桧山管内(7)
泊館(江差町)

【城 跡 名】泊館
【訪 城 日】2001年7月31日
【所 在 地】北海道檜山郡江差町泊
【創建年代】中世
【創 建 者】蠣崎氏?
【主な遺構】
【歴史・沿革】
 この泊館の初代館主は松前家三世義廣の弟高廣で文亀元年(1501)または永正元年(1504)に封ぜられたと言われています。その後、高廣の子基廣が受け継ぎましたが、天文17年(1547)家督相続のもつれから誅殺されました。
【訪 城 記】
 この泊館の位置もはっきりしていません。大正13年の『北海道史跡名勝天然紀念物調査報告書』では現在の観音寺の地(写真1)が泊館の地であろうとしていますが、八巻孝夫氏は「北海道の館」で、山の中腹を切り込んで平地を作っているので、後ろの山から敷地内が見透かされてしまい、館の立地としては適当でないとしています。
 同氏はそれ以外に観音寺の北の台地(写真2)や泊川を1kmほど遡った分岐点にある山(写真3)などはどうかといっていますが、今のところ不明というしかなさそうです。
 取りあえずこの3ヶ所の写真を撮ってきました。

勝山館(上ノ国町)

【城 跡 名】上之国勝山館跡
【訪 城 日】1997年8月10日・1998年5月4日・1999年9月26日・2000年8月12日・2001年6月17日・2015年5月4日・2017年8月5日
【所 在 地】北海道檜山郡上ノ国町勝山
【創建年代】中世
【創 建 者】蠣崎信廣
【主な遺構】土塁、空堀・郭・堂社跡
【歴史・沿革】
 勝山館は武田(蠣崎)信廣が洲崎館から移り住み、本拠として築いたものと言われています。この館が築かれた年代は明確ではありませんが、文明5年(1473)には館の守護神として八幡宮が祀られ、明応3年(1494)には信廣がここに没したとされ、永正11年(1514)に二代光廣が松前大館に移るまで蠣崎氏の居館でした。
 光廣が松前大館に移った後は、次子高廣を城代として残し、以後和喜館(脇館)とも呼ばれ、大館にたいしての副城的性格をもち、享禄2年(1529)のタケナシの来襲、天文5年(1536)のタリコナの攻撃に屈しませんでした。しかし蠣崎氏の家臣団把握の弱さからしばしば反乱、陰謀の地となり、天文17年(1548)には高廣の子で城代を継いだ基廣が謀反を起こしていますし、天文22年(1553)には基廣に代わって城代となった南条廣継の妻(4代季廣長女)が謀反を起こしています。廣継の後は重臣酒井七之助が城代となったとされていますが、その後上ノ国には檜山番所が置かれました。延宝6年(1678)には番所は江差に移ったので、勝山館も廃絶されたようです。
【訪 城 記】
 ここには97年に初めて訪城しましたが、駐車場もあり整備も進んでいます。国道を進むと「夷王山・勝山館」という看板がありますのでそこから曲がり山を登っていくと山の上に駐車場があります。そのすぐ下の所に夷王山墳墓群というのがあり、600あまりの土葬墓・火葬墓があります。そこを下に下っていくと空堀・搦手門跡があって搦め手口は柵が復元されています。搦め手口の近くには館神八幡宮跡があり、八幡宮跡を含めた建物跡が石を敷き詰めて平面復元してありますが、その下の方はまだ発掘中のようでした。この時見てきたのはそこまでですが、そこからずっと下っていくと国道沿いにある上国寺・上ノ国八幡宮のある辺りに出ます。
 それから、墳墓群の隣には夷王山という山があり、その頂上には初代信廣を祀った夷王山神社というのがあります。しかしこの「夷王山」という名前は意味深な名前ですね。蝦夷の王の山なんて...まだ道南諸豪族の一人でしかなかった蠣崎信廣が蝦夷の王たらんとして名付けたと想像してみるのも面白いかもしれません。(1997/8/10)


 翌98年は、勝山館跡に行く前にすぐ近くにある上ノ国郷土館に寄りました。花沢館・勝山館の展示や考古資料等を展示してありますが、去年はなかった「かみのくに歴史散歩」という小冊子がありました。上ノ国町教育委員会が作ったもので、上ノ国の歴史や遺跡・伝承などが載っています。
 再び、山の上まで車で上り駐車場に車を止めて歩きました。まず最初は駐車場のすぐ横にある夷王山に登りました。前年は登らなかったのですが、登ってみると最高の眺めでした(^^) 上ノ国の街、勝山館跡、そして日本海が一望できます。これは予想外の収穫でした。
 夷王山は山上に医王(薬師如来)を祀っていたので医王山と名付けられていたものを、後世の松前家家臣が蝦夷地の王の意味を込めて夷王山と改めたもののようです。山上にあった医王山神社(医王山薬師堂)は明治になってから松前修廣子爵が祭神を松前家の家祖蠣崎(武田)信廣とし夷王山神社と改めたそうです。
 夷王山の山頂でしばらくその絶景に浸った後、夷王山墳墓群を抜けて勝山館跡の中心部へと向かいました。
 そして搦め手口の辺りまで進むとちょうど桜が咲いていてとてもきれいでした。時間があれば、国道沿いの上国寺、上ノ国八幡宮の所まで歩きたいところですが、時間もないのでそこまでは行きませんでした。
 二度目の訪城でしたが何度来ても良い場所です。特に今回は夷王山山頂からの眺めが大収穫でした。是非登ってみられることをお奨めします(^^) (1998/5/4)


 99年は、9月に勝山館発掘二十周年記念上ノ国シンポジウムが開かれたので再び行ってきました。二日目の25日の午前中に巡検が予定されていたのですが、丁度台風18号とバッティングしまして、結局シンポ会場隣の体育館に展示されている出土遺物の説明およびバスの中からの巡検となってしまいました。(実は専門家の方に説明を受けながらの巡検は楽しみにしていたんですが...)
 それで結局、三日目の26日、昼でシンポジウムが終わりましたので、その後勝山館まで行って来ました。私と同じようにシンポが終わってから勝山館まで行った人がたくさんいました。
 今までは2回とも車で山の上まで登り、そこに車を止めて、搦め手から建物跡などが平面復元されている主郭の上半分ほどしか見ていなかったので、今回は下から登ってみることにしました。
 まず、国道沿いの上国寺の近くに車を止め、上ノ国八幡宮と上国寺の間にある登城口から登り始めた。急な登城道をしばらく登ると荒神堂跡といわれる平場にたどり着きます。
 ここは二代目城代蠣崎基廣の亡霊を祀るお堂があった場所です。基廣は自分の地位に不満を持ち、宗家の四代季廣が上ノ国巡視をした際にこれを毒殺しようとして発覚し誅殺されましたが、その後基廣の亡霊が暴れるため、この場所にあった彼の墓所に堂を建て祀ったそうです。
 そこからさらに登ると第一平坦面といわれる三角状の郭に出ます。ここにも土塁らしき物がありいくつかの備えがあるようです。そこからさらに進むと主郭へ渡る手前に二重の空堀があります。中央は狭い通路となっていますが、二番目の濠から主郭を見上げるとかなり急で距離もあります。また、本来は主郭の端には柵が立っていたようでしっかり防御していることがうかがえます。
 橋を渡り主郭に入るとそこはたくさんの建物跡が出土したところで客殿と呼ばれる大きな建物が右側にありその近くからは庭園跡と思われるものや銅作業場・井戸などの遺構が出ているそうです。ですが、すっかり草に覆われていてその遺構はわかりませんでした。
 そこからさらに登ると、柵列跡、建物跡などが平面復元されています。郭の一番上部には館神八幡宮跡があり、明和7年(1770)再建の礎石が残っています。この時の社殿が現在の上ノ国八幡宮本殿(町指定有形文化財)で、明治9年(1876)に現在地(上国寺と旧笹波家の間)に移されました。
 八幡宮跡の裏手は土塁があり柵列が復元されています。そこが搦め手門跡でそこから出ると一条の空壕が走り、防御を固めています。そこから少し進むと道が三方に分かれ左に行くと伝侍屋敷跡へ右へ行くと用水施設跡からつるの池へ、前方に進むと夷王山墳墓群へと行きます。
 ここでは左に進み、伝侍屋敷跡へと進みました。ここは主郭とは宮の沢川の流れる沢で区切られています。むかしから侍屋敷跡と呼ばれていたそうですが、ここに建っていた建物は3分の2ほどは倉庫だったようです。草が少し伸びていて建物跡はよく分かりませんでした。
 先ほどの別れたところまで戻り、今度は夷王山墳墓群の方へ進みました。この墳墓群は勝山館の裏手に広大に広がり650ほども墓があるそうです。途中から右に曲がると駐車場の方に出て、その脇にそびえるのが夷王山です。この頂上からは上ノ国の町から日本海まで見渡すことができ、絶景です。勝山館の主郭も見渡すことができます。
 夷王山から先ほどの道を戻り三方に分かれたところで、今度は侍屋敷跡と反対の方に降りてみました。途中には土葬墓群や貝塚などもありました。下に降りると寺ノ沢の用水施設跡が復元されていました。またそこから見上げると搦め手の空壕が落ち込んできていました。
 そのあとは来た道を下って下まで降りました。(1999/9/26)


 比石館・ワシリチャシの後、4年連続の訪城となった勝山館に向かいましたが、相変わらずきれいに整備されていました。今年は夷王山近くの夷王山墳墓群の付近をかなり大規模に発掘しており、勝山館の発掘はまだまだ続きそうです。(2000/8/12)


 道南オフ二日目、松前城のあと比石館・ワシリチャシに立ち寄りながら勝山館へと向かいました。茨城城郭会のひづめさんのご紹介で、上ノ国町教委学芸員の松田先生にこの日は勝山館を案内していただくことになっていましたが、やや遅れて松田先生が見えました。ちょうどこの日は夷王山まつりの日で松田先生もまだお仕事が終わっていないとのことなので、勝山館の案内は私が務めることにして、上の駐車場で待ち合わせることにしました。
 その後、荒神堂跡をへて、大手の二重空堀、主郭の上部にある平面復元された建物跡や搦め手の柵などを眺めて、搦め手門跡を少し登ったところで松田先生と再び合流、そして夷王山墳墓群を抜けて夷王山の方へ向かいました。
 みなさんのお帰りの飛行機の時間の関係であまり時間がなかったので、他のみなさんに夷王山からの眺めを楽しんでいただいてる間に私が車を取ってきて、そのあと発掘調査事務所へ移動しました。そして、勝山館から出土した遺物を見せていただきながら松田先生にいろいろと説明していただきました。(何か見覚えがあるなと思ったら、松田先生は2年前の勝山館シンポジウムの時に遺物の説明をして下さった方でした。) 陶磁器から年代がわかるという話、アイヌの遺物が出てきたり墳墓群にアイヌのものがあることから勝山館では和人とアイヌがともに暮らしていたのではないかというようなお話もあり、とても興味深く聞きました。時間があれば、もっと説明をしていただきたいところでしたが、残念ながらタイムオーバーとなり松田先生と別れ、花沢館や洲崎館を横目で眺めながら函館方面へと向かいました。
 機会があれば、またゆっくりと松田先生のお話を来てみたいですね(^^) (2001/06/17)


 3年ぶりの道南旅行二日日、ワシリチャシの後はまず道の駅上ノ国もんじゅでスタンプを押し、そのあとなんと14年ぶりに勝山館に。とはいえ、うちの奥さんや息子もいるし、個人的に今回は花沢館がメインのつもりでしたので駐車場のすぐ横にできたガイダンス施設の見学と夷王山から眺めだけでがまんしました。ガイダンス施設には勝山館全体の模型が展示してありましたが、これはどうも以前松田先生に発掘事務所で説明していただいた時に同じような模型を見た記憶があるので、ひょっとすると同じものかも知れません。
 その後は駐車場横にそびえる夷王山に登りました。うちの奥さんはちょっとバテ気味でしたけど、夷王山から天野川そして上ノ国市街を望む眺めはやはり良かったです。夷王山山頂からは勝山館の搦手も望めますが、よく見ると以前はなかった木橋があって空壕もしっかりと深く復元されているように見えましたので、また機会があったら訪城したいと思います。(2015/5/4)


 2年ぶりの道南旅行二日日、上ノ国ダムの後は上之国勝山館へ向かいました。2年前はガイダンス施設の見学と夷王山だけだったので、今回は久しぶりに見て回るつもりでした。搦手や搦め手側の方は以前とそれほど変わりが無いように見えましたが、主郭下の大手側の方は以前より整備が進み、城代の住居跡・客殿の跡・鍛冶工房の跡・庭の跡などがきれいに平面復元されていました。この日は暑くて汗だくになりました。もっと涼しい時期に来るべきでした(^^;)
 勝山館は「続日本100名城」に選ばれていますが、まだスタンプ等は設置されていないようでしたので、また数年後再訪してみたいと思います。
(2017/8/5)

花沢館(上ノ国町)

【城 跡 名】上之国花沢館跡
【訪 城 日】1998年5月4日・1999年9月26日・2000年8月12日・2015年5月4日
【所 在 地】北海道檜山郡上ノ国町勝山
【創建年代】中世
【創 建 者】不明(小山隆政?)
【主な遺構】土塁、空堀
【歴史・沿革】
 花沢館は松前藩の記録『新羅之記録』によると蛎崎季繁・武田信廣の居館であるとされています。(小山隆政の築城とも云う) 蛎崎季繁は若狭から蝦夷地に渡り、花沢館に拠りましたが、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの際には、道南十二館のうち十館までが陥落し、残るのは茂別館(現上磯町)とこの花沢館だけでした。この時花沢館の副将武田信廣はわずかな手兵でコシャマインを倒し、道南の覇者としての地位を確立しました。季繁には子がなかったので、信廣を養女の婿として蠣崎氏を継がせました。
 その後、信廣が勝山の地に勝山館(和喜館・脇館)を築くと、花沢館は廃館となったようです。
【訪 城 記】
 この花沢館は97年の夏に道南を旅行した時にも場所を探しましたがその時は見つけることができませんでした。98年は友人と一緒の旅行でしたが、初日は伊達で泊まり、次の日は伊達からさらに南下し、八雲・厚沢部を通り江差を抜けて、上ノ国町まで行き、前年は見つけられなかった花沢館跡の標柱を見つけることができました。ほんとうに細い標柱しか立っていませんので見落とす所でした(^^;)
 細い標柱の所から坂を登ると、平らな郭が開けています。その部分の広さはモロラン陣屋跡と同じぐらいで、そこに花沢館跡の看板が説明板があります。そこからさらに山上に上がるとさらに遺構があったようですが、時間の関係でそこまでは登らずに帰ってきました。(1998/5/4)


 99年の秋、勝山館発掘20周年記念シンポジウムで上ノ国町まで行った時にも帰りに寄ってみたのですが、下草が茂っていて説明板のある郭まで登るのがやっとでしたのでそこで断念しました。いつか上の方まで登ってみたいと思っていますが... (1999/9/26)


 勝山館のあと、例によってすぐ近くの花沢館にも寄ってみましたが、草が生い茂っていたので眺めただけで攻城を断念してしまいました(^^;) 実はその数日後、お城巡りMLメンバーのナベさんが攻城したそうなのですが、かなり草は伸びていたものの、中腹にある曲輪らしき削平地、更にその上の本丸に三段の削平地と空堀が認められたそうです。
 ちょっと悔しい...(--;) (2000/8/12)


 3年ぶりの道南旅行二日日、勝山館の後はいよいよ花沢館です。今まで何度も来ていたのに、結局遺構を確認できていなかったので、今回こそはという気持ちで登りましたが、まだ草もそれほど伸びておらず良かったです。例によって登り口から説明板のある曲輪まではすんなりと登りました。改めて眺めてみると、ここは意外と広い空間が広がっています。何か建物でもあったのかなという感じがしました。
 その右奥に登り道があったので登って行くと途中に段曲輪のような削平地がいくつかあり、もうしばらく登ると広い曲輪がありました。ここが本丸(?)のようです。その裏には勝山館と似たような搦手の空壕がありました。本丸からは天野川方面を望むことができました。
 やっと花沢館の遺構を確認することができ満足でした。(2015/5/4)

洲崎館(上ノ国町)

【城 跡 名】洲崎館
【訪 城 日】1997年8月10日・1999年9月26日
【所 在 地】北海道檜山郡上ノ国町北村
【創建年代】中世
【創 建 者】蠣崎信廣
【主な遺構】
【歴史・沿革】
 洲崎館は長禄元年(1457)コシャマインの戦いで功を上げた武田(蠣崎)信廣が、上ノ国守護であった蠣崎季繁の養女(安東政季の娘)を娶り、同年築いて新婚を過ごした館と言われており、道南にある和人の館(たて)のうち唯一成立年代が記録に残っているものです。またこの時に信廣は「建国の大礼」を行ったと伝えられています。その後信廣は勝山館を築いて移り住み、洲崎館は廃されましたが、館を築いた際に建てた砂館神社は今も残り、道指定有形文化財になっています。
 昭和25年、約2500枚の中国の古銭、中国製青磁・白磁、国産の珠洲系陶器や人骨が発見されていますが、館の内部構造については未調査なため、詳しいことは分かっていません。
【訪 城 記】
 洲崎館は、97年に道南旅行に行った際に、勝山館の次に訪れていますが、その時には砂館神社の場所は分かったものの、神社前にある洲崎館の説明板しか発見できず遺構らしき物はよく分からず仕舞いでした。(1997/8/10)


 99年9月の勝山館シンポジウムの終了後、勝山館を訪城した後に再び訪城してみました。
 勝山館から国道228号線を戻り上ノ国駅を過ぎ、上ノ国目名川を渡ると左の方へ伸びる細い道があります。そこを進むと砂館神社が見えてきます。その周辺が洲崎館跡です。前回は神社を見ただけで終わりましたが、今回は神社の周りを見て回ることにしました。
 すると、神社の右側の方に少し高くなっている高台があり、そこに土塁のように少し盛り上がっている部分がいくつかあるのを見つけました。また、その高台の端の神社に近いところはさらにもう一段高くなっていましたが、それが土塁なのか、あるいは何か他のものなのかよく分かりませんでした。
 いずれにしても、この洲崎館は海岸部の小高い丘陵上にもうけた館であまり要害性は感じられません。
 実は以前から、天ノ川の川向こうに花沢館あるいは勝山館という要害性の高い館跡があるのに、武田信廣はなぜここに館を新たに建てたんだろうという疑問を持っていましたが、勝山館シンポジウムでの報告でその疑問が解けました。
 最終日に上ノ国町教委主任学芸員の松崎水穂氏の「勝山館跡とその城下の謎」という報告がありましたが、その中で天ノ川の両岸に擦文時代の遺跡があり、花沢館・洲崎館の周辺にアイヌの集落があったこと、武田信廣は洲崎館を建てることで、天ノ川両岸の集落を押さえ安定した状況を作り出したこと、その上で天ノ川の河口を押さえ、さらに天然の良港である大澗湾が控える位置に勝山館を建てたのではないかということをおっしゃっていました。なるほどなあと納得した次第です。
 いずれにしてもこの洲崎館周辺はまだ詳しく調査されておらず、今後の調査が期待されるところです。(1999/9/26)

比石館(上ノ国町)

【城 跡 名】比石館
【訪 城 日】2000年8月12日・2001年6月17日
【所 在 地】北海道檜山郡上ノ国町字石崎(比石)
【創建年代】室町時代(15世紀)
【創 建 者】厚谷重政
【主な遺構】空堀・外郭
【歴史・沿革】
 比石館は、畠山重忠の末孫厚谷右近将監重政が嘉吉元年(1551)に蝦夷地に渡航しこの地に館を構えたのがその創建とされています。長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの際には、この館もアイヌによって攻略されています。その後回復し、引き続き厚谷氏の居城として存続していましたが、文明元年(1469)厚谷家三代重形が蠣崎家初代信廣に臣属しているので、この時点でこの館は廃止されたと思われます。
 館内には縄文時代後期の遺跡があり、アイヌのチャシを倭人が占拠したものと考えられています。
【訪 城 記】
 松前をあとにし、国道228号線を北上し上ノ国町へと向かいました。まずは同町内石崎にある比石館を目指します。以前も看板を見たことがありだいたいの場所は見当を付けていたので、石崎川にかかる石崎橋の少し手前で「比石館」の看板を見つけたので、そこで曲がり砂利道を少し進むと車をおけるスペースがあったのでそこに車を停め、道なりに進んで岬の突端へと向かいました。すると途中に説明板があり、そのすぐ先の方で岬の根本の部分が狭くなっていて、その先の部分が比石館に当たるようです。現在館内には無人灯台、館神神社が立っていますが、遺構らしい遺構はほとんどありません。ただ、発掘をしているらしく、無人灯台の先の方や、私が車を停めた近くでトレンチを切ったように掘り返しているところがありました。
 この館は、石崎川の河口に向かって突きだした岬の台地上にあり、、いかにも要害の地という感じです。館主の居館はこの台地の下の現在漁港がある辺りにあったようですが、その遺構は全く残されていないそうです。(2000/8/12)


 道南オフの二日目、松前城から勝山館に行く途中に立ち寄りましたが、昨年訪れているので私はたいした写真も撮らず、海の美しさの方に心奪われていました(^^;) 前日もこの日もほんと天気が良くて、海の色も透き通るような青さでした。 (2001/06/17)

館城(厚沢部町)

【城 跡 名】館(たて)城(館村御立退所)
【訪 城 日】1997年8月10日・2000年8月12日
【創建年代】明治元年(1868)
【創 建 者】松前徳廣
【主な遺構】土塁、礎石?
【歴史・沿革】
 幕末の松前藩は佐幕を標榜していましたが、慶応4年(1868)7月の下国東七郎ら尊皇派の少壮家臣らのクーデターにより尊皇へと変貌し、松前勘解由・関佐守・蠣崎監三らの宿老は処断されました。東七郎は松前藩の漁業経済一辺倒を改め、平野の多い厚沢部川流域を開墾し米作地を作るため、その足場としての館を厚沢部川流域に築こうと考えていました。
 クーデターが成功すると東七郎は、早速新政府の箱館府に築城の許可を要請しました。箱館府の内諾を得て、明治元年(1868)9月に起工し、東西100間、南北100間の郭を築き、外側に堀を掘り、その土砂を内側に積み上げて土塁とし石垣積みなどは一切行わず、建物も板材の粗建築でした。この第一次計画を本丸とし、二の丸・三の丸と複郭を重ねて将来は砲台も付設し本格的城郭へとする計画でしたが、東北の情勢が不穏だったので、取りあえず建物が完成した段階で藩主徳廣を迎えることにしました。
 旧幕府軍は明治元年10月に森町鷲ノ木へ上陸し、同月25日には五稜郭を占拠し、その後松前に向けて進撃してきました。それを知った松前藩は、藩主の湯治という触れ込みで家臣を付して館城に向かわせ、松前城には400人の兵を配置しましたが、11月5日松前城は旧幕府軍の手に落ちました。軍事方三上超順を総指揮者として抵抗しようという松前藩兵の動きを見た旧幕府軍は、館城攻撃の構えを見せ、稲倉石砦を落としたため、藩主徳廣は滞在10日で江差へと逃げ、さらに津軽へと脱出しました。
 館城に残った藩兵は倍する敵を迎え撃ちましたが、三上超順等の奮戦もむなしく館城は落城、焼失することとなりました。
 館城は昭和41年北海道指定史跡に指定されています。
【訪 城 記】
 館城は厚沢部町の中心部からさらに奥に入ったところにあり、正直なんでこんな所に城を築いたんだろうと思うような所にありました(^^;)
 現在の城跡は、本丸跡に館城趾の碑、井戸の跡、その奥に米倉跡などがありますが、ほとんどただの野原のようなものです。道路を挟んだ向かいには土塁が一部残っています。
 それから本丸跡には松前家第二十二世松前之廣氏による館城跡の碑や「三上超順力試之石」という石が残っています。(1997/8/10)


 上ノ国町を後にすると、江差を抜け厚沢部町へと向かいました。この館城は厚沢部町の中でもかなり内陸に入った辺りにあり、厚沢部川支流の糠野川右岸台地の中央部にあります。
 ここも3年ぶりの訪城となりますが、この館城跡への入口に以前はなかった門柱に「館城址」「館藩」と書かれた城門風のものが立っていました。そこから少し台地上へ進むと左の方に城址碑や案内図が立っているところがあります。その城址碑のある辺りが本丸跡で、その近くに役所跡、武士部屋跡などがありますが、その周辺にあるのは看板だけで、残っているものといえば井戸跡と堀跡らしき深さ数十cmほどの窪み、そして前回にも書いた「三上超順力試之石」という大きな石くらいです。
 この三上超順というのは、元僧侶で松前藩の軍事方(参謀)を努めたという人物ですが、この館城での戦闘で奮戦し、戦死したそうです。どうやらこの石が置いてある場所は三上超順が戦死した場所のようです。
 堀跡で隔てられた奥の方は賄部屋・米倉があったようですが、ここも今ではただの広場になっているだけです。
 これら本丸跡と道路を隔てた反対側には、本丸を囲んだ土塁と百間堀の遺構が若干残っており、約200mほど土塁が伸びています。土塁の高さは1mほどでしょうか。東側の端の方には正方形の土塁の丁度角の部分が残っています。この土塁の外側に残る百間堀ですが、本来は深さ5尺(約1.5m)、幅2間(約3.6m)あったそうですが、端の方は埋まってかなり浅くなっています。
 その奥の南側の丘陵上には現在展望台がありますが、その手前の方に直径1~2m、深さ1mほどの窪みがたくさんありました。館城址の案内図には「胸壁 敢兵壕跡」と書いてあるので、よくわかりませんが松前藩士が防衛上掘った塹壕のようなものなのかもしれません。
 いずれにしても台地上の真っ平らなところにこの館城はありますし、土塁・堀もそれほど大きなものではありませんので、旧幕府軍の攻撃にはひとたまりもなかったことでしょう。
 3年前に来た時に厚沢部町の郷土資料館で館城の復元模型を見ましたが、城というよりは陣屋造りのような印象を受けたのを憶えています。(2000/8/12)

国分館(厚沢部町)

【城 跡 名】国分館(厚沢部館)
【訪 城 日】2015年5月5日
【所 在 地】北海道檜山郡厚沢部町字新栄269~279
【創建年代】文安4(1447)年?
【創 建 者】館頼重・江口義盛兄弟
【主な遺構】
【歴史・沿革】
 この館は文安4(1447)年4月、大館(松前)の守護村上政儀の家臣である館権太郎頼重とその弟江口三郎義盛によって築かれたと言われています。その後、義盛の子・義顕、義顕の弟・顕輝が継ぐが、永正10(1513)年6月に主である村上政儀とともに大館を襲撃した蝦夷と戦い戦死し、顕輝には男子がいなかったため江口氏は断絶し、国分館もその後絶えたと伝えられているそうです。
【訪 城 記】
 3年ぶりの道南旅行三日日、法華寺・旧檜山爾志郡役所・開陽丸と江差の名所を巡った後、江差のラッキーピエロに行きましたが、40分待ちといわれ断念、厚沢部へと向かいました。道の駅でスタンプを押し、近くのコンビニで昼食を済ませた後、国分館へと向かいました。この記事によると『北海道旧纂図絵』で示している位置と現在国分館に比定されている位置が一致しないようですが、一応現在比定されている場所の写真を撮ってきました。
 このあと箱館へと向かい、三日間の道南旅行を終了しました。今回は矢不来館を見れなかったのは残念ですが、懸案だった花沢館を探訪することができ満足です(^^)