【史 跡 名】立石寺(山寺)
【訪 問 日】1988年5月4日
【所 在 地】山形県山形市山寺
【訪 問 記】
米沢をあとにして、北上し山寺へと向かいました。実は私は疲れていて、山寺の入口に停めた車の中で待っていて、友人だけが登っていったので実際には見ていないんですが、写真だけが残っていたので一応載せてみました。
本名は宝珠山立石寺といいますが、山寺という通称の方が有名です。1100年以上も昔、東北各地に仏教を広めた慈覚大師円仁の開山で、天台宗の古刹です。松尾芭蕉が訪れていることでも知られています。




【史 跡 名】旧済生館本館
【訪 問 日】2001年8月10日
【所 在 地】山形県山形市霞城町
【訪 問 記】
この旧済生館本館(国重要文化財)は、明治11年(1878)山形県令三島通庸の時代に、模擬洋風の塔屋を主とした三層楼として作られましたが、のち県立病院として生まれ変わりました。現在では霞城公園内に移築・復元され、市立郷土資料館として郷土史資料や医学・医療関係の資料が展示されているそうです。
時間がありませんでしたので、外観を眺めただけでした。

(現・山形市立郷土資料館)

【史 跡 名】上杉記念館・稽照殿
【訪 問 日】1988年5月4日・2001年8月9日
【所 在 地】山形県米沢市丸の内
【訪 問 記】
稽照殿は米沢城跡・松岬公園内にある上杉神社の宝物殿です。上杉家に伝わる甲冑、武具、絵画や上杉謙信・上杉鷹山の遺品など約1000点が展示されています。
また上杉記念館は松岬公園の南側にあり、旧上杉伯爵邸だった建物です。大正12年に建てられたもので、総檜入母屋造りで内部は資料館になっています。その庭園も建物もなかなかいい雰囲気でした。(1988/5/4)




ここも十数年ぶりの再訪でしたが、建物の雰囲気は全く変わらずでした。ここは米沢城の二の丸跡に建てられた旧上杉伯爵邸ですが、「鶴鳴館」と呼ばれ、現在は上杉記念館として開放されています。庭園もとても美しいですし、一見の価値はありますね。
また稽照殿とその棟続きの上杉博物館は今年の秋に博物館が開館し、そちらに収蔵品などが移されるようなので閉館中でした。(2001/8/9)



上杉鷹山銅像




【史 跡 名】上杉家廟所
【訪 問 日】1988年5月4日
【所 在 地】山形県米沢市
【訪 問 記】
米沢城跡・上杉神社・稽照殿・上杉記念館等を見学したあと、上杉家廟所へと向かいました。ここには米沢藩の歴代藩主の廟所が並んでいますが、さすがに荘重なものでした。上杉鷹山の夭折した嫡子・顕孝や武田信玄の末子で上杉家の客分となった武田信清の墓所もここにあったと記憶しています。
米沢にもまた行ってみたいですね。(今度は上杉まつりを見てみたいです。)





【史 跡 名】林泉寺
【訪 問 日】2001年8月9日
【所 在 地】山形県米沢市林泉寺1-2-3
【訪 問 記】
この林泉寺は、明応5年(1496)に上杉謙信の祖父・長尾能景によって越後国高田に創建され、元和3年(1617)に初代藩主上杉景勝によって高田から米沢の現在地に移されました。代々、長尾家・上杉家の菩提寺ですので、その墓地には上杉家縁の人々の墓が多く、歴代藩主の正室の墓や支藩・米沢新田藩の歴代藩侯の墓、そして直江兼続夫妻・武田信清・吉江宗信・甘糟景継など上杉家重臣の墓が多数あります。ここの庭園は米沢三名園の一つに数えられているそうですが、見そこなってしまいました(^^;)

(重臣竹俣家の門を移したもの)






(九代治憲[鷹山]の側室)


(四代綱憲の四男で支藩米沢新田藩の藩祖)


(猪苗代城代)

(武田信玄の六男で甲州夫人菊姫の弟)


(越中魚津城守将)





(東禅寺城・白石城城代)

【史 跡 名】板倉神社
【訪 問 日】2001年8月7日
【所 在 地】福島県福島市杉妻町
【訪 問 記】
この板倉神社は福島県庁に隣接する紅葉山公園内にあります。この一帯はかつては福島城があった場所で、この紅葉山公園には藩主板倉氏の茶亭があったそうで、その面影が残っています。
板倉神社は元禄15年(1702)から明治2年(1869)まで福島藩主を務めた板倉氏の祖で、島原の乱の際に討ち死にした板倉重昌が祀られています。神社自体はそう古いものではありませんが、公園内を散策しながらかつての福島城の面影を追うというのもいいかもしれません。

【史 跡 名】御薬園
【訪 問 日】1989年5月5日
【所 在 地】福島県会津若松市花春町
【訪 問 記】
この「御薬園」は会津松平氏庭園の通称で、室町時代の領主蘆名盛久が霊泉の湧き出たこの地を別荘としたことに始まるといいます。保科正之が藩主となってからこの地を保養所とし、2代正経が各種の薬草を栽培させてから「御薬園」の名が起こったそうです。仙台の輪王寺庭園と同じく回遊式の庭園ですが、やはりとても気持ちが休まる場所でした。
庭園の隅にあった建物に「松平」の表札が掛かっていたのを見つけたときにはニヤッとしてしまいました(^^;)



【史 跡 名】飯盛山
【訪 問 日】1989年5月5日
【所 在 地】福島県会津若松市一箕町八幡字弁天下
【訪 問 記】
会津若松城・御薬園・会津武家屋敷などを回ったあと、いよいよ飯盛山に行きました。言うまでもなく白虎隊最期の地です。白虎隊士の墓やさざえ堂などがありますが、飯盛山からは会津若松市内がすべて見渡せました。すっかり観光地化してしまっているのが残念ですが...


【史 跡 名】松平家墓所
【訪 問 日】2001年8月8日・9日
【所 在 地】福島県会津若松市東山町石山字墓山甲1731-1,2
【訪 問 記】
神指城に行ったあと、まだ少し時間があったので会津藩主松平家墓所に行ってきました。入口がわからなかったので、ホテル東鳳の前を通って、柴黄木山の方に登っていくつづれ折の道を行くと、途中に左に入っていく小さな階段があったのでひょっとしてこれかと思い行ってみると、八代容敬公のお墓の前に出ました。さすがに会津のお殿様のお墓は立派で、手前に大きな四角柱の墓碑があって、そこにどうやらそれぞれの業績が書かれているようです。そしてその奥の高い所に墓石があります。それが二代正経公から九代容保公まであるんですから、広いもんです。
幕末の歴史群像の一人、九代容保公のお墓は一番奥にあり、ずいぶんと真新しい感じがしました。その奥には「松平家の墓」と書かれた墓石があり、十一代容大公以降はこちらに納骨されているそうです。一通り見終わって、そういえば三代正容公以降はあったのに二代正経公のお墓がなかったなあと思ったんですが、もうすっかり夕方でしたのでホテルに行ってしまいました。
ホテルの部屋で写真を確かめてみると、なぜか撮ったお墓の写真が半分以上ピンぼけ(*_*) ちゃんとお参りしてから撮ったのに... どうやら、もう夕方で暗かったので、手振れを起こしてしまったようです。
そこで翌日、鶴ヶ城を回った後、もう一度チャレンジしてみました。今度は正規の入口を見つけましたので、そちらから登っていきました。一段下にあったので昨日見落とした、二代正経公のお墓や正之公の子女等のお墓を確認できました。この墓所に最初に葬られたという初代正之公の長男正頼のお墓もありました。今度はきちんとデジカメをホールドして撮影しましたのでほとんどボケませんでした(^^;)


(初代・正之の長男)

(二代)

(二代)

(初代・正之の五男)

(三代)

(三代)

(三代・正容の五男)

(八代)

(八代)

(九代)

(九代)

(九代)

(十一代容大以降はこちらに納骨されているそうです)
【史 跡 名】麟閣
【訪 問 日】2001年8月9日
【所 在 地】福島県会津若松市追手町
【訪 問 記】
麟閣は会津若松城(鶴ヶ城)の本丸にありますが、この茶室を造ったのは豊臣秀吉の奥州仕置によって会津に入部した蒲生氏郷です。彼は利休七哲の筆頭にあげられているほどの茶人でもありますが、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられた時、利休の茶道が絶えるのを惜しんでその子少庵を会津にかくまいました。その後少庵は京都に帰って千家を再興しましたが、会津にかくまわれている際に氏郷のために作ったと伝えられているのがこの麟閣で、その後も大切に使われていました。
ところが戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治始めに鶴ヶ城が取り壊される際に、この貴重な茶室が失われるのを惜しんだ石州流会津怡渓派の森川善兵衛が自宅に移築し、以来120年に渡り森川家はその保全に努めてきました。平成2年、市制90周年を記念してこの氏郷・少庵ゆかりの茶室は鶴ヶ城の元の場所移されました。
私が以前鶴ヶ城に来た際にはまだ森川家にあったので、この麟閣を見たのは初めてでしたが、さすがにとても落ち着いたたたずまいの建物でした。






【史 跡 名】日新館跡
【訪 問 日】2001年8月9日
【所 在 地】福島県会津若松市米代町
【訪 問 記】
鶴ヶ城の周りをぐるっと回っている時に、西出丸の道路をはさんで反対側の所に日新館跡の碑を見つけました。
この鶴ヶ城の西側一帯は会津藩の藩校・日新館のあった所ですが、今は敷地の北西に設けられた天文台跡のみが残っているそうです。(この天文台跡は見ませんでした(^^;)) 文化2年(1805)に日新館は落成し、藩士の子弟で10歳以上のものはすべて就学することとし、およそ1000人の生徒が学んだそうです。


【史 跡 名】延命寺地蔵堂(藤倉二階堂)
【訪 問 日】2001年8月9日
【所 在 地】福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉(旧河沼郡河東町大字倉橋字藤倉)
【訪 問 記】
この延命寺地蔵堂は藤倉館を探している時に見つけました。上層の屋根と下層の裳階から二階建てのように見えるので、藤倉二階堂とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。建築年代は室町時代の初期から中期にかけて(1300年代)と推定され、棟梁は飛騨工水口八右エ門と言われています。
なかなか落ち着いた感じの建物でした。

(藤倉二階堂)


(藤倉二階堂)
【史 跡 名】甲斐本家
【訪 問 日】1989年5月5日
【所 在 地】福島県喜多方市
【訪 問 記】
実ははじめはこの喜多方に来る予定はありませんでした。ですが、会津若松のホテルが取れなくて結局喜多方のホテルに泊まったのでした。そこで喜多方にある蔵の代表格ともいえる甲斐本家に行ったのです。酒造り、味噌・醤油醸造、製糸業などで財をなした甲斐本家ですが、ここでは蔵造りの座敷が見学できます。この建物は大正6年から工事に入り、7年余りの年月をかけて造られたそうです。
さすがに贅を尽くした立派なものでした。



