【史 跡 名】門別富仁家墳墓群
【訪 問 日】2011年10月9日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町富浜183(旧門別町)
【訪 問 記】
この日は西胆振・日高方面に道の駅&チャシ巡りの旅に行きました。
まずむかわの道の駅に行ったあと、穂別方面に行く予定でしたが、時間に余裕がありそうなので、日高町門別地区のチャシを探してみることにしました。(結果的には、ほとんど場所確認で終わりましたが(^^;))
まずはトニカチャシです。ここは以前も来たことがあり、ここじゃないかという場所も確認していたのですが、採石場の向こう側なので遠慮してそれ以上近づかなかったのですが、今回行ってみると 標柱らしき物が見えたので、近づいて確認してみました。すると「北海道指定史跡 門別富仁家墳墓群」と書かれ、その先に階段が見えました。確かトニカチャシはこの墳墓群の近くだったはずと思い階段を上ってみると、草が刈られてはいるものの平らな土地が広がっているだけでした。結局チャシの場所はよくわからなかったのですが、後から資料を見なおしてみると、どうもその端の細長い台地の先のようでした。(ちゃんと資料を確認しなくちゃダメですね(^^;))
富仁家とはアイヌ語のトゥンニカ(柏の木の上の所)等に由来し、江戸期からアイヌ集落があったようです。この遺跡は昭和35年(1960)から4回の発掘によって、縄文晩期終末期~続縄文期初頭にかけての盛土墳墓群であることが分かり、長径1m前後の円形あるいは楕円形の墓壙が33個発見され、縄文期の土器及び続縄文期のトニカ式土器、石鏃などの石器、琥珀製の玉、石偶等が出土しているそうです。




【名 勝 名】ウシャプラム古戦場跡
【訪 問 日】2011年11月3日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町本町
【訪 問 記】
ここは先日、道の駅とチャシの旅で夕張→日高→平取→占冠と回った時に寄ったところです。日高町の道の駅「樹海ロード日高」に寄ったあと、南下して平取町北部のチャシを回る予定でしたが、道の駅の壁にあった観光マップに「ウシャップラム古戦場」という文字があったのが気になり、行ってみることにしました。
道の駅の南側にある沙流川河畔にあるようなので、ぐるぐるちょっと迷いながら見つけました。どうやらこの辺りでアイヌが戦ったという伝説があって敗走する兵が「ウシャップラム!ウシャップラム!」(追われるから逃げろ)と叫んだのが、本町の旧名「右左府(ウシャップ)」の由来の一つとも言われているそうです。


【名 勝 名】沙流川河畔遺物出土地帯
【訪 問 日】2011年11月3日
【所 在 地】北海道沙流郡日高町若葉町
【訪 問 記】
ここは先日、道の駅とチャシの旅で夕張→日高→平取→占冠と回った時に寄ったところです。日高町の道の駅「樹海ロード日高」に寄ったあと、道の駅の壁にあった観光マップに「ウシャップラム古戦場」に行き、その近くにこの「沙流川河畔遺物出土地帯」の石碑がありました。
その碑文によると、この上の台地にはかつて円形の竪穴があり前北式の土器の破片を発見したそうです。さらに上流及び対岸の下流一帯からは、約一万年前の黒曜石の剥片石器や五千年前の北筒式土器が数多く出土しているそうです。


【史 跡 名】義経神社
【訪 問 日】1999年5月22日
【所 在 地】北海道沙流郡平取町本町119
【訪 問 記】
ここは平取町方面にチャシ巡りに行ったときに寄ったものです。実は1991年の5月に静内の二十間道路の桜を見に行った時の帰りにここに寄ったのですが、その時はすっかりもう夕方で、社殿等を少し眺めただけで帰ってきたのでした。
義経神社の創祀については諸説ありまうが、一般的には寛政10年(1798)幕吏・近藤重蔵が蝦夷地調査の際に、当地方のアイヌにオキクルミあるいはホンカンカムイと結びついた義経信仰があるのを知り、翌年ふたたび蝦夷地調査のため択捉に向かう途中に平取のハヨピラに寄って、江戸で彫らせた義経像を安置し一祠を建てたというのが起源とされています。
その後、シノタイ(現門別町豊浜)、そしてモンベツのサル会所近くの現門別稲荷神社境内へ、さらに明治4年(1871)平取村の長老平村ペンリウクが同村に持ち帰って祀ったといわれています。
鳥居をくぐって高い石段を登っていくと義経神社の社殿が見えてきます。この神社は木立に囲まれた高台にありちょっとした山城という雰囲気もないではありません。社殿の横には「静御前」「常盤御前」を刻んだ石碑が祀ってあったりします。
境内の左側には「義経資料館」(だったかな?)がありますが、展示してある資料は...まあ、あんなもんでしょう(^^;)
まあ伝説は伝説として、なかなか落ち着いた雰囲気の場所です。



【史 跡 名】シシリムカ二風谷アイヌ資料館(旧萱野茂アイヌ文化資料館)
【訪 問 日】1999年5月22日
【所 在 地】北海道沙流郡平取町二風谷(にぶたに)
【訪 問 記】
ここは平取町方面にチャシ巡りに行ったときに寄ったものです。二風谷周辺にはいくつかの資料館がありますが、まずは二風谷アイヌ資料館に行ってみました。ここはもとは昭和47年(1972)に北海道ウタリ協会が設立した二風谷アイヌ文化資料館の建物でしたが、平成3年(1991)博物館として沙流川側に移設され、旧文化資料館の建物は萱野茂アイヌ記念館として残りました。平成6年(1994)5月には増改築し、シシリムカ二風谷アイヌ資料館と改称し、現在に至っています。
資料館の右手にはチセ(住居)やプ(倉)が復元されていて、そのうちの一軒では民芸品等の展示販売をしていました。資料館の中にはアイヌ民具・衣服などが展示され、奥の方には世界の北方民族・少数民族の民具なども展示してありました。
ここから国道をはさんで反対側の沙流川側には、ここから移設された二風谷アイヌ文化博物館があり、館内には民具を初めアイヌ関係の資料が多数展示してあり、この博物館の前にもチセが復元されています。また、このすぐ隣には沙流川歴史館があり、二風谷ダム付近にあったユオイチャシ・ポロモイチャシ・二風谷遺跡の発掘から得た遺物や、これらの遺跡のジオラマ等々沙流川付近の歴史を感じさせる展示がありました。



(アットゥシ)

【史 跡 名】旧マンロー邸
【訪 問 日】2001年10月14日
【所 在 地】北海道沙流郡平取町二風谷54-2
【訪 問 記】
平取にチャシ巡りに行った際に、ちょっと寄り道して見てきました。アイヌ文化博物館や沙流川歴史館の少し南側に国道をやや平行に走る町道がありますが、ここから沙流川方面に木立の中を進むと木造二階建ての洋館が見えてきます。これが旧マンロー邸です。
ゴードン・マンロー博士はイギリス人医師で明治25(1892)年に来日、のち帰化し医師のかたわら考古学を研究しました。アイヌ調査のため来道し、昭和5(1930)年から二風谷に滞在、のち永住しました。医師として二風谷の人々に無料診療を行う一方、アイヌ民族の研究を行い、『アイヌの信条と文化』を著しました。その死後、旧邸は北海道大学文学部に寄贈されて研究室となりました。
旧マンロー邸にたどりつくと出迎えたのは、かわいい犬たちでした(^^) 不意の闖入者を見つけ、吼えかかる犬たち(とはいっても親犬はつながれてましたけど)を相手にのんびり建物を鑑賞するという感じではありませんでしたけど、きれいな洋館とかわいい子犬を見て、心が温かくなったところで再びチャシ巡りへと戻りました。(正直な所、私はどっちかというと動物は苦手なんですけど(^^;))



【史 跡 名】二風谷ダム
【訪 問 日】2014年10月18日
【所 在 地】北海道沙流郡平取町字二風谷
【ダム情報】河川名:沙流川水系沙流川、型式:重力式コンクリートダム、ゲート:右岸クレストゲート×1門・オリフィストゲート×7門・左岸クレストゲート×5門・利水放流ゲート×1門・魚道ゲート×1門、完成年:1998年
【訪 問 記】
この日は夕張シューパロダムを再訪し、そのあと平取の二風谷ダムまで足を伸ばしました。このダムの敷地内にはユオイチャシ・ポロモイチャシがあるので何度も来たことがありましたが、ダムをじっくり見たのは初めてでした。天端を歩いてみると、どこかの工場かなにかのようで、とてもダムとは思えません。その先に進むと魚道もありました。ちなみに、このダムがあった場所はかつてはアイヌ民族の聖地で、ユオイチャシとポロモイチャシの間には二風谷遺跡がありました。これらの模型が近くにある沙流川歴史館に展示してあります (ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ) (2014/10/18)





【史 跡 名】龍雲閣
【訪 問 日】1991年5月12日
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内御園111(旧静内郡静内町)
【訪 問 記】
静内は今でも馬産地として知られていますが、戦前まで宮内省新冠御料牧場があり御料馬の供出、軍馬生産などの役割を果たしていました。(戦後開放され、現在農林水産省家畜改良センター新冠牧場)
その御料牧場の一画に御殿造・木造2階建の建物があります。これが龍雲閣です。明治42年(1909)に貴賓舎として建築されたもので、当初は凌雲閣と呼ばれました。皇太子時代の大正・昭和天皇など皇室関係者・政府高官が来場・宿泊しており、現在はフェンスに囲まれており、毎年5月初めの桜まつりの期間中だけ内部が一般公開されています。
恵庭に住んでいる時に、休みにちょっとドライブに行って桜並木で有名な二十間道路を歩いたことがあったのですが、その時に一般公開していましたので、龍雲閣を見学してきました。フェンスに囲まれているのがちょっと無粋ですが、趣のある建物でした。



【名 勝 名】二十間道路
【訪 問 日】1991年5月12日
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内御園(旧静内郡静内町)
【訪 問 記】
恵庭に住んでいる時に、休みにちょっと静内までドライブに行って来たことがありました。丁度桜の季節なので桜の名所として有名な「二十間道路」に行ってみようと思ったのでした。
静内町御園にある農林水産省か地区改良センター新冠牧場(旧宮内省新冠御料牧場)の場内に幅40mの道路が一直線に延々8km続いています。これがかつての行啓道路で、通称二十間道路です。この道路の両側には約1万本のエゾヤマザクラの桜並木が続いており、建設省の「日本の道路二十選」にも選ばれているそうです。またその奥には貴賓舎として建てられた龍雲閣もあります。
丁度この頃はあちこち歩いて回ることにこっていた頃でしたので、二十間道路の端に車を置き、道路脇で花見や宴会をしている人たちを横目に龍雲閣まで歩き、龍雲閣の内部を見学したあと再び車を置いたところまで歩くというバカなことをやりました(^^;) 行ったのが遅かったので、桜の盛りは過ぎて少し散りかかっていましたが...
往復16kmはさすがに結構疲れましたが、桜を愛でながらの「遠足」はなかなか楽しいものでした。



【史 跡 名】真歌公園
【訪 問 日】1999年5月22日・2001年9月30日
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内真歌(旧静内郡静内町)
【訪 問 記】
ここは平取町方面にチャシ巡りに行ったときに寄ったものです。この真歌公園はシャクシャインが構築したと伝えられるシベチャリのチャシがあった場所で、公園全域からは縄文時代早期から擦文期の遺物が出土しているそうです。
公園の一画には昭和45年(1970)にシャクシャイン顕彰会が建てたシャクシャイン像があり、この前で毎年9月23日にシャクシャイン法要のためイチャルパ(先祖祭)が行われるそうです。像の向かいにはチセをかたどったシャクシャイン記念館が建ち、その横には静内町アイヌ民俗資料館があります。


【史 跡 名】御殿山公園
【訪 問 日】1999年5月22日
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町静内目名(旧静内郡静内町)
【訪 問 記】
ここは平取町方面にチャシ巡りに行ったときに寄ったものです。この御殿山公園のある御殿山一帯は縄文時代早期~アイヌ文化期の長期にわたる複合遺跡があり、なかでも御殿山墳墓群は縄文時代後期末~晩期初頭の積石墳墓群遺跡で道史跡にも指定されています。また東側にはシャクシャインの戦いに関係したといわれるメナチャシがあります。
また明治4年(1871)には、家臣とともに静内に入植した徳島藩家老で淡路洲本城主だった稲田邦植の館がこの台地北側に作られたことから一帯を御殿山と呼びようになり、御殿山公園手前の岡田牧場の前には「稲田屋敷跡」の碑があります。また御殿山公園内にも江戸中期の作と思われる木造を御神体として稲田家の祖先神を祀る稲基神社や、「北邊開拓の礎」の碑という、稲田主従の移住開拓の様子をレリーフとした記念碑もあります。



【史 跡 名】高見ダム
【訪 問 日】2016年10月8日
【所 在 地】北海道日高郡新ひだか町字高見
【ダム情報】河川名:静内川水系静内川、型式:ロックフィルダム、ゲート:自然調節(ゲートレス)、完成年:1983年
【訪 問 記】
この日は日高方面のチャシ・ダム巡りをしました。まずは静内の高見ダムを目指しました。とはいっても高見ダムに繋がる道路は通行止めとなっており、手前にある静内ダム付近までしか行けないとの情報を得てましたので、静内駅の横にある観光情報センターぽっぽへと向かい、高見ダムのダムカードをGETし、次へ進みました。(ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ)

【史 跡 名】浦河ダム
【訪 問 日】2016年10月8日
【所 在 地】北海道浦河郡浦河町字上向別
【ダム情報】河川名:向別川水系向別川、型式:重力式コンクリートダム、ゲート:自然調節(ゲートレス)、完成年:1999年
【訪 問 記】
この日は日高方面のチャシ・ダム巡りをしました。瑞穂1・2チャシのあと、浦河ダムを目指しました。浦河ダムは写真の通り、とってもきれいな重力式コンクリートダムです。ダムカードは、土日祝日は浦河町総合文化会館1階の浦河町立図書館で配布しているとのことなので、そちらでダムカードをGETし、次へ進みました。(ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ)



【史 跡 名】等澍院(とうじゅいん)
【訪 問 日】1999年7月27日
【所 在 地】北海道様似郡様似町本町2丁目
【訪 問 記】
1999年の夏には道東にチャシ巡りの旅に行きましたが、その途中いくつかの史跡にも立ち寄りました。この等澍院はその一つです。
等澍院は正しくは「歸嚮山(ききょうざん)厚澤寺等澍院」といい伊達市有珠の善光寺、厚岸の国泰寺と並ぶ蝦夷三官寺の筆頭寺で、蝦夷地在住の官吏など和人の仏事執行のほか、宗教によるアイヌ懐柔策の一つとして文化3年(1806)江戸幕府により創建されました。1811年には弘道修行の道場として護摩堂も建立されましたが、経済的保護のなくなった1884年以後一時廃寺となり本堂が取り壊されるなどしましたが、1890年護摩堂が修復され、等澍院が再興されました。
上にも書いたように往時を思わせる建物は様似町重要文化財となっている護摩堂だけで、それ以外は普通のお寺と何ら変わらない様子です。護摩堂から少し登ったところにある山門の戸には三葉葵の紋がついていましたが、あれも後のものなんでしょうねえ。


(戸には三葉葵の紋がついています)
【史 跡 名】カムイチャシ記念碑
【訪 問 日】1999年7月27日
【所 在 地】北海道様似郡様似町本町2丁目
【訪 問 記】
『北海道の歴史散歩』(山川出版社)を見ると、等澍院の裏手の山の方に「カムイチャシ跡」というのが載っていたので、等澍院の次にそちらの方に行ってみることにしました。
等澍院の裏の高台地は観音山と呼ばれ、現在は展望台が設けられ公園となっています。『北海道の歴史散歩』によるとこの高台の北面は十勝アイヌとの紛争の伝承を持つカムイチャシ跡といわれているそうです。
観音山は上まで車で上れるようになっており、「カムイチャシ跡記念碑」が現在建っており、その近くにはいますが、案内板などが全くないのでその由来などはわかりません。道教委が編集した『北海道のチャシ』にも北海道チャシ学会が作成したチャシの一覧表にもこのカムイチャシは載っておらず、私にとっては全くの謎のチャシとなっています。

【史 跡 名】様似ダム
【訪 問 日】2016年10月8日
【所 在 地】北海道様似郡様似町字新富
【ダム情報】河川名:様似川水系様似川、型式:重力式コンクリートダム、ゲート:ローラーゲート×2門、完成年:1975年
【訪 問 記】
この日は日高方面のチャシ・ダム巡りをしました。キムンチャシのあと、様似ダムを目指しました。時間が遅くなったので、まずは様似観光案内所にてダムカードをGETしてから、様似ダムへと向かいました。ちょっと年代を感じさせるダムでしたが、それがまた良い感じでした。(ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ)


【名 勝 名】襟裳岬
【訪 問 日】1999年7月27日
【所 在 地】北海道幌泉郡えりも町えりも岬
【訪 問 記】
襟裳岬に二度行っています。一度目は高校時代の友人と一緒に広尾まで行って日本海沿岸を南下して襟裳岬まで行きあとは日高方面に北上していった時です。二度目は昨年(1999年)道東方面にチャシ巡りの旅に行った時に途中で寄りました。とてもいい天気で、襟裳岬周辺もすっかり見通せましたし、空もきれいに晴れ渡ってとても気持ちよかったです。



