【史 跡 名】忍路(おしょろ)環状列石
【訪 問 日】2000年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市忍路町2丁目
【訪 問 記】
ここは小樽方面にチャシ巡りに行った帰りに寄りました。文久元年(1861)に漁夫が土地のアイヌから「この土地には、カムイ(神)の住む場所がある」と聞かされて案内されたのがこの三笠山の忍路環状列石(国指定史跡)でした。南北33m・東西22mにわたって楕円形にのびる大規模なストーンサークルで、外周には直径10~30cmの小石を2~3mの幅に、高さ1m以上の立石が環状に巡らされています。古代の集団墓地、祭場、天測のための立石など多くの説がありますが、縄文時代後期の貴重な遺跡です。
しかし何とも不思議な感じがしました(^^;)



【史 跡 名】銀鱗荘(旧猪俣家邸宅)
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市桜1-1-13
【訪 問 記】
桜チャシをあとにして小樽方面へ進むと、ちょうど平磯岬の平磯トンネルの上に瓦屋根のきれいな和風建築が見えました。これが銀鱗荘です。
これは余市の大富豪猪俣安之丞が明治30年(1897)から3年がかりで宮大工の米山仙蔵に設計施工させたもので、美しい瓦屋根、その中央に天守閣のように聳える望楼の小屋根、棟の両側に逆立つ鯱など、重厚さを感じさせます。現在でもこの建物は使われており、私が訪れた時にも法事が済んだあとと思われる方々が出口から出てきました。




【名 勝 名】小樽運河
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市色内1丁目
【訪 問 記】
かつては埋め立てか保存かで揺れた小樽運河ですが、現在では小樽の観光名所となっています。小樽運河は大正3年(1914)に着工し同12年(1923)に完成した港湾施設で、全長1140m、幅は20m~40mでした。かつては小樽港内に停泊した本船と運河の間をはしけが往来し船荷をさばいていましたが、荷役は接岸荷役が主流となってはしけ荷役は衰退し、現在では運河散策路が整備され、昔の姿をしのばせています。
いまでは運河沿いの倉庫群が観光施設となっていますが、なかなか風情のあるところになっています。小樽は比較的近いのですが、意外とあまり行ったことがなくて、運河周辺の写真を撮ったのは今回が初めてでした。

【史 跡 名】旧北海道拓殖銀行小樽支店
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市色内1丁目3番1号
【訪 問 記】
この旧拓銀小樽支店は小樽経済の絶頂期である大正12年(1923)の建築で、当時の道内を代表する大ビル建築でした。その後、小樽ホテル、そしてペテルブルク美術館になっていましたが、現在は休止中で使われていないようです。なかなかに重厚な建物です。


【史 跡 名】旧北海道銀行本店
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市色内1丁目8番6号
【訪 問 記】
この旧道銀本店は明治39年(1906)に小樽銀行と北海道商業銀行が合併し、本店として明治45年(1912)に長野宇平治が設計した石造2階建ての洋風建築です。その後、北海道中央バス本社になっていましたが、現在は北海道中央バスを経営元とする小樽バイン(BINE)というワインカフェになっているそうです。なかなかに美しい建物であります。


【史 跡 名】旧日本道銀行小樽支店
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市色内1丁目11番16号
【訪 問 記】
この旧拓銀・旧道銀等の建築物が並ぶ色内本通りと浅草通りの交点を中心としたあたりは、「北のウォール街」と呼ばれ、かつての銀行社屋が建ち並んでいますが、その中でもシンボル的な存在がkの旧日銀小樽支店です。
明治26年(1893)、日本銀行小樽派出所として開設され、明治35年(1902)に港の荷役高が函館を抜いたのに伴って日本銀行小樽支店に昇格しました。現在の建物は明治45年(1912)に竣工したもので、レンガ造り2階建てで、東京駅を設計した辰野金吾、銀行建築の設計で有名な長野宇平治の手になるもので、優美なルネッサンス様式で築かれたものです。
私は、あまり建築のことについてはよく知りませんが、窓の上のアーチ形や屋根の上の小さな塔がさらに重厚で優美な姿を表しているように感じられます。


【史 跡 名】旧三井銀行小樽支店
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市色内1丁目
【訪 問 記】
この旧三井銀行小樽支店は当初三井銀行小樽出張所でしたが、明治24年(1891)に小樽支店に昇格し、現在の建物は昭和2年(1927)に曽祢達蔵の設計で竣工したものです。昭和55年(1980)に札幌支店小樽特別出張所となり、現在はさくら銀行小樽支店を経て三井住友銀行小樽支店となっています。
正面に見える五連のアーチが印象的な建物です。



【史 跡 名】旧金子元三郎商店
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市堺町1番22号
【訪 問 記】
この建物は明治32年(1899)に初代小樽区長となり、その後中央政界へ転じた金子元三郎の小樽での活動拠点として使われていました。金子は海陸物産、海運業を営み、小樽初の日刊紙「北門新報」の印刷所としても使用していました。現在では「多喜二」という飲食店となっていますが、明治期における代表的な商家建築です。2階の窓などは一見すると蔵造りを思わせるものになっています。

(現・多喜二)

【史 跡 名】旧名取高三郎商店
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市色内1丁目1番8号
【訪 問 記】
これは明治39年(1906)建築の木骨石造2階建ての土蔵造り風の建築物で、山梨県出身の銅鉄金物商名取が建てたものです。小樽の明治後期の代表的商家建築で、現在ではナトリ(株)小樽支店となっています。
1階は普通の商家風、2階は土蔵造り風となっているのが特徴でしょうか。なかなか趣のある建物です。


【史 跡 名】旧百十三銀行小樽支店
【訪 問 日】2001年11月3日
【所 在 地】北海道小樽市堺町1番25号
【訪 問 記】
この建物は明治41年(1908)に池田増次郎の設計で木骨石造2階建で建てられたもので、寄せ棟瓦屋根、角地に玄関をもうけ、2階にギリシャ・ローマ建築を思わせる飾りを施すという特異なデザインで、この周囲にある銀行建築の中でも異彩を放っています。
その後、千秋庵を経て、現在は使われていないようですが、一見すると忘れられない特徴を持つ建物であります。


【史 跡 名】旧白鳥家番屋(小樽市指定歴史的建造物)
【訪 問 日】2010年11月6日
【所 在 地】北海道小樽市祝津(おたる水族館前)
【訪 問 記】
この日は家族でおたる水族館に行ったんですが、帰りにそのすぐ前に番屋らしき建物を見つけたので、ちょっと写真におさめてみました。『北海道の歴史散歩』(山川出版社)によると、場所請負制が明治の初めに廃止となると白鳥家・茨木家・青山家という祝津三大網元というのが現われ、この旧白鳥家番屋はその頃の漁村の様子を伝える貴重な建物です。
説明板によると、建築年は明治10年代で、この番屋は主人と漁夫の住居部分が大屋根で一体となっていて、主人の住まいには床の間や欄間をもうけ和風住宅の特徴を示し、漁夫の寝床は吹き抜けに巡らされていたそうです。
平成7年(1995)に料理店に再利用されているそうですが、この時はお休み(?)でした。



【史 跡 名】毛無峠
【訪 問 日】2013年8月14日
【所 在 地】北海道小樽市朝里川温泉1丁目
【訪 問 記】
この日は後志南部の道の駅巡りに行きました。蘭越、寿都、島牧、黒松内の5つの道の駅に寄りました。最後は赤井川から小樽に抜けましたが、途中毛無峠に寄りました。なかなかいい眺めでしたので、写真を撮ってみました。ちなみに毛無とはアイヌ語の「ケ・ナシ(山林)」を音訳したものだそうです。


【史 跡 名】オタルナイ運上屋跡
【訪 問 日】2015年9月22日
【所 在 地】北海道小樽市堺町6
【訪 問 記】
この日は家族で余市にぶどう狩りに行って、赤井川に新しい道の駅が出きたとのことでそこに寄ったあと、小樽に行ったんですが、オルゴール堂や北一ガラスなどがある辺りを歩いている時に、ふと見つけました。まあ普通の人なら見向きもしない看板なんですけど…。
その看板の説明によると、この運上屋はおおむね享保年間(1716~1735)の頃と推定され、幕吏・大石逸平の『西蝦夷地場所回浦日記』によると、天明6年(1786)4月1日オタルナイ運上屋に宿をとったと記されているそうです。慶応元年(1865)オタルナイ場所が村並になって場所請負制度とともに運上屋も廃止されたとのことです。以後、運上屋の建物は本陣とよばれ、穂足内御用所となりましたが、翌慶応2年(1866)10月に火災により焼失したそうです。なお、オタルナイ場所の知行主は松前藩重臣氏家氏で、請負人は近江商人・恵比寿屋岡田家だったそうです。

【史 跡 名】朝里ダム
【訪 問 日】2015年11月3日・2017年6月11日・2017年9月16日
【所 在 地】北海道小樽市朝里川温泉
【ダム情報】河川名:朝里川水系朝里川、型式:重力式コンクリートダム、ゲート:自然調整(ゲートレス)、完成年:1994年
【訪 問 記】
この日は小樽の朝里ダムに行きました。今まで行っただむは国土交通省管理のダムでダムカードがあるということで行ったのですが、この朝里ダムは北海道庁(小樽建設管理部)管理のダムながらダムカードがあるという情報を得たので行ってみました。ここのダムは典型的な重力式コンクリートダムで、下から見上げるとなかなかの迫力です。ダムの前にはループ橋もあり、これもなかなかきれいで、見どころがあります。(ダムカードは「趣味の部屋→ダムカードのページ」へ) (2015/11/3)
※2016年4月から、朝里ダムを含めた北海道建設部管理のダムでも国管理のダムのダムカードと同じ型式のダムカードが配布されるようになりました。ということで、朝里ダムも再訪して新しいカードをもらわなくちゃあいけないと思っております(^^;)



(朝里大橋)



前回と同じくダム記念館にて新ダムカードをGET!写真は同じですが、きちんと公式カード仕様になっていました。ここはやはりきれいなダムです。ダムの駐車場に「ダムLOVE」の文字が… あの番組の影響でしょうか?(2017/06/11)





この日はダムには行っていないのですが、余市に果物狩りに行った帰りに小樽市朝里にある小樽アバンティにて「朝里ダムカレー」を堪能してきました。全国にダムを模したダムカレーを出している店が数多く有り、北海道ではここ朝里の他に札幌の豊平峡ダム、今金の美利河ダム、三笠の桂沢ダムの4か所があるそうです。(まださらに増えそうですが)
ここアバンティの朝里ダムカレーは少しスパイシーですが、大変おいしいカレーでした。(うちの奥さんと息子は辛いのが苦手なのでちょっと苦労していましたが)(2017/09/16)
※アバンティは2018年9月に閉店した模様です。残念…


ダムカレーののぼり

ダムカレーの食品サンプル




【史 跡 名】小樽市総合博物館
【訪 問 日】2016年9月18日
【所 在 地】北海道小樽市手宮1丁目
【訪 問 記】
この日は家族で余市にぶどう狩りに行ったあと、小樽に行き、以前から気になっていた小樽市総合博物館に寄ってみました。
小樽市総合博物館は平成19年7月、旧小樽交通記念館に小樽市博物館と小樽市青少年科学技術館の機能を統合し開館しました。今回行ったのは旧交通記念館の本館で、北海道の鉄道発祥の地である旧手宮線・手宮駅の敷地を利用して設置されています。
屋内には下の写真になる蒸気機関車・しづか号や客車、屋外には旧手宮機関庫(国重要文化財)・手宮口転車台・北海道鉄道開通起点の碑など北海道の鉄道に関する貴重な建造物、そしてディーゼル機関車・電気機関車・客車・貨車などが保存展示されています。
また蒸気機関車アイアンホース号が線路を走り、転車台で移動し、機関庫に入るところをこの日は見ることができました。私は鉄道マニアではありませんが、鉄道好きの方にはたまらない場所だと思います。
2階では物語の舞台の一部として小樽が出てくる漫画「ゴールデンカムイ」の展示も期間限定で行っていました。
ちなみにこの小樽市総合博物館の駐車場のすぐ近くには、続縄文時代の彫刻画が刻まれている手宮洞窟があります。ここはまだ行ったことがないのですが、もう時間が遅かったので寄ることができませんでした。






【史 跡 名】運河公園
【訪 問 日】2016年9月18日
【所 在 地】北海道小樽市色内3-6
【訪 問 記】
小樽市総合博物館の帰りに、途中で見かけた運河公園に寄ってみました。小樽運河の北の端にこの公園は広がり、国指定重要文化財の旧日本郵船小樽支店の建物や小樽市指定歴史的建造物の旧日本郵船小樽支店残荷倉庫がすぐ目の前にあります。
ただそれらが目的ではなく、つい先日北海道のローカル番組「ブギウギ専務」の番組企画「ウエスギ専務 銅像への道」でこの公園にある「伊東長右衛門」さんの銅像が出ていたので寄ってみたという次第でして(^^;) この伊藤さんは小樽築港の事務所長を務めた方のようです。





残荷倉庫

残荷倉庫説明板
【史 跡 名】フゴッペ洞窟
【訪 問 日】1999年10月24日
【所 在 地】北海道余市郡余市町栄町87
【訪 問 記】
ここは小樽方面にチャシ巡りに行った時に寄りました。この史跡は昭和25年(1950)8月札幌南高校郷土研究部員によって偶然発見され、学界の注目を浴びました。洞窟は奥行7m・幅6m・高さ5mの広さで、洞窟内はほとんど遺物で埋まられており、壁面には200個をこえる彫刻が発見されたそうです。
彫刻には角をつけた男、四つ指のシャーマン、動物、魚、舟などがあり、昭和47年(1972)に日本初のカプセル方式によって永久保存施設が完成し一般公開されています。
正直なところ古代史にはあまり興味がないのでさあっとしか見ませんでした(^^;)

フゴッペ洞窟
【史 跡 名】ニッカウヰスキー余市工場
【訪 問 日】2005年7月24日・2017年9月16日
【所 在 地】北海道余市郡余市町黒川町7-6
【訪 問 記】
実はここは去年、職場の職員旅行で行ったところです。昭和9年(1934)余市に大日本果汁株式会社を創立した竹鶴政孝がウイスキーづくりの理想の地スコットランドと自然環境が極めて似ていて豊富な水と適度な湿度に恵まれていたこの余市に原酒工場を建設したそうです。
お酒の苦手な私にはあまり縁のないところですが、石造りの建物・倉庫群や創業当時竹鶴夫妻が住んだという洋館など見どころがたくさんです。(2005/7/24)

余市工場・乾燥棟

(余市町指定文化財)




この日は余市の山本観光果樹園に果物狩りに行き、その帰りに以前から気になっていたニッカウヰスキー余市工場に行ってみました。10数年ぶりの訪問ですが、以前と変わらずとてもきれいな建物が多い場所です。「マッサン」の影響もあってか観光客も多くいました。試飲会場でソフトドリンクでもないかなあと期待していましたが、残念…(^^;) (2017/09/16)

余市工場


余市工場




余市工場

余市工場
【史 跡 名】旧余市福原漁場
【訪 問 日】2012年9月15日
【所 在 地】北海道余市郡余市町浜中町150-1
【訪 問 記】
この日は家族で余市まで果物狩りに行きました。ぶどうやもも、なし、りんごなどをたらふく食べて、午後からはまた道の駅&チャシ巡りに行こうと出発したら、通りがかりに気になるところがあったので寄ってみました。
ここは旧余市福原漁場といい、国指定の史跡になっているところです。かつてこの地で鰊漁を中心に漁場経営を行った福原家に関わる建物群を修復したもので、主屋・文書庫・米味噌蔵・石倉・網倉・物置などが当時の姿で残されています。福原家の初代才七は、安政年間(1854~60)に上ノ国から余市の鰊漁の出稼ぎにきたといわれ、明治17(1884)年にはこの地で鰊漁業を営むようになり、翌18(1985)年にはこの建物を買い入れたそうです。昭和57(1982)年に国指定史跡となり、現存している建物群の修理と史料をもとに復元が行われたそうです。下の写真にはありませんが、雑倉は基礎部分のみ平面復元されています。
受付の方が親切に「ご案内しましょうか?」と言って下さいましたが、ゆっくり見る時間もないので、丁重にお断りして見て回りました。写真4の文書庫には書類や調度品、子どもが使ったらしい教科書や漫画本・おもちゃなどが、写真5の石蔵の中には漁具やら当時の船の模型などが展示してありました。なかなか面白かったです。








【史 跡 名】ヨイチユワナイ街道余市口、ヨイチユワナイ間山道切開策定処、余市教学所跡
【訪 問 日】2012年9月15日
【所 在 地】北海道余市郡余市町浜中町
【訪 問 記】
旧余市福原漁場を出発し、しばらくすると道端に石碑が3つ並んでいましたので、車を駐めてよく見てみました。すると、一つ目の石碑には「ヨイチユワナイ街道余市口」、二つ目の石碑には「幕府西蝦夷地巡見視目付遠山金四郎景晋 幕府勘定吟味役目付村垣左太夫定行 ヨイチユワナイ間山道切開策定処」、三つ目の石碑には「余市教学所跡」とありました。
二つ目の石碑にある遠山金四郎景晋(かげみち/くに)とは、「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の実父で、長崎奉行や勘定奉行を務めた幕府の高級エリート官僚でした。景晋は3回蝦夷地に渡っていますが、そのうちの2回目、文化3(1806)年から翌年にかけて積丹・余市・小樽・石狩から宗谷にかけて西蝦夷地の巡察を行っています。その際に蝦夷地内7ヶ所の道路の開削を行っており、一つ目と二つ目の石碑はそれに関わるものと思います。「ヨイチユワナイ」とあるので余市-岩内間の街道を開削したのでしょう。
三つ目の石碑は、明治になってから余市に入植した旧会津藩士ゆかりのものです。戊辰戦争の敗北後、東京にて謹慎中だった藩士の一部が蝦夷地開拓の募集に応募し、明治4(1871)年余市川下流の未開地に入植しました。その際に、子弟の教育を行う場所として居住家屋の一軒を教育所とし、故郷の日新館にちなみ「日進館」としました。それがのちにこの付近に移され余市教育所とされたそうです。
先の福原漁場といい、この石碑といい、余市の歴史の古さを物語るものだなあと感じました。


街道余市口

間山道切開策定処

【名 勝 名】神威岬
【訪 問 日】2005年7月25日
【所 在 地】北海道積丹郡積丹町
【訪 問 記】
ここも去年、職場の職員旅行で行ったところです。駐車場から遊歩道を上り、岬の先まで歩くと結構ありますが、とてもきれいな眺めが堪能できます。結構写真を撮ってしまいました(^^;)





【名 勝 名】羊蹄山
【訪 問 日】2012年6月30日
【所 在 地】北海道ニセコ町・倶知安町・喜茂別町・真狩村・京極町
【訪 問 記】
この日は伊達市で「洛中洛外図屏風亘理伊達本」が期間限定で公開されるというので伊達まで見に行きました。そのあとあぷた・とようら・とうや湖の道の駅を回ったあと、ルスツに向かう途中畑の向こうに羊蹄山がきれいに見えたので撮影しました。さすがに「蝦夷富士」と呼ばれるだけのことはあります。

【史 跡 名】佐藤家住宅
【訪 問 日】2013年8月14日
【所 在 地】北海道寿都郡寿都町字歌棄町有戸163番地
【訪 問 記】
この日は後志南部の道の駅巡りに行きました。蘭越、寿都、島牧、黒松内の5つの道の駅に寄りました。最初の蘭越のシェルプラザ港から寿都のみなとま~れ寿都に移動する途中、道路脇に気になる建物があったので寄ってみました。佐藤家という漁場建築で、道の有形文化財に指定されているそうです。佐藤家は幕末に歌棄・礒谷の場所請負人を努めた家で、この建物は明治10~20年頃に建てられたものだそうです。現在は修復中のようでしたが、普通の漁場建築と違い、屋根の上の煙出しが六角形の洋風のものとなっていて、和洋折衷の様式がおもしろいなと思いました。



【史 跡 名】弁慶岬
【訪 問 日】2013年8月14日
【所 在 地】北海道寿都郡寿都町字政泊町弁慶9番地
【訪 問 記】
この日は後志南部の道の駅巡りに行きました。蘭越、寿都、島牧、黒松内の5つの道の駅に寄りました。寿都の道の駅みなとま~れ寿都から島牧村に移動する途中、道路脇に気になる銅像があったので寄ってみました。ここは弁慶岬といい、源義経と蝦夷地に渡った弁慶がこの岬で仲間の到着を待ったという伝説があるそうで、そこから弁慶岬と呼ばれるようになったそうです。また、この岬の先端が裂けたようになっていてこの岩と岬の間をベルケイ(裂けたところ)といったのをベンケイとなまったとも、ここをベニツケウと称し、その形が獣の背に似ているところから付けられたとも、言われているそうです。


弁慶と牛若丸の絵が…


