根室管内(1)
津軽藩シャリ陣屋(斜里町)

【城 跡 名】津軽藩シャリ陣屋跡
【訪 城 日】1999年7月30日
【所 在 地】北海道斜里郡斜里町本町
【創建年代】文化四年(1807)
【創 建 者】津軽藩
【主な遺構】なし
【歴史・沿革】
 文化元年(1804)年のロシア使節レザノフの長崎来航以来、ロシアは蝦夷地を侵害したので、これに対処するため幕府は、文化4年(1807)蝦夷地を直轄地とし沿岸警備を厳重にしました。北方の要地である宗谷にも330人の津軽藩士が配属されましたが、この斜里にも100人が分駐配置され、陣屋の建設を行いました。陣屋は長屋3棟、倉庫・剣術稽古所・弁天堂・遠見番所で構成されていましたが、急造のバラック建てで、寒さと食糧不足から藩士たちは次々と病に倒れ、一冬で72人の犠牲者を出しました。翌年帰国できたのはわずか17人だったそうです。翌文化5年(1808)藩士たちは引き揚げ船で帰国の途につき陣屋は自然消滅したそうです。
【訪 城 記】
 標津町から国道244号線を通り斜里町へと向かいました。市街地に入ると『北海道の歴史散歩』(山川出版社)に載っている地図を頼りに場所を探しますが、見つかりません。地図ではなく本文をよく読むとどうも場所が違うようなので、それに従い探してみると碑と案内板を見つけることができました。ということで『北海道の歴史散歩』の地図は間違ってます。知床博物館の前の道を海の方へ進み、左折すると左手に案内板があります。
 現在は、案内板が立っているだけでただの空き地になっています。近くの町民公園内には津軽藩士殉難慰霊の碑が建っているそうです。

オホーツク管内(1)
会津藩シベツ表ホニコイ陣屋(標津町)

【城 跡 名】会津藩シベツ表ホニコイ陣屋(ホニコイチャシ)
【訪 城 日】1999年7月30日
【所 在 地】北海道標津郡標津町字標津
【主な遺構】空壕
【歴史・沿革】
 安政6年(1859)年、幕府は会津藩に蝦夷地の警備を命じ、標津・斜里・紋別の三場所は会津藩領となりました。会津藩は中老田中玄純を蝦夷地若年寄に任じ、標津に陣屋を建設しました。最終的には17棟の建物を建造する計画でしたが、6棟が完成したあとについては不明です。藩主松平容保が京都守護職に任ぜられ、藩財政が窮乏したこと、物価高等により中止したものと思われます。オホーツク海に面した海岸段丘上にコの字形の壕が一条あるそうです。
【訪 城 記】
 望ヶ丘チャシの近くではないかと思い少し探してみましたが、よく分かりませんでした。『北海道のチャシ集成図I』にはホニコイチャシというのが載っており、壕が崖に面したコの字形なので、同じもののようです。
 あとで『北海道のチャシ』を見てみたところ、「1982年の調査でチャシであることが判明」とありますので、この陣屋はチャシを利用して建設したものなのかもしれません