【城 跡 名】松前藩戸切地陣屋跡
【訪 城 日】1998年5月5日・2000年8月11日・2001年6月16日・2003年5月3日・2017年8月6日
【所 在 地】北海道北斗市野崎66-10ほか(旧上磯郡上磯町)
【創建年代】安政2年(1855)
【創 建 者】松前崇廣
【主な遺構】土塁、郭
【歴史・沿革】
安政元年(1854)神奈川条約の締結により、箱館(函館)の開港が決定したため、蝦夷地は幕府の直轄地となり、松前家の領地は道南のほんの一部と陸奥梁川・出羽東根の3万石となりました。また函館から木古内までの地が松前藩の警備地となったので、この地に衛所を設けることとなりました。この陣屋は日本初の西洋式城郭で、松前藩士で佐久間象山門下の藤原重太(主馬)が設計したものです。よく五稜郭が日本最初の西洋式城郭と紹介されますが、それは間違いでこちらの方が9年早く完成しています。
箱館戦争の際は、官軍と旧幕府軍が激戦を交えているさなかに、旧幕府軍による戸切地陣屋急襲が行われ、松前藩兵は箱館府兵と合流するため、陣屋建物に火を放ち退却し、設置以来十四年間でその姿を消しました。
【訪 城 記】
この陣屋も98年に友人と一緒に行った道南旅行の時に行きました。
上磯町から大野町へと向かう道から途中左に入ると「桜のトンネル」があります。道路の両側に桜並木が続き、その桜が道路の上に被さってきてトンネルとなっているんです。(綺麗でした(^^)) そしてしばらくすると左右に大きな駐車場があり陣屋跡が前方に見えてきます。
この陣屋は、五稜郭と同じく西洋式の築城法で作られ四稜の星型をしており、まさに「四稜郭」という感じです。(実際の四稜郭より先に出来ていたのですが...)
南東角には砲台が設けられ、周囲は高さ2~3mほどの土塁で囲まれています。さらにその外側には深さ2~3mほどの空堀があり、この土塁の上から鉄砲などで狙われたらなかなか土塁の上まではたどり着けないのではないかと思いました。
土塁も空堀・馬隠し土塁もきれいに残っていました。この陣屋までの道もそうですけど陣屋跡内外には桜が植えてあり、花見客がたくさんいました。
一緒に行った友人も歴史好きなヤツなんですが、陣屋跡よりも桜の美しさに心ひかれていたようです(^^;) やっぱり、この時期に桜の名所に行って桜よりも土塁や空堀の形に心ひかれる私は変なヤツなんでしょうね(^^;) (桜の美しさにも感激しましたけど、その美しさと陣屋跡の土塁などの美しさが重なってさらに綺麗でした) この陣屋は正直言って四稜郭よりは規模も大きいですし、数倍素晴らしいです。是非一度は訪城されることをおすすめします。(1998/5/5)








南部陣屋の後は、ちょっと市立函館図書館に寄り、そのあと上磯町へと向かいました。まずは2年ぶりの訪城となる松前藩戸切地陣屋です。
午前中断続的に降り続いた雨も、この頃には上がっていたのですが、陣屋内の草むらは湿っていて、そのせいで靴の中をぬらしながらの訪城となりました(^^;)まず目に付いたのは大手門です。2年前に来た時にはなかったのですが、なかなか立派な大手門&搦手門が立っていました。また各所に立っている遺構等の説明板も前回にはなかったもので、史跡としてきちんと整備しようという気持ちが感じられ好感が持てました。
前回きちんと見なかった東側の隅にある砲台部分を見てみましたが、切れ込みが6ヶ所あり、そこが砲座になるようで、その丁度真ん中には6門の大砲を入れていたという「大砲入跡」が平面復元されています。その他にも多数の建物跡が平面復元されています。
また土塁の高さ・堀の深さは函館の四稜郭などは問題にならず、この陣屋の堅固さを象徴しているかのようです。また土塁の内側には段が作られており、犬走りのように兵士が移動したり、そこから射撃したのでしょう。
搦手側(北側)と西側は土塁・空堀の周辺を樹木が覆っているので、写真に撮ると土塁の屈曲がわかりにくいですが、東側は途中土塁の外側に何の障害物もない部分があるので、土塁の形を確かめたい場合はこちら側を見るのが良いでしょう。
とにかく、この陣屋は必見です。訪れるのは車がないと不便ですが、この土塁と堀をみれば満足していただけると思います。正直言って四稜郭なんて目じゃないです(^^;) (2000/8/11)









道南オフ初日に志苔館・五稜郭・四稜郭と回ったあと、上磯町の松前藩戸切地陣屋に行きました。ここは以前にも報告したように四稜形の土塁が非常にきれいですが、今回はオフの前に資料収集に行った時に、裏門の奥の方に火薬庫跡があるという情報を得ましたので、それを確認したいと思っていました。
戸切地陣屋に着いてもなぜか大手門の方からは入らず、東側の稜角の砲台跡の方に進み、堀を渡り土塁を登っていたみなさんですが、いつの間にかみんな集まり、壕の外側をぐるっと歩き、裏門の方へ。裏門の所まで来るとなんと「ヒグマ注意」という看板があったので、私は火薬庫方面に進むのを一瞬躊躇してしまいましたが、寿太さんがどんどん進んでいきましたので、あわててそのあとを付いていきました。
100mほど進むと左手の方に火薬庫跡の土塁が見えてきました。高さ50~60cmほどの土塁が四角く囲み、その周りを排水用と思われる堀(溝?)が囲んでいます。中央部は若干高くなっており、火薬庫の建物跡が平面復元されていますが、ほんとにこれだけの広さしかなかったのか?と思えるほど小さなものでした。
白老町にある仙台藩陣屋にも火薬庫跡の土塁があるのですが、こちらの方が遥かに大きく高く、それと同じようなイメージを持っていたのでちょっと拍子抜けしてしまいました(^^;) (白老陣屋の方は土塁が丸くなっていますけど)
とはいうものの、この火薬庫跡の土塁もなかなかきれいに整備されていて、戸切地陣屋においでになった時にはこちらも見ておいて損はないと思います。(2001/06/16)





最終日は、まずは函館朝市をちょっとのぞきまして、それから函館の隣町上磯にある松前藩戸切地陣屋に向かいました。ここも2年前の道南オフで行ったところですけど、あの時は誰もいませんでしたけど、ここもちょっとした桜の名所で、五稜郭・松前城ほどではありませんが、たくさんの人が来ていました。
まずは陣屋まで続く道の両側に桜並木が続き、桜のトンネル状態です。これがまたきれいでした(^^)
陣屋に着くと、桜があちこちで満開で、これまたきれいでした。ここの桜は五稜郭と同じような白くて小さな桜でした。桜の木の下に場所を決めると嫁さんをそこに置いて裏門そしてその奥の火薬庫跡を写真におさめ、また戻ってきて今度はまっすぐ伸びる空堀や東角にある象棋頭閉堡形式の砲台跡、そして表門と空堀、そして土塁上に咲く桜を一枚の写真に収め戻りました。今日は昨日の教訓から函館駅でほたてめしの駅弁を買ってきまして、桜の下でのんびりしながら昼飯を食べました。(2003/5/3)




道南旅行の最終日・三日目、志苔館・函館空港の後、函館朝市で昼食を食べ、そして戸切地陣屋へと向かいました。堀の中の草は伸びていたものの、それ以外の土塁や郭内はきれいに草刈りされていました。土塁や空壕などもとてもきれいになっていて、丁寧に管理されているなと感じました。しばらく陣屋内をあちこち駆け回り写真を撮りまくってしまいました(^^;) 何度来てもこの戸切地陣屋はいいです。その割りに知られていないのが残念です。
(2017/8/6)












【城 跡 名】茂別館(茂辺地館・下国館)
【訪 城 日】2000年8月11日・2001年6月16日・2001年7月30日・2015年5月3日
【所 在 地】北海道北斗市字矢不来(旧上磯郡上磯町)
【創建年代】中世(享徳3年[1454]?)
【創 建 者】下国家政
【主な遺構】土塁・空堀・小館郭
【歴史・沿革】
津軽安東氏の安東盛季が南部氏との戦いに敗れ、子康季・孫義季も戦死して断絶すると、南部氏は盛季の弟道貞の孫にあたる政季を田名部に封じました。しかし、政季はそれに飽きたらず、蝦夷地に渡航しました。そしてその後同族である湊安東氏の招きで秋田檜山に移住しましたが、蝦夷地を離れる際に同族下国定季に松前大館を、蛎崎季繁に上ノ国花沢館を、そして弟・家政に下国茂別館を任せました。
長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの際にも道南十二館のうち、花沢館とこの茂別館だけは陥落を免れ、下国氏は東部の雄として実力を保持していましたが、その後蠣崎(松前)氏の勢力拡大とともに下国氏ら安東氏一門の勢力は後退し、ついには蠣崎氏に臣属して松前藩の門閥となり、それとともに茂別館は廃されました。
【訪 城 記】
戸切地陣屋は上磯町の中でもやや内陸に入ったところにあるのに対し、この茂別館は海に近い茂辺地集落の裏の台地上に位置します。この館は中核をなす大館と、沢をはさんで副城的役割を果たす小館に別れ、大館は現在矢不来天満宮の境内となっています。天満宮の裏参道から入り車を停めると、狛犬ならぬ牛がお出迎え(^^;) そこから少し降って一の鳥居の所までいくとそこに「史跡茂別館跡」の碑と説明板がありました。
東側に土塁と空堀があるということなので、もう一度車の所まで戻ると、先ほどの裏参道側の裏口の両側に土塁が伸びていました。内側から見るとわかりにくいですが、外側から見るとかなり高い土塁が両側に向かって伸びています。
また、裏参道に続く部分が空堀になっており、草が生い茂っていましたのでそちらには進みませんでしたが、かなり大きなものです。社殿の裏側の方から見てみると、小館との間が急な崖になっており、深さ(高さ?)は十数mはありそうでした。(2000/8/11)




戸切地陣屋の次は同じく上磯町にある茂別館です。ここも志苔館と同じく道南十二館の一つですが、志苔館が四角い土塁に囲まれているのに対し、こちらは郭が丸い形をして立派な土塁と堀に囲まれてます。ここは今矢不来天満宮になってますが、なぜかその鳥居の上にたくさん石がのってました。若干一名さんが一生懸命石をのっけようとしてました...(^^;)
裏参道側の土塁の上から下をのぞいてみると、かなりの高さでこの館の守りの堅さが実感できました。館跡とは関係ありませんが、天満宮の表の鳥居には天保年間の、拝殿の裏にある古い本殿(?)の鳥居には文政年間の年代が刻まれ、道南の歴史の古さを示していました。(2001/06/16)


矢不来館・矢不来台場の次は茂別館です。今までは大館と小館しか意識されていませんでしたが、落合さんと高知大学の市村高男先生が何年もかけて歩いたそうで、大館・小館以外にも中館など周辺にたくさんの遺構が残っていることがわかったそうです。今回はそのうち小館の裏の方にある曲輪に行ってみました。ここは複雑に堀が掘られ、周囲も見通せることから防御の上で重要な場所だったようです。
大館と小館の間を左の方に入っていきましたが、藪、藪、藪... 途中に倒木もあって藪こぎ初心者の私としましては参りました。何とか到達した目的地の上に立って土塁の写真を撮ってみましたが、ただの草藪の写真にしかなりませんでした(^^;) そのあと上磯の奥にある盤の沢を案内していただいたり、富川塁まで突入していただいたり、今回は本当に落合さんにお世話になりました(^^) (2001/7/30)
3年ぶりの道南旅行初日、上磯の矢不来館は立ち入り禁止でガッカリ…
矢不来館に行けず悔しい思いで運転していると、茂別館のある矢不来天満宮に着いたので、立ち寄ってみました。ちょうど桜が咲いていてとてもきれいでした。松前城の辺りでも咲いている「南殿(なでん)」という桜のようです。裏参道の方の土塁や空壕、茂別館跡の碑などは昔のままでした。
ただ、このあとコンビニに寄ったらタイヤからシューという音が… あわててスタンドに寄ってタイヤを見てもらったら、案の定パンクでした(+_+) 釘が刺さっていたようで、ひょっとすると矢不来館までの山道を走っていた時に刺さったのかも。散々でしたが、タイヤの空気が抜けてしまって走れなくなる前に気づいてラッキーでした。(2015/5/3)






【城 跡 名】矢不来台場
【訪 城 日】2000年8月11日・2001年7月30日
【所 在 地】北海道北斗市字矢不来(旧上磯郡上磯町)
【創建年代】寛政~文政年間(1799~1821)
【創 建 者】南部藩
【主な遺構】土塁ほか
【歴史・沿革】
この台場は函館湾防備の重要な位置にあり、寛政~文政年間は南部藩が守備しています。安政元年(1854)蝦夷地が幕府直轄領となると、再構築されましたが、明治元年(1868)の箱館戦争では旧幕府軍と新政府軍の激戦の地となりました。
【訪 城 記】
茂別館の前から矢不来の集落に向ける道を進みましたが、矢不来の少し手前で矢不来台場の看板がありました。周りを見ると草が伸びていて登り口を探す元気もなかったので、そのまま通り過ぎてしまいました(^^;) またその近くにあるという矢不来館もよくわからず仕舞いでした。(2000/8/11)

矢不来館を案内していただいて興奮さめやらぬ私たちでしたが、引き続き矢不来台場を落合さんに案内していただきました。ここは丁度矢不来館の手前の海側に位置しますが、こちらの方がわかりやすいとのことで表の説明板のある所からではなく裏の農道の方から近づきました。私たちが歩いていた道がかつて松前へ抜けていた旧福山街道で、矢不来台場は街道を抑える関所の役目もしていたようです。
しばらくすると第二台場が現われました。ここは丁度海に向かった砲座が2つほどあり、それを囲むように堀が切られています。そこから北に100mほど行くと第一台場がありますが、下の説明板の所から登ってくるとここに出てきます。ここは郭が土塁で囲まれていますが、その虎口が桝形虎口になっており、四稜郭の桝形虎口を思い出してしまいました。
そこからさらに北西に100mほど行くと火薬庫跡の土塁が残っていて、これは戸切地陣屋の火薬庫に似た感じです。第二台場の砲座・第一台場の枡形虎口、そして火薬庫跡の土塁が見所ですね。
今までは手前の砲座等がある部分(第一台場・第二台場)だけを台場跡と考えていたそうですが、その奥の方にも火薬庫跡などが見つかり、もっと広い面でとらえなくては行けないんじゃないかというのが落合さんのお話でした。
今、矢不来台場と矢不来館の間に江差までの自動車道を通すという計画があり手前まで工事が進んできているとのことで、これからどうなるかがちょっと心配です。貴重な史跡として保存してほしいものですが... (2001/7/30)





【城 跡 名】矢不来館
【訪 城 日】2001年7月30日・2015年5月3日
【所 在 地】北海道北斗市字矢不来(旧上磯郡上磯町)
【創建年代】室町時代
【創 建 者】下国安東氏
【主な遺構】土塁・空堀
【歴史・沿革】
矢不来館の館主、歴史は明らかではありません。『北海道史』によれば、嘉吉3年(1443)下国安東盛季が南部義政に敗れ、海路矢不来に上陸し矢不来館を築き、享徳3年(1454)盛季の弟道貞の孫の家政が茂辺地に渡り矢不来館に住んだといいますが、この矢不来館は茂別館のことではないかといわれています。
またこの館はアイヌのチャシではないかとも言われていますが、茂別館の支館的な存在だったのではないかと思われます。
【訪 城 記】
今回の旅の最大の目的はこの矢不来館に行くことで、先月お世話になった上ノ国町教委の松田先生のご紹介で上磯の郷土史家である落合治彦さんに案内していただく事になっていました。
朝起きた時にはまだ雨が降っていなかったので大丈夫かなと思ったんですが、朝食の頃にはざあっと降ったのでこれはダメかなと思ったら、ひづめさんから取りあえず決行!という連絡が入ったので待ち合わせ場所の上磯町役場へ向かいました。そして、案内人の落合さんとひづめさんご夫妻、そして私の4人で矢不来館へと向かいました。
表の国道の方から登る道もあるそうですが、かなり厳しいらしく、裏側の農道の方から入り、矢不来館の裏側まで行きました。途中で車を止め歩いていくと畑がありましたが、その辺からは墳墓群が出土したとのことで、裏側に墳墓があるというのは上ノ国の勝山館と同じ形態だなと思いました。そして杉林に入っていきしばらくすると土塁があり、その内側に第三の堀が... これが結構深いんです。4~5mはありそうです。ほぼまっすぐな堀でその中央に土橋があり、その脇に「矢不来館」の標柱も立っていました。
土橋から眺めると、第三の壕の内側に第一・第二の堀がセットのように並んでいました。この第一・第二の堀は伊達市にある館山チャシの堀と雰囲気が似ていました。丁度堀の草も刈られていたようでとても見えやすかったです。落合さんの話では最初は内側の二本だけで第三の堀は跡から付け足したものではないかとおっしゃっていました。
堀の中央に土橋がありますが、これは農作業のために拡幅したものでかつてはその3分の1程度の広さだったそうです。土橋を渡った所にある虎口の両脇の土塁も大きなものですし、その内側の郭もとても広いものでした。 その内側の曲輪内は草藪で先端の方には進めませんでしたが、かなり広いものです。この矢不来館は茂別館の支館といわれてますけど、茂別館に匹敵する大きさがあるかもしれません。
土橋の前の虎口から入った左側の方一段高くなっているところがあって低い土塁で仕切られているところがありましたが、ここからはかなり遺物が採集されているそうで、勝山館でいえば客殿のよう
な建物があったのかもしれません。
詳しい調査が行われていませんのでまだわからない事がたくさんありますが、搦め手の壕の外側に墳墓群があること、郭内がかなり広いことなど上ノ国勝山館や松前大館との共通性も感じられます。これからはこの矢不来館・茂別館を含めた「下国」から目が離せませんねえ。
いやあいいもん見せてもらいました(^^) 一つ失敗だったのがひづめさんのように堀の底まで降りて写真を撮れば良かったなあということ(^^;) まあ次のチャンスもあるでしょう。(2001/7/30)





今年のGWは3年前の夏に行けなかった松前・上ノ国方面に行こうと思い旅行を計画しました。3年前と同じくJRの特急北斗にて函館まで向かい、そこでレンタカーを借りて、西へ向かいました。まずは12年ぶりに上磯の矢不来館へ行こうと思い、車を進めました。記憶を辿りながら地図を見ながら砂利道を進みましたが、なんとあと少しで前回車を停めた場所という所で、道路に柵がしてあり「立ち入り禁止」の文字が……(--;) 不法侵入するわけにも行かず、泣く泣く断念して、元の道に戻りました。残念…… (2015/5/3)
【城 跡 名】中野館
【訪 城 日】2001年7月30日
【所 在 地】北海道上磯郡木古内町新栄町・中野
【創建年代】中世
【創 建 者】佐藤氏?
【主な遺構】堀切?
【歴史・沿革】
ここは道南十二館の一つといわれ、武田信廣を慕って佐藤彦助季行と息子の三郎左衛門尉季則が渡来し、中野館の館主となったと伝えられています。佐藤氏は三代季連の時に松前家四世季廣の娘を娶り、代々松前家の重臣となっています。
【訪 城 記】
上磯で落合さんとお別れしたあと、ひづめさんご夫妻と木古内の中野館・知内の脇本館に行きました。道南十二館はどこにあったのかよくわからないものが少なくありませんが、この両者も例外ではありません。ただ、いくつか想定地がありますので、そこに行ってみました。
中野館は営林署の向かいの台地、中野神社の二つの想定地がありますが、営林署の向かいに行ってみました。ここは台地を区切るような堀切らしきものがあり、いかにも館があったと思わせる場所です。近くには木古内川・中野川という川も流れており、この川を押さえるための館だったと思われます。中野神社の方はかなり河口から離れているので、どうも可能性は低そうですので行きませんでした。



【城 跡 名】脇本館
【訪 城 日】2001年7月30日
【所 在 地】北海道上磯郡知内町涌元
【創建年代】中世
【創 建 者】南条氏?
【主な遺構】?
【歴史・沿革】
ここは道南十二館の一つといわれ、南条季継が館主でしたが、コシャマインの戦いの際に陥落したと伝えられています。長禄2年(1458)のものと推定される知行地宛行では脇本は佐藤氏の知行地となっており、南条氏は天文の頃には上ノ国の和喜館(勝山館)の城代となっています。
【訪 城 記】
中野館の次は知内の脇本館です。ここも場所がはっきりしておらず、想定地として漁港の裏の断崖の上と涌元小学校の裏の高台の2ヶ所がそうではないかといわれていますが、はっきりした事はわかりません。取りあえずその2ヶ所に行ってきましたが、どちらも高台にあって登るわけにもいかず遠景で写真を撮っただけでした。
ここでお世話になったひづめさんご夫妻とはお別れし、一路松前へと向かいました。


【城 跡 名】穏内館(おんないたて)
【訪 城 日】2000年8月11日
【所 在 地】北海道松前郡福島町字館崎
【創建年代】中世
【創 建 者】蒋土(こもつち)季直
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
この穏内館も茂別館・志苔館等と同じく道南十二館の一つです。コシャマインの戦いの時には落城しておりその後廃城となったようです。
【訪 城 記】
上磯から松前まで行く途中、確か福島町に穏内館があったはずだと思い探してみました。
この館は長くその所在が不明でしたが、昭和40年の文化財調査の際に一辺80m四方の塁壁と空堀・門構え等が見つかりました。しかし、この館跡の台地を切り崩して国道用地と青函トンネル建設用地を確保するとして工事に着工、緊急発掘調査は行われたものの館跡は消滅してしまいました。
現在では館跡があった国道脇にひっそりと立っている「中世遺跡 穏内館遺跡」という標柱のみがかつてを偲ばせるものとなっています。また、この国道後背の台地上には青函トンネル・メモリアルパークというのがありますが、なんだか情けない気分で眺めてきました(T_T)

【城 跡 名】松前(福山)城<福山館>
【訪 城 日】1997年8月9日・1998年5月4日・2000年8月11~12日・2001年6月17日・2001年7月30日・2003年5月4日・2015年5月4日
【所 在 地】北海道松前郡松前町松城
【創建年代】安政元年(1854)<慶長11年(1606)>
【創 建 者】松前崇廣<松前慶廣>
【主な遺構】郭・外堀・石垣・本丸御門・本丸表御殿玄関・堀上門
【歴史・沿革】
蠣崎氏は上ノ国から松前大館(徳山館)に移り、安東氏の代官として蝦夷地に覇を唱えました。五代慶廣の時には豊臣秀吉に蝦夷島主の地位を認められ、安東氏から独立した大名として認められました。
慶廣は慶長11年(1606)、徳山の南方にある福山の台地に福山館を築き蝦夷地支配の拠点としました。その後松前家の奥州梁川移封などがあり松前奉行所として使用された期間もありましたが、幕末の嘉永2年(1849)、幕府は北方警備を目的に十七代崇廣に築城を命じ、長沼流兵学者市川一学の縄張りにより旧福山館の拡張・改築を行いました。この時に初めて三重櫓の天守閣をつくり、安政元年(1854)に落成しました。(本邦旧式築城の最後のものだそうです。)
しかし、明治元年(1868)の箱館戦争の際には土方歳三を隊長とする旧幕府軍の攻撃で落城しました。その後、天守閣は昭和24年まで現存していましたが火災により焼失し、現在の天守閣は昭和36に外観再建されました。ですから旧松前城の遺構のうち現在も残っているのは昭和25年に重要文化財に指定された本丸御門と旧松城小学校玄関として利用されていた本丸表御殿玄関、そして阿吽寺の山門として移築されている旧寺町御門での3つとなります。
【訪 城 記】
松前城は私にとっては原点ともいうべき城です。小学生時代から歴史好きだった私が、初めて訪れた城がこの松前城でした。中学校の修学旅行で行ったのですが、天守閣内の展示室にあった松前家の系図をじっくりと見たり(その頃から系図好きでした(^^;))、天守閣の写真を撮ったりした記憶があります。
97年の訪城はそれ以来ですから20数年ぶりのことでしたが、やっぱり綺麗なお城でした。コンクリートで再建されたもので中は資料館になっていますが、隣の本丸御門は当時のまま残っている唯一の遺構で、天守閣と合わせてみるととても綺麗です。松前(福山)城を写真に撮るとしたら、本丸御門と天守を並べて撮るか、あるいはお堀の方から撮るのがBESTですね。
松前城は正式には「福山城」といいますが、これはそれ以前にあった松前氏の居館を「福山館」と言ったことから付いた名ですが、備後福山城と混同するので、「松前城」「松前福山城」と呼ばれたそうです。
中学時代に訪れた時に、天守閣の上からのぞくとすぐ裏に小学校がありグラウンドで子どもたちが遊んでいたという記憶があったのですが、その学校がなかったので宿で聞いたところ何年も前に移転したとのことです。旧松前城の遺構の本丸表御殿を利用して明治8年に松城学校が開校したそうですが、同33年に学校新築の際に撤去され、その玄関のみは校舎玄関として利用され、北海道有形文化財に指定されたそうです。ですが、その校舎も今は取り壊され、旧本丸表御殿玄関は松前城本丸御門横にあるプレハブ倉庫の中に眠っています。(1997/8/9)











(旧寺町御門を移築)
翌98年は友人と一緒の旅行でしたが、丁度さくら祭りの最中ということでにぎやかでした。
ちょうど桜も盛りで、「桜の似合う城」ですね。私は行ったことありませんが、近くには桜資料館というものもあったはずです。本州の大きな城に比べるとちっぽけな城ですが、やはり私にとっては原点ともいえる城ですので訪れるたびに良いなあと思います。特に今回はちょうど桜の時期に訪れることができよかったです(^^)
あ、それから松前城の玄関の売店で売っていた『松前歴史物語』という本を買ってきました。この本は松前の歴史、歴史こぼれ話、伝説・民話などが載っている本で、松前の主婦の方々が中心となって結成した「松前の小史を探る会」というところで作ったものです。松前城・館城の築城のことなども載っていてなかなか面白そうです。(1998/5/4)





松前城は2年ぶりの訪城となります。着いたのはもう5時を過ぎていましたので、天守内には入れませんでしたが、天守前の駐車場の東側の方で搦め手門跡の復元が進められていました。馬坂の方は2年前に来た時にもきれいに整備されていましたが、それよりも天守よりの搦手門付近の復元工事はかなり進んでいて、石垣や堀などはほぼできあがっていました。ですが、石垣の端の方はまだ完成しておらず、石垣の裏側に詰める栗石(で良いんでしたっけ?)が見えていました。またその近くに整備イメージ図もありましたが、それによると平成11年から4年掛けて復元を進めるようで、三本松の前の搦手門やその先にある天神坂門等も復元するようです。
天神坂や馬坂の方を見た後、大手門跡の方に進みましたが、この辺もかなり石垣が残っていますね。それから更に上に行ってみたところ、以前本丸御門の左側の方のプレハブ小屋の中に収納されていた旧本丸御殿表門が修復されて本丸御門前の広場の端の方に立っていました。ですが、すでに天守は閉館していましたので、横から眺めることしかできず、次の日にじっくりと見ることにして、本丸表御殿跡の広場の方に行きました。すると以前は気付きませんでしたが、端の方に土塁が残っていますし、シャクシャインの戦い終了後、首の代わりに松前に持ち帰った耳を埋めたという耳塚がありました(^^;)
その周辺を少し歩いたあと、宿へと向かいました。
次の日の朝、もう一度松前城に行きました。まだ時間が早かったので、搦め手門付近をもう一度写真に収め、天守の北側にある阿吽寺の方に行きました。そちら側にもところどころ石垣が残っており、もうすっかり埋まっていましたが堀跡もありました。阿吽寺の山門は松前城の旧寺町御門の移築ですが、2年前には赤いトタンで葺いていた屋根を焦げ茶色のトタンで葺き直し、以前に比べると落ち着いた感じになっていました。そして今度は寺町の方に行き、松前家墓所を少し見て天守の方に戻ると、開館していましたので、早速中に入りました。天守内の展示はさあっと見て外に出ると、早速本丸表御殿玄関を見に行きました。
松前城の本丸表御殿は廃城後、松城学校の校舎として使用されていましたが、のち校舎新築のため撤去され、玄関のみが残されて校舎玄関として使用されていました。その後、松城小学校の移転に伴い保管されていましたが、どうやら昨年からの整備事業によって修復されたようです。この表御殿は伏見城の一部を移したと伝えられていますが、確かにこの玄関にはそうした雰囲気が感じられます。ただし、いかにも北海道らしくトタン屋根になっているのがご愛敬ですが(^^;)
松前城はここ3年ほどで2回も訪城しているので、軽く見て次へ進むつもりでしたが、搦め手方面の修復に本丸表御殿玄関の修復と思わぬ拾いものをした感じがしました(^^) (2000/8/12)









(旧寺町御門を移築)















道南オフ二日目、早朝に松前大館を見たあとはいよいよ松前城です。この日は松前町役場の小野寺さんと待ち合わせをしていましたが、時間があったので昨年復元された搦手二ノ門、そしてその下の馬坂とその周辺の石垣を見ていました。搦手二ノ門の中に天守が入るようにカメラアングルをあわせるために腹這いになっているみなさんでしたが、最初笑っていた私も結局真似しちゃいました(^^;)(写真20参照)
そしておいでになった小野寺さんと一緒に天守へ向かいます。中の展示を見て、外に出てくると現存の本丸御門、その奥には本丸表御殿の玄関があります。この本丸御門と天守が並んでいる姿、そして反対側の壕の端から眺める天守の姿はいつ見ても美しいです。ちょうど天守の鯱の上にカラスがとまっていたので、それがよけるまでシャッターチャンスを待っていらっしゃった方もいました(^^;)
そのあとは阿吽寺に移築されている寺町御門、法幢寺の松前藩主墓所(そこにある織部灯籠)、光善寺の血脈桜などを見て天守前まで戻り、小野寺さんとお別れました。 あとから思い出したのですが、搦手二ノ門と同様復元の計画がある天神坂門方面とその近くにある台場(砲台)跡を見ていただくのを忘れてしまいました(^^;) (2001/6/17)

(みなさんが腹這いになって撮っていたので真似しちゃいました)

(2000年12月に復元されました)



つい先月松前城を見たばかりでしたので、今回松前城はさあっとしか見てません。天守裏の広い草地側に行くと「旧本丸表御殿玄関」という碑があったので、その写真を撮ったのと、その付近から天守と本丸御門を写真に納めたくらいです。 (2001/7/30)


8時過ぎに函館を出発し松前を目指します。10時過ぎには松前市街地に着きましたが、桜まつり開催中の松前はやっぱりこんでいました。なんとか駐車場に車を入れると歩いてお城の方へ向かいます。
阿吽寺の方へ上る坂を上ると、まず見えるのが阿吽寺の山門(旧松前城寺町御門)です。阿吽寺の境内にも桜が咲いてます。そのあと天守の方へ向かおうかなと思いましたが、そちらは後回しにして、藩主墓所・法源寺・龍雲院・光善寺と回り、そのあと、いよいよ天守の方へ向かいました。こちらも人でいっぱいです。桜は「南殿(なでん)」というピンクの少し大きめの花びらを持つ桜が満開で、とてもきれいでした。他にもたくさんの種類の桜があり5月中旬まで楽しむことが出来ます。
天守内をさあっと見たあと、本丸御門を出て天守と本丸御門が並ぶアングルから桜を入れて写真を撮ろうとしますが、なかなか人がとぎれません。
「よし、ここだ!」と思ってシャッターを押そうとしたら、天守のすぐ上空をヘリが横切ったり、おばさんがフレームに入ってきたりとえらい苦労しました(T_T)
天守前広場を出ると、修復が完成した搦手方面へ進みます。2年前の道南オフではまだ出来ていなかった搦手二ノ門の白土塀も完成してますし、その奥の天神坂門(搦手二ノ門とほぼ同じ形)やその周りの石垣もきれいになっていました。天神坂門の手前には台場(砲台)が復元されていました。天神坂門の写真を撮るのも苦労しましたが、台場は桜見物をして疲れたおばさんがどっかりと座り込んでましたので、写真を撮るのはやめました(^^;)
そのあと馬坂から下に降り昼食を近くの食堂で取ったんですが、ここもこんでいて注文したものが来るまでに40分くらいかかり参りました(T_T) これなら弁当を買ってきて桜を見ながら食べればよかったね、と嫁さんと話しました。
そして松前をあとにし、途中福島町の千代の富士記念館によって函館に戻ってきました。松前の旅館が取れれば函館に戻らなくてもすんだんですけど... (2003/5/4)







3年ぶりの道南旅行初日、福島の後は松前に向かいました。まずは道の駅に向かいます。丁度道の駅から、町並みの向こうに松前城天守が見えました。そして道の駅で夕食を食べて、この日は宿に向かいました。
翌日の旅行二日目、いよいよ松前城へ。うちの奥さんは2回目、息子は初めてです。今回も馬坂から上がり、復元された堀やら石垣やら見ながら登って行きました。前回人がいて写真が撮れなかった復元された台場の写真が撮れたので満足です(^^) 桜もいろいろな種類が咲いていて、やはり南殿がきれいでした。桜ソフトクリームも堪能してきました。今年は午前中だったからなのか、前回ほどの人がいなくてのんびり回れて良かったです。(2015/5/4)












【城 跡 名】松前大館跡<徳山館>
【訪 城 日】1998年5月4日・2000年8月11日・2001年6月17日
【所 在 地】北海道松前郡松前町神明
【創建年代】応永七年(1400)頃
【創 建 者】安東氏
【主な遺構】土塁・空堀・居館跡
【歴史・沿革】
松前大館はもともとは津軽を本拠として蝦夷地もその領有下としていた安東氏の蝦夷地の拠点として作られたようです。コシャマインの戦いの時も、安東氏の同族である下国定季と相原政胤が守将となっていましたが、アイヌの攻撃に抗しきれず陥落しました。しかしすぐ回復し、下国氏が守護していましたが、定季の子恒季は非法が多く、秋田安東氏によって滅ぼされ、相原季胤・村上政儀が守将となりました。
永正9年(1512)、アイヌの攻撃により陥落、両守将は戦死しましたが、これは蠣崎氏二代光廣の策謀によるものと言われています。そして同11年(1514)光廣は上ノ国から大館に移り、徳山館と名を改め安東氏の代官として蝦夷地支配をを進めました。その後もアイヌの攻撃がありましたが、慶長11年(1606)に福山館(松前城)に移るまで蠣崎氏政権の拠点でした。その後は万一の場合の隠し砦としてそのまま保存され、現在に至っています。
大館跡は発掘調査が行われておらず謎がまだ多いようですが、天然の要害を利用した大規模な山城だったようです。
【訪 城 記】
この大館跡は97年の道南旅行の際にも場所を探したのですが、徳山大神宮の裏あたりということしか分からず、結局そのまま帰ってきてしまいました。
98年に行った際も同じで、どこから登ればいいのかわからず、その麓にある徳山大神宮の前に大館跡の案内板を発見したにとどまりました。
ここは大館と小館の二つの郭から成っており、手前の小館と背後の大館の間には幅8m、深さ5mの空堀によって遮られているそうです。大館は東西は急峻な崖を防壁とし、南正面には橋と塞門があったと思われ、北面にも深さ7m、幅15mの空壕がめぐらされているそうです。
大館跡の案内板の横には「ゴロウニン幽囚の地」という案内板がありました。国後島上陸中に捕らえられ松前に護送されたロシア軍人ですが、どうやら徳山大神宮の奥にその捕らえられていた場所があるようです。(雨で道がぬかるんでいたので、行くのを断念したのですが...) (1998/5/4)

松前に着いたのはもう5時頃でしたが、まだ明るいのでまずは大館跡へ行ってみました。ここは松前に行くたびに行ってみるのですが、未だに徳山大神宮前に立っている説明板しか発見できません。未だ発掘調査などが行われていないのでその全貌は明かではありません。今回も登り口などが無いかなあとちょっと探してみましたがよくわかりませんでした。(2000/8/11)


茂別館で道南オフの一日目の予定は終わりましたので、一路松前へ向かいました。以外と早く松前に着き、まだ日も暮れていなかったので大館の場所だけでも確認しようと徳山大神宮の前まで行くと、去年まであった大館の説明板が無くなってました。そして、ちょっとその周辺を探すと徳山大神宮の前沢を渡ったところに登り口が見つかりましたので、みなさんと相談して翌日の早朝オプションで登ることにして、宿の丹波屋へ向かいました。
翌朝は、朝6時に出発という予定でしたが、10分前には全員が勢揃い、早速大館に向かいます。
徳山大神宮の前から、曲がりくねった道を10分ほど登っていくと大館・小館を隔てるなかなか立派な堀切が見えてきました。
まずは左側の小館の方へ。小館の中は草がかなり伸びていますが、中世城郭事典の縄張り図の通り、何ヶ所か段が見られます。段の高さは1mほどもあるでしょうか。小館の先の方まで行きましたが、木がなければ海が見えそうでした。小館という名からそれほど広くないと思っていましたが、どうしてどうしてその広さにビックリです。
その後、先ほどの堀切まで戻り、今度は大館の方に向かいました。細い道の右側には曲輪らしき削平地が広がり、左側には大きな沢が広がり、その下の方に道が見えます。これが大手道だったようです。
しばらく道なりに進むと、急に広くなり大館の主体部に到着! が、なんとそこに広がっていたのは畑...(^^;) その奥に進むとそちらには植林された杉林が広がっていました(T_T) 杉林のあたりに土塁のようなものがあり、その上には石がずっと敷いてありましたが、あれは屋敷跡のようなものだったのでしょうかねえ? そのあと、しばらく進みましたが、この大館の広さにはほんとビックリしました。小館だけでも充分な広さがあると思いましたが、大館はその10倍ほどもありそうな広さです。
上ノ国にある勝山館もかなり広いですが、これはアイヌとの対立抗争がくり広げられる中で、いざというときには武士も商人も職人もすべてこの中に逃げ込めるように、これだけの広さを必要としていたのではないかと思われます。とにかくこの大館に広さには驚きました。
しばらく進むと、大館の北端にたどりつきました。この先には深さ7m、幅30mもある大堀切があり、東側には真ん中に土塁をはさんだ二重空堀があるそうですが、藪が密生していて進むことができず、しかたなく先に進むのを断念して、先ほどの杉林を抜けて元の方に戻りました。
この大館も整備計画があるそうですが、松前町は今は松前城にかかりきりで手が回らないようです。草刈りくらいしてほしいですねえ(^^;) (2001/06/11)




(石が敷かれていましたが何なんでしょう?屋敷跡?)
【城 跡 名】覃部館(およべたて)
【訪 城 日】2001年7月30日
【所 在 地】北海道松前郡松前町朝日
【創建年代】中世
【創 建 者】今泉氏?
【主な遺構】?
【歴史・沿革】
ここは道南十二館の一つといわれ、今泉季友が館主でしたが、コシャマインの戦いの際に陥落したと伝えられています。その後館は再興されたと思われますが、永正12年(1515)蠣崎氏の松前進出に伴い被官化し、その子孫は今井氏を称し松前藩士となりました。
【訪 城 記】
ひづめさんご夫妻とはお別れしたあとに天の底が抜けたような豪雨に遭いましたが、松前に着いた頃にはもう上がっていまして、今回雨には若干当たられたもののついてるなという感じでした(^^)
覃部館の想定地は及部川の河口近く七面山の中腹あたりにあったとの事ですが、松前小学校のある付近に和人のものと思われる古い墳墓があったというので、まずは松前小学校の方に行ってみました。ですが、ただの草藪が続くだけで、よくわかりませんでした。そのあと国道まで戻り、及部川を渡る橋の所から七面山下の台地を眺め、遠景から写真を撮りました。
八巻孝夫氏の「北海道の館」によると、及部川の右岸に松前藩の狩屋があったそうで、明治の戦いの時に松前藩兵がここに籠もって戦ったそうですので、それが覃部館の地だったのかもしれません。


【城 跡 名】祢保田館(近藤館)
【訪 城 日】2001年7月31日
【所 在 地】北海道松前郡松前町館浜
【創建年代】中世
【創 建 者】近藤氏?
【主な遺構】?
【歴史・沿革】
ここは道南十二館の一つといわれ、若狭出身の近藤季常が館主でしたが、コシャマインの戦いの際に陥落したと伝えられています。その後館は再興されたと思われますが、永正12年(1515)蠣崎氏の松前進出に伴い被官化し、その子孫は松前藩士となりました。
【訪 城 記】
旅行三日目は午前中は松前町町史編集室で調べものをし、昼からは日本海側を北上しながら残りの道南十二館を探索しました。
祢保田館は削平されて確かな場所は不明ですが、松前町館浜の集落の付近にあったようです。館浜の集落の少し手前にある近藤岬という岩礁から北東の台地上とも館浜小学校の裏の台地上とも言われていますが、とりあえず近藤岬の手前から台地上に登る砂利道があったのでそこを進んでみましたが、今では牧草地になっているようで、たぶんこの辺なんだろうなというところの写真を撮ってきただけでした。


【城 跡 名】原口館
【訪 城 日】2001年7月31日
【所 在 地】北海道松前郡松前町原口
【創建年代】中世
【創 建 者】岡辺氏?
【主な遺構】空堀・土塁?
【歴史・沿革】
ここは道南十二館の一つといわれ、岡辺季澄が館主でしたが、コシャマインの戦いの際に陥落したと伝えられています。その後岡辺氏の名は松前藩の記録には出てこないため、早い時点で滅亡してしまったようである。。
【訪 城 記】
この原口館は河野常吉氏の報告によると、第一館址と第二館址があり、土塁・空堀の一部も残っていたそうで、戦後早い時期まであったとのことですが、その後埋められ行方不明になっていました。平成2・4年に行われた発掘調査によって幅約3m、深さ約2.5m、延長約120mに及ぶ空堀の跡が発見され、出土した遺物からこの空堀は中世のものではなく古代のものであることがわかりました。
現在その場所には標柱と説明板が立っていますが、日本海を望む高台にあり、草地になっています。



【城 跡 名】南部藩ヲシャマンベ陣屋(南部藩長万部屯所)
【訪 城 日】1999年9月12日
【所 在 地】北海道山越郡長万部町陣屋町
【創建年代】安政3年(1856)
【創 建 者】南部美濃守
【主な遺構】空壕・土塁
【歴史・沿革】
このヲシャマンベ陣屋は以前訪れたモロラン陣屋と同じく、南部藩が安政2年(1855)に函館から幌別(登別市)までの沿岸警備を命じられたときに作られた出張陣屋の一つです(長万部・室蘭のほかに砂原町にもある)。長万部は、東蝦夷地(太平洋沿岸)と西蝦夷地(日本海沿岸)へ向かう分岐点にあたる交通の要衝であったので、ここに陣屋を構築したようです。長万部川の支流オバルベツ川の右岸、海岸からは約1kmの丘陵上にあり、本郭は間口53間(約95m)、奥行80間(約144m)、高さ8尺(約2,4m)の土塁と深さ5尺(約1.5m)の壕が巡らされ、大砲2~3門を備えて20人ほどで警備したそうです。
しかし長万部の海岸は砂浜で異国船も容易に近づけないため、翌安政4年(1857)12月撤兵し、勤番所は取り壊して砂原陣屋へ送り、ヲシャマンベ陣屋は1年余りで廃されてしまいました。
【訪 城 記】
途中樽前のPAで休憩しましたが、道央自動車道で苫小牧・室蘭、そして長万部まで一気に車で走りました。さすがに長万部までは遠く、高速道を使っても3時間近くかかりました。
長万部に着いたのはもう1時ぐらいだったので、まずは駅前で腹ごしらえを...以前道南へ旅行したときにも寄ったんですが、駅前の「かなや」という店でかにめしを食べました。
腹がふくれたところで、いよいよヲシャマンベ陣屋へと向かいました。駅前から少し室蘭方面へ戻り、長万部橋の手前で左折し5号線を長万部IC方面に少し進むと左側に長万部温泉の看板があります。そこでまた左折しまっすぐ行くと突き当たりに神社の鳥居があります。現在は飯生神社がありますが、ここがかつてのヲシャマンベ陣屋の地です。
神社の境内や道路を造るため周囲の土塁は一部削られていますが、かなりの部分は残っています。まず、神社の階段を上りきるとその右側の方に土塁が見えました。ここの土塁はそう高くはありません。その後神社の裏の方へ回ると神社横の広場(要するに陣屋の主郭)の方へとつながる通路があります。その通路の左右には土塁がきれいに残っており、その広場の半分ぐらいを囲むように伸びています。高さは2~3mはあるでしょう、立派なものです。奥の土塁の近くには忠魂碑が建っています。
途中で土塁が途切れているので、そこで下に降り広場を横切ると南側の道路の淵に水が溜まっているところがありましたが、ひょっとするとこれは壕の跡だったのかもしれません。広場の方に戻ると、そこから右側の鳥居がある方に再び土塁が伸びています。その土塁をたどっていくと、入口らしきところがあり、下に道が伸び、神社の階段の途中につながっています。ここが本来の陣屋の入口だったのでしょう。
壕ははっきりとは確認できませんでしたが、土塁はかなりの部分残っていて陣屋の規模がうかがえます。たった1年で廃された陣屋とは思えない、なかなか立派な構えでした。



(中央奥に忠魂碑と土塁が見えます)



【城 跡 名】南部藩砂原陣屋
【訪 城 日】2000年8月7日・2012年8月6日
【所 在 地】北海道茅部郡森町砂原3丁目(旧茅部郡砂原町四軒町)
【創建年代】安政3年(1856)
【創 建 者】南部美濃守
【主な遺構】土塁・堀
【歴史・沿革】
この南部藩砂原陣屋はモロラン陣屋・ヲシャマンベ陣屋とともに南部藩によって構築されたもので、安政3年(1856)年10月から翌年1月までかかって完成しました。常に藩士50人ほどが勤番していており、市中と神社脇や駒ヶ岳のふもとに小屯(見張所)を置いたそうです。
明治維新に伴い、明治元年(1868)7月に南部藩士は陣屋を捨て本藩に引き揚げ、陣屋は廃されました。
【訪 城 記】
この砂原陣屋はちょうど砂原町の市街地の真ん中に位置しており、国道278号線に面しているので見つけやすいです。いままで行ったモロラン陣屋・ヲシャマンベ陣屋と同じく土塁が方形となっており、説明板によると東西37間(66.6m)、南北約33間(59.4m)の広さで、土塁の高さが約1丈(3m)あるそうです。
ちょっと草が繁っていてわかりにくかったのですが、たしかに形態的には室蘭・長万部のものと似た形でした。ただ3つの出張陣屋の中では一番小さく室蘭の半分もない感じがしました。(東側半分が草に埋もれていたので余計狭く感じたのですが(^^;))
土塁の高さが3mということですが、今では2mぐらいしかないかもしれません。しかも周りが民家で、陣屋の真ん中の通路が北側の民家(資材などが置かれていたので建築関係の会社かも?)が通る通用路になっていました。西側の土塁上にはそちら側の民家の方が植えたのか花や植木がありましたし...(^^;) 土塁の北西の角には下の方に石垣がありますが、目地をコンクリで固めてますので、土塁の土が崩れてくるのを押さえるためにあとから付けた物なのでしょう。(土塁の他の部分には見えませんし)
また土塁の外側に空堀があったそうですが、草が繁っていてそれもよく確認できませんでした。
これで南部藩の出張陣屋は全て見たことになりますが、やはりモロラン陣屋が一番規模も大きく保存状態もいいようです。(2000/8/7)



9年ぶりの函館旅行、一日目は亀田半島(渡島半島東部)の海沿いをぐるっと回りながら、館跡やチャシ跡・道の駅を巡りました。
ここは二度目の訪問ですが、方形の土塁がきれいに残っています。石碑や説明板もありますし、丁度草刈をした直後だったのか、土塁の形がきれいに見えました。本当ならじっくり写真を撮りたいところでしたが、道の駅の閉館時間が迫っていたので、大急ぎで移動しました。(2012/8/6)






【城 跡 名】彦澗台場
【訪 城 日】2012年8月6日
【所 在 地】北海道茅部郡森町字砂原5丁目(旧砂原町)
【創建年代】明治元年(1868)
【創 建 者】旧幕府軍
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
箱館戦争の時、旧幕府軍が対岸室蘭に向かう要地と見て隊員30名を駐留させ、台場を築きました。方形の土塁が残されていたそうですが、削平され破壊されました。
【訪 城 記】
9年ぶりの函館旅行、一日目は亀田半島(渡島半島東部)の海沿いをぐるっと回りながら、館跡やチャシ跡・道の駅を巡りました。
美呂泊チャシの次は彦澗台場です。ここは現在「ハマナス台場公園」となっています。駐車場もあり、訪れやすくなっていますが、削平され普通の公園となっており、「ハマナス台場公園」の説明板のみが、かつてここが台場であったことを示しています。眺めは非常に良いところです。


