
【参考文献】
・『松前町史 通説編 第一巻上下』(松前町教委)
・『松前町史 資料編 第一巻』(松前町教委)
・『北海道大百科事典』(北海道新聞社)
・『三百藩家臣人名事典1』(新人物往来社)
・『藩史事典』(秋田書店)
・『新編物語藩史 第一巻』(新人物往来社)
・『松前絵師 蠣崎波響伝』(永田富智、北海道新聞社)
・『河野氏末松前家系譜録』『武田家譜』『松前家(蠣崎氏)之系圖』
(市立函館図書館収蔵)
・『古代氏族系譜集成』(古代氏族研究会)
・『宮城県姓氏家系大辞典』(角川書店)
・『江戸大名家血族辞典』(別冊歴史読本特別増刊、新人物往来社)
・『津軽秋田安東一族』(七宮[シ幸]三、新人物往来社)
・『白石城主片倉氏と家臣の系譜』(川村要一郎、創栄出版)
・「蠣崎清広家系」(長田正幸さんより)
・『史料仙台伊達氏家臣団事典』(本田勇/編著、丸善仙台出版センター)
※松前宗家の系図については松前倫廣さんから情報をいただきました。ありがとうございます。
※采女系蠣崎家については長田正幸さんから情報をいただきました。ありがとうごさいます。




松前氏は清和源氏義光流の武田氏の支流若狭武田氏の末流と一般的には言われています。松前家に伝わる伝承(『新羅之記録』)では、家祖・武田信廣は若狭守護の武田信賢の長男ですが、父信賢のあとを叔父国信が家督を継ぎ、信廣は国信の養子となり、国信のあとを継ぐはずでした。しかし、国信に実子信親が生まれ、また信廣が生来豪勇で粗暴な行いがあったので国信に疎まれたので、信廣は若狭を出奔し、新天地を求めて北上し、蝦夷地へ至ったということになっています。ですが、これは疑問が多く、もともとは南部氏の一族だったが、宗家に背いて北渡したので、真実を偽り若狭武田氏の嫡流であると称したという説、あるいはもともとは若狭の商人だったという説などもあります。

とはいうものの公式には若狭武田氏の末裔と称していますので、松前・蠣崎一族の家紋は武田家の家紋武田菱に丸を付けた「丸に武田菱」(左参照)を使っています。
鎌倉期の蝦夷地は、奥州の俘囚の長・安倍氏の子孫と称する安東氏が蝦夷管領に命ぜられ、津軽の十三湊を本拠として勢力を振るっていましたが、室町期には糠部を本拠とする南部氏の攻撃で本拠十三湊を失い、蝦夷ヶ島に逃れる羽目になっていました。
その後安東氏は秋田方面に移りますが、蝦夷ヶ島は下国守護・下国家政、松前守護・下国定季、上ノ国守護・蠣崎季繁の三名に託します。しかし、コシャマインの戦いが信廣の活躍で終息すると、信廣は蠣崎季繁の養子となって蠣崎氏を継ぎ、上ノ国の勝山館を本拠として、次第に周辺の館主を支配下に置いて蝦夷地における実権を握っていきます。
二世光廣は上ノ国から松前の大館へと本拠を移し名実共に蝦夷地の和人勢力を代表する存在となり、五世慶廣の代には豊臣・徳川政権によって「蝦夷島主」として認められ、蠣崎から松前と姓を改め、松前藩が成立します。しかし、蝦夷地では米の収穫がなかったため松前藩は石高を有せず、藩の財政はアイヌとの交易、そして商人からの運上によって支えられていました。しかし藩財政は次第に窮迫し、アイヌに対する搾取は苛酷なものとなっていきました。
そうした和人の横暴とアイヌ同士の内訌が絡まり、寛文9年(1669)、シャクシャインを首領とした大蜂起が起きました。結局、この戦いは幕府の後ろ盾を得た松前藩の勝利に終わり、以後さらにアイヌに対する支配体制は強化されていきました。
一方、松前氏は元禄の頃には交代寄合となり大名に準ずる待遇を得ていましたが、享保4年(1719)には一万石格となり大名同様の処遇となりました。しかし、この頃から藩の実権を握る蠣崎一門内での権力闘争が激化し、家老の変死事件や門昌庵事件などが起こり、藩政の矛盾は拡大していきました。
そうした矛盾を解決しようと、藩政改革に積極的に取り組んだのが十一世邦廣でした。彼は旗本で江戸の同族・松前本廣の第六子で、彼が藩主になる際には譜代家臣の中にかなりの抵抗があったようですが、倹約令や水田開発、税制の改革などに取り組み、財政は余裕を生じるほどにまでなりました。しかし、十三世道廣の代にはロシアの南下政策により千島・樺太で緊張状態が続きましたが、松前藩は無策で、文化4年(1807)十四世章廣は全島の上知を命ぜられ、松前氏は陸奥梁川九千石へ移封となり、蝦夷地には松前奉行が派遣されました。
しかし十四年後の文政4年(1821)には復帰運動が功を奏し、蝦夷地への帰封を許されます、そして十七世崇廣の時、北辺に備えるため改めて築城することを幕府に命じられ、我が国最後の旧式城郭としての松前城(福山城)が完成しました。
安政2年(1855)、日米和親条約の締結で箱館が開港すると、松前地方を除く蝦夷地は幕府の直轄地となり松前氏には代替地として陸奥梁川・出羽東根三万石が与えられ、三万石格へと昇格しました。一方、崇廣は老中格に列し、弱小外様大名としては異例の幕閣に列しましたが、兵庫開港問題で失脚し、失意のうちに病没、十八世徳廣が藩主となりましたが、維新の混乱期に勤王派の正義隊がクーデーターを起こし急激な改革を断行、厚沢部村館に新城を築きました。しかし榎本武揚等の旧幕府軍が蝦夷地に上陸すると福山城・館城は陥落し、徳廣は弘前に逃れその地で病没した。
戊辰戦争が終結すると、松前藩は館藩と改称し徳廣の子修廣を藩知事としましたが、明治4年(1871)廃藩置県によって松前藩は消滅し、修廣は華族に列し、後に子爵となりました。




蠣崎氏は慶廣の時に「松前」姓に改めましたが、彼の弟たちはその後も「蠣崎」姓を名乗り、その子孫は松前藩の重臣となっています。というよりも、松前藩の家臣の最上席は「寄合」と呼ばれましたが、それに所属していたのは、藩主一族である蠣崎・松前一族を除くと、もとは松前(蠣崎)氏の主筋である安東氏(後の秋田氏)の一族である下国氏だけでした。この蠣崎家は、主なものだけで十三家に及び、小分家を加えると二十家以上に及ぶそうです。
ところで一般的に近世初期には、各藩、特に辺境の大藩では藩主の一門が他の一般家臣をしのぐ発言力を持っているため、藩主の権力はなかなか確立しないという状況がありましたが、松前藩に置いてもその辺の事情は同様でした。
藩祖慶廣には二十六人の兄弟姉妹があり、女子は南条・下国・厚谷・村上など旧館主層や津軽北部の豪族等に嫁ぎ松前(蠣崎)家の勢力を補強することになりました。また男子は蠣崎姓を継いで松前宗家を補佐する立場に立ちました。それが季廣の五男正廣、六男長廣、九男吉廣、十一男守廣、十二男員廣等を祖とする諸家で、その多くは上にも書いたように寄合、準寄合という家老職につくことのできる特別な家格を与えられました。中でも三代公廣から六代矩廣の藩政初期に権勢を振るったのが正廣系・守廣系の両蠣崎家でした。両家は家老職を独占しただけでなく、娘を藩主の正室として宗家に送り込み藩主の姻戚としても強大な発言力を持つようになりました。
こうした中で謎につつまれた家老の変死事件が続きます。まず、延宝2年(1674)守廣系の廣隆が江戸の藩邸で変死、次いで同6年(1678)には家老の松前廣諶(村上系)が弟松前幸廣(斎藤系)と争論の上両者死亡、さらに天和元年(1681)守廣系の廣明(廣隆の弟)がやはり江戸の藩邸で変死し、宝永6年(1709)今度は正廣系の廣久が変死、享保元年(1716)先に変死した蠣崎廣明の子廣武が変死し、なんと約40年間の間に六人の家老が変死するという異常な事態でした。そのうち三人は守廣系蠣崎家の人間ですが、守廣系はその後も悲運が続き、廣武の孫廣重は場所請負人飛騨屋久兵衛の公訴事件の責めによって失職して自刃し、死後その子廣房(八代)は家名断絶となりました。(九代廣常の時に家名再興)
それから次廣系の六代目廣年は家老としてよりも「蠣崎波響」の名で画家として知られています。彼は第十二世資廣の五男ですが、次廣系蠣崎家の養嗣子となりました。幼時から画を好み、長じてからは江戸で学び、「松前応挙」と呼ばれるほどの技量でした。クナシリ・メナシの戦いの際に功労のあったアイヌの首長を描いた『夷酋列像』等の作品が知られています。また廣年の子廣伴も家老を務めましたが、一方「波鶩」と号し画家として知られています。
幕末の松前藩で家老を務めたのは廣伴の二男である松前勘解由で、実弟蠣崎監三がそれを補佐していましたが、彼らは佐幕派と見られ、慶応4年(1868)正義隊の政変によって勘解由は自刃、監三は斬殺され、この政変後は、勘解由等の甥勇喜衛廣興と員廣系の民部廣備が家老となりました。しかし、旧幕府軍との箱館戦争が始まり、民部は藩主名代として出陣し奮戦しましたが敗退、藩主徳廣等は津軽へと避難しましたが、民部は松前藩奇兵隊副長として激戦を戦い抜き、廃藩後は松前家の家扶となったそうです。



松前姓の諸家(松前藩士の諸家、幕臣・他藩の藩士をのぞく)は、蠣崎姓の諸家が十数家もあるのに対し私の知る限りでは上記の通り、河野系(景廣系)・村上系(廣[言甚]系)・斎藤系(幸廣系)の三家しかありません。この三家は見てお分かりのように、家臣の家跡を受け継ぎ、後に松前姓を名乗るといういわば家臣の家を乗っ取るようなかたちで成立しています。
まず一番最初に成立したのは河野系松前家です。河野家はもとは道南十二館の一つ箱館の館主で、蠣崎(松前)氏とは対等の立場に立つ家柄でした。河野氏の初代・加賀右衛門政通の出自はよく分かっていませんが、越智氏を称しているところから伊予河野氏の一族とも言われています。武田信廣が蝦夷地に渡ってきた頃に、政通は宇須岸という漁港の山の手に築館してその館主となりました。この館は宇須岸館ともいわれますが、一般的にはその形状が箱状だったので箱館と称し、後にはその市街そのものも箱館と呼ぶようになりました。(現在の函館市の起こり)
コシャマインの戦いの際には攻め落とされてしまいましたが、その後よくこれを回復しました。しかし永正9年(1512)ふたたびアイヌに攻められ、二代弥次郎右衛門季通がこれを迎撃して奮戦したものの一本木で自刃したため、父政通は季通の一女を伴って松前に至り、蠣崎氏四世季廣にその女を配しました。
のちに季廣と河野氏女との子五世慶廣が六男景廣に河野家を継がせ、はじめ河野伊予と称しましたが、のちに松前姓を名乗り、景廣の系統は「河野系松前家」と呼ばれました。景廣は一族の系譜・歴史を書き連ねた『新羅之記録』を編纂したことでも知られています。
河野系で名前の挙がる人物としては、景廣の孫の五代元廣がいます。かれはシャクシャインの戦いの時に第三陣の将として出征し指揮を執っています。また、延宝3年(1675)には家老職となりますが、この時期は藩政が安定せず、家老変死事件や公訴事件などが相次ぎ、辛労を重ね現職のまま没しています。その他にも廣候、廣通、廣寛、廣典など執事・家老などを務めた人物を輩出しています。
次いで成立したのは八世氏廣の弟に当たる廣諶(ひろただ)を祖とする村上系松前家です。この家も河野系と同じく歴史は古く、15世紀末に遡ります。
初代三河守政儀は松前大館の館主相原季胤の副将を務め、永正9年のアイヌの攻撃の際に自刃しています。その後は次第に蠣崎氏の家臣に組み込まれていき、政儀の子季儀を経て、季儀の長男忠儀は庶子のため別家して子孫は松前藩士となり、二男直儀が家督を継ぎますが、嗣子がなかったので五世慶廣と季儀の娘の間に生まれた六世盛廣の孫に当たる廣諶が村上家の名跡を継ぎ、松前姓を称して村上系松前家が成立しました。
廣諶は十世矩廣の藩政初期に家老となりますが、藩政執行に関わることで対立したのか弟幸廣(斎藤系松前家)と争論のすえ刃傷沙汰となり、幸廣に斬殺されるという最期を遂げました。
その後は四代廣行が家老となっていますが、公訴事件の責任をとらされたものか、元文3年(1738)切腹を命じられています。その後一旦家名断絶となりましたが、十一世邦廣の五男である廣長が家跡を継ぎました。彼は、松前藩随一の碩学で、家老職を務めるとともに『福山秘府』『松前志』などの著述を残しています。また、画家として名を馳せる蠣崎波響(廣年)の叔父に当たり、彼の師としてその成長に大きな影響を与えました。
最後に成立したのが八世氏廣の弟幸廣を祖とする斎藤系松前家です。斎藤家の先祖実繁は出羽国由利郡の豪族でしたが、その娘が五世慶廣の継室となった縁で、実繁の子直政が寛永18年(1641)八世氏廣の家臣となりました。二代目はその子廣守が継ぎましたが、嗣子がなく、幸廣が廣守の姉を娶ってその名跡を継ぎ、のち松前姓を許されました。幸廣は兄廣[言甚]と争論のすえ兄を斬殺してしまいますが、自らも重傷を負い自刃して果てました。
その後は八代廣政、九代廣純、十代崇効と藩の重職を務めていますが、最も知られているのは幕末期に家老を務めた十代勘解由崇効(たかのり)です。彼は蠣崎波響の孫に当たり、廣純の子甚十郎廣重が病気退隠したため、その養子となりました。その後側用人、家老格、家老と昇進し、幕末期には実父蠣崎将監廣伴とともに藩政執行に当たっていました。
十七世崇廣のあとを徳廣が継ぎましたが、病弱であるため退隠せんとしたので、勘解由等は崇廣の子敦千代(後の隆廣)の擁立を画策しましたが、勤王派の反撃にあい退職を余儀なくされました。その後再び家老に再任されましたが、彼は佐幕派と見られ、慶応4年(1868)正義隊の政変が起こり、勤王派が藩の実権を握ると、自宅を襲撃され自刃して果てました。


さてここで江戸松前家と称している諸家は、松前氏の一族で幕臣旗本となったもので、大きく分けて二つの流れがあります。一つは松前藩祖慶廣の子忠廣、慶廣の弟吉廣を祖とする諸家、もう一つはここで紹介する松前藩第三代公廣の子泰廣を祖とする諸家です。
泰廣は三代藩主公廣の三男で、四代藩主氏廣の異腹の弟になります。彼は寛永十八年(1641)兄氏廣とともに江戸に上り、やがて幕府に仕え一家をなします。寛文九年(1669)のシャクシャインの戦いに際しては、兄氏廣の孫に当たる幼少の藩主矩廣に代わって松前藩兵の指揮を執り、藩老蠣崎廣林とともに出兵しました。国縫、長万部でシャクシャイン軍を破り同年十月には日高新冠に進んで、戦いを終息させました。
同十二年三月にも国縫でまた蝦夷蜂起の報があったので、泰廣は長子嘉廣、次子兼廣、三子直廣を伴い松前に来たり、閏六月には事態を収束させました。このように泰廣は藩主矩廣の名代として、幕命でアイヌの蜂起の鎮圧を行うなど、松前宗家と深いつながりを持ちました。
その後も松前宗家とのつながりは深く、矩廣の後継者問題でも泰廣の子嘉廣・當廣(もと直廣)らが矩廣の相談に乗っており當廣の嫡子廣隆・嘉廣の嫡孫端廣・嘉廣の猶子道廣の名前が後継候補として挙がっていました。この時は結局は忠廣系江戸松前家の邦廣が矩廣の嗣子となりましたが、その後も泰廣系の江戸松前家は松前宗家の相談役として、松前藩政および松前藩の対幕府対策に重要な役割を演じました。


ここで紹介するのは、松前藩祖・慶廣の子忠廣を祖とする二家と、慶廣の弟吉廣を祖とする一家です。
松前忠廣は、初代藩主松前慶廣の二男で、文武にすぐれた人物でしたが、慶長四年(1599)父慶廣に従って上京し、大阪城西の丸で父とともに徳川家康に拝謁しました。同九年(1604)からは江戸に住して一家をたて、徳川秀忠に仕え幕臣旗本となりました。のちに下野国内で一千石を知行し、元和元年(1615)大坂夏の陣には出陣奮戦して敵将を倒しています。その戦功によって武蔵国八幡山にて一千石を加増され、二千石を知行しました。
忠廣の跡は一子直廣が継ぎましたが、直廣には二子があり、長子玄廣に千五百石、二子本廣に五百石と分封し、以後代々受け継ぎました。この忠廣系松前家は、泰廣系松前家と同様松前宗家と江戸幕府の関わりの中で重要な役割を果たしました。
ところで七代藩主邦廣は継嗣を失った六代藩主矩廣の養子として松前宗家に入りましたが、彼は松前本廣の六男で忠廣の曾孫に当たりました。
また慶廣の弟吉廣を祖とする系統ですが、吉廣の孫廣次を祖とします。廣次ははじめ江戸の同族松前泰廣のもとに寓居しましたが、のちに徳川綱吉に仕えて松前姓を称し、さらに綱吉の子徳松に仕え、稟米二百俵(のち三百俵)を賜りました。子孫はそれを受け継ぎ、大番組に属していました。

松前家第十七世崇廣が失脚、病没したあとは養子で前藩主昌廣の長子・徳廣が藩主の座に着きましたが、徳廣は実父昌廣と同じく病弱で、襲封後も体調がすぐれませんでした。藩老松前勘解由等はそれを憂え、崇廣の第二子である敦千代隆廣の擁立を画策していました。これは結局勤王派のクーデーターで実現しませんでしたが、新政府成立後の明治元年三月、藩主名代として参朝したり、旧幕府軍に追われ津軽に逃れた徳廣が没し幼少の修廣が藩主の座に着くとその後見となるなど、隆廣は病弱・幼少の藩主の代理として重きをなしました。
そうしたことからか隆廣は明治22年に華族に列し男爵に叙され、一家を立てました。

仙台松前家は松前藩祖・松前慶廣の八男安廣を祖としています。安廣は慶長十四年(1609)伊達政宗の家臣となり、二千石の領地を賜ります。これは父・松前慶広が来仙して、安廣の仕官を政宗と約束したとも、または旗本になっている伯父を頼りに仕官を求めて江戸に登る途中。白石にて片倉重長の知遇を得て、政宗に推挙されたとも言われます。安廣は栗原郡清水沢村にて百貫文を給され、のち準一家に列します。また寛永6年(1629)には政宗の腹心片倉小十郎景綱の子・小十郎重長の娘喜佐を妻として娶り五男三女をもうけました。
安廣の長男景長は、外祖父重長の嗣子となって片倉家を継ぎ、白石城主となりました。仙台松前家は安廣の二男八之助廣国が継ぎ、仙台藩四代藩主亀千代綱村の守役となり、伊達騒動の「伽羅先代萩」の松前鉄之助のモデルになっています。これは八之助の父安廣が五十人力の豪の者だったことから二人を合わせて鉄之助という人物を創作したもののようです。
仙台松前家は、仙台藩伊達家の門閥(準一家)として、以後大番頭・奉行を務める人物を多数輩出し、維新に至りました。



白石片倉家は仙台藩祖伊達政宗の腹心として活躍した片倉小十郎景綱を祖としています。一般には片倉家は加藤景廉の末裔で、信州片倉邑に住したので片倉氏を称したと言われていますが、『古代氏族系譜集成』によると諏訪上社大祝の神人部姓であるようです。
天文年間の景時の代に伊達晴宗に仕え、羽州置賜郡長井荘に住み世臣となりました。景綱の父景重は米沢八幡宮の神職を務め、母(一説に姉)は政宗の乳母となりました。景綱は伊達家の重臣遠藤基信にその異才を認められ、政宗の近侍となりました。合戦での戦功はもとより、小田原参陣を政宗に決意させるなどそのブレーンとして仙台藩の草創期に活躍しました。また南の守りとして白石城を任されました。
景綱の子重綱(のち重長)は父に劣らぬ才識勇武を持つといわれ、大坂の陣に参戦し、夏の陣では先鋒となって、敵将後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相の軍と戦い、これを大破し「鬼の小十郎」と称されました。
慶安四年片倉氏は伊達家門閥の「一家」に列せられました。重長には嗣子がなかったため重長の娘と松前安廣の子で外孫にあたる景長を養子として片倉家を継がせました。以後代々白石城主として1万8000石の領地を支配してきましたが、戊辰戦争で敗れた結果、片倉家の領地を含めた仙南五郡は没収され、55俵の禄米給与に転落、陪臣は召し放ちとなりました。帰農帰商して士籍を失うことを恐れた旧片倉家中は北海道への移住開拓を試み、北海道胆振国幌別郡を支配地として受領しました。当主邦憲は老齢のため、嗣子景憲、嫡孫景光が旧臣らと苦労をともに、幌別郡(現登別市)白石村(現札幌市白石区)での開拓に従事し、景光は明治31年開拓の功により男爵に叙されました。のち片倉家は仙台に戻り、現在も御子孫は仙台にいらっしゃるそうです。


柳生家は菅原氏の末裔で、宇治関白藤原頼通が大和国四カ郷を春日社に寄進して神領とした際、四カ郷のうちの一つ小柳生の庄の奉行に任じられた大膳亮永家が柳生家の祖先になります。
その末孫は柳生を称するようになり戦国期を迎えますが、宗厳は石舟斎と称し柳生新陰流剣法の祖となります。柳生流は長子厳勝の子孫尾張柳生家が継承しますが、石舟斎の五男宗矩は江戸幕府の将軍指南役として一万二千五百石の大名となりました。
宗矩の死後、その旧領は長男三厳に八千三百石、三男宗冬に四千石、四男義仙に二百石と分知されて大名の座から滑り落ちましたが、三厳の跡を宗冬が継ぎ一万石に加増され再び大名に列しました。以後代々その所領を引き継ぎ維新を迎えました。
七代俊峯の養子となった俊則は松前藩七代藩主邦廣の二男で初め賢廣、満廣と称しましたが、宝暦三年俊峯の養子となり同十三年に遺領を継ぎました。日光祭礼奉行を勤めたり、将軍家斉の剣術の相手を勤めたりしましたが、長子幸次郎、次子俊永、三子俊睦ともに早世し、大和郡山藩主柳沢保光の六男俊豊が遺領を継ぎました。


幕臣池田家は、清和源氏にその源を遡ります。「源三位」として知られる源頼政の曾孫宗仲は下間(しもづま)を称しますが、その子宗重は浄土真宗の開祖・親鸞聖人の弟子となり蓮位房を名乗り、以後下間家は親鸞の末裔である本願寺門主に仕え坊官を務めていました。
下間頼龍は本願寺の坊官で執事職でしたが。頼龍は織田家の重臣池田恒興(信輝)の養女を娶り、その間に生まれた頼広は父の死後教如上人と争い本願寺を出て、母方の叔父池田輝政を頼りました。輝政は頼広の人物を見込み、長子利隆の下で三千石を与え、その後見役として岡山の軍政を預けました。この時頼広は利隆の一字を取って重利と改めています。
その後輝政が亡くなり利隆が姫路に戻ると、重利も姫路に移り下間姓を池田姓に改め、のちに大坂の陣での功績で摂津国内で一万石を領し大名となりました。利隆の死後、その子光政が鳥取に移封されると、播磨新宮に移りました。
その後、二代重政、三代薫彰、四代邦照と続き、邦照が十三歳で亡くなると無嗣除封・家名断絶となりましたが、一族の池田光政・光仲等の奔走で弟治左衛門が寄合三千石に取り立てられ、かろうじて家名は存続しました。その後は領地は三分の一ほどに減じたものの、陣屋や町並みはそのまま残り明治まで続きました。
池田家九代直好には嗣子がなかったため、同族池田政方の娘を養女として松前藩八代藩主資廣の二男資清に配し、その跡を継がせました。資清はのちに頼完と名を改めますが、彼も嗣子がなく一女に妻の実弟頼功を配しその跡を継がせました。余談ですが、池田頼完は「松前応挙」として知られる蠣崎波響(廣年)の同母兄になります。
松前一族の墓所は、松前城の裏手の寺町にある法幢寺にあります。法幢寺の建立年代は特定できませんが、永正10年(1513)以前から大館にあったことは確かなようです。その後の戦禍で一時廃絶、天文14年(1545)、4代蠣崎季廣が再興して父義廣の菩提所とし、以後法源寺に代わって松前家累代の菩提寺となりました。
寺内にある「松前藩主松前家墓所」は国指定史跡で、初代武田信廣から19代にわたる歴代藩主及び一門の墓碑55基を安置しています。ただし、初代信廣から4代季廣までは一つの墓にまとめてあり、実際の彼らの墓は上ノ国の夷王山墳墓群内にあるようです。
また、同じ寺町にある法源寺には、松前応挙と呼ばれる蠣崎波響、その子蠣崎波鶩、波響の叔父松前廣長等の墓もあります。
