序章 高家とは何か?

さて「高家」と聞くと、忠臣蔵の吉良上野介を思い浮かべる方がほとんどだと思いますが、さて高家とは何でしょうか?

職 務

 「国史大辞典」の 「高家」の項によりますと、(一)格式の高い名家、権勢のある家柄。(以下略)
(二)江戸幕府の職名。主として朝廷関係の儀礼を管掌し、勅使・院使の接待、京都への使者を勤める。その他、伊勢神宮・日光東照宮などへの代参、年頭諸社代参があり、営中では儀式に加わり、年賀賜盃の時、御三家・国持大名以下四位以上の大名に給仕し、平常でも老中の登営・退出を送迎した。(以下略)とあり、『江戸幕府旗本人名事典』の解説によると、その職務は、
 ①1日1人が当番を務め、奏者番とともに老中を送迎する。
 ②正月元日・2日の礼式において給仕をする。
 ③将軍家の社参・仏参の太刀奉持。
 ④日光・伊勢・法会への征夷大将軍の名代。
 ⑤将軍宣下・毎年の公家参向での典礼とその接待
 ⑥京都への御使いと、幕臣の官位の手続き
が主な任務で、営中の典礼は奏者番、公家関係の典礼は高家の取り扱いになっている、とあります。

起 源

 その起こりは諸説ありますが、慶長8年(1603)に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる際に関白二条康道と相談し持明院左中将基盛の子孫である大沢基宿(いえ)(基宥(ひろ))に儀礼を管掌させたのが始まりとも、慶長13年(1608)または元和元年(1621)に大沢基宿・基重父子吉良義弥(みつ)が公武往来の典礼に関与したのが始まりともいわれています。幕初にはまだ高家の職名はなく職務の実態が先行し、それに後追いする形で寛永期以降に「高家」の職名が定着したようです。「徳川実記」に高家の職名が登場するのは2代将軍秀忠時代の元和8年(1622)の大沢基宥・元和9年(1623)の吉良義弥で、高家就任の記事が「徳川実記」に出てくるのが正保元年(1645)の品川高如(ゆき)なので、高家の職掌・官位等が整えられたのは正保期以降、4代将軍家綱の代と思われます。
 その後は、武家名族の末裔や公家の子弟から任命され、有馬家が任命された宝永7年(1710)を最終として、高家筋26家が確立しました。

処 遇

 享保以降は、高家(雁間席・役高1500石)、高家肝煎(きもいり)3人(同・役高2000石、家禄3000石以下のものは役料800俵)、表高家(柳間席・高家に任命されぬ人や幼少の人など無官位のもの)に区分され、肝煎役は天和3年(1683)に吉良上野介義央・大沢右京大夫基恒・畠山飛騨守義里が任命されたのに始まり慶応4年(1868)までの185年間に46名が就任しました。俗に三高と称し年功熟達の人が任命され交互に月番を勤めました。(ただしその時代により4人または5人任命された時もあったようです。)
 肝煎は高家の主任として、将軍の太刀の役や朝廷への年賀の御使(名代)を主に勤め、勅使や院使等公家衆が参府した時には、接待のための馳走役(饗応役)の大名に指示を与え、馳走役の大名も肝煎に礼典等に関して教えを受けて勤めるのを例としたので、馳走役の大名は肝煎とその家来にまで国元の特産物や金子を贈るのが慣例となっていたそうです。これは賄賂ではなく、指南料のようなもので、肝煎の役得でした。ですから賄賂を受け取っていたと吉良上野介が批判されますが、吉良は肝煎の中でも公武の礼式典礼に熟知し、当時右に出るものがなく、彼の教えを請うものが絶えなかったという状態だったので、必然的に金品の贈答が集中し、後世の人に批判されたものと思われます。
 非役の表高家は無位無官ですが、万石以上の格式を有し、江戸城中での詰席も行列の人数も諸侯並みでした。
 また表高家に対して一般の高家を奥高家、将軍に近侍するものを側高家(宝永6年(1709)から享保元年(1716)まで設置)、将軍世子に付属されたのを西丸高家(慶安3年(1650)から翌年まで西丸にいた将軍世子家綱に付属)と呼びました。つまり高家とは役職であると同時に家格でもありました。
 高家は万石以下ながら、京都の朝廷・公家との折衝も司るため、官位は高く、高家に任ぜられると従五位下侍従に叙任されました。ちなみに普通は従四位下に叙されてから侍従に任ぜられるもので、一般の中小大名や役職に在職中の旗本が従五位下諸大夫(○○守、○○頭など)であるのと比べても一段高い官位です。
 さらに従四位下侍従から京都への御使いに際しては従四位上(あるいは正四位下)少将に昇り、この官位は大名の中でも上位となる国持大名や御三家庶流の連枝に相当し優遇されました。老中の官位が従四位下侍従であることからもその高さが分かります。
 また一般旗本は若年寄支配なのに対し、高家は交代寄合とともに老中支配で、一般旗本より優遇されていました。家禄は畠山家(本家)の5000石を筆頭に品川家の300石まで様々ですが、おおむね1000石~2000石の家が多く、1000石未満の家も数家ありました。

高家二十六家の変遷

 先ほど言ったように高家は就任できる家筋が決まっており安永9年(1780)以降、26家となり(26家中最後の武田家[信明]が高家に就任した)以後幕末まで変わりませんでした。これはまず名門であるという制約があったこと、また朝廷や有職故実などに精通していなければ勤まらないということも関係したと思われます。
 また高家は諸書に世襲の役職とあることが多いですが、必ずしも親子代々高家になれるのではなく、例えば由良氏の場合、最初に高家となった貞房から寛政十年当時の貞雄まで6人の内、高家になったのは4人で、他の諸家も同様であり、正しくは世襲の職ではなく、あくまでも就任できる家が定まっているというものでした。
 26家以外に断絶した吉良家・土岐家があり、吉良家はご存じの通り元禄16年(1703)赤穂浪士討ち入りの不始末で絶家となり、土岐家は美濃の守護大名で斉藤道三によって没落させられた頼芸(なり)の子孫ですが、宝永3年(1706)素行不良のため絶家となりました。
 その他に特例として一代高家というのがあり、元禄2年(1689)大沢主水基明(家禄2000石)、同5年(1692)大沢源三郎基躬(家禄2600石)、同8年(1695)交代寄合最上刑部義智(とも)(家禄5000石)が高家に就任していますが、これは一代限りで高家に就任できる家柄にはなりませんでした。(大沢基明・基躬は初めて高家になった基宿の分家)
 高家に就任できる家は三代将軍家光期の慶安3年(1650)には10家に満たない数しかありませんでしたが、その後26家にも増えたのは五代将軍綱吉の時代~延宝8年(1680)から宝永6年(1709)に新たに14家が高家の家格となったからです。しかもわざわざ京都から公家の二男坊などを呼び寄せて幕臣旗本とし高家に任じています。これは綱吉の時代が文治主義の時代で、綱吉自身も公家趣味で公家の礼式・有職故実に精通している高家を重視したためと思われます。(この時期大奥にも多くの公家出身の女性が入っています。)

 高家の諸家を見てみると大きく分けると武家出身・公家出身に分けることができます。
(1)武家出身
 *室町時代の足利一族・守護大名
  ①今川家(駿河・遠江の守護、戦国大名)
  ②上杉家(旧姓畠山、能登畠山の分家、上条上杉家)
  ③大友家(豊後の守護大名、戦国大名の庶流)
  ④京極家(近江守護庶流、丹後宮津藩主の子孫)
  ⑤吉良家(旧姓蒔田、足利支流吉良の庶流)
  ⑥品川家(今川家の分家)
  ⑦武田家(甲斐守護、武田信玄次男の子孫)
  ⑧土岐家(美濃守護、土岐家の庶流)
  ⑨畠山家(河内・越中等の守護大名、管領家)
  ⑩畠山家(上記畠山家の分家、能登守護)
 *戦国大名
  ⑪織田家(信長の次男信雄の庶流)
  ⑫織田家(信長の七男信高の子孫)
  ⑬織田家(信長の九男信貞の子孫)
  ⑭由良家(上野太田金山城主、新田義貞四男貞氏子孫)
  ⑮横瀬家(上記由良家の分家)
 *その他
  ⑯大沢家(遠江堀江城主、藤原北家持明院家の庶流)
  ⑰宮原家(足利氏、古河公方の庶流)
(2)公家出身
  ⑱有馬家(家祖は清華家・村上源氏久我家出身)
  ⑲大沢家(家祖は羽林家・藤原北家持明院家出身)
  ⑳中条家(家祖は羽林家・藤原北家樋口家出身)
  ㉑戸田家(家祖は羽林家・村上源氏六条家出身)
  ㉒長沢家(家祖は名家・藤原北家外山家出身)
  ㉓日野家(家祖は名家・藤原北家日野家出身)
  ㉔前田家(家祖は羽林家・藤原北家押小路家出身)
  ㉕前田家(家祖は半家・菅原氏高辻家出身)
  ㉖六角家(家祖は名家・藤原北家烏丸家出身)

 なお以下に上記26家以外の絶家となった高家、一時高家となった家を挙げておきます。

(3)絶家となった高家
  ㉗吉良家(足利氏支流、元禄16年絶家)
  ㉘土岐家(美濃守護、⑧の本家、宝永3年絶家)
(4)一時高家に列した家
  ㉙一色家(公家出身、元和4年絶家、後300俵)
  ㉚大沢家(⑯の分家、元禄13年無嗣絶家、後300俵)
  ㉛大沢家(⑯の分家、正徳2年寄合に降格)
  ㉜最上家(元大名、交代寄合)

以上を、表高家に列した順に一覧にすると以下のようになります。
(姓の後ろの○番号は、上記の番号と対応します。)

高家二十六家一覧
家禄表高家に列した年次高家就任年次その他
【家康・秀忠期】
(1)宮 原⑰1140石慶長7(1602)~寛永7(1630)
実務なし
27宮原と同じ
大 沢⑯3556石慶長8(1603)慶長8(1603) 
吉 良㉗4000石慶長13(1608)(?)
 元禄16'1703)絶家
慶長13(1608)刃傷事件にて絶家
一 色㉙1000石慶長中京都より隔年参府
 元和4(1618)改易
公家唐橋家をつぎ隔年参府
【家光期】
土 岐㉘1000石寛永2(1625)
 宝永3(1706)絶家
天和3(1683)不行跡絶家
今 川①1000石寛永13(1636)寛永13(1636) 
品 川⑥300石寛永16(1639)正保元(1644)元1000石、5今川の分家
土 岐⑧700石寛永17(1640)安永5(1776)4土岐の分家
日 野㉓1553石家光時代天和3(1683) 
上 杉②1496石慶安元(1648)慶安元(1648)12畠山の分家
10戸 田㉑2000石慶安3(1650)慶安3(1650) 
【家綱期】
11吉 良⑤1425石明暦3(1657)元禄5(1692)旧姓蒔田氏
12畠 山⑩3100石寛文3(1663)寛文3(1663)能登守護家
13織 田⑬700石寛文3(1663)寛文3(1663)信長九男家
14由 良⑭1000石寛文5(1665)寛文5(1665)元和寛永頃 大沢基重に準
15畠 山⑨5000石延宝7(1679)
[寛文3(1663)か]
寛文5(1665)管領家
【綱吉期】
16織 田⑫2000石元禄元(1688)元禄2(1689)信長七男家
17大 友③1000石元禄元(1688)元禄2(1689) 14由良の分家
18六 角㉖六 角㉖元禄2(1689)元禄2(1689) 
19横 瀬⑮1000石元禄2(1689)元禄12(1699)14由良の分家
20大 沢㉚2000石元禄2(1689)
元禄13(1700)絶家
元禄2(1689)1大沢の分家
無嗣絶家(後300俵)
21大 沢㉛2600石元禄5(1692)
正徳2(1712)降格
元禄5(1692)1大沢の分家
寄合に降格
22京 極④1500石元禄8(1695)元禄8(1695) 
23最 上㉜5000石元禄8(1695)
 元禄10(1697)まで
元禄8(1695)交代寄合より臨時
24織 田⑪2700石元禄14(1701)宝永2(1705)信長次男家庶流
25中 条⑳1000石元禄14(1701)元禄14(1701)元禄14(1701)
26武 田⑦500石元禄14(1701)安永9(1780)不明
28大 沢⑲600石宝永6(1709)宝永6(1709)不明
29前 田㉔1400石宝永6(1709)宝永6(1709)元禄13(1700).正.28小性並
30長 沢㉒1400石宝永6(1709)宝永6(1709)元禄15(1702).12.3小性並
31前 田㉕1000石宝永6(1709)宝永6(1709) 
【家宣期】
32有 馬⑱500石宝永7(1710)宝永7(1710) 
元禄時代の高家衆

 上の一覧表にあるように、家康~家綱期に成立した高家15家あり(2家が絶家、1家が改易)、その内訳は武家出身が13家公家出身が家光期の日野・戸田の2家のみでした。ところが綱吉期には16家成立(ただし1家絶家、1家は寄合に降格、1家は一代のみ)し、そのうち武家出身は10家公家出身は6家と大幅に高家衆を増員しています。そして最終的には家宣期の1家(公家出身)を加え26家となっています。
 このように綱吉期に倍増した高家衆ですが、これは朝廷との関係を尊重し、朝幕関係の融和を目指していた五代将軍綱吉の施策によるものでした。綱吉は朝廷との関係改善を重要事項として取り組んでいたため、対朝廷との外交官的役割を果たす高家衆の増強を推し進めたものと思われます。綱吉の治世前半の元禄8年(1695)までで武家出身7家、公家出身1家を高家衆として取り立てていますが、そのうち3家(大沢二家と最上家)は一代限りの高家でした。
 そして元禄14年(1701)には宮原氏義中条信実の二人を奥高家とし、寄合武田信興と小普請織田信明を表高家の列に加えるとともに、この前後に四人の公家の子弟を京都より召し出して旗本に取り立てています。つまり元禄12年(1699)には長沢資親大沢基貫を、元禄15年(1702)には前田玄長を、そして宝永4年(1707)には前田長泰を召し出し新規取り立て御小性並とし、「従五位下侍従」に叙任されています。これは通常高家となったものが叙任される官位官職なので、彼ら四人を高家候補としたと考えられます。
 この元禄14年(1701)前後に高家の増員が集中しているのは、同年の殿中松之廊下における刃傷事件により対朝廷戦略の実務者である吉良上野介を失ったことが大きく影響しているものと思われます。吉良は18年に亘り高家肝煎として儀礼を司ってきましたが、この刃傷事件によって御役御免となり、一方残された高家衆を見ると、吉良とともに肝煎役を務めていた畠山基玄大友義孝はともに肝煎役となってからはまだ4年と経験が浅く、平役の高家を見ても、品川伊氏織田信門は10年以上の経験があるが、京極高規戸田氏興は5~6年、畠山義寧横瀬貞顕はまだ2年の実績しかなく、奥高家衆の戦力低下は否めませんでした。
 元禄14年前後の高家衆の増強は柳澤吉保とその主君たる将軍綱吉の主導のもと行われたものと思われます。たとえば元禄14年に高家となった武田信興は、武田信玄(晴信)の次男・海野信親(竜芳)の孫で、柳沢吉保の強い推挙と後ろ盾によって高家となりました。つまり吉保の祖父・柳澤信俊は武田氏の一族の流れを組む武川衆の出身で、武田氏滅亡後、他の武川衆一同とともに徳川家康に仕えたという経歴を持ち、武田信興は表高家に列した後、新たな屋敷地を賜るまでは柳澤邸内にある屋敷に住んでいたと思われます。
 また、元禄14年以降に高家候補として小性並に取り立てられた長沢資親・大沢基貫・前田玄長・前田長泰の四人は取り立てられた後、柳澤吉保の上屋敷邸内にあった小性屋敷に引き移り、そこで武家としての礼法・所作・教養等を学び、即戦力の高家として育成を図ったものと思われます。
 長沢ら四人が正式に小性並から奥高家に転役となったのは将軍綱吉の薨去直後の宝永6年(1709)2月21日のことでしたが、長沢資親・前田玄長・前田長泰の三人は享保年間以降に高家肝煎となっており(大沢基貫は正徳3年(1713)36才で死去)、綱吉と柳澤吉保が図った優秀な高家の育成という施策は八代将軍吉宗の時代になって実現したのでした。

維新期の高家衆

 慶応3年(1867)12月9日の王政復古のクーデターによって全国政権者としての地位を失った徳川将軍家(徳川宗家)は、鳥羽伏見の戦いでの敗北により維新政府(朝廷)への恭順を表明し、旗本御家人たちに対しては知行のある者は知行地へ戻り、知行のない者は百姓地を取得して土着することを推奨する触れを繰り返し出されました。それと相前後して、主に西国に知行を持つ者や交代寄合など知行地に居住している者を中心に、朝廷に忠誠を誓って幕府より公認されていた領知権を維新政府に公認してもらい朝臣となる本領安堵運動が開始されました。
 高家衆の中でも、上京していた大沢基寿・京極高福は慶応4年(1868)2月7日に京都において朝臣となることを願い出て許され、同月22日には江戸にいる残りの高家24名の名代として全高家の勤王意思を表明しています。これは高家26名の間で何らかの事前の合意があったものと推測されます。
 5月25日には旧徳川家臣で早期帰順者の新たな身分が申し渡され、高家・交代寄合は中大夫、1000石以上は下大夫、100石以上は上士の三階級とされ、それぞれ触頭のもと編成されることとなりました。ここに旧徳川家臣は朝臣・中大夫下大夫上士として旧知行所の領主となりました。ただし、ここで安堵されたのはあくまで本領のみで、それに相応する軍役負担(人員・兵糧・軍費)が求められることとなりました。
 しかし東北戦争が終結する明治元年末頃になると、安堵された中大夫下大夫上士の領知権に制限が加えられ、結果として残された権利は府県によって決められた年貢を受け取る権利のみとなりました。
 明治2年6月から諸藩の版籍奉還が開始され、12月には旧幕臣への禄制改革が行われました。これによって中大夫下大夫上士は全て士族となり、本領安堵運動によって安堵された本領の領知権も解体となりました。知行地千石だった今川家は75石の蔵米取りとなり、他の旧高家たちも経済的に大打撃を受けました。収入が減少したことにより、家臣を養うことができなくなり家臣団も解体せざるをえなくなっていきました。これによって知行所と家臣団を失い旧高家は当主家族単身からなる士族へと生まれ変わっていきました。
 今川家は嫡子を失ったこともあり、最後は別の士族の家に居候するほど没落し断絶してしまいましたが、前田家(押小路流)のように高家としての教養・教育を元に維新政府の官員となって新時代を生き抜いていく人びともありました。

【参考文献】
 『国史大辞典』 吉川弘文館
 『今川氏と観泉寺』 吉川弘文館
 『寛政重修諸家譜』 続群書類従完成会
 『戦国人名辞典』 阿部猛・西村圭子/編 新人物往来社
 『江戸幕府旗本人名事典』 小川恭一/編 原書房
 『宮廷公家系図集覧』 近藤敏喬 東京堂出版
 『全国国衆ガイド』 大石泰史/編 星海社
 『室町幕府守護職家事典』 今谷明・藤枝文忠/編 新人物往来社
 『寛政譜以降旗本家百科事典』 小川恭一/編著 東洋書林
 『戦国大名系譜人名事典』 山本 大・小和田哲男
 『上杉家御年譜』第二十三「外姻譜略」(米沢温故会)
 『織田一族のすべて』 別冊歴史読本(新人物往来社)
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 『日本名門・名家大辞典』 森岡 浩/編 東京堂出版
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 『日本家系・系図大事典』 奥富敬之 東京堂出版
 『戦国大名大全』 廣済堂出版
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 『系図纂要』 名著出版
 『公家事典』 橋本政宣/編 吉川弘文館
 『三百藩藩主人名事典』 新人物往来社
 『豊後大友一族』 芥川龍男 新人物往来社
 『〈華族爵位〉誓願人名辞典』 松田敬之 吉川弘文館
 『高家前田家の総合的研究 ―近世官僚制度とアーカイブス―』大石 学/編 東京堂出版

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 「武家伝奏と高家」(平井誠二、『近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 第5号』、2013年)
 「日光東照宮と高家―将軍家名代を務めた先祖―」(前田明久、『大日光 第84号』、2014年)
 「日光東照宮と高家(二)―高家肝煎役の特典とその実態―」(前田明久、『大日光 第85号』、2015年)
 「日光東照宮と高家(三)―五代将軍綱吉公と柳澤吉保による対朝廷戦略―」(前田明久、『大日光 第86号』、2016年)
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 「近世中期における高家の職務:勅使江戸下向時の火事から尊号一件まで」(栗原 佳、『近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集』6号、2015年)
 「江戸幕府の高家成立について―初期の職務をめぐって―」(大嶌聖子、『國學院大学大学院紀要 二十五輯』、1994年)
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 「江戸幕府高家衆の登用事情」(大嶌聖子、『日本史研究 第476号』、2002年)
 「新・華族事件録①一万石虚偽報告事件」(千田 稔、『歴史読本』2013年10月号)
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 「戦国上杉一門―「上条家系譜と政繁」の考察―」(利根川 信、『歴史研究』第55号所載、2013年)
 「戦国期上条上杉氏の実相」(今福 匡、『歴史研究』第466号所載、2000年)
 「華族の選に洩れた士族達」(松田敬之、『藝林』第46巻1号、1997年)
 「中世名族の末流 忍藩士畠山史研究(一) ―新発見の畠山系図とその検討―」(若松良一、『埼玉県立史跡の博物館紀要』第2号、2008年)
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