【城 跡 名】山形城(霞ヶ城、最上城、大山城)
【訪 城 日】2001年8月10日
【所 在 地】山形県山形市山形
【創建年代】延文2年間(正平12年、1357)
【創 建 者】斯波兼頼
【主な遺構】水堀、土塁、石垣、東大手門(復元)
【歴史・沿革】
この地に初めて城を築いたのは陸奥探題斯波家兼の次男斯波兼頼でした。その後、兼頼の子孫は代々山形に居城し、最上氏を名乗り、領内の要所に子弟や家臣を配しました。
山形城が拡張整備されたのは最上氏十代義光の時で、関ヶ原の役の功で置賜を除く山形県全域を支配する57万石の大大名となりましたが、孫の義俊の代に御家騒動によって改易となりました。
その後、元和8年(1622)鳥居忠政が24万石で入部し、山形城の縄張りを改めたといわれていますが、鳥居氏以降は幕末までに十一家の城主が交代し、その都度石高が減り、最後の水野忠精・忠弘は五万石に過ぎず、次第に城内は衰微の一途を辿りました。
明治に入り、本丸・二の丸は歩兵三十二連隊の兵営敷地として終戦までは利用されていましたが、現在では霞城公園として市民の憩いの場となっています。平成3年(1991)には市制施行90周年記念事業の一環として二の丸東大手門の復元が行われました。
【訪 城 記】
車を停めると、まずはおきまりの東大手門から回りました。復元されて10年たっているというのに、とてもきれいで、立派です(^^) 写真を撮りまくってしまいました。東大手門の両側に残る水堀の雰囲気もなかなか良いです。(JRの線路がなければもっと良いんですが、ぜいたくは言いますまい)
そのあと東大手門から出て近くにある最上義光義光歴史館に行ってみました。展示自体はなかなか良いですが、展示コーナーが思っていたよりも少なくてちょっと拍子抜けしました。でも、受付で売っていた『新稿 羽州最上家旧臣たちの系譜―再仕官への道程―』という本は私のような系図好きにはたまらん本で、つい買ってしまいました(^^;)
そしてふたたび東大手門から霞城公園内に戻り、博物館の前を通って本丸一文字門の修復現場に行きましたが、石垣はほぼ完成していたのではないでしょうか? 復元されるのが楽しみですねえ(^^) そのあと、南大手門跡・西不明門跡・北不明門跡と回りました。北不明門跡は車の出入口となっていて、結構出入りがありますが、南大手門跡・西不明門跡は静かなものです。でもしっかりと石垣が残っており、いい雰囲気でした。
山形城はこれからの整備が楽しみです(^^)

(内側から)










【城 跡 名】米沢城(松ヶ崎城、松岬城、舞鶴城)
【訪 城 日】1988年5月4日・2001年8月9日
【所 在 地】山形県米沢市丸ノ内町
【創建年代】暦仁元年(1238)
【創 建 者】長井時広
【主な遺構】土塁、堀
【歴史・沿革】
この地に城館が初めて築かれたのは鎌倉時代のこと、鎌倉幕府の実力者大江広元の二男長井時広によるものと伝えられています。長井はその後八代、約百五十年間続きましたが、天授6年(1380)伊達氏八代宗遠に滅ぼされ。米沢城は伊達氏の手に落ちました。伊達惣領家の居城となったのは天文17年(1548)十五代晴宗の時のことです。その後伊達氏は、十七代輝宗・十八代政宗の代に戦国大名として成長し、天正17年(1589)芦名氏を滅ぼした政宗は会津黒川城に居城を移しましたが、翌18年(1590)の小田原参陣に遅れ、政宗は陸奥岩出山城に移され、米沢は会津の蒲生氏郷の領地となり、米沢城は蒲生郷安が城代となりました。慶長3年(1598)上杉景勝が会津に封ぜられると、米沢城には直江兼続が城代となりますが、関ヶ原合戦後は上杉家は120万石から30万石に減封となり、米沢へと移されました。その後は代々上杉家の居城(のち15万石に減封)となり、明治に至りました。
【訪 城 記】
米沢城を訪城したのは88年のこと、高校時代の友人との初めての本州旅行の時でした。かの有名な上杉家の居城、どんな城なんだろうと期待していたのですが、正直なところ拍子抜けしてしまいました(^^;) 堀は残っているものの、当時は城といえば天守閣とか城門・櫓などをイメージしていましたので、そういうものが全くないお城らしくない城と感じました。丁度桜の盛りの頃で、城内や堀のまわりに咲き誇っていたのがとても印象的でした。
その後、上杉記念館や上杉家廟所をまわり、さすがに上杉家の風格を感じました。(1988/5/4)



十数年ぶりの再訪です。お堀があるのでお城だとわかりますが、やはり庭園のような感じがしてしまいます(^^;) 前回はGWだったので桜がとてもきれいでしたが、今回は夏でしたので、木々が青々としていて気持ちよかったです。隣にある上杉記念館もやっぱりきれいですね(^^) 会津若松城や松本城のそうですが、橋の赤い欄干が印象的でついその辺で写真を撮ってしまいます(^^;)
しかし、なんでこの周りに3つも鷹山公の銅像があるんですかね? 上杉記念館の所は前にもあったと思いますが、上杉神社内と松岬神社横のものは前はなかったと思います。(2001/8/9)







【城 跡 名】高畠城(鐘ヶ城)
【訪 城 日】2001年8月10日
【所 在 地】山形県東置賜郡高畠町高畠
【創建年代】承安年間(1171~1175)?
【創 建 者】樋爪五郎季衡
【主な遺構】堀
【歴史・沿革】
高畠城は承安年間に藤原秀衡の従兄弟樋爪五郎季衡が築城したとの説もありますが、はっきりしていません。伊達氏の置賜侵攻後は、伊達氏の置賜支配の拠点として利用され、永禄年間(1558-1570)には伊達氏の家臣小梁川氏の居城であったと伝えられます。
その後、上杉氏の時代には直江兼続の家臣春日元忠が初代の城代となり、元禄2年(1689)十代目城代半田善左衛門の時に屋代郷が上地となり廃城となりました。
明和4年(1767)織田氏が上野小幡から転封となり、三代六十四年間は同氏の居城となりましたが、天保元年(1830)織田氏が天童に移ると御役屋のみ残して他は廃棄されました。
【訪 城 記】
本当は、この日はまず上杉家廟所に寄ろうと思ったんですが、なんと拝観は9時からだというのであっさりと断念しまして、そういえば上山に行く途中に高畠城があったっけと思い出し、ちょっと寄ってみまることにしました。ここは現在ではすっかり小学校の敷地になってしまっていまして、小学校の前に三の丸の堀が一部残っているだけでした。その堀で小学生の子どもたちが釣りをしてました(^^;)

(なぜか高畑になってます)

【城 跡 名】上山城(月岡城)
【訪 城 日】2001年8月10日
【所 在 地】山形県上山市上山
【創建年代】天文4年(1535)
【創 建 者】武衛(武永)義忠
【主な遺構】模擬天守、石垣、土塁、堀
【歴史・沿革】
天文4年、斯波氏の一族武衛(武永)義忠がこの地に月岡城を築き移ったのが始まりといわれています。その後、里見氏・坂氏が城主となり、最上氏滅亡後は松平(能見)氏・蒲生氏・土岐氏が入部し、土岐氏の頃に城の整備が進められました。しかし、元禄5年(1692)幕府領となると本丸御殿・隅櫓・石垣などが破却され、一時荒れ果てていましたが、元禄10年(1697)松平(藤井)氏が入封すると本丸と城門を修復し、以後廃藩まで松平氏は上山城主として在城しました。維新後、城郭はさらに破却され、わずかな堀を残すのみとなっていましたが、昭和57年(1982)歴史民俗博物館として模擬天守が建てられました。
【訪 城 記】
現在御丸跡に立っているのは模擬天守なんですが、外見はなかなか見応えがあります。ついつい、いろいろな角度から写真を撮ってしまいました(^^;) かつては三層の天守がそびえていたそうですが、どんかものだったんでしょうね?
ところで、天守から月岡公園に渡る橋の下を通る道が堀のような感じで、まさか実際に堀だったところを道にした...なんてことはないよなあ?と思っていたら、現在模擬天守のある所は本丸跡で、月岡公園は二の丸跡だそうで、どうもあの道は本当に堀だったようです。








【城 跡 名】福島城(大仏城、杉目城)
【訪 城 日】2001年8月7日
【所 在 地】福島県福島市杉妻町
【創建年代】文禄元年(1592)
【創 建 者】木村吉清
【主な遺構】土塁
【歴史・沿革】
福島城の名は木村吉清が文禄元年に大森城より移る際に命名されたもので、それ以前は大仏城・杉目城などと呼ばれていました。『信達一統志』では治承年中は杉目太郎行信の居城と伝えていますが、詳細は明らかではなく、中世、この城は伊達氏のものでした。伊達晴宗が子・輝宗に家督を譲った際にこの杉目城に隠退しており、その死後は晴宗の末子杉目直宗が在城していました。
豊臣秀吉の奥州仕置の後は木村吉清が信夫5万石を与えられ大森城に入りましたが、文禄元年に杉目城に移り福島城と改め、大森城下の町屋敷も移しました。同4年吉清が死去すると福島城は破却されましたが、慶長3年に上杉景勝が会津若松城に入るとここは上杉領となり、福島城には水原親憲・本庄繁長・本庄政長が城代として在城しました。
江戸期は幕府領と藩領とを幾たびか変遷しますが、元禄15年(1702)以降は板倉氏3万石の居城として幕末まで至りました。明治2年(1869)板倉氏が三河国重原に移ると福島城は破却され、本丸跡に福島県庁が置かれました。
【訪 城 記】
福島県のお城巡り最初は福島城です。この日は筈衛さんに中通りのお城を案内していただくことになっていましたが、実は前日泊まったホテルが福島城跡といいますか、福島県庁のすぐ近くだったんですが、ホテルに到着するまで全くそのことに気づいていませんでした(^^;) ホテルから歩いて行きましたが、平日の朝ですから、当然周りは出勤途中の会社員ばかりで、その中を歩いていくというのはなんだか変な感じでした(^^;)
筈衛さんに案内していただき、県庁の裏の方にある土塁の所まで行きましたが、長さ十数mの土塁が確かに残っているものの、その周りには県庁職員の方のものとおぼしき自動車が駐車され、言われないとそれがお城の遺構とは気が付かないでしょうね(^^;) あとは、すぐ近くにある板倉神社を含む紅葉山公園一帯がかつては藩主板倉氏の茶亭だったそうで、その雰囲気を若干残しているくらいです。
なお筈衛さんのお話では、県庁裏の川岸の石垣のうち、阿武隈川の水を取り汲んでいたところの石垣の一部は本物だそうです。
完全に市街地化されてしまい、その面影を想うべくもないというのはちょっと寂しかったですね。



【城 跡 名】大森城(臥牛城、白鳥城、鷹峰城)
【訪 城 日】2001年8月7日
【所 在 地】福島県福島市大森字城山
【創建年代】天文11年(1542)
【創 建 者】伊達晴宗
【主な遺構】空堀・土塁
【歴史・沿革】
この城は天文11年に伊達晴宗によって築城されたといわれますが、鎌倉中期から南北朝時代にかけて何らかの城館があったと考えられています。はじめ大森城には晴宗の弟実元が在城し、晴宗と父稙宗との「天文の乱」の際には稙宗方の拠点となりました。天正13年(1583)頃、実元の子・成実が大森城主となりましたが、天正14年、伊達氏17代政宗が二本松畠山氏を滅ぼすと、その軍功により成実は二本松城に移り、片倉小十郎景綱が大森城主となりました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によってこの辺りが蒲生氏郷領となると、大森城はその家臣木村吉清が城代となりましたが、文禄元年(1592)吉清は杉目城に移り、大森城は一時廃城となりました。慶長3年(1598)、今度は上杉景勝領となると、その家臣栗田国時が大森城代となり復活し、その後芋川氏が正親・元親・綱親・高親と四代に渡り相続しましたが、寛文4年(1664)信達平野が上杉領から幕府領となったため、大森城は廃城となりました。
【訪 城 記】
大森城の本丸跡は現在、大森城山公園となっています。車でしばらく上っていくと駐車場らしき所があり、そこに車を止め本丸方面へと歩きました。伊達成実・片倉景綱という伊達政宗の両翼が居城としたところですが、現在は城山公園として古城の雰囲気を残しています。といっても小雨が降る中でしたので、本丸付近を若干探索して、本丸南側にある空堀を見つけただけでしたが、『日本城郭大系』によると東からに南・西側の斜面の一部には空堀跡があるとのことですので、きっと探せばまだ遺構があるのでしょうね。



【城 跡 名】会津若松城(鶴ヶ城、黒川城)
【訪 城 日】1989年5月5日・2001年8月9日
【所 在 地】福島県会津若松市追手町
【創建年代】至徳元年(1384)
【創 建 者】芦名直盛
【主な遺構】石垣、土塁、堀など(天守、走り長屋、鉄門などは復元)
【歴史・沿革】
会津の佐原氏は三代光盛の時、芦名氏を称しましたが、この芦名氏の七代直盛の時会津郡門田荘黒川に築城し黒川城と称しました。これが鶴ヶ城の起こりです。芦名氏は二十代義広の時、天正17年(1589)の摺上原の合戦に敗れて滅亡し、黒川城は伊達政宗の居城となりますが、小田原の役後豊臣秀吉は会津を蒲生氏郷に与えました。氏郷は文禄元年(1592)から新城を造営し、92万石の太守にふさわしい豪壮なものになりました。この時に鶴ヶ城と命名され、城下町も若松と名づけられました。
氏郷の子秀行が宇都宮に転封となると、上杉景勝が120万石で入部しましたが、関ヶ原合戦後米沢に移され、その後は蒲生氏、加藤氏が城主となりました。(加藤氏の時に七層だった天守は五層に改築) 加藤氏の改易後は、二代将軍秀忠の子保科正之が23万石で入部し、保科氏は三代正容の時に松平氏を称し、子孫相次いで幕末を迎えます。幕末の当主九代容保は京都守護職を務めていましたが、鳥羽伏見で幕府軍が破れると会津に戻り、新政府軍に謝罪嘆願書を呈上。しかし、新政府首脳はこれを拒否して武力討伐に踏み切り、会津藩は圧倒的な新政府軍の猛攻の前に開城降伏、戊辰の動乱は終わりました。
この戦乱で傷ついた鶴ヶ城は、明治7年(1874)にすべての建物が取り壊され、石垣と堀を残すだけになっていましたが、昭和41年に天守が再建され、走り長屋・鉄門も復元されました。
【訪 城 記】
鶴ヶ城を訪城したのは89年のことですが、この会津若松城の爽やかさは今でも印象に残っています。復元されたものとはいえ、鶴ヶ城の天守は本当にきれいで、何度見ても見飽きませんでした。またこの天守と走り長屋・鉄門の姿(写真6参照)はホント写真写りが良くて、何度もシャッターを押したものでした。
会津藩主別邸「御薬園」の庭園もとてもきれいでしたが、そこの建物にいまも「松平」の表札が付いていたのにはニヤッとしてしまいました。
また行ってみたい城の一つです。(1989/5/5)







前日、ホテルを探して会津若松市内をぐるぐるしている途中で甲賀町口郭門跡を見つけましたので、まず甲賀町口郭門跡へと行きました。ここは蒲生氏郷が城下町を整備した時に城の周囲に外堀を巡らし、外堀の内側に16ヶ所の郭門をもうけたうちの一つで、現在残るのはここだけです。東側の石垣は明治3年(1870)に破却され、現在残っているのは西側の石垣だけですが、なかなか立派なものです。ついで天寧寺土塁へ。ここは内郭と外郭を区画した土塁が一部残存しています。
そしていよいよお城へ。県立博物館の駐車場に車を停めると、そのすぐ横に三の丸の堀跡がありました。これは県立博物館建設に先立つ発掘調査の際に出土したもので、サツキの植え込みを使ってその形がわかるようにしてあります。
そのあと二の丸東門跡を通り、廊下橋へ。ここは前回来た時にも思いましたが、赤い橋の欄干と灰色の石垣が対照的でつい写真を撮ってしまいます(^^;) 前回は廊下橋のたもとから、石垣の向こうに見える天守の写真(写真3)をねらえたのですが、今回は廊下橋門の石垣の修復をしていたので、それができなかったのが、ちょっと残念でした。
廊下橋門を通り、裏門から本丸へ。時間もまだ早かったので人も少なく写真撮影もスムーズに行きました(^^) 思わずいろんなアングルから天守を撮ってしまいました。その後、天守の中の展示をさあっと見て、最近復元された南走長屋と干飯櫓へ行きました。さすがに木の香りがしそうな感じでした。干飯櫓の出口からはちょうど鉄門と天守が一直線に見えて、この眺めもなかなか良いです。
そのあとは北出丸の周り・西出丸の周りとぐるっと回りました。堀越しに見る北出丸・西出丸の石垣もなかなか良いです。そして、今度は西出丸南門の当たりから本丸の南側の堀沿いに歩き三の丸方面へ行きました。樹木が茂っていて干飯櫓が堀越しだとちょっと見えにくいのが残念でした。
三の丸南門跡は石垣はなくなっていましたが、土塁はしっかりと桝形の形を残していました。そして二の丸南門跡を通って再び廊下橋前に。二の丸はすっかりテニスコートになってしまっています(^^;)
そして松平家墓所に行ったあとに、阿弥陀寺に移築されている御三階の建物を、道端に車をちょっと止めてさっと見てきました(^^;)
結局、それらをあわせて170枚くらい写真を撮ってしまいました(をい(^^;)) やっぱり鶴ヶ城は良い城です(^^) (2001/8/9)
















走り長屋(多聞)と干飯櫓




【城 跡 名】神指城(こうざしじょう)
【訪 城 日】2001年8月8日
【所 在 地】福島県会津若松市神指町
【創建年代】慶長5年(1600)
【創 建 者】上杉景勝
【主な遺構】本丸、二の丸、堀、土塁
【歴史・沿革】
慶長3年(1598)会津に入部した上杉景勝は居城の若松城が小田山に近く、ここから大砲を撃ち込まれる恐れがあるので、新たに築城する計画を立て、初め河沼郡北田城の地を選定したものの水害の心配があるので、神指原に築城することにして慶長5年2月家老の直江兼続に命じて、新城の工事を開始させました。しかし、この城は完成至らぬまま工事が中止され、関ヶ原合戦の後、上杉景勝は新城に移らず米沢に転封となりました。
【訪 城 記】
旅行二日目最後の訪城は神指城です。ここは上杉景勝の居城になり損なったお城です。私の持っている『福島県都市地図』には載っているし、丁度田んぼの広がるど真ん中にここだけ雑木林が残っているので、たぶんこれがそうだろうとは思いましたが、全く標柱・説明板のたぐいを発見できず、本当にここなのかなと疑いながらの訪城でした。
初め見つけたのは西側にある墓地への入口でしたが、その中は確かに墓地になっているものの、端の方には土塁が残り確かにここが城跡であることを感じさせました。再びぐるっと回り、今度は北側に入口を見つけましたが、そこの内部は個人の畑になっており、やはり標柱のたぐいはありませんでした。しかし、その入口の両脇には高い土塁が伸び、なかなか立派なものでした。
そのあとは時間がまだ少しあったので院内にある松平家廟所へと向かいました。



【城 跡 名】藤倉館
【訪 城 日】2001年8月9日
【所 在 地】福島県会津若松市河東町倉橋(旧河沼郡河東町大字倉橋)
【創建年代】建久3年(1192)?
【創 建 者】藤倉三郎左衛門盛義か
【主な遺構】主郭・土塁・堀
【歴史・沿革】
『新編会津風土記』によると藤倉館は三浦氏の支族佐原盛連の三男藤倉三郎左衛門尉盛義がいたと伝えられます。しかし藤倉氏の動向については会津地方の在地領主の動きを伝える文献にもみえず、謎とされています。北田氏・佐原(加納)氏・新宮氏ら会津盆地の有力な在地領主は応永・永享年間(1394-1441)に黒川城主の蘆名氏に滅ぼされており、藤倉氏もこの頃に滅ぼされたと思われます。
【訪 城 記】
前日の夜に「さくらとおしろ」のさくらさんとお会いした時に、会津から米沢に向かう途中に藤倉館というのがありますよと教えていただいたので、通りすがりに寄ってみました。すぐ近くに藤倉二階堂と呼ばれる延命寺地蔵堂(国重文)があったので、そこを見てから藤倉館跡の方に進みます。
ここの主郭は現在民家になっていますが、遺構はしっかり残っていまして、水堀もきれいに残っています。本当はもう少しゆっくりと見たい所でしたが、米沢に向かう途中ですし、現在個人宅になっているということで、水堀の写真を撮っただけで退散してしまいました(^^;)


【城 跡 名】二本松城(霞ヶ城・白旗城)
【訪 城 日】2001年8月7日
【所 在 地】福島県二本松市郭内
【創建年代】応永21年(1414)
【創 建 者】畠山満泰・丹羽光重
【主な遺構】本城、西城、御殿郭、石垣、土塁、箕輪門(復元)
【歴史・沿革】
二本松城は奥州探題を務めた畠山高国・国氏の子孫・満泰が築き、以後九代に渡って居城としました。
天正13年(1585)畠山義継は伊達政宗に降伏しました。義継は仲介してくれた政宗の父輝宗にお礼に出かけた際に輝宗を捕らえ引き揚げようとしましたが、政宗は父輝宗と共に義継一行を鉄砲の餌食とし、義継の子義綱は政宗の攻撃に耐えかね会津に去り、二本松城は片倉小十郎景綱、のちに伊達成実が城代を務めました。天正18年(1590)会津に蒲生氏郷が入部すると、二本松城には蒲生郷成、町野重仍を城代とし、慶長3年(1598)に上杉景勝領となると下条忠親が城代を務めました。
関ヶ原後再び蒲生氏が会津に入りましたが、寛永4年(1627)忠郷が没して無嗣絶家となると、松下重綱が5万石で入り、重綱が没すると松下氏は三春へ移り、入れ替わって三春から加藤明利が入りました。寛永20年に会津の加藤氏が除封されると、分家である二本松の加藤氏も除封となり、二本松は会津領より分離され、白河の丹羽光重に与えられました。光重は同年8月に二本松城に移り、以後明治維新までこの地を統治しました。
【訪 城 記】
カーナビの案内に従い、まずは本丸へと向かいました。頂上には本丸の石垣が見事に残っており、とても立派です。天守台や・櫓台の石垣などを見たあと、搦手門跡方面へ降りてみますと、搦手門の石垣もとても立派でした。搦手門近くにある新城館跡には智恵子抄の詩碑や戊辰戦争の際の二本松少年隊の顕彰碑もあります。そのあと本丸に戻り、そのすぐ下にある大石垣などを堪能したあと、車で下に降りました。
今度は箕輪門が復元されている辺りを散策しました。二本松少年隊の銅像を眺めながら箕輪門から中に入り、三の丸などその周辺の石垣を見て回りました。もう少し歩けば、松森館跡・本宮館跡などの郭跡もあったようですが、雨のため根性無しモードの私はそれで退散しました(^^;) でも、本丸跡にしろ箕輪門付近の遺構にしろ見事なものでした。たいへん満足でした(^^)






(手前に見えるのは二本松少年隊の銅像)

【城 跡 名】小浜城(下館)
【訪 城 日】2001年8月7日
【所 在 地】福島県二本松市小浜(旧安達郡岩代町)
【創建年代】文明年間(1469~1487)
【創 建 者】大内内膳宗政
【主な遺構】本丸・石垣
【歴史・沿革】
小浜城の城主大内氏は大崎家に仕えていましたが、のち石橋氏の配下となり、この地に城を構え、旧領地の若狭国小浜の名を取り「小浜城」と名付けたといいます。永禄年間(1558~1570)に大内備前定綱は石橋氏四天王の一人である宮森城主大河内備中を滅ぼし、主家の石橋氏も追放して塩松(東安達)地方をほぼ掌中に収めました。さらに天正4年(1576)には郡山市の片平城を手に入れて、東安達地方の一大勢力となりました。しかし天正13年(1585)には伊達政宗に攻撃されて二本松に走り、のち会津の蘆名氏を頼りました。
政宗は白石若狭守を城代として塩松地方を治めさせましたが、豊臣秀吉の奥州仕置きののちは蒲生領となり、のちに廃城となりました。
【訪 城 記】
小浜城付近に来ると「小浜城」という看板と「下館城」という看板があり、やや混乱しながらも小浜小学校の裏の坂道を車で上っていくと、石垣らしきものを発見!そこが小浜城の本丸跡でした。確かに若干ではありますが、石垣が残っていますが、これは蒲生氏時代のものだそうですが、現在周辺は開発が進み、かろうじて本丸跡が公園となっているようです。(確かに遊具がおいてある所もありました(^^;)) 本丸部分は段になっているような所もありますが、遺構らしきものはあまりなく「小浜城址」という碑と石垣だけが往事を感じさせるものとなっています。なお、本丸跡にある「宮森家祖大内氏城趾」という碑は大内氏の子孫という会津若松の造酒屋宮森家が立てたものだそうです。
小浜城のすぐ近くで「宮森城跡」の看板も見えましたが、先が長いのでパスしました(^^;)



【城 跡 名】三春城(舞鶴城)
【訪 城 日】2001年8月7日
【所 在 地】福島県田村郡三春町南町
【創建年代】永正年間(1504-1521)
【創 建 者】田村義顕
【主な遺構】本丸、二の丸、三の丸、土塁、空堀
【歴史・沿革】
この三春城は三春田村氏三代義顕が永正年間に築城したのが始まりといわれています。天正14年(1586)、清顕が没すると、老臣たちは清顕の娘婿である伊達政宗を頼りますが、豊臣秀吉の奥州仕置により政宗は岩出山に移ったため、田村氏の旧臣もこれに従いました。(のち政宗の孫・宗良が田村氏を再興)
以後三春は会津領となりましたが、正保2年(1645)常陸国宍戸から秋田俊季が三春城に入り5万5000石を領し、明治に至りました。
【訪 城 記】
途中まで車で登り、二之門跡の標柱の近くに車を止め遊歩道を登っていきました。途中に揚土門跡、三之門跡、大門跡・裏門跡などの標柱がしっかり整備されています。しばらく登っていくと二の丸跡があり、その一角に御三階跡があります。その反対側には「舞鶴城址」の碑があり、その横から本丸跡に登ります。本丸跡にも大広間跡、奥跡の標柱がありますが、現在は戊辰戦争の際の戦没者の慰霊碑などが建っています。
そのあと再び二之門跡の近くまで戻り、脇へ進む道へ入るとその少し先に竪堀跡があります。そこからさらに進むと三の丸跡がありますが、ただ草原が広がっているようでしたので、小雨が降ったあとだったこともありそれほど中には入らず戻ってしまいました。
さすがに明治まで秋田氏の居城として存続しただけあって、なかなか古城らしい雰囲気は漂っているところでした。















【城 跡 名】白河小峰城(白河城、小峰城)
【訪 城 日】2001年8月7日
【所 在 地】福島県白河市郭内
【創建年代】興国年間(1340-1345)、寛永6年(1629)
【創 建 者】結城親朝、丹羽長重
【主な遺構】本丸、腰郭、復元天守、石垣、堀
【歴史・沿革】
この地に最初に築城したのは、白河結城氏の三代顕朝を後見した親朝です。彼はのちに小峰氏を起こし、親朝の次男朝常が小峰氏を継ぎました。小峰氏は白河結城の惣領家とは勢力が伯仲しており、義親の時に惣領家の義顕を追って惣領になりましたが、佐竹義重に圧迫され、その子義広を養子に迎え家督を譲りました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの時には、義親は伊達政宗に託して秀吉に名馬を贈りましたが、参陣しなかったため領地を没収されました。
その後、この地は蒲生氏郷の所領となり、関一政・町野吉高が城代を務めました。慶長3年(1598)上杉景勝が会津に入部すると五百川縫殿介が小峰城の城代となりました。関ヶ原戦後、再び蒲生秀行(氏郷の子)が会津を領すると町野氏吉、次いで平野日氏が城代となりましたが、寛永4年(1627)蒲生氏が無嗣絶家となると、小峰城は棚倉城主だった丹羽長重に10万石で与えられ、幕府の命により小峰城の大修築を始めました。四年の歳月を掛けて小峰城が完成したのちは、丹羽氏・榊原氏・本多氏・松平(越前)氏・松平(久松)氏・阿部氏と城主が替わり、慶応3年(1867)阿部正静が棚倉に移封したのちは幕府の直轄地となりました。戊辰戦争では東北軍と西軍(新政府軍)の攻防の中心となり、西軍の攻撃を受け落城し、城櫓は焼失しました。
【訪 城 記】
この日の一番楽しみにしていたお城ですが、事前に筈衛さんに「午後3時を過ぎると天守(御三階櫓)には入れないよ」と言われていたのにもかかわらず、それまでに時間がかかりすぎて、着いたのは4時頃、当然中には入れませんでした(T_T) でもなあ、いくら平日だからって3時に閉まるというのはどうなんですかねえ?
まあ仕方ないので取りあえず正面から近づきました。正面から見ても左右に石垣が広がり何ともすばらしい眺めです。正面の橋を渡ると左右に石段がありますが、その正面の石垣には石が丸く積まれた部分もあって眺めていると飽きません。
さていよいよ天守(御三階櫓)の前まで来ましたが、どこから眺めても良いですねえ(^^) いろいろな角度から写真を撮ってしまいました。その後は本丸の石垣に沿ってぐるっと回ってみましたが、その石垣のすばらしさにはため息をつくばかりです。再び二の丸の方に降り、今度は堀の外側をぐるっと回ってみましたが、やはりすばらしいです。特に表のきれいになった部分と違い、古城の雰囲気が色濃く残っているのが良いです。また北東の角の薔薇園の入口のゲートの所から眺める天守もまた良いです。
その後は筈衛さんに案内されて民家に隣接する三の丸の石垣も少し見ました。今回は天守の中には入れませんでしたので、また今度再訪せねばならなくなってしまいました。でもここは何度も来てみたくなってしまう所ですね。












【城 跡 名】白川城(搦目城)
【訪 城 日】2001年8月7日
【所 在 地】福島県白河市
【創建年代】中世
【創 建 者】結城祐広
【主な遺構】本丸、土居
【歴史・沿革】
白川城を築いたのは白河結城氏で、祐広の代にこの地に本拠を移したといわれています。南北朝初期に南朝方として活躍した結城宗広は祐広の子で北畠顕家に協力して奥州南朝党の中心でした。七代直朝の頃が白河結城氏の最盛期でしたが、八代政朝の頃から衰え始め、十二代義顕の時に一族の小峰義親に追われて会津に走り、白川城は廃城となりました。
【訪 城 記】
白河小峰城のあとは惣領家・白河結城氏の本拠白川城を訪城しました。「白川城跡」の看板で道を曲がると狭い砂利道が続いているのですが、そちらに入ったら途中で逆に向かって来る車に遭遇... しかたなく元の道までバックで戻りました(T_T)
なんとか白川城跡の石柱の所までたどり着くと石段があり、その上が本丸跡です。結構広く、「後村上天皇聖蹟の碑」や白河結城氏の御子孫や縁の人々が植えたというしだれ梅の木が植えられていました。しだれ梅の木の近くには土塁らしきものもありました。先ほどの石段の付近にも空堀らしきものを見つけましたが、まだこの頃も少し小雨が降っていましたので、いろいろと歩き回るのはあきらめて退散してきました。



【城 跡 名】鴫山城(しぎやまじょう、南山城・田島城)
【訪 城 日】2001年8月8日
【所 在 地】福島県南会津郡南会津町田島字愛宕山・字根小屋(旧南会津郡田島町)
【創建年代】14世紀後半~15世紀前半
【創 建 者】?
【主な遺構】郭、門跡、櫓跡、空堀、土塁
【歴史・沿革】
この城は長沼氏によって14世紀後半から15世紀前半にかけて築かれたものと推定されています。この城についての記録は非常に少なく、ここが戦場となったのも長禄3年(1459)に白河結城勢と横田山内勢が共謀して占拠し、これを蘆名氏に奪回を依頼して取り戻した事件だけといいます。
その後鴫山城主は天正18年(1590)に長沼氏から蒲生氏へと移り、その後、上杉氏・蒲生氏と替わり、寛永4年(1627)加藤氏の時に廃城となりました。
【訪 城 記】
前日に白河小峰城の御三階櫓に登城できなかったのでどうしようかなと思いましたが、結局悩んだ末に断念しまして、早めにホテルを出て田島町へ向かいました。
鴫山城は以前あるお城の本で見かけて以来行ってみたかった所ですが、今回の旅行では是非行きたいと思っていた所でした。鴫山城に着いたのが9時半過ぎ、鴫山城跡の標識に従って進むと鳥居がありその奥が城址です。鳥居の右側にスペースがあったのでそこに車を止め、まっすぐに進みました。
真っ正面にまず見えるのが大門跡の石垣です。左右とも残っていますが、修復されたようで妙に真新しい感じもします。またその手前には左右に堀跡が伸び、とても良い雰囲気です。門跡の右側の石垣の上に登れるように石段があったので登ってみると、大門跡・堀跡・その上の御平庭が見渡せました。その上の嗽清水場がある水手曲輪から右の方に行くと侍屋敷や政庁があったと思われる上千畳・下千畳が広がります。下千畳には横矢掛かりと思われる折れも見えます。その先には堀切があり、その上の方には土門跡と櫓跡があるそうですが、草に埋もれていて見えませんでした。
再び水手曲輪に戻り、今度は左の方に行くと丁度土塁の上を遊歩道が走り、その外側に空堀と土塁が伸びる東外壁塁がありました。これがなかなか良かったんですが、、草が伸びていて写真にはうまく写りそうになかったので、写しませんでした(^^;) 西側にも同じような外壁塁があるそうでそれに挟まれた部分に城郭を構築したようです。
水手曲輪より上には御茶屋場・北主水曲輪・主水曲輪などがあるそうで、途中まで登りかけたんですが、前日に比べてこの日はとても天気が良くて汗が流れてきましたので、登るのを断念してしまいました(^^;)
なかなか良いお城でした(^^)

(奥に見えるのが大門跡石垣)








【城 跡 名】岩崎城(向羽黒山城・巌館)
【訪 城 日】2001年8月8日
【所 在 地】福島県大沼郡会津美里町字船場(旧会津本郷町字船場)
【創建年代】永禄4~11年(1561~1568)
【創 建 者】蘆名盛氏
【主な遺構】本丸、二の丸、三の丸、出丸、空堀、土塁、石垣
【歴史・沿革】
この城は、永禄4年蘆名盛氏が隠居城として築城を始め、同11年に完成しましたが、天正3年(1575)に嫡子盛興が早世したため、再び本拠である黒川城(現・会津若松城)に戻ったため、廃城となりました。
【訪 城 記】
最初間違えて、羽黒神社・出世稲荷神社のある丘に登ってしまいましたが、どうも違うようだということに気づき再び車でしばらく進むと、本丸跡の看板があったので、近くの駐車場に車を止め登り始めました。蘆名盛氏の隠居城ですが、そうとは思えないほどなかなか堅固な造りです。本丸へと登り始めてすぐ左側に大きな竪堀がありましたし、途中にも竪堀・堀切がたくさんありました。本丸跡はかなり草が伸びクモの巣が張ってました(^^;)
下まで降りると、先ほど走ってきた道路が本丸・二の丸間の空堀だということに気づきました。二の丸は公園になっていて展望台がありました。ここからの眺めはなかなかです。この二の丸跡からは建物礎石と思われる石も出土しており、ここに城主の居所があり、本丸がいわば詰めの城のような役割を果たしていたようです。
本丸・二の丸周辺から戻る途中にも御茶屋場跡・伝盛氏屋敷跡・堀切などの説明板も立てられているのはなかなか親切だと思いました。さくらさんにすすめられて訪れた岩崎城でしたが、大満足でした(^^)






【城 跡 名】猪苗代城(亀ヶ城)
【訪 城 日】2001年8月8日
【所 在 地】福島県耶麻郡猪苗代町字古城町・字茶園
【創建年代】鎌倉初期?
【創 建 者】佐原大炊助経連か
【主な遺構】本丸、二の郭、帯郭、二の丸、三の丸、石垣、空堀、土塁
【歴史・沿革】
この城は鎌倉初期に三浦氏の一族である佐原遠江守盛連の長男大炊助経連が築いたと推定されます。経連の子孫は猪苗代氏を称し、同族でもある黒川の蘆名氏に対しては独立性を保っていましたが、盛国の頃には緩やかな臣従関係を結んでいました。しかし天正16年(1588)嫡子盛胤に家督を譲って隠居していた盛国は、盛胤と対立して亀ヶ城を乗っ取り、伊達政宗に内応しました。政宗は翌17年摺上原の戦いで蘆名義広を破り会津を手中にしましたが、豊臣秀吉の奥州仕置で会津を没収され、政宗と共に盛国は会津を去り、子孫は仙台藩士となりました。
以後、明治維新まで猪苗代地方は会津藩領に組み入れられ、各時代を通じて城代が置かれました。戊辰戦争の際には、会津・旧幕府軍と新政府軍の戦場となろうとしましたが、城代高橋権太夫は新政府軍の攻勢を防ぐのは不可能と判断し、亀ヶ城を焼き払って若松に退却しました。
【訪 城 記】
正面の駐車場に車を止めると、まずは正面の枡形虎口の立派な石垣がお出迎えです。ちょうど右側の方で工事をしていて石垣のすぐ近くで工事をしていたり工事車両が止まっていたりして写真を撮るのには苦労しましたが、すばらしかったです。一段上に登ると、さらに上に登る石段がありましたが、右の方の帯郭の方に進みます。そちら側は、遊具があって子どもたちが遊ぶ公園になっていますが土塁がまだしっかり残っています。そこからさらに先に進むと、丁度遊歩道の外側に土塁が盛り上がり、堀底道を歩いているようです。その外側をのぞいて見ると雄大な空堀が長く伸びています。早速そちらに降りてみると、幅10mくらいはありそうな大きな空堀が長く伸びており、その外側の土塁も高さ3~4mはありそうです。そこから下の方に降りていくと庭園のようになっていましたが、その向こう側にも空堀がありました。
そしてぐるっと回って先ほどの正面まで戻りいよいよ本丸へと登っていきます。本丸には展望台があり、そこから眺めると本丸が一望できます。土塁に登る雁木も所々残っていますし、北の方には櫓跡がコンクリートで平面復元されていました。
とにかく正面の枡形虎口の石垣や各所の門跡の石垣ももちろんすばらしいですが、各郭を囲む空堀の深いこと土塁の高いこと、その規模にはびっくりです。ホント感激しました(^^)










