城だなあと感じました。(後に品川台場で同じようなものを見ましたが、さすがに同じ時代に同じ幕府が建てたものだなと思いました。跳ね出しというみたいですが。)
この時には五稜郭タワーに登らなかったので、上から見なかったのですが、次回行くときには上から眺めた写真も撮ってみたいですね。(1997/8/8)


ここは3年ぶりの訪城となりました。前回は登らなかった五稜郭タワーにまず登ってみました。頂上の展望台から見ても五稜星形がはっきりしないのは残念ですが、やはり上から見た方が形がよくわかりますね。
下まで降りると、大手口の方に進み、まずは唯一作られた三角形の馬出し土塁の上へ登ってみました。この上から見る大手門付近の眺めもなかなか良いです。そして大手口から中にはいると、そのすぐ左側に土塁の上に登る道がありましたので、そちら側に登ってみました。そしてその土塁の上をしばらく歩いてみましたが、なかなか気分が良かったです。ただ、雨が降ってすべりやすくなっていたので気をつけてはいたのですが、土塁から下に降りる途中で見事コケてしまいまして、すっかりズボンを汚してしまいました(^^;)
まあ、その後は気を取り直しまして、五稜郭の外縁を西側から北側の方へと進み搦手門付近へと出ました。この外縁付近の壕に面した部分にも土塁があることに今回気が付きました。
本当はその後壕の外側から五稜郭を眺めてみようかなと考えていたのですが、雨が相変わらず降っていますし、さっきこけたショックがまだ残っていたので(をい(^^;))、中に入って博物館のある方へと進むと、今まで気付かなかったのですが、博物館のある場所を囲むように土塁が残っているのを見つけました。よく見ると土塁の端の方に石垣が残っているところもありましたので、これも遺構なのでしょう。記憶が定かではありませんが、確か現在博物館が建っているところに、箱館奉行所の庁舎が建っていたはずですので、それを囲むように土塁があったのかもしれません。
その後は再び大手口へと出て駐車場へ戻りましたが、五稜郭は正直いうとそれほど思い入れのある場所ではないのですが、訪れるたびに何だか新しい発見があるような気がします(^^) (2000/8/11)









今回はFSIROの道南オフで訪れました。志苔館で茨城城郭会のひづめさんと合流したあと、五稜郭に移動し、裏門の近くの駐車場に車を止め。搦め手の方から五稜郭内へと入ります。そして、ひづめさんの案内で土方歳三が埋められたという土饅頭や現存の兵糧庫を見たあと、博物館に入りました。そのあと大手方面へ抜け、五稜郭タワーへ。残念ながら五稜郭のすべては見えませんが、手前の稜角の形がよくわかります。また昨年はちょっと雨模様でタワーの上から見た五稜郭はくすんだような感じがしましたが、今回は緑が鮮やかでした。
そのあと、そのすぐ近くにあった和食処にて昼食を食べましたが、新鮮な海の幸がなかなか美味しゅうございました(^^) そして、再び大手から裏門へ抜けて、お仕事に戻られるひづめさんとお別れして、四稜郭へと向かいました。(2001/6/16)


(現存の建物です)

2年ぶりの道南訪問です。今回は、嫁さんも一緒ですし、往復の疲れを考え、JRで行くことにしました。朝、「北斗8号」に乗り札幌駅を出発、途中車内で買った「しゃけめし」弁当を食べ、昼過ぎに函館駅に着きました。早速レンタカーを借り、まずは五稜郭へ。
五稜郭に着いたものの、周辺の駐車場は混んでいて入れられず、しばらく周囲を回ったあと「古城」というちょっと怪しげな(?)パーキングを見つけ車を置き、歩いて五稜郭へ向かいました。
まずは五稜郭タワーに上り上から五稜郭と桜を眺めたのですが、以前は五稜郭側の窓が少し開き、その隙間にカメラのレンズをつっこんで写真を撮れたのですが、今回は鍵がかかっているのか開かず、仕方ないのでできるだけガラスにレンズを近づけて写真を撮りました。
そのあと五稜郭内に入りましたが、人・人・人でした(^^;) 五稜郭の桜は白くて小さなかわいらしい花でした(種類はわからず(^^;)) 裏門の方から眺めるとお堀と桜が絵になるので、ここでしばらく写真を撮りました。やっぱり桜があると絵になりますねえ(^^) (2003/5/3)

(桜がきれいです)



9年ぶりの函館旅行、二日目は函館市内をいろいろと巡りました。
まずは五稜郭です。9年前には箱館奉行所はなかったし、五稜郭タワーもまだ低かったし、日本100名城のスタンプもなかった。ということで、この三つが第一目的です。
まずは人で込む前にということで箱館奉行所へ。古写真どおりの姿を見ることができてちょっと感激。9年前には、今はない博物館分館の横に玄関の屋根の一部があるだけでしたから。
人がいないうちに左右と正面からの姿をカメラに収めます。赤い屋根瓦がいいですねえ。中に入ると、まだまだ新しい建物の雰囲気を感じます。大広間から眺める庭も気持ちいいですし、裏の廊下から格子越しに見上げる中庭と太鼓櫓もいい姿です。奥の「歴史発見ゾーン」では、五稜郭の歴史を解説する展示もいいですが、端末で世界の稜堡式城郭をGoogle Mapで確認できるのが面白かったです。長野県の龍岡城もありました。
そのあと外に出て、今度は正面だけでなく回りからもぐるっと眺めたり写真を撮ったりしました。今回復元されたのは本来の箱館奉行所の三分の一ほどで裏側と左側には残りの部分の部屋割りがわかるよう平面復元されていました。箱館奉行所の建物の他に北側にあった板蔵と現存建物である兵糧庫と並んでいた二つの板庫・土蔵(かつて博物館分館のあった場所にある。写真28)も復元されていて、管理事務所と売店になっていました。この売店で箱館奉行所の復元の様子を収めたDVDをGET。家に帰ってから見ましたが、面白かったです。「歴史発見ゾーン」の隣の「映像シアター」で映写していたものと同じものかどうかわかりませんが、これを見てから箱館奉行所を見るとより面白いかも知れません。
この管理事務所で100名城のスタンプを押せたようですが、なんと車にスタンプ帳を忘れたことに気づき、取りに行きました(^^;)
新しくなった五稜郭タワーに登るのは初めてです。旧タワーでは星形の奥の方がよく見えませんでしたが、さすがに新タワーでは五角形の形がきれいに見えます。五稜郭の大きな模型も展示してあって、これもなかなかの見所です。復元されなかった建物もこの模型には出ているので、かつての姿を確認することもできます。売店では友人へのお土産にクリアファイルを購入。うちの坊主くんは、ここでもスタンプを見つけて押してました(^^;)
下まで降りたらソフトを食べて、チケットカウンターで100名城の初スタンプをGET!でも100名城のうち41城はこれが選定される前に行ったことがあるんですけど(^^;) 北海道・東北のうち行ったことないのは多賀城だけだし、関東・甲信越も半分以上は行ったことあるし…
このあとは駐車場の隣にある函館美術館へ行き二百数十年ぶりに里帰りしたという蛎崎波響の『夷酋列像』を見てから元町方面へ向かいました。(2012/8/7)


(正面右側より)


(正面左側より)




(裏側より)

(裏側左より)

復元された板蔵

(裏側右より)



【城 跡 名】四稜郭(新台場・神山台場・新五稜郭)
【訪 城 日】1997年8月8日・2000年8月7日・2001年6月16日・2003年5月5日
【所 在 地】北海道函館市陣川町
【創建年代】明治2年(1869)
【創 建 者】旧幕府軍
【主な遺構】土塁・砲座
【歴史・沿革】
四稜郭は五稜郭に対称してつけられた名称で、記録には新台場、神山台場の名で呼ばれ、その形から明治以降につけられた呼び名だそうです。
明治元年(1868)10月箱館を占拠した旧幕府軍は五稜郭を政庁として北海道を一時的に支配しました。しかし官軍の奪回を予想して五稜郭を中心に防御を固め、特に主戦場となることが想定される渡島平野南端の押さえとしての強力な防御施設が必要で、その必要性からこの四稜郭は生まれました。明治2年4月、昼夜兼行で工事をし、南に門構えを設け、四隅に砲座を配した洋式の四稜堡塞が完成しました。5月初め、本多幸七郎率いる幕府伝習歩兵隊がここを足場として新政府軍と戦いましたが、実際の戦闘では数時間しか持ちこたえられず、守備兵たちは五稜郭に敗走しました。
昭和9年には国指定史跡となり、保存されています。
【訪 城 記】
五稜郭の北東3kmほどの所にある城で、これも五稜郭と同じく西洋式城郭です。五稜郭に立てこもる旧幕府軍が五稜郭の背後を固めるために築いたものですが、旧幕府軍の士卒約200名と付近の村民約100名が昼夜兼行で数日のうちに完成させた急造のものです。その名の通り四角く蝶が羽を広げたような形をしていますが、中はそんなに広くなくちょっと首を振ると全て見渡せる程度の物でした。
土塁も、そんなに高いものではなく高さ3m、幅4~5mほどで、城というよりも小さな砦といった感じです。実際の戦闘で数時間しか持たなかったのも、さもありなんという感じでした。土塁はとてもきれいに残っていますので、土塁好きの方はどうぞ。 (1997/8/8)


(右奥に砲台跡が見えます)
ここは3年振り2度目の訪城となりますが、前回と同様「小さいなあ」というのが第一印象でした。広さ的には砂原陣屋の倍くらい?、モロラン陣屋よりも小さい感じがしました。
ただ土塁はあとから整備もしたんでしょうけど、とてもきれいです。土塁好きの方にはおすすめでしょう(^^;) 特に四隅の砲座の所に立って土塁を眺めると、その屈曲がよくわかりますし、写真に撮るとなかなか見栄えがします。
前回行った時には、ホントさあっとしか見ていなかったので土塁しか印象に残っていなかったのですが、確かに堀がありましたね(^^;) といってもホント浅いものであまり役に立ったとは思えない深さです。これならば、数日で五稜郭に撤退したのも仕方ないかなと思えます。
とにかくそんなに大きくはないですが、土塁がホントきれいで、なんだかホッとするところです。(2000/8/7)






(中央に突き出しているのは虎口土塁)


五稜郭でひづめさんとお別れしたあとは、四稜郭へ向かいました。
確かに土塁はとてもきれいなんですけど、その小ささにみなさんう~んとうなるばかり。想像していたよりも小さかったようです。まあ、私も初めて見た時はちっちゃいなあと思いましたけど(^^;)
短時間で陥落したのもさもありなんという感じです。でも蝶が羽を広げたようなきれいな土塁と、桝形虎口になっている入口はなかなかの見所です。(2001/06/16)

(内側に犬走状の段が見えます)
戸切地陣屋で桜見物したあとは、また函館に戻りもう一度元町周辺を散策し、最後に赤レンガ倉庫群の方へ行こうとしましたが、これまた車がいっぱいで駐車場には入れず、仕方ないのであまり人のいなさそうな所へ行こうと言って四稜郭へ行きました(^^;)
GWの時期に四稜郭に行くのは初めてでしたが、いつもは2~3台も車がいればいい方な駐車場に20台くらいも車がいました。ここも数は少ないですが桜が咲いていて、桜の下で家族連れが焼き肉したり遊んだりしていました。
桜見物にはちょっと物足りないですが、通りがかりのおじさんの話では八重桜もあってそれはこれから咲くようです。(2003/5/5)

【城 跡 名】志苔館(志濃里館)
【訪 城 日】2000年8月7日・2001年6月16日・2017年8月6日
【所 在 地】北海道函館市志海苔町
【創建年代】中世
【創 建 者】小林氏
【主な遺構】土塁・空堀・門構え跡など
【歴史・沿革】
この志苔館は、ただしくは志濃里館だったそうですが、現在の地名にあわせて現在は志苔館と呼ばれています。(でも地名は「志海苔町」なんですけど(^^;))
志苔館はいわゆる「道南十二館」の一つで、ここの館主小林氏の祖先は上野に住し、次郎重弘の時に蝦夷に渡ってきたそうです。一説には、徳治元年(1306)に小林重弘が津軽から渡って築城したともいわれます。長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの際は、重弘の孫・小林良景が館主でしたが、アイヌの攻撃で落城しました。その後再築され良景の子弥太郎良定が館主となりました。しかし、永正9年(1512)のアイヌの攻撃で再び落城し、良定は戦死しました。
落城の2年後の永正11年(1514)、小林家三代良治は松前家二代光廣に仕え松前に移ったので、志苔館は廃館となったと思われます。
【訪 城 記】
ここは以前から是非訪れてみたいと思っていたところです。よくこの志苔館の航空写真を見ましたが、その土塁がきれいに残っているのに感心したものです。それで実際に自分の目で見てみましたが、本当にきれいな土塁でした。ここも四稜郭とともに土塁好きの方にはおすすめです。
四稜郭のようにきれいに整形された土塁ではありませんが、東西70~80m、南北50~65mの不整形な四角形をしており、土塁の高さは場所によって違いますが、一番高いところでは10mほどもあります。また幅も10m~15mくらいはありそうです。西側だけは土塁が2列に並び、その中間に深さ2mの二重空堀が南北に延びています。そちら側に虎口があり、そこから郭内に入るようになっています。この虎口付近は二重の壕があり、高さも10mほどもありそうな土塁がそびえており、一番の見所です。
郭の中は建物跡等が平面復元されており、井戸跡もあります。また館主小林氏の頌徳碑も建てられています。また郭内遺構・郭外遺構についての説明板もあります。土塁の外側には堀跡もありますが、西側の虎口付近の堀跡に比べると浅いので、土で埋もれているのかもしれません。
いずれにしても16世紀初頭に廃された館跡が、よくこれだけきれいに保存されていたなあと感心しました。(2000/8/11)







FSIROの道南オフでまず最初に行ったのはこの志苔館でした。
私は前日の夜に函館入りし、当日の朝、函館駅で同じく前日に函館入りしたなおさんと待ち合わせて、レンタカーを借り、函館空港へ向かいました。空港で東京組の方々と合流し、総勢7名が揃いましたので、まずは空港のすぐ近くにある志苔館(しのりたて)へ...
志苔館は四角い土塁が特徴的で、ここからは南に広がる津軽海峡が一望に出き、ここが海を意識したものだということを感じさせます。そうこうするうちに茨城城郭会のひづめさんも合流し、計8名でぐるっと志苔館の土塁を堪能しました。ひづめさんがおっしゃってましたけど、弁当でも持ってきて、そのあと寝っ転がっていたい気分でした(^^;) (2001/06/16)



道南旅行最終日の三日目、最初に行ったのは志苔館でした。ここは本当に久しぶりの再訪です。以前とほとんど変わらずきれいに整備されているのに頭が下がります。見ている途中で入口の辺りに何かいる!と思ったらなんと鹿でした。写真を撮ろうとしたらあっという間にどこかに行ってしまいました。あちこち見て回り汗をかいてしまいました(^^;)
入口の横にコシャマインの戦いの時の和人・アイヌの慰霊碑がありました。きれいだったので新しいものかと思いましたが昭和45年落成と書かれていたので違うようです。以前来た時にあったのかどうかちょっと記憶が無いのですが…
このあと近くの函館空港に行ったのですが、そこにあった空港の模型の中に志苔館もちゃんと再現されていました。
(2017/8/6)











(中央に志苔館があります)
【城 跡 名】津軽藩陣屋(千代ヶ岡陣屋)
【訪 城 日】2000年8月11日・2003年5月3日・2012年8月7日
【所 在 地】北海道函館市千代台町
【創建年代】安政2年(1855)
【創 建 者】津軽藩
【主な遺構】土塁?
【歴史・沿革】
ここは幕末に津軽藩が蝦夷地の日本海側の警衛を命じられた時に置かれた元陣屋で、明治元年に津軽藩が撤退した後、旧幕府軍が兵を置き箱館戦争の際は激戦の地となりました。戦前は陸軍の分屯所等として使用されましたが、現在は千代台公園となり野球場等となっています。
【訪 城 記】
この日は残念ながら朝から雨が降っていまして、公園の駐車場に車を入れたあとは傘を差しながら公園内を歩き回りました。『日本城郭大系』には「若干の塁壁が残されている」とあったので、結構ぐるぐる回ってみましたが、探し方が悪かったのか、若干の塁壁どころか標柱・説明板すら見つけることができませんでした。(あとから五稜郭タワーの頂上の展望台のところで千代ヶ岡陣屋の説明板を見つけましたが...(^^;)) (2000/8/10)

五稜郭から今度は立待岬に行こうとした途中で、この千代ヶ岡陣屋の隊長として守備をした中島三郎助父子最後の地の碑を見つけました。解説板によると中島三郎助は長崎海軍伝習所の第一期生で、のちには軍艦操練所教授方を務め、維新後は榎本と行動を共にし千代ヶ岡陣屋隊長になったそうです。中島父子は新政府軍の降伏勧告を謝絶し戦闘を続け、長男恒太郎・次男英次郎とともに戦死したそうです。
昭和6(1931)年、中島父子を記念して、この一体が中島町と名付けられたとのことです。(2003/5/3)


9年ぶりの函館旅行、二日目は函館市内をいろいろと巡りました。
五稜郭に行ったあと、元町方面に向かう前に千代ヶ岡陣屋跡に行ってみました。千代台公園に面した教育大通(陣屋通)沿いに説明板があるというので探してみると、陸上競技場の角であっさり見つけました。(2012/8/7)


(柵の奥が陸上競技場)
【城 跡 名】南部藩陣屋(南部元陣屋)
【訪 城 日】2000年8月11日
【所 在 地】北海道函館市汐見町
【創建年代】安政2年(1855)
【創 建 者】南部藩
【主な遺構】石垣
【歴史・沿革】
南部藩陣屋は二回にわたって建設されています。一回目は寛政11年(1799)箱館の警備を命じられた南部藩の陣屋として建設されましたが、文政4年(1821)松前氏の復領後廃止されました。
二回目は安政2年(1855)で、箱館市内の弁天岬等の警備を命じられた南部藩は陣屋を再築し、210人ほどの兵員を配置しましたが、明治元年(1868)南部藩は旧幕府軍襲来の噂と政情不安から蝦夷地警備兵を撤退させることとし、陣屋に火を放って帰国し、陣屋は廃されました。
【訪 城 記】
五稜郭をあとにし、次は南部藩陣屋跡へと向かいました。この陣屋は函館山ロープウェイの山麓駅の斜め向かいにあると『北海道の歴史散歩』にあったので、ロープウェイ乗り場近くの駐車場に車を停め、山麓駅の周辺を探してみました。すると「南部藩陣屋跡」の説明板・石柱がすぐ見つかりました。またそのすぐ横の壁面には石垣が広がっていました。部分的には何だか新しそうだなと思えるものもありますが、古そうな石垣が残っている部分もあります。
ただちょっと不思議なのは、室蘭・長万部・砂原の南部藩の出張陣屋では空堀・土塁はあるものの石垣は見かけたことがないということです。まあ、出張陣屋と元陣屋の違いではと言われてしまえばそうなのかもしれません。ですが、『日本城郭大系』には再築された陣屋は、「十数棟の建物があったが、いずれも仮普請の粗末なものであった。」とありますので、石垣を築くほど手を掛けたとは思えません。それとも一回目の時に築いたものなんでしょうかねえ? よくわからんです。(2000/8/11)




FSIROの道南オフで最後に行ったのは函館山でしたが、函館山に登るロープウェイから南部藩陣屋がよく見えたのでその写真を追加しました。とはいってもただの駐車場の写真なんですが(^^;) (2001/6/17)

【城 跡 名】権現台場
【訪 城 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市神山三丁目
【創建年代】明治元年(1868)
【創 建 者】旧幕府軍
【主な遺構】土塁
【歴史・沿革】
この地は、五稜郭の鬼門に当たり、これを鎮護しようと江戸幕府、そして函館の商人等が造営費を献納して慶応元年に東照宮が建てられました。同時に地元の上山村も神山と改められました。
箱館戦争の際には、四稜郭と五稜郭を結ぶ防御線上の重要地として旧幕府軍が砲台を設けて立てこもり、権現台場と呼ばれました。明治2年(1869)5月11日、新政府軍の攻撃を受け東照宮の社殿は焼失し、残った狛犬、手水石は明治19年11月東照宮(現・宝来町、平成3年陣川町に移転)に移されましたが、五稜郭や弁天台場の石垣造りを担当した石工井上喜三郎の作である御影石の大鳥居は残され、現在は神山稲荷神社が建っています。
【訪 城 記】
今回の旅最初のお城がこの権現台場です。函館に着くと確か四稜郭の近くだよなあと思いながら探してみるとあっさり見つかりました。現在では東照宮ではなく神山稲荷神社が建っていますが、その社殿を囲むように土塁が右側と裏側に残っています。土塁の他の部分が残っていないのでどれくらいの広さがあったのかわかりませんが、それほど大きなものではなかったのでしょう。




【城 跡 名】与倉前館
【訪 城 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市高松町
【創建年代】中世
【創 建 者】小林氏?
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
ここは志苔館の支館といわれ、志苔館の小林良景の弟政景が居住していました。しかし永正9(1512)年志苔館とともにアイヌに攻め落とされ、そのまま廃墟となりました。海に面していて、大変眺めが良く重大事件発生を知らせる「のろしば」としての役目が大きかったと言われています。
【訪 城 記】
この与倉前館は『はこだて歴史散歩』に根崎保育園の裏側にあるとありましたので、国道278号線をゆっくりと進んでいくと保育園を発見しましたので、その裏側に行ってみると丁度海に面して張り出した台地がありました。確かに大変眺めが良く館があったのもうなずけます。戦後、ここに館跡を示す標柱があったそうですが、いつの間にか失われてしまったようです。


【城 跡 名】弥右衛門川館
【訪 城 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市高松町
【創建年代】中世
【創 建 者】小林氏?
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
ここも与倉前館と同じく志苔館の支館といわれ、「のろしば」であったと言われています。
【訪 城 記】
『はこだて歴史散歩』に弥右衛門川館は与倉前館の西方500mほどの所に弥右衛門川という小川があり、近くにある同名のバス停から海側に少し下りたあたりの段丘上あったといわれるが、その所在ははっきりしないと書かれていますが、ひづめさんのサイトを参考に探したところ、それらしき段丘がありました。立地的には与倉前館と似ていて、海に向かって張り出しており、のろしばとしては適当な場所だと思います。


【城 跡 名】根崎台場
【訪 城 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市根崎町
【創建年代】明治2年(1869)
【創 建 者】旧幕府軍
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
明治2年(1869)、箱館戦争の時、旧幕府軍がつくり新政府軍と交戦したが、陥落。
【訪 城 記】
ここを探す手がかりはひづめさんのページしかなかったので、あちこちぐるぐると回っていたのですが、偶然それらしき場所を見つけたので曲がってみると当たりでした(^^)
ここは根崎の温泉街にほど近く、根崎公園と国道をはさんで反対側の裏道の方にあります。元函館酒センターの駐車場の海側の張り出しが台場跡で、ひづめさんの話では数年前までは「根崎台場跡」の標柱が立っていたそうですが、今はもうそれも失われてしまい、台場跡だということを偲ぶなにものもありませんでした。

【城 跡 名】宇須岸館(宇須岸河野館、箱館)
【訪 城 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市弥生町2
【創建年代】中世
【創 建 者】河野政通
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
享徳3年(1454)、安東政季に従い武田信廣、河野政通らが蝦夷地に渡来しましたが、政通は当時「宇須岸」と呼ばれていた現在の函館の地に館を築きました。その後、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの際にはアイヌの攻撃により陥落し、その後復興したものの、再び永正9年(1512)アイヌの攻撃によって政通の子季通が敗れたため、和人は亀田に移り箱館は以後百余年にわたって衰退しました。
その後江戸中期には再び賑わいを取り戻し、松前藩の亀田奉行所、幕府の箱館奉行所、北海道庁函館支庁などがかつての宇須岸館の跡地に置かれ、このちは箱館の行政の中心地でした。
【訪 城 記】
この宇須岸館跡の説明板が市立函館病院付近にあることは以前から知っていたのですが、実際に行ったのは今回が初めてでした。市立函館病院は移転したため、現在その跡地は駐車場となっていますが、かつての館跡はここだけでなく現在の元町公園をも含む広大なものだったようです。現在、函館観光のメインの一つとなっているこの元町界隈にかつては和人の館があったと想像するのもなかなか良いかもしれません。

現在は駐車場になってます。


【城 跡 名】弁天台場(弁天岬台場)
【訪 城 日】2001年7月29日・2012年8月7日
【所 在 地】北海道函館市弁天町・入舟町
【創建年代】安政3年(1856)
【創 建 者】江戸幕府
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
箱館開港による外圧に備えるために、安政3(1856)年からから7年の歳月を費やして海面を埋め立て、石垣を築きました。設計監督は五稜郭と同じく武田斐三郎で松川弁之助と石工喜三郎が工事を担当しました。不等辺六角形で総面積が約1万2000坪、高さ11.2mで備砲は大小あわせて16門といわれますが実数ははっきりしません。この台場も箱館戦争の戦いの場となり、明治2年(1869)5月11日、新政府軍の奇襲攻撃に敗れた市中警備の兵が台場に入り込んだため、給水・食料に窮し五稜郭に先駆けて5月15日に降伏しました。
明治29年(1896)に港湾改良工事のため取り壊され、現在跡地は函館どつく敷地となっています。
【訪 城 記】
元町周辺を歩いたあと、初日最後に訪れたのがこの弁天台場です。現在では函館どつく裏門前に標柱が立っているだけですが、かつての写真などを見るとなかなか堅固さを感じされるものだったようです。
この標柱から少し離れた函館漁港近くに「函館港改良工事紀念碑」が立っていますが、この記念碑の石は弁天台場のアゴ石に使っていたもので、備前産の御影石のものだそうです。(2001/7/29)


(現函館どつく)

(函館どつくの裏門前)
9年ぶりの函館旅行、二日目は函館市内をいろいろと巡りました。
五稜郭に行ったあと、元町方面に向かい北島三郎記念館でしばし遊んできました(^^;) そのあとちょっと函館どつくの方に行きました。すると左手に見える「入舟児童公園」というトイレのある公園の一角に弁天台場の説明板があります。そのすぐ近くには「新選組最期の地」という石碑も。それから、そこから斜めの道を進んだところにある函館どつくの裏門前に標柱があります。
でも公園の説明板の前にはだれが立てたのか知らないけど交通安全の黄色い旗が…(をいをい(^^;)) ちょっとずらしてくれりゃあいいのに… それから標柱の周りには通勤のためらしい自転車やバイクがぞろり(^^;) まあ平日だから仕方ないんですけど。
その写真を撮ってからベイエリアへ行き遅い昼食を食べました。(2012/8/7)




【城 跡 名】戸井館
【訪 城 日】2012年8月6日
【所 在 地】北海道函館市館町3-1,2(旧戸井町)
【創建年代】14世紀後半頃
【創 建 者】?
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
旧戸井町の市街、旧戸井町役場(現函館市役所戸井支所)の場所、海岸段丘上にあったといわれています。14世紀後半頃のものと考えられており、コシャマインの戦い以前に落ちたと言われているそうです。
【訪 城 記】
9年ぶりの函館旅行、一日目は亀田半島(渡島半島東部)の海沿いをぐるっと回りながら、館跡やチャシ跡・道の駅を巡りました。
まずは旧戸井町役場の場所にあったという戸井館です。とはいっても昭和43年の役場庁舎建設の際に行われた発掘調査でその存在が知られるようになったということで、役場建設に伴い破壊されてしまい、今は何も残っていません。周辺に説明板・標柱等もないようです。

(函館市役所戸井支所[旧戸井町役場])
