No.201~400(2003/11/23~2005/12/12)


[400年末年始は「積ん読」対応 投稿者:三楽堂 投稿日:2005/12/12(Mon) 07:38  

>山内一豊の新書読み比べをしております

関心がある武将ならば苦にならないのですが、そうでない場合はさすがに3冊立て続けでは「もう一豊いいや」と、昨日の予告編見ながら思っちゃいました(笑)。
年末にかけて、まだ増殖中ですよね、大河本。


[399北海道はいよいよ冬です 投稿者:KUBO 投稿日:2005/12/11(Sun) 22:42  

 今朝は久しぶりに除雪しました。場所によって違いますが、深いところでは10cmくらいは積もっていたでしょうか? 道路の雪は解けることもあるかもしれませんが、これが根雪になりそうな気がします。いよいよ冬かと思うと憂鬱...(--;)

>三楽堂さん
> IP固定であればアクセス制限できるんですけどね。

 そうなんですよねえ。いくら拒否ホストに設定してもダメなので、仕方なくこういう対策に出ました(^^;)

> 当面はこまめに消していくしかないかな、と思っています。

 うちもあれからは落ち着いているので、しばらくはこのままでいこうと思っていますが、また変な書き込みがあった時はこまめに消すこと、それに飽きたらまた同じような対策するかも(^^;)

> うちのリンクから張っているサイトの中には一ヶ月くらいほったらかしの状態のと
> ころもあって、他所ながら心配してしまいます。
 ありますね。最近、掲示板の巡回はCMNを使っているんですが、いつまでもあの手の書き込みが残っているところがありますね。人ごとながら気になってしまいます(^^;)

 あ、そうそう、遅まきながら山内一豊の新書読み比べをしております(^^;) まだ一冊目の小和田氏のを読んでおりますが、確かにきれいにまとまってますが余り面白くないです(^^;) 後の2冊が楽しみ? でも『土佐藩家老物語』や『名字の日本史』が先になるかも...


[398ほんと、迷惑ですよね 投稿者:三楽堂 投稿日:2005/12/06(Tue) 22:47  

うちのほうも変な書き込みに悩まされています。
IP固定であればアクセス制限できるんですけどね。

当面はこまめに消していくしかないかな、と思っています。

うちのリンクから張っているサイトの中には一ヶ月くらいほったらかしの状態のところもあって、他所ながら心配してしまいます。


[397取りあえず落ち着いたようです。 投稿者:KUBO 投稿日:2005/12/04(Sun) 23:01  

 荒らし書き込みですが、対策が功を奏したようで、昨日はのぞく度に5~10ほど削
除してましたけど、今日は今のところ一つもないです。まあ、でも要注意ですね。
 おかげで今週末くらいに一つ更新をしようと思っていたのですが、ちょっと伸びそ
うですね。まあでも年内には更新して新年を迎えたいですね(^^)

>狩野光郎さん
 はじめまして。えっと、それだけの書き込みでは、何をおっしゃりたいのか良く分
かりませんが、家系を調べたいのでしたら、まずはお祖父さんが住んでいたという場
所の市役所に問い合わせて除籍謄本を取るところから始めるのが常道ですね。

>木村信行さん
 何度も言っておりますが、この談話室は当サイトを訪ねて下さる方たちの交流の場
です。確かに当サイトのテーマの一つ「家系」に関するものではありますが、ご自身
の著書の紹介だけでは、宣伝行為と何ら変わるものではありません。どうぞご遠慮下
さい。

>浦野与平次さん
 体調の方はまあだいたい回復です。でも、もう若くはないんで要注意ですが(^^;)

> 荒らし書き込みの対処、大変ですね。
 一応、うちの掲示板も拒否ホストを指定してアクセス制限できるんですが、どうも
うまくいってないようです。

> そちらの寒さも大分冷え込んできたところでしょうか?
 朝夕は結構冷えますね。でも雪はこっちの方はそれほどでもないです。でも天気予
報だと来週末あたりは雪が降りそうですね。ちょうどお帰りの頃ですね。お気を付け
下さい。

> スープカレーもなかなか道外に進出しませんね。
 実は私、まだレトルトのものくらいしか食べたこと無いんです(^^;) 一度、ちゃん
としたお店で食べてみたいですが、うちの坊主くんと一緒にそういう店に行けるのは
まだまだ先です(^^;)


[396来週末は札幌へ 投稿者:浦野与平次 投稿日:2005/12/04(Sun) 13:45  

KUBOさん、ご無沙汰しております。
体調の方は回復しましたでしょうか。

荒らし書き込みの対処、大変ですね。他のサイトなどでは、IPアドレスを記録して、投稿制限を加えているところもありますね。

そちらの寒さも大分冷え込んできたところでしょうか?来週末だけ所用で札幌に帰ります。実家に帰るのも久しぶりなのでちょっと楽しみです。雪の方はどうなのかな。スープカレーもなかなか道外に進出しませんね。

http://www.geocities.jp/kirche_7/


[395いい加減にしてほしい... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/12/03(Sat) 23:35  

ここしばらく毎日のように荒らしの書き込みがあり、その度削除していましたが、い
い加減いやになってきましたので、ここへの入口を変更するなど対策を取ってみまし
た。さあ、これでどうなりますことか。これでダメならまた何か方策を考えなくては
いけませんが...


[394諏訪一族系譜論考 投稿者:沙月 投稿日:2005/11/28(Mon) 21:56  

391は仕方ないでしょう。諏訪系図にも該当者は見つからず。

本は一応年内に諏訪一族系図論考ー諏訪・金刺・手塚系図の謎で10045円で受け付けます。送料消費税込みです。年内に刊行予定です。

http://nihonrekishiken.com


[393家系を調べる 投稿者:狩野光郎 投稿日:2005/11/19(Sat) 10:34  

お祖父さんは群馬県南橘村(現在、前橋市北代田)に
住んでいた、


[392秋も深まり... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/11/14(Mon) 23:01  

前回は「すっかり葉が紅くなり」と書きましたが、もう半分以上葉が落ち、北海道は
冬目前という感じです。先週は、雪もちらっと降ってすぐ解けちゃいましたが、週の
初めには体調を崩して仕事を休んでしまいました(^^;) まあ今は回復しまして、まあ
まあの調子ですが、やっぱり疲れが溜まってるんでしょうかねえ? 少しは早く寝る
ようにしないと...

>Hikoさん
 最近、朝、家を出る時に車のエアコンの温度計で外気温を見ると、5,6度くらい
ですね。今月後半にはいよいよ雪が積もって冬到来ということになりそうですね。

 中野盛親の中野姓については、盛親が磐城平城主鳥居忠政に仕えた際に、中野村
(双葉町)を領したので、中野氏を名乗った、と『三百藩家臣人名事典』『会津芦名一
族』に載っておりました。

>沙月さん
 全くわかりません。


[391神人部子忍男 投稿者:沙月 投稿日:2005/11/08(Tue) 10:39  

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/koosio.html

に神人部子忍男という人がいます。系図を探しても該当者がいません。ひょっとするとペンネームの可能性有り。本当の名前をご存知の方は連絡待つ。

http://nihonrekishiken.com/


[390中野盛親 投稿者:Hiko 投稿日:2005/11/03(Thu) 20:14  

 北海道は大夫寒くなってきたのでしょうね。
最近積もった雪を見てないので、北海道にも行ってみたいのですが、なかなか機会がないですねえ。

 盛親の生年が1591年ということは、芦名家の没落後の生まれですよね。
義広は当時、常陸江戸崎城主。
盛胤は行方不明?
 年齢的にも当時の立場的にも盛胤子の可能性の方が高そうですね。

 ところで中野姓はどこから来たのでしょうね。母方の姓?
山形鳥居家に召抱えられたということは、母方が最上中野氏で、最上家に仕えて居た可能性とかもあるのかな?この点については何かご存知でしょうか。


[388すっかり紅葉が... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/10/31(Mon) 11:06  

 仕事の行き帰りに通る道の両側の街路樹の葉がすっかり紅くなりまして、秋深しと
いう感じですね。でも今月は週末に用事があって、家族で出かけたのは近代美術館の
アート・オブ・スターウォーズ展くらいでしたね。今日は学習発表会の代休なので、
久しぶりにどこかに行きたいところですが...

>Hikoさん
 例の本では中野盛親の生年は1591年になっていました。芦名義広は1576年生まれで
すので、この年16歳(数え)、また猪苗代盛胤は『会津芦名一族』では1564年生まれと
ありますので、それで行くと28歳(数え)となります。まあ、年齢的にはどちらもあり
えますかね。

>浦野与平次さん
 せっかくおいでいただいたのに、返事が遅くなりまして申し訳ありません。風邪の
方は95%ってとこですかねえ。たまに急に喉がいがらっぽくなることがありまして。
まあでも、もともと喉や鼻はあまり良くありませんのでねえ(^^;)

 ロシアですか。私はまだ海外に行ったことがないという今時珍しい人間ですので、
非常に羨ましいです(^^;) イコンのことは知っていました。大学の卒論でビザンツ帝
国をやったもんで、聖像破壊運動(イコノクラスム)なんてのもありましたからねえ。


[387お大事に 投稿者:浦野与平次 投稿日:2005/10/16(Sun) 15:18  

> KUBOさん
浦野与平次です。風邪の方は大丈夫でしょうか。季節の変わり
目はかかりやすいですよね。
私は今月頭にロシアへ行ってきました。仕事でしたので、あま
り見て周れなかったのですが、幕末期に開港場だった函館はロ
シアの影響を大きく受けていたので、興味のあるロシア正教の
教会などはいくつか見てきました。

そこで初めて知ったんですが、コンピュータの「アイコン」っ
て、正教のイコンという名前から来てるんですね。知らなかっ
たです。

お体をお大事に。ケタ違いのアクセスにびっくりしました。

http://www.geocities.jp/kirche_7/


[386中野盛親 投稿者:Hiko 投稿日:2005/10/10(Mon) 11:17  

レス有難うございます。
Kuboさんも見られていたのですね。
ところで
『要略会津藩諸士系譜』
『三百藩家臣人名事典』
『会津芦名一族』
はいずれも現代の編纂物ですよね。
と云うことは該当部分をどこから拾ってきたかは編纂者に
確認でもしないと分からないですよね。

葦名義広の生没年ははっきりしているようですが、盛胤は
没年不明なのかな。摺上原の戦い(1589)後行方不明?

年代的にはどちらの子供でもあり得るのでしょうが、もし、
先祖を飾るとしたら江戸後期にはどちらの方が、誇らしい
人物だったのでしょうか。


[385やられました... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/10/10(Mon) 00:05  

 今月始めに風邪を引き、先週の前半はすっかり風邪にやられてました(^^;) 今はだ
いぶん良くなったというものの、まだたまに咳が出たり、痰が出たりしてます。完全
復活にはもう少しかかりそうです。しかも私だけじゃなく、嫁さんと坊主もやられま
して、嫁さんもかなり重症でしたけど、だいぶ良くなってきました。一番元気なのは
坊主くんで咳をしたり鼻水をたらしてはいますが、元気いっぱいで(外に行けないので)
家の中を走り回ったり、散らかし回ったりしてます(^^;) うちの坊主くんも昨日で2
歳になったんですが、お利口さんになれるにはまだまだしばらくかかりそうです(--;)

>加地さん
 申し訳ありませんが、加地さんの書き込みですが、以前の書き込みの一部が混ざっ
ていたり、突然話題が変わったりと非常に読みづらくて、文意がよく読み取れません。
引用する場合は引用符等の記号でその部分がわかるようにしていただければと思いま
す。もう少し整理して投稿をお願いします。

 ところで、最近買った『越後加地氏新発田氏の系譜』(飯田素州、新潟日報事業社)
に佐々木盛綱が児島荘を所領とし、盛綱の直系・加地氏の本流は小島氏とも名乗った
との記述がありました。一応ご参考までに

>Hikoさん
 公卿補任ですか。そちらにはまだ手を出してないです。あったら便利なのかもしれ
ませんけど(^^;) 最近はInet経由で国会図書館から資料の複写を取り寄せてます。問
題は集めるだけで、なかなかそれを読む時間がないことです(^^;)

 新人物往来社の会津藩の本は私も本屋で見かけましたが、ちょっとパラパラめくっ
て、買わずに帰ってきました(^^;) 昨日、本屋に行ったので、もう一度見てみると、
芦名義広の庶子というのは中野盛親のようです。そこで、『要略会津藩諸士系譜』
(歴史春秋社)を見てみましたら、確かに中野作左衛門盛親は葦名平三郎義広庶子と書
かれていました。
 しかし『三百藩家臣人名事典』(新人物往来社)の中野義都(盛親の玄孫)の項には、
盛親は猪苗代盛胤の子で、はじめ磐城平藩主鳥居忠政に仕え、鳥居家が山形に転封と
なるとともに移住したが、鳥居家が改易となり、その後に保科正之が入部すると保科
家に仕えたとありました。
 また、『会津芦名一族』(林哲、歴史春秋社)にも中野盛親は猪苗代盛胤の子とあり
ましたので、どうもこちらが本当のように思われます。


[384Re:[383] [350] [340] 児島です。 投稿者:児島 投稿日:2005/10/09(Sun) 00:09  

> 私の曾祖母が戦前、金峰町阿多の兒島家総本家を訪ねております。 ちなみに私の母方の祖母は同町田布施の酒匂家の出身です、金峰町の児島様は金峰町のどちらにお住まいですか?

兒島様
こんにちは、金峰町の児島です。私は金峰町の田布施の出身ですが、この間帰省した時に祖父に尋ねたところ、金峰町には阿多に兒島家、田布施に児島家があるそうです。両家に関係があるかは分からない、ということですが・・・。江戸後期あたりの墓は「児嶋」という字が彫ってあります。


[383Re:[350] [340] 児島です。 投稿者:兒島 投稿日:2005/10/08(Sat) 22:39  

> > はじめまして、私は鹿児島県金峰町の児島です。家紋は丸に平四詰です。ここで時々話題になっている児島一族だとは思いますが、先祖は江戸後期あたりまでしかわかりません。どなたか何かお知りでしたらよろしくお願いします。
>
> 私も児島といいます
> ご親戚にの姓と深くかかわる紋章以外でも,先祖は誰でも探す事は可能です。
> 貴方の姓は佐々木一族とも見受けられますが,紋章は別としても鹿児島の児島氏は東郷や西郷氏とも縁がある場合もありますので,もう少し先祖になられる方の縁戚姓の情報がありましたらよいかと。
> 鹿児島児島氏の先祖は東郷胤時の子孫になるようです。
> 養子縁組もあり親戚にの姓から割り出されるとよいでしょう。
>
>金峰町の児島様
私の曾祖母が戦前、金峰町阿多の兒島家総本家を訪ねております。 ちなみに私の母方の祖母は同町田布施の酒匂家の出身です、金峰町の児島様は金峰町のどちらにお住まいですか?


[382無題 投稿者:Hiko 投稿日:2005/10/08(Sat) 11:24  

>Hikoさん
 もう『寛政譜』は買われたのでしょうか? 私のは札幌の古書店で買ったもので最
初の版のものです。『家紋』だけはなかったので、別にあとから買いましたが。

まだ買ってないです。。どっちかと云うと今は公卿補任にはまってまして、読んでいて楽しいです。興味有る年代をエクセル化したりしています。平安末期の平家の台頭と没落とか

 書店で往来社ムックの会津藩に付いての本をチラッと見たのですが、そこに芦名義広の子が保科正之に仕えて子孫は会津藩の重臣として続いたとありました、ご存じでしょうか。
(名前は失念してしまい。。また書店に行った時に確認してきます。


[381信実は父の前赴任地へ加地姓 投稿者:加地 投稿日:2005/09/29(Thu) 08:43  

加地さん>KUBOさん へ
文治元年(1185)の守護・地頭設置で、上野国磯野郷・越後国加地荘などを得るとともに上野・越後・伊予守護に補任。越後・出羽地方を管掌しました(『吾妻鏡』建久2年10月1日条)。建久元年(1190)奥州藤原泰衡を滅ぼし上洛する源頼朝に、盛綱は俣野箭一腰を進上しました。これは源頼義が前九年合戦で勝利して帰洛するときに携えていたものと同様のものでした。盛綱が武家故実に詳しかったことが分かります。建久5年(1194)2月14日に頼朝に生鮭2を献上していますが、これは領地越後加地荘でとれたものでしょう。建久6年(1195)3月の東大寺供養および4月の源頼朝上洛では、定綱・経高・盛綱・義清兄弟が供奉。このとき「佐々木三郎左兵衛尉盛綱」と呼ばれており、このときまでに左兵衛尉に任官していたことが分かります。
 建久10年(1199)1月源頼朝が没すると、側近であった盛綱は出家して西念と号しましたが、3月22日将軍頼家によって所職を没収。上野国磯部郷に隠退しました。しかし建仁元年(1201)越後国城氏の乱で盛綱が鎮圧に当り復権。建仁3年(1203)盛綱は兄経高(中務丞)・甥重綱(高綱の長男、左衛門太郎)とともに後鳥羽院の院宣を奉じて延暦寺堂衆を追討。元久2年(1205)京都守護平賀朝政追討でも、甥広綱(定綱の長男、左衛門尉)・高重(経高の長男、弥太郎)とともに討手となり、京都警固に当たりました。
 建保3年(1215)10月10日には、守護人北条氏とともに越後国の検断(軍事・警察)を担当するように命じられました。盛綱流佐々木氏は守護正員ではなかったものの、守護正員北条氏とともに検断を担当する立場にあったことを示しています。越後・出羽地方における盛綱の影響力を無視し得なかったのでしょう。以後、越後では盛綱流佐々木氏が栄えることになります。
 承久の乱(1221)では、盛綱の次男盛季(小三郎左兵衛尉)が、定綱の長男広綱(山城守)、経高(中務入道経蓮)・高重(太郎判官)とともに京方に参加。一方、盛綱の長男信実(佐々木兵衛太郎)は幕府方に参加しました。
 次男盛季が左衛門尉に任官しているにもかかわらず、長男が左兵衛尉盛綱の長男を意味する仮名「兵衛太郎」のままなのは、信実が父盛綱から勘当されていたためでした。建久元年(1190)7月20日営中の双六御会で、頼朝の相手をしていた父盛綱の傍らで見ていた信実(当時15歳)を、後から来た工藤祐経が抱いて退け、信実の席に座したため、信実は拾ってきた石で工藤祐経を負傷させたのです。頼朝は怒り、信実は出家して逃亡。しかし盛綱は工藤祐経にも責があると主張、工藤祐経も宿意をもたなかったため、信実も父盛綱からの勘当で済みました。しかし勘当されて関東にいたため、かえって承久の乱では幕府方に参加することになったのです。
 信実は、北条義時の次男名越朝時とともに北陸道の大将になりました。北陸道では越中以西が京方の勢力範囲であり、越後が幕府方の拠点でした。そこで越後の検断を担当していた盛綱流佐々木氏の信実が、北陸道の大将になったのです。信実は越後での京都方深勾氏を追討しましたが、これが承久の乱での幕府方の一番矢です。この戦功で信実は備前守護に補任され、子孫佐々木加地氏によって、幕府滅亡まで守護職を維持しました。
加地さん有難うございました、拝見したところ何の問題もないように
みうけられました信実父盛綱の関係が
記されたとおりですね
戦後処理にあたり、罪人となった盛綱の処分は打ち首になりました,担当は信実という皮肉な結論

ここはあまり知られていないようです
後信実は児島の地頭人になり児島を名乗ります
一方盛綱は児島八郎盛宗の後は女婿が後を継ぎました
この時期姓は土地の名で名乗りますので、加地が姓で児島
は着任した信実が名前で呼ばれていただけなのです
父加地の後継は信実
児島の信実と
てなわけで,児島三郎盛綱の後は武田一族逸見冠者の
系図では
武田冠者────清光 号逸見冠者───重氏(定心)
母和田義盛の跡に住す,他家継ぐ

古伝によれば、頼義の子義光...妻:(父:和田義盛)
加賀美遠光
生没年:1143-1230
父:逸見清光 妻:(父:和田義盛)

武田氏の重臣逸見氏は、武田氏と同族
信実の地位は高まったようで、乱後、冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。
乱後、冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。
信実は父の前赴任地へ移りこの時は加地姓です

武功夜話10
安井氏、その源は甲斐国武田流れと承り、逸見冠者の由緒の家柄、承久尾張川の
合戦(承久の乱1221年)以後、土岐氏の被官人(家臣)となる。先祖前野11代小次郎長義
の室は安井氏の女(娘)と系図にある
とそのとおりです
前野は佐久間甚九郎正勝の家来で養子になる孫九郎後子息細川家に嘱客となる

織田信長から家康や佐久間信盛は怪しまれていまいます
然し裏切りませんでしたね、それを文句つけて追放にしましたねあの何か条による追放処分に遂に天罰が下る

KUBO さん
>児島さん
 前田中将というと、酒井美意子さんのお父様の前田利為氏のことでしょうか?
>はいそうです

http://blog.sasakitoru.com/200504/article_4.html


[380いよいよ秋... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/09/28(Wed) 23:11  

 最近、朝夕はかなり涼しくなり、暑かった今年の夏も終わりいよいよ秋らしくなっ
てきました。

 9月は二度連休がありましたが、最初の連休の二日目は石狩のさけ祭りに行ってき
ました。4年前まで住んでいたアパートの前の通りに出店が出ているんですが、この
日は午前中雨だったにもかかわらず、なかなか盛況でした。
 3年ぶりくらいに行ったんですが、石狩にいた頃に通っていた地ビール館も「いし
かり砂丘の風資料館」という資料館になっていましたし、よく食べに行っていたラー
メン屋さんが休業していたり、郷土資料館になっていた旧役場がなくなって、立派な
出張所になっていたりと、たった数年なのに歳月を感じてしまいました。まあ、その
間に私も妻子持ちになってしまったんですから(^^;)
 ところで、「砂丘の風資料館」では高校時代の同級生が学芸員をやっていて、いろ
いろと説明したりしてくれましたが、坊主くんがうろちょろしていて落ち着いて見れ
ませんでした(^^;) 今回は「サケの考古学」と題した特別展をしていまして、鮭皮で
作ったケリ(靴)や衣服などがありました。
 2階にはあの話題になった紅葉山49号遺跡の舟形容器や鮭漁の柵などが展示されて
いました。以前よく食事をした場所で、そんな展示を見るのも変な感じでしたが、職
員の方が親切に説明して下さいますので、お近くに行った時には是非どうぞ。

>Crowさん
 お出迎えが遅くなりました。なんと下國氏の御子孫ですか。そういえば織田家の直
系の御子孫の方が悩んだ末お子さんには「信」の字を付けなかったとおっしゃってい
たのを以前読んだことがありますが、やはりそういう悩みはおありでしょうね。
 うちのサイトに載せている下國氏の系図は道立図書館の北方資料室に収蔵されてい
た物を参照したのですが、それは明治の末頃に当時岩内に住んでいた下國氏の方がお
持ちの系図を筆写したものらしいです。確かに以前岩内の電話帳を見たら下國姓の方
がお一人いらっしゃいましたが、その方がその御子孫なのかもしれません。いずれに
しても下國氏もいくつかの系統があるようですね。

>らびっとさん
 はじめまして。なんと江戸~松前間徒歩の旅ですか。それはすごいですね。そうい
えば3年ほど前に札幌にお住まいの松前藩士の御子孫の方の家から参勤交代の様子を
綴った日記が見つかり、解読もほぼ終わったという記事が道新に載っていましたが、
その後どうなったんでしょうね。

>KEIさん
 はじめまして。敦賀の久保田氏ですか。そちらの方面では、小浜藩に窪田姓の藩士
がいたようですが、その他には特に情報を持ち合わせておりません。申し訳ありませ
ん。

>akiさん
 また久保田姓の方の登場ですね。お父様もお祖父様のお亡くなりになっているとい
うことであればなかなかルーツ探しの情報を集めるにも苦労するところですね。とこ
ろで、お父様やお祖父様の除籍謄本はすでに取得されているのでしょうか? お父様、
お祖父様、曾祖父様と遡って除籍謄本を取得していけば、まず江戸時代末期くらいま
での自分の先祖やその出身地を知ることができるはずです。
 ただし、原則として除籍謄本の保管期間は除籍後(転籍・死亡)80年間となっている
ので、現在は大正時代以前の除籍謄本を取得できないことになります。ただしこれは
自治体によっても違っていて、私は3年ほど前に、父方と母方の先祖の地である福井
県丸岡町と岩手県紫波町に除籍謄本の取得をお願いしたところ、除籍後80年以上たっ
ているにも拘わらず取得することができました。
 まだ取得されていないのであれば、早急に除籍謄本を取得することをおすすめしま
す。また、取得済みであれば、ご先祖の本貫の地が除籍謄本に書いてありますので、
そちらに行って、土地台帳を調べたり、菩提寺で過去帳を調べたり、現地調査するこ
とになります。
 この辺の詳しいことは、うちのサイトからリンクしている「ごさんべえのページ」
「浦野家の歴史と系譜」等のサイトに載っていますし、丸山浩一氏の『家系のしらべ
方』(金園社)、太田さとし氏の『簡単便利 家系図作成マニュアル』等の書籍を参考
になさると良いでしょう。


[379その他の手塚家 投稿者:沙月 投稿日:2005/09/23(Fri) 13:23  

今ひとつの家として武田信光に仕えた光景~光憲ー光邦ー光忠ー光政ー光清ー光道ー光保と続く一族があります。
光頼(光盛の父)の子孫といいますが、光頼~光景~光憲
という系譜の中で~に相当する部分の具体的人物名が不明ですが、皆様のほうで探せるかどうか、調査してみてください。
この一族は甲信地方の大石明神を祭祀する一族です。
ほかにも、手塚吉雄・手塚吉行・手塚勝久などの一族がいますが、これも、その前がどうなっているかは不明です。

私と同姓で木村藤兵衛(大工)という人も家勝の段階で手塚とありますが、前が不明です。

こういうものの扱いについても調査して何か明らかになれば、お知らせください。

http://nihonrekishiken.com/


[378Re:[376] [374] 手塚 投稿者:沙月 投稿日:2005/09/21(Wed) 23:44  

> 光盛の史跡は、上田市の塩田平というところに多く見えます。
> (五輪の塔,光盛寺,唐糸観音堂など)この地の手塚姓は尊卑分脈などで清和源氏の系統とされています。村山郷手塚家には以前、板に書かれた系図があってその中に源氏姓が見えたと伯父から聞いたことがあります。これからすると信行-信澄-信綱-光盛という説を支持したくなります。歴史家の方の意見や金刺系図から離れてしまいますが、どんなもんでしょうか?
>
> それぞれに意味の有る説で判定は難問。清和源氏は爲仲が源爲公の娘を妻にし、以来、子の爲盛が源姓を名乗ったのが初め。
手塚がさらに源氏に結ぶのだろうが、
こちらは異説が多く、統一は困難。詳細は本に載せますのでお待ちください。道村さん、現地調査よろしくお願いしますね。報告楽しみにしています。
発行にはまだ時間がかかりそうですので、がんばってばっちり取材よろしくね。
諏訪・手塚・金刺・金指氏、いずれも同族。

http://nihonrekishiken.com/


[377初めまして 投稿者:aki 投稿日:2005/09/20(Tue) 22:35  

初めまして、私の旧姓は久保田です。
父は祖母の里の四国高知で生まれ、山梨の北巨摩郡で育ったそうです。
父も兄弟も祖父母全てすでに若くして亡くなっており、墓もどこにあるのか解りません。(祖父母の兄弟も私は知りません)
私は父の仕事の関係で近畿で生まれて育ちました。
自分のルーツが気になって、調べていたところここにたどり着きました。
ただ、私の実家(父)の家紋は丸に笹竜胆なのです。
ちなみに母は永田、岡元(祖母)姓で先祖代々鹿児島です。
こちらは何となく調べていくとルーツは解りますが、父の方はよく解りません。
あと、もう一つ 夫の母方の今後という名字について、色々と調べたのですがルーツがよくわかりません。
何かご存じでしたら教えていただきますようにお願いします。


[376Re:[374] 手塚 投稿者:道村 投稿日:2005/09/20(Tue) 07:32  

光盛の史跡は、上田市の塩田平というところに多く見えます。
(五輪の塔,光盛寺,唐糸観音堂など)この地の手塚姓は尊卑分脈などで清和源氏の系統とされています。村山郷手塚家には以前、板に書かれた系図があってその中に源氏姓が見えたと伯父から聞いたことがあります。これからすると信行-信澄-信綱-光盛という説を支持したくなります。歴史家の方の意見や金刺系図から離れてしまいますが、どんなもんでしょうか?

> 手塚光盛は盛澄と兄弟で父親は光頼とされていますが、別に373にある信澄の子の信綱(盛綱)という説もあります。
> そこで、問題。手塚過去帳は信綱説です。
> 掲示板投稿者は誰と思いますか。窪田さんはどう。
> 道村さんはどう?
> どうぞ、皆様意見展開をね。


[375有員が桓武天皇の皇子の可能性追及 投稿者:沙月 投稿日:2005/09/16(Fri) 16:32  

諏訪有員が桓武天皇第6皇子という説がありますが、本当に可能か議論お願いできますでしょうか。
次々に問題提起して澄みませんが、なにとぞよろしくお願いします。

http://nihonrekishiken.com/


[374手塚 投稿者:沙月 投稿日:2005/09/16(Fri) 12:34  

手塚光盛は盛澄と兄弟で父親は光頼とされていますが、別に373にある信澄の子の信綱(盛綱)という説もあります。
そこで、問題。手塚過去帳は信綱説です。
掲示板投稿者は誰と思いますか。窪田さんはどう。
道村さんはどう?
どうぞ、皆様意見展開をね。

http://nihonrekishiken.com/


[373手塚信澄の父親は誰 投稿者:沙月 投稿日:2005/09/16(Fri) 11:59  

手塚家の先祖に手塚信澄という人がいます。掲示板にいらしゃっる皆様に質問提起しますが、この人物の実父はずばり誰でしょう。
漫画の神様手塚治虫とその一族を書いた深瀬泰旦氏に聞いたところ、手塚家の過去帳に藤澤次郎清直の流れを組む経賢(家系研究協議会掲示板321に登場)と書いてあるというこたえがきました。
そこで、問題ですが、一般というか清和源氏系図に依田信行とする説がありますが、この信行と経賢のどちらなのか、それともほかにいるか、どうぞ、皆様、私はこう思うということで率直な議論展開をお願い申し上げます。窪田さんも司会としてよろしくね。
http://nihonrekishiken.com/

http://nihonrekishiken.com/


[372敦賀の久保田 投稿者:KEI 投稿日:2005/09/09(Fri) 00:50  

こんにちは、東京に住んでいる久保田と申します。

曽祖父の本籍が敦賀(敦賀神楽)のようです。
もし由来等についてご存知の方がいらっしゃったら教えてください。


[371江戸~松前参勤交代の軌跡を辿る 投稿者:らびっと 投稿日:2005/09/07(Wed) 23:28  

はじめまして、松前町のらびっとと申します。
来年福山館に松前藩が移ってから、400年目となります。
「こりゃなんかやらんと・・・」とふと思いついたのが、
参勤交代のルートを探して、江戸~松前間徒歩の旅。

今年の夏に、思いついたのはいいけど、あまりにも大変な
話で自分でも困ってしまいました。
誰が歩くとか、なんも決まっていませんが、
たぶん私が歩くことになると思います。それも一人で。

そこで、松前町史を見たのですが、25日~30日間の
移動と書いてありました。1822年の文献でした。

松前町には、予算もなんもないので、自費と募金とカンパで
実現したいと思っています。

こちらのHPを偶然見つけまして、「おお!! すごい
ページだあ!!」と大変こころ強くなりました。

予定では、来年4月の上旬から下旬です。
さくら前線とともに北上し、各宿泊地は江戸時代と
同じ土地にと思っています。

資料が不足しています。また資金も不足しています。

でも、実現したいと思っています。
これから、ちょくちょくお邪魔いたします。

http://www.rabbitiida.com/


[370はじめまして 投稿者:Crow 投稿日:2005/09/07(Wed) 21:49  

下國を検索したところ貴サイトに辿り着き、驚きました。

私の母方が下國氏で御紹介にあるとおり松前の出です。
屋敷が函館は大野にありましたが、1960年代に東京に出、現在は現存しておりません。
母、叔父の名前には"季"の字が含まれていますが
従兄弟(男子二人です)には悩んだ末、季をつけないことに決めたそうです。

母方の祖父は既に亡くなっており、詳しいことはよくわからないとのことですが
分かれた家が北関東(茨城?)に一家あり、ほかは知らないとのことです。


[369手塚系図 投稿者:沙月 投稿日:2005/09/07(Wed) 18:15  

A説①光盛ー②光定ー③光高ー④光衡-⑤光実ー⑥光家ー⑦光長ー⑧光直ー⑨光定ー⑩左京亮光経
という説と、B説として
Ⅰ光盛ーⅡ光清ーⅢ光行ーⅣ光遠ーⅤ光澄ーⅥ光方ーⅦ光経
ーⅧ光高ーⅨ光衡ーⅹ光実ーⅹⅠ光家ーⅹⅡ光長ーⅹⅢ光直ーⅹⅣ光定ーⅹⅤ左京亮光経

の二説があります。
光盛の死が1184年、左京亮光経が1582年に退居して処士になったと考えて1582-1184=398

398/9=44.2
398/14=28.4

という概算をしてみました。どちらも人間の寿命では可能でしょうね。ただ、代数の多い方が可能性は高いでしょうね。
途中の人物の事績が不明で、日本家紋家系協会の甲信地方の手塚一族では手塚太郎光盛の子の光定の子孫としているということは日本家紋家系協会説はA説ということだと思います。
B説は宝賀氏の古代氏族系譜集成で採られています。金刺系図というものを採用したようです。
手束系図というのがあって光盛の父に光頼を当て、光頼の子に光定を置いて、その上で①光頼ー②光定ー③光高ー④光衡-⑤光実ー⑥光家ー⑦光長ー⑧光直ー⑨光定ー⑩左京亮光経
という説があるのですが、これは光盛が抜けたとみてA説に修正すればいいと思います。
 ただ、日本家紋家系境界の説明は矛盾していて、諏訪金刺系の手塚氏にB説を紹介しながら、甲信地方の手塚氏で
手塚太郎光盛の子の光定の子孫とA説でとるという混乱ぶりです。いいかげんですね。
手束系図を見ると、光高も木曾義仲にしたがったような記述が見られます。光高も義仲の時代の人とすると、A説が妥当にも見えてきます。ともあれ、事績の分かる人物が少なく、決め手は薄いですね。
光盛の子に光定、左京亮光経の父も光定、これが同名というのも何かひっかかる。これが混同されないかという危惧です。そして光高の位置ですか。難問ですな。

http://nihonrekishiken.com/


[368光盛以降 投稿者:道村 投稿日:2005/09/05(Mon) 19:31  

沙月さま

たびたびすいません。
日本家紋家系協会「手塚一族」の系図では
光経(中先代)ー光高ー光衡ー光実ー光家ー光長ー光直ー光定となっています。この光定のあとに山梨に住み着いたと思われる左京亮光経がくるとすると年代的に合ってくると思いますが如何でしょうか?


[367申し訳ない...(^^;) 投稿者:KUBO 投稿日:2005/09/03(Sat) 23:45  

 皆様、申し訳ありません。すっかりこちらの方を放置してしまいましたm(__)m 読
んでいなかったわけではないのですが。遅ればせながらレスを...

>ひづめさん
 今年も函館に行かれたようですね。私は今年の夏は室蘭止まりで、また函館に行か
ずじまいでした。しばらく行ってないので、行きたいのは山々ですが、やっとうちの
坊主くんも室蘭まで遠出できるようになりましたので、来年こそは行けるかもしれま
せん。

>Hikoさん
 もう『寛政譜』は買われたのでしょうか? 私のは札幌の古書店で買ったもので最
初の版のものです。『家紋』だけはなかったので、別にあとから買いましたが。

>児島さん
 前田中将というと、酒井美意子さんのお父様の前田利為氏のことでしょうか? 手
持ちの史料では、そういう情報は見つけられませんでした。

>妹川武史さん
 はじめまして。「江州侍」さんの掲示板でも同じ質問をされていましたが、私から
付け加えるような情報は見つけることができませんでした。中村氏の通字が「宗」と
決定づけるには情報が不足していますし、通字と家紋が同じだからといって一族であ
るとは言えないと思います。

>小田内の遠い親戚さん
 はじめまして。小田内通敏についての情報ありがとうございます。曾祖父の父親は
高祖父と言うようです。

>道村さん
 はじめまして。沙月さんからいろいろと手塚氏に関する情報が提供されていますが、
私の方からは特に付け足すような情報を見つけることができませんでした。

>つみやまさん
 はじめまして。三次藩というのは安芸広島藩の支藩の三次藩のことですね。この藩
は広島藩主浅野長晟の庶長子浅野長治を祖とし、寛永9年(1632)に分封されて成立し、
享保5年(1720)に五代長寔が早世し無嗣除封となるまでの88年間存在した藩です。
 手元に広島藩浅野家関係では『藝藩輯要』という資料しかありませんが、この中に
「三次侍帖」という資料(分封された頃のものと、享保初年頃のもの)が載っており、
その中には大年寄という役職は見つけられませんでした。また積山という苗字の藩士
も見つけることができませんでした。ただし関係ないかもしれませんが、似た苗字で
「築山」という藩士は二人いました。一人は江戸大納戸奉行の築山保右衛門(十六石
四人扶持)、もう一人は小算用の築山市郎左衛門(十石三人扶持)です。
 また本藩の広島藩の藩士名鑑(歴代御役人帖)というものも載っていましたが、「大
寄合」「御年寄」という役職はありましたが、「大年寄」という役職はありませんで
した。また、「大寄合」「御年寄」の名簿の中に積山姓の者はいませんでしたが、天
保13年(1842)に築山為蔵という人物が御年寄になっています。
 また三次関係では「三次御組頭」「三次御小姓頭」「御籏奉行・御先手者頭・御長
柄奉行」「三次御持弓筒頭」「三次町御奉行」「三次御歩行頭」「三次御勘定奉行」
「三次御横目」等の役職がありましたが積山姓の人物はいませんでした。
 あとは三次の自治体史等をご覧になってみた方がよいと思います。

>西田さん
 はじめまして。申し訳ありませんが、佐賀藩鍋島家の家臣については詳しい情報を
持ち合わせておりません。


[366Re:[364] 鍋島家の足利一族 投稿者:HAZU 投稿日:2005/08/31(Wed) 20:06  

> 鍋島家には江戸時代、九州今川氏(蒲原氏、持永氏)九州渋川氏が、滞在していました。ほかにも足利一族で鍋島家に江戸時代、滞在していた一族のことを、知っているひとがいたら教えてください。

私はわかりませんが、次のサイトで聞けばわかるかもしれません。

参考:石井家の歴史<佐賀藩主鍋島家の外戚・重臣>
    http://www.nabeshima-ishii.jp/home.htm
   佐賀士裔会ホームページ
    http://saga-shieikai.hp.infoseek.co.jp/

筈衛


[365Re:[298] 春よこい! 投稿者:加地 投稿日:2005/08/31(Wed) 17:20  

>  またすっかり間があいてしまいましたね(^^;) やっぱり年度末・年度初めは忙しく
> て。でも「滅びた(?)名族」の方は今後北条氏の方ができあがりそうです。大道寺氏の
> 方もできたら更新しようと思っています。
>  今年は大雪でしたから、例年ならもうだいぶん雪が消えている頃ですが、まだまだ
> 雪山があります。昨日出かけたら雪捨て場の雪山の高さがまだ数十mありましたから、
> あれが消えるのは5月になるんじゃないですかねえ。昨日は雨から雪に変わってちら
> ちら降っていましたし、まだまだ春遠しという感じです(^^;)
>
> >児島さん
>  はじめまして。児島氏ゆかりの方でしょうか。佐々木六角氏を研究されている佐々
> 木哲氏が今ブログで佐々木氏について連載されていますが、先日佐々木盛綱について
> 書かれていました。それによると盛綱は承久の変以前に死んでいたようで、盛綱の次
> 男盛季が京方、長男信実が幕府方に参陣したようです。
>  盛綱流佐々木氏は越後方面と備前方面で栄え、児島高徳もその一族だと書かれてい
> ました。
>  ご参考までに。
>  http://blog.sasakitoru.com/200504/article_4.html
>  http://blog.sasakitoru.com/200504/article_9.html
>
> >ひづめさん
>  そちらはそろそろシーズンオフですか(^^;) こっちは例年ならもうだいぶん雪が消
> えているはずですが、今年は大雪の影響でまだまだ雪が残っています。家の周りの雪
> が消えるにはまだ1~2週間はかかりそうですね。
>  しばらく道南に行ってないので、今年は行きたいと思っていますがどうなりますこ
> とか。(なんか毎年言っているような(^^;))
>
> >三関さん
>  はじめまして。松前藩士三関氏の御子孫ですか。うちのサイトに載せている三関氏
> の系図は松前町の町史編纂室に行って見せていただいた藩士履歴書(中島家文書)の中
> にあったものです。
>  ですから、松前町の町史編纂室にお聞きになれば見せていただけるかもしれません
> よ。
>
> >齋藤道三さん
>  はじめまして。亘理伊達家中のご出身ですか。私はまだ実見していないのですが、
> 亘理伊達家中については『亘理世臣家譜略記』(常盤貴定/編著)という史料があるそ
> うです。こちらをご覧になれば、何か参考になることが載っているかもしれませんね。
>
> >ジョバンニさん
>  はじめまして。加藤清正の子孫が庄屋をしていたのは事実ですが、熊本ではありま
> せん、今でいうと山形県の荘内地方です。加藤清正の息子忠広が御家取り潰しにあい、
> 荘内藩に預けられ、ここで死んでいますが、荘内で生まれた光秋という息子がいまし
> て、この光秋は、配流先の荘内藩主酒井家が幕府の目を憚り、近在の大庄屋の養子と
> し、光秋の子・道久の時に新堀村に移り、その子孫はその地方の豪農として存続し、
> 現在まで続いているそうです。
>  この加藤家もそのうちに「日本史の部屋」の「滅びた(?)名族」シリーズで取り上
> げる予定ですが...
>
> >沙月さん
>  南朝関係はいくつか本は持っていますが、岡崎門主については良く分かりません。

>KUBO
児島高徳もその一族だと書かれていました,盛綱は承久の変以前に死んでいたのか?
それは誤解でしょう,承久の変では盛綱父子争いになり,半々の立場になっています。宮方の盛綱父子
佐々木三郎盛綱~児島養子となる
盛綱が藤戸の渡しで奮戦しここに住み,藤原宗綱嫡男盛宗の
児島に移ります,そこで児島八郎盛宗の女婿となり,後を継ぎます,これにより,児島を名乗るが承久変で都に上がり,院にはせ参じました。
ソノ跡を継いだのが信実の後胤ではない
児島盛綱、の後養子児島定心が逸見重氏なのでしょう。
逸見冠者清光は逸見冠者と呼ばれた
頼政は全国に伏している源氏の名前をつらつらと挙げた。

甲斐国には逸見冠者義清、その子太郎清光
義清 武田冠者────清光 号免見冠者───重氏(定心)
母和田義盛の跡に住す,他家継ぐ
佐々木「季貞の子源太宗季(のち逸見冠者光長の猶子となり宗長とあらたむ)とあり参考
清光は、多くの男子に恵まれ、これらの諸子を甲斐國の要衝に次々と配していく。清光の嫡子は、光長・信義という双子の男子であった。

光長は八ヶ岳山麓の逸見荘に土着し逸見冠者光長と称した
後に戦国最強と謳われた武田騎馬隊の基礎を築いていった
甲斐源氏の勃興は今から950年余前の長元2年(1029)源頼信が甲斐守となるに始まる。当時甲斐には柏前、真衣、穂坂の官牧があり、頼信とその子の頼義はこの復興につとめ、更に隣接する八ヶ岳山麓にも進出した。 古伝によれば、頼義の子義光...妻:(父:和田義盛)
加賀美遠光
生没年:1143-1230
父:逸見清光 妻:(父:和田義盛)

武田氏の重臣逸見氏は、武田氏と同族

武功夜話10
安井氏、その源は甲斐国武田流れと承り、逸見冠者の由緒の家柄、承久尾張川の
合戦(承久の乱1221年)以後、土岐氏の被官人(家臣)となる。先祖前野11代小次郎長義
の室は安井氏の女(娘)と系図にある

信実は承久の乱に際して、加地荘願文山の戦いで、藤原信成の家人酒匂八郎を破り、その足で越後府中へ参集して北条朝時に従って上洛した。このとき、信実は朝時、結城朝広らとともに、小国頼継・金津資義・小野時信以下越後御家人を「相催」して上洛している。承久の乱の軍功によって信実の地位は高まったようで、乱後、冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。
乱後、冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。

加地信実は父の三郎の前赴任地へ移り,盛綱父子に対し信実
は幕府方について奮戦し,父は敗戦となり,門を閉じられてしまいましたので,捕らえられて打ち首刑になり,その時父の処断に立ち会うのが,信実です,これも運命なのでしょう
ここで歴史は途絶えたかと,謂うと信実は父の前赴任地へ移りこの時は加地姓です,この系が児島の跡を受継ぎ,加地信実の八男氏綱が、上総国佐々庄に住み、佐々氏を称したという説一方は佐久間に育てられて,佐久間姓。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/eti_kazi.html


[364鍋島家の足利一族 投稿者:西田 投稿日:2005/08/31(Wed) 13:48  

鍋島家には江戸時代、九州今川氏(蒲原氏、持永氏)九州渋川氏が、滞在していました。ほかにも足利一族で鍋島家に江戸時代、滞在していた一族のことを、知っているひとがいたら教えてください。


[363Re:[362] [361] 手塚太郎光盛のこと 投稿者:沙月 投稿日:2005/08/31(Wed) 10:09  

> おはようございます。私の単なる書き間違いです。帰農したのは光盛でなく、光経です。お騒がせしてすみません。光盛は戦記の通りと思います。
> 母親の実家の手塚家は村山郷にあります。 家の北側の高台の杜に明治前の一族郎党の墓、社跡があり、その祠の裏外側に
>   
>   家祖手塚光盛代々鎮守
>   天正年中左京亮光経退官当所蟄居
>   其刻我家餔移
>     文化孟夏  手塚左内義喬 
>  
> とあります。
> また光経帰農後、武田から出仕の決意を促す書状もあったようですが、辞退した旨祖父が編集した文に記載してあります。
>
> 沙月さんに質問です。7世の光経が中先代の乱で戦死というのはかなり確かなことなのでしょうか? 
>
> こちらでももう少し調べてみます。

だから、直道さんのいう光経と
光盛から数えて7世目の光経(中先代の乱で戦死)は同姓同名で時代の異なる別人です。

あなたが天正年中と言う以上、あとにあげた光定の子孫でしょう。
これは数えてみますと、
①光盛ー②光定ー③光高ー④光衡-⑤光実ー⑥光家ー⑦光長ー⑧光直ー⑨光定ー⑩光経

ということになります。七世というのは何かの間違いでしょう。そう考えるしかないでしょう。

もし可能なら光経以降も作りたいですが、これを述べた公の系図集はないので、今度の本は光経の場合はそこで終わる予定です。
もし直道さんのように光経の子孫で、光経以降の系図を今も持っていてそれを部分的にでも公開していいと言う人がいればありがたいです。そうすれば、その先も作れます。
部分的といったのは個人情報まで公開してはまずいと言う問題があるからです。
人名辞典などに住所・職業を含めた細かい個人情報を載せている人は仕方ないとしてそれ以外の民間人情報は安易に公開しては迷惑と言う人もいますから、系図に載せる範囲がそこで限定する必要もあるのかなと考えています。
本人にいたるまで、細かい系図や個人情報をきちんと載せて本にしている人は別です。
でも直道さんにいたる系図あるといいですね。
もし見つかったら、また掲示お願いしますね。
>
>

http://nihonrekishiken.com/


[362Re:[361] 手塚太郎光盛のこと 投稿者:道村 投稿日:2005/08/31(Wed) 08:09  

おはようございます。私の単なる書き間違いです。帰農したのは光盛でなく、光経です。お騒がせしてすみません。光盛は戦記の通りと思います。
母親の実家の手塚家は村山郷にあります。 家の北側の高台の杜に明治前の一族郎党の墓、社跡があり、その祠の裏外側に
  
  家祖手塚光盛代々鎮守
  天正年中左京亮光経退官当所蟄居
  其刻我家餔移
    文化孟夏  手塚左内義喬 
 
とあります。
また光経帰農後、武田から出仕の決意を促す書状もあったようですが、辞退した旨祖父が編集した文に記載してあります。

沙月さんに質問です。7世の光経が中先代の乱で戦死というのはかなり確かなことなのでしょうか? 

こちらでももう少し調べてみます。


[361Re:[359] [358] 手塚太郎光盛のこと 投稿者:沙月 投稿日:2005/08/30(Tue) 21:34  

7世の光経は伊那から京につてを頼って左京亮(官名違っていたらごめんなさい)として仕官していたが、山名細川の対立の頃で仕官を辞したと祖父の書き物で読んだことがあります。その中に光盛が山梨に帰農したことが書いてあります。明治前の古い墓地には光盛を家祖と記した石塔があります。光経も複数のようですから何か特定できるものがあるか、当主に尋ねてみます。何かわかりましたらまたお知らせします。
>
> 又なんか違うみたいです。
これは正規の系図集にあることで、正史になっていることですが、光盛は木曾義仲に従い、斎藤別当の実盛を討ち取るが、寿永三(1184)年正月に河原合戦で戦死となっています。

帰農というのは意外です。まさか死なずに影武者でもいて本人が落ち延びたとでも言うのでしょうか。
でも大将格の人ではないので、亡命というのも何かピンと来ない話です。
kuboさんはどう思いますか。

光経も中先代の乱(1335)で戦死となると、足利尊氏の対戦相手。
山名細川となると、応仁の乱のころですか。
時代がピンと来ませんが、何かかみ合いません。

ただ、左京亮光経となると、先ほどあげた光高の子孫のほうかもしれませんね。
天文年間に甲斐の武田に属し、諏訪両社に起請文をささげ、信州の先鋒の将兵となるが、天正十年に武田氏が没落して、退居し、処士になったそうです。
子孫は手塚幸蔵忠蔵が西野村、徳長村に光貞が、村山郷に義棟という、いづれも光経の子孫が住み着いたようです。
ただ、当方でも、これらの人々の細かい系図は系図集埋没ということで、追いかけていません。名前だけで系図は中央の系図集からは消えてしまったようです。
こちらなら官名もあいますな。以上は日本家紋家系協会の手塚一族という本にあります。山梨となると甲州で武田に属すという形であいますかね?
今度の本にももう少し詳しく載せて置きます。ではまた。
>

http://nihonrekishiken.com


[360教えてください 投稿者:つみやま 投稿日:2005/08/30(Tue) 20:43  

積山と申します。実家は江戸時代に250年三次藩の大年寄をしていたと聞いたのですが、しっかりとした資料がありません。三次藩の大年寄りを誰がしたのか教えていただけないですか。


[359Re:[358] 手塚太郎光盛のこと 投稿者:道村 投稿日:2005/08/30(Tue) 18:58  

>> 光盛から7世目に光経とありますが、
> 確かに①光盛ー②光清ー③光行ー④光遠ー⑤光澄ー⑥光方ー⑦光経
> ということで代数はあいます。
> ただ、この人は中先代の乱で戦死とされています。
> 道村さんの話とは異なるので、これは同姓同名の別人ですかね。
> 代数はあっても事績が今ひとつかみ合わん気がします。
> なお、この子の光高には木曾義仲時代の人という説もあり、光清の弟の光定の子という系図(光定ー光高もありますので、このあたりの記事には錯綜も見られます。
> それから事績は知りませんが、名前で一致を求めれば、先の
> 光高ー光衡-光実ー光家ー光長ー光直ー光定ー光経という形でまた時代違いの光経に行き当たります。
> 以上、報告します。
>

沙月さん、お調べいただいてありがとうございます。7世の光経は伊那から京につてを頼って左京亮(官名違っていたらごめんなさい)として仕官していたが、山名細川の対立の頃で仕官を辞したと祖父の書き物で読んだことがあります。その中に光盛が山梨に帰農したことが書いてあります。明治前の古い墓地には光盛を家祖と記した石塔があります。光経も複数のようですから何か特定できるものがあるか、当主に尋ねてみます。何かわかりましたらまたお知らせします。


[358Re:[354] 手塚太郎光盛のこと 投稿者:沙月 投稿日:2005/08/30(Tue) 18:22  

> はじめて書き込みさせていただきます。
> 普段、歴史とか家系とか縁遠い者ですが、私の母親の実家が手塚太郎光盛の子孫ということになっています。
> 今回ネットで検索したらこのページに行き当たり、思っていたより歴史上名のある人物だったこと、手塚治虫さんにも繋がっていることを知り、非常に驚いた次第です。
> 手塚太郎光盛について私が朧に知っていることは、木曽氏

滅亡後は伊那に隠棲しており、光盛より7世後の光経が京に仕官後、さらに伊那から山梨県の高根町(現北杜市)に帰農して移り住んだということです。 その家には家系図などがあった

光盛から7世目に光経とありますが、
確かに①光盛ー②光清ー③光行ー④光遠ー⑤光澄ー⑥光方ー⑦光経
ということで代数はあいます。
ただ、この人は中先代の乱で戦死とされています。
道村さんの話とは異なるので、これは同姓同名の別人ですかね。
代数はあっても事績が今ひとつかみ合わん気がします。
なお、この子の光高には木曾義仲時代の人という説もあり、光清の弟の光定の子という系図(光定ー光高もありますので、このあたりの記事には錯綜も見られます。
それから事績は知りませんが、名前で一致を求めれば、先の
光高ー光衡-光実ー光家ー光長ー光直ー光定ー光経という形でまた時代違いの光経に行き当たります。
以上、報告します。

http://nihonrekishiken.com


[357今年も函館、行ってきました 投稿者:ひづめ 投稿日:2005/08/30(Tue) 18:10  

KUBOさん、こんばんは。

 台風11号が接近中の8月26日19:30、予定を早めて出発。途中豪雨で前も見えなくなり高速道路閉鎖の心配を抱きながらもなんとか青森到着。これまででもっとも穏やかな青森函館航路だったと感じたのはすっかり疲れ果てて眠り込んだせいかも。27、28,29日と「函館お散歩団」活動に専念。事前には特にテーマを決めていなかったのに、終わってみると山のような成果を得て、今朝4:30青森発、11:30無事帰宅。以上で本年の「函館お散歩団」は終了。近い内に成果をアップします。

ひづめ@美浦村お散歩団

http://www.osanpodan.com/


[356Re:[355] 手塚太郎光盛② 投稿者:沙月 投稿日:2005/08/30(Tue) 18:04  

> ごめんなさい。pcの調子が悪くて。。。
> 家系図などあったようなのですが、江戸から明治時代に移る頃、火災があり灰に帰してしまったとのことです。
> 母の実家に行って資料などないか調べてみたいと思っています。
> どなたか光盛周辺のことで(何でも結構です)ご教示いただければ幸いです。

手塚・諏訪については現在当方で系図を作成中です。
建御名方命~諏訪大社大祝家系図・分家した手塚一族で木曾御岳神社大祝家の系図、ほかに手塚治虫の系図もあります。

ただ、残念なことにkuboさんは知りませんか。
手塚治虫の先祖は天然痘撲滅に寄与した良仙につながり、その先祖を吉兵衛といい、その先祖が光盛です。
しかし、光盛~吉兵衛間は通常の系図集にはなく、このことを発表した深瀬泰旦もその間を明らかにしていません。
この間をご存知の方はどうぞ当方に情報をお寄せください。
だめなら、この間は空白で発表するしかないかもしれません。
なお、光盛の上につく俗名で以前、太郎ではなく、次郎説もありましたが、これは誤りのようです。太郎が正しいとどの系図集にもあり、深瀬の書でも論文を除けば、太郎になっています。
なお、藤澤次郎清直から五代目が光盛といいますが、そういう系図は見当たらないので、これはなんらかの誤解と考えています。
ともあれ、手塚諏訪系図集は現在作成中です。
なお、そこにここにいらっしゃる手塚家の皆様の中で系図的情報を提供したい方は当方まで連絡をお願いします。

ともあれ、できあがれば、また掲示しますので、しばらくお待ちください。

http://nihonrekishiken.com


[355手塚太郎光盛② 投稿者:道村 投稿日:2005/08/29(Mon) 19:28  

ごめんなさい。pcの調子が悪くて。。。
家系図などあったようなのですが、江戸から明治時代に移る頃、火災があり灰に帰してしまったとのことです。
母の実家に行って資料などないか調べてみたいと思っています。
どなたか光盛周辺のことで(何でも結構です)ご教示いただければ幸いです。


[354手塚太郎光盛のこと 投稿者:道村 投稿日:2005/08/29(Mon) 19:19  

はじめて書き込みさせていただきます。
普段、歴史とか家系とか縁遠い者ですが、私の母親の実家が手塚太郎光盛の子孫ということになっています。
今回ネットで検索したらこのページに行き当たり、思っていたより歴史上名のある人物だったこと、手塚治虫さんにも繋がっていることを知り、非常に驚いた次第です。
手塚太郎光盛について私が朧に知っていることは、木曽氏滅亡後は伊那に隠棲しており、光盛より7世後の光経が京に仕官後、さらに伊那から山梨県の高根町(現北杜市)に帰農して移り住んだということです。 その家には家系図などがあった


[353新刊刊行 投稿者:沙月 投稿日:2005/08/26(Fri) 11:25  

お元気ですか。ぜひお申し込みください。直接注文をお待ちしています。 安いです。
『日本歴史ロマン』刊行、購入希望者募集

日本歴史研究所では本研究所所長、木村信行の歴史家人生50年の記念事業として、当人の史観に基づく日本歴史入門と、本人の自叙伝・日本歴史研究所発足20周年の歩みをまとめた『日本歴史ロマン』という書を出版しました。この書は全国書店でも販売されますが、もし書店などで求めるよりはぜひ、著者から直接購入したいという方はぜひ、お申し込みをお願い申し上げます。
申し込み方法:郵便振替・郵便為替・現金書留などで送金および申し込みをお願いします。著者のサイン入り希望者はそのことをお書き添え下さい。郵便振替の場合は通信欄にご記入ください。サインをして送ります。ご質問のある方はその旨、メールまたは手紙をお寄せください。

題名:日本歴史ロマン-古文書の裏に潜む謎を解き明かす
連絡先は日本歴史研究所。
キャッチフレーズは「古文書の裏に潜む謎とは-覆る古代史観、新たなる南北朝戦国時代の実像、著者50年の知的歴史人生模様!」

刊行出版社は新風舎(107-0061 東京都港区南青山2-22-17)
主な目次内容
①私の少年時代(少年サンデーから超古代史・超科学へ)
②遺跡探査旅行(出雲大社と八岐大蛇、高千穂から伊勢・熊野へ)
③両親の死と作家への道(日本歴史研究所の設立)
④『ロマン的日本超古代史論』の出版(古史古伝と皇統譜への基礎、神様の紹介、反響はいよいよ世界へ、ウガヤ朝の共通事項対照表)
⑤『日本超古代文明の神秘』の出版(雑誌掲載原稿の集大成)
⑥『日本超古代遺跡紀行』の出版(太古御神陵、キリストは青森に埋葬された、キリストの墓秘話)
⑦竹内宿禰の登場(竹内家の子孫と会う、「竹内宿禰」とは何か、神武~推古天皇の間の年数、志賀島金印もらう神武帝、神武~推古間在位・生没期間比較早見表、神主系図・正統竹内家系図)
⑧大和朝廷の歴史(神武天皇~孝昭天皇、二人のヒミコ、香坂皇子と忍熊皇子、神功皇后、倭王旨、倭の五王の記事は日本書紀にある、飯豊青皇女と武烈天皇、顕宗天皇と仁賢天皇、継体天皇~欽明天皇、敏達天皇~推古天皇)
⑨南朝皇胤中田憲信の登場(南朝皇胤中田憲信、義経とジンギスカン)
⑩南北朝時代論(南北朝時代の概要、南朝熊沢家・浅井家・豊臣家の関係、長慶天皇論、陵墓問題)
⑪神代文字論(漢字以前の文字ー神代文字、ヤマトタケルノミコトは間違いだった、十種の神宝・三種の神器の秘伝)
⑫神社関係の書(神社に眠る神様の御肖像画と御系譜、伊勢神宮のロマン)
⑬その他の書物(天皇紀から江戸幕府十六代まで、ついに迎えた二十周年、おわりに)
⑭図書目録(日本歴史研究所各種図書紹介)など。

装丁は写真多数,本文,一部にカラーグラビアが用いられています。

本の販売価格は本体価格1100円、
申込金は本を単独でお求めの方は1455円(送料込み)を送金してください。
日本歴史研究所の本と一緒にお求めになる場合は、それらの本の申込金+1255円(送料込み)の式で計算した金額を送金してください。
送金される金額の計算例:ロマン的日本超古代史論と一緒にお求めになる場合はロマン的日本超古代史論の申込金である13300円に1255円を加えますので、13300+1255=14555円となります。
この本では木村式日本史入門ということで、今までの歴史常識を打ち破り、著者独自の史観によって組み立てられた歴史理論を展開し、それに裏打ちされた独自の歴史物語を披露して、そこに基づく様々な持論を提示し、さらに著者ならでは五十年の歴史解明人生模様を紹介しています。著者木村信行が詠んだ様々の歴史人生におけるいくつかの和歌もあります。どうぞ、その味もお楽しみ下さい。

http://nihonrekishiken.com


[352小田内通敏について 投稿者:小田内の遠い親戚です 投稿日:2005/08/20(Sat) 19:08  

はじめまして、小田内の遠い親戚にあたるものです。
小田内のことをネットで検索していてこちらに辿り着きました。

わたしも彼について調べ始めたばかりなので、詳しい経歴は判りませんが、
・わたしの「曾祖父の父親(←なんというのでしょう?)」の妹?が嫁いだ先(小田内家)に、田所姓の家(『田舎と都会』に拠る)から養子入り
・わたしの「曾祖父の父親」がやっていた私塾で学び、後に上京
・早稲田中学校の教員を勤めたあと、早大教授に

ということまでは判っています。

地理学が自然科学と人文科学とに分かれてしまっていた(いる)現状を改めるべく、両者を総合して『風土(固有の地形、気象に応じた人間活動、そして両者が融合したモノ)』とでも呼ぶべきものを研究する必要性を説いていたようです。


[351無題 投稿者:妹川武史 投稿日:2005/08/13(Sat) 21:43  

申し訳ございません。通字について教えていただきたく、連絡をいたしました。筑後の国生葉郡を領していた星野氏の「星野家譜」に、星野氏の一族に、中村勇左衛門尉宗重(1333年)と宗重の兄である中野與左衛門尉季宗(1333年)がいますが、名に「宗」を使用しているので、この兄弟は「宗」を通字としていると思いました。その後、中村丹波之介宗章(1586年)は「宗」を使用していますが、中野右京之介季兼(1586年)がいることから、中野氏は「季」を通字にし、中村氏は「宗」を通字にしたと思いました。また、同じく「星野家譜」に星野氏の家臣に妹川又蔵利和(1336年)、妹川佐七郎友宗(1586年)がいますが、この友宗は、中村氏の通字である「宗」を同時期に名乗っている事と、中村氏の同族の中野氏と妹川氏の家紋が同じですので(中村氏の家紋は不明ですが)、中村氏の一族が妹川氏に養子に行ったか又は妹川氏を新たに興したのではないかと思いました。通字の知識が不足しており、疑問に感じております。よろしければご教示をお願いいたします。


[350Re:[340] 児島です。 投稿者:児島 投稿日:2005/08/05(Fri) 11:54  

> はじめまして、私は鹿児島県金峰町の児島です。家紋は丸に平四詰です。ここで時々話題になっている児島一族だとは思いますが、先祖は江戸後期あたりまでしかわかりません。どなたか何かお知りでしたらよろしくお願いします。

私も児島といいます
ご親戚にの姓と深くかかわる紋章以外でも,先祖は誰でも探す事は可能です。
貴方の姓は佐々木一族とも見受けられますが,紋章は別としても鹿児島の児島氏は東郷や西郷氏とも縁がある場合もありますので,もう少し先祖になられる方の縁戚姓の情報がありましたらよいかと。
鹿児島児島氏の先祖は東郷胤時の子孫になるようです。
養子縁組もあり親戚にの姓から割り出されるとよいでしょう。

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html


[349前田中将の子で和田姓 投稿者:児島 投稿日:2005/08/05(Fri) 11:38  

前田中将のお子さんで現在和田家に養子されたお家の情報がありましたら,戦時中のお友達が尋ねていられますので,その後の経過が判ればよろしくお願います。
児島さんの情報は家紋は丸に平四詰でわかると思います。
きっと統合元帥の流れの方とみうけられますが
参考
里村は後、昭和17年、前田中将の便宜により、ボルネオに渡り、『河の民』を書くこと
になる。 『大東亜戦争陸軍報道班員手記 マレー電撃戦』
ボルネオ派遣軍の前田中将に頼んでみることにした。二人の属する文化奉公会の会長は
前田中将である
前田中将は、その通り十四軍参謀長をクビになったあの前田さんです
司令官前田中将が着任、
前田島と改名される。日本軍はここに仮設滑走路を建設

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html


[348今年も函館 投稿者:ひづめ 投稿日:2005/08/04(Thu) 19:16  

KUBOさん、こんばんは。

>~今年は、函館へ行けるかどうか、もし行けるとしたら9月の上旬に3日くらい

と書きましたが、8月27、28,29日頃函館に行けそうです。今年のテーマは何にしようかな。

ひづめ@美浦村お散歩団

http://www.osanpodan.com/


[347寛政譜 投稿者:Hiko 投稿日:2005/08/03(Wed) 21:06  

ようやく決心して寛政譜を買おうと思っています。
寛政譜にはいくつかの年度版が有るようですが、装丁や校正などでおすすめのモノなどあるのでしょうか。

予算の関係で古本のセット買いに為るでしょうが。


[346Re:[344] ああ暑い... 投稿者:手塚 投稿日:2005/08/02(Tue) 23:13  

> KUBO様 こんばんわ!
お調べいただき有難うございました。
親が生存の時には、祖先のことなど考えたことがなく、親に聞いたこともなかったのですが、いざ親が亡くなると急に思い立ったように祖先のことが気になりだした次第でして……。


[345美浦は割合に涼しいです 投稿者:ひづめ 投稿日:2005/07/31(Sun) 12:05  

KUBOさん、お久しぶりです。

>  今年の北海道も結構暑いです。今日も真夏日ではないと思いますが、間違いなく夏
> 日でしょう。どこか涼しいところに行きたいところですが、北海道以上に涼しいとこ
> ろというのもないでしょうからねえ(^^;)

 今年の美浦は割に涼しいです。ここ3日昼間は蒸し暑い日が連続していますが朝夕は涼しいのでとても楽です。今年は、函館へ行けるかどうか、もし行けるとしたら9月の上旬に3日くらいでしょうか。でも、いまのところ何も決まっていません。また機会があればお会いしたいです。

ひづめ@美浦村お散歩団

http://www.osanpodan.com/


[344ああ暑い... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/07/31(Sun) 00:27  

 今年の北海道も結構暑いです。今日も真夏日ではないと思いますが、間違いなく夏
日でしょう。どこか涼しいところに行きたいところですが、北海道以上に涼しいとこ
ろというのもないでしょうからねえ(^^;)
 読書の方は、『生まれる地名、消える地名』『反大坂の陣三』を読み終えて、今度
は何にしましょうかねえ? 『第三の覇者 二』とか『野望円舞曲6』『島津義久』あ
たりでしょうか?

>手塚さん
 はじめまして。鎌倉方面の手塚姓については手持ちの資料を見ても良く分かりませ
んでした。除籍謄本はすでに取られているようですから、あとは過去帳や墓石の調査
や同姓の方に当たってみるなどの方法しか思いつきません。お役に立てず申し訳あり
ません。

>若月さん
 私は教員をしているものですから、「夏休み」とは学校の夏休みの意味です。子ど
もたちは休みでも私たちは休みじゃありませんので、毎日仕事に行ってます(^^;) と
はいえ、普段より休みが取りやすいことには違いありません。ただ北海道の場合、本
州方面とは違いまして、お盆明けにはもう2学期が始まってしまうので、あと2週間
半ほどですね(^^;)

>児島さん
 はじめまして。といっても最近児島さんがたくさんおいでになるので、だんだんわ
からなくなってきました(をい(^^;)) 鹿児島県の児島姓について私が知っていること
は、No.309にかいたことが全てです。金峰町というと以前おいでになった兒島さん(No.
305)の総本家があるとおっしゃっていましたので、何かつながりがあるのかもしれま
せんね。

>Hikoさん
 今回のNo.321の書き込みは、他掲示板の記事を丸ごとそのままコピーしたものでし
たので「転載」だと判断いたしました。転載の場合はその著作権者(この場合は元発
言が書き込まれた掲示板の管理者及びその発言を書き込まれたご本人)の許可を得て、
なおかつ許可を得たことを明記しなければいけないと思いますので、今回は内容を削
除させて頂きました。
 土佐佐竹氏の系図の場合は、「転載」ではなく「引用」であると判断しました。
「引用」の場合は、自分の文章を補完するものとして、自分の文章が主、引用部分が
従となること、また引用元が明記されていること、引用箇所がわかるように記号で区
切ったり、改行したりすることが行われていれば、宜しいと思います。
 以上が転載、引用に関する私の基本的な考え方ですが、お分かりいただけたでしょ
うか? ただし、このことについては掲示板の注意書きに明記していませんでしたの
で、先ほど書き足しておきましたので、どうぞよろしくお願いいたします。

>筑後川さん
> が、、、どこでお会いしたか分かりませんが、悪い印象がないといいのですが、、、
 こたつさんのとことか三楽堂さんの所です(^^;) 直接お話ししたことは...あった
かな?

> 名和氏はもろ地元なので宇宙で私しか扱わないだろうと思って作ってみました。
> はっきり言って太平記は苦手です。難しいです、、、。

 南北朝も嫌いではないので、楠木・名和・新田等は興味ありです(^^)

> 私はやったことがないですが、音響カプラとかでされていたんでしょうか。

 え~、そこまでは古くないです(^^;) 普通にモデムでつないでました。でもパソ通
始めたのが1996年ですから9年前ですか、早いもんです。最初に出入りしたのは当然
歴史フォーラムでしたが...

> 私もそういうマイナーなお話好きです。これからも更新楽しみにしております。

 更新したいのは山々ですが、最近はなかなか時間が取れないのが難点でして... 結
局、息子が寝ている間しか時間が取れない...

> 大道寺氏も拝見しました。津軽藩に行ったまでは知っていましたが、
> それから明治まで残って、青森で大物になっていたんですね。
> やっぱり先祖が偉大だといろいろメリットがあるんですね。
 そうですね、津軽の大道寺族は県会議長になってますし、尾張の大道寺直之は衆議
院議員になってますしね。そういえば、先日みちのく銀行前会長の大道寺小三郎さん
という方がなくなりましたが、みちのく銀行なので弘前藩の大道寺氏の御子孫かと思
いましたが、北海道出身とのことなので、違うんでしょうね(^^;)


[343大道寺 投稿者:筑後川 投稿日:2005/07/28(Thu) 08:32  

おはようございます。

>ですがお名前はいくつかの掲示板でお見かけしております。筑後川
>さんのサイトも何度かのぞきに行ったことがあります(^^) 名和氏のサイトを見た時
>はオーッと思ってしまいましたが(^^;) うちのサイトの「滅びた(?)名族」シリーズ
>でも取り上げる予定ですので、その時には参考にさせて頂きます。今後ともよろしく
>お願いします。
が、、、どこでお会いしたか分かりませんが、悪い印象がないといいのですが、、、><
名和氏はもろ地元なので宇宙で私しか扱わないだろうと思って作ってみました。
はっきり言って太平記は苦手です。難しいです、、、。

>それは私のネット生活がパソコン通信から始まったからなんです。パソ通ではテキ
>ストオンリーですから、系図も文字で表さなくちゃあいけませんしね(^^;)
ああ、ですからプロバイダがニフティさんなんですね。
私はやったことがないですが、音響カプラとかでされていたんでしょうか。
あのころと比べると今は夢の世界なんでしょうね^^;

確かに完成された後の修正が大変っぽいですね。一文字追加しただけで全体がずれそうですので。

>> しかし里見氏は倉吉で滅亡したものと思っていましたが、
>> まだその先があったんですね。
> そうなんです。実はこういうのを調べるのが好きだったりするんですが(^^;)
私もそういうマイナーなお話好きです。これからも更新楽しみにしております。

>> ではこちらのサイトの長寿と繁栄をお祈りしております。
> Live long and prosper.
答えて頂いてありがとうございます。さらっと流されたら結構悲しかったと思いますので^^;

大道寺氏も拝見しました。津軽藩に行ったまでは知っていましたが、
それから明治まで残って、青森で大物になっていたんですね。
やっぱり先祖が偉大だといろいろメリットがあるんですね。

http://tikugo.cool.ne.jp/


[342著作権とか 投稿者:Hiko 投稿日:2005/07/27(Wed) 22:28  

こんばんは。

このようなHPを管理されているからにはKUBOさんも著作権や個人情報保護などにも留意されていると思うのですが、実際のところどのような書き込みだと引っかかるのでしょうか。
以前に土佐佐竹氏の系図を書き込みましたが、ああ云うのも実際には引っかかるのでしょうか。。。


[341Re:[340] 児島です。 投稿者:沙月 投稿日:2005/07/27(Wed) 22:27  

> はじめまして、私は鹿児島県金峰町の児島です。家紋は丸に平四詰です。ここで時々話題になっている児島一族だとは思いますが、先祖は江戸後期あたりまでしかわかりません。どなたか何かお知りでしたらよろしくお願いします。

いいますが、児島高徳の子孫の方ですか。それなら、高徳の子の高秀・高久・高貞・高治の四人の子がいたという所までは系図を作って南朝の星(当ホームページ)に載せました。一応、お知らせしておきます。高徳は後鳥羽天皇の子孫ですね。

http://nihonrekishiken.com/


[340児島です。 投稿者:児島 投稿日:2005/07/27(Wed) 18:41  

はじめまして、私は鹿児島県金峰町の児島です。家紋は丸に平四詰です。ここで時々話題になっている児島一族だとは思いますが、先祖は江戸後期あたりまでしかわかりません。どなたか何かお知りでしたらよろしくお願いします。


[339Re:[338] 手塚さんにお尋ねします。 投稿者:手塚 投稿日:2005/07/25(Mon) 22:59  

沙月さん こんばんわ!
私の家には系図などというたいそうな物はありません。
お寺の過去帳については一度伺って拝見させていただきたいなとは思っているのですが、まだ実行しておりません。
高次郎(天保8年生まれ)について、資料的なもので確認できたことは、明治3年に名主により作られた戸籍(5人組の形態)と戸籍謄本で確認できました。
居住地と菩提寺は、ともに扇ガ谷です。
なお、蛇足ですが、天保の墓石の横側に手塚氏と彫られたものがあります。


[338手塚さんにお尋ねします。 投稿者:沙月 投稿日:2005/07/24(Sun) 16:32  

> 始めまして、手塚と申します。
> 最近、先祖について気になってきまして、少しばかり先祖探しに足を突っ込んだところです。!
> 私の家は、明治以前から旧鎌倉市内に住んでいたようで、墓石の年号をたどると安永が一番古いものでした。
> いまのところ、ご先祖様で確認できたのは、ひい爺さんの一代前の高次郎という方までです。
> 同じ手塚姓の方でご先祖様に鎌倉とゆかりがおありの方いらっしゃいますでしょうか。

という方について実は私は系図を研究している者で、読者の金指さんという方から、先祖の系図を調べてほしいと依頼を受けたものです。金指家は諏訪家と同族で先祖は建御名方命につながります。私は歴史を研究する傍ら、系図も研究し始めた結果、ある系図研究家が作った諏訪氏の系図を入手し、この活字化を考えているものです。本題に入りますが、諏訪氏から手塚氏は分かれた一族で、一時期、清和源氏で満快流の源為公の娘を妻にした諏訪為仲の子孫の盛澄が木曾義仲に従い、後に源頼朝に仕えます。鎌倉との縁はそこにあると思います。この盛澄には弟で光盛という人が居てどちらも手塚姓を名乗り、実は漫画家の手塚治虫はこの子孫といわれて居ます。手塚治虫の先祖は江戸時代の天然痘医師の手塚良仙につながりますが、光盛~良仙の間は不明なので、私はそちらを知りたいと思っています。

ところで、手塚さんの先祖はどこまでさかのぼれるのでしょうか。系図や菩提寺の過去帳などで、有る程度江戸時代あたりまでさかのぼれるのでしょうか。差し支えない範囲で教えてもらえるものならご教示願います。

http://nihonrekishiken.com/


[337もう?夏休み? 投稿者:若月 投稿日:2005/07/24(Sun) 12:53  

KUBOさん、ありがとうございます。
24日から夏休み?いいなぁ。
私は8月からです・・・。

小田内通敏さんは秋田出身で郷土地理学?の研究した人みたいです。


[336さがしています 投稿者:手塚 投稿日:2005/07/24(Sun) 12:50  

始めまして、手塚と申します。
最近、先祖について気になってきまして、少しばかり先祖探しに足を突っ込んだところです。!
私の家は、明治以前から旧鎌倉市内に住んでいたようで、墓石の年号をたどると安永が一番古いものでした。
いまのところ、ご先祖様で確認できたのは、ひい爺さんの一代前の高次郎という方までです。
同じ手塚姓の方でご先祖様に鎌倉とゆかりがおありの方いらっしゃいますでしょうか。


[335今日から夏休み... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/07/24(Sun) 00:20  

↑に入りました。といっても、平日はいつものように出勤するのは変わりないんです
が... まあ、でも普段に比べると休みを取りやすいのが良い点ですけど。去年は家系
研究協議会の夏の例会に出席するために関西方面に行き、お城巡りもしてきましたが、
今年は全く旅行の予定はありません。最近はせいぜい札幌周辺だけで、遠出をしてい
ないので、少しは出かけたいなあとは思いますが、子連れじゃあ難しいですねえ(^^;)
またモエレ沼にでも行ってみましょうか?
 家系研究協議会といえば、今年で創立25周年だそうで、9月10日に記念式典を開
催し、「武功夜話」の訳者・吉田蒼生雄氏の記念講演を行うそうです。残念ながら、
行けそうもないですが(^^;)

>Hikoさん
 どういたしまして。そういうツッコミでしたら、全くOKですので、また気が付い
たことがありましたら、教えて下さいね(^^)

>沙月さん
 太田亮博士が『姓氏家系大辞典』を編纂する際に、太田博士が運営していた『系譜
と伝記』『国史と系譜』(『系譜と伝記』を改題)という雑誌に掲載されていたものか
ら転載されていたものが少なからずあるということを以前聞いていたので、手元にあ
る『系譜と伝記』『国史と系譜』を見てみましたら、『系譜と伝記』の第八号(第一
巻第八号)に金指真一氏の「伊豆金指氏系図」、第九号(第一巻第九号)に「金指氏系
図(その二)」、第十一号(第二巻第一号)に「金指氏系図(その三)」という論考が載っ
ており、『姓氏家系大辞典』に載っているのと同様のことが載っておりますので、出
典はこれで間違いないでしょう。ただ、これらを見ても『姓氏家系大辞典』に載って
いる以上の情報は書かれていませんし、この金指真一氏の情報源も自家の家系図と思
われますので、どこまで信憑性のあるものかはわかりません。
 なお、私が参照した『系譜と伝記』『国史と系譜』は、近藤出版社が昭和63年に限
定復刻したものです。

>若月さん
 申し訳ありませんが、小田内通敏については初めて名前を聞きました。


[334小田内通敏について 投稿者:若月 投稿日:2005/07/23(Sat) 13:32  

色々な事を調べているうちに、小田内通敏について知りたくなりました。学歴、職歴はよくわかりませんが、早大教授になったことは一つくらいです。有名ですね?


[333清和天皇4代の子孫の尊慶親王とは何者? 投稿者:沙月 投稿日:2005/07/21(Thu) 10:20  

姓氏家系大辞典の1590ページの3段目に清和天皇4代裔孫の尊慶親王と在伍中納言、常安・孝貞・正常というのが出てくる。また金指真一という人の説があるが、この真一説の出典、
清和天皇4代裔孫の尊慶親王と在伍中納言、常安・孝貞・正常は生気の皇室系図には出てこない。
これらの人々を調査する方法をご存知の方はご教示お願いしたい。


[332朽木衆綱ムスメ2 投稿者:Hiko 投稿日:2005/07/19(Tue) 16:54  

レスありがとうございました。

 寛政譜の資料が提出された時代の人々から見てこの女性は大体祖父母の時代に該当しますよね。
 特別な意図が無い限り、寛政譜のこの世代の記載は正しいのでは無いかと思っているので、やはり、衆綱の晩年のムスメで兄朝綱の養女として嫁いだと見るべきですかね。

※また、あら探しの様なツッコミを入れるかも知れませんが、お付き合い頂けるとウレシイデス。ありがとうございました


[331相変わらず読書中... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/07/19(Tue) 00:40  

 夏も盛りになってきましたね。北海道もここしばらくは暑いですが、天気予報によ
ると明日は20度くらいとか。なんだそりゃあ?
 『将軍家「将棋指南役」』を読み終わったあと、ここしばらくは『異戦関ヶ原』
『新天下布武』など歴史シミュレーションものを読んでましたが、今日からは『星界
の断章I』に突入。本編がなかなか進まないので、短編集でくるとは。早く本編も書
いて欲しいところ。それが終わったら、『生まれる地名、消える地名』かな? あ、
でも『足利直冬』もあったっけ...(^^;)

>沙月さん
 家系研究会ではなくて家系研究協議会ですね。あそこの掲示板は私ものぞいており
ますので、わざわざ掲示なさらなくても結構です。それに他の掲示板の書き込みを丸
ごとコピーしておられますが、転載の許可は取られたのでしょうか?あちらの掲示板
にはその由の書き込みはなさっていないようですが...?
 著作権にも関わりますので、該当の書き込みについては内容を削除させていただき
ましたので、ご了承下さい。この件について何かありましたら、この掲示板ではなく
メールにてご連絡下さい。
 それから蛇足ですが、私のハンドルネームはKUBOでして、久保でもくぼでもありま
せんので、お間違えなく。(本名は窪田ですし(^^;))

 『姓氏家系大辞典』の藤澤條のことですが、この辞典はもともと昭和初期の発行の
ため旧字体・旧仮名遣いを使っています。確かに「フジサハ」は「富士澤」姓しか出
ておりませんが、「フヂサハ」の所に「藤澤」姓が載っています。

>こたつ城主さん
 こちらこそ大変ご無沙汰しております(^^;) 最近はすっかりそちらに顔を出してま
せんねえ。余裕がありましたら、そのうちに顔を出させて頂きます。今年も暑い!と
書きましたが、最近は暑くなったり涼しくなったりで、なんだかはっきりしない天候
です(^^;)
 関宿ですか。茨城・千葉方面は関東の中でもまだ足を踏み入れていないもので、そ
のうちに行かねばとは思っていますが、いったいいつになりますことやら(^^;)

>Hikoさん
 ご指摘の点、調べてみました。確かに朽木氏の系図は『寛政譜』が元になっていま
して、そちらでは六角知通の室は衆綱の娘となっているのですが、『公卿諸家系図』
を見てみると、知通の子光通の母が「源朝綱女」となっています。
 手持ちの資料で生没年を調べてみたら、次のような結果になりました。
『寛政譜』
 ・朽木衆綱~~~享保18年38才で死亡、生没年は1696~1733
 ・衆綱の子朝綱~明和元年48才で死亡、生没年は1717~1764
 ・朝綱の子道綱~明和元年16才で相続、寛政元年致仕、生没年は1749~1789以降
『公卿諸家系図』
 ・六角知通~~~天明6年49才で死亡、生没年は1738~1786
 ・知通の子光通~文化6年54才で死亡、生没年は1756~1809(母朽木朝綱女)
『諸家傳』
 ・六角基風(知通)~元文2年誕生、生年は1737~
『系図纂要』
 ・六角知通~元文元年生、天明6年薨、生没年は1736~1786
 ・六角光通~宝暦6年生、文化6年薨、生没年は1756~1809(母朽木朝綱女)

 調べた限りでは六角知通の生年にばらつきがありますが、一番早い1736年として、
朽木衆綱の没年が1733年ですので、知通の室が衆綱の娘だとすると最晩年の子で知通
より姉さん女房ということになりますね。息子の光通が1756年生まれですから、知通
とそれほど年齢差があったとも思えませんし。
 知通に嫁いだ頃には朝綱が当主ですので、Hikoさんのおっしゃるように朝綱の娘と
して嫁いだのかもしれませんね。ただ朝綱の生年が1717年ですから、朝綱の娘だとし
ても年代的にはあいますが。

>筑後川さん
 はじめまして、ですがお名前はいくつかの掲示板でお見かけしております。筑後川
さんのサイトも何度かのぞきに行ったことがあります(^^) 名和氏のサイトを見た時
はオーッと思ってしまいましたが(^^;) うちのサイトの「滅びた(?)名族」シリーズ
でも取り上げる予定ですので、その時には参考にさせて頂きます。今後ともよろしく
お願いします。

> 系図を拝見させて頂きました。調べられたのもすごいですが、
> それを文字で表示されるというのがすごいですね、、、。
 それは私のネット生活がパソコン通信から始まったからなんです。パソ通ではテキ
ストオンリーですから、系図も文字で表さなくちゃあいけませんしね(^^;) うちのサ
イトのネタのほとんどはパソ通時代の書き込みが元ネタですので、それをコピペする
のが一番手っ取り早いですし、パソ通時代の経験でテキストで系図書くのがすっかり
苦にならなくなってしまいまして。
 ただ、書く時は良いんですけど、修正する時はちょっとめんどうですね。でももう
慣れちゃいましたね(^^;)

> しかし里見氏は倉吉で滅亡したものと思っていましたが、
> まだその先があったんですね。
 そうなんです。実はこういうのを調べるのが好きだったりするんですが(^^;)

> ではこちらのサイトの長寿と繁栄をお祈りしております。
 Live long and prosper.

>若月さん
 はじめまして。たぶんうちの掲示板の過去ログに「真崎勇助」の名前が出てくるの
で、検索にそれが引っかかってこちらに来たのだと思いますが、私が真崎勇助につい
て知っていることは、彼が『秋田武鑑』の草稿本を所蔵していて、それをもとに無明
舎出版から『秋田武鑑』が出版されたということ。また、『秋田武鑑』のまえがきに
「収集家であり、著作家であり、且つ郷土史研究家として有名な真崎勇助氏(1841~
1917)」と書かれていることくらいです。
 Googleで検索してみると、大館市立中央図書館や秋田県公文書館に真崎勇助氏所蔵
の古文書類があるようです。
またこのページ(http://hachirogata-mebius.web.infoseek.co.jp/minomushi.html)には
「真崎勇助は「石鏃考」「雲根録」などの著作のほか、神田孝平(蓑虫と同郷の蘭学
者)を介して「東京人類学会報」に発表された県内200ヵ所の鏃(やじり)石の所在
地の研究で高く評価されており、秋田を訪れる学者、研究家で彼を頼らぬ者がいない
という程であった。」と書かれていました。

 もう既にご存じのことばかりかもしれませんが、ご参考になれば幸いです。


[330はじめまして 投稿者:若月 投稿日:2005/07/18(Mon) 10:16  

真崎勇助について研究したいと思ってあちこち調べてきたんです
が、知っている人はいますか?
業績や執筆した本の名前でもいいので、教えていただければ、助かりますが…。


[329First Contact 投稿者:筑後川 投稿日:2005/07/13(Wed) 23:21  

こんばんは。初めまして。
ご挨拶しようかと半年くらい迷いましたが、書き込みさせていただきます。
私もKUBOさんと同じく歴史が好き(ちょっとだけですが)で、
スタートレック(こちらはまあまあ)が好きな人間です。

系図を拝見させて頂きました。調べられたのもすごいですが、
それを文字で表示されるというのがすごいですね、、、。
やったことがないので分かりませんが、大変なような気がしました。
しかし里見氏は倉吉で滅亡したものと思っていましたが、
まだその先があったんですね。

初めてですので、今回はこのくらいで、、、。
ではこちらのサイトの長寿と繁栄をお祈りしております。

http://tikugo.cool.ne.jp/


[328朽木衆綱ムスメ 投稿者:Hiko 投稿日:2005/07/13(Wed) 14:43  

久しぶりに書き込みです。
北海道は涼しそうで良いですね。。。京都は死にそうです。

表題の件ですが、こちらの朽木系図は寛政譜を基にされて
いるのですよね?
 系図中の朽木衆綱のムスメに六角知通室を記入されていますが、六角家側に於いては、朝綱のムスメとされているよう
です。1756年生まれの六角光通の外祖父としてはどちら
もあり得ると思いますが、衆綱・朝綱の生没年が見つかず。
ご存じの方がおられたらお教えください。

※通例的には衆綱の晩年のムスメを兄で当主の朝綱が養女に
して嫁がせたと考えるのが無難かも知れませんが。


[326暑中お見舞い申し上げますm(__)m 投稿者:こたつ城主 投稿日:2005/07/08(Fri) 22:25  

師匠! ご無沙汰申し上げております。
不肖の(自称)弟子こたつ城主であります!

北海道は暑いですか(^_^;)。そうですか(笑)。
去年はウチの方(千葉)も大層な暑さで、7月に入るやPCが卒倒してしまいましたが、今年はそうでもないので、ゆっくりと卒倒していってます(笑)。

実は本日は、これまでも何度も見に来たんですが、古河公方家の記述をしつこくまた見に参りました。
何度見ても頭に入りきらないという(^^;)。。
しかし、最初の頃こちらで見たので、何となくまた見に来てしまうのでした(笑)。

実はGWに関宿に行きまして、これまでも義明関連の話は地元なので頭に入ったのですが、はじめてその兄、高基の存在を気にするようになりました(やっと今(^^;))。
関宿は高基がオヤジに逆らってやって来て、そのまま居着いて、もうちょっと頑張ってくれれば「関宿公方」なんて名が出たかもしれない所でしたっ(#^.^#)。

それにしても、相変わらずスゴイ掲示板……と言いますか、一時期よりさらにパワーアップなさって感服致しますm(__)m。

ただどうぞ、くれぐれもお体をお労わり下さいませ(レスはいつでも(^^;))。
ご無理のないように、でもこれからのご活躍もお祈りしておりまする~~(^^)。

http://kotatujo.cool.ne.jp/


[325本系児島様へ 投稿者:児島 投稿日:2005/07/08(Fri) 21:47  

児島宮家の児島です,遅くなりましたが始めまして
兒島の本家です,佐々木氏は外祖で当者の先祖は姓がまちまちで,佐久間とか名乗りました。
児島様は佐々木児島氏とお見受けしました,
(信栄というのは佐久
> 間信盛の長男・正勝のことではないでしょうかについて)
その通りで御座います

2005/05/15(Sun)につきまして
花岡島津の付家老を務めていました。総本家は鹿児島県金峰町ですか
高秀―高重―高継―高明―高儀―高富―高倉と続く系統ですと本系児島氏ですね
範長の子高秀系になりますね、そうなりますと佐々木藤原氏
にあたりますね
当者の系図は東照宮の寛永系譜帳に詳しく載せてあります
又寛政系譜帳にも載せてあり,当者の先祖が述べています
一応佐久間系図で見られた方が判りやすいと思います

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html


[324319への疑問ー久保さんわかりますか。 投稿者:沙月 投稿日:2005/07/06(Wed) 11:41  

。『姓氏家系大辞典』の藤沢氏の項に諏訪系図に「大祝為貞―大祝敦貞―諏訪次郎敦真―千野大夫光親―藤沢神次親貞―藤沢次郎左衛門尉清親―藤沢次郎清直とでています。

と くぼさんの文ですが、藤沢という項目は姓氏家系大辞典になく、代わりに富士澤という項目に藤澤條参照とあるだけ?
なお、同辞典のスハ(諏訪)という項目の3098ページに久保さんのいう系譜は掲載されていました。変ですな。

平塚も手塚もこの氏族が併せ持つ姓のようです。扶と快も二通りの系図集の写本実在、今は扶を採用。
とりあえず、報告まで。

手塚光盛~手塚吉兵衛~手塚良仙にいたる細かい系譜をご存知の方はご教示を頼む。


[322久保さんありがとうございます 投稿者:沙月 投稿日:2005/07/03(Sun) 23:15  

久保さん、ありがとうございます。又跡で詳しく調査の上、報告させてもらいます。とりあえず、他の掲示板情報を参考に掲示しておきます。


[321家系研究会での展開 投稿者:沙月 投稿日:2005/07/03(Sun) 22:51  

他掲示板の記事の転載のため、内容は削除させて頂きます。(管理人)


[319「仙台藩士事典」が... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/07/02(Sat) 00:12  

 宮城県の郷土史家・坂田啓氏が長年の努力の末出版された『私本 仙台藩士事典』という資料があります。絶版になっているので、今までは国会図書館に複写を依頼していました。しかし、先日ヤフオクでこれのCD-ROM版を発見! 早速落札してしまいました(^^;) あと1枚あるようですので、興味のある方はヤフオクで検索してみて下さい。ただし終了が7/3の午後9時過ぎですのでお早めに。

>霧島成仁さん
 はじめまして。系譜を調べたいとのことですが、どの程度情報があるのでしょうか?全く白紙からのスタートであれば、まずは自分の戸籍謄本、そして父・祖父の戸籍謄本・除籍謄本と遡って取得していけば、たいていは江戸末期くらいまでは遡れるはずです。それ以上となると、いろいろと難しくなりますので、『家系のしらべ方』(丸山浩一、金園社)や『あなたも系図が作れます』(丹羽基二、新人物往来社)、『簡単便利 家系図作成マニュアル ご先祖さまを探してみませんか』(太田さとし、ビジネス社)などを参考にされると良いでしょう。

>沙月さん
 手塚治虫の先祖ですか。手塚氏は諏訪下社大祝の金刺氏からでていますが、沙月さんのおっしゃる藤沢二郎清直は諏訪上社大祝の神氏の庶族のようですね。『姓氏家系大辞典』の藤沢氏の項に諏訪系図に「大祝為貞―大祝敦貞―諏訪次郎敦真―千野大夫光親―藤沢神次親貞―藤沢次郎左衛門尉清親―藤沢次郎清直とでています。ただそれ以降の系譜についてはよくわかりません。また、『古代氏族系譜集成』では手塚光頼は輔光の子ではなく金刺宿禰有範―手塚三郎光清―手塚三郎光清―手塚太郎光頼―手塚太郎光守(光盛)という系図を掲げています。また同系図では手塚光継の伯父に次郎清近を掲げ、その子次郎左衛門義賢―手塚太郎経賢としており、註によると「本朝百家系図」所収「手塚」系図では義賢の父を藤沢次郎清直、その父を藤沢次郎左衛門清親としており、藤沢氏を祖とする手塚氏もあったようで、その辺が混乱の元になっているのかもしれません。いずれにしても手塚太郎光盛と手塚次郎光盛は同一人物ではなかろうかと考えます。


[318手塚治虫系図の謎 投稿者:沙月 投稿日:2005/06/25(Sat) 23:42  

手塚治虫の先祖は遡ると手塚次郎光盛という人につながると歴旅2000年2月号に出ています。この光盛は木曽義仲の陣営に従ったとあります。この五代前の先祖は藤沢次郎清直とあります。五代の内訳記載なし
でも、姓氏家系大辞典の1590ページに手塚太郎光盛という人がいます。この人の大将も木曽義仲です。ということは次郎と太郎の違いはあるが、姓も光盛も共通なので同じ人に見たいのですが、困るのは太郎と次郎の違い。そして五代の前が太郎の場合は清直ではなく、
八麿ー若嶋ー貞長ー長清ー長頼ー盛友ー輔頼ー次郎輔光ー次郎光頼
ー太郎光盛となっているのが武居祝系図略です。
ということは系図と次郎と太郎の違いはあれど、大将は共通。
さあ、この手塚太郎光盛と手塚次郎光盛は別人でしょうか。同一人でしょうか。誰かこのなぞを説明できる人が居たら教えてください。


[317私の系譜 投稿者:桐島成仁 投稿日:2005/06/22(Wed) 16:54  

私のけいふを調べたい


[316暑い!北海道... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/06/21(Tue) 23:11  

 申し訳ないです。3週間ぶりですね(^^;) すっかり北海道も暑くなりまして、毎日汗
だくです(^^;)
 「滅びた(?)名族」シリーズの方は全く進んでおりません(^^;) 本は相変わらず少し
ずつですが読んではいるんですけど...この前『御家騒動』(中公新書)を読み終わっ
たので、今は『藤原氏千年』(講談社現代新書)を読んでおります。これを読み終わ
ったら今度は『将軍家「将棋指南役」』(新書y)ですかねえ?

>西田さん
 はじめまして。何だかHNが3つもありますが、書き込む時には1つにして下さい
ね。おっしゃる通り細川京兆家の子孫は三春藩士になってますね。手持ちの資料では

細川昭元(信良)―元勝(頼範)―義元―宣元―忠元=+=義寧
                       ∥
                       +=孚元

と、江戸中期までのものしかありませんが、友人からの情報によると明治初期に細川
○元という人物が訓導(教師)を務めていたという記録があるそうなので、明治期まで
は存続していたようですね。

>沙月さん
 残念ですが、諏訪大祝家の資料は特に持ち合わせてませんねえ。

>兒島さん
 『さつまの姓氏』は鹿児島県の家系研究家・川崎大十氏が長年採集されてきた県内
の諸系図をまとめられたものなので、当然間違いや遺漏等はあると思います。
 ただ高山郷の児島氏につきましては、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』や角川書店
の『鹿児島県姓氏家系大辞典』にも載っております。ただ個人的には家紋が平四つ目
で諱に「綱」の字が付いている人物が多いというのは、佐々木氏流ではないかという感
触を受けますが。(あくまでも感触です)
 ちなみに高山郷の児島氏の六代盛次は永井実興の嫡子、七代盛宜は日高為正の
次男仲二郎が養子となった、八代綱本は宇都宮快意四男だそうです。
 また前回の書き込みでは煩雑なので省略しましたが、高山郷の児島氏には分家が
三家あって、二大綱友の二男綱固の系統(綱固―善左衛門―彦四郎―善蔵=助次郎
―竜右衛門―善七郎―善助)と、八代綱本の二男綱平の系統(綱平―綱彦―維精)と、
九代綱直の二男治四郎の系統(治四郎=安)があったそうです。
 また宮之城流兒島氏にも分家が一つあって、二代高重の二男高助の系統(高助―
―高直―高真=高近―高治)と続くそうです。


[315Re:[309] レスが滞り気味(^^;) 投稿者:兒島 投稿日:2005/06/11(Sat) 22:52  

>  どうも最近はレスが滞り気味です(^^;) 普段はあまり時間がないので土日にやろう
> と思うんですが、土日も意外と時間がなかったりして(^^;) 「滅びた(?)名族」シリ
> ーズも武田氏に取りかかって入るんですが、途中で止まってます。なんだかんだ忙し
> いもんです。
>  今日はお天気が良いので坊主くんとお散歩に行ってきました。何だ時間があるんじ
> ゃないと思われるかもしれませんが、ここれも親の務めというもんです(^^;) 結構歩
> いたので坊主くんは今お昼寝中です。
>  再起あまり歴史がらみの話題はないんですが、本は相変わらずちょこちょこ増えて
> ます。いま読んでいるのは谷口克広氏の『信長の親衛隊』と『バカ殿様こそ名君主 
> 江戸の常識は今の非常識』ですが、なかなか面白いです。
>
> >もっちゃんさん
>  お城巡りMLはこちらをどうぞ。→http://www.shirofan.com/ml/
>
>  それから、FSIROも@niftyから独立して「46(しろ)チャンネル」と改名して続い
> てますので、おいで下さい。(といいつつ私もここしばらくお城に行ってませんので
> 書き込みしてませんが(^^;))→http://forum.siro.gr.jp/
>
> >兒島さん
>  はじめまして。薩摩の児島氏ですか。『さつまの姓氏』によりますと、薩摩の児島
> 氏はいくつか系統があるようですね。
> ①姶羅郡重富郷(姶良町)の児島氏は藤原姓を称し、盛央―盛成=盛英―盛実と続く。
> ②肝属郡高山郷(高山町)の児島氏は清和源氏武田氏族で、綱根―綱友―定盛―盛宣―
>  盛興=盛次―盛宜=綱本―綱直―綱紀―真と続く。
> ③宮之城の児島氏は宇多源姓で、佐々木盛綱―盛則―重範(児島武範嗣)―範守―範勝
>  =範長―高徳―高光……高秀―高重―高継―高明―高儀―高富―高倉と続く。
> ④出水郡長島郷平尾村(長島町)の児島氏は本姓出自不詳、通徳―庵―孝顕と続く。
>
> と分家をのぞくと4つの系統が載っていました。兒島さんのご先祖は③の系統でしょ
> うか?「さつまの姓氏」には高秀は近江から備後神鍋城主となったが、のち和泉堺に
> 陋居、その子高重は小西行長に従い肥後八代に下向、八代城を守ったが、慶長五年加
> 藤清正に敗れ、宮之城に逃れ、宮之城島津家忠長に仕え、以後歴代宮之城島津家の家
> 老職を務める、と書かれています。
 系統的には③になりますが、当家の先祖が下向したのは島津氏薩摩下向に従ってですのでやや違います、また、高山町の児島氏については、薩摩分限帳を調べますと、表記されている人名は見あたりません、想像ですが(当家の系図が今行方不明のため戦前研究のため貸してもらいということで家系図と陣太刀もっていかれたままです。)、高山町と花岡町は隣になるので、系図を作成された方が、当家の系図と混同しているかもしれません。時期的に花岡島津氏が創立された時期と高山町の初代の時期が合致しており、家紋についても当家の分家の一部が四つ目菱を使用している点から薩摩の姓氏で表記されているが間違っている可能性も否定できません。
 とにかく、宮之城の兒島氏も同族であることには、間違いないと思います。


[314Re:[313] 諏訪系図について 投稿者:沙月 投稿日:2005/06/09(Thu) 15:26  

> 現在、諏訪大社大祝家の系図を企画中です。日本史小百科家系208ページの諏訪家で金刺為継にも関係します。どなたかいい研究者の参考文献をご存知の方はご教示お願いします。

金刺家の子孫に金指家がいて、当社の読者。先祖は太安万呂につながるというそうです、後はよろしくお願いします。


[313諏訪系図について 投稿者:沙月 投稿日:2005/06/08(Wed) 11:18  

現在、諏訪大社大祝家の系図を企画中です。日本史小百科家系208ページの諏訪家で金刺為継にも関係します。どなたかいい研究者の参考文献をご存知の方はご教示お願いします。


[312Re:[311] [310] 細川京兆家 投稿者:西田 投稿日:2005/06/04(Sat) 11:26  

> > 細川頼範公の御子孫を、御存知のかた情報ください。三春藩において細川京兆家は、かっこたる地位を御築きになられたので、御子孫の方方も多く御存命と思うのですが。お犬の方様の御供養にもなりますので。310・311の続き。大河ドラマなどでNHK
に、細川昭元公様、お犬の方様、細川頼範公様、佐治信方様が、御出演なされたら嬉しいのですが。


[311Re:[310] 細川京兆家 投稿者:銅折 投稿日:2005/06/04(Sat) 11:04  

> 細川頼範公の御子孫を、御存知のかた情報ください。三春藩において細川京兆家は、かっこたる地位を築いたので、御子孫の方方も多く御存命と思うのですが。お犬の方様の御供養にもなりますので。


[310細川京兆家 投稿者:西田宣道 投稿日:2005/06/04(Sat) 10:47  

細川頼範公の子孫を、御存知のかた情報ください。


[309レスが滞り気味(^^;) 投稿者:KUBO 投稿日:2005/05/29(Sun) 13:12  

 どうも最近はレスが滞り気味です(^^;) 普段はあまり時間がないので土日にやろう
と思うんですが、土日も意外と時間がなかったりして(^^;) 「滅びた(?)名族」シリ
ーズも武田氏に取りかかって入るんですが、途中で止まってます。なんだかんだ忙し
いもんです。
 今日はお天気が良いので坊主くんとお散歩に行ってきました。何だ時間があるんじ
ゃないと思われるかもしれませんが、ここれも親の務めというもんです(^^;) 結構歩
いたので坊主くんは今お昼寝中です。
 再起あまり歴史がらみの話題はないんですが、本は相変わらずちょこちょこ増えて
ます。いま読んでいるのは谷口克広氏の『信長の親衛隊』と『バカ殿様こそ名君主 
江戸の常識は今の非常識』ですが、なかなか面白いです。

>もっちゃんさん
 お城巡りMLはこちらをどうぞ。→http://www.shirofan.com/ml/

 それから、FSIROも@niftyから独立して「46(しろ)チャンネル」と改名して続い
てますので、おいで下さい。(といいつつ私もここしばらくお城に行ってませんので
書き込みしてませんが(^^;))→http://forum.siro.gr.jp/

>兒島さん
 はじめまして。薩摩の児島氏ですか。『さつまの姓氏』によりますと、薩摩の児島
氏はいくつか系統があるようですね。
①姶羅郡重富郷(姶良町)の児島氏は藤原姓を称し、盛央―盛成=盛英―盛実と続く。
②肝属郡高山郷(高山町)の児島氏は清和源氏武田氏族で、綱根―綱友―定盛―盛宣―
 盛興=盛次―盛宜=綱本―綱直―綱紀―真と続く。
③宮之城の児島氏は宇多源姓で、佐々木盛綱―盛則―重範(児島武範嗣)―範守―範勝
 =範長―高徳―高光……高秀―高重―高継―高明―高儀―高富―高倉と続く。
④出水郡長島郷平尾村(長島町)の児島氏は本姓出自不詳、通徳―庵―孝顕と続く。

と分家をのぞくと4つの系統が載っていました。兒島さんのご先祖は③の系統でしょ
うか?「さつまの姓氏」には高秀は近江から備後神鍋城主となったが、のち和泉堺に
陋居、その子高重は小西行長に従い肥後八代に下向、八代城を守ったが、慶長五年加
藤清正に敗れ、宮之城に逃れ、宮之城島津家忠長に仕え、以後歴代宮之城島津家の家
老職を務める、と書かれています。


[308Re:[306] 児島様へ 投稿者:兒島 投稿日:2005/05/17(Tue) 21:58  

> >児島さん
>  佐々氏は佐々木と親戚といいますか、佐々木氏の分流の一つです。佐々木盛綱の子
> 加地信実の八男氏綱が佐々を称したとも、佐々木信綱の三男泰綱の子頼起が佐々を称
> したとも言われています。(異説に菅原姓で近江余呉庄を出身地とするというものもあ
> る)成政の娘が狩野家と鷹司家に嫁いでいるのは知っています。信栄というのは佐久
> 間信盛の長男・正勝のことではないでしょうか?
>
> >随分前の話です、信盛の長男・正勝です、当家は代々佐々木氏が外祖になっています,正勝の長男甚九郎正成が私の先祖
> になります、代々が甚九郎を名乗っているそうです。
> それから佐々成政に預けられた女が狩野家と鷹司家に嫁いでいるが本当の事でした。
> よく間違われるのですが、児島と私の児島とは縁戚になりますが、本当は佐々木児島氏と,頼仁の児島の二つがあり、この佐々木一族が外祖というわけです。
>
> 兒島の分家の児島様始めまして、そうですかご先祖は、島津氏の薩摩下向に従い薩摩入りだったのですか,よろしくお願いします,薩摩には東郷平八郎の故郷でしたね、それに私の祖父の母は黒田長溥公で薩摩藩重豪公の男で斉彬公の叔父とか、薩摩藩祖は佐々木の女の子が初代ですから、その頃から貴方のご先祖はいられたのですね。リンク先で少し系図を述べています。
島津家の血筋を引いておられるのですね、掲示板が述べました、曾祖母は、島津一門の樺山家の出です。また、黒田家は佐々木氏と同族の宇多源氏だったと記憶しております。
 かなり血が近いようですね。


[306児島様へ 投稿者:児島 投稿日:2005/05/16(Mon) 09:32  

>児島さん
 佐々氏は佐々木と親戚といいますか、佐々木氏の分流の一つです。佐々木盛綱の子
加地信実の八男氏綱が佐々を称したとも、佐々木信綱の三男泰綱の子頼起が佐々を称
したとも言われています。(異説に菅原姓で近江余呉庄を出身地とするというものもあ
る)成政の娘が狩野家と鷹司家に嫁いでいるのは知っています。信栄というのは佐久
間信盛の長男・正勝のことではないでしょうか?

>随分前の話です、信盛の長男・正勝です、当家は代々佐々木氏が外祖になっています,正勝の長男甚九郎正成が私の先祖
になります、代々が甚九郎を名乗っているそうです。
それから佐々成政に預けられた女が狩野家と鷹司家に嫁いでいるが本当の事でした。
よく間違われるのですが、児島と私の児島とは縁戚になりますが、本当は佐々木児島氏と,頼仁の児島の二つがあり、この佐々木一族が外祖というわけです。

兒島の分家の児島様始めまして、そうですかご先祖は、島津氏の薩摩下向に従い薩摩入りだったのですか,よろしくお願いします,薩摩には東郷平八郎の故郷でしたね、それに私の祖父の母は黒田長溥公で薩摩藩重豪公の男で斉彬公の叔父とか、薩摩藩祖は佐々木の女の子が初代ですから、その頃から貴方のご先祖はいられたのですね。リンク先で少し系図を述べています。

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html


[305児島様 投稿者:兒島 投稿日:2005/05/15(Sun) 22:53  

児島様
初めまして、私も兒島です。
当家は、佐々木盛綱を先祖とする一族です。
先祖は、島津氏の薩摩下向に従い薩摩入りしたと聞いております。当家は、兒島の分家で島津氏一門の花岡島津の付家老を務めていました。総本家は鹿児島県金峰町にあると聞いております。戦前、曾祖母が総本家を訪ねた際に、見せて頂いた家系図は広げると8畳一杯になる量だったそうです。戦国期には、筑前守、筑後守に任じられていた方もおりました。
 児島様の先祖について、宜しければお聞かせ下さい。


[304無題 投稿者:もっちゃん 投稿日:2005/05/12(Thu) 19:33  

>>KUBOさん
そうです。そうです。
父方は越前出身です。

お城巡りMLって言うものがあるんですね。
今度登録したいと思います。

では。今後ともよろしくお願いします。


[303Re:[301] 返答有難うございます 投稿者:沙月 投稿日:2005/05/12(Thu) 13:54  

> >春よこい!サン
> 返答有難う御座います
> 友達の祖父が、友達に「家は加藤清正の末裔なんだよ」
> とか聞かされたらしく、本当なのか調べてくれ
> と、私に言ってきまして。調べていました
>
> 情報提供有難う御座います

豊臣秀吉の系図が希望なら
南朝熊沢家と浅井豊臣の謎はいかがですか。

http://nihonrekishiken.com/


[302連休も終盤... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/05/05(Thu) 23:52  

 今年のGWも終盤ですね。私はカレンダー通りですので2日も明日も出勤です(--;)
去年もそうでしたけど、今年の連休も普通の休みと大差ない感じでした。前半3連休
は買い物に出たりして終わっちゃいましたが、後半の3連休は多少遠出しまして、昨
日は札幌の羊ヶ丘展望台に、今日は浜益までドライブに行ってきました。(まあでも
それほど遠くまで行ったという感じでもありませんが(^^;))
 あとは今度の土日ですが、この2日間はまた近場をちょろちょろして終わりそうで
す。まだ外は結構寒いので、もう少し暖かくならないと遠出はできないですね。

>名無しさん
 レスが大変遅れて申し訳ありませんでした。FSIROの方ですか。思わず過去ログを
漁っちゃいました(^^;) ひょっとして「もっちゃん」というHNで99年頃に登場した
方でしょうか? 過去ログ見たら、私と同じくご先祖は越前ですとおっしゃってます
が。
 私の場合、『日本城郭大系』の第1巻を手に入れてしまったのが運の尽き(?)でし
たね(^^;) まあ、でも最近は日帰り圏内のチャシはほとんど見てしまったし、子持ち
になってしまったので、すっかり機動力が落ちまして、チャシ巡りももう数年してま
せん。でも今日は浜益までドライブに行ってジャンボどら焼きを買ってきたついでに
ちょっと荘内藩ハママシケ陣屋に久しぶりに寄ってきてうれしかったですが。
 近場ですから、機会があればお会いしたいですね(^^) 札幌方面にはFSIROの知り合
いはいませんが、お城巡りMLのお仲間は2人ほどいますので、ミニオフでも...(で
もあの二人にもしばらく会ってませんが(^^;))

>ジョバンニさん
 ご参考になって良かったです(^^)
 ところであの~、私のHNはKUBOです。お間違えないよう(^^;)


[301返答有難うございます 投稿者:ジョバンニ 投稿日:2005/04/23(Sat) 17:19  

>春よこい!サン
返答有難う御座います
友達の祖父が、友達に「家は加藤清正の末裔なんだよ」
とか聞かされたらしく、本当なのか調べてくれ
と、私に言ってきまして。調べていました

情報提供有難う御座います



[300面白かったです。 投稿者:名無し 投稿日:2005/04/20(Wed) 16:58  

初めまして。5,6年ほど前FSIROに居たものです。

当時のHNを忘れてしまっていますが、KUBOさんとお話
したことがあるのかもしれません。当時私は札幌から
関東に転職で行っており、今は札幌に帰ってきています。
FSIROでは一度オフ会に参加したり館とチャシ紹介の
ページにも出ていた地黄八幡さんと小机の城郭跡に
行った思い出を思い出させてもらいました。

昨年は松前藩戸切地陣屋と志苔館をみました。
KUBOさんのページをみると北海道にも色々とあるので
これから参考にさせてもらって巡ろうと思います。

では。


[299児島氏系図展開期待 投稿者:沙月 投稿日:2005/04/10(Sun) 13:29  

今まで私が児島氏関係の投稿をしてきましたが、ついに本人自らここに登場しました。この方は児島高徳の子孫を称していています。本当に八田宗綱と児島宗綱を同一人にしてその子孫が宇多源氏の佐々木盛綱を通って児島高徳にいき、さらに佐久間信盛をつなげてここに登場した児島様にいたる系図が成立するかしないか、今後の研究によってこのテーマがいかなる展開を示すか、その軌跡を眺めていきます。皆様、どうぞご存分に議論を展開されて久保様にはその掲示板運営をよろしくお願いします。児島さんもどうぞがんばってください。真実がどうなっているか、これからの展開を楽しみにしています。 


[298春よこい! 投稿者:KUBO 投稿日:2005/04/10(Sun) 13:13  

 またすっかり間があいてしまいましたね(^^;) やっぱり年度末・年度初めは忙しく
て。でも「滅びた(?)名族」の方は今後北条氏の方ができあがりそうです。大道寺氏の
方もできたら更新しようと思っています。
 今年は大雪でしたから、例年ならもうだいぶん雪が消えている頃ですが、まだまだ
雪山があります。昨日出かけたら雪捨て場の雪山の高さがまだ数十mありましたから、
あれが消えるのは5月になるんじゃないですかねえ。昨日は雨から雪に変わってちら
ちら降っていましたし、まだまだ春遠しという感じです(^^;)

>児島さん
 はじめまして。児島氏ゆかりの方でしょうか。佐々木六角氏を研究されている佐々
木哲氏が今ブログで佐々木氏について連載されていますが、先日佐々木盛綱について
書かれていました。それによると盛綱は承久の変以前に死んでいたようで、盛綱の次
男盛季が京方、長男信実が幕府方に参陣したようです。
 盛綱流佐々木氏は越後方面と備前方面で栄え、児島高徳もその一族だと書かれてい
ました。
 ご参考までに。
 http://blog.sasakitoru.com/200504/article_4.html
 http://blog.sasakitoru.com/200504/article_9.html

>ひづめさん
 そちらはそろそろシーズンオフですか(^^;) こっちは例年ならもうだいぶん雪が消
えているはずですが、今年は大雪の影響でまだまだ雪が残っています。家の周りの雪
が消えるにはまだ1~2週間はかかりそうですね。
 しばらく道南に行ってないので、今年は行きたいと思っていますがどうなりますこ
とか。(なんか毎年言っているような(^^;))

>三関さん
 はじめまして。松前藩士三関氏の御子孫ですか。うちのサイトに載せている三関氏
の系図は松前町の町史編纂室に行って見せていただいた藩士履歴書(中島家文書)の中
にあったものです。
 ですから、松前町の町史編纂室にお聞きになれば見せていただけるかもしれません
よ。

>齋藤道三さん
 はじめまして。亘理伊達家中のご出身ですか。私はまだ実見していないのですが、
亘理伊達家中については『亘理世臣家譜略記』(常盤貴定/編著)という史料があるそ
うです。こちらをご覧になれば、何か参考になることが載っているかもしれませんね。

>ジョバンニさん
 はじめまして。加藤清正の子孫が庄屋をしていたのは事実ですが、熊本ではありま
せん、今でいうと山形県の荘内地方です。加藤清正の息子忠広が御家取り潰しにあい、
荘内藩に預けられ、ここで死んでいますが、荘内で生まれた光秋という息子がいまし
て、この光秋は、配流先の荘内藩主酒井家が幕府の目を憚り、近在の大庄屋の養子と
し、光秋の子・道久の時に新堀村に移り、その子孫はその地方の豪農として存続し、
現在まで続いているそうです。
 この加藤家もそのうちに「日本史の部屋」の「滅びた(?)名族」シリーズで取り上
げる予定ですが...

>沙月さん
 南朝関係はいくつか本は持っていますが、岡崎門主については良く分かりません。


[297岡崎門主とは? 投稿者:沙月 投稿日:2005/04/08(Fri) 16:10  

応仁文明の大乱の頃、南朝関係の系図に岡崎門主・前岡崎門主を名乗る皇族系統の人物が出現します。
この言葉の意味についてご存知の方、当方までご教示賜るようにお願い申し上げます。


[296盛綱は京方 投稿者:児島 投稿日:2005/04/03(Sun) 18:31  

上皇方についた武士-ほとんどが処刑(死刑).領地はすべて没収
貴族で上皇方についた6人-実朝の妻の兄「坊門忠信」一人が流罪となり,他は処刑(死刑)

順徳上皇-佐渡が島に配流
土御門上皇-土佐に配流
上皇の持っていた荘園はすべて没収
後鳥羽上皇とともに戦った順徳天皇の皇子が即位してしまったらどうしましょうか」と尋ねたとき,泰時は「よく気がついた,何も考えることはない,その時は皇位から降ろしたまわれ」と言ったそうです.
首をとること若干なり.板東の兵,首一つづつとらぬものこそなかりけれ」
乱後の処置はまことにきびしいものでした
政子が演説で天子よりも土地に重きをなした者が北条に味方
シュメール神話の七つの門の約束事を鎌倉方は守らなかった
日本人にあるまじき振る舞いであった。

http://http://www003.upp.so-net.ne.jp/sei0720/kabuki/morituna.html


[295Re:[294] 盛綱は京方で反対でした 投稿者:児島 投稿日:2005/04/03(Sun) 18:12  

> 源頼家と実朝は京方と鎌倉方とに別れて敵対、
> 佐々木盛綱・高綱兄弟は盛綱が鎌倉方に、高綱が京方にと
> 敵味方に分かれて戦うこととなりました。
> 戦場から高綱が時政の本陣に切り込み
> 討ち死にしたことの知らせが入り
http://www003.upp.so-net.ne.jp/sei0720/kabuki/morituna.html

http://http://www003.upp.so-net.ne.jp/sei0720/kabuki/morituna.html


[294盛綱t@ 投稿者:児島 投稿日:2005/04/03(Sun) 18:08  

源頼家と実朝は京方と鎌倉方とに別れて敵対、
佐々木盛綱・高綱兄弟は盛綱が鎌倉方に、高綱が京方にと
敵味方に分かれて戦うこととなりました。
戦場から高綱が時政の本陣に切り込み
討ち死にしたことの知らせが入り
http://www003.upp.so-net.ne.jp/sei0720/kabuki/morituna.html

http://http://www003.upp.so-net.ne.jp/sei0720/kabuki/morituna.html


[293無題 投稿者:児島 投稿日:2005/04/03(Sun) 17:47  

えーと、盛綱は承久の乱では死んでいない気がしますが

えっ、門で閉められた為捕らえられて、処罰を北条義時
から負わされました。為後継に縁戚の定心(逸見重氏)が
女婿として継いでいます。
この成り行きは院の為に殉死を選んだとされていますし、
この時は盛宗の女婿で、児島姓を継いでいました


[292佐々木盛綱 投稿者:Hiko 投稿日:2005/04/02(Sat) 23:18  

えーと、盛綱は承久の乱では死んでいない気がしますが・・
京方に付いて死んだのは兄の経高では無かったでしょうか。
それともその児島系図では盛綱が死んだことになっているのでしょうか。
はたまた、佐々木秀義の子の三郎盛綱とは別人のことでしょうか。


[290行き成り、申し訳ありません 投稿者:ジョバンニ 投稿日:2005/04/01(Fri) 20:34  

加藤清正の末裔が熊本で庄屋をやって居た。
と、聞いたのですが。本当なのでしょうか?

誰か、分る人。教えてください。


[289Re:[249] [248] 239~240の続きです。 投稿者:児島 投稿日:2005/04/01(Fri) 10:08  

>  筈衛さんへ
>
>  宇都宮盛綱についての資料が見当たらなかったので、宗綱の活動年代から推測して佐々木盛綱と同時代と書いてしまいました。
>  
>  沙月さんへ
>
>  盛宗・盛綱親子と云うのは瀬戸内辺りの社家か旧家の伝承にでも登場するのでしょうか。

>盛宗の父は藤原宗綱(八田)で盛宗が住んだのが備前児島、
 それで児島といわれている。盛宗の女婿が盛綱(佐々木)
 で盛綱は承久乱で亡くなり、女婿に逸見から定心が入り
 児島を継いだ、で和田義盛は叔父になり和田に住んだ
 から、子供が佐久間土地に住み佐久間始まる、この系は
 二系が見えるがいずれも、別氏系であって、児島範長の
 女の子高徳が天皇の継承にのっとり、女方が養育するの
 で、母方の姓を名乗るが、本系は児島宮の頼宴系を高徳
 は継いでいる。同じく佐久間系も二系あるがいずれも、
 同じ関係になっている。
 佐久間は筑後権守家宗系ー椙本ー和田義盛ー佐久間系
 児島に始まる。複雑になっているので知られていない。
 系図に於いては姓だけでは血族とはならないし、養子
 女婿関係が生じると子供は血族になる。


[288亘理伊達藩 投稿者:齋藤道三 投稿日:2005/04/01(Fri) 07:28  

自分のルーツを探しています
私は生まれは亘理です。しかし育ちが東京で
亘理のことはわかりませんが、高祖父が明治20年代頃
亘理から北海道 角田(現栗山)移住し私の祖母が明治
34年に角田で生まれています。一番古い戸籍を見る限りでは
亘理、中泉村の齋藤氏、安田氏、伊具郡及川氏、大堀氏、丹羽氏
等が親戚みたいです。何かわかる人教えて下さい!


[287はじめまして 投稿者:三関 投稿日:2005/03/29(Tue) 22:40  

三関と申します。自分の苗字を何気なく検索していたら、ここのHPにたどり着き驚きました!
家の系図が載っているではありませんか!
家は昔、火事に遭い巻き物・写真などすべて失ったそうです。
なので私がここのHPを発見し父に教えたときは、大変喜んでいました。
そしてもっと驚いたのが『小平季遠』です。うちの父も祖父母も初めて知ったようです。
そして松前藩の系図をうなずきながら見ていました。

なんだか 嬉しくてカキコしてしまいました。


[286『藪ログ』のURLが変わりました 投稿者:ひづめ 投稿日:2005/03/28(Mon) 17:47  

KUBOさん、お久しぶりです。

 そろそろ暖かくなり始め関東地方では藪漕ぎシーズンも残り少なくなってきました。入り残した藪があったら急いで突入しなくてはなりません。入れ替わって北海道ではこれからがシーズンですね。

 いつもご愛読頂いております『藪ログ』ですが、本日リニューアルしました。これに伴いURLが変わりましたのでリンク先の変更をお願いいたします。新しいURLは以下です。今後ともよろしくお願いします。

     http://yablog.blog6.fc2.com/

ひづめ@美浦村お散歩団

http://www.osanpodan.com/


[285家系も血族と家系図は別物 投稿者:児島 投稿日:2005/03/26(Sat) 18:19  

四目結、菱の内一文字、兒の字は児島氏の家紋なのは間違い
ございません、児島すなわち佐々木族の家紋になっています
が、児島高徳系家紋は十六葉菊紋と五三の桐なのですので、
盛綱系家紋とは別になっております。
沙月さん提示の系図はこれに準じていますので、間違いは
ありません。
Hiko さんの[258] レスやめておこうかなについて、
結局八田盛綱はどこへ行ったのかな・とは藤原宗綱の事で
しょうか、色々な地名の名前は氏姓で呼ばれているのは、
ごく普通のことで、系図に見られる氏は血族の系図には当てはまらないのです、このところがあまり、知られていないようです。皆さんの家系も血族と家系図は別物と思われたほうが、よいでしょう。


[284すっかり久しぶり...(^^;) 投稿者:KUBO 投稿日:2005/03/21(Mon) 12:46  

 やっと少し仕事の方が落ち着きました。とはいっても年度末ですのでまだ少し忙し
さは続きますけど、今回は転勤もありませんし、それほどではないと思いますが。春
休み中に少しでも更新する時間が取れれば良いんですけど...

>沙月(木村信行)さん
 以前も申しましたが、この掲示板は当サイトを訪れて下さる方との交流の場と考え
ております。ご自身の本の紹介だけの書き込みはご遠慮いただけないでしょうか?

>佐藤寿安さん
 お返事が遅くなりました。私のその辺のことについては詳しくありませんが、『松
前町史』の記述を見ると、江戸後期の松前藩士の席は寄合席を筆頭に、准寄合、中書
院、中之間、士席御先手組(以上士席)、古組徒士、新組徒士、下代、古組足軽、新組
足軽、足軽並となっており、下代は徒士と足軽の間に位置していますので、内下代は
徒士・足軽などと同じく軽輩であったと思われます。

>Hikoさん、ひづめさん、筈衛さん
 土佐佐竹氏につて猪野情報ありがとうございます。Hikoさんが調べて下さって系譜
はかなりはっきりしたようですが、私も『土佐名家系譜』の目次の第七篇 高岡郡の
項に「久礼 佐竹氏」と載っていたので、他の史料と一緒に国会図書館に複写依頼し
たところ、先日届きました。残念ながら、義通以降の系図しか載っていませんでした
が、ついでですから以下にアップします。

佐竹義通――義辰―――義之―――+―義直――――――親辰
 信濃守   玄蕃頭  掃部少輔|  信濃守     兵部少輔
       繁義       +―義秀――――+―親直――――朝意
                |  太郎兵衛尉|  蔵人佐   柴田外記
                |  上加江城主|  上加江城主
                |       |  妻秦元親女
                |       +―義信
                |          大内蔵
                +―若藤越中守―――木工衛門
                   仕一条氏    仕徳川氏為小納戸

>三楽堂さん
 私もローレライ気にはなっているんですが、まだ原作は読んでないんです。「世界
の艦船」シリーズから出ているのも知っていますが、どうしようかなと思っています。
セブンイレブンのコレクションフィギュアは揃えちゃいましたが(^^;)

>ノブ・タケダさん
 SWもやってましたか。楽しみですね。でも正直なところ私はSWよりはST党な
もんで(^^;) 「グリュック王国」が閉鎖ですか。大学時代の友人といって馬上槍試合
なんかも見たことがありましたが、もう10年以上前ですね...

>八田数広さん
 『姓氏家系大辞典』によりますと三河の八田氏は、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
碧海郡の名族にして、常陸八田氏の後也「法性寺村・八田森右衛門」は二葉松に見ゆ。
又三河諸侍出所に「合歓木村八田喜左衛門、赤渋村八田角兵衛」を載せ、後に儒者八
田大二郎?(靖民)あり、華陽と号す。
※?は瑶のつくり+糸
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とあります。
 また『愛知県姓氏歴史人物事典』(角川書店)によると、岡崎城下連尺町の八田庄七
・同庄右衛門が幕末に町年寄を務め(岡崎町史)、碧海郡法性寺村(岡崎市)の八田源四
郎は、幕末に岡崎藩から地廻帯刀を許されていた(新編岡崎市史)そうです。
 また尾張藩士にも三河を生国とする氏があり、初代九左衛門某が武蔵国忍で松平忠
吉に仕え、孫の九郎右衛門吉竜は、新免武蔵守に従って刀法を学び、その妙を得たと
いう(士林沮シ回)そうです。

>なおすけさん
 サイト閉鎖ですか、残念ですね。後ほどリンクは切っておきますけど、名前は残し
ておきますので、復活された時にはお知らせ下さいね。
 それから教えて下さった榊原家のページは無断転載でしたので、メールしましたら、
掲載依頼された方が亡くなられているので詳しい事情はわかりませんがページ削除し
ますとのお返事をいただきました。教えていただきありがとうございました。

>貴志さん
 私の方ではNo.242に書いた以上の情報は持ち合わせておりません。申し訳ありませ
ん。

>杉山さん
 九州の杉山城ですか。埼玉の杉山城は話にも聞きますし一度行ってみたいと思って
いるところですが、九州の杉山城は知りません。『日本城郭大系』も見てみましたが
見つけられませんでした。何県にあるのでしょうか?

>半覚斎さん
 URL変更了解しました。次回更新時には変更させていただきます。


[283土佐佐竹氏 投稿者:Hiko 投稿日:2005/03/17(Thu) 19:50  

筈衛さんに教えて頂いた「中世の土佐佐竹氏についての研究」のコピーを手に入れたのでとりあえず、系図をアップしてみます。

 秀義----秀繁----経繁----某--┐
  佐竹冠者  左衛門尉  信濃守     │
        承久乱於  来住土佐    │
        宇治討死  国高岡郡    │
              久礼北村    │
┌---------------------┘
└光繁---┬義宗----宗寿----光繁---┐
  左衛門尉│ 信濃守   主水正  修理亮  │
  正安元年│                 │
      └繁春               │
        掃部助             │
┌-----------------------┘
└繁末                    
  信濃守
  家紋日の丸十本骨ヲ五本骨トス。住久礼

柴田外記の直系祖佐竹義通の系図は不明なようです。
義通以降の嫡流が信濃守を称していることから考えても
秀繁の末流である事は間違いないと思います。
信濃守義宗の嫡流かもしれませんね。
来住期については承久乱の以前と推測されていました。
※以上の系図は表題論考から転記しています。


[282URL変更のお知らせ 投稿者:半覚斎 投稿日:2005/03/15(Tue) 09:30  

縫殿助改め「半覚斎」です。
いつもお世話になっております。

リンクいただいている「会津四家合考」のURLを変更しましたので宜しくお願い申し上げます。
     ↓
http://www17.ocn.ne.jp/~you/

http://www17.ocn.ne.jp/~you/


[281九州の杉山城 投稿者:杉山 投稿日:2005/03/13(Sun) 17:43  

はじめまして。
自分の先祖が城持ちだったという話を、今更親から聞かされて、
城に興味を持ちました。
名前は杉山城で今はなくなってるそう。
で、現存の埼玉県の杉山城とは何の関係もないそうです。
でも、そのお陰で、ひいじいさんには男爵だったらしい!?
それ以上の事はわからないんですが、どなたか、九州の杉山城について知ってる方はいませんか?
できれば、いろいろ知りたいし、城跡か遺跡でもあれば行ってみたいのです。


[280Re:[215] 高野氏 投稿者:ちゃぶ 投稿日:2005/03/11(Fri) 13:35  

恥ずかしっ!

HAZUさん、
年も明け3ヶ月も経ってから、レスをいただいていることに気がつきました。。。。切腹ものですね。申し訳ありません。<m(__)m>

>まず、第一に私の生まれ故郷奥州高野郡南郷(現在の福島県東白
>川郡)は鎌倉時代高野時家の領地でした。東白川郡では高野氏の
>興りを筑波郡高野村(現在のつくば市高野)ではなく、奥州高野
>郡ではないかとしています。
新しい情報です!ありがとうございます!
高野時家の父、八田知家は鎌倉幕府の東海道将軍として奥州に遠征し、奥州に領地を安堵されたようです。当時、時家は出陣するような年齢ではなかったのではないかと推察されます。知家の領地を譲り受けたのでしょうか。高野氏の興りを筑波郡高野村としているのは『新編常陸国史』に拠っています。そのあたりは、おいおい私のブログに記載しますね。

>第二に常陸守護代高野時綱が没落した切っ掛けが、奥州に残って
>いた一族のものが奥州高野郡の結城顕朝を攻略しようとし、反対
>に結城氏に降伏したためですからです。
これも新しい情報です!面白いなあ。嫡流が没落したきっかけがわかりました。

>  第三に家内の旧姓ですね(^^ゞ
あはは。遠いご親戚かもしれませんね。私に似ていらっしゃらないことを心からお祈りします(笑)。

本当にレスが遅くなってしまって申し訳ありませんでした。HAZUさんの投稿から遠く離れてしまったので、長くなるのを承知で全文引用させていただきました。

http://chab.exblog.jp/


[279浜松藩 投稿者:貴志 投稿日:2005/03/10(Thu) 01:11  

浜松藩は 老中い成る為に 入城しなければ成らない 城てす 井上藩はここを 城としていました、 水野老中は備前32万石を 捨てて 5万石の 浜松に来て 老中になりました、しかし、失格して 山形へ 転方されました。
その後 、井上藩が戻り、幕末まで続きました。
井上藩は、老中に成るべくしている、家系です。
貴志家は、その家臣で、江戸在住でした、当家には、何日の何の 刻に城上せょ と言う、書き付けが、何枚も在ります。
井上藩にもし 心あたりの方メールお待ちしています。


[278いろいろありまして… 投稿者:なおすけ 投稿日:2005/03/08(Tue) 23:15  

 自分のホームページをしばらく閉鎖することにしました。また余裕ができたら復活したいと思いますのでその時はよろしくお願いします。

 それと、榊原家を調べていてあれっ?と思ったんですが、下記のサイトはここのサイトの丸コピーですよね。許可がでてるんならいいんでしょうが、どこにもkuboさんの名前が見当たらないので一応念のため…
http://www.yumoto-sakaki.com/info/sakakibara-kakei.htm


[277信憑性調査願い 投稿者:沙月 投稿日:2005/03/07(Mon) 17:56  

さて、宇佐八幡宮を祀った氏族に辛島氏と云う氏族がいまして、その家に『辛島勝系譜』なるものが伝わっています。
 素戔嗚━━五十猛━━豊都彦━━豊津彦━━都万津彦━━曽於津彦━...━宇豆彦━━辛島勝乙目━>
と言う系図があるそうです。信憑性の調査をお願いします。
http://nihonrekishiken.com/

http://nihonrekishiken.com/


[276私の先祖が知りたいです 投稿者:八田数広 投稿日:2005/03/07(Mon) 15:24  

 私の先祖は愛知県岡崎市住いし江戸時代は庄屋でした。現在17代目です、父の話では我が家の家紋は雁が二匹に周りが弓矢で丸く囲ってます、八田知家の家紋とはだいぶ違います、私の先祖付いて知っている人が居ましたら教えてください。


[275紀国造系図について 投稿者:沙月 投稿日:2005/03/07(Mon) 10:59  

ある方と掲示板討論していて、もしかしたらと言うことで、詳しくは調査してみないとはっきりしたことはいえませんが、古事記に建内宿禰の母である山下影日売の兄を宇豆比古と在りますが、この宇豆比古は日本書紀の菟道彦、紀国造系図の宇遅彦に当ると考えられますので、地名にも宇治となっていますから、音韻上、ウヂヒコが正しく、古事記は太安万呂が稗田阿礼から聞き書きする時にシイネツヒコの別名たるウヅヒコと混同して当てる字を宇豆比古と当てた、つまり聞き違いということではないかと考えますが、とりあえず、詳しいことは確認の上と言うことで、まだ推理上の仮説としておきます。とりあえず、ここに発表し、皆様に本当か否かの情報を求めるものであります。ほかに理由があるという方はどうぞご連絡のほど願いもうしあげます。
なお、古事記がカゲヒメを妹、日本書紀が女(むすめ)と述べたと言うことは兄妹の父が妹が生まれた頃になくなり、兄がいもうとを養女にして親のごとく育てたと言うことではないかと考えますが、死亡時期が不明のため、これも仮説にしておきます。生むという言葉自体が育てると言う意味を含んでいて生むと古典にあっても、親子関係は必ずしも本当の関係ではなく、養い親・養子関係も含まれますので、注意が肝要です。
以上、皆様、よろしくご意見、お願いします。

http://nihonrekishiken.com/


[274B-29の秘密 投稿者:ノブ・タケダ 投稿日:2005/03/07(Mon) 03:25  

今回は、ちょっとアメリカンなハンドルで(^^)
公開日に行きましたぜ!「ローレライ」!!
>273 三楽堂様
多分、B-29は「3発目の原子爆弾」を積んでいるというテーマ性のからみではないかと思います。まあ、あまり書くとネタバレになるのでやめておきますが、CGは非常に効果的でした!
やっぱ、日本は負けるけど、嫌な負け方ではない、という感じが伝わって面白かったです。

予告でSWをやっていましたが、いやー、ちょっと心が動きましたわ。暗黒面へ落ちるベーダ―卿、興味津々です。
あーゆーのを見ると「シュヴァルツシルト」とか「銀英伝」とか「フロンティア・ユニバース」(古い)をプレイしたくなりますなあ。時代劇見た後に、コーエー系のゲームをしたくなるみたいに。
最近は「ナイツ・オブ・オナー」とか洋ゲー三昧ですが、国産もちょっとやってみたいような気がしてきやがりました。

わが青春の「グリュック王国」が無期限閉鎖とは!!
わが青春の「天華園」も絶賛閉鎖中とは!!

松前藩屋敷しかないのかなあ・・・
尚、松前藩御用達菓子舗「三浦屋」は廃業された模様です・・・。


[273Re:[265] 20万hit達成、ありがとうございます! 投稿者:三楽堂 投稿日:2005/03/06(Sun) 21:50  

20万ヒット達成おめでとうございます。

わたしも映画「ローレライ」気になっています。
ただ、いま原作小説を読んでいまして(3巻中盤まできた)、この密度を映像化するには相当、削ぎ落とさないとなーと思っています。
海洋堂といえば、「世界の艦船」シリーズがスペシャル企画として「ローレライ」を出してます。
伊507、ナーバル、ガトー級(2種)、フレッチャー級(2種)、海龍、そしてなぜかB-29というラインナップです。

レアアイテムはマイクロ水中モーター。


[272土佐佐竹氏 投稿者:Hiko 投稿日:2005/03/06(Sun) 12:55  

佐竹義通は子孫から年代を逆算すると15世紀中期頃の人物
だと思います。そして佐竹氏が南北朝初期の功績によって土佐に所領を得たと考えると14世紀の中期頃になると思われるので義通は土佐佐竹氏の4代目ぐらいに当のかな・・


[271土佐佐竹氏 投稿者:HAZU 投稿日:2005/03/06(Sun) 09:37  

 私もわかりませんが、南北朝時代に土佐に渡ったようですので、地元以外ではなかなか調べることは難しいのではないでしょうか。
 で、地元の史料に何かないかと見てみましたら、『土佐史談221号』に「中世の土佐佐竹氏についての研究」という論文が載っているようです。
 また、同じ佐竹親直の子孫という佐竹晴記という政治家が高知県にいたようですので、その子孫ならば知っているかもと思います。

筈衛


[270土佐佐竹氏、知りませんでした 投稿者:ひづめ 投稿日:2005/03/06(Sun) 07:16  

Hikoさん、初めまして。

 茨城県南で活動している『美浦村お散歩団』のひづめと言います。常陸佐竹氏から土佐へ分かれた流れもあったのですか。これまで知りませんでした。現在、水戸の県立歴史館で『戦国大名常陸佐竹氏』という特別展が開催されています。その中でも特に記述はなかったと記憶しています(見落としかもしれませんが)。土佐佐竹氏の義通は常陸佐竹氏の誰から分かれたのでしょうか。

ひづめ@美浦村お散歩団

http://www.osanpodan.com/


[269土佐佐竹氏 投稿者:Hiko 投稿日:2005/03/05(Sat) 23:30  

ところで柴田外記の土佐佐竹氏の系譜についてなのですが
鎌倉時代に常陸佐竹氏から分家しており、
佐竹義通-義辰-義秀-親直-柴田朝意
とつながるようなのですが、常陸佐竹氏から義通までの
系図が見つかりませんでした。どなたかご存じの方はおら
れ無いでしょうか。


[268家格について教えて下さい。 投稿者:佐藤寿安 投稿日:2005/03/05(Sat) 22:17  

松前藩の「御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳」を拝見させていただきました。
その中に書いてあります家格の中に、「内下代」「内下代格医師」という表記がありますが、この「内下代」という家格はどのような位置、もしくは意味があるのでしょうか。
ご教示いただければ幸いです。


[267義経は好きですか。 投稿者:沙月 投稿日:2005/03/05(Sat) 17:44  

今年は義経が話題。私は彼がジンギスカンになったという話は好き。皆様はいかが、当社でも源平の星やロマン的武家歴史論というテキストがあります。義経も登場。一冊いかが、よろしくお願いしますね。歴史研究にも投稿入選論文の掲載あり。

http://nihonrekishiken.com/


[266豊臣秀頼について 投稿者:沙月 投稿日:2005/03/05(Sat) 17:09  

豊臣秀頼の薩摩亡命に興味のおありの方は値は張りますが、本格的研究書を希望なら、「南朝熊沢家と浅井・豊臣の謎」に詳述してあります。この本を見ると、南朝熊沢家と浅井家と豊臣家が実は昔から、淀君が嫁に行くよりも前のはるか昔から結びつきがあって親戚。皆様は知っていますか。ぜひ、お読みください。よろしくお願いします。天草四郎についても触れています。羽柴天四郎秀綱という名前があったという伝説があります。この名前から天草四郎になった。本当かな。まあ、読んでの楽しみにしておきます。それではまたね。
いろいろ、興味ある本を出しています。ぜひ、当ホームページ覗いてみてください。ひな祭りは終わりましたが、お雛様も飾ってありますよ。ぜひご覧下さい。私が折りました。ゴジラ・キングギドラ・ヤマタノオロチ、結構折り紙で鋏を使わなくてもこんなものが折れるのかということでこっています。

http://nihonrekishiken.com/


[26520万hit達成、ありがとうございます! 投稿者:KUBO 投稿日:2005/03/04(Fri) 23:59  

>みなさま
 どうやら本日20万hitを突破したようです、夕方見た時にはもう200070くらいにな
ってました(^^;) そろそろ近いなとは思いましたが...
 もし20万hitを踏まれた方いましたら、お申し出下さいね~(^^)

 最近はすっかり亀の歩みになってしまった当サイトですが、訪れて下さる方がいら
っしゃることは感謝申し上げるだけです。少しでも更新を進めたい気持ちはあるんで
すが、何せ時間がなくってねえ...

>沙月(木村信行)さん
 すみません、レスしたいと思っていたんですが、何だかばたばたしていましてレス
できずに申し訳ありませんでした。

>武田信廣さん
 「ローレライ」、見に行きたいな~とは思うんですが、たぶん行けないでしょうね
(^^;) そんなわけで、最近はセブンイレブンで「ローレライ」のコレクションフィギ
ュア(海洋堂プロデュース)付きのペットボトルを買って気を紛らわせています(^^;)
これがなかなかそろわない。あと2つなんですけど...

>Hikoさん
 そうなんですよ。私も芦名(針生)氏を調べた時に、確か『笹舟の記』に柴田外記の
出自が出ていたのを見つけて「へえ~」と思ったことを憶えています。確かこの柴田
外記の末裔が亘理伊達家の伊達邦成家中と一緒に北海道に入植しているんですよね。
そんなわけで亘理伊達家が入植した伊達氏には柴田氏の居所にちなんで舟岡町と地名
がついています。

>真江田家長老さん
 ご無沙汰しております。正月の時空警察ですが、見たいなと思いつつ、その時間は
うちの坊主くんのお風呂の時間だったもんでちらっとしか見れませんでした(^^;) ネ
タ的にはたぶんあの前川和彦氏の本が元ネタなんだろうなとは思いましたが...
 一つ訂正ですが、国松が預けられたと言われているのが日出藩主木下氏で、その分
家で国松の子孫といわれているのは立石木下氏(旗本・交代寄合)です。なお、この立
石木下氏については当サイトの日本史の部屋の中の「交代寄合シリーズ」で紹介して
おりますので、ご参照下さい。


[264真田幸村生存説関連 投稿者:真江田家長老 投稿日:2005/03/04(Fri) 17:12  

1月5日に午後9時から2時間、4チャンネルで、時空警察PART5を放映したが、その中で、島原の乱の総大将・天草四郎が豊臣秀吉の孫で、秀頼の子としていた。確かに、天草ではそういう噂がある。また、真田幸村が鹿児島の谷山の木下郷に豊臣秀頼を逃がした下りもあった。京童では、「鬼のようなる真田が、花のようなる秀頼さまを連れて、退きも退いたり、鹿児島まで」としていたが、実際は、秀頼が水戸泉のような巨漢で、真田幸村が優男であり、京童とは逆である。実態と人の噂は違う。見たことがないので、勝手な想像で民衆は噂を流す。そういうことは常に考慮しなければならない。この話は、本にもなり、テレビでやる程のネタであるということである。実際は、秀頼は、幕府に探索されないよう、偽名を使い、身分を隠している。むしろ、秀頼の子なら、身分を隠すはずである。天草四郎は秀頼の子を語って人を集めようとしていたと見るのが自然である。そういうことはよくあることだ。真田幸村の子孫は皆、江戸時代にはひっそり暮らしていた。秀吉の身内も皆そうであった。当人は、身分を隠すが、語りは逆に強調する。詐欺師の手口を考えればよく分かる。ついでに、真田大介が砂土原島津中興の祖と言う話も、真田大介幸昌と島津幸久が名前が似ていたため、何らかの誤解が生じたものと思われる。早い話が早とちりである。これもよくあることだ。ちなみに、秀頼の長男・国松は、北の政所・ねねの実兄で立花藩(大分県)主・木下氏に預けられた後、木下氏の実子ではないことから、立花藩から分家して、日出(ひじ)藩主となったのは公然の秘密である。


[263柴田外記 投稿者:Hiko 投稿日:2005/03/03(Thu) 10:30  

 ここのコンテンツ内にもちょっとだけ顔を出している柴田外記を調べる事が有って驚いたのですが、実は長宗我部遺臣で土佐佐竹氏の一族だったのですね。
 しかも、父が元親の娘婿で父母と大阪城に籠もり、落城に紛れて脱出したものの伊達家に捕らわれてその家臣となり、のちに家老柴田家の養子となって藩政に関与。
 そして、原田甲斐を斬って最期を迎えると云う波瀾万丈の人生を送ったのですね。。
小説の主人公になれそうな感じですね。それともすでに有るのでしょうか?


[262「ローレライ」がもうすぐ公開 投稿者:武田 信廣 投稿日:2005/02/28(Mon) 12:52  

本格的な潜水艦映画としては、かなり久しぶりの日本映画です。戦争をテーマとした娯楽作というのも久しぶりかな?
日本の場合、平和憲法の建前があるのでどうしても戦争映画=反戦映画という構図から抜け切れないのですが、かつては色々な映画があったわけで(^^)
年末には「男たちの大和」も公開です!!

でも、今年の最大の期待は「宇宙戦争」かなあ?


[261お邪魔しました。 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/20(Sun) 23:49  

皆様259についてはおさがわせしました。この系図の提供者は私の読者です。面と向かってのおかしいというのは私はその方にはいいにくいので、この話はここでとりあえず、打ち切ります。皆様もそのつもりで、別の話に移っての掲示を再開よろしく。失礼しました。私は消えます。

http://nihonrekishiken.com/


[260お邪魔しました。失礼します。 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/20(Sun) 18:13  

皆様、掲示はどうしましたか。私は別に皆様の掲示を止めるつもりはありませんよ。否定説なら否定説でもいいですよ。意見を聞いただけですよ。ご意見・ご協力は感謝しています。後はこちらで調べますから、皆様は自分達でしたい掲示を続けられたらどうでしょうか。
おさがわせしました。私のことは心配せず、皆様は皆様で普段の掲示に戻られてもかまいませんよ。私は又改めてにさせてもらいます。どうもご協力・ご意見ありがとうございました。また何かございましたら。それではお邪魔しました。

http://nihonrekishiken.com/


[259児島系図の複雑性 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/15(Tue) 11:25  

日本家紋家系協会の作る一族シリーズの児島一族では備前国児島郡の宇多源氏児島氏の伝承では敦慶親王が罪があって児島に流され島氏の先祖になったたという説を伝えるが、そこでは佐々木・加地氏の族に小島氏起こるにより、後世の人が混同したものに過ぎないと述べ、系図を紹介して考えに備えるも採るべきにあらずと述べています。敦慶親王の系図はその中にあって児島高徳に続きます。
福慶は敦慶親王王子説と醍醐天皇皇子允明の子の説と二説があるが、敦慶親王王子説が有利。
佐々木盛綱も児島につながる系図はありますね。まあ、藤原というのは今回始めて聞いた。
つまり、児島氏は様々な複合氏族ということのようです。
孝霊天皇皇子伊予皇子の子孫が物部氏と融合、その子孫が嵯峨天皇の皇子を迎え、次に藤原と融合し、さらに宇多源氏佐々木氏と融合、次に天日槍の子孫を迎え、敦慶親王の子孫、定心の段階で清和源氏逸見も加わり、深厳の段階で越智氏が再び入るなど、ややこしいです。どうもそういう氏族という風に聴いています。ほんとうにそういう系譜が成立するか、今、こうしてふるいわけを行っているわけです。
佐久間と児島のつながりは私も始めて聞くことでした。
佐久間は紀氏が桓武平氏の三浦・和田に入って、佐久間になったということのようです。
盛宗に女子と男子が生まれ、女子は和田家長の妻となり、男子は盛綱。定心は家長・逸見の両方の家系の子ということになります。定心ー孝房ときて越智氏の深厳と融合。家長の子の家季の子孫は深厳の子孫の家弘の範長の段階で融合、この娘の信夫が後鳥羽天皇の子孫と結婚、そして高徳の子孫が佐久間を迎える、そんな感じのようです。

http://nihonrekishiken.com/


[258レスやめておこうかなと思ったけど 投稿者:Hiko 投稿日:2005/02/14(Mon) 23:48  

沙月さんへ
 
 結局八田盛綱はどこへ行ったのかな・・・
 
 敦慶親王から三宅深厳に至る系図が群書の児島三宅系図に含まれていますが、敦慶親王が児島に居住していることになっていたり、福慶から季継までは全く事績なしとなっており、少なくとも出自部分は信用する気になれない系図ですねえ。

 この佐久間信盛は織田重臣の信盛ですよね?彼が児島氏の養子になっているというのも初めて聞く話ですね。 


[257寺町系図 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/14(Mon) 17:56  

宗 綱 ━┳ 宗 孝 ━━ 宗 吉 ━━ 盛 宗 ━┳ 家 嗣
     ┃                    ┃ [和田氏]
     ┃                    ┣ 通 盛 ━┓
     ┃                    ┣ 実 然  ┃
     ┃                    ┗ 勝 俊  ┃
     ┣ 宗 近 ━━ 宗 弘 ━━ 時 永 ━━ 時 忠  ┃
     ┗ 盛 宗(兒島氏)                  ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
     ┗ 通 吉 ━┳ 通 重
            ┣ 通 村
            ┗ 通 任
http://www.tanutanu.net/roots/database/t/teramati1.htm

というかたちで、いちおう、宗綱は盛宗となり、児島にいきます。寺町は本来は姓ではなく、地名ということです。

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[256255の訂正 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/14(Mon) 17:25  

定心ー孝房ー越智深厳(養子でもとは児島宗綱を迎えた為綱ー親孝ー親経ー親清ー通清ー通信ー通俊ー深厳)-家勝ー家弘ー範長ー信夫ー高徳でした。家弘が255に抜けてますので訂正します。失礼しました。後は皆様の鑑定を待ちます。
定氏は定心の誤りです。合わせて直しておきます。法名でもとは逸見(武田)重氏ということのようです。といっても尊卑分脈上は未見。

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[255児島高徳情報 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/14(Mon) 17:13  

252~254のつづきです。何度も投稿してすみません。すべて児島高徳につながる話です。武田定氏(重氏)=逸見重氏=宇多の253の定氏もすべて同じで、児島高徳につながるそうです。定心ー孝房ー深厳ー家勝ー範長ー女(信夫で児島頼宴の妻)-児島高徳となります。
ところで、和田義盛ともつながるそうで、
中原家宗(元は紀氏?)-家俊ー俊宗ー椙本(三浦家の三浦義明の娘婿)義宗ー和田義盛ー常盛ー朝盛ー家盛ー正勝ー佐久間信盛ときてこの信盛が児島家に養子に入って
児島高徳ー高光ー正綱ー正光ー朝次ー盛光ー信晴ー佐久間信盛ー信栄とくる信盛になるそうですが、この系譜は本当に成立するでしょうかね。ご検討よろしくお願いします。
それから、中原家の系図のいい参考書は知りませんか。
家宗の上を探しているもので。すべて児島高徳の子孫で北九州の某社家から聴いた話です。目下、この家の系図復元中です。
八田(児島)宗綱ー盛宗ー佐々木(小野)盛綱ー・・・・範長と来る場合もあり、児島は養子としてつながっているようです。後鳥羽天皇の子孫の頼宴と信夫が結ばれて高徳が生まれるということのようです。後鳥羽~高徳までは当社の南朝の星に系譜があります。今回はその高徳の母方をさかのぼろうということです。
よろしく情報をお待ちしています。

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[254同じ為世でも別人 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/14(Mon) 10:47  

伊予親王(桓武天皇皇子)の子に浮穴四郎藤原為世という人がいたようです。また、嵯峨天皇の第18皇子であるともいいます。この人が「嵯峨天皇の皇子に準じられて藤原を名乗った。

この為世は児島為世(嵯峨第10皇子)とは別人でした。時代が違うと聴きました。

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[253武田重氏について 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/14(Mon) 09:40  

源頼義ー義光ー義清ー光長ー基義ー惟義ー義重ー重氏(出家して定心)の重氏と
上の義清ー重氏(定心)と

宇多天皇ー敦慶親王ー福慶ー慶藤ー李継ー李定ー李家ー家長ー定心(重氏)の重氏は同一人にできるか。

http://nihonrekishiken.com/


[252無題 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/14(Mon) 09:29  

児島宗綱には五人兄弟がいたのではないですか。太郎が宗近、二郎は名が記載なし。三郎宗孝
四郎が宗吉、五郎が盛宗。そこで、跡継ぎを作る目的で、三郎は四郎を、四郎は五郎を養子にするが、五郎は八田家より児島家に入り、八郎を名乗る。
だから、系図纂要は宗綱ー宗孝ー宗吉ー盛宗と親子継承みたいな系譜に成っているというのが真相か。思うに二郎は太郎の子になっている宗弘とも推察。

この推理に問題はあるか。

なお、この調査の種伝は児島高徳の子孫で佐久間信盛の子孫を称する北九州の人より聞いた話です。
同家は高徳ー高光ー正綱ー正光ー朝次ー盛光ー信晴ー佐久間信盛ー信栄と続く家です。
この系譜についての疑問は浮かぶでしょうか。

http://nihonrekishiken.com/


[251明日は、特別スペシャルデー 投稿者:武田信廣 投稿日:2005/02/14(Mon) 00:18  

By 国生さゆり

なんつって・・・は!!当日になっております。ま、関係ねえがね、あっしには。

実は、質問があるのです。
「地図の風景」(道南・道央編)そしえて文庫
という本があるのですが、詳細が不明です。
そしえて文庫って何?この本の内容は?


[250さっぽろ雪まつり... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/02/13(Sun) 23:55  

 この三連休もどうということもなく過ぎてしまいました。昨日、さっぽろ雪まつり
に行ってきたくらいですね。雪まつりでは例年8丁目のHTB広場でお城に関する雪
像を作っていまして、一昨年が江戸城天守、昨年が五稜郭内にあった箱館奉行所、今
年が名古屋城天守です。雪像はきれいでしたが、結構寒くて途中でちょっと肉まん食
べて、コーンクリームスープを飲んで暖を取りました。
 この大雪像・名古屋城の写真は道内の城のおまけのコーナーに載せましたので、見
てみて下さい(^^)
 でもこの三連休雪もよく降りまして、先週の金曜日から土曜日の午前中にかけて、
50~60cmは降ったような気がします(^^;) ほんと早く春になってほしいです...

>とめ@伊達男さん
 ほんと早いものです。でもこの間におつきあいしていた方がサイトを閉めたり、更
新をやめてしまったりというのもありますから、まあ焦らずぼちぼちやっていこうと
思っています。
 ただやりたいネタはいろいろあるんですけど、作業する時間がなかなか取れないの
が悩みの種です。坊主くんが寝ている間じゃないとできませんから(^^;) でも他にも
やりたいこと・やらなくちゃいけないことがありますからねえ。

>蝦夷城家臣さん
 私も父方の丸岡、母方の紫波に行ってみたいと思いつつ年月が過ぎております。丸
岡には一度行ってますので、母が元気なうちに一度紫波に行ってみたいんですがなか
なか...

>武田信廣さん
 松前~上の国~江差~熊石コースはいいですね。私は松前城の搦手の整備が終わっ
てから行ったのがGWだったもので、ゆっくり見れなかったのでもう一度落ち着いて
見たいんですが。上ノ国の花沢館もきちんと見てないし...

>沙月さん
 木村信行さんですか? ハンドルネームは一つにしていただけないでしょうか。

 さて本題についてですが、『鎌倉・室町人名事典』によりますと、佐々木秀義の生
没年が[1112-1184]、長子定綱が[1142-1205]、三子盛綱が[1151-?]となっています。
 一方、八田宗綱の生没年は出ていませんでしたが、宗綱の長子宇都宮朝綱が[1122-
1204]と出ていました。また次子八田知家は生没年不詳となっていましたが、『中世
常総名家譜』によると知家の長子知重の生没年は[1164-1228]となっています。
 また『室町幕府守護職家事典』に載っている宇都宮氏系図によると、宗綱の生没年
が[1083-1159]、朝綱の子成綱の生没年が[1156-1192]となっています。
 その八田宗綱の謎の息子盛宗が第何子かによりますが、通説では長子朝綱、次子知
家ですので、三子ということになります。そうすると、成綱と知重の生年を考えます
と、1160年以前の生まれとは考えられません。そうするとやはり佐々木盛綱とは生年
が10年以上は違うことになります。
 また盛宗が八田宗綱の知られざる庶長子だったとすると佐々木秀義と同年代となり
ますので、二人の盛綱が同世代と考えることもできます。しかし、この盛宗という人
物が他の史料では見ることができませんので、何とも言えませんねえ...

>筈衛さん、Hikoさん
 毎度フォローありがとうございます。


[249Re:[248] 239~240の続きです。 投稿者:Hiko 投稿日:2005/02/12(Sat) 11:25  

 筈衛さんへ

 宇都宮盛綱についての資料が見当たらなかったので、宗綱の活動年代から推測して佐々木盛綱と同時代と書いてしまいました。
 
 沙月さんへ

 盛宗・盛綱親子と云うのは瀬戸内辺りの社家か旧家の伝承にでも登場するのでしょうか。


[248Re:239~240の続きです。 投稿者:HAZU 投稿日:2005/02/11(Fri) 11:47  

 宇都宮(八田)宗綱には宇都宮氏を継いだ朝綱と小田氏の祖となった八田知家が知られています。娘が何人かいるようですが多くの資料に出てくる男の子供はこの二人だけです。盛宗に興味があります。いづれの資料か教えていただきたいです。
 八田・宇都宮・小田氏では宗綱、朝綱、知家が頼朝のころの人物です。
 佐々木氏では秀義は頼朝が伊豆挙兵のころにはすでに老齢であり盛綱を初めとした4兄弟が青年から壮年にかけてのころでと思われます。
 そうすると、もし確かに八田盛綱が存在したとしたら、頼家、実朝のころに人になり、佐々木盛綱とは1世代ずれると思われます。

筈衛


[247Re:[246] 239~240の続きです。HAZU様へ 投稿者:Hiko 投稿日:2005/02/10(Thu) 12:10  

> 醍醐天皇ー源允明ー福慶という系譜と宇多天皇ー敦慶親王王子の福慶というニ通りの系譜の謎を解ける人はいますでしょうか。
> この福慶の子孫は児島高徳につながります。
> また八田(藤原)宗綱ー盛宗ー盛綱という系譜があって
> 盛綱は
> 宇多天皇ー雅信ー扶義ー成頼ー義経ー経方ー秀定ー秀義ー盛綱とくる盛綱と同一人にできるでしょうか。

この盛綱はどちらも源平合戦の頃に活動したと思われるので時代的は重ならないことは無いかと思いますが、完全に別の系統に属する人物ですよね?
この二人を同一人物とする伝承なり、根拠があるかどうかをお聞きしたいですね。

※児島氏を皇胤とするより、三宅氏族または佐々木支流とする説の方が有力だと思っていましたが、


[246239~240の続きです。HAZU様へ 投稿者:沙月 投稿日:2005/02/08(Tue) 16:44  

醍醐天皇ー源允明ー福慶という系譜と宇多天皇ー敦慶親王王子の福慶というニ通りの系譜の謎を解ける人はいますでしょうか。
この福慶の子孫は児島高徳につながります。
また八田(藤原)宗綱ー盛宗ー盛綱という系譜があって
盛綱は
宇多天皇ー雅信ー扶義ー成頼ー義経ー経方ー秀定ー秀義ー盛綱とくる盛綱と同一人にできるでしょうか。

http://nihonrekishiken.com/


[245もうすぐ春ですねえ 投稿者:武田信廣 投稿日:2005/02/06(Sun) 05:28  

春になったら、松前~上の国~江差~熊石と北海道のあけぼのコースを丹念に巡ってみようかと思います。見落とした史跡などは無いと思うのですのが、あまりに普通で見落としている事も多いので。

「アレキサンダー」は近日、鑑賞予定ですが、最近の悩みは夕張ファンタへの遠征をどうすべきか?という難題です。
「ローレライ」、興味があるんですが・・・。


[244祝!5周年 投稿者:蝦夷城家臣 投稿日:2005/02/05(Sat) 09:52  

開設5周年おめでとう御座います。
速いものですね。KUBOさんも、その間、結婚、出産(奥様が)といろいろ変わってきていますね。
ところで、丸岡町が坂井市(春江・坂井・三国・丸岡が合併)
となりそうです。合併前に行けそうもなく、残念です。
今後とも、小生の資料室として、ご期待致します。


[243おめでとうございます! 投稿者:とめ@伊達男 投稿日:2005/02/05(Sat) 08:57  

遅ればせながらサイト開設5周年おめでとうございます。
当方はサイト開設からだと・・正確な時期が不明なのですが3年~4年位だと思います。
別サイト内の1コンテンツの頃からの通算だと5年半位にはなるのですが・・
気付けばながい付き合いになってきましたね!
もっとも私はあまり書き込みはしてませんけど(汗)
ロムりながら普段から色々と参考にさせて頂いております。
貴サイトの益々のご発展をお祈り申し上げます。
今後も宜しくお願い致します。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/tomeas/


[242二日遅れですが、開設5周年! 投稿者:KUBO 投稿日:2005/02/05(Sat) 00:33  

>みなさま
 二日遅れですが(12時過ぎちゃったんで三日遅れですか(^^;))、当サイト開設5周
年を迎えました(^^) 昨日、そういえばもう5周年すぎちゃったと気づき、あわてて
トップページにそのことを掲げたところで眠くなってしまう終了してしまいまして、
遅くなりました。
 5周年記念の更新はありませんけど、ぼちぼちやっていきますので、今後ともよろ
しくお願いいたします。

>貴志 長英さん
 はじめまして、当サイトにおいでいただきありがとうございます。浜松藩井上家と
いうと老中も出した譜代の名門ですね。京都大学と霞ヶ関クラブの資料については
ちょっとよくわかりませんので、何とも言えませんが、『系図文献資料総覧』(緑
蔭書房)を見てみると、『井上藩分限帳集成』(小幡重康編 南総郷土文化研究会
<市原市>)という資料があるそうです。その説明によると「浜松・棚倉・館林・
浜松を経て上総鶴舞藩主となった井上氏の家臣団につき分限帳十種及び諸家履歴
など。」と書かれていました。参考になるかどうかわかりませんが、念のため御
紹介しておきます。

>武田信廣さん
 「オペラ座の怪人」ですか~ 実はうちの嫁さんも以前札幌駅のところにあったJ
Rシアターで「オペラ座の怪人」を何度か見に行ったことがあるので、映画も見に行
きたいと言っていたんですが、うちのちびすけくんがいては映画なんて見に行けない
んで、近所のワーナーマイカルシネマでパンフだけこの前買ってきました(^^;)
 私も「北の零年」を見に行きたかったんですけど、これもパンフだけ買ってきまし
た(^^;) 今度「アレキサンダー」のパンフも買ってこようっと...(--;)

>木村信行さん
 筈衛さんが検証して下さいましたが、まあ別人でしょう。関東の宇都宮氏・小田氏
等の祖である宗綱と瀬戸内の児島氏の宗綱が同一人物というのは無理があります。


[241井上藩 投稿者:貴志 長英 投稿日:2005/02/05(Sat) 00:15  

私は 江戸時代の始まり以前から徳川家に使えていた井上家の家臣です、貴志の起こりは、阿倍氏になります、家紋は九曜と変え紋はみつなでしこです。
調べ出したばかりで、奥が深いと思っています。
資料は、京都大学と霞ヶ関クラブに有ると聞きましたが、どうアクセスすれば良いのか思案しています。
情報をもしお持ちの方書き込みお願いします。


[240ありえないと思いますが。 投稿者:HAZU 投稿日:2005/02/04(Fri) 07:06  

 嵯峨天皇の皇子、為世って誰かなと思ってネット検索かけてみたら、伊予親王(桓武天皇皇子)の子に浮穴四郎藤原為世という人がいたようです。また、嵯峨天皇の第18皇子であるともいいます。この人が「嵯峨天皇の皇子に準じられて藤原を名乗った。また、越智氏に婿養子に入った。」という伝説が伊予のほうにあるようです。
 どちらにしろ、この人は810年のころに人のようですので、この孫だとすると児島家の宗綱は900年ころの人なのではないでしょうか。
 そうすると、宇都宮宗綱は1083年から1159年にかけて生きていた人ですので別人だと思います。
 推測すると後年になると宇都宮氏は伊予にも進出しますので、同名のため、越智宗綱と宇都宮宗綱が混同されてしまったのではないでしょうか。
 その上で、越智氏と児島氏は同じく伊予親王の子孫のようですので系譜が混同されているように思えます。
 なお、伊予親王自体が伝説上の人物で、孝霊天皇皇子とするものが普通です。そうすると為世はもっと遡るはずです。

筈衛


[239八田宗綱と児島宗綱は同一人というのは本当? 投稿者:木村信行 投稿日:2005/02/03(Thu) 22:28  

藤原鎌足ー不比等ー房前ー真楯ー内麿ー冬嗣-良房ー基経ー忠平ー師輔
ー兼家ー道兼ー兼隆ー兼房ー朝綱ー宗綱という系譜の最後の宗綱(姓は八田)と、物部氏のウマシマヂー彦湯伎-大禰ー出石心ー大綜杵ー伊香色雄ー大新川ー大小市ー小致ー若伊香ー粟鹿ー三並ー熊武ー伊但馬ー喜多守ー高箕ー勝海ー久米麿ー百里ー百男ー益躬-武男ー浄江ー真人ー益男ー広成ー真勝ー深躬-興利ー好方ー為世(嵯峨天皇皇子)-為綱ー宗綱
とくる宗綱(姓は児島)が同一人という説があります。本当に同一人にできるか、調べる方法はあるでしょうか。時代的接点も見たいので、情報を待ちます。児島宗綱の子孫に有名な太平記を書いた児島高徳がいます。では解答、よろしくお願いします。

http://nihonrekishiken.com/


[238ファントム 投稿者:武田信廣 投稿日:2005/02/01(Tue) 23:30  

昨日は、函館は大雪でした、そのなか「オペラ座の怪人」を見てきましたが、考えてみれば今日は映画の日だったんですねえ。失敗した。
しかし、シューマッカー&ロイドの「オペラ座~」は素晴らしかった。一見、全然、このサイトと関係ないようですが、私の中ではオオアリです。最近、話題の「怪帝ナポレオン三世」をゲットした私は、近世フランスに興味深々です。
しかし!それ以上に音楽が良かったのでCDを買おうと思ったのに、限定版のCDが1/21に発売されたばかりというのに既にどこにも在庫が無いという・・・。仕方ないので米国アマゾンから買うことにしました。


[237始めまして 投稿者:貴志 長英 投稿日:2005/01/30(Sun) 17:11  

私は、浜松藩 井上正就 を祖とする大名の家臣でした、
当家は、阿倍の流れを持つ子孫と思われます。
少し調べましたが、分からないことが多く、難儀しています。


[236ご先祖、発見! 投稿者:KUBO 投稿日:2005/01/30(Sun) 12:11  

 先日、国会図書館に頼んだコピーの第二弾が届きました。今回のコピーで水戸藩士
になった小山氏や、松前藩士の小山(尾山)氏の系図、加賀藩の老臣八家の系図などが
手に入りました(^^)
 あと岩手の紫波町史に私の母方の先祖の名前が何ヶ所か載っているのを発見しまし
た(^^) やっぱり紫波町史、買わなくてはいけませんかねえ...(高いんだよなあ)

>湊奉行さん

> もし機会があれば夏にでもチャシを探索したいと思っています。
 夏は夏で草が茂りすぎますんで、一番良いのは春か秋が良いんですけどね(^^;) 機
会がありましたら是非。

>武田信廣さん
 はじめまして。廣の字をお使いになっているところからして、こだわりが見えます
ねえ(^^) たしかに松前氏関係の情報が載っているのは、うちか「蠣崎幕府」さんく
らいしかないですからねえ...

 函館に御在住ですか、うらやましい... 数年前までは毎年のように道南に行ってた
んですけど。結婚してからは一昨年のGWに行ったきりですんで、今年こそは行きた
いものです。

> 上磯の陣屋桜の素晴らしさは、恐らく五稜郭をしのぐものだと思います。

 ええ、私もそう思います。あの桜のトンネルを初めて見た時には感激しました。

> ところで、ふと思ったのですが伊達のバチェラー祈念堂が抜けているのは何か理由
> があるのでしょうか?
 別に意味はありません。だいたい史跡巡りする時には山川の『北海道の歴史散歩』
を見ていくのですが、すっかり忘れておりました(^^;) 今度行く時は行ってみようっ
と...

> 「北の零年」を見てきました。
 私は昨日パンフだけ買ってきました(^^;) チビすけくんがいるもので、映画なんて
もう一年以上見に行ってません。DVD出たら買おうかな?


[235はじめまして 投稿者:武田信廣 投稿日:2005/01/26(Wed) 23:13  

これほど、松前氏の情報が充実しているサイトは見たことがありません!感心するしかありませんです・・・。
私は、函館に在住する歴史好みの浪人ですが、ものすごい情熱を感じます。上磯の陣屋桜の素晴らしさは、恐らく五稜郭をしのぐものだと思います。

さて、私も道内の名所・旧跡なるものはかなり訪問した口ですが、日高様似の等樹院へは未訪だったので、このサイトで写真を見ることが出来てうれしく思いました。また、野付半島にあった、幻のなんとかという町にも興味シンシンなのですが(勿論、サハリンや北方4島・・・さらに北千島にも関心があります)

ところで、ふと思ったのですが伊達のバチェラー祈念堂が抜けているのは何か理由があるのでしょうか?確かに知名度的には、それほど大きくはありませんが、ちょっと気になりました。

「北の零年」を見てきました。長い話の割には、それ程ダレず見ることが出来ましたよ。面白いかどうかは個人の判断ですが「デビルマン」を前売まで買って見た私は、全てが許せます(^^)

今年の春も蛎崎波響の大涅槃図が公開されます。
しばらく見に行ってないので、行ってみようかな、と思っています。


[234Re:[231] 樋詰さん、こんにちは 投稿者:樋詰泰行 投稿日:2005/01/26(Wed) 21:10  

ひづめさん、お返事ありがとうございました、返信遅くなって申し訳ございません。過去ログの方、さっそく閲覧させていただきます!


[233Re:[232] 便利な世の中に,,, 投稿者:湊奉行 投稿日:2005/01/23(Sun) 21:38  

冬は秋田でも史跡探索は無理ですからね。もし機会があれば夏にでもチャシを探索したいと思っています。

相互リンクの件ありがとうございます。
今後ともよろしく御願いします。

http://ww35.tiki.ne.jp/~mamoru_go/


[232便利な世の中に,,, 投稿者:KUBO 投稿日:2005/01/22(Sat) 12:13  

 また2週間近く放置してしまいました(^^;) 失礼しました、皆様。結局、冬休み中
の更新は先日国会図書館より取り寄せた『史料仙台伊達氏家臣団事典』のコピーをも
とに、仙台松前氏や「滅びた(?)名族」の伊達氏の家臣となった一族(芦名氏、天童氏、
白河氏)を更新しただけで終わってしまいました(--;)
 もう少し手を入れたかったんですが、残念...

 しかしこの国会図書館の郵送複写サービスはいいですね。インターネットでコピー
まで頼める時代になるとは... ただ欠点もありまして、国会図書館のサイトの蔵書検
索では、書誌に目次まで載っているわけではありませんので、まずはコピーしたい本
の目次をコピーして、その目次を見ながら再度希望の場所のコピーを申し込まなくち
ゃいけません。
 まあ国会図書館の資料をコピーできるだけでも便利な世の中になったとはいえます
が(^^;) そういえば東大資料編纂所のサイトでも所蔵の資料を見れるデータベースが
ありますし、そういう意味ではほんと良い世の中になったもんです。

>chocoさん
 今後ともよろしくお願いします。

>源次郎さん
 北海道にいると、なかなか見れない資料等がありますからねえ。国会図書館の「近
代デジタルライブラリ」で印刷した資料はまだあまり活用してませんけど、これから
さらにデジタルライブラリが充実していくといいですね。上にも書きましたけど、国
会図書館の郵送複写サービスにしても搭載資料編纂所のデータベースにしても便利な
世の中になったもんです。

>湊奉行さん
 はじめまして。蠣崎若狭守さんところの掲示板ではよくお名前をお見かけしていま
した(^^) なんでも来月北海道においでになるそうですが、一番史跡巡りには向かな
い時期に来られるとは残念です。私もここしばらくチャシ巡りはしていませんが、今
度北海道に来られる時には4月末~11月始めくらいに来られることをオススメします。
場合によっては4月末&11月始めでも雪に埋もれている時がありますが(^^;)
 相互リンクの件は了解です。次回更新の際にこちらからリンクさせていただきます。

>樋詰泰行さん
 はじめまして、当サイトにおいでいただきありがとうございます。樋詰姓について
ですが、下でひづめさんが御紹介して下さったように、先日樋爪・樋詰姓についてこ
の談話室でやりとりがあったばかりですので、先日アップロードしたばかりの談話室
の過去ログ第30部をご覧になっていただいた方が手っ取り早いかなと思います。

>ひづめさん
 フォローありがとうございます。

>福田兵庫さん
 いくつか手持ちの資料を見てみましたが、残念ながら川尻下野守についての情報を
見つけることができませんでした。


[231樋詰さん、こんにちは 投稿者:ひづめ 投稿日:2005/01/17(Mon) 21:45  

樋詰泰行さん、こんにちは。

 初めまして、『美浦村お散歩団』のひづめと言います。私自身はある方に付けていただいたひづめというハンドルを使っていますが樋詰姓あるいは樋爪姓とは家系上では繋がりはありません。ところがひづめ繋がりで先日も樋爪さんからお問い合わせがありました。以下の過去ログ番号を見ていただければ樋詰あるいは樋爪姓に関する最近のやり取りを辿っていただけるかと思います。

179 183 184 185 186 187 188 189 192 193 194 197 199

 私の持っている情報は岩手県紫波町の樋爪館( http://www.osanpodan.com/iwate-hidume-tate.html )の訪問記くらいです。

ひづめ@美浦村お散歩団

http://www.osanpodan.com/


[230川尻下野守 投稿者:福田兵庫 投稿日:2005/01/16(Sun) 21:35  

河(川)越の福田(河越三十三郷)というところに所領を持っていた小田原北条氏の武将山中彦七郎の家臣・川尻下野守(河越衆)についてどんなことでも結構です。ご存知の方、教えてください。


[229こんにちわ。 投稿者:樋詰泰行 投稿日:2005/01/16(Sun) 15:45  

はじめまして、ひょんな事から「ひづめ」を検索していて、こちらを発見し楽しく拝見させていただきました。皆さんとても詳しいですね。私は東京に住む樋詰と言います。周知の通り中々珍しい苗字なので同姓に遇った事がありません、祖父は富山の氷見の出身だったそうです、自分のルーツというか少しでも参考になる事知っていたら是非、教えて下さい。宜しくお願いします。


[228Re:[213] 今年もあと少し... 投稿者:ふくい 投稿日:2005/01/12(Wed) 23:31  

> >ふくいさん
>  はじめまして。松前藩士の御子孫ですか。松前藩士名簿ですが、私の手元にあるの
> は、『松前町史』の通説編・資料編に載っているものくらいで、あとはちょっと思い
> 当たらないです。申し訳ありません。
>
お手間をおかけして申し訳ございませんでした。
ありがとうございます、またいろいろな資料を当たってみたいと思います。これからもサイト拝見させていただきます。


[227どうも・・・。 投稿者:湊奉行 投稿日:2005/01/11(Tue) 14:39  

はじめまして。蠣崎若狭守さんの紹介で来ました。
これから北海道のチャシを訪れようと思っていたので、大変、参考になりました。これからも参考にさせていただきます。

もしよろしければ相互リンクしませんか?
私の管理するサイトでも城館や系譜などを扱っています。

http://ww35.tiki.ne.jp/~mamoru_go/


[226著作権保護期間 投稿者:源次郎 投稿日:2005/01/08(Sat) 07:09  

著作権は作者が亡くなった翌年一月一日から換算して五十年経つと消失します。あとは誰がどのように利用しようが自由ということなので、今後明治期に著された書籍などは電子ライブラリーとして活用が広まれば良いですね。同じく北海道に居住する者として日々実感しています。


[225よろしくお願いします。 投稿者:choco 投稿日:2005/01/08(Sat) 00:04  

KUBO様
CHOCOです。
どうも情報ありがとうございました。
なかなか、詳しくお調べで敬服します。
母が歴史嫌いだったので、最近まで自分の先祖は全く知りませんでした。
また、こちらでも、なにかお知らせできることがあればと思っております。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kn2386


[224すっかり遅くなってしまいましたが... 投稿者:KUBO 投稿日:2005/01/07(Fri) 00:20  

>みなさま
 あけましておめでとうございます。といってももう年末年始の休みも終わって、今
日は久しぶりに出勤してきましたが(^^;) 冬休みもあと1週間ほどですが、来週はほ
とんど出勤ですので、サイトの更新もどこまで手を付けられることか... ほんとは年
末年始の休みで少しやりたかったのですが、今度の土曜日に「歴史学同好会」(札幌
近郊の歴史好きの人が集まって月一で例会をやるんです)の例会がありまして、今回
は私の発表の番なものでその準備をしてたら、時間がなくなっちゃいました。
 今回のテーマは「北海道の城郭~城館・陣屋・チャシ」で、北海道の城郭について
ちょっとまとめてみました。例会が終わったら、PDFファイルにでもしてアップしま
しょうかねえ。

>縫殿之助さん
>源次郎さん
 お二人とも去年はサイト開設おめでとうございました。本年もどうぞよろしくお願
いいたします。

>蠣崎若狭守さん
 あけましておめでとうございます。最近はすっかり年始まわりもしてませんねえ(^^;)
少し見習わないと...
 「星界の戦旗IV」は早速読み終わりました。あれじゃあまだプロローグという感じ
ですね。次はそれほど待たせないで欲しいですが。まあ某田中氏よりは良いかも...(^^;)

>chocoさん
 はじめまして。当サイトにおいでいただきありがとうございます。伊達宗実公の御
子孫ですか。亘理伊達家の北海道入植については、ほとんどが参考文献にあげた『侍
たちの北海道開拓』(榎本守恵、北海道新聞社)の受け売りです。あと最近邦成公の義
母伊達保子の生涯について書かれた『仙台藩最後のお姫さま』(伊達宗弘・伊達君代、
新人物往来社)という本も出てますね。買っただけでまだ読んでないんですが(^^;)
 今後ともよろしくお願いいたします。

>とめ@伊達男さん
 わが家は道立図書館まで車で10分ととても良い位置にあるんですけど、最近道立図
書館の蔵書では物足りなくなってきてまして(^^;) たぶん北海道には道立図書館とわ
が家にしかないんじゃないかと思われる本もありますし、たぶん道立にもないだろう
というものもあるんですけどねえ(^^;)
 そんなわけで、最近はネットで国会図書館に複写依頼をしている次第でして(^^;)
でも良い時代になったもんです。ネットで古本を手に入れたり、図書館に複写申し込
みできたりするなんてねえ。
 そういえば、ご存じかもしれませんが、国会図書館のサイトの「近代デジタルライ
ブラリー」では著作権保護期間の終わった明治期の刊行物を閲覧したり印刷したりで
きるんですよねえ。『伊達世臣家譜略記』や『伊達世臣録』もあったので、印刷して
ファイリングしてしまいました。


[223謹賀新年 投稿者:とめ@伊達男 投稿日:2005/01/05(Wed) 13:48  

あけましておめでとうございます。
旧年中は色々とお世話になりました。今年もよろしくお願い致します。

>KUBO様
「伊達世臣家譜」への投票ありがとうございます。
当方も川崎市立図書館か神奈川県立図書館が所蔵していていれば楽なのですが、所蔵していないようで・・
国会図書館か東京都立図書館に行かなければならないようなので、復刊に期待をしてるんです(汗)
都立とか横浜市立の場合、図書カードの作成ができないので開架してない所蔵図書の閲覧が面倒なんですよ(苦笑)

>choco様
横レス失礼致します。
母方の先祖が伊達安房宗実公なんですか?
「成実三昧」
http://shigezane.fc2web.com/
で、その事を語ると多分、管理人さんが滅茶苦茶喜ぶと思いますよ!
私は伊達氏の研究をしているので、正直言って家系図は拝見したい
です。
ちなみに私自身は伊達氏とは全く関係ない家系かつ土地の人間なのですが(汗)
もし宜しかったら、当方のサイトにも遊びにいらして下さいませ。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/tomeas/


[222亘理伊達藩のこと 投稿者:choco 投稿日:2005/01/03(Mon) 20:52  

kubo様
chocoと申します。
あけましておめでとうございます。
初めまして。
なにげなく亘理藩のことを調べていたら、kuboさんのページにお会いすることが出来ました。
実にいろいろなことをよくお調べになっていますね。
実は、私の母方の祖先が、伊達正宗の九男、のちに亘理藩の成実公の養子になっていて、現在の伊達市の始祖である邦成公の祖先であるようです。
叔父から、家系図をコピーしてもらったところ、わかりました。
母や、叔父、叔母から聞いた話などから、家系はどうも間違いないようです。
kuboさんがお調べになったことや、屯田兵のことを調べていくと、亘理藩の人たちは、ずいぶん分散して入植したようですね。
私は、小さいころ、時々名前を言うと、「ああ、あの方の息子さんかあ」、父方より母方の名字で言われていました。
なにか、特別とまでは行きませんが、そんな体験をした記憶があります。
たまたま、叔母と昨日あいましたが、母方の祖父、曾祖父の時代では、やはり、武家のしきたりで話をしていたようです。
これからも、いろいろと歴史についてお調べ頂き、教えてください。
全く関係ないのですが、ウサギを紹介したページを開設しています。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kn2386


[221リンク 投稿者:縫殿之助 投稿日:2005/01/02(Sun) 11:54  

職場のマックからリンクしました。
マックもOS9だと大丈夫みたいです。

どうぞいらして下さい。

http://www.nona.dti.ne.jp/~call-you/index.html


[220謹賀新年 投稿者:蠣崎若狭守 投稿日:2005/01/01(Sat) 11:20  

新年、明けましておめでとうございます。
いま、新年のご挨拶行脚をしております。
去年は大変ご無沙汰しておりましたが、今年もよろしくお願いいたします。

そういえば、星界の戦旗4が出ておりますな。
前作から何年も待たせて、あの分量はちょっと・・・。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kakibaku/


[219明けましておめでとうございます 投稿者:源次郎 投稿日:2005/01/01(Sat) 09:34  

昨年中はお世話になりました。今年も宜しくお願い致します。


[218明けましておめでとうございます 投稿者:縫殿之助 投稿日:2005/01/01(Sat) 01:23  

こちらで知り合った方々にも、色々助言頂き、感謝しております。
本年も宜しくお願い致します。

http://www.nona.dti.ne.jp/~call-you/


[217本年もどうもありがとうございました。 投稿者:KUBO 投稿日:2004/12/31(Fri) 20:31  

>みなさま
 今年もあとわずかですが、どうもありがとうございました。今年は本当に全くとい
っていいほど更新が進みませんでしたが、うちの坊主くんがもう少し大きくなるまで
は、こんな更新ペースかもしれません(^^;)
 まあぼちぼちやりますので、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 あ、そうそう、すっかり気が付かないうちに19万hitを過ぎていました(^^;) あと
1万で20万ですか。なんか実感わかないですね(^^;)

>ちゃぶさん
 こちらこそブログ楽しみにしていますね(^^) 今後ともよろしくお願いします。

>筈衛さん
 こちらこそよろしくお願いします。まあくんは...いま歩けるのが楽しいようであ
ちこち行って荒らしてまわってます(^^;) ヤレヤレ...

>縫殿之助さん
 遅くなりましたが、当方からのリンクはりましたからね~(^^)


[216来年もよろしく 投稿者:HAZU 投稿日:2004/12/31(Fri) 06:23  

 今年はお世話になりました。
 来る2005年はよい年でありますことを願います。

 ※ まぁくんのお早い成長も祈りましょう(^^♪
   早く、「おとうさん」と一緒にお城歩きと家系図調べを始めますよう神様に祈ろう(*^^)v
   明日は10歳になっているかも・・・・(^o^)/

筈衛


[215高野氏 投稿者:HAZU 投稿日:2004/12/29(Wed) 04:45  

 高野氏は興味がある一族ですね。
 まず、第一に私の生まれ故郷奥州高野郡南郷(現在の福島県東白川郡)は鎌倉時代高野時家の領地でした。東白川郡では高野氏の興りを筑波郡高野村(現在のつくば市高野)ではなく、奥州高野郡ではないかとしています。
 第二に常陸守護代高野時綱が没落した切っ掛けが、奥州に残っていた一族のものが奥州高野郡の結城顕朝を攻略しようとし、反対に結城氏に降伏したためですからです。
 第三に家内の旧姓ですね(^^ゞ

筈衛


[214ありがとうございます! 投稿者:ちゃぶ 投稿日:2004/12/28(Tue) 12:01  

KUBOさん、ありがとうございます!お手間を取らせてしまいました。それにしても、さすがだなあと感心しきりです。これまで文献としては国会図書館で「新編常陸国誌」に当たってみたくらいで、何を調べたらいいのかさえわからず途方に暮れていたので、大変助かります。
そもそも我が家では「この過去帳は江戸時代に書き直した」と伝えられていますし、すべてが真実と信じているわけでもありません。どちらかというと、眉に唾つけながら、歴史ロマンとして受け止めています。私がちょっと調査しただけで、怪しげなところが多々出てきていますしね(^^ゞ

過去帳は時家-景家-知員-知宗となっており、ここまでは戒名も偉そう(大居士)です。5代目が次郎知道となっており、戒名も一般人(居士)みたいになります。ここで没落したか、少なくとも傍系になっているという意味だろうと解釈しています。
またお教えいただいた知貞、知春-知定、知清の名は過去帳には出てきません。武田家についてもお教えいただいた名前と一致する者はいませんでした。ただ、過去帳の添書きによると、22代信國が今川家から武田家へ移り、23代定伴は大神君に拝謁、その後秀康に拝したが仕えず蟄居し、24代貞時から秀康に仕えたとなっており、「家康に仕えた武田遺臣」をかすってます(^^;

佐々木家のこともありがとうございます。こちらはネット上のあるHPで見ただけで、まだ本格的には何も調べていませんでした。家紋の件は少なくとも佐々木氏と関係があったということなのでしょうね。氏泰と光綱が同一人物なのか、別人なのか、また、高野の名跡を継いだという記録が今後他から出てくるか、興味津々です。

代数の件ですが、私もこの過去帳を調べはじめてすぐに疑問を持ったところなんです。まず第一に、初代時家の没年が「建暦ニ壬申年十月十二日」になっています。これって西暦1212年になるのではないでしょうか。それでは他の記録と矛盾しますし、父親の八田知家より先に亡くなったことになります。その後15代宗綱まで1代平均8.5年、最長でも11年なんです(ちなみに15代から明治を迎える33代までの平均は31.5年です)。いくら平均寿命が短い時代だったと言っても随分早死にする家系ってことになりますよね(笑)。全くありえないことだとも言い切れませんが、初代の没年を繰り上げているらしいことと考え合わせると、過去帳の上で佐々木家が名跡を継いだとされる光綱以前にたくさんの代を詰め込みたいという衝動が誰かにあったのではないかと勘ぐりたくなります。

これからも時間を見ては、ゆっくり調べて行こうと思っています。なかなか更新はできませんが、そのあたりはブログで公開していくつもりでいます。また何かありましたらご教授ください。これを機会にKUBOさんのサイトをお気に入りに入れました。楽しみにしてますので、KUBOさんも更新がんばってくださいね(笑)。
本当にありがとうございました。また、おじゃまします!

http://chab.exblog.jp/


[213今年もあと少し... 投稿者:KUBO 投稿日:2004/12/28(Tue) 00:48  

 冬休みに入り、年賀状や家の中の掃除などに明け暮れておりますが、一息つきまし
たので出てきました(^^;)
 早いもので今年もあとわずか。今年を振り返ってみますと、たいして更新できてま
せんね~(^^;) 「滅びた(?)名族」も一つしかやってないし、あとは夏の城巡りの分
くらいとは、我ながら情けないです。とはいっても、普段の日は坊主くんが寝たあと
の数時間、休みの日も普段あまりしていない分、坊主くんの世話をしなきゃいけませ
んし、なかなか時間が取れません。冬休み中に少しやりたいところですが、どれだけ
進めることができますかねえ(--;)

>とめ@伊達男さん
 「伊達世臣家譜」に投票しておきましたよ(^^) 私も続編は持ってますが、正編は
ないもんで。仕方ないんで北大図書館でコピーしてきましたが。「仙台伊達氏家臣団
事典」も北海道では見られそうもないんで、現在国立国会図書館にコピーを依頼中で
す(^^;)

>ふくいさん
 はじめまして。松前藩士の御子孫ですか。松前藩士名簿ですが、私の手元にあるの
は、『松前町史』の通説編・資料編に載っているものくらいで、あとはちょっと思い
当たらないです。申し訳ありません。

>縫殿之助さん
 はじめまして。実は源次郎さんのところの掲示板でお見かけしたので、そちらのサ
イトにはすでに訪問済みでした(^^;) 相互リンクのお申し出ありがとうございます。
それでは次回更新の際には、こちらからリンクを張らせていただきます。よろしくお
願いします。

>筈衛さん
 毎度毎度、フォローありがとうございます、特別名誉顧問様(^^)

>ちゃぶさん
 はじめまして。当サイトにおいでいただきありがとうございます。ちょっと手持ち
の資料で調べてみました。

 高野氏は知家の子時家から、景家―知員―知宗―時知―時綱と続き、鎌倉幕府の評
定衆や引付衆を務め、時綱は一時常陸の守護代も務めていたようですね。高野氏の嫡
流はこの時綱の代で没落したようですが、時綱の弟知貞の子孫は知春―知定と続き、
知定は上杉氏憲(禅秀)に味方して、氏憲戦死後は出羽に逃れ、知定の子知清は伊達持
宗に仕え、以後代々伊達家に仕えたそうです。江戸時代は家格は着座、1650石を知行
したとのことです。(『宮城県姓氏家系大辞典』より)

 また武田家家臣の高野氏ですが、『甲州武田家臣団』という本に載っている「家康
に仕えた武田遺臣」という名簿に高野清七郎(三枝衆)、高野与十郎・高野五右衛門・
高野彦次郎(一条衆)、高野弥左衛門(備中衆)、高野外記(曽根下総守衆)の名前が見え
ます。
 また福井藩士の高野氏については『三百藩家臣人名事典』に元料理方でのち藩の儒
官となった「高野春華」という人物が出てます。

 また高野六郎光綱についてですが、佐々木氏の系図をいくつか見てみましたが、確
かに佐々木(六角)時信の子に氏泰あるいは光綱という人物が出てますが、高野氏の名
跡を継いだという記述はありませんでした。『群書系図部集』の佐々木系図では氏泰
の項に「貞和三九十六於河内藤井寺討死」と書かれていました。ところが『系図纂要』
では氏泰と光綱が別人となっており、氏泰の項には「六郎左衛門、貞和三年八ノ十四
討死于葛井寺」、光綱の項には「六郞、貞和三年九ノ十七討死于葛井寺」と書かれて
います。両者を混同したのでしょうか?

 ところで一つ疑問があるのですが、高野十郎宗綱が15代目と書かれていますが、こ
れは高野十郎時家から15代目ということでしょうか?高野氏嫡流の時綱は南北朝の人
物で宗綱・光綱とだいたい同時代人ですが、こちらは時家から6代目です。
 『系図纂要』では時家は文永8年(1271)72才で卒したとありますので、正治2年
(1200)の生まれということになります。そうすると時綱まで6代というのはだいたい
符合するかなと思えますが、15代というのはちょっと代数が多すぎるかなと思うので
すが...


[212丸に隅立て四つ目結い 投稿者:ちゃぶ 投稿日:2004/12/27(Mon) 14:09  

はじめまして。「ちゃぶ」こと本名「高野」と申します。我が家に残る過去帳の写を頼りに調査をはじめたばかりの身です。
我が家の家紋は、KUBOさんのお母様方と同じ「丸に隅立て四つ目結い」です。これが佐々木家だけが使う家紋であると知って、なるほどと膝を打ちました。少し長くなりますがお付き合いください。
我が家の過去帳によると初代は、八田知家の七男が「下野国高野」を領していたので高野と号したとされており、高野十郎伊賀守時家を祖としています。八田知家のことは源義朝の三男だと記されていますし、下野国も常陸国の誤りですから、すでにここでその信憑性は破綻しているのですが(笑)。一応、四代目までは尊卑分脈と一致しています。
15代目が高野十郎宗綱という人で、「佐々木判官時信ニ属ス 京唐崎濱合戦ニ軍功ヲ盡クシ討死令シム」とあり、16代目高野六郎光綱の項には、「生国近江 父時信之命ニ仍リ高野宗綱之名跡ヲ為シテ其ノ食色ヲ継グ 貞和三年九月十七日河内藤井寺軍討死」となっています。佐々木家の系図で時信の子に六郎左衛門尉氏泰があり別名を光綱と名乗っていたようですので、これがその人だろうと思います。
我が家では、なぜこの家紋なのかということについて、戦国時代は武田氏にいたから武田菱の流れなんだろうと推測する人もいましたが、KUBOさんのHPを見て、この16代目から佐々木家の紋を使っていたのではないかと思いいたった次第です。
これを機会に「高野」について、何か情報がありましたらぜひお願いいたします。鎌倉時代は常陸、室町時代は近江、戦国時代は今川から武田、江戸時代は越前松平藩にいたことになっています。

http://chab.exblog.jp/


[211Re:[210] たぶん、それじゃ行けないよ(^^ゞ 投稿者:縫殿之助 投稿日:2004/12/27(Mon) 01:01  

なにからかにまで、本当に有難うございます。

こんな仲間が出来て、本当に嬉しいです。

そうそう、小手森城の鳥瞰図、作成してみました。

よろしかったら御覧下さい。

さっそくに源次郎さんのアドバイスがあり、修正しましたけどね(笑

http://www.nona.dti.ne.jp/~call-you/


[210たぶん、それじゃ行けないよ(^^ゞ 投稿者:HAZU 投稿日:2004/12/27(Mon) 00:48  

 縫殿之助さん、KUBOさん、こんにちは
 正しいアドレスは
 http://www.nona.dti.ne.jp/~call-you/
 ですね(^^ゞ

>>URLは入れておきますが、マックOSXとIEの互換性に問題があり、行けない場合があります。
今回の件で、「~」がマックではあらわせないと言うことがわかりました(^^)

筈衛


[209リンクのお願い 投稿者:縫殿之助 投稿日:2004/12/26(Sun) 23:35  

9月に「会津四家合考」の現代語訳のサイトを始めた者です。

こちらにお見えの源次郎さん、筈さんにもご指導頂いております。

こちらと相互リンクをさせて頂きたいのですが、お願いできるでしょうか。

URLは入れておきますが、マックOSXとIEの互換性に問題があり、行けない場合があります。

その場合、ご面倒でも「葦名家分限帳」「會津四家合考」でのgoogle検索でお越し下さるようお願いいたします。

http://www.nona.dti.ne.jp/~call-you/


[208松前藩家臣団名簿の情報募集 投稿者:ふくい 投稿日:2004/12/22(Wed) 20:48  

突然の書き込み失礼致します。
私の先祖は福井佐五六という松前藩の下級武士です。
戊辰戦争で明治2年4月に札前野で37歳で戦死しています。
佐五六の役向、家級などを知りたいのですが、名簿の存在、また活字化されていれば収録書名をお教えください。
ちなみに、次の家臣名簿は確認しておりますのでこれ以外でお願いします。
1.嘉永6年 御扶持家列席帳(新組御徒士)
      御役人諸向勤姓名帳(御用之間次勤)
2.明治2年 館藩士族卒族姓名簿(没 佐五六)
3.明治12年 改 士族名簿(佐五六跡・幾美)
なにか資料をご存知でしたら幸いです。よろしくお願いいたします。


[207ありがとうございます。 投稿者:とめ@伊達男 投稿日:2004/12/20(Mon) 09:54  

>源次郎さん、KUBOさん
史料のご紹介ありがとうございます。
所蔵館は宮城と宇和島か・・・と思いつつ関東圏の図書館の所蔵状況調べたら『家中由緒書』は都立中央図書館にありました。
貸出不可なのですがそのうち足を運んでみたいと思います。

>ALL
復刊ドットコムでの「伊達世臣家譜」投票に
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=15122
ご協力お願い致します。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/tomeas/


[206眠い... 投稿者:KUBO 投稿日:2004/12/19(Sun) 00:28  

>みなさま
 学期末の仕事が一段落しましたので出てきました(^^;) 金曜日は朝方近くまで仕事
してましたので今日はすごい眠いです。でも、うちの坊主くんはいつもと同じく6時
半過ぎには活動を始めまして... 昼前にちょっと昼寝してましたので一緒に寝てしま
いました(^^;)

>福田兵庫さん
 三河国の浜名三河守ですか。こちらも申し訳ありませんがよくわかりません。

>虎猫さん
 こちらこそどうぞよろしく御願いします。

>木村信行さん
 源氏は嵯峨天皇の皇子であった源信以下の兄弟が源姓を賜り臣籍降下したのが始ま
りといわれています。桓武天皇の皇子であればそれよりも一世代早いことになります
し、とうていあり得ないことのように思います。

>とめ@伊達男さん
 先日はいきなりおじゃましまして失礼しました(^^;) さて宇和島藩・吉田藩の家臣
についての資料ですが、『系図文献資料総覧』には源次郎さんがあげられた『家中由
緒書』が載っておりました。それによると...
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 <宇和島藩庁伊達家史料4波> 近代史文庫宇和島研究会 上・中・下 昭和53波55
 上巻・下巻は各年代ごとの藩士由緒書を収録し下巻に明和から明治初年に至る各分限
 帳を掲載。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
という説明が載っていました。
 また愛媛県立図書館に『宇和島分限帳』(昭和20写、40枚)、『宇和島吉田分限帳』
(昭和10写、57枚)という史料があるそうです。

>源次郎さん
 フォローありがとうございます(^^)


[205無題 投稿者:源次郎 投稿日:2004/12/16(Thu) 19:44  

活字になったものでは宇和島藩庁・伊達家史料の「家中由緒書」があります。なお宮城県図書館にも貸し出し可能な蔵書があります。


[204いつもお世話になっております。 投稿者:とめ@伊達男 投稿日:2004/12/15(Wed) 12:59  

先日は当方のBBSでのご指摘ありがとうございました。
甘えついでにお願いがあるのですが・・
宇和島藩・吉田藩の家臣について詳しい史料・文献等ご存知ないでしょうか?
色々な文献で桜田、桑折、松根、鈴木・・等、細切れに家老職をはじめとした家臣の名前を見受けることができてもどのような家があって、どのような家臣がいたかとかがいまいち掴み難いので、家臣録や世臣家譜のような本は無いものかと探しているのですが見つかりません。
推薦できるような史料・文献がございましたら教えていただけたら幸です。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/tomeas/


[203桓武源氏は実在するか 投稿者:木村信行 投稿日:2004/12/07(Tue) 15:38  

桓武天皇皇子とされる源清広が宇多天皇皇子源清氏を養子にして子孫が宗像神社の大宮司になったという説があります。この二人に関する情報を待ちます。そもそも桓武源氏というものが本当にあったかどうかもご存知の方はお願いします。
http://nihonrekishiken.com/

http://nihonrekishiken.com/


[202児島系図への情報募集 投稿者:木村信行 投稿日:2004/12/07(Tue) 11:57  

頼仁親王が児島宮といったので、それで姓が児島になられたのでしょうかについて、姓について少しあげてみます、姓は古代に於いてはてろてろと記されていますが、当家以外も同じ姓の流れもあるかも知れません?
姓(かばね)は古代より記されていますが、これは地名から始まったものや
藤原氏のような場合もあります、当家の関連に関しここで参考までに記す。
藤原宗綱の子息女系は紀正高で住人地が小野の里で古代の地名から名乗り
小野盛綱(児島盛綱)ともされ本姓佐々木盛宗もりが住んだ地名が姓になると
いう平安鎌倉の時代に於いても姓は変わり記されています、この為別名と
思う方は事情が飲み込めていない為と思われます。参考までに
盛綱は盛宗の子息ですが佐々木姓で通っていて、備前児島に頼朝により
着任して児島の土地に居たので児島の地名が姓に名乗りまして、この前に
後鳥羽院の兄が児島に居たのでその跡に院の頼仁親王が住まわれて姓が
児島宮と呼ばれました、又盛綱も児島姓ですがまだこの時は縁戚関係は
ありませんでした、高徳の母時初めて頼宴僧正の妻になった児島範長の
女が縁戚となりました、後祖父はなくなりと「太平記」に記しこれ以後
は児島一族の縁戚和田系の佐久間氏の縁戚から佐久間姓を名乗りました
是以後は甚九郎正成から現代の姓を名乗りましたという訳です、]
と称し、九州福岡県夜須町で天満児島宮という神社をやっているものがいます
児島高徳の子に高光→正綱→です、
(高秀不明)、高長、高貞、は兄弟になっていますが本当は
高光が嫡男でお問い合わせの高秀、高久、高貞、高治はどちらの家
の系図かは解りませぬが、七歳で預けられていたので年上でしょう
勿論年の違いは年上の兄弟となりますが、祖父範長の子供達です。
嫡男高光と後弟は寺、妹は他家へ嫁いでいます、
祖父範長は紀家弘の女を室にした関係から、和田とか号し備後国児島郡
に住み妻の父東郷胤時はこう記していた、範長は今木範俊の子なりとて
児島と河野は一族にてと、あり本当は今木備後守高長とあり。
紀の家弘の処に居た関係から系図に載せていたのでしょう。
高貞は今木三郎となっております、又高治は記されていません。
次男に三宅高長がいます、三男高貞と。
三宅の祖河野深厳也とその父は得能四郎通俊也で幼少の児島家勝の
補佐となり、家勝ー家弘とあり。
盛綱跡は逸見清光の子が女の養子に、重氏(祖父義盛跡に居)和田邑
ー季房(孝房)-家勝と。

以上のような系図情報を持ち、九州夜須町で天満児島宮祭主をする人物がいます。これについての皆様なりの分析情報を待ちます。
http://nihonrekishiken.com/

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[201来年大河ドラマテキスト紹介 投稿者:木村信行 投稿日:2004/12/07(Tue) 11:52  

来年の大河ドラマ 源義経のテキスト紹介。
源義経のジンギスカン論・伊勢三郎の系図その他紹介。
げんぺいのほし   こういんしかんさん
源平の星 -皇胤志巻三
EA3 定価5100円、申込金6055円 B5判箱入り上製本
南朝皇胤大審院判事中田憲信の語る桓武天皇~宇多天皇に至る皇胤-氏族・豪族の系譜の完璧版。歴史上の人物の系図式人名辞典。時代を彩る桓武平氏・清和源氏・嵯峨源氏などの系譜・源為朝の琉球王朝創始。蒙古襲来と義経・安徳帝。源義経のジンギスカン論と安徳天皇のフビライ大汗論の可能性も検討、源義経の家来、伊勢(平)三郎義盛の系図もあります。義盛は平氏です。この本は別記する皇胤志全七巻より桓武天皇~宇多天皇の時代に該当する系譜・解説論文を抽出して必要な文を補って1冊にまとめたものです。
http://nihonrekishiken.com/
ぜひお申し込みをお待ちしています。詳しくはホームページをご覧下さい

http://nihonrekishiken.com/