【城 跡 名】浪岡城
【訪 城 日】2000年8月8日
【所 在 地】青森県青森市浪岡大字浪岡(旧南津軽郡浪岡町大字浪岡)
【創建年代】室町時代
【創 建 者】北畠顕義
【主な遺構】郭・堀・土塁
【歴史・沿革】
この浪岡城は南朝の忠臣・北畠顕家の末裔で四代顕義が築城したものです。16世紀には大光寺氏・大浦氏などと津軽を三分する勢力を誇りましたが、分家の川原御所と対立して衰退し、天正6年(1578)、大浦(津軽)為信により攻囲され開城、浪岡北畠氏は滅亡し、その一族は四散しました。
【訪 城 記】
浪岡町(現青森市浪岡)へ着くとまずは「浪岡町中世の館」へ。ここには浪岡城関係の遺物や館の部屋を復元したものなどが展示されていますが、それよりも浪岡氏の末裔についての展示があったので、そこをじっくりと見ました(やっぱり私ゃあ系図オタク(^^;))
それからいよいよ浪岡城へ。ただ着いたのが丁度昼過ぎの一番暑い頃で、タオル片手に歩きました(^^;) 駐車場に車を置くと、「中世の館」でもらったパンフの地図を見ながら、まず東館へ行きました。丁度城跡の部分が周囲よりも高台になっているのがわかりました。東館の真ん中あたりに浪岡城の案内板がありました。しこから西に進むと北館へ。東館と北館の間には中土塁のある二重堀がありますが、夏草が伸びていてちょっとわかりにくかったです。
丁度北館の北側の道路に面した方の堀は草刈を始めていましたので、もう少し後に行けば堀の様子も分かったのにとちょっと残念です(^^;) 北館の内部は板塀で仕切られ、建物跡がアスファルトや柱を立てたりして平面復元されていました。北館の南側に行ってみましたが、やはり草が伸びていて内館との間の堀はちょっとわかりにくかったです。
北館から西館へと進むと、ここは本当に草が伸び放題で、突入するのは断念しました(^^;) ただ郭上に土塁のように土が盛り上げてあるところがありましたが、あれは何だったのでしょう?
西館から内館に登る前に検校館はどうかと思い浪岡川沿いに西に進むと、西館と検校館の間の堀跡らしきところがありましたが、ここも草が伸びていて...(以下略(^^;))
そこから内館まで戻り北畠古城跡碑を見て、猿楽館を横目に見ながら駐車場横の案内所まで戻りました。この案内所で休んでいると職員の方がコーヒーを入れてくれて、浪岡城についてのビデオも見せてくれました。(冷たいお茶だったらもっと嬉しかったのですが(をい(^^;)))
ちょっと草が伸びていてはっきり言ってよくわからなかったというのが感想です(^^;) あ~あ、もう少し後に行けば草刈りしてあったのかもしれないのになあ...






【城 跡 名】弘前城(鷹岡城、高岡城)
【訪 城 日】1991年8月9日・2000年8月8日
【所 在 地】青森県弘前市下白銀町
【創建年代】慶長16年(1611)
【創 建 者】津軽信枚
【主な遺構】天守、三重櫓3基、櫓門3棟、塀、石垣、堀など
【歴史・沿革】
弘前城は東北地方で唯一天守建築を残す城です。慶長16年津軽信枚が弘前城を完成した時には本丸西南隅に五層の天守があげられましたが、寛永4年(1627)に落雷で焼失してしまいました。津軽氏は天守の再築を行いたかったのですが、天守再築を認めない幕府の大方針が立ちはだかり認められませんでした。
文化5年(1808)、外国の艦船が日本近海に出没するようになると幕府は築城に関する法令を緩め、同7年(1810)津軽氏は本丸北西にあった隅櫓の改装を幕府に願い出て、現在に残る「御三階櫓」(現天守)を仕上げ、以後明治維新に至るまで弘前城の象徴となりました。
【訪 城 記】
弘前城を訪城したのは91年の夏、大学時代の友人と一緒でした。かなり前のことですので、細かなことは忘れてしまいましたが、大手門をはじめとした現存建築や天守の美しさが印象に残っています。この頃は城というと天守閣程度の意識しかありませんでしたので、撮った写真を見ても天守+城門をいくつかという感じで、この他にも三重櫓があったはずですが、それは全く記憶に残っていません(^^;) そのうちに再訪しなくちゃ行けませんね。(1991/8/9)






弘前城には9年ぶり2度目の訪城となりました。前回は大学時代の友人と一緒に行きましたが、その時には通り一遍の見方しかしておらず、撮った写真を見ても追手門・天守・亀甲門しか写っていない... ということで、今回はしっかりと他の城門や櫓なども見てこようというのが目的でした。
ねぷた村の駐車場に車を置くと、堀端をのんびりと追手門方面に向かって歩いていると、まず三の丸東門を発見。そこから少し歩くと道路の向かい側に石垣らしきものがありましたが、あれは遺構とかではないんでしょうねえ?
しばらく歩くといよいよ追手門です。写真に収めようとすると、なんと門の前に乳母車が... (ちょっとちょっとお母さん、そんなところに乳母車置きっぱなしにしないでよ(T_T)) 結局、ここで10分ぐらい待ってしまいました(^^;)
三の丸に入り、まっすぐ進むと右手に辰巳櫓が見えてきました。右側には植物園もありましたが、もう4時を過ぎていたので、そのまま南内門を通って二の丸へ。そのまま進むと未申櫓がありましたが、立派なもんです。天守といっても通りそうな感じです。そこから辰巳櫓を見て、本丸と二の丸をつなぐ下乗橋へ。ここから眺める天守がまた良いです。内側から眺めると妙にずんぐりした感じに見えますが、ここから眺める天守は下につながる石垣とも相まって、とてもスマートな感じです。
天守の中をさあっと見て、そのあと本丸未申櫓跡・蓮池・本丸戌亥櫓跡を眺めながら、内北の郭へ。すると内北の郭の東端の本丸に面するあたりで発掘をしておりました。あの辺りには何があったんでしょうねえ? この辺りから見る天守も手前に伸びてくる石垣とあわせるとなかなかいい眺めです。
そして、再び二の丸に戻り丑寅櫓・東門与力番所、そして東内門と見て、北の郭(四の郭)へと向けて北門(亀甲門)を眺めて駐車場の方へと戻りました。
弘前城は天守もさることながら、やはり城門・櫓はなかなか見応えがあるなあと感じました。(2000/8/8)












【城 跡 名】堀越城(堀越楯)
【訪 城 日】2000年8月9日
【所 在 地】青森県弘前市堀越字川合・柏田
【創建年代】建武3年(延元元年、1336)
【創 建 者】曽我太郎貞光
【主な遺構】郭・堀・土塁
【歴史・沿革】
堀越城は平賀郡岩楯の相伝地頭をつとめた曽我太郎貞光が建武3年に築城したといわれています。貞光は南朝方の論功行賞に不満を抱いて足利方に転じ、南朝方の諸城攻略の拠点としてこの城を築いたものと思われます。貞光はのちに根城南部氏、または本宗三戸南部氏によって滅ぼされ、堀越城は南部一門の手に落ちました。
やがて大浦為信が津軽統一の野望を抱くと、堀越城はその拠点として重要な役割を果たし、文禄3年(1594)には改修され、慶長16年(1611)弘前城にはいるまでの18年間、為信の居城となります。そして元和元年(1615)の一国一城令により廃城となりました。
【訪 城 記】
堀越城は、現在熊野宮という神社になっています。近くの道端に駐車し神社の方に進むと参道の両側で発掘をしていました。まだ朝早く作業は始めていませんでしたが、二の丸にあたる部分を発掘していたようです。
現在、本丸は熊野宮の境内になっており、内堀にかこまれ一段高くなっています。本丸の周囲を高さ1~2mほどの土塁が囲み、内堀からの高さは4~5mほどありそうですが、全体としてはほぼ平らで、あまり要害性は認められません。
そのあと少し離れたところから見てみようと思い、城跡の横を通っている国道7号線の方に移動してみました。この国道は、丁度二の丸部分を貫通しており、遺構が破壊されています。国道側から見ると、本丸部分が内堀に囲まれているのがよくわかります。また熊野宮の鳥居と本丸の間に窪んだ部分がありましたが、ここが外堀のようです。国道の向かい側にもこの外堀跡が続いていましたので、本来の城域はかなり広かったものと思われます。現在は熊野宮の境内となっている本丸以外は水田や畑などになっているようで、かつては津軽氏の本城として栄えた堀越城を想像させるものは本丸の土塁、内堀・外堀跡ぐらいしかないようです。






(右手は発掘現場)
【城 跡 名】石川城(石川楯・岩楯十三楯・石川十三楯・大仏ヶ鼻城)
【訪 城 日】2000年8月9日
【所 在 地】青森県弘前市石川字大仏
【創建年代】元弘4年(建武元年、1334)
【創 建 者】曽我道性?
【主な遺構】郭・堀
【歴史・沿革】
石川城は十三の郭からなる城郭で、岩楯十三楯、石川十三楯などとも呼ばれたそうです。津軽の曽我宗家である平賀の曽我道性により建武元年(1334)に築城されました。しかし曽我氏はその後南部氏に制圧され、天文2年(1533)南部高信は石川の大仏に拠点を置き石川城と称し、南部氏の津軽郡代となりました。
元亀2年(1571)、大浦為信の謀略により石川城は奇襲攻撃を受け、城主高信は自刃し、落城しました。その後、板垣兵部将兼が守将となりましたが、慶長5年(1600)為信が美濃大垣に出陣中に謀反を起こして討たれ、弘前築城後は廃城となりました。
【訪 城 記】
この石川城は、堀越城より3kmほど南東に下ったところにあり、現在は大仏公園となっています。もともとはその周辺の12の楯とともに石川十三楯などと呼ばれたようですが、大仏公園となっている所以外は果樹園などになっているようです。
公園の入口に駐車し登ってみました。途中から頂上に直行するような道が右側にあったので、そちらに進みましたが、標高100m弱ほどですので、それほど時間もかからず頂上に着くことができました。
頂上から見ると少し横の方に竪堀のように窪んでいるところがあり数十mほど下まで続いていました。頂上から下っていくと、途中に削平して細長い帯曲輪のようになっているところがいくつかありました。しばらく下ると広い曲輪状になっているところがあり、そこに「大仏ヶ鼻城址之碑」という石碑がありました。
そこからもうしばらく下ると、公園の入口に着きましたので、それほど大きな城跡ではないなあと思いましたが、周囲に12の楯があることを考えるとそれらとの連繋で防御を固めていたのかなと感じました。
ちなみに他の12楯が縦に並んでいるのに対し、ここだけが横にそれているので「大仏ヶ鼻」の名で呼ばれたそうです。




【城 跡 名】大浦城(八幡城・賀田城)
【訪 城 日】2000年8月8日
【所 在 地】青森県弘前市賀田(旧中津軽郡岩木町賀田)
【創建年代】文亀2年(1502)
【創 建 者】南部光信
【主な遺構】堀・土塁
【歴史・沿革】
この大浦城は津軽氏発祥の地として知られています。延徳3年(1491)下久慈の南部光信は三戸南部宗家の命を受け、安東氏の侵攻を阻むため、津軽西浜の種里城に入城しました。光信は文亀元年(1501)大浦郷内の古城を大修築して翌2年には嗣子盛信をおきました。以後は大浦氏を名乗った盛信の子孫が代々城主となり、三代為則の養子となったのがのちの津軽藩祖・為信です。為信は大浦城を本拠に津軽統一を遂げ津軽氏を称しました。しかし大浦城では津軽一円を統治するのには西に偏るため、文禄3年(1594)主城を堀越城へ移しますが、大浦城は支城として存続させ、元和元年(1615)の「一国一城令」により廃城となりました。
【訪 城 記】
浪岡から国道7号線を下り、途中弘前市堅田のあたりで右折して、岩木町方面へ抜けました。
大浦城跡は津軽中の近くと聞いていたので地図を見ながらそれらしきあたりで右折すると大浦城大手門跡の説明板がありました。そこからさらに進むと中学校があったので、その周囲を探してみようと思ったのですが、丁度試合を終えたらしい野球部の子どもたちと先生方が戻ってきたので、やめようかと思い少し道を戻ると城址碑と縄張図も載っている説明板がありました。『城郭と城下町』では「城郭遺構として見るべきものはない。」と書いてあったので、これ以上探しても無駄と判断して弘前方面へと向かいましたが、後から他の資料を見ると、堀や土塁が若干周囲に残っていたようです(^^;) ちょっと残念...

【城 跡 名】三戸城(留ヶ崎城・三戸高城)
【訪 城 日】2000年8月9日
【所 在 地】青森県三戸郡三戸町梅内
【創建年代】永禄年間(1558-1570)
【創 建 者】南部晴政
【主な遺構】石垣・城門跡・空堀・土塁
【歴史・沿革】
南部宗家である三戸南部氏は聖寿寺館(本三戸城)を居城としていましたが、天文8年(1539)二十四代晴政の時に家臣赤沼備中の放火により消失したため、永禄年間に築かれここを居城としました。その後二十六代信直が三戸城を完成させ、二十八代重直が盛岡城に移るまで使用されましたが、その後貞享年間まで城代が置かれ、城代廃止後代官所が置かれ、明治維新を迎えました。
【訪 城 記】
九戸城をあとにし、再び青森県内へと入り三戸町に向かいました。国道4号線を途中でまがり三戸市街へと向かうと「城山公園」という標識がありましたのでそれに従い進みました。公園内に入り坂道を登っていくと「三戸城址」の碑がありましたが、さらに登っていきました。すると道路脇の左側に石垣が少し残っていました。そこからさらに登ると上に駐車場があったので、そこに車を停め探索することにしました。
まずは駐車場のすぐ横、糠部神社の裏あたりが大御門跡で土塁が若干残っていました。そこから神社の社殿を右に見ながら進むと模擬天守?がありましたが、もうすでに5時近かったので閉まっていました。そして鳥居をくぐって下の方に降りていくと途中に「○○城主××××邸跡」という標柱が至るところにあり、この三戸城に重臣達を集住させていたのがうかがえました。
そして鳩御門跡、武者溜跡を過ぎると綱御門跡です。現在は復元(模擬?)された綱御門が立っていますが、端の方に残っている石垣は門につながる石垣とは違って若干古そうでしたので、遺構なのでしょうね。
そこから再び登っていき鳥居の所から左に行くと土塁が残っていました。そして駐車場の所に戻るとそのすぐ横に太鼓櫓跡もありました。
今度は裏側の方に行こうと思いましたが、もうだいぶん疲れてきましたので、車で淡路丸、鍛冶屋御門跡の辺りまで行ってみました。後からある資料を見たらこの鍛冶屋御門跡に石垣が残っていたようなのですが、それを見なかったのが大失敗でした。






【城 跡 名】八戸城
【訪 城 日】2000年8月10日
【所 在 地】青森県八戸市内丸
【創建年代】寛文4年(1664)
【創 建 者】南部直房
【主な遺構】土塁
【歴史・沿革】
盛岡藩主南部重直が後継者を定めずに没したため、弟重信が盛岡8万石、直房が八戸2万石を与えられ八戸藩が誕生しました。そして八戸城を整備していきましたが、館あるいは陣屋に近いもので、天守も隅櫓もありませんでした。そして明治4年の廃藩置県で廃城となりました。
【訪 城 記】
この日は八戸城址の前で杉坂小弥太さんと待ち合わせをし、午前中は3つのお城の案内をしていただきました、
まず八戸城ですが、ここは現在三八城(みやぎ)公園となっており、遺構らしいものはあまりありません。本丸跡の標柱があったのと、三八城神社の裏手に土塁が残っているくらいでしょう。この土塁は20mほど残っており、鬱蒼と木が生えておりかつての八戸城を偲ばせます。
三八城公園前には旧南部子爵邸の表門が残っていますが、これは八戸城角御殿表門だそうで、なかなか重厚なものです。屋根の上の方に南部氏の鶴丸紋と武田氏と同じ割り菱紋がついていますが、鶴丸紋は南部氏の表紋、割り菱紋は副紋だったそうです。(南部氏は武田氏と同族ですしね)
杉坂さんのお話ですと、八戸市内に外郭の跡があり桝形も残っているようです。



(旧南部子爵邸表門)
【城 跡 名】根城
【訪 城 日】2000年8月10日
【所 在 地】青森県八戸市根城地内
【創建年代】建武元年(1334)
【創 建 者】南部師行
【主な遺構】郭・空堀・土塁
【歴史・沿革】
根城は八戸南部氏の居館で、北畠顕家の国司代として糠部に入部した南部師行(4代)によって築かれました。それ以降、寛永4年(1627)に22代直栄が遠野へ移封となるまで存続しました。
【訪 城 記】
いよいよこの旅のメインの一つである根城です。杉坂さんの車に乗せてもらい、根城まで移動です。ここは現在「史跡根城の広場」となっており、駐車場のすぐ横にある入口に門がありますが、これはかつての根城の大手門で、八戸城の東御門として移されていたのが、のちに根城に戻され、根城の整備の際に現在地に移築されたそうです。
またそのすぐ手前には深さ4~5mはありそうな空堀があります。そのすぐ横は東善寺館です。そこからしばらく遊歩道を歩くと通路跡があります。その先は中館で右の方に茅葺きの東屋も建っています。また中央には根城全体の配置図や本丸の復元模型(というより現在の本丸の模型?)もあります。
その先には空堀を隔てて、本丸がありますが、中館から見ると見上げるようです。入場料を払い本丸にはいると納屋、主殿、馬屋、工房などの建物が復元されていますが、一番見応えがあるのは主殿です。茶の間・控えの間などいろいろと部屋がありますが、奥の広間では正月十一日に行われたという儀式の様子を人形で再現しています。
本丸を見た後、杉坂さんおすすめの本丸裏の土塁・空堀を見に行きましたが、正直な話、復元された本丸よりはこちらの方が私は印象に残りました。本丸の裏手にある土塁は、高さ4~5mくらいはありそうで、さすがに本丸よりは低い位置にありましたが、かなり大きいです。またそれにつながる空堀も大きく本丸と国道との間の堀はそこの方に水が溜まっており、水堀だったのかもしれませんと杉坂さんに教えていただきました。
最後に駐車場から道路を挟んで向こう側に三番堀の跡が見えますが、そちら側はすっかり住宅街になっているので土塁部分ははっきりわかりますが、堀の部分は浅くなっています、また中館にあった模型ではこの三番堀は二重になっていましたが、見る限りでは堀らしきものは一本しかなかったので、もう一本の方は消滅してしまったのかもしれません。
とにかくさすがは根城南部氏の本拠、豪快な堀と土塁には脱帽でした。

(旧八戸城東門)








【城 跡 名】法師岡館
【訪 城 日】2000年8月10日
【所 在 地】青森県三戸郡南部町字法師岡(旧三戸郡福地村字法師岡)
【創建年代】不明
【創 建 者】不明
【主な遺構】本郭・三重堀
【歴史・沿革】
館の由来は明かではありませんが、南部氏の根城八館の一つで、天正年間(1573-1592)には櫛引氏の一族小笠原兵部(一説に櫛引清長の弟清政)が居館したそうです。兵部は天正19年(1591)九戸政実の乱に加担し九戸に入城したため、館は根城の八戸弥六郎と中野館の中野氏の攻撃を受け陥落したそうです。
【訪 城 記】
根城をあとにし、八戸市の隣・福地村(現南部町)にある法師岡館へと向かいました。ここは杉坂さんに「三重堀がありますよ」と聞いていたのですが、ちょっとわかりにくい場所にあり、自分ではきっとたどり着けなかったと思います(^^;)
最後は車一台が通るのがやっとという細い砂利道を通ると、法師岡館の説明板の前に出ました。周りは鬱蒼と木が生い茂っていましたが、そこからもう少し道を進むと小さな社があり、その手前に三重の堀がありました。深さ2m、幅3~4mほどの堀が3本並んで館を囲んでいましたが、これはなかなか攻略できないだろうなと思いました。
あとから見たら写真が数枚手ぶれしていて、ボケてましたあ(T_T) ちょっと悔しい...
このあと八戸市内に戻り、杉坂さんとお別れました。お忙しい中、時間を割いていただき本当にありがとうございました。>杉坂さん



【城 跡 名】七戸城(柏葉城)
【訪 城 日】2000年8月10日
【所 在 地】青森県上北郡七戸町
【創建年代】鎌倉~南北朝時代
【創 建 者】工藤右近将監または南部政長
【主な遺構】本丸・郭・土塁・水堀・空堀
【歴史・沿革】
七戸城は南北朝時代に北畠顕家の家臣工藤右近将監が蝦夷館を改築して居館としたのが始まりのようです。その後八戸南部氏の四代師行の弟政長が入城し、のち政長は兄の跡を継いだので、七戸城は根城城主の兼任となりました。
明徳4年(1393)、八戸南部氏八代政光は、八戸を甥の長経に譲り、七戸に退いて七戸南部氏の初代となりました。その後、七戸城は政光の子孫によって受け継がれましたが、天正19年(1591)七戸城主家国は九戸政実に加担したため、奥州仕置軍により滅ぼされ、七戸南部家は断絶しました。
その後、一時宗家の南部信直の直轄となりましたが、浅水城主南直勝に名跡を継がせ、直時・重信(宗家利直の五男)と十数年在城しましたが、重信が南部宗家を継承したため、以後代官が七戸城内に置かれました。その後文政2年(1819)に重信の五男政信の末裔である信鄰が七戸領六千石を分与され一万一千石で諸侯に列しましたが、結局城地を構えることなく明治維新にいたりました。
【訪 城 記】
杉坂さんと別れた後は、国道4号線を北上し七戸町へと向かいました。城跡へは特に迷うことなくたどりつき、神社近くの駐車場に車を停めました。そのすぐ近くに説明板及びかつての城跡配置図がありましたが、現在公園となっているのは本丸・二の丸部分だけです。神社裏には二の丸と本丸を分けていたと思われる苔むした立派な土塁と水堀の一部分が残っていました。この辺りはかつての城跡を思わせてとても雰囲気がいいです。そのあと下に降っていくと「国指定史跡七戸城跡」という看板があり、その横に二の丸を囲む水堀の一部が残っています。その奥には空堀らしきものもありました。
そのあと再び二の丸の方へ登りましたが、ここは現在は子どもたちが遊ぶような公園になっており、町の方たちが一生懸命手入れをしていました。二の丸の端の方には土塁状になっていて、その上を歩く遊歩道のようなものまでありましたが、あの土塁はもともとのものなんでしょうかねえ?
最後に北御門跡の方に少し降ってみましたが、こちらもなかなか雰囲気のいいところでした。
このあと野辺地町にあるという蝦夷館・明前館を探そうとしましたが、肝心の『中世城郭事典』を忘れて場所がはっきりしませんし、フェリーの時間も迫ってきたというわけで、途中で断念し青森港へと急ぎました。




【城 跡 名】安倍館(嫗戸柵跡?・厨川柵跡?・厨川城)
【訪 城 日】2000年8月9日
【所 在 地】岩手県盛岡市安倍館町
【創建年代】平安時代、文治5年(1189)
【創 建 者】安倍氏、工藤行光
【主な遺構】郭・堀
【歴史・沿革】
この安倍館は奥州の覇者安倍氏滅亡の地・厨川柵跡とかつてはみられていましたが、現在では嫗戸柵跡に擬せられているそうです。(『岩手県の歴史散歩』による)
奥州藤原氏の滅亡後の文治5年(1189)、源頼朝の御家人工藤小次郎行光がこの地の地頭に任ぜられて以来、その居城厨川城として存続しました。工藤氏は戦国末期に南部氏に服属するまでは巖鷲山大権現の宮司をも兼ね、この地を支配しました。その後南部信直の支配下にありましたが、天正20年(1592)豊臣秀吉の命により廃城となりました。
【訪 城 記】
石川城をあとにし、東北自動車道を通って盛岡まで南下。高速から降りた後は市内安倍館町にある安倍館へと向かいました。
実はここは最初の予定にはなかったのですが、杉坂小弥太さんのアドバイスで寄ってみることにしました。国道46号線を東へと走り、飯坂橋のたもとで左折、しばらく走るとそろそろ安倍館町です。どの辺りかなあと思っていると、どうも空堀らしきものが見えたので、その先の安倍館公民館の看板のところで取りあえず右折してみると、一番奥に神社があり、少し駐車できるスペースがあったのでそこに車を停めて周囲を探索してみることにしました。
それで先ほどの空堀らしきものが見えた南側に降りてみると、幅も深さも6~7m(あるいはもっと?)ある豪快な空堀がありました。そこから先ほど車で入ってきた道を歩いて戻り、車道の方から空堀を眺めてみると、そのすぐ近くに「安倍館遺跡」という標柱がありました。
そこから北の方に歩いていくと、その他にも空堀が2~3本あり、安倍館遺跡の説明板もありました。それによると、この安倍館は中心部の本丸を含む7つの郭に別れていたそうです。現在は郭はすっかり住宅街になっていますが、郭と郭を仕切る空堀はしっかりと残っており、なかなか見応えがあります。
ちなみに『岩手県の歴史散歩』によると、かつてはここが厨川柵跡と見られていましたが、現在では嫗戸柵跡に擬せられているそうで、ここから南に1kmほどいった天昌寺の付近が厨川柵跡と考えられているそうです。(ただし安倍館遺跡の説明板では「厨川柵跡と伝えられている。」って書いてあるんですが(^^;))



【城 跡 名】盛岡城(不来方城)
【訪 城 日】2000年8月9日
【所 在 地】岩手県盛岡市内丸
【創建年代】桃山時代
【創 建 者】南部信直
【主な遺構】水堀・石垣・本丸・二の丸・三の丸
【歴史・沿革】
青森県南部の三戸に本拠を置いた南部氏は、南北朝・室町時代を通じて南方に勢力を拡大していきました。九戸政実の乱後には九戸城(福岡城)を本拠としましたが、それでも北に偏りすぎるため、さらに南の不来方の地に文禄2年(1593)より新城を築き始めましたが、信直は慶長4年(1599)に福岡城で死去し、子の利直が工事を引き継ぎました。完成したのは、寛永10年(1633)利直の子重直の時でした。
この城は「盛り上がり栄える岡」との願いをこめて盛岡城と改称され、明治維新まで南部氏の居城として続きました。当初築かれた三層の天守は火災で炎上し、延宝元年(1673)に再建されましたが、明治6年には天守を含めた建物は破却され、現在は岩手公園となり石垣と水堀が残っています。
【訪 城 記】
正直な話、むかしは盛岡城といってもそれほど興味がなかったのですが、ある時見たその石垣の美しさに感動し、それ以来行きたいなあと思っていたお城でした。
まずはお城近くにある市営地下駐車場に車を停め、歩いて岩手公園方面へと進みました。しばらく進むと、左手に庭園らしきものがありましたが、どうやら堀跡だったようです。後から杉坂小弥太さんにここに、切り出す直前の石垣の石があったと聞き、降りてみれば良かったかなと後悔しました。
その堀跡を左に見ながら進むと石垣が見えてきました。たぶん前方に見えたのは淡路丸付近の石垣でしょうが、そちらは後回しにして右側の三の丸方面へ進みました。車御門跡を通って二の丸、そして廊下橋へと進みましたが、ここで本丸側の石垣の美しさにおおっと思ってしまいました。
そして本丸へと進むと、南西隅の方にはガードレールが立っていました。後からわかりましたが、そちら側の石垣の補修をしていたのでした。それで南東隅の三重櫓(天守)が立っていたという角の方に行ってみましたが、東屋のようなものが立っているだけでした。
今度は御末御門跡から淡路丸方面におり、さらにその外側の石垣をぐるっと見て回りました。本丸の石垣もいいですけど、この淡路丸下、そして御馬場下の石垣も迫力があってきれいですね。ここでは何枚も写真を撮ってしまいました。
今度は吹上御門跡から御馬場に上がり、そちら側から三重櫓跡の石垣を見て、淡路丸を通って、廊下橋をくぐりました。ここの石垣もきれいです。
そして再び車御門跡・瓦御門跡を通って「盛岡城址碑」の所に出ました。最後にそこから今度は西側の石垣を見ましたが、ちょっと草が伸びているものの、その高さと重厚さに感激しました。そこから駐車場の方に戻ろうかと思いましたが、ちょっと脇道に入ったら時鐘がありました。
やはり思っていたとおり盛岡城の石垣は良かったですねえ。いいもん見せてもらいましたという感じです。これだけきれいに石垣が残っているところもそうそうないんではないでしょうか?



(左側が本丸、右側が二の丸)





【城 跡 名】九戸城(白鳥城・宮野城・福岡城)
【訪 城 日】2000年8月9日
【所 在 地】岩手県二戸市福岡町五日町
【創建年代】戦国時代
【創 建 者】九戸政実
【主な遺構】本丸・二の丸・館・堀・石垣
【歴史・沿革】
九戸城は九戸政実の四代前の九戸光政が明応(1492-1501)の頃に築城したと推定されています。九戸政実は三戸南部宗家の後継をめぐって南部信直を対立し、信直が宗家の当主となってもその対立は収まりませんでした。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置後、各地で領地を没収された各氏の遺臣が一揆を起こし不穏な情勢になると、政実もそれに乗じて信直に叛逆しました。信直は、これに対し苦戦を強いられましたが、秀吉の送った奥州再仕置のための軍が到着すると各個撃破され、九戸城は蒲生氏郷率いる大軍により囲まれ、九戸城は落城しました。
その後、信直は三戸城から九戸城に移り、修築を施して福岡城と称して本拠としましたが、その子利直の時に盛岡城に移り、寛永13年(1636)に廃城となりました。
【訪 城 記】
盛岡を後にすると再び東北自動車道・八戸自動車道を北上し一戸ICから二戸市へと向かいました。
九戸城は二戸市街から少し東側に入った高台にありますが、各郭ごと、あるいは要所要所に説明板がありとても親切です。二戸市街地を北側へ進むと途中に「九戸城跡」の看板があったので、そこで右折し、しばらくすると右側に堀跡の標柱がありました。これは後から見ることにして、もうしばらく先に進むと左側に「九戸城跡」の石柱があったのでその先で左折し駐車場に車を停め、まず二の丸搦手門跡の方に行くと、九戸合戦で亡くなった人たちの慰霊碑がありました。搦手門跡から降りると、その先は石沢館(外館)跡で二の丸との間にかなり大きな空堀がありました。
ふたたび二の丸に戻り、そのあと本丸・二の丸周辺を探索しましたが、草がかなり隠れているものの各所に石垣が認められましたし、本丸・二の丸間の堀もかなり大きく、かつての偉容を想像できました。
周辺の石沢館・若狭館などは不整形な郭で、いかにも中世の城跡という感じで浪岡城や後から行くことになる八戸根城などを連想させましたが、本丸・二の丸間の堀はきれいにまっすぐに掘られ、本丸はほぼ方形になっており近世城郭の雰囲気が漂っていました。あとから杉坂小弥太さんに、本丸・二の丸はかつては一緒の郭だったのではないかという話を聞きましたが、そう考えると本丸・二の丸を合わせた郭も他の郭と同様不整形なものとなりますし、全体としての雰囲気も浪岡城・根城と似たものになりますので、なるほどなと感じました。たぶん本丸部分は蒲生氏郷による修築時に改造されたものなのでしょう。
本丸・二の丸部分はきれいに整備されていましたが、周囲の石沢館・若狭館は草が伸びており、ちょっと突入したことを後悔しました(^^;)
最後に先ほどの「堀跡」の標柱を見ると、この堀跡は二の丸と松の丸を隔てる堀で幅が60mもあるそうです。ですから、広い堀跡の真ん中を道路が走っているということになります。これまた、九戸城の規模の大きさを感じさせました。








【城 跡 名】安倍館(衣川館)
【訪 城 日】1994年5月2日
【所 在 地】岩手県奥州市衣川区上衣川字石神(旧胆沢郡衣川村上衣川字石神)
【創建年代】?
【創 建 者】安倍忠頼?
【主な遺構】?
【歴史・沿革】
安倍頼時は平安中期衣川柵を中心に岩手六郡を支配下に置いて勢威を振るっていましたが、この安倍館は衣川柵に移る前、頼時の祖父忠頼、父忠良、そして頼時(元頼良)の三代に渡り本拠としたらしいです。頼時の時に川西・川東の方に本拠を移したとのことです。
【訪 城 記】
実はこの安倍館は全く行く予定ではありませんでした。高校時代の友人と岩手県方面に旅行に行き、猊鼻渓と厳美渓に行き、そのあと前沢に抜けて北上しようとした時にちょっと道を間違えて、気が付くと衣川村に着いていたのでした(^^;)
そこで、交差点にある案内地図をながめていると50代の男の方が話しかけてきて親切にいろいろと教えてくださったのですが、実は衣川村の村長さん(佐々木さん)だったのです(^^;)
それで、その後、あの源義家と安倍貞任が戦いの中で歌を交わしたという逸話のある「一首坂」とか、安倍氏が尊崇したという磐神社に行ったのですが、その時にこの安倍館にも行きました。何だか山道をしばらく歩いて登っていったのですが、何だかただの民家の裏山のような所だったという記憶しかありません。当時はまだ山城などには全く興味を持っていませんでしたので仕方がないのですが、今行ったら少しは違う感想を持ったかもしれません。
ということでこの安倍館については創建年代や沿革などの詳しい情報を持っていません。先日、東京に行った際に『日本城郭大系』の2巻「青森・秋田・岩手編」を買ってきたのですが、これには衣川村にある「安倍新城」という城は載っていますが、「安倍館」というのは載っておらず、困惑しております(^^;) もし、この安倍館について情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、教えていただけると嬉しいです。

【城 跡 名】花巻城(鳥谷ヶ崎城)
【訪 城 日】2002年8月13日
【所 在 地】岩手県花巻市城内
【創建年代】天正19年(1591)
【創 建 者】北秀愛
【主な遺構】堀、円城寺門、鐘楼など
【歴史・沿革】
花巻城はかつては鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、前九年の役の安倍頼時の城柵のあった地と伝えられています。戦国時代には稗貫氏の本城でしたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際して、稗貫氏は参陣しなかったため領地を没収され、秀吉の代官浅野長政の家臣浅野重吉が目代として入城しました。稗貫氏の当主広忠は実弟和賀義忠と共に同族を集め一揆を起こし、鳥谷ヶ崎城を一旦は奪還しますが、奥州再仕置きの軍勢により陥とされました。
天正19年(1591)、鳥谷ヶ崎城は花巻城と改められ、北秀愛が城代となりましたが、慶長3年(1598)秀愛が死去し、かわって父の北松斎信愛が城代となりました。同5年(1600)南部氏が山形へ出陣している隙を狙い、和賀義忠の遺児忠親が一揆を起こしたものの、北松斎はそれを撃退し慶長18年(1513)に死去するまで花巻城および城下町の整備に努めました。その後、南部利直は次男政直に2万石を与え花巻城主とし、政直は花巻城を近世城郭として完成させました。以後は城代が置かれ、花巻城は和賀・稗貫二郡を統括する政治の中心地となりましたが、明治2年(1869)廃城となって取り壊されました。
現在、その遺構として残るのは円城寺門と時鐘堂だけですが、近年西御門が復元され、その周辺は歴史公園として整備されています。
【訪 城 記】
この日はうって変わっての晴天、しかも暑い... 今まで、北海道の涼しい夏になれていただけに、今年初めて感じたといっていいような夏らしい暑さでした。
まずは花巻城の遺構として残る時鐘堂へ。市役所の方に向かうと時鐘堂が見えたのでそのすぐ横にある市役所の駐車場に車を止めました。するとそこにいた係員の方が「観光ですか?」と聞くので、「そうです」と答えると、「それなら市役所の窓口で観光マップやパンフレットをくれますよ。」と親切に教えて下さったので、後から行くことにし、まずは時鐘堂の前へ行きました。
この時鐘はもともとは盛岡城のものだったのを花巻城に移したそうです。本来は二ノ丸にあったものを追手門の位置に移したそうで、この時鐘のすぐ近くに「花巻城大手門跡」という碑もありました。
そのあと、市役所で観光マップをもらい、それに従って今度は円城寺門のある鳥谷ヶ崎神社に向かいます。円城寺門は木造二階建ての櫓門でなかなか重厚なものです。その後は、復元されたという西御門の方へ向かいました。しばらく歩くと花巻小学校の横に西御門がありその奥に本丸跡がありました。西御門は両側に石垣と白土塀がなければ円城寺門に似た二階櫓門でなかなか良い雰囲気でした。またその横には堀跡も残っていました。


(現市役所)

(現鳥谷ヶ崎神社)


(本丸側から)
【城 跡 名】久保田城(矢留城、葛根城)
【訪 城 日】2002年8月12日
【所 在 地】秋田県秋田市千秋公園
【創建年代】慶長8~9年(1603~04)
【創 建 者】佐竹義宣
【主な遺構】本丸、二の丸、三の丸、水堀、番所、模擬天守など
【歴史・沿革】
常陸54万石の領主・佐竹義宣が関ヶ原合戦の際に中立を保ったことから出羽に国替えを命じられたのは慶長7年(1602)のことでした。佐竹主従は、取りあえず秋田実季の居城だった土崎の湊城に入りましたが、翌8年(1603)年、湊城の東南に盛り上がる久保田村の神明山に築城を開始しました。久保田城は翌9年(1604)には早くも完成しましたが、天守はもちろんのこと石垣もなく、非常に簡素なものだったようです。久保田の町造りはその翌10年(1605)から始められ、現在の秋田市街の原型が作られました。
城は明治2年(1869)版籍奉還により、陸軍省の所管となりました。城の建物は同13年(1880)まではありましたが、この年火災にあって失われ、城跡は同23年(1890)に佐竹氏に払い下げになり、本丸・二の丸を秋田市が借り受け市民に開放されました。そして同29年(1896)管理が秋田県に移管され、千秋公園として整備されました。
昭和28年(1953)、再び秋田市に管理が移管され、同59年(1984)佐竹宗家義栄氏の遺志により、公園用地として秋田市に寄贈され名実共に市民公園となりました。
現在は現存する建物としては、御物頭御番所(18世紀後半に建てられたもの)しか残っていませんが、平成元年に建設された御隅櫓(模擬櫓兼資料館)と平成13年に建設された表門がかつての面影を伺わせます。
【訪 城 記】
今回の旅行は妻との新婚旅行でしたが、本当は海外とも考えていたのですが、手配が間に合わなかったため、再び東北へと行くことにしました。
初日は、仙台空港に昼過ぎに到着、東北道を通り4時過ぎくらいには秋田に到着して、久保田城を少し見るつもりでしたが、天候が悪くずっと雨降りで、秋田に着いたのも6時くらいになっていたのでそのままホテル(お城のすぐ前にあるキャッスルホテル)にチェックイン。
夕食はホテルの10階にあるレストランに行きましたが、窓の外は暗くてお濠らしきものは見えるんですがよくわからず仕舞いでした。
二日目も雨降りでしたが、まずは久保田城跡の千秋公園からスタート。大手のところが工事中ですが、お濠のあたりはなかなか雰囲気が良いですね。
そのまま歩いていき長坂をあがると、復元された表門がありましたが、重厚でなかなか良い雰囲気でした。絵図などの文献資料と発掘調査の成果をもとに再建したもので、木造二階建瓦葺きの櫓門で久保田藩20万5800石の正門にふさわしい威容がありました。説明板に「平成13年3月」との年号がありましたから、まだ新しいもののようですが、もうしばらくすると落ち着いた雰囲気も出てくるでしょうね。
その横には唯一の現存建築物である御物頭御番所がありました。これは唯一現存する藩政時代の役所建物で、宝暦8年(1758)から安永7年(1778)の間に建築されたものと推定されています。久保田城内の二ノ門(長坂門)の開閉と城下の警備、火災消火を担当していた物頭の詰め所で、秋田市指定文化財になっています。
表門をくぐるとその先には最後の藩主佐竹義尭公の銅像がありましたが、藩祖・佐竹義宣公の銅像の方がふさわしいんじゃないかと思わず思ってしまいました(^^;)
その先をしばらく進むと資料館になっている御隅櫓(模擬櫓)がありました。久保田城内には8つの御隅櫓があったそうですが、これは本丸の北西隅に位置していたもので、市制百年を記念して建てられたものだそうです。雨が降っていたんできちんと写真を撮れなかったのがちょっと残念でした。
その後佐竹史料館に入って展示を見ましたが、そろそろ外に出ようと思ったらなんと外は土砂降り...(T_T) しばらく待ちましたが、降り方があまり変わらないので仕方なく外に出てホテルまで戻りました。ほんとは佐竹氏の菩提寺・天徳寺ほかにも行く予定でしたが、雨がひどいのでそのまま角館に向かいました。





【城 跡 名】角館城(古城山城)
【訪 城 日】2002年8月12日
【所 在 地】秋田県仙北市角館町古城山(旧仙北郡角館町岩瀬字古城山)
【創建年代】14世紀
【創 建 者】菅氏か
【主な遺構】高城、中城、空堀
【歴史・沿革】
ここ角館は佐竹氏以前は戸沢氏の支配地でしたが、その創建は14世紀に菅氏が築城したといわれています。応永30年(1423)菅(角館)利邦が城主の時、戸沢家盛に攻め落とされ、以後戸沢氏が角館城主となりました。戸沢盛安は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に参加しましたが、陣中で病死し、弟光盛が戸沢家を継ぎ本領安堵されました。文禄元年(1592)光盛が病没し、盛安の子政盛が跡を継ぎました。政盛は関ヶ原の合戦には参加しませんでしたが、慶長6年(1601)徳川家康から上杉景勝の酒田城攻撃を命じられて軍功をたて、翌7年には常陸小河城4万石に転封となり、のちに出羽新庄6万石を領し明治に至りました。
戸沢氏転封後は佐竹義宣の家臣須田盛秀が戸沢氏の留守役から角館城を受け取り、翌8年4月芦名盛重が城主となりました。盛重は1万54石の知行地を与えられましたが、元和6年(1620)幕命により角館城は破却されました。
【訪 城 記】
角館に着くと雨は少し小降りにはなってましたが、まだぽつぽつと降ってました。武家屋敷群に行く前に角館城に行って見ることにし、地図に従い古城山を登りました。少し登ると駐車場があり、その近くに「史跡・古城山城跡(角館城趾)」の碑を発見したので、車を停め少し登ってみることにしました。
しかし、その遊歩道は砂利道で、雨のために歩きにくくなっているし、周りを見回しても「こりゃあ土塁とか堀くらいしか遺構はなさそうだな」と判断、自分一人だったら上まで登りますが、嫁さんも一緒だったので引き返そうとすると、嫁さんが「いいよ、行ってみよう」というもので、結局本丸まで登ってしまいました。
ですが...やはり予想通り、本丸近くに土塁らしきものがあったくらいであまり遺構らしきものは見つかりませんでした。まあ、もう少し探せば何かあったのかもしれませんが、雨が降っていて靴が濡れると思ったんで本丸跡の芝生の中にも入らなかったものですから、そのまま駐車場までまた下りていきました。まあなかなか古城らしい雰囲気はあるものの、遺構はあまり期待できそうもないですね、角館城は。



【城 跡 名】横手城(朝倉城・龍ヶ崎城・韮城・衡城<阿桜城>)
【訪 城 日】2002年8月12日
【所 在 地】秋田県横手市城山町29-1
【創建年代】康正~長禄年間(1455~1460)か
【創 建 者】小野寺輝道
【主な遺構】郭・腰郭・堀・土塁・登上道
【歴史・沿革】
横手城の創建には諸説がありますが、小野寺輝道の頃に築城されたと言われています。輝道からその子義道の頃に小野寺氏は勢力を拡大し、天正18年には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しましたが、検地中に平鹿南部・雄勝を中心に検地反対の一揆が起こりました。検地後小野寺氏は山北三郡の支配20万石から平鹿、雄勝の一部3万石に転落し、残りは戸沢氏・本堂氏に分与され、翌年には残り雄勝郡の大部分も最上領となりました。
関ヶ原の合戦で西軍についた小野寺義道は、石見津和野の坂崎出羽守預けとなり、横手城には最上氏の家臣鮭延典膳が入りましたが、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田入部に伴い、久保田城の支城となり伊達三河守盛重が城代となりました。
その後須田氏をへて、寛文12年(1672)からは戸村氏が城代となり明治まで続きました。慶応4年(1868)の戊辰の役で横手城は仙台・庄内藩の攻撃を受け、砲火により城は炎上し、ついに落城しました。
昭和40年(1965)には二の丸跡に郷土資料館を兼ねた模擬天守が建設されました。
【訪 城 記】
角館をあとにし、横手に着くと晴れてまして、やっと良い天気になりました。まずは模擬天守を外からながめてから中の展示を見ましたが、模擬天守とはいえなかなかきれいですね。ただこの模擬天守があるのは旧二ノ丸で、その隣にある神社の建つところが本丸跡です。
模擬天守を見終わったあと、本丸跡にも行ってみましたが、その面影はなく神社の近くに立つ「朝倉城跡」「朝倉城本丸趾」の石碑がかつての名残となっていました。もっと探せば堀とか土塁があったのかもしれませんけどね。
このあと秋田道を通って花巻に向かいましたが、その途中でまたもや土砂降りの雨... 最初の二日間はすっかり雨に祟られてしまいました。







