日高管内(61)~新ひだか(1)
シベチャリチャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】シベチャリチャシ(不動坂チャシ)
【訪 城 日】1999年5月22日・2001年9月30日
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内真歌441-1(旧静内郡静内町)
【創建年代】17世紀中葉
【創 建 者】カモクタイン
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:直状3条(現状1条)
【歴史・沿革】
 静内町は北海道の東の文化と西の文化の接点ともいえる地域で、静内川上流から西方のシュムンクルと同川下流から東方のメナシウンクル両集団の接点でもありました。シュムンクルに属するハエの首長オニビシとメナシウンクルの首長カモクタイン、そしてその死後跡を継いだシャクシャインとは漁労権を巡り抗争を続けていました。両者の争いは松前藩を仲介に一度は停戦となりましたが、その後再発し、オニビシが殺されました。その姉婿ウタフが松前藩に援助を要請に赴いた帰りに病死すると、シャクシャインはそれを松前藩による毒殺とアイヌに伝えたことから、アイヌと和人との抗争へと発展しました。いわゆるシャクシャインの戦いです。
 シャクシャイン勢は一時は国縫(長万部町)まで攻めましたが、のちには劣勢となり、和睦の申し出の口実の元にシャクシャイン等14名は謀殺され、シベチャリのチャシも焼き払われ戦いは終了しました。
【訪 城 記】
 静内町には通称二十間道路という桜の名所がありますが、さすがに桜はもう一部残っているぐらいでほとんど葉桜になってました(^^;) 国道235号線を進み、静内川を渡り左の丘の上に登るとそこに静内町アイヌ民俗資料館やシャクシャイン記念館がある真歌公園があり、この公園のある台地の先端部分がシャクシャインの主城といわれるシベチャリチャシ跡です。
 シベチャリチャシ跡にはもともとは3つの壕があったようですが、今は1つしか残っておらず、展望台なども置かれすっかり公園化しています。1本の壕は深さは1~2m、幅は8mほどで、今は橋が架けられています。『日本城郭大系』によると外側の崖際にもう2本壕があったようです。
 展望台からは静内川、静内の町、そして太平洋を望むことができ、城砦としてはまさにふさわしい立地です。展望台の近くには「シャクシャイン城趾」の石碑もあります。対岸の川原からはこのチャシの全体を見ることができます。『日本城郭大系』の写真では岩肌が露出していますが、いまは崩落を防ぐためでしょう、しっかり工事でおおわれてしまっています。
 チャシの手前の広場にはシャクシャイン顕彰会によって建立されたシャクシャイン像があり、毎年シャクシャイン法要のためイチャルパ(先祖祭)が像の前で行われるそうです。
 このシベチャリのチャシは道の指定史跡でしたが、そこにあった説明板によるとこの後に回ったホイナシリチャシ跡・メナチャシ跡等とあわせて「シベチャリ川流域チャシ跡群」として平成9年12月に国指定史跡となったそうです。あとからインターネットで検索してみると、道立教育研究所のデータベースによるとこの「シベチャリ川流域チャシ跡群」というのは、今回まわった3つのチャシ及び、オチリシチャシ跡ルイオピラチャシ跡と門別町にあるアッペツチャシ跡の6つを指すようです。「オチリシチャシ跡」「ルイオピラチャシ跡」というのは『日本城郭大系』でいうところの「炭山沢入口チャシ」「ルイオナイチャシ」のことを指しているようです。(1999/5/22)


 開拓記念館主催のバス見学会「沙流川沿いのチャシをめぐる」でシベチャリチャシに行きました。 11時半頃に静内に到着し、まずは真歌公園のアイヌ民族資料館へ行き、そのあとその隣にあるシベチャリチャシへ向かいました。ここは何度も来ていますが、壕が広いわりに傾斜が緩やかなので、説明してくださった静内町教委学芸員の藪内さんに「この壕はもともとこの深さなんですか?」と質問したところ、なんでもブルドーザーで広げたという話もあるそうですが、深さはだいたいこれぐらいのものだったようです。
 そのあとは昼食をとり、平取町へ向かいました。(2001/9/30)

ホイナシリチャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】ホイナシリチャシ(入舟チャシ)
【訪 城 日】1999年5月22日
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内入舟町(旧静内郡静内町)
【創建年代】寛文年間(1661-1673)
【創 建 者】シャクシャイン?
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:直状、南東側に2条、北東側に1条
【訪 城 記】
 シベチャリのチャシのあとはすぐ近くにあるホイナシリチャシへと向かいました。シベチャリのチャシのある真歌公園を出ると右側の方に静内灯台があります。そのすぐ近くにこのチャシの説明板がありました。
 このチャシはオニビシとの抗争の頃にシャクシャインによって構築されたと伝えられ、シベチャリチャシより海側に寄っています。灯台の横からこのチャシへの遊歩道がありますが、かなり草が生えています。チャシ本体らしきところも草が茂っていて、シベチャリのチャシに比べると整備されていない感じでした。(まああちらは公園内ですから、当然草刈りとかもするでしょうけど) 壕らしい窪んだ所もありましたが、ここも草だらけで一応写真を撮りましたが、あとから見てみても何だかよく分からない写真になってしまいました(^^;)
 昭和30年代に静内高校郷土研究部によって発掘調査されているそうですが、遺物はシベチャリのチャシと同様のもので、漆器・木製品・鉄斧・煙管・鉄鍋・鹿の角や骨等が出土したそうです。これらの多くは本州方面から移入したもので、当時のアイヌ社会が本州文化に依存していたということを物語っているようです。

メナチャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】メナチャシ(御殿山チャシ・文四郎館)
【訪 城 日】1999年5月22日・1999年11月21日
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内目名(旧静内郡静内町)
【創建年代】不明
【創 建 者】不明
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:ヲの字状壕
【歴史・沿革】
 このチャシは別名御殿山チャシ跡とも文四郎館ともいわれています。文四郎は17世紀中葉、この地方に入った金堀りで、シャクシャインの戦いの初期に松前の出先としてアイヌ側と松前の仲介の役割を果たしていました。この戦いの初期、シャクシャインと対立していた味方のオニビシは、文四郎館でシャクシャインの配下に殺されたと伝えられています。
【訪 城 記】
 シベチャリチャシ・ホイナシリチャシを訪れたあと、同じく静内町内のメナチャシを探しました。ホイナシリチャシ跡から再び静内川を渡って町中心部へと戻り、北東方面へとしばらく進むと社会福祉法人「静内ペテカリの園」への案内表示があります。そこで左折すると正面に岡田牧場があり、その前に「稲田家屋敷跡」の説明板があります。静内は明治4年、徳島藩家老で淡路洲本城代であった稲田邦植主従が入植したことから拓かれていきます。その稲田家の館がこの辺の台地北側にあったことから御殿山と呼ばれました。この御殿山一帯には縄文時代早期~アイヌ文化期の遺跡(静内御殿山墳墓群)があり、また台地東側の御殿山公園内には稲田家の祖先神を祀る稲基神社や稲田家主従の移住及び開拓の顛末をレリーフとした記念碑があります。
 この記念碑の近くにメナチャシはあります。遺構としては、一重の弧状の壕があります。深さは1.5m、幅は3~4mぐらいでしょうか。かなり長く伸びており、稲田主従の記念碑もこの壕の内側にあります。記念碑がある場所の奥に少し浅い壕がもう一条あり、その内側にすり鉢状のチャシがあります。
 『日本城郭大系』では一重の弧状の壕の内側にその壕につながるコの字状の壕があると書いてありますが、それが記念碑のある場所の奥にあった壕のことなのかもしれません。
 このチャシはシベチャリチャシ・ホイナシリチャシに比べると標高は低いですが、静内川の作る平野部に面していて眺望がよい場所に立地しています。稲田主従もその辺を考えて入植地に選んだのでしょうか。(1999/5/22)


 この日は門別町のアッペツチャシ、新冠町の氷川神社チャシを訪れたあと静内へ向かいました。静内のこのメナチャシは、壕がとてもきれいに残っていて、なかなかいいチャシです。昨年(1999年)静内町内の小学生が遠足の際にここを国指定史跡と気づかず掘り返して土器等を持ち帰ってしまったという事件があったそうですが、そんな事件の傷跡も特に見えず、壕もきれいでしたのでホッとしました。このメナチャシがある周辺は御殿山公園という公園になっており、チャシ跡もきれいに整備されていますので、なかなかお奨めです。静内ではシベチャリのチャシが有名ですが、こちらもなかなかのものだと思います。
 チャシはアイヌの歴史を探る大切な文化遺産ですからこのようなことが二度と起こらないようにしてほしいものですね。(1999/11/21)

オチリシチャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】オチリシチャシ(炭山沢入口チャシ)
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内農屋244-4(旧静内郡静内町)
【訪 城 日】1999年11月13日
【形 態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状2条
【訪 城 記】
 『日本城郭大系』には「炭山沢入口チャシ」という名で載っていますが、シベチャリチャシ・メナチャシなど共に「シベチャリ川流域チャシ跡群」として国指定の史跡となってからはオチリシチャシと改称されたようです。静内市中心部から静内川沿いにしばらく奥に進み、御園を過ぎた辺りで真っ正面にある丘陵を避けるように道路が右に曲がっているところがあります。この真っ正面の丘陵上にオチリシチャシがあります。この丘陵へ登る道の入口に「御園共同墓地」という看板があり、このチャシは現在墓地になっています。
 このチャシもシャクシャインの戦いに関係があるチャシで、ハエの首長オニビシが静内川を境としてシャクシャインと対峙していたときに構築したものと伝えられています。
 『北海道のチャシ』では「弧状、2条」の壕があると出ていますが、確かに南側の方から入り込む沢のように壕らしきものがありました。最初はこれが壕なのだろうと思いましたが、もう一度『北海道のチャシ』の実測図を見てみると、それとは別に墓地のある台地を区切るように薄く影の入っている部分が2つあったので、これが壕なのかなと思ってもう一度見直してみましたが、結局それらしきものは発見できませんでした。チャシの壕は段丘の先端を区切るように横切っているのが普通ですので、沢のように入り込んでいるものは壕ではないのかもしれません。(ちょっと自信なし(^^;))

ルイオピラチャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】ルイオピラチャシ(双川ルイオナイチャシ)
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内豊畑1000-1(旧静内郡静内町)
【訪 城 日】1999年11月13日・2012年10月13日・2022年4月30日
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:弧状1条
【訪 城 記】
 次はオチリシチャシとは静内川をはさんで対岸の豊畑にあるポンペラリ・チェプオチ第一・チェプオチ第二チャシを探してみましたが、よく分からないので、オチリシチャシと同じく「国指定史跡シベチャリ川流域チャシ跡群」に指定されているルイオピラチャシを探しました。
 『日本城郭大系』ではルイオナイチャシとして出ているものですが、位置的にはオチリシチャシの対岸のやや上流、静内川の左岸にあります。ルイオピラとは「砥石が(たくさん)ある崖」の意で、その近くを流れる静内川の小支流をルイオナイ「砥石が(たくさん)ある川」と呼んでいたようです。このチャシも「シベチャリ川流域チャシ跡群」に指定されているからには、シャクシャインの戦いと何か関係があると思うのですが、その辺の詳しいことはよくわかりませんでした。
 北側にある静内川にむかって突き出た台地の先端部にあり、「弧状、1条」の壕があるそうですが、前面からは近づけそうがなかったので裏側から迫ることにして、地図を見ながら牧場が広がる台地をぐるぐると回りました。途中道を間違えてしまいましたが、なんとかこのチャシのある方に近づいていくと「この先450m」という看板があったので、そちらに進むと、その先にあるのは牧場で、しかもその牧場で飼っているらしい犬が私の方をにらんでいます(^^;) 犬に負けたわけではないのですが、牧場を横切ることもできないので、残念ですがそこから引き返しました(--;) (1999/11/13)


 この日は、日高方面の道の駅&チャシ巡りに行きました。まずは新冠の道の駅に向かい、ハイセイコーの銅像他とご対面。昼食を取ったあと3つのチャシを巡りへ。そのあと静内方面へと向かいました。
 ポンペラリチャシの次は13年ぶりのルイオピラチャシです。前回は犬に邪魔されましたが、今回も犬がいました(^^;) (小さかったので前回とは違う犬だと思いますが) 周囲を見渡すと牧草地で、どこがチャシなのかよくわかりません。犬も吠えているし、近くの家の方に不審者と思われてもいやなので、チャシと思われる辺りの写真を撮って退散しました。やれやれ…(2012/10/13)


 この日は、まずむかわ穂別のチャシを2つ巡り、いずれも撤退した後、新冠の道の駅で昼食休憩して、それから新ひだか静内方面へと向かいました。まず二十間道路桜並木へ。新型コロナ対策で桜並木は駐停車禁止なので、桜並木を眺めた後ルイオピラチャシへ向かいました。
 写真2の左に行くと犬にほえられた牧場ですが、どうやら右に行くとチャシに行けると教えて頂いたので右に進んで写真5の道を進み、突き当たりを牧場の柵に沿って左に進むと鉄塔があり、その奥にチャシらしき場所がありました。郭部分は小さくて狭いですが弧状の壕が1条しっかり残っていました。若干離れた所から見ると丘頂式にも見えますので、崖面が崩れて丘先式になったのかも知れません。とにかく3ヶ所目にしてやっと遺構らしきものを見ることができ満足でした。(2022/4/30)

農屋チャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】農屋チャシ
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内農屋51-4,59,60(旧静内郡静内町)
【訪 城 日】2012年10月13日
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:直状1条
【訪 城 記】
 この日は、日高方面の道の駅&チャシ巡りに行きました。まずは新冠の道の駅に向かい、ハイセイコーの銅像他とご対面。昼食を取ったあと3つのチャシを巡りへ。そのあと静内方面へと向かいました。
 まずは農屋チャシですが、ここはオチリシチャシの手前の道を1.5kmほど進んだ所にあり、静内川に面した台地上にあります。写真1に見える道を進んで、その辺りと思われる牧草地の奥の崖面近くを探してみましたが、見つけられませんでしたので、遠景を撮影しました。
 『日本日本城郭大系』によると、この辺りには古くからアイヌの村があり、その村に伝えられる所によると、このチャシは村のある旧家の祖先が造ったもので、チャシの東側にある太い柳の木はその旧家のヌササン(祭壇)の跡であるとのことです。

 農屋チャシ前の道を先に進むと、静内ダムの近くにホヨのチャシがあったようですが、地図で見落としてしまいました。次回は行ってみたいと思います。

ポンペラリチャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】ポンペラリチャシ
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内豊畑970-1(旧静内郡静内町)
【訪 城 日】2012年10月13日
【形  態】丘先式
【主な遺構】空壕:直状1条
【訪 城 記】
 この日は、日高方面の道の駅&チャシ巡りに行きました。まずは新冠の道の駅に向かい、ハイセイコーの銅像他とご対面。昼食を取ったあと3つのチャシを巡りへ。そのあと静内方面へと向かいました。
 農屋チャシの次に向かったのはポンペラリチャシです。丁度静内川を挟んで農屋チャシの向かい側の辺りに位置します。農屋チャシ・オチリシチャシの前の道を戻り御園橋で対岸に渡り、ポンペラリチャシのある場所の近づいたところ、それらしい台地がありましたが、どうも民家の敷地内のようでしたので、写真だけ撮って探索はしませんでした。

チェップオチ第1・第2チャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】チェップオチ第1・第2チャシ
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内豊畑1181-1
【訪 城 日】2012年10月13日
【形  態】面崖式
【主な遺構】空壕:弧状各1条
【訪 城 記】
 この日は、日高方面の道の駅&チャシ巡りに行きました。まずは新冠の道の駅に向かい、ハイセイコーの銅像他とご対面。昼食を取ったあと3つのチャシを巡りへ。そのあと静内方面へと向かいました。
 ポンペラリチャシの近くを静内川の支流チェップオチ川が流雑木林がれていますが、その川の向こうに位置するのがチェップオチ第1・第2チャシです。ポンペラリチャシの少し先の道から見ると牧草地の向こうに沢らしきものがあって、その向こうに雑木林が見えるのでそのあたりにチェップオチ第1・第2チャシがあるんだろうと推測しましたが、遠景のみ撮って次に進みました。
 『日本日本城郭大系』によると、第1チャシは幅3m、長さ10mの弧状壕があり、内部はお供え山のように盛り上がっているそうです。第2チャシは幅2m、長さ15mの直線状の壕をもっているそうです。ともに規模は小さく、位置的にも周囲を見渡すことのできない所にあるので、見張り台・戦闘といった機能は考えられない、とのことです。

パンケペラリチャシ(新ひだか町)

【城 跡 名】パンケペラリチャシ
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内豊畑898-1(旧静内郡静内町)
【訪 城 日】2012年10月13日
【形  態】面崖式
【主な遺構】空壕:半円状1条
【訪 城 記】
 この日は、日高方面の道の駅&チャシ巡りに行きました。まずは新冠の道の駅に向かい、ハイセイコーの銅像他とご対面。昼食を取ったあと3つのチャシを巡りへ。そのあと静内方面へと向かいました。
 ルイオピラチャシの次に向かったのはパンケペラリチャシです。先ほど渡った御園橋の近くまで戻り、牧草地の向こうに見える台地上がチャシのようです。ここも遠景を撮影しただけにしておきました。