【城 跡 名】汐泊(しおどまり)チャシ
【訪 城 日】2000年8月7日・2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市新湊
【形 態】丘頂式
【主な遺構】壕:コの字状1条
【訪 城 記】
志苔館を後にして、最後に函館市内の郊外にある汐泊チャシを捜しました。汐泊チャシは志苔館の更に東側、汐泊川の左岸を少し遡ったところにある丘陵頂上部にあるとのことなので、汐泊川に向かって伸びている台地の先端部を探索してみましたが、標柱も説明板もなく、結局よくわかりませんでしたが、たぶんこれがそうだろうと思われる台地の遠景の写真を取りあえず撮ってきました。
各種の資料によると、このチャシは汐泊川が大きく蛇行する部分に突き出た台地上の頂上部を一周する空壕があるそうで、江戸前期にはすでに知られていたようですが、特に伝承は残っていないそうです。(2000/8/7)


亀尾神社チャシのあと汐泊チャシをもう一度探しました。ひづめさんに頂いた情報によると白山神社(橡の木神社)の対岸にあるとのことでしたが、亀尾小中学校の所で左折して道道米原古川線に入りしばらく走ると右側に「白山神社参道」という看板があったので曲がってみましたが、しばらく行っても神社がなかったので戻ってしまいました。あとからひづめさんに聞いた話ではその突き当たりが白山神社だったようです。
元の道に戻るとすぐあった橋を渡ると、去年これじゃないかと考えた台地があり、ちょうど白山神社の対岸になるので、やはりあの台地が汐泊チャシのようです。(2001/7/29)
【城 跡 名】湯倉神社チャシ
【訪 城 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市湯川町2丁目28-1
【形 態】?
【主な遺構】なし
【訪 城 記】
このチャシは函館の温泉街湯の川にほど近い湯倉神社にあります。1985年発行の『北海道のチャシ』では遺構未確認という事で載っていますが、1990年の北海道チャシ学会の研究報告に載っている「北海道におけるチャシ跡遺跡一覧表」には載っていません。
現在では神社の境内となっており遺構らしき物はありません。私が行った時には境内がビアガーデンと化しておりました(^^;) 鳥居の数m横の方には「湯の川温泉発祥の地碑」というのがあり、江戸初期からこの辺には湯座があり薬師仏を祀る社殿(現在の湯倉神社)があったそうです。


【城 跡 名】亀尾神社チャシ
【訪 城 日】2001年7月29日
【所 在 地】北海道函館市庵原町78-1
【形 態】?
【主な遺構】なし
【訪 城 記】
このチャシは道道函館南茅部線沿いにあり、汐泊チャシの北2kmほどの所にあります。ちょうど道道と汐泊川が接するあたりに大山祇神社がある高台がありますが、ここが亀尾神社チャシです。1985年発行の『北海道のチャシ』では遺構未確認という事で載っていますが、1990年の北海道チャシ学会の研究報告に載っている「北海道におけるチャシ跡遺跡一覧表」には載っていません。
『北海道のチャシ』では「遺構未確認」とあるとおり、現在では神社の境内となっており遺構らしき物はありません。位置的にはちょうど汐泊川がカーブしている角にあり、漁労の見張り場としては適当な位置にあったといえるでしょうね。



【城 跡 名】メノコナイチャシ
【訪 城 日】2012年8月6日
【所 在 地】北海道函館市女那川町(旧恵山町)
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:方形1条
【訪 城 記】
9年ぶりの函館旅行、一日目は亀田半島(渡島半島東部)の海沿いをぐるっと回りながら、館跡やチャシ跡・道の駅を巡りました。
戸井館の次は旧恵山町にあるメノコナイチャシを目指しました。場所がはっきりしなかったので、それらしいところの写真を撮っただけです(^^;) 丘先式で方形壕が1条あるそうですが…

【城 跡 名】美呂泊チャシ
【訪 城 日】2012年8月6日
【所 在 地】北海道函館市双見町260-13,261-1(旧南茅部町)
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状1条
【訪 城 記】
9年ぶりの函館旅行、一日目は亀田半島(渡島半島東部)の海沿いをぐるっと回りながら、館跡やチャシ跡・道の駅を巡りました。
メノコナイチャシのあとは恵山・南茅部の道の駅に立ち寄り、そのあと旧南茅部町にある美呂泊チャシを目指しました。ここは丘先式で弧状壕が1条あるそうですが、断層ではないかとの見解もあるそうではっきりしないようです。ここも遠景を撮影したあと、近づいてみましたが民家の裏山のようでしたので次へ進みました。


(ちょっと場所がずれてるかも?自信なし)
【城 跡 名】ハクチャシ(蝦夷館山チャシ)
【訪 城 日】2012年8月7日
【所 在 地】北海道函館市字谷地頭1、水元谷1
【形 態】?
【主な遺構】なし
【訪 城 記】
9年ぶりの函館旅行、二日目は函館市内をいろいろと巡りました。
五稜郭に行ったあと、元町方面に向かう前に千代ヶ岡陣屋跡、そしてハクチャシに寄ってみました。ハクチャシは函館八幡宮の裏手の山ですが、遺構らしいものは残っていないそうなので遠景を撮影しただけでした。

【城 跡 名】蝦夷館山チャシ(吉岡蝦夷館)
【訪 城 日】2015年5月3日
【所 在 地】北海道松前郡福島町字吉野513-1・2
【形 態】丘頂的
【主な遺構】四段構造
【訪 城 記】
3年ぶりの道南旅行初日、上磯の茂別館の後は福島町の道の駅へ。千代の山千代の富士記念館にも寄った後、松前へと向かいました。その途中、福島町の吉野という集落の付近にあるのが蝦夷館山チャシです。
ここは、四段構造があるということですが、遠景を撮影しただけで、そのまま松前に向かいました。

【城 跡 名】国縫チャシ
【訪 城 日】2015年10月11日
【所 在 地】北海道山越郡長万部町国縫?(地点不明)
【形 態】丘頂式
【主な遺構】?
【訪 城 記】
この日は今金の美利河ダムにてダムカードをもらったあと、近くのピリカ遺跡のピリカ旧石器文化館を見学したあと、再び道央道にて移動する為、国縫ICに向かいました。その途中国縫チャシと思われる辺りにて写真を撮りました。国縫チャシは地点不明ということなので、一応「北の遺跡案内」にて登録されている場所の付近にて写真を撮りました。『日本城郭大系』では国縫チャシの説明に「国縫川上流5kmの所にあり、コシャマインの乱に関係あり」とありますが、具体的はどのようなことなのか… シャクシャインの戦いの時にシャクシャインたちが国縫まで攻め上がったというのは記憶にありますが、コシャマインの戦いの際にも国縫が関係があるのか、ちょっと不勉強でよくわかりませんでした。(2015/10/11)


【城 跡 名】ワシリチャシ
【訪 城 日】2000年8月12日・2001年6月17日・2015年5月4日
【所 在 地】北海道檜山郡上ノ国町字汐吹
【形 態】丘先式
【主な遺構】壕:直状1条
【訪 城 記】
その後、石崎から少し北の汐吹にあるワシリチャシを探しました。すると国道から汐吹の集落に降りていく分かれ道を少し通り過ぎた左側に駐車場がありそこにワシリチャシの説明板がありました。どうやらチャシはその駐車場の海に面した側にあるようですが、草が伸びていて全く遺構は確認できませんでした。説明板によると幅2.5m、深さ3mほどの空壕とそれを渡る土橋があり、両側は急斜面によって遮られているそうです。
館内からは擦文土器も採集されているそうで、チャシの発見例の少ない道南においては大変貴重なものといえるでしょう。
草が枯れた頃に再訪したいものですが... (2000/8/12)

「草が枯れた頃に再訪したいものですが...」などと前回書きましたが、今回も草で埋もれていました(T_T) 道南オフ二日目に松前城から勝山館に行く途中立ち寄ったのですが、すっかり草だらけで昨年とほとんど同じ状態でした。せめて数年に一回くらい草刈りしてくれないのでしょうかねえ。(2001/06/17)
3年ぶりの道南旅行二日日、松前城を巡り、松前をあとにして上ノ国へ向かいました。過去何度も草だらけで何も確認できなかったワシリチャシ、今回もたいして期待していませんでしたが、取りあえず…という気分で寄ってみました(^^;) ワシリチャシの説明板は以前のままでしたが、説明板にある平面図に従って空壕跡の方に行ってみると、草が伸びていてわかりにくいですが空壕らしきものがありました。その部分だけ草の色が違いますし、若干窪んでいるような感じがしますので間違いないと思います。
ただ、このワシリチャシは北海道教育委員会作成の「北の遺跡案内」には「ワシリ遺跡」となっており、擦文期の集落跡との表記になっています。2003年に発掘が行われた際に、擦文期の工房跡や住居跡などが出土したそうで、擦文期の防御性集落ではないかと考えられているそうです。(2015/5/4)



(枯れた草の奥の緑の草の部分です。)

【城 跡 名】瀬田内チャシ(豊岡チャシ、瀬田内蝦夷館)
【訪 城 日】2000年8月12日
【所 在 地】北海道瀬棚郡せたな町瀬棚区南川(旧瀬棚郡瀬棚町字南川)、
せたな町北檜山区豊岡(旧瀬棚郡北檜山町豊岡)
【形 態】丘頂式
【主な遺構】段、周壕、配石、土塁、貝塚、墓、住居跡
【訪 城 記】
再び日本海沿いに北上し瀬棚町へと向かいました。この瀬田内チャシは瀬棚町と南側の北檜山町(現在はこの二町と大成町が合併して「せたな町」となっている)の丁度境界付近に位置し、後志利別川河口近くの右岸丘陵上にあります。
『日本城郭大系』によると昭和40年からと昭和53・54年に発掘調査が行われているそうですが、このチャシは四段の切り崩しを持つ"壇造りの砦"で空堀や土塁を持ち、貝塚や礫の乱積みがあったそうです。いずれにしてもチャシとしては極めて異質なものであるといえるでしょう。
数値地図で場所は見当つけていたので、近くまでいくと一度停車し遠景写真を撮りました。南側から見てもこの壇造りははっきりと確認できなかったので、北側から見てみようと少し先に進みました。するとなんと北側から見てみるとこの台地の北側が大きく抉られているじゃありませんか。
どうやら砂利採取場になっているようです(T_T) そういえば、あらためて『城郭大系』を見てみると「昭和53年に、農地改良に伴う砂利採取のために緊急発掘調査が行われ...」と書いてあります。この砂利採取場の方から行けばチャシの近くに近づけそうでしたが、そうする気力もなかったので諦めて次に進みました。


