5.今川家① 1000石,6.品川家⑥ 300石[元1500石]



今川家は足利義氏の子である吉良長氏の次男国氏が三河国幡豆郡今川庄(愛知県西尾市)に居住し、今川氏を名乗ったのに始まります。
今川氏が守護大名として頭角を現したのは、国氏の子基氏を経てその子範国の代で、足利尊氏に属して南北朝の争乱で戦功を挙げ、駿河・遠江守護となりました。その子範氏も駿河遠江守護職を受け継ぎましたが父に先立って没し、駿河守護職は範氏の嫡男氏家に受け継がれたものの、その氏家も早世してしまいました。そこで範氏の弟貞世(了俊)の子義範(後の貞臣)に駿河守護職を譲ろうとしましたが、了俊が固辞したため、氏家の弟で当時鎌倉の建長寺に入っていた泰範が還俗して駿河守護職を継承し、九州探題として活躍していた貞世(了俊)の系統は遠江国堀越を本領とし、遠江今川氏(のち堀越氏)として存続しました。
泰範の跡は範政が継ぎましたが、その後嗣をめぐり争いが起こり、結局彦五郎範忠が継ぐことで決着しました。範忠は永享の乱・結城合戦等で軍功を挙げ、将軍義教から「今川氏を天下一名字にする」という恩賞を与えられ、以後今川一族はその居所を名字とするようになります(小鹿・瀬名・堀越等)。範忠の跡を継いだ義忠は遠江守護で応仁の乱に際し西軍へと属した斯波氏への対抗上、東軍細川勝元方に参じました。そして斯波氏に通じた国人領主横地・勝間田氏との戦いの最中、その一党に夜襲を受け命を失ってしまいました。義忠の嫡子竜王丸は六歳と幼く、一族の小鹿範満を推す一派との抗争が始まってしまいました。この時は、竜王丸の母北川殿の兄伊勢新九郎(北条早雲・伊勢宗瑞)の仲介で竜王丸が成人するまで範満が家督を代行することで決着したものの、竜王丸が十七歳になっても範満が家督を譲らなかったため、長享元年(1487)北条早雲は範満を攻め、竜王丸こと氏親が家督を相続します。氏親は検地の実施や分国法の制定など内政の整備を進めるとともに、戦国大名への脱皮を果たしました。
氏親の没後は、長男氏輝が家督を継ぎますが、氏輝も若くして死んでしまい子どもがなかったため、出家していた弟二人、氏親の三男玄広恵探と五男梅岳承芳が家督を争うことになりました。(花倉の乱) 恵探が側室腹であるのに対し、承芳は氏親の正室中御門氏(寿桂尼)から生まれているため、承芳側が勝利し、還俗して義元を名乗り家督を継ぎました。義元は太原崇孚の補佐の下、三河・尾張にまで領地を広げ東海の覇者となりましたが、永禄3年(1560)西上の途中、尾張国桶狭間にて織田信長に敗死してしまいました。その後、義元の子・氏真が家督を継ぎましたが、西からは徳川家康、北からは武田信玄の攻撃を受け、永禄11年(1568)には駿府を追われ掛川城へと逃げ込みましたが、そこも守りきれず妻の実家後北条氏を頼って小田原へ逃れ、戦国大名としての地位を失いました。氏真は、後に徳川家康を頼って五百石の知行を与えられ、慶長19年(1614)に没しました。
氏真の跡は、その子・範以(もち)が先立っていたため孫の直房が継ぎました。直房は後に高家に就任し、江戸幕府の儀礼に携わりました。以後、今川家は表高家(高家に就任できる家柄)として続き、幕末期の当主・範叙(のぶ)は高家としては異例の若年寄を兼任しました。とはいえ若年寄への就任は鳥羽伏見の戦い以後であり、その任務は実際の政務というよりも、従来朝廷との交渉に当たってきた高家の中から新政府との交渉に当たらせようとしたものと考えられます。また明治維新後は旧幕臣から朝臣となった者の触頭を務めるという名誉にも預かっていますが、経済的な困窮に加えて嫡子・淑人(明治5年没)を失った精神的な打撃も被り、明治13年(1880)には家屋敷を手放し森角蔵という士族の家に居候するまでに没落しており、明治20年(1887)の範叙の死によって、足利一族の名門・今川家は断絶したのでした。
嫡流の今川家が江戸時代高家として存続したように、その他の今川一族も江戸幕臣・旗本として存続していました。氏真の次男高久は、今川の名字は嫡流に限るということから、居所であった江戸品川から品川氏を名乗り、品川氏の直系は千五百石(のち三百石)の高家として、高久の次男・高寛の系統は二百石百俵の旗本として存続しました。
9.上杉家② 1496石、12.畠山家⑩ 3100石



上杉家・畠山家は室町幕府の管領を務めた畠山家の分家で代々能登守護を務めた家柄です。
畠山家は足利義兼の長男義純から出ています。義純は足利義兼の長男ですが、母が遊女だったので庶子とされ、父は従兄弟に当たる新田義兼の娘のもとに義純を入り婿させ新しく一家を興させました。こうして、血統的には足利氏だった義純は、新田党の一員となり、「岩松次郎」を名乗りました。
ところが、元久2年(1205)武蔵畠山の領主畠山重忠が北条義時に攻められ戦死すると、北条政子・義時の妹である故重忠の未亡人のもとに義純を再入婿させ畠山氏の名跡を継がせることとなりました。義純は結局この提案を受け入れ、新田義兼の娘岩松女子と離婚し、重忠の未亡人と再婚し「畠山三郎」と名乗りました。
義純が新田義兼の娘岩松女子と離婚すると、岩松女子との間に生まれた長男時兼・次男時朝は生母岩松女子のもとに残されたため、岩松女子の母で新田義兼の未亡人だった新田尼は彼らを哀れみ新田荘内の諸郷を分け与えられました。こうして義純の子時兼を祖とする岩松家は新田党の一員となり、子孫は没落した新田宗家に変わり新田荘の領主となり、江戸時代には交代寄合となりました。
一方、畠山家を継いだ義純と妻北条氏との間に生まれた泰国、そして時国は足利本宗家からは一応独立した御家人としての地位を与えられていたようです。南北朝期には高国が足利軍の一翼を担い、その子国氏が奥州探題となり、子孫は二本松城主として戦国期に至ります。
高国流が奥州下向後は、弟貞国の孫・国清が惣領家となり、紀伊・和泉・河内など諸国の守護を務め、関東執事も務めますが、鎌倉公方・基氏の勘気を蒙って没落しました。国清の弟・義深(よしふか・よしみ)は兄が蓄電した時に兄と別れ、後に京都の幕府に召し出され越前守護に補任され、その子基国は河内・紀伊・能登・越中等の守護となり、侍所頭人そして管領へと抜擢され、畠山家は管領家へと昇格しました。
基国が没した時、嫡子満家は前将軍足利義満の怒りに触れ蟄居していたため、弟の満慶(みつのり)が家督を相続しましたが、翌年義満が没すると満慶は将軍義持に家督を辞退し、兄満家に譲ることを申し出認められました。満家は弟に感謝し、畠山家の守護分国の内能登一国を満慶に与え、能登畠山家が成立しました。以後、能登畠山家は代々相続されていましたが、応仁の乱では畠山持国・義就父子を支持し、西軍(山名方)に属しました。文明9年(1477)義統(よしむね)は分国の能登に下り、在国して支配体制の再編・強化に努めました。その後、内部での抗争もありましたが、支配の拠点として七尾城を築き、戦国大名へと変貌していきました。戦国中期の義総の代は政治的安定がもたらされましたが、義総の死後は一族・重臣間の抗争が相次ぎ、義続(よしつぐ)・義綱父子による領国再建の努力も重ねられましたが、永禄9年(1566)重臣によって義綱父子は能登から追放され、幼少の義慶が擁立され、以後は義慶(よしのり)・義隆を傀儡として長・遊佐・温井・三宅らの重臣達が主導権争いを演じることとなり、天正4年(1576)義隆が急死を遂げ、翌5年(1577)には上杉謙信により七尾城は陥落し能登畠山家は滅亡することとなりました。
義続の次男で義綱の弟・義春は、天文22年(1553)に人質として越後国へ赴き、のち上杉謙信の養子となって上杉を称し、さらに越後上杉氏の一門上条上杉氏の名跡を継ぎ上条と称しました。謙信の没後は上杉景勝に仕えますが、のち豊臣秀吉、さらに徳川家康に仕え、姓を畠山に復しました。『寛政重修諸家譜』等では義春が上条上杉氏の養子となり上条政繁と改名したとされていますが、最近は政繁は義春の養父で別人という説が有力となってきているようです。
義春の長男・景広の子孫は米沢藩上杉家に仕え代々米沢藩士として続きました。また二男・長員は上杉謙信の恩を受けたことを思い上杉を称し、徳川家康に仕え江戸幕臣旗本となり下総・常陸国内にて1490石余の采地を賜う。二代・長貞の代に奥高家となり、以後長之・義寿・義長と奥高家を務め維新を迎えました。
義春の遺跡は三男義真(ざね)が継ぎ、3120石余の采地を賜い、義真の子・義里の代には奥高家となりました。以後、義寧・義紀・義宣・義勇と奥高家を務め、義真・義宣は高家肝煎を務め、維新まで続きました。
17.大友家③ 1000石



大友家の祖は、鎌倉初期の御家人・能直(よしなお)で、相模国大友郷(神奈川県小田原市東大友・西大友・延清)を本貫としたことに始まります。能直の出自は、従来源頼朝の庶子説が一般的に流布されていましたが、近来はそうした見方は克服され、藤原秀郷の末裔である古庄(近藤)能成(よししげ)と西相模の豪族波多野氏の娘である利根の局との間に生まれ、源頼朝の腹心といわれる中原親能の猶子となったとされています。名字の地となった大友郷は母方の波多野氏の所領の一つであり、古庄氏は波多野氏の波多野庄の東に連なる古庄(神奈川県伊勢原市)の在地勢力でした。
能直は、文治4年(1188)に17歳で破格の左近将監に任ぜられ、奥州征伐にも従い、曾我兄弟の仇討ち騒ぎのあった富士裾野の巻き狩りで頼朝の身辺を守って信頼を得、豊前・豊後守護兼鎮西奉行に任ぜられるなど異例の昇進を遂げています。これは養父中原親能の威光であるとも、能直が頼朝の寵童であったともいわれますが、こうしたことが後に頼朝の庶子と言われるようになった所以と言えるかもしれません。
初代能直や二代親秀が豊後国に一時的に下向したことはありましたが、ほとんどは京都や鎌倉に在住し、実際に豊後へ下向したのは三代頼泰の時と思われます。これは蒙古襲来に備えるもので、頼泰は鎮西奉行として御家人・非御家人を統制することになり、鎮西にて重きをなすこととなりました。六代貞宗の頃、元弘3年(1333)には鎌倉陥落を受けて少弐氏・島津氏らと鎮西探題北条英時を自刃せしめ、足利尊氏より感状を与えられました。
南北朝の動乱期には、貞宗の子たちも南朝方・北朝方に別れ、北朝方についた五男氏泰、末子氏時が家督を継ぎました。氏時の子も、氏継が南朝方、親世が北朝方となり所領の維持に努めました。その後、大友家は氏継の子親著(ちかつぐ)流と親世流に別れ、交互に当主の座につくことになります。親繁からは親著流に一本化され、家臣団と支配体制の整備・強化しました。
応仁の乱後、十七代義右(よしすけ)が家督を継ぎますが、父政親と不和となり、明応5年(1496)に病死しますが、父によって毒殺されたと伝えられています。政親も筑前に逃れる途中、大内氏に捕らえられ自害させられ、大友氏は滅亡の危機に追い込まれます。この事態を収拾したのが政親の弟親治で、幕府から大友家当主の承認は得られませんでしたが、大友家当主として実績を積み、子息親匡(ちかまさ)は将軍義高(義澄)から豊後・豊前・筑後国守護職を安堵され、「義」の一字を賜って義親(のち義長)と称しました。義長の子義鑑(よしあき)は豊後・筑後・肥前国守護職に補任され、周防大内氏・肥後菊池氏と戦い、その子義鎮(よししげ)(宗麟)の代には豊前・筑前・肥前にまで進行し九州全域を視野に入れました。
しかし天正6年(1578)日向耳川で島津軍に大敗し、大友領国は瓦解寸前となったのを豊臣秀吉の九州征伐によって救われ、かろうじて豊後一国のみの豊臣大名に成り下がってしまいました。その子義統(よしむね)(吉統)にいたっては、文禄の役での戦線離脱により改易処分となり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には再起をかけ旧領豊後で挙兵したものの、黒田孝高(如水)の軍門に服し、常陸宍戸にて幽閉の身のまま生涯を閉じました。
義統の子義乗は徳川家康に召し出され、3300石の幕臣旗本として取り立てられましたが、その子義親の代に無嗣絶家となってしまいました。しかし義乗の妹佐子の局(佐古局)が東福門院(二代将軍秀忠の娘で後水尾天皇の中宮)に仕えていた縁で、甥義孝(義統の三男で肥後細川家家臣松野正照の三男)を養子として家名再興となり、寄合から表高家に列し1000石の幕臣旗本高家として復活しました。以後、義孝・義閭(さと)・義珍(たか)・義方(まさ)・義路の五名が奥高家を勤め、義珍(たか)は高家肝煎を勤めました。幕末維新期の当主義敬(とし)は維新後朝臣に列し中大夫席を与えられ、のち東京府貫属士族に編入されました。
22.京極家④ 1500石



京極家は宇多源氏の流れをひく近江の佐々木氏の一流です。近江の佐々木氏というと源平時代に源氏の武将として活躍した佐々木秀義とその息子たち(定綱・高綱・盛綱など)が有名ですが、京極家の祖は定綱の子信綱の四男氏信にまで遡ります。氏信は信綱から京都の京極高辻にあった屋敷を伝領したところから京極氏と呼ばれました。佐々木氏の惣領となったのは氏信の兄の三男泰綱(六角家)で、残りの二人の兄重綱・高信はそれぞれ大原・高島家の祖となり、佐々木氏は惣領家の六角家に大原・高島・京極の三庶子家に分かれました。
氏信と子宗綱は鎌倉幕府の引付衆を務め重用されていましたが、宗綱の子祐信・時綱・貞宗が相次いでなくなり京極家は断絶の危機に見舞われました。そこで貞宗の従兄宗氏が後見を務め、宗氏の子高氏が京極家を継ぎました。高氏(道誉)は南北朝の内乱期にはいち早く足利高氏のもとに馳せ参じ、室町幕府では要職を歴任し若狭・近江・出雲・飛騨・上総の守護を歴任し、惣領家六角家の権勢をしのぐものとなりました。高氏の長子秀綱、次子秀宗、そして秀綱の子秀詮・氏詮は南北朝の争乱で戦死したため、跡を継いだのは三子高秀でした。高秀は評定衆、さらに侍所所司を務め、以後京極家がこの職に就く先例となりました。その後京極家は飛騨・出雲・隠岐の守護職を務めて大いに勢威を振るいました。
応仁の乱では持清は東軍に属し、高氏以来百三十年ぶりに近江守護職に補任されました。しかし、持清の嫡子勝秀は若くして陣没し、その子・孫童子が家督を継ぐと、孫童子を擁する京極政経・多賀高忠と孫童子の弟・乙童子を擁する京極政光・多賀清直の二派に別れ争うことになりました。この争いの中、孫童子が没すると、乙童子改め高清が家督を継ぎますが、叔父政経・材宗(ただむね)父子との対立は続き、その支配は不安定なものでした。その後材宗の挙兵が失敗したことで、一族の争いが収束したのも束の間、今度は高清の子高広(高延・高峯)と高佳(高慶・高吉)の間で争いが起き、京極氏が衰退していく中で、出雲は守護代尼子氏に簒奪され、北近江は家臣浅井氏が台頭していくことになります。
高佳の子高次は織田信長に仕え、高次の妹(松の丸殿)が豊臣秀吉の側室となることで織豊大名として生き残り、関ヶ原の戦いの後は若狭小浜9万200石を与えられました。高次の子孫は出雲松江藩主→讃岐丸亀藩主として江戸時代を生き抜いていくこととなります。
一方、高次の弟高知も厚遇され、まずは義父毛利秀頼の遺領を継ぎ信濃飯田6万石、後10万石に加増され、最終的には丹後宮津12万3000石の大名となります。高知の没後は領地が三分され、宮津に嫡子高広、田辺に庶子高三、峰山に猶子高通が配され、高広は7万8200石を領しました。高広は悪政を敷いたと言われ、隠居し子高国が藩主となりましたが、その後も藩政に介入した父高広と対立し、寛文6年(1666)親子不和や悪政を理由に改易され、高広は京都に閑居し、高国は盛岡藩南部家に、嫡子高(たか)規(のり)は津藩藤堂家に預けられました。高規は延宝8年(1680)に赦免され、元禄3年(1690)には召し出され稟米2000俵を賜い寄合に列し、同8年(1695)には高家に列しのち采地2000石に改められました。同家は以後、二代高甫(たかすけ)・三代高本・六代高以(たかゆき)・八代高福が奥高家を務め維新まで続きました。
11.吉良家(旧姓蒔田)⑤ 1425石


吉良家(旧姓・蒔田)は吉良上野介の吉良家の同族で、足利義氏の長子・長氏を祖とします。長氏は嫡出子ではないため別に一家を立て、三河国幡豆郡吉良荘の地頭職を譲与され、吉良氏を名乗ることになります。
吉良荘はのちに西条と東条に二分され、西条は長氏が領し、東条は長氏の弟・義継が領したため、義継も吉良氏を名乗り、長氏の系統を西条吉良、義継の系統を東条吉良とも称しました。長氏の子孫は応仁の乱以降は三河に在国し、のちに幕臣高家となり吉良上野介義央につながりますが、義継の子孫は経氏・経家と続き、南北朝期の貞家は、本家の貞義・満義父子と行動を共にし、建武の新政では成良親王を奉じて鎌倉に下向した足利直義に同行し、建武元年(1334)成良親王警固のための関東廂番が設置されると、三番の頭人に補任されています。その後も因幡但馬守護、評定衆、引付方二番頭人となるなど初期の室町幕府を支えました。貞和元年(1345)貞家は畠山国氏とともに奥州管領に任ぜられて下向し、北畠顕信らの南朝方と戦いました。観応の擾乱では直義方に付き、尊氏方の畠山国清・国氏父子と対立し、観応2年(1351)には岩切城の戦いで畠山父子を自刃させました。その後は南朝方の拠点を陥落させ、奥州管領としての地位を強固なものとしました。貞家の没後は子の満家が新たに下向した斯波家兼と管領となりましたが、畠山国氏の子国詮、初代管領石塔義房の子義元も管領を称し、奥州四管領時代といわれる混乱期を迎えました。その中で吉良家は後退を続け、満家と子治家は鎌倉府へと戻り、完全に奥州から撤退することとなりました。
治家の子孫は、その後鎌倉公方一家として出仕を続け、武蔵国世田谷・蒔田を領し「世田谷殿」と呼ばれ、戦国期には後北条氏の庇護を受けました。氏朝・頼久の代には江戸幕臣となり1120石余を賜い、吉良の家号は一家のみ(三河吉良家)として蒔田(まいた)に改めました。義成の代には高家に列し、その子義俊の代には三河吉良家が断絶したため、家号を吉良に改め1420石を知行しました。奥高家となったのは義俊・義豊の二代だけでしたが、高家の家格をもって維新まで続きました。
26.武田家⑦ 500石



武田氏は清和源氏の名門で、武田氏を含む甲斐源氏の祖・新羅三郎義光は八幡太郎義家の弟となります。義家・義光兄弟の祖父源頼信が甲斐守に任ぜられたことから、源氏と甲斐国の結びつきは始まります。
義光は近江の園城寺(三井寺)の鎮守、新羅明神の社前で元服したため新羅三郎と称しましたが、後三年の役の際に兄義家を助けて乱を平定し、その功により刑部丞に任ぜられ、その後常陸介・甲斐守等を歴任しました。
義光の子は義業が常陸佐竹氏の祖に、盛義が信濃平賀氏の祖、そして義清が甲斐源氏の祖となりました。義清は初め常陸国吉田郡武田郷に住し武田冠者と呼ばれていましたが、土地の豪族吉田氏との抗争に敗れ、息子清光と共に甲斐国市川荘に配流となりました。義清は、やがて市川荘の荘官となって土着し、その子孫は甲斐国内に広がり甲斐源氏と呼ばれるようになりました。
義清の子清光は逸見冠者と呼ばれて大勢の子をもうけ、長男光長が逸見を継ぎ、二男信義が武田氏を起こし、その弟等から小笠原・南部・秋山・一条・甘利・板垣等の諸氏を輩出しました。治承4年(1180)の源頼朝の挙兵には一族をあげて参加し、武田信義を惣領とする甲斐源氏は頭角を現しましたが、かえって頼朝の疑いを受けるところとなり、信義が駿河守護の地位を追われ、息子忠頼を謀殺されるなどして、頼朝の覚えの好かった忠頼の弟信光の系統が武田氏の本流となっていきました。信光はその後、承久の乱でも大功をあげ、安芸の守護に任じられ、武田氏の分流は安芸や若狭にも広がっていくこととなりました。
南北朝時代から室町時代に入ると、武田惣領家は足利尊氏と結び甲斐守護職を引き継いでいましたが、応永23年(1416)信満の娘婿である上杉氏憲(禅秀)が起こした禅秀の乱に巻き込まれて信満が敗死すると、甲斐は有力国人の逸見有直に押領されてしまいます。その後、信満の弟信元、信満の子信重が甲斐守護となり復帰することができましたが、甲斐国の実権は逸見・跡部等の国人が握っており、守護代跡部氏を倒し、武田氏の権威を回復したのは信重の孫信昌の代でした。
その後も国人層との抗争に明け暮れたものの、信昌の孫信虎の頃には戦国大名として脱皮し、甲斐国内統一を成し遂げました。
そしてその父信虎を追放して惣領となった晴信(信玄)の代には甲斐から隣国の信濃・上野・駿河・遠江・三河にまで進出し、天下を窺うまでになりました。しかし、駿河の今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、同盟国であった今川家の駿河に進出しようとする信玄とそれに反対する嫡男義信との対立が激化し、義信は廃嫡され幽死しました。そして三方原の合戦で織田・徳川連合軍に大勝、三河から織田領を望もうというときに発病し元亀4年(1573)に病没しました。その跡を継いだ四男勝頼は再び三河まで進出したものの天正3年(1575)長篠の戦いで大敗北を喫し、その後は次第に後退し、ついに天正10年(1582)姉婿である木曽義昌の離反に端を発して織田軍の侵攻を受け、3月11日天目山下の田野にて夫人、嫡男信勝等と共に自刃し甲斐武田氏は滅亡しました。
しかし、その後も生き残った武田氏の血統は意外に多く、現在まで続いています。その中でも嫡流と目されているのが信玄の二男・海野龍芳(信親)の子孫高家武田家です。龍芳自身は武田氏滅亡の際に自刃して果てていますが、一子・信道を逃れさせ、信玄の御伽衆の一人であった長延寺実了という僧侶に預けました。信道は長じて出家し顕了道快と称し、師の跡を継ぎ長延寺の住持となり、武田の遺臣である大久保長安の庇護を受けていました。しかし慶長19年(1614)長安の没後、生前の不正行為や謀反の疑いでその一族等が罰せられると、顕了道快も連座し、息子信正等と伊豆大島に配流されてしまいました。
顕了道快は寛永20年(1643)に大島で没し、信正が赦免されたのは寛文3年(1663)のことでした。信正は赦免後、武田旧臣の子孫である陸奥磐城平藩主内藤忠興の食客となり忠興の娘を妻に迎え息子信興をもうけました。
信興は、武田旧臣の子孫である側用人柳沢吉保の保護を受け、元禄13年(1700)旗本寄合席に列し500石の知行を賜りました。武田家が奥高家に任ぜられたのは三代信明の代で安永9年(1780)のことでした。以後、信典・信之・崇信と高家を務め、信典・信之は高家肝煎を務め、崇信の代に維新を迎えることになりました。
大正3年(1914)、武田信玄が贈位され従三位に叙せられた際に、その位記宣命を手渡すべき正統の子孫を捜していたところ、武田信玄の末裔を名乗る多くの人物が現れ、調査の結果、最後に信玄の末子信清の子孫である米沢武田家とこの高家武田家が残り、高家武田家が正統の子孫として認められ、その子孫・武田信保氏に授けられたとのことです。
ちなみに現当主は信保の孫・邦信氏ですが、その長男・英信さんは甲府市職員となり、数百年ぶりに武田家が甲斐に戻ってきたと話題になったそうです。
4.土岐家㉘ 1000石:断絶,7.土岐家⑧ 700石



土岐家は清和源氏の出ですが、頼朝や足利・新田・武田等の源頼信・頼義の河内源氏の流れでは無く、頼信の兄・頼光の摂津源氏の流れになります。
清和源氏の祖・源経基が美濃守に任ぜられたのが源氏と美濃を結びつけた始めですが、その後経基の満仲、その子頼光・頼信兄弟、頼光の子頼国と相次いで美濃守となり、それ以降は頼国の子孫が在地土豪として美濃国内に広がっていきました。頼国の子頼綱の子孫は山県郡に、頼綱の弟国房の子孫は厚見郡から土岐郡へ、満仲の弟満政の一族は方県郡へと、多くの源氏が美濃に土着していきました。
国房の子孫は土岐郡を基盤として私領を広げ、光衡の代には源頼朝の御家人となって承久の変後は美濃国守護となりました。これ以降は美濃源氏の中でも光衡の子孫が勢力を強め、南北朝期の頼貞は足利尊氏に従って鎌倉幕府を討ち美濃守護となりました。頼康の代には尾張・伊勢を合わせ三国の守護となり、養子の康行も三国守護を引き継ぎました。しかし三代将軍義満の宿老の勢力削減策によって幕府より謀反人として征討され、代わって庶流池田家の頼忠が美濃守護となり、以後はその子孫が美濃守護を継承し、美濃国内の武士たちを家臣としていきました。その後は守護代斎藤氏の実力もあって美濃国は安定していましたが、成頼の跡目を嫡子政房と末子元頼で争い、また政房の子の頼純・頼芸(なり)兄弟の争いもあって守護家の声望は衰え、兄頼純を国外に追った頼芸も家臣斎藤道三に美濃国から追われ、越前・甲斐・上総を流浪しました。
頼芸の嫡子頼栄(よし)は父の勘気を受けたため二男頼次が嫡子となり、弟頼元とともに豊臣秀吉、次いで徳川家康に仕え江戸幕臣となりました。頼次の子頼勝の代には五百石加増されて千石となり高家に列しました。しかし五代頼泰は「常々も行跡よろしからざるのところ、さきに酒狂し往来の者に疵つけしこと、不法のいたりなりとて、酒井監物忠告にながく召預けらる。」とのことで改易断絶となってしまいました。
一方頼次の弟頼元の系統も千石を知行し(後分知して七百石となる)、孫頼長の代には高家に列し、幕末の修理大夫頼永は高家肝煎を勤め、維新まで続きました。
15.畠山家⑨ 5000石



畠山家は9.上杉家、12.畠山家の本家で室町幕府の管領を務めた家の末裔です。
畠山家は足利義兼の長男義純から出ています。義純は北条政子・義時の妹であり畠山重忠の未亡人の婿として畠山氏の名跡を継ぎ「畠山三郎」と名乗りました。
畠山家を継いだ義純と妻北条氏との間に生まれた泰国、そして時国は足利本宗家からは一応独立した御家人としての地位を与えられていたようです。南北朝期には高国が足利軍の一翼を担い、その子国氏が奥州探題となり、子孫は二本松城主として戦国期に至ります。
高国流が奥州下向後は、弟貞国の孫・国清が惣領家となり、紀伊・和泉・河内など諸国の守護を務め、関東執事も務めますが、鎌倉公方・基氏の勘気を蒙って没落しました。国清の弟・義深(よしふか・よしみ)は兄が逐電した時に兄と別れ、後に京都の幕府に召し出され越前守護に補任され、その子基国は河内・紀伊・能登・越中等の守護となり、侍所頭人そして管領へと抜擢され、畠山氏は細川氏・斯波氏と並ぶ管領家へと昇格しました。
基国が没した時、嫡子満家は前将軍足利義満の怒りに触れ蟄居していたため、弟の満慶が家督を相続しましたが、翌年義満が没すると満慶は将軍義持に家督を辞退し、兄満家に譲ることを申し出認められました。満家は弟に感謝し、畠山家の守護分国の内能登一国を満慶に与え、能登畠山家が成立しました。満家の跡を継いだ持国は、永享13年(1441)将軍義教から結城合戦討伐を命ぜられたが拒否して没落し、畠山の家督は弟持永に与えられたが、のちに持国が家督に復帰し山城守護の座も得ました。
持国の実子義就は妾腹であったため、弟持富が後継に決まっていましたが、文安5年(1448)持国は義就を相続人としたため、畠山家の家臣団は義就派・持富派に分裂しました。持富の後はその子弥三郎(政久)、その弟の政長が義就と対立、のちの応仁文明の乱へとつながっていきました。政長が家督となっても義就は実力で山城・河内を抑え、義就死後の明応2年(1493)、将軍義材が河内出陣を行おうとしましたが、管領細川政元のクーデターを起こし、政長は敗死、その子尚順(なおのぶ)は紀伊に逃げ、義就の子基家(義豊)が家督に復しました。その後も両畠山家の内訌は戦国末期まで続き、義就の孫義英が政長の孫稙長に敗れ河内高屋城を失ってからは、義就系の畠山総州家は大和の一地方勢力と化し最後の当主尚誠の消息は不明です。
一方、政長系の畠山尾州家もその頃には重臣の遊佐氏の傀儡となっており、稙長の後、家臣遊佐氏・安見氏らによって当主はすげ替えられ、天正2年(1574)昭高が遊佐信教の謀反によって自殺すると畠山氏は没落し、昭高の甥貞政の子政信は徳川家に仕えて幕臣となりました。政信の子基玄(もとはる)の代に奥高家となり、以後、基祐・国祐・国祥・基利・基徳と奥高家となり、基玄・国祐は高家肝煎を務めました。また基玄の弟二人からは分家の旗本家を出し、貞政の弟政能の子孫は、徳川家康の外孫(長女亀姫の子)松平下総守忠明に仕え、忍藩士として維新を迎えました。
23.最上家㉜ 5000石


最上家は国主並の「屋形」号を許されている清和源氏の名門で、足利氏の支流斯波氏の分家で、南北朝初期に奥州北朝方の四探題の一人として(他の三探題は、吉良・畠山・石塔の三氏でいずれも足利氏の分族)奥州に下向し、「大崎氏」を称した斯波高経の弟・家兼に遡ります。
最上氏の祖・兼頼は家兼の二男で、羽州探題として最上郡山形に入部し「最上氏」を称しました。二代直家は屋形号を許され「最上屋形」と称しましたが、以来、最上氏は庶子を各地に分封し、広範な惣領制を敷いて統治しました。室町中期以降は、伊達氏の武威が強大となり、義定の頃は最上宗家は伊達の傀儡政権化し、これを不満とする一族・国人衆の反抗が相次ぎました。
義守の代には、長男・義光との不和が表面化し、義守は次男・義時の相続を画策しましたが、宿老氏家伊予守の諫言によって義守の隠居、義光の相続が実現しました。
義光(あき)は、当主の座に着くと一族・諸将に対する統制を強めたため、弟・中野義時を擁する反主流派が蜂起し一進一退の合戦が繰り広げられた。和解後は、反旗を翻した一族に対し怨みを抱き、中野・天童・東根・上山等の一族を次々に粛清して滅亡させていきました。
豊臣秀吉の全国統一以降は、出羽山形24万石を領し、関ヶ原合戦後は57万石(52万石とも)の大封を領することになりました。彼は、娘の駒姫を秀吉の養子秀次の側室に差し出したり、次男の家親を徳川家康に仕えさせたりと、家を保つための努力をしましたが、それが裏目に出て、駒姫は秀次に連座して斬殺され、長男義康は讒言され高野山で害され、跡を継がせた次男家親も36歳で変死を遂げました。
家親の跡はその子・義俊が継ぎましたが、最上一族の長老達のやまざる派閥抗争が原因で、元和八年(1622)最上家は改易され、義俊は近江に移され1万石を領しました。また、義俊も26歳の若さで死去し、跡を継いだ義智が2歳だったため、三河の5000石は削られ、近江の5000石を以後代々領し近江大森に陣屋を構えました。義智は元禄8年(1695)高家となりましたが、最上家から高家に登用されたのは義智一代だけで、次代の義雅以後は交代寄合表御礼衆として、明治を迎えました。
現在でも御子孫は滋賀県(旧近江国)に在住とのことです。
13.織田家⑬ 700石、16織田家⑫ 2000石、24織田家⑪ 2700石








この織田家三家は戦国の覇者織田信長の末裔となります。織田氏の系図の多くはその祖を桓武平氏の平清盛の孫資盛とし、その遺児親真が近江国津田郷に匿われていたところ、越前国織田荘の織田明神社の神官がもらい受け養子としたとしていますが、これについては現在は後世の創作だろうとされています。
では実際の織田家の出自はとなると、二つ説があり、一つ目は藤原氏説です。
現在、織田剱神社に明徳4年(1393)の藤原信昌・同兵庫助将広父子の仮名置文が所蔵されており、この信昌・将広が織田家の先祖と考えられること、また永正15年(1518)尾張守護代織田達勝が出した禁制に「藤原達勝」とあること、天文18年(1549)織田信長が出した制札にも「藤原信長」ということから、もともとは藤原姓だったのではないかと考えられるというものです。
もう一つは忌部(いんべ)氏説で、忌部氏はもともと中臣氏(藤原氏の祖)とともに朝廷の祭祀を司り、各地に広がったが、8世紀には中臣氏に圧されて没落してしまった氏族です。その一族が織田明神の神主となり、織田氏の祖となったというのです。
織田氏が越前国織田荘(現福井県越前町織田)の荘官であり、織田剱神社の神官であったのは間違いなく、その後越前の守護斯波氏の被官となったと思われます。それは上記の将広、達勝、あるいは郷広、敏広、寛広など織田家の人々の名乗りが、歴代斯波氏の当主(義将、義郷、義敏、義寛、義達)の偏諱を受けていることからも想像できます。
その後織田氏は尾張に移って尾張守護代を務めるようになり、岩倉城に拠って尾張上四郡を領する伊勢守家と清須城に拠って尾張下四郡を領する大和守家の二流に分かれます。信長の家は、この大和守家の三老臣(織田藤左衛門・同因幡守。同弾正忠)のうちの一家に過ぎませんでした。
諸系図では信長の祖父信定(信貞)が清洲の守護代である大和守敏定の子とされていますが、信長も父信秀も、また祖父信定も弾正忠を称していますので、文明14年(1482)の清洲宗論の史料に敏定の三老臣の一人として出てくる織田弾正忠(弾正左衛門)良信が信定(信貞)の父であろうといわれています。つまり織田弾正忠家の歴代を示すと「良信―信定(信貞)―信秀―信長」となるようです。さらに良信の前の代となると備後守敏信ではないかとか、次郎左衛門尉敏貞ではないかとかいろいろ説があり、はっきりしません。いずれにしても信長の生まれた織田弾正忠家は織田氏の傍流大和守家のさらに傍流であったのは間違いないようです。
弾正忠家は勝幡(しょばた)城を居城としていましたが、そのすぐ近くに津島湊があって、そこの経済力をもとに力を付け、信秀の代には主家である大和守家を凌駕し、信長の代には尾張を統一し、さらに天下取りへと邁進していきます。しかし信長の本能寺での死により、天下は秀吉のものとなり、信長死後家督を継いだ嫡孫(信長の長男信忠の子)三法師は秀信と名乗り、岐阜城主として13万3000石を領するも、関ヶ原の戦いで西軍に属し、居城岐阜城を落とされ、のち高野山にて不遇の死を遂げ織田家嫡流は断絶してしまいます。
江戸期に大名として残ったのは信長の二男信雄の子孫である出羽天童藩・丹波柏原(かいばら)藩と信長の弟長益(有楽斎)の子孫である大和芝村藩・同柳本藩だけで、いずれも1~2万石の小大名となってしまいました。
高家となったのは三家あり、まずは信長の九男の信貞の系です。信貞は本能寺の変の際はまだ幼く、のち秀吉に属して近江国内で1000石を領し、関ヶ原後は家康に仕えました。その子貞置は寛文3年(1663)奥高家となり、以後貞置・長迢・長説・信由・信順・信恭が奥高家を務め、そのうち信由・信順・信恭は高家肝煎を務め、維新まで続きました。
続いて高家となったのは信長の七男信高の系で、信高は本能寺の変後、秀吉に属し、羽柴姓を称して2000石余を知行し、関ヶ原後は弟信貞と同じく家康に仕えました。高家に列したのは4代信門の時で元禄元年(1688)でした。以後、信門・信倉・信直・長裕が奥高家を務め、そのうち信門・信倉は高家肝煎となり、維新まで続きました。ちなみに元フィギュアスケート選手である織田信成は、この信高系織田家の末裔と称していますが、9代信真のあとの系譜が不詳のためその真偽は定かではありません。
最後は信長の二男信雄の孫長政の系で、信雄の五男高長は父信雄の死後その遺領大和宇陀松山3万1200石を受け継ぎますが、その三男長政は兄長頼より三千石を分知され交代寄合となります。そしてその子信明の代、元禄14年(1701)に高家に列します。以後は、信明・信栄・信愛が奥高家を務め、信栄は高家肝煎を務めています。幕末の信愛は高家から陸軍奉行並・海軍奉行並を務めています。信愛の孫一磨は石版画家として知られ、東京近代美術館や江戸東京博物館・京都国立近代美術館などに作品が収蔵されているそうです。
14.由良家⑭ 3100石、19横瀬家⑮ 1000石


由良・横瀬家は戦国期に上野国太田金山城に拠った戦国大名の末裔で、新田義貞の子孫を名乗っています。新田義貞死後家督を継いだ三男義宗は、父と同様足利勢との戦いに明け暮れ、各地を転戦し、最後は関東管領上杉憲顕軍に破れ、義宗は越後村松郷で戦死しました。
義宗の嫡男貞方も各地を転戦しましたが、破れて地下に潜伏し、鎌倉府に探知されて捕縛され、応永16(1409)年または翌17(1410)年斬死し、新田党の組織的な抵抗はこれをもって途絶えました。
貞方の弟貞氏は父義宗が討たれたとき、未だ幼少で、家臣の横瀬時清に養われ、のちその婿となって横瀬を称したと伝えられています。ただ、横瀬(由良)氏が新田氏の子孫というのは仮帽で、後に主家新田岩松家の威勢を越えた際に主家の家系を詐称したものと思われ、もともとは武蔵七党の小野姓猪俣党のようです。猪俣党の甘糟光忠の子惟忠が横瀬を号しました。
横瀬氏は、四代国繁の代には岩松家の執事としての位置を確立し、その後は主家・岩松氏をしのぐようになり、八代成繁の頃には主家に変わって金山城主を務めるようになり、先祖・新田政義が新田庄由良郷内に住んで由良を号したという家伝にもとづき、由良氏を称するようになりました。その後は、上杉氏、ついで後北条氏に属して、豊臣秀吉の小田原攻めの際にも、九代国繁とその実弟・長尾顕長は小田原城に籠城しました。しかし、秀吉の部将前田利家が上野国にはいると、国繁の母妙印尼は孫貞繁を連れて利家に会見し、秀吉から常陸牛久領5000石余(のち7000石余に加増)を与えられました。
その後、子貞繁が跡を継ぎ大坂の陣にも出陣します。しかし、元和7年に没した際に嗣子としていた弟貞長を正式に拝謁させていなかったため采地没収となり、改めて貞長に1000石を賜い、かろうじて家名断絶は免れました。そして子貞房の代の寛文5年(1665)に高家に列し、以後、貞房・頼繁・貞整・貞通・貞靖・貞時と奥高家を務め、貞靖は高家肝煎を務め、貞時の時に維新を迎えました。貞時は新田姓に復し、新政府の中大夫席に列せられましたが、明治4年(1871)他の旧高家衆・旧交代寄合の一部とともに士族となりました。明治維新後は、明治政府に新田義貞の嫡流であることを訴え、同じく新田氏嫡流を主張する岩松氏と対立しました。しかし、貞時・貞善・貞観(さだみ)と相次いで当主が亡くなった由良系新田氏は急速に衰退し、岩松系新田氏の新田俊純が華族に列せられ、男爵となりました。
また、その支流は貞房の子から分かれた2系統があり、横瀬を称して知行1000石で高家を務めた貞顕の系統と、200俵を与えられ旗本となった貞寛の系統が維新まで続きました。貞顕の横瀬家は、貞顕・貞隆・貞臣・貞征・貞固・貞篤が高家を務め、貞征は高家肝煎を務めました。
1.大沢家⑯ 3556石、20大沢家㉚ 2000石、21大沢家㉛ 2600石



大沢家は諸史料で初めて高家を努めた家として知られていますが、その出自は藤原北家に遡ります。藤原北家の最盛期を築いた藤原道長には多くの子がいましたが、その次男頼宗が大沢家の遠祖となります。頼宗の母源明子(源高明[醍醐源氏]の娘)は道長の嫡妻ではなく、当時現職大臣だった源雅信(宇多源氏)の娘・倫子が嫡妻とされていたので、倫子腹の頼通・教通に比べ、頼宗の昇進は遅れ、その子孫は中御門・持明院・坊門の三家に別れ、中御門流と称しました。坊門家は室町時代には断絶し、後世に伝わったのは中御門(松木)流と持明院流でした。
持明院家から分かれた一条家(摂家とは別流)からは源義朝の娘・坊門姫と結婚した一条能保が出て、頼朝の勢力拡大とともに鎌倉幕府と朝廷との連絡役として存在感を増し、能保の娘と摂家の九条良経の間に九条道家が生まれ、その子頼経が一条家を通して源氏の血を引くことから、後に鎌倉将軍なり、摂家将軍の誕生に繋がっていきますが、源氏鎮守府将軍の断絶後は、しだいに鎌倉幕府との関係が薄れ南北朝期には断絶します。一方、持明院家はその後も羽林家(近衛少将・中将から参議・中納言、最高は大納言まで昇進することのできる武官の家柄)の一つとして連綿と続きました。
大沢家の家祖は、持明院基盛の子・基長で、貞治年間(1362-1367))に基長の孫基秀が遠江国に下向して敷智郡村櫛荘の領家職を相伝し堀江城(現在の浜松市)を居所としました。その子基久の時に元の所領であった丹波国大沢村の名から大沢と号するようになったと言われています。大沢家は初め遠江守護斯波氏に従属しましたが、その後駿河の今川家に属するようになり、基胤は桶狭間の戦いの後も今川氏真に属し徳川軍と戦っていましたが、永禄11年(1568)本領安堵を条件に徳川家と和議を結び、その後は徳川家に属することになりました。
天正16年(1588)豊臣秀吉が京都に聚楽第を造営し後陽成天皇の行幸を仰いだ時に、随兵した徳川家の武将たちにも叙爵(従五位下諸大夫)させましたが、その中でも基胤の子大沢基宿(いえ)(基宥(ひろ))が従五位下侍従兵部大輔に、井伊直政が従五位下侍従兵部少輔という他の武将より高い官職の「侍従」に叙せられました。
そして慶長6年(1601)には従四位下に叙せられ、慶長8年(1603)に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた際には基宿が将軍宣下の宣旨の取次を行っています。これは家康が儀礼に通じているものを必要としており、大沢家が持明院家の流れであり、また基宿の母が木寺宮家(*)出身であることもあって、任じられたものと思われます。つまり家康が将軍に就任したことで、対朝廷の職務が必要となり高家という役職が整備されていったと思われます。その後は吉良義弥(みつ)、そして基宿の子・基重、義弥の子義冬と職務の拡大とともに人数も拡大され、高家という役職が整備されていったようです。
また基宿(基宥)の二男基定は大沢家の本流である持明院家を継ぎ、武家から公家に転じています。これは持明院基久・基征父子は豊臣家に近い関係で、大坂の陣でも豊臣方に加わり戦死を遂げていたため、断絶の危機を迎えたため、基久の養父・基孝の娘で後陽成天皇の妃の一人であった孝子(長橋局)あ徳川家に働きかけ、基定を基久の娘と結婚させることで持明院家を継承させたのでした。ちなみに28大沢家は基定の孫基禎を祖としています。
そして大沢宗家だけでなく、分家の基明・基躬(基重の孫)も一時高家に任ぜられることとなります。ただし基明家はその子基実が夭死することで断絶し、基実の従兄弟・英晴が家名を継ぐものの高家の家格は復活せず三百俵の旗本としてその後は続きました。また基躬家は正徳2年(1712)基躬が「痛所あるをもって遠国の御使をうけたまわらず。其餘の事も同僚のごとく勤仕せざるにより職をゆるされ寄合となる」とのことで表高家からは外れました。
しかし、大沢一族は多くの分家を輩出し、大いに栄えました。
大沢宗家は高家初任の家だけあって、代々奥高家を務め、高家肝煎も基恒・基之・基寿(とし)と三人が務めています。幕末期の当主・基寿も慶応3年(1867)の大政奉還の上奏文を朝廷に提出する際もその役を務めています。しかし翌慶応4年(1868)には新政府に石高高直しを申請し、実高が1万6石となったという虚偽の報告をし、それによって諸侯に列し堀江藩が成立し、明治2年(1869)には華族身分をも得ました。しかしこれは堀江領は実高5485石だが、浜名湖の湖面の一部を含め今後の開墾予定地として新田内高4521石を加え上申したもので、明治4年(1871)の廃藩置県で堀江藩が堀江県となるとこの虚偽が明らかになり、基寿は士族に格下げとなり禁固一年を命ぜられることとなりました。
その後基寿は基輔と改名し、東京でひっそりと暮らしていたようですが、明治32~34年頃に旧幕時代のことを史談会で語っていることが記録に残っています。柴田宵曲編の『幕末の武家』の中に「高家の話」として掲載されています。
*木寺宮とは、後二条天皇(後醍醐の兄)の皇子である皇太子邦良親王を祖とし、その嫡男康仁親王(光厳天皇皇太子)を初代とする世襲親王家で、鎌倉時代から室町中期まで存続したと言われています。また、康仁親王、またその子孫が遠江国に下向したという伝承があります。
27.宮原家⑰ 1140石


宮原家は、足利将軍家初代・尊氏の末子・基氏を祖とする関東公方家に始まります。足利尊氏は関東の押さえとして、初めに弟の直義、ついで長男の義詮を鎌倉府の主としましたが、貞和5(1349)年次男基氏を義詮と交代させ、以後基氏の子孫が相承しました。しかし四代持氏は六代将軍義教と対立し、永享の乱で関東公方は一時断絶することになりました。
持氏の四子永寿王丸は宝徳元(1449)年許されて関東に下向し、成氏を名乗って鎌倉府を再興しましたが、関東管領上杉憲忠と対立を深め、享徳3(1454)年憲忠を誘殺、将軍家の追討を受けることとなりました。駿河守護今川範忠らに鎌倉を攻められ、康正元(1455)年下総の古河に逃れ、以後そこを本拠とし古河公方と呼ばれることになります。成氏の子政氏は山内上杉顕定とつながりを深めましたが、政氏の子高基は政氏の態度に不満をもち、その後高基の弟義明が父に反旗を翻すと、ここに政氏・顕定勢力と高基・義明勢力の争いに発展し、関東が再び戦乱の巷と化していくことになりました。
その後、義明は高基とも仲が悪くなり、上総真里谷城主武田信勝らに奉ぜられ下総小弓城に入り、小弓御所と称しました。天文7(1538)年、義明は里見義尭と結んで、古河公方足利晴氏・北条氏綱らと下総国府台で闘いましたが、敗れて義明は戦死してしまいました。
その後晴氏の跡を義氏が継ぎましたが、その頃には公方とは名ばかりで、後北条氏の庇護のもとかろうじてその地位を保つばかりでした。しかし、天正11(1583)年義氏が没すると後嗣がなく古河公方家は断絶してしまい、その娘氏姫のもと近臣らの連判衆が家務を処理しました。
その後、小弓御所義明の孫国朝、続いてその弟頼氏が古河公方家の名跡を継ぎ、下野喜連川に移り、喜連川氏を称し、江戸時代は古河公方の末裔という家格から十万石の格式を認められました。明治維新後は足利氏に復し、華族(子爵)に列せられました。
宮原家は、この古河公方家の分家に当たり、古河公方四代晴氏の弟である晴直に始まります。晴直ははじめ上杉憲房の養子となって憲広を名乗り関東管領を務めましたが、のち復帰して足利晴直を称し上総宮原に住して宮原御所と称しました。その孫義照は江戸幕臣旗本となって千百四十石を知行して宮原を姓としました。義照のあとは弟義久が家督を継ぎ、『寛政重修諸家譜』によると「格式無官の高家となされ、采地に住し、随意に参府し奉仕すべし」との仰せを受けたといい、後の表高家と同様の処遇を受けたと思われます。その後六代氏義が元禄14年(1701)に奥高家となり、宝永6年(1709)には御側高家となりました。以後、八代義潔、十代義周、十一代義直、十二代義路と高家を務め、義直は高家肝煎を務め、維新まで続きました
ちなみに、この宮原氏からは二度喜連川家に養子(氏春・聡氏)を送りこんでおり、そのつながりの深さを感じさせます。
