No.601~776(2008/02/14~2016/08/01)


[776お世話になりました 投稿者:KUBO 投稿日:2016/08/01(Mon) 00:45  
>みなさま
 当サイトの管理人KUBOです。トップページにありますように、@niftyの@homepageサービス終了に伴いまして、当サイトを閉鎖、移転することとなりました。8月4日までは当サイトを閲覧することはできますが、5日以降はこちらを閉鎖し、後継サービスの「@niftyホームページサービスLaCoocan」の方へ移転となります。長い間お世話になりました。移転しましてもどうぞよろしくお願い致します。


[775書き込みします。 投稿者:古川 正記 投稿日:2016/06/24(Fri) 15:21  

KUBO様
お世話になります。
いまさらとは思いますが、書き込みます。
今井氏系図の淑次郎のところですが、恵ではなく穏ではないでしょうか。(松崎栄得穏養子)如何でしょうか。


[774系図と幕末を調べています 投稿者:iyo 投稿日:2016/04/26(Tue) 06:18  

ご無沙汰いたしております。
系図と幕末を調べています。
ご連絡いただけないでしょうか?

http://wanokokoro-white@cpost.plala.or.jp


[768松前の我が先祖を知りたい 投稿者:松前藩儀右衛門の子孫 投稿日:2016/04/24(Sun) 16:59  

初めまして。私の5代前は儀右衛門という名前であることを戸籍でわかっています。親族からは先祖は箱館戦争の頃官軍に追われ逃げた。木村という酒屋にわらじを脱いだという話しが有ります。実は現在の苗字は木村です。松前藩の家老一覧に大平儀右衛門という人物を見つけて、我が家のルーツということはないか?大変気になり調べたいのですが、この大平儀右衛門についての資料や情報を得る方法はないでしょうか?


[767Re:[766] 我が家の家系図と同じです!! 投稿者:KUBO 投稿日:2016/03/18(Fri) 22:42  

>窪田 周様
 はじめまして。当サイトの管理人・KUBOです。越後新発田藩の窪田氏の御子孫とのこと、ご参考になったのであれば幸いです。
 なお新発田藩窪田氏の系図は、実は私が調べたものではなく、下の註にあるように、「溝口なおすけ」さんという方から教えていただいたものです。溝口さんは「道学堂~新発田藩史研究所~」(http://www.geocities.jp/dougakudou/)というサイトを運営され、そちらに窪田氏を含め新発田藩に関する情報を掲載されていたのですが、どうやらそちらのサイトは閉鎖されたようです。
 私は実物は見ていないのですが、『新発田藩史料 第2 藩臣編』(新発田市史編纂委員会/編 新発田市史刊行事務局 1965)という史料に載っている「世臣譜」「続世臣譜」に新発田藩の家臣系譜が載っているようですので、ご参考までにお知らせします。


[766我が家の家系図と同じです!! 投稿者:窪田 投稿日:2016/03/15(Tue) 17:25  

KUBO様

始めてメールさせて頂きます。
私、現在は東京都に在住しております窪田 周(しゅう)と申します。
以前にネットで窪田家関連を調べているうちにKUBO様のサイトへ来させて頂きました。
窪田家のルーツがいろいろ記載されており、当家は新発田の出だからどれだろう?とその時は興味半分で見ておりました・・・

実は私の伯父・厚(あつし)が昔から当家の家系を調べており、「窪田家には何メートルもある天武天皇からの家系図がある」と20年以上前から仰っておりました。
当時はそんな大げさな(笑い)と思い信用していませんでしたが、私の父・正(ただし)がだいぶ歳をとってきましたもので「兄の厚に会わせておいてあげよう」と昨年 伯父・厚の基を訪ねました。
その時に「厚が書き写してきた窪田家の家系図」をCOPYさせて貰いました。
その家系図を見ているうちにKUBO様のサイトを思い出したので早速見てみてビックリ!!!!!
なんと(8)越後の窪田氏の家系図と「厚が書き写してきた窪田家の家系図」がピッタリ合うのです!!!!!

窪田様 よくぞここまで我が窪田家のルーツを調べ上げて下さいました(拍手拍手)
どれほどのお時間と労力を費やされた事でしょうか!!!
古文書判読のご知識も半端ではないでしょう
本当にありがとうございました

蛇足ですが卯三郎武安から私までを付記させて頂きました。

(8) 越後の窪田氏

平兵衛武定—*平兵衛武文—卯三郎武安--謙(私の祖父)--正(四男)--周

*戊辰戦争時の新発田藩江戸詰家老
「在京中公私留記」を残す
新発田藩が会津藩などの周辺各藩の圧力で奥羽列藩同盟に参加した時には、窪田平兵衛が西軍司令官大村益次郎に面会して説明をおこない
大村から「やむおえない」と了承を取り付けている。

遅ればせながら、サイト開設15周年 おめでとうございます。

窪田 周


[765窪田と申します。追伸 投稿者:窪田 投稿日:2015/03/31(Tue) 21:25  

Kubo様。
追伸、失礼します。
その後、高祖父も大井村の出身が判明しました。現地調査したところ大井村へ合村前の鮎沢村出身のようで、直ぐ近所に武田信玄公の生母、大井のお方様の菩提寺、古長禅寺がありました。
巨摩郡出身者から八王子千人同心の千人頭が出ている文献も目にしました。荻原家様でしょうか?近隣村の壬申戸籍でお名前を拝見します。
曾祖父は明治17年に中巨摩郡大井村の出身で、明治時代には、東京の浅草、馬道や今の松屋デパートのうら、花川戸で商売を営み、そこが最後の本籍になっています。皆さま巨摩郡の武田家家臣から徳川家家臣に召し抱えられた??窪田家の何か情報がありましたらよろしくお願いいたします。家紋は丸に二本違いや矢です。
窪田。


[764初めまして窪田と申します。 投稿者:窪田 投稿日:2015/03/31(Tue) 09:09  

Kuboさん、こんにちは。15周年おめでとうございます♪膨大な資料、貴重な調書、すごいですね!感心します。
私も最近家系に興味が出てきまして、曾祖父の戸籍を見ると、山梨県中巨摩郡大井村でした。その後、甲西町になり、現在は南アルプス市です。
甲斐の国で武田家の家臣に窪田姓を見かけます。その後は徳川家家臣。
また大井村は武田信玄の生母 大井夫人の郷里で、国衆武田大井家の地盤のようです。
また、八王子千人同心の立役者の姓が窪田ですが、旧武田家系の家臣のようです。
何か知っている事がおありでしたら、御教授お願いします。
私もこれから少し家系を調べてみます。
どうぞよろしくお願いいたします。
窪田


[763お願い 投稿者:FSIROサルタヒコ 投稿日:2015/03/11(Wed) 20:51  

KUBOさん、ご無沙汰というより、はじめまして。当方の書籍のPRでは、お世話になりました。早速ですが、当方5/22に函館に参ります但し、ツアーのため身動きに制限があります。つきましては、朝方に四稜郭へ参りたいのですが、タクシーでにてどのくらいかかるのか教えてください。出来れば、別途個人的に、詳細メールでしたいので、アドレス連絡くださると有難いです。


[762Re:[761] 投稿者:KUBO 投稿日:2015/02/06(Fri) 23:26  

>赤崎様
 わざわざおいでいただきありがとうございます。こちらこそお世話になってます。今後ともよろしくお願いいたします。


[761Re:[760] 投稿者:赤崎いくや 投稿日:2015/02/03(Tue) 22:38  

開設15周年おめでとうございます。
いつも参考にさせていただいています。KUBO様のサイトがあったお陰で、私は蠣崎氏や松前氏をより深く知ることができました。ツイッターでもお世話になり、本当にありがとうございます。
これからもますますの発展がありますよう、心よりお祈り申し上げます。


[760久しぶりの更新です 投稿者:KUBO 投稿日:2015/02/02(Mon) 22:35  

みなさま
当サイトの管理人・KUBOです。本日で当サイトも開設より15年目を迎えました。ここしばらくは低空飛行が続いておりますが、細く長く続けていきたいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
なお、15周年記念というわけでもありませんが、2年ぶりに「滅びた(?)名族」シリーズを更新(太田氏を追加)致しましたので、どうぞご覧下さい。


[759訂正: 宗像一族 福島県 家紋の件 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2014/10/06(Mon) 17:22  

(誤)菊の葉が7枚
(正)菊の花びらが7枚

(誤)ただ、そのころはまだ十世紀なので
(正)ただ、そのころはまだ八世紀なので

と訂正させていただきます。

> 宗像関係の投稿者の皆様方、

> 久しぶりに当掲示板をのぞかせていただきましたが、
> すごい情報があり、ありがたく思います。

> 当方の家に伝わっている家紋も、「一に半菊を円で囲んだ家紋」です。そのような意味があるとは知りませんでした。
> 菊の葉が7枚なのも同じで、全周まで描けば十六紋菊であろう
> ことは確実です。

> >菊の御紋を持ったお姫様が宗像家にお嫁に来て

> これは、誰のことでしょうね?
> 残っている宗像大宮司家の家系で言うと、宗像深津の
> 嫁の竹生王のことでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E6%B0%8F

> ただ、そのころはまだ十世紀なので、家紋がそもそもあったのかどうか不明ですが。

> いずれにしても興味深い情報ありがとうございました。


> > 祖父が宗像一族の本家でした、もっと古い宗像一族の本家があったそうですが何処に住まいがあるのかわからなくなってるそうです。
> > 家紋の事を書かれていましたが祖父から聞いた話で私の自身も幼く沢山の種類の家紋になった理由はわからないのですが、昔は菊の御紋を持ったお姫様が宗像家にお嫁に来て菊の御紋が使われる様になったそうです。
> > 証拠としては一族の古いお墓に菊の御紋が使われています。
> > そして、菊の御紋が使われなくなった理由は、宮内庁から天皇陛下と同じ御紋が使われるのは困ると言うことで、変更しなければいいけなくなったそう、どう言う家紋にするか困った末に「一に半菊を円で囲んだ家紋になったそうです。
> > 私の受けた印象として江戸幕府が解体されて以降の話かなと思って聞いていたのです。
> > 祖父や伯母の話を聞いて書いているのであやふやですが(^^;;


[758Re:[748] 宗像一族 福島県 家紋の件 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2014/10/06(Mon) 17:13  

宗像関係の投稿者の皆様方、

久しぶりに当掲示板をのぞかせていただきましたが、
すごい情報があり、ありがたく思います。

当方の家に伝わっている家紋も、「一に半菊を円で囲んだ家紋」です。そのような意味があるとは知りませんでした。
菊の葉が7枚なのも同じで、全周まで描けば十六紋菊であろう
ことは確実です。

>菊の御紋を持ったお姫様が宗像家にお嫁に来て

これは、誰のことでしょうね?
残っている宗像大宮司家の家系で言うと、宗像深津の
嫁の竹生王のことでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E6%B0%8F

ただ、そのころはまだ十世紀なので、家紋がそもそもあったのかどうか不明ですが。

いずれにしても興味深い情報ありがとうございました。

> 祖父が宗像一族の本家でした、もっと古い宗像一族の本家があったそうですが何処に住まいがあるのかわからなくなってるそうです。
> 家紋の事を書かれていましたが祖父から聞いた話で私の自身も幼く沢山の種類の家紋になった理由はわからないのですが、昔は菊の御紋を持ったお姫様が宗像家にお嫁に来て菊の御紋が使われる様になったそうです。
> 証拠としては一族の古いお墓に菊の御紋が使われています。
> そして、菊の御紋が使われなくなった理由は、宮内庁から天皇陛下と同じ御紋が使われるのは困ると言うことで、変更しなければいいけなくなったそう、どう言う家紋にするか困った末に「一に半菊を円で囲んだ家紋になったそうです。
> 私の受けた印象として江戸幕府が解体されて以降の話かなと思って聞いていたのです。
> 祖父や伯母の話を聞いて書いているのであやふやですが(^^;;


[757生駒氏 投稿者:Iwarehiko 投稿日:2014/10/01(Wed) 10:30  

少々古い記載についてですが、
交代寄合生駒氏の系図中で生駒親睦養女の配偶者は
京都町奉行を務めた牧七左衛門義珍(1200石)のようです。
(寛政譜第十巻牧氏系図より)


[756Re:[755] サイト移転いたしました。 投稿者:KUBO 投稿日:2014/09/13(Sat) 23:30  

>畠山義綱様

>  北海道を色々旅しておられるようすで楽しげな様子を拝見するだけでこちらも楽しくなります。
 ここしばらくはそれほど遠出してませんけどね。
 リンク変更終了いたしました。今年最初の更新かも(^^;) 近いうちに夏に行ったチャシの更新をせねば…


[755サイト移転いたしました。 投稿者:畠山義綱 投稿日:2014/09/13(Sat) 12:07  

KUBO様

 北海道を色々旅しておられるようすで楽しげな様子を拝見するだけでこちらも楽しくなります。
さて、OCNのサイトが閉鎖されることに及び、当方サイトも移転となりました。御面倒のことと思いますが、リンクの変更をお願いできればと思います。

能登畠山氏七尾の歴史
新アドレスhttp://nanao.sakura.ne.jp/


[754Re:[753] ホームページ閉鎖について 投稿者:KUBO 投稿日:2014/08/14(Thu) 23:14  

>松前志摩守様

 ご無沙汰しています。HP閉鎖とは大変残念です。私自身もここしばらくは開店休業状態ですが…(^^;)
 家業を継がれるということで大変でしょうががんばって下さい。お暇な時にでも又こちらに顔を出して下さいね。


[753ホームページ閉鎖について 投稿者:松前志摩守(@purin) 投稿日:2014/08/14(Thu) 22:13  

KUBO様
お久しぶりでございます。
このたび、急遽ではありますが「私説 戦国諸家系図列伝」について閉鎖とさせていただきました。
家業である農業をを継ぎ、経営者となり、今後のホームページの管理、運営、更新は無理と判断し、このような決断とさせていただきました。
4年間という短い間ですが、相互リンク大変ありがとうございました。

http://shisetu-sengoku.la.coocan.jp/


[752Re:[751] [750] [748] 宗像一族 福島県 家紋の件 投稿者:私も宗像 投稿日:2014/07/04(Fri) 22:54  

興味深い情報有難うございます。
調査の文章が見つかればよいですね。
また詳しい情報がわかりましたら、ご提供いただければ幸いです。

> こんばんは、始めまして。
> 祖父も父も既に亡くなり、詳しい話を聞ける親戚ももういなくなってしまって家紋の件は私が聞いたうろ覚えな事しか残念ながらわからないのです。
> 歴史学者が三春に調査にいらしたそうで、祖父の代で40代ほどになるそうで、やはり九州に繋がりがあるとお聞きしたそうです。
> 家紋は詳しく言うと元は16枚菊で、半分の8枚菊のままだと申し訳ないと言うことで7枚菊にして足りない花弁を一で表したそうです。
> 以上の事しか覚えていないのです、お役に立てませんで申し訳ないです。
> 調査が入ったと言うことで何処かには文章が残っていると思うのですが、何処からの調査だったのか聞いてないのです。
> 祖父が生きていればわかったのでしょうが…。

> > 始めまして。私も宗像です。父が福島県の出身です。
> > うちのご先祖様は一族の流れか、庶民なのかわかりません。
> > 父の田舎に行くこともほとんどなく、情報がないもので、
> > ご先祖様探しも行き詰っています。家紋は二つ引両のようです。
> > 
> > 
> > > 祖父が宗像一族の本家でした、もっと古い宗像一族の本家があったそうですが何処に住まいがあるのかわからなくなってるそうです。
> > > 家紋の事を書かれていましたが祖父から聞いた話で私の自身も幼く沢山の種類の家紋になった理由はわからないのですが、昔は菊の御紋を持ったお姫様が宗像家にお嫁に来て菊の御紋が使われる様になったそうです。
> > > 証拠としては一族の古いお墓に菊の御紋が使われています。
> > > そして、菊の御紋が使われなくなった理由は、宮内庁から天皇陛下と同じ御紋が使われるのは困ると言うことで、変更しなければいいけなくなったそう、どう言う家紋にするか困った末に「一に半菊を円で囲んだ家紋になったそうです。
> > > 私の受けた印象として江戸幕府が解体されて以降の話かなと思って聞いていたのです。
> > > 祖父や伯母の話を聞いて書いているのであやふやですが(^^;;


[751Re:[750] [748] 宗像一族 福島県 家紋の件 投稿者:宗像一族です 投稿日:2014/07/03(Thu) 21:01  

こんばんは、始めまして。
祖父も父も既に亡くなり、詳しい話を聞ける親戚ももういなくなってしまって家紋の件は私が聞いたうろ覚えな事しか残念ながらわからないのです。
歴史学者が三春に調査にいらしたそうで、祖父の代で40代ほどになるそうで、やはり九州に繋がりがあるとお聞きしたそうです。
家紋は詳しく言うと元は16枚菊で、半分の8枚菊のままだと申し訳ないと言うことで7枚菊にして足りない花弁を一で表したそうです。
以上の事しか覚えていないのです、お役に立てませんで申し訳ないです。
調査が入ったと言うことで何処かには文章が残っていると思うのですが、何処からの調査だったのか聞いてないのです。
祖父が生きていればわかったのでしょうが…。

> 始めまして。私も宗像です。父が福島県の出身です。
> うちのご先祖様は一族の流れか、庶民なのかわかりません。
> 父の田舎に行くこともほとんどなく、情報がないもので、
> ご先祖様探しも行き詰っています。家紋は二つ引両のようです。


> > 祖父が宗像一族の本家でした、もっと古い宗像一族の本家があったそうですが何処に住まいがあるのかわからなくなってるそうです。
> > 家紋の事を書かれていましたが祖父から聞いた話で私の自身も幼く沢山の種類の家紋になった理由はわからないのですが、昔は菊の御紋を持ったお姫様が宗像家にお嫁に来て菊の御紋が使われる様になったそうです。
> > 証拠としては一族の古いお墓に菊の御紋が使われています。
> > そして、菊の御紋が使われなくなった理由は、宮内庁から天皇陛下と同じ御紋が使われるのは困ると言うことで、変更しなければいいけなくなったそう、どう言う家紋にするか困った末に「一に半菊を円で囲んだ家紋になったそうです。
> > 私の受けた印象として江戸幕府が解体されて以降の話かなと思って聞いていたのです。
> > 祖父や伯母の話を聞いて書いているのであやふやですが(^^;;


[750Re:[748] 宗像一族 福島県 家紋の件 投稿者:私も宗像 投稿日:2014/06/26(Thu) 22:08  

始めまして。私も宗像です。父が福島県の出身です。
うちのご先祖様は一族の流れか、庶民なのかわかりません。
父の田舎に行くこともほとんどなく、情報がないもので、
ご先祖様探しも行き詰っています。家紋は二つ引両のようです。

> 祖父が宗像一族の本家でした、もっと古い宗像一族の本家があったそうですが何処に住まいがあるのかわからなくなってるそうです。
> 家紋の事を書かれていましたが祖父から聞いた話で私の自身も幼く沢山の種類の家紋になった理由はわからないのですが、昔は菊の御紋を持ったお姫様が宗像家にお嫁に来て菊の御紋が使われる様になったそうです。
> 証拠としては一族の古いお墓に菊の御紋が使われています。
> そして、菊の御紋が使われなくなった理由は、宮内庁から天皇陛下と同じ御紋が使われるのは困ると言うことで、変更しなければいいけなくなったそう、どう言う家紋にするか困った末に「一に半菊を円で囲んだ家紋になったそうです。
> 私の受けた印象として江戸幕府が解体されて以降の話かなと思って聞いていたのです。
> 祖父や伯母の話を聞いて書いているのであやふやですが(^^;;


[749西尾城シンポジウム-西条城から西尾城 投稿者:三河守 投稿日:2014/06/17(Tue) 23:49  

西尾城シンポジウム-西条城から西尾城 
日 時 2014年6月21日(土) 13時~16時30分
場 所 西尾市文化会館(愛知県西尾市山下町泡原30)
定 員 350名(申込不要)
参加費 無料
内 容
基調講演
「東海地方の織田・豊臣城郭を探る-その成立と展開-」中井均氏(滋賀県立大学教授)
発表
「考古学からみた西尾城」浅岡優氏(西尾市教育委員会)
「文献からみた西尾城」小林輝久彦氏(大倉山精神文化研究所)
「縄張りからみた西尾城」奥田敏春氏(西尾市史執筆員)
パネルディスカッション
パネリスト 中井均氏・浅岡優氏・小林輝久彦氏・奥田敏春氏
紙上報告
「西尾城の構造について」石川浩治氏(西尾市教育委員会)
「出土品からみた西尾城」鈴木とよ江氏(西尾市教育委員会)
「西尾城天守・天守台」(城郭談話会)
「西尾城再建友の会のあゆみ」松井直樹氏(西尾市教育委員会)
「西尾城年表」(西尾市教育委員会)
問合せ
西尾市教育委員会文化振興課
℡0563-56-6660


[748宗像一族 福島県 家紋の件 投稿者:宗像一族です 投稿日:2014/06/16(Mon) 18:13  

祖父が宗像一族の本家でした、もっと古い宗像一族の本家があったそうですが何処に住まいがあるのかわからなくなってるそうです。
家紋の事を書かれていましたが祖父から聞いた話で私の自身も幼く沢山の種類の家紋になった理由はわからないのですが、昔は菊の御紋を持ったお姫様が宗像家にお嫁に来て菊の御紋が使われる様になったそうです。
証拠としては一族の古いお墓に菊の御紋が使われています。
そして、菊の御紋が使われなくなった理由は、宮内庁から天皇陛下と同じ御紋が使われるのは困ると言うことで、変更しなければいいけなくなったそう、どう言う家紋にするか困った末に「一に半菊を円で囲んだ家紋になったそうです。
私の受けた印象として江戸幕府が解体されて以降の話かなと思って聞いていたのです。
祖父や伯母の話を聞いて書いているのであやふやですが(^^;;


[747Re:[746] 交代寄合衆竹中家系図について 投稿者:KUBO 投稿日:2014/02/22(Sat) 01:02  

>田中誠様
 竹中重固の子どもについてのご質問ですが、交代寄合についてまとめたのはもう十数年前のことなので自分でもどこから得た情報なのかすっかり失念しておりまして、家にあるいろいろな資料をひっくりかえしてやっと発見いたしました(^^;)

竹中重固の子どもについての情報は系図によるものではなく、たぶん武鑑によるものだと思います。
私の手元に『大武鑑』という江戸期の武鑑をまとめた資料がありまして、その中の慶応二年・慶応三年の交代寄合・竹中丹後守重固の項に「御嫡 竹中次郎」と載っております。ですので幕末期には次郎という嫡子がいたのだろうと思います。

重固の子孫については検索してみたら、確かに娘が三人いてその御子孫は人形師をしてらっしゃるという情報を見つけました。なので次郎の後に生まれたのがその娘三人だったのでしょうか。


[746交代寄合衆竹中家系図について 投稿者:田中誠 投稿日:2014/02/17(Mon) 08:39  

江戸幕府最後の陸軍奉行竹中重固のこどもは娘3人だったという証言がその長女の血筋にあたる方からございます。その長女の生年からすると重固46歳の時のこということになります。一方、系図では某・次郎となっており、幼名が次郎という男子があったということだと思います。系図のほうにリアリティがあると感じられますが、どのようなところから得られた情報なのでしょうか?


[745おしらせ 投稿者:ちゅり 投稿日:2013/11/15(Fri) 00:38  

西尾市歴史講演会「寺部城を考えるー城跡の堀と土塁」

講師:奥田敏春氏(岡崎市文化財保護委員・元愛知県教育委員会中世城館調査員)
日時:2013年12月15日(日)午後1時30分~3時
場所:西尾市幡豆公民館 大会議室(西尾市寺部町林添89番地1)
定員:100名(予約不要)
参加費:無料
問い合わせ:西尾市幡豆歴史民俗資料館
      444-0702 西尾市寺部町浜田69番地 Tel 0563-62-3102 


[744まとめてお返事を… 投稿者:KUBO 投稿日:2013/10/22(Tue) 23:54  

>みなさま
 相変わらず不在状態の管理人KUBOです(^^;) 最近はチャシ巡りは少しずつ再開しておりますので、その関係の更新は続けておりますが、家系関係はなかなか進んでおりません。家系関係は正月に「成田氏」を掲載したきりで、次のネタも考えているのですが、なかなか… そろそろチャシ巡りもお休みの季節になりましたので、冬の間に更新できればいいなと考えています。
 それでは遅ればせながら少しずつ、お返事を(^^;)

>小石様
 以前同じ職場で働いていた先輩に小石さんがいましたので、何だか親しみを感じます(^^)
 ちょっと調べてみましたが、『姓氏家系大辞典』に小石姓は「大石党の一也」とあって、近江の大石氏というとおっしゃる通りで、古代からの一族もあれば、大石内蔵助の先祖も近江の出のようです。残念ですが、特に追加できるような情報は見つかりませんでした。

>Iwarehikoさん
 松前勝廣の生年ですが、『平成新修華族家系大成』によると明治22年(1889)5月10日になっていますので、2が一つ抜けて20歳年上になってしまったと思われます(^^;)

>天野様
 残念ですが、情報を持ち合わせておりません。

>tasha様
 メールでお返事しましたが、どうも別人のようです。

>大内様
 三浦氏の系図の初期部分は『寛政重修諸家譜』を参考にしました。ただそちらには「東鑑、九郎に作り、兄泰村と共に自殺すといふ」ともあります。『群書系図部集』と『系図纂要』も見てみましたが、やはり重村は「七郎左衛門尉」とあります。手元に吾妻鏡はありませんので確認できませんが、九郎重村と七郎左衛門尉重村は同じ人物のことではないかと思います。

>久保田様
 安芸の久保田氏の御子孫ですか。ご覧いただきありがとうございます。


[743Re:初めまして 投稿者:久保田 投稿日:2013/10/14(Mon) 21:34  

初めまして。私は、浅野長治の母の実家に当たる久保田の跡取りです。当サイトを見て驚きました。毎年、お盆には、三次のみょうえいじに墓参りに行っております。


[742初めて書き込ませていただきます 投稿者:大内崇久 投稿日:2013/10/13(Sun) 18:06  

はじめまして。私は茨城県で僧侶をやっている者です。

自坊の歴史を調べていくうち、開基が『三浦大介の孫、駿河九郎重村』だという口伝があることを知り、いろいろと調査したところ、このサイトに出会いました。

貴サイトの『三浦氏』の資料では、『駿河七郎左衛門尉重村』となり、九郎は『重時』となっております。

ところが別の資料では、『駿河五郎左衛門尉資村 同弟 九郎重村』という記述がありました(『鎌倉遺文』の「三浦合戰討死生虜等交名注文」)。

貴サイトでは、詳細な家系図が記されており、かなり信憑性が高いものと推測しております。
できますれば、三浦氏の家系図を作成する際、参考になさった資料をお教えくださいませんか。

どうぞお願い申し上げます。


[741無題 投稿者:tasha 投稿日:2013/10/03(Thu) 10:29  

窪田様

お聞きできれば嬉しいです。
ひいおじいちゃんが、松前藩の士族で、江戸ずめで、ひいひいおばあちゃんは、江戸藩邸で生まれたそうで、その他、色々エピソードがあります。
いろいろ調べていくと、過去帳に、蠣崎さく、とう明治の4月21日に
亡くなった方の戒名が挟まっていました。
もしかして、この方は員広系蠣崎家の蠣崎咲さんではないかと、思われるのですが、この方の戒名、亡くなった日等、わかりますか?
教えていただけると幸いです。

tasha


[740家系 投稿者:天野 投稿日:2013/04/29(Mon) 12:09  

当家は1640年から続く家系です。私で第19代です。
初代は、天野権十郎三男で刑部権左衛門です。
大阪にいたことは、解るのですが権十郎より前がよくわかりません。


[739松前勝広の生没年 投稿者:Iwarehiko 投稿日:2013/04/03(Wed) 16:25  

久しぶりに書き込ませてもらいます。
幕末-明治期の当主である松前勝広ですが、ネット上での情報では1869-1940となっております。
そうすると父である松前修広の1865-1905と明らかに矛盾してきます。勝広の事跡を考えると生年が違っているように思うのですが、ご存じでしょうか。


[738祖先追跡 投稿者:小石 投稿日:2013/03/28(Thu) 17:41  

こんにちは、始めまして。宜しく御願いします。

私も祖先のルーツを追跡しておりますが、戸籍、古文書から追跡しても約300年位までが今のところ限界です。地元では当家が宗家となるのですが、菩提寺が江戸時代に焼失し過去帳が消失した為に菩提寺からの追跡は限界となりました。

当姓は「小石」、住いは滋賀県です。姓氏的には滋賀県発祥の姓になるようで、現在、小石姓を名乗る土着の県民は当家関係の者だけになります。
全国に小石姓が散在しているように見受けられ、何かルーツを辿る糸口がないかと思っています。

家系そのものはかなり古いと聞き及んでいます。一説には、一千年以上続くとも聞かされたこともあります。古代に出雲に入り、その後近江に定着し、あの大石内蔵助の祖先にも共通するものがあるとか。京都の小石姓は若狭出身とか。

兎も角、少しでも確実な祖先のルーツが知りたいです。

余談ですが、私も宇宙大作戦大好きですよ。小学校の低学年の時からのファンです。約40年余り前ですが。


[737今年もよろしくお願いします。 投稿者:KUBO 投稿日:2013/01/06(Sun) 23:47  

>みなさま
 ほとんど不在状態の当サイトの管理人KUBOです(^^;)
 年も明けて明日は七草というのにいまさらですが、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 最近はすっかり更新もできていませんが、久しぶりに「滅びた(?)名族シリーズ」に成田氏を追加しました。
 映画「のぼうの城」に絡めて更新してみました。冬の間はチャシ巡りもできませんので、家系の方で少し更新できればいいなと思っておりますが、例によってどうなることか(^^;) 気長にお待ち下さい。


[736Re:[735] 尾山氏家系図の追加依頼 投稿者:KUBO 投稿日:2012/10/09(Tue) 22:55  

>尾山様
 はじめまして、当サイト管理人のKUBOです。旧松前藩士の尾山家の御子孫ですね。情報ありがとうございます。
 次回の更新の際に、追加記載いたします。ありがとうございました。


[735尾山氏家系図の追加依頼 投稿者:尾山尊敏 投稿日:2012/10/08(Mon) 00:20  

私の父、司雄まで記載されておりますので、長男の尊敏と息子の洋章の記載をお願いします。


[734Re:[733] [732] 無題 投稿者:KUBO 投稿日:2012/10/01(Mon) 00:19  

平野さん、こんにちは。
当サイト管理人のKUBOです。返事が大変遅くなって申し訳ありませんでした。

 平野姓について調べてみましたが、三重県では四日市・桑名・多度など北部に集中しているようですね。交代寄合の平野氏は江戸時代は大和国(現奈良県)田原本にいましたが、先祖である横井氏は尾張国(現愛知県西部)海東郡赤目城(旧八開村、現愛西市)に拠っていましたし、平野権平長泰の父・長治の養父・賢長は津島の奴野城に居していましたし、長治も津島に住していたそうです。また江戸時代には尾張藩士となった一族もいたようで、この周辺で平野氏は栄えていたようです。赤目城にしても奴野城にしても尾張の西部に位置し、多度のある伊勢(現三重県)北部と非常に近い位置にあります。ですから、平野さんのご先祖がずっと多度にいたのだとすれば、交代寄合の平野氏と先祖を同じくする可能性はあると思います。
 長泰以前の平野氏の系譜は詳しくはわかっていませんので、津島周辺に残っていた一族の一部が伊勢の方に移ったとも考えられます。
 あとは一つはお祖父さまから地道に先祖を遡っていくことと、多度付近の歴史を調べてその辺りにいた平野一族の事を調べていけば、あるいはいつかつながってくるかもしれません。


[733Re:[732] 無題 投稿者:平野 投稿日:2012/09/13(Thu) 00:49  

自己レスです。

これまでネットで調べた所、以下の事がわかりました。

丸に三つ鱗の平野さんは、
全国に五十万人前後おられるようです。

多度神社は、伊勢平氏と関わりが深いようです。
上の平氏の家紋は、丸に根笹が多いようです。
上の平氏と丸に三つ鱗の平野とは、別系統です。

我が家は、本当は、丸に根笹なのかもしれません。
(特に戦国時代は、家系図等のごまかしがひどかった)

より詳細を把握するためには、
現地の聞き込み調査が重要でしょうか。

どうやら、我輩のライフワークになりそうです。

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/hirano.htm


[732無題 投稿者:平野 投稿日:2012/08/30(Thu) 00:32  

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/hirano.htm
上のサイトから偶然こちらの掲示板を発見いたしました。

さて我が家も丸に三つ鱗の家紋なので、
上の家系図とつながりがあると思われますが、
長克さんとか玉麿さん等全く聞いたことがありません。

ちなみに、わが平野家は、100年ほど前から
三重県の多度神社周辺に住んでおります。
明治40年生まれの長男の祖父一(はじめ)が、
ここを飛び出して、神戸に移り住みました。
その流れで、孫の私が神戸から今明石に住んでおります。

一体、丸に三つ鱗の平野さんって、
全国に何人いるんでしょうか?

我が家は上の家系図とは、また別なのでしょうか?

とりあえず、
上の疑問にご回答頂ければ大変嬉しうございます。

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/hirano.htm


[731Re:[730] 調べても見つかりません 投稿者:KUBO 投稿日:2012/08/28(Tue) 00:37  

>000さん

 1854(嘉永7/安政元)年の松前藩の家老ですが、『松前町史 通説編 第一巻下』の527ページにある「第4-74表 寛政-嘉永初年の家老」によると、下国崇教・松前広休(村上系)・蠣崎吉包(吉廣流)が該当するようです。
 また『大武鑑 中巻』の同年の武鑑によると松前藩の家老として名前が挙げられているのは、下国豊前・松前内蔵・松前監物・蠣崎四郎左衛門の四名です。これは下国崇教・松前広当(斎藤流)・松前広休・蠣崎吉包のことと思われますが、このうち松前広当は嘉永5年に没しているので、間違いだと思います。


[730調べても見つかりません 投稿者:000 投稿日:2012/08/27(Mon) 15:07  

1854年の松前藩の家老誰か教えてください


[729Re:[725] プチリニューアルしました 投稿者:伊予 投稿日:2012/03/25(Sun) 17:57  

>  最近少し時間ができたので、以前から気になっていた「城とチャシの部屋」のプチリニューアルをしました。といっても、今までフレームを使ってお城の写真を見せていたのを、お城ごとに1枚のページにまとめただけなんですが...(^^;)

> >嵐山さん
>  他の掲示板でも同じ質問をされていたようですね。そちらで回答をいただいたようなので、特にコメントはしませんが、いろいろなところで同じ質問をするのはあまり感心しません。

> >伊予さん
>  「寛政譜以降旗本家百科事典」はかなり前に出版された物なので、古書でないと入手できないと思います。ただ6巻セットで10数万円はしますので、公共図書館を利用されるのがよいかと思います(私も持ってません(^^;))
>  ただ、県立クラスか大学図書館でないと所蔵していないのではないかと思いますので、お近くの図書館のHP等で蔵書検索されてみるとよいと思います。
>  それから、17代崇廣と三郎兵衛廣茂は全くの別人です。崇廣は14代章廣の六男で、甥の良廣・昌廣が早世したために藩主となった人物で、廣茂は前にも書いたように松前家の分家出身で幕臣旗本となっていた人物です。

。。。。。。。。。。。

いつも ありがとうございます。
御礼申し上げます。


[728Re:[688] 長尾のルーツは松前か 投稿者:古川 正記 投稿日:2011/12/24(Sat) 22:53  

長尾様
1年も経ちますが、連絡します。
北海道檜山郡江差町柳崎なる地名に、どのような家系になるかわかりませんが
長尾家なる家が存在します。

> みなさまはじめまして
> 仙台市泉区に住んでいる、長尾と申します。
> 実家は宮城県角田市という所ですが、真偽のほどは不明ながら、ルーツは松前藩家臣のようです。
> 頼りない情報ですが、松前藩の殿様の何番目かの子息が、江戸に向かうときに、伊達政宗家臣である片倉小十郎の居城に?そのまま居ついたらしく、子息の家臣も伊達家の家臣になったようです。
> 家紋が伊達家と同じ竹に雀ですが、維新のどさくさで家紋としたのかもしれません。
> 8月末に、機会があれば松前の地を踏んでみたいと思っています。但し、是が非でも祖先の霊に合掌するといった殊勝な考えではなく、観光の一環です。
> 動機も不純ですが、松前の長尾姓を存知よりの方がおられましたら、確かに長尾姓の方がいますよ、程度の情報をお知らせ頂ければ幸いです。
> よろしくお願いします。


[727Re:[726] 大道寺家/愛州家 投稿者:KUBO 投稿日:2011/12/11(Sun) 11:07  

>大道寺サンドロさん

 はじめまして。大道寺姓を『写録宝夢巣』で調べてみると、山形県長井市五十川に大道寺姓の方が集まっていますね。全国的に見ても長井市は大道寺姓の16%ほどが集まっている計算になります。

 愛州姓も同じく『写録宝夢巣』で調べてみましたが、全国に3軒しかなく、そのうち2軒が西牟婁郡の白浜町・中辺路町(現在は田辺市と合併)でした。このどちらかがお母様のご実家でしょうか?
 愛洲姓も調べてみましたが、こちらは全国に26軒。こちらも少ないですね。やはり和歌山県の白浜町・中辺路町の隣町・旧田辺市に多いので、愛州も愛洲もルーツは同じなんでしょうね。


[726大道寺家/愛州家 投稿者:大道寺サンドロ 投稿日:2011/12/06(Tue) 10:52  

大道寺氏に対しては、現在は山形県五十嵐市にいます。
父はブラジルへ移民しましたが。
母は愛州の名字でした。移民前は和歌山あたりで、現在はもう全然あて先も判りませんが…
御参考に。僕はアメリカ転勤


[725プチリニューアルしました 投稿者:KUBO 投稿日:2011/11/24(Thu) 17:09  

 最近少し時間ができたので、以前から気になっていた「城とチャシの部屋」のプチリニューアルをしました。といっても、今までフレームを使ってお城の写真を見せていたのを、お城ごとに1枚のページにまとめただけなんですが...(^^;)

>嵐山さん
 他の掲示板でも同じ質問をされていたようですね。そちらで回答をいただいたようなので、特にコメントはしませんが、いろいろなところで同じ質問をするのはあまり感心しません。

>伊予さん
 「寛政譜以降旗本家百科事典」はかなり前に出版された物なので、古書でないと入手できないと思います。ただ6巻セットで10数万円はしますので、公共図書館を利用されるのがよいかと思います(私も持ってません(^^;))
 ただ、県立クラスか大学図書館でないと所蔵していないのではないかと思いますので、お近くの図書館のHP等で蔵書検索されてみるとよいと思います。
 それから、17代崇廣と三郎兵衛廣茂は全くの別人です。崇廣は14代章廣の六男で、甥の良廣・昌廣が早世したために藩主となった人物で、廣茂は前にも書いたように松前家の分家出身で幕臣旗本となっていた人物です。


[724崇広公と廣茂 投稿者:伊予 投稿日:2011/10/09(Sun) 15:22  

 ありがとうございます。

崇広 ・・・  数馬 三郎兵衛 廣茂?

17代藩主松前崇広公と廣茂?は同一人物でしょうか?


[723江の出家はいつ誰のため? 投稿者:嵐山 投稿日:2011/10/09(Sun) 13:26  

ウィキペディアが答えないのでご存知の方はご教授をお願い申し上げます。徳川秀忠の妻の江は秀忠より先に死にました。
さてここで問題、江を法体でウィキペディアは登場させます。夫より先に死んだ江は一体、いつ誰のために出家したのでしょうか。
ご存知の方はどうぞよろしくご教授をお願いします。 


[722Re:[721] [720] 松前広茂について 投稿者:伊予 投稿日:2011/10/09(Sun) 06:33  

KUBO様 詳しい説明ありがとうございます。大変参考になりました。
ところで、その「寛政譜以降旗本家百科事典」はどこの図書館にあるのでしょうか? また いまも書店にて購入できますか。
よろしくお願いいたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

> >伊予さん、こんにちは。
>  松前廣茂ですが、『寛政譜以降旗本家百科事典』の松前氏関係のコピーが手元にあるので見てみました。
>  それによると、松前本廣系(松前慶広の二男忠廣の孫・本廣が祖)のようで、松前三郎兵衛廣茂として出ており、西丸書院番・小十人頭・持筒頭等を務めていたようです。宗家の松前藩主良廣・昌廣が幼少・病弱だったため、廣茂を国元に派遣して藩政に当たらせたりもしていたようですね。
>  父は松前藤吉郎と出ていますので、『寛政譜』に載っている松前藤吉郎浮廣(ちかひろ)でしょうか?浮廣は安永9(1780)年に25歳と『寛政譜』に出ているので、宝暦6(1756)年の生まれでしょう。
>  松前三郎兵衛廣茂は、『寛政譜以降旗本家百科事典』や『江戸幕臣人名事典』によると、寛政4年(1792)頃の生まれとなりますので、藤吉郎浮廣の子で間違いないでしょう。三郎兵衛の跡は、息子の伊織が部屋住のまま病死し、孫の捨吉が跡を継いだようです。


[721Re:[720] 松前広茂について 投稿者:KUBO 投稿日:2011/10/08(Sat) 00:10  

>伊予さん、こんにちは。
 松前廣茂ですが、『寛政譜以降旗本家百科事典』の松前氏関係のコピーが手元にあるので見てみました。
 それによると、松前本廣系(松前慶広の二男忠廣の孫・本廣が祖)のようで、松前三郎兵衛廣茂として出ており、西丸書院番・小十人頭・持筒頭等を務めていたようです。宗家の松前藩主良廣・昌廣が幼少・病弱だったため、廣茂を国元に派遣して藩政に当たらせたりもしていたようですね。
 父は松前藤吉郎と出ていますので、『寛政譜』に載っている松前藤吉郎浮廣(ちかひろ)でしょうか?浮廣は安永9(1780)年に25歳と『寛政譜』に出ているので、宝暦6(1756)年の生まれでしょう。
 松前三郎兵衛廣茂は、『寛政譜以降旗本家百科事典』や『江戸幕臣人名事典』によると、寛政4年(1792)頃の生まれとなりますので、藤吉郎浮廣の子で間違いないでしょう。三郎兵衛の跡は、息子の伊織が部屋住のまま病死し、孫の捨吉が跡を継いだようです。


[720松前広茂について 投稿者:伊予 投稿日:2011/10/03(Mon) 20:36  

KUBO 様 こんばんは、ご無沙汰いたしております。
旗本松前広茂の父親はどなたでしょうか? その系統が分かればれご連絡いただけたら幸いです。


[719Re:[718] 嬉しいページを発見!! 投稿者:KUBO 投稿日:2011/09/17(Sat) 00:04  

何ヶ月もたって、今更ですが...
>メビウスさん、こんにちは。
>「ガンダム世代」(詳しくはありあせんが・笑)
>自称「あらふぉー歴史研究家」
>北海道開拓の村にて解説ボランティアを
>しているモノです。

 私も「ガンダム世代」です。未だについつい反応してしまう…

>実は本日むらの“研修旅行”なるモノで当別・厚田
>石狩方面を訪れ、そして帰宅後にそれぞれの訪問地の
>おさらいをしていたところで「ごくシンプルで簡潔」に
>記されているページを発見するコトができました。

 古い話ですが、大河ドラマの「独眼竜政宗」を見て以来、伊達家に興味を持ったのがきっかけです。出身地の隣町が岩出山伊達家の入植した当別だったというのもありますし。しかも、今の職場は当別なもので、余計に縁を感じてしまいます。

 これからも当サイトをどうぞよろしくお願いします。


[718嬉しいページを発見!! 投稿者:メビウス 投稿日:2011/06/09(Thu) 01:00  

KUBOさんはじめまして。おじゃまします。
「ガンダム世代」(詳しくはありあせんが・笑)
自称「あらふぉー歴史研究家」
北海道開拓の村にて解説ボランティアを
しているモノです。

Wikiで岩出山・亘理伊達家の件を調べてましたら
こちらにたどり着かせていただきました。
実は本日むらの“研修旅行”なるモノで当別・厚田
石狩方面を訪れ、そして帰宅後にそれぞれの訪問地の
おさらいをしていたところで「ごくシンプルで簡潔」に
記されているページを発見するコトができました。
それが何だかとても嬉しくなってしまい、ついコメントを
させていただいた次第です。
さすが家系図におかれましてはスゴいです!!
今後も幾度か活用させていただこうと思っています。
ありがとうございました。


[717ありがとうございます! 投稿者:大塚 投稿日:2011/05/26(Thu) 23:16  

KUBO様
教えて頂きましてありがとうございます!
はい、小倉藩の小笠原のようです。今度機会があったら
図書館へ行き、可能ならその資料をみたいと思います。
貴重な情報ありがとうございました。

<『姓氏家系大辞典』の「大塚」の項に載っていた、
<次の2つが関係ありそうですね。
<桓武平氏河越氏流 隅田清重の子
<重高下総大塚城主となり、
<大塚美濃守と云ひ後に結城氏に属す。
<その子を高勝と云ふ。
まさに教えて頂いた通りかと、思います。

<隅田清重は鎌倉時代の有力御家人・
<河越太郎重頼の子三郎重員の子孫になります。
隅田と、苗字がかわったので、混乱しておりました。
河越太郎重頼の事が家系図にあります。
資料についても大変貴重なアドバイスを頂きまして
本当にうれしく思います。何を見たらいいのか
歴史にうといもので、大変助かりました。
引き続き調べてみたいと思います。
またわからない事がありましたら、
お時間ございます時に、アドバイス頂けたら・・と
思います。本当にありがとうございました。


[716久しぶりのお返事… 投稿者:KUBO 投稿日:2011/05/18(Wed) 00:58  

>みなさま
 管理人のKUBOです。またまた、数か月ぶりの登場ですが、多少余裕がありますので、いくつかお返事を…

>嵐山さん
 織田氏が藤原姓ではというのは、信長自身を含め幾人かの織田一族が藤原姓で署名した文書が残っていることから言われていることですが、この時代は源氏・平氏・藤原氏などの著名姓をを便宜上名乗ることが多かったので、確かなものではないと思います。

 それより織田氏が越前の織田剣神社の神官の出だったというのは確かなようで、そこから織田氏の出自は忌部(斎部)氏ではないかという説があります。宝賀寿男氏編著の『古代氏族系譜集成』に忌部(斎部)氏につながる織田氏系図が載っていますが、藤原氏につながる系図は私は見たことがありません。

>大塚さん
 ご先祖が九州小笠原藩で働いたとのことですが、小倉藩の小笠原家でしょうか?それとも唐津藩の小笠原家でしょうか? 小倉藩だとすると、福岡県立図書館蔵の『諸士由緒』という史料があるようです。また、

> その後の事を調べているのですが、千葉の下総国に
> 城の名前はわからないのですが、城主として数万石を
> 持っていたと聞いています。「下総国・千葉・大塚城」等

とありますが、『姓氏家系大辞典』の「大塚」の項に載っていた、次の2つが関係ありそうですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
8 桓武平氏千葉氏流 千葉常胤の諸流なりと云ふ。下総小金本土寺過去帳に「大塚藤衛門、天正二十一壬辰六月」とあるは此の族か。

22 桓武平氏河越氏流 隅田清重の子重高下総大塚城主となり、大塚美濃守と云ひ後に結城氏に属す。その子を高勝と云ふ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なお、千葉氏流の大塚氏は詳しいことは分かりませんでしたが、隅田清重は鎌倉時代の有力御家人・河越太郎重頼の子三郎重員の子孫になります。

 有吉村については、千葉県に地名についての資料が手元にはありませんので、県立等の大きな図書館で、『角川日本地名大辞典』(角川書店)、『日本歴史地名大系』(平凡社)、『大日本地名辞書』(吉田東伍、富山房)などの資料に当たられることをおすすめします


[715自分の家系を調べているのですが。 投稿者:大塚 投稿日:2011/04/23(Sat) 02:43  

始めてお邪魔させて頂きました。
色々ネット・図書館を利用して調べていてこのサイトにお邪魔させて頂きました。

現在私の家系は平家から源氏に変わり、時代は動き浪人と」なりましたが、九州小笠原藩で働いたようです。
その後の事を調べているのですが、千葉の下総国に
城の名前はわからないのですが、城主として数万石を
持っていたと聞いています。「下総国・千葉・大塚城」等
調べているのですが、なかなかヒットせず、
どのように調べたらいいのか、わからないので、
お伺いさせて頂きました。もし、何かヒントになる事が
あれば、教えて頂きたと思いました。
手掛かりとしては、先程の下総国と言う事以外に
家系図に出てきた人の名前が「有吉村(千葉県)」が
出てきました。もしヒントになる事があれば、
教えて下さい。お願い致します。

KUBO様のサイト拝見していてとても興味がわき、
歴史が苦手なのですが、楽しく勉強させて頂きました。
ゆっくりと過去のも見せて頂こうと思っております。


[714織田は藤原氏か 投稿者:嵐山 投稿日:2011/02/06(Sun) 12:19  

織田信長が平家や斎部でなく、藤原氏が正しいとよく百科辞典やどこぞの著名研究家の説で断言説があるが、はたして鎌足から織田家のしかるべき人物に至る具体的系図を見たことがある人は出典のご教授をお願い申し上げます。 


[713近松家について,,, 投稿者:apple-cider52 投稿日:2011/01/30(Sun) 15:05  

こんにちは!Twitterでは、apple-cider52で知られて
おりますが、@nifty時代は、主にFBMANでシャルドネと
して発言しておりました。

母方が近松家だったのですが、近松家というのは諸説ありすぎ
よく分かりません。

もし、適切な資料や図書が御座いましたらご教示いただけると
幸いです。


[712Re:宗像一族と福島 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2010/12/11(Sat) 00:12  

福島の宗像さん こんばんは。

> 宗像つながりの情報ありがとうございます。
> 福島が主要移住先とは、大変貴重な情報です。

すでにご覧になっているかもしれないのですが、以下の
苗字を人数が多い順に並べたサイトでは、「宗像」は
1366位とされています。

http://www.myj7000.jp-biz.net/2000/1100f.htm

ここにも書かれていますが、宗像姓は現在は福島県に多い
とされ、福島県内では「宗像」は上位100傑にもはいると
いうことです。宗像大社の事務員の方の移住先情報はこれと
符合していますね。

> ご先祖を探すにも、方法がなく行き詰っていたところ、
> 明かりが見えてきました。

「宗像」に関する限り、福岡県宗像市にいた宗像一族(大宮司
家含む)となんらかの関係があるということは否定しがたい
のではないでしょうか。宗方や棟方姓はちょっとわかりません
が。

宗像市やお隣の福津市には多数の古墳が残っており、前方後
円墳のように高貴な地位の人を埋葬したと考えられている大き
なものも含まれ、世界遺産登録の構成要素となっています。これら
古墳のいずれかまたは複数に自分の直接血を分けてもらった
ご先祖様がいるかもしれない、というふうに思うと、これは
古代のロマンに収まらない興味が沸くのではないでしょうか。 


[711Re:[709] 宗像一族と福島 投稿者:福島の宗像 投稿日:2010/12/10(Fri) 22:52  

宗像つながりの情報ありがとうございます。
福島が主要移住先とは、大変貴重な情報です。
ご先祖を探すにも、方法がなく行き詰っていたところ、
明かりが見えてきました。

======

> こんにちは。

> 宗像一族の出自についてはなかなかドラスティックな進捗は
> ありませんが、私の研究テーマ「宗像・沖ノ島」については
> 世界遺産入りを目指しているということで日々いろいろな
> ニュースがあります。

> 10月9日には東京代々木公園にて、谷井・宗像市長も参加しての
> 世界遺産応援大使任命式がありました。大使に任命されたのは
> 歌手で女優の森口博子さんです。なんでも母上が宗像市(当時
> は宗像郡と思いますが)のご出身だそうで、その縁のようです。

http://www.daily.co.jp/gossip/popular_enter/2010/10/10/0003522482.shtml

> ところで、先日久しぶりに福岡県の宗像市と宗像大社を訪れま
> した。宗像大社には沖ノ島から出土したものを含め8万点の
> 国宝(桁は間違いではありません)が保管されそのごく一部が
> 陳列されている神宝館があるのですが、そこの事務員の方と
> お話しすることができました。宗像の歴史に詳しい方で、
> 79代宗像大宮司の宗像氏貞にて大宮司家が断絶後、宗像一族は
> 宗像からは離散を余儀なくされたことは有名です。

> その後の宗像氏についてその事務員の方に伺ったのですが、
> やはり福島県が主要な移住先だったとのことです。(他がどこ
> であったかは聞き損じました)

> このスレに集まる方は福島でも三春近辺に縁のある方が多い
> ですが、鉄道の駅に「船引」というところがあります。
> 海はもちろんのこと大きな川が付近に流れているわけではない
> (小さな川はあるようですが)ので、なぜに「船」なのか
> 不思議でしたが、宗像の海人族の後裔が住み着いたということ
> で海人にゆかりのある名前をつけたのかもしれません。

> 以上お久しぶりでしたので少々の情報ということで書かせて
> いただきました。 


[709宗像一族と福島 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2010/12/09(Thu) 12:59  

こんにちは。

宗像一族の出自についてはなかなかドラスティックな進捗は
ありませんが、私の研究テーマ「宗像・沖ノ島」については
世界遺産入りを目指しているということで日々いろいろな
ニュースがあります。

10月9日には東京代々木公園にて、谷井・宗像市長も参加しての
世界遺産応援大使任命式がありました。大使に任命されたのは
歌手で女優の森口博子さんです。なんでも母上が宗像市(当時
は宗像郡と思いますが)のご出身だそうで、その縁のようです。

http://www.daily.co.jp/gossip/popular_enter/2010/10/10/0003522482.shtml

ところで、先日久しぶりに福岡県の宗像市と宗像大社を訪れま
した。宗像大社には沖ノ島から出土したものを含め8万点の
国宝(桁は間違いではありません)が保管されそのごく一部が
陳列されている神宝館があるのですが、そこの事務員の方と
お話しすることができました。宗像の歴史に詳しい方で、
79代宗像大宮司の宗像氏貞にて大宮司家が断絶後、宗像一族は
宗像からは離散を余儀なくされたことは有名です。

その後の宗像氏についてその事務員の方に伺ったのですが、
やはり福島県が主要な移住先だったとのことです。(他がどこ
であったかは聞き損じました)

このスレに集まる方は福島でも三春近辺に縁のある方が多い
ですが、鉄道の駅に「船引」というところがあります。
海はもちろんのこと大きな川が付近に流れているわけではない
(小さな川はあるようですが)ので、なぜに「船」なのか
不思議でしたが、宗像の海人族の後裔が住み着いたということ
で海人にゆかりのある名前をつけたのかもしれません。

以上お久しぶりでしたので少々の情報ということで書かせて
いただきました。


[707Re:[698] 家系 投稿者:本明 投稿日:2010/12/04(Sat) 19:20  

こんにちは、私は奥州市(元水沢市)の出身で“ほんみょう”といいます。私もこの名前が気になり、というのは本明家の親戚が集まるとこのルーツの話で盛り上がっていました。ただし、いつも堂々巡りでした。残念なことは3代以前は先祖を祭っているお寺が火災に遭い、過去帳が焼けてしまいそれ以前にさかのぼれないということです。
 推測では長崎県諌早市がルーツではないかということです。ここは、「本明」のついた町や川があり、長崎市も含めてこの姓が現存していることです。他にもこの姓と同じ地名が日本海沿いに点在しており、日本海沿いに北上してきたのではないかと思われます。
 私は岩手を離れてに住んでおり、同じようにどの家も長男以外は家を離れて独立したと思います。今日はこの辺で。


[704遅ればせながらお返事を… 投稿者:KUBO 投稿日:2010/11/24(Wed) 12:21  

>みなさま
 大変ご無沙汰しております。管理人のKUBOです。もう管理人だったこともすっかり忘れられてしまいそうですが、一応生きております(^^;) 実は先週足を骨折しまして、一週間ほど自宅に籠もっております。まあ骨折といっても、足の甲の辺りの骨なので、松葉杖をついたり不自由ではありますが、一応元気です(こういうのを元気というのかどうか…)

 明日からは出勤しますので、最後の日に少したまっていることを何とかせねばと思い、もうすっかり遅ればせではありますが、お返事をしたいと思って出て参りました。
 なお、足が不自由なもので、じっくり資料に当たることができません。質問についてのご返答は、手近な資料で見つけられた範囲でとさせていただきます。

>長尾義明さん
 8月ですから、もうご覧にはなっていないと思いますが、当サイトの日本史の部屋の松前藩関係のところに「松前藩家臣団一覧」というのがあります。どうも長尾姓の松前藩士はいたようですが、幕末のことで、それ以前の藩士の名簿類には長尾姓の藩士は見えません。
 『宮城県姓氏家系大辞典』を見ると、戦国期の葛西氏の家臣である長尾氏(女川千葉党の一員か?)と伊達家一門白川家旧臣の長尾氏(会津の上杉氏が米沢に移った際に浪人し伊達家に仕え、のち白川家に使えた)という二家が載っておりました。ご参考までに。

>hiroさん
 遅ればせながら、当サイトからもリンクを張らせていただきました。よろしくお願いします。

>sasabonさん
 同じような話があるものですね。またルーツを調べられたらおいで下さいね。

>本明さん
 すみません、ちょっと手近な資料では本明姓について詳しいことは見つけられませんでした。ただ『写録宝夢巣』で調べましたところ、本明姓は全国で118軒しかなく、そのうち36軒が岩手県に集中しておりました。またその36軒中21軒が水沢市(現奥州市水沢区)に集中しているので、ここが本明姓の本貫の地のようです。
 『岩手県姓氏家系大辞』』を見たら何か載っているかもしれませんね。

>wataysauさん
 私は二階堂氏についてはそれほど詳しくはないのですが、当サイトとリンクさせていただいている、源次郞さんのサイトを見てみると二階堂家の家臣に吉田氏がいたようです

 ですので、詳しくは源次郞さんのサイトでお聞きになってみると良いかもしれません。参照:「戦国大名二階堂氏の興亡史」
    http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/

>nicosionさん
 天神山チャシについては、以前道教委にメールで問い合わせてみたことがありますが、天神山チャシ跡は平岸相馬神社の社殿の裏にあたるそうで、現在駐車場になっている場所で、壕の一部が検出されたそうです。チャシ跡の本体は、駐車場の西側にあるそうです。
>松前志摩守さん
 ご無沙汰しております。そちらのサイトをのぞかせていただきましたが、素晴らしいですね。早速、こちらからもリンクを張らせていただきました。これからもよろしくお願いします。

>細川さん、藤原義治さん、吉田定司さん
 申し訳ありません。今はちょっとじっくり調べられる状態にないので、足が治ったら調べてみて、何か分かりましたらお知らせします。


[7039年ぶりです 投稿者:@purin 投稿日:2010/11/15(Mon) 18:41  

2001年3月31日頃より、掲示板に書き込んでいた『松前志摩守』です。
その後、ご健勝でしたでしょうか?
身辺も落ち着き、稚拙ではありますが、この度、ホームページを開設するに至り、当サイトとリンクさせて頂きました。
いまだ、蠣崎(松前)氏と大浦(津軽)氏の紹介のみですが、徐々に南下していく予定です。
もし、よければ、当方のサイトも覗いていただけますと幸いに思います。

http://shisetu-sengoku.la.coocan.jp/


[702はじめまして 投稿者:nicosion 投稿日:2010/10/17(Sun) 21:43  

天神山チャシについて調べていてたどり着きました。子供のころ近所に住んでいて、スコップでヤジリや土器を掘り起こして遊んでいました(小学生のころ)相馬神社の神主さんに怒られたりしていました。
あそこでどうして土器やヤジリが出てきたのか、大人になっても気になっていて、なぞが解けました。


[700須賀川二階堂家家臣団 投稿者:wataysau 投稿日:2010/10/15(Fri) 12:20

はじめて投稿致します。
私の実家が「吉田」を称して18?代目になるそうです。
福島県須賀川市長録寺に1500年代くらいからの先祖のお墓があり、実家の蔵には長槍や兜等の古めかしいものが沢山ありました。大昔の本とか、
祖父がその辺詳しかったようなのですが、自分は何一つ覚えておりません。ただ覚えているのが、渡辺謙さんが大河ドラマで伊達政宗を演じていたとき、一緒に見ていて、そんなに英雄でも無いんだけどな。これで須賀川の街が焼かれたと言っていたのを覚えております。
以前このサイトで二階堂氏の家系図が記載されていたので、
ダメモトでメールしてみました。
もし何か手がかりがあればと思いまして、


[698家系 投稿者:本明 投稿日:2010/08/31(Tue) 13:19

始めまして。                      
教えてほしいのですが、私の家の父方なのですが        
本明といいます。                    
先祖は岩手県水沢市です。                
かなり昔から水沢の町中に住んで居たらしく         
どうやら武士らしいのですが、              
何か知ってる方居ましたら教えてほしいのですが、       
名前はなんて言うのか?                 
とか・・・                       
水沢市だと思うんですが、                
水沢には本明さんがいっぱい居るのでしょうか?      
誰か知ってる方が居ましたら是非教えてください。     
よろしくお願いしまーす。


[697家系図って・・・ 投稿者:sasabon 投稿日:2010/08/29(Sun) 07:12

初めまして、sasabonと申します。
巡り巡って「ルーツの部屋」にたどり着きました。
ハンドルネームの通り「佐々木」なんですが・・・
家系図を見て、十数年前になくなった祖父の話を思い出した次第であります。
私の祖父は「宮城県出身」なんですが、なんだか祖父から聞いた話と、ここに載っている家系図が似ているのです。
小学校の時に聞いた話なので、ちょっと曖昧ですが、私のご先祖様も女系だったらしく、曾祖父の時かその前で、ようやく男子の子をもうけたそうです。
その先の話は聞いてはおりませんでしたが、そういう偶然ってあるのですね。
最近自分のルーツについて興味が出てきましたので、ぼちぼちと調べていきたいと思っています。

では


[696リンクのお知らせ。 投稿者:hiro 投稿日:2010/08/27(Fri) 13:22

初めまして「道北の釣りと旅」の管理人です。
何時もチャシの記載を参考にさせていただいております。
このたび貴サイト「家系城郭研究所」様にリンク致しました。
不都合な場合は削除、紹介文等で不都合な部分があればすぐに対処致します。
以上簡単ではありますがリンクのお知らせとご挨拶まで。
当サイトからのリンクページです。
http://www.kitakaido.com/link/link_01.html
末尾ながら貴サイトのご発展を願っております。

http://www.kitakaido.com/


[694先祖の墓 投稿者:吉田定司 投稿日:2010/08/23(Mon) 15:09

 一年程前に父方の先祖の事で投稿して回答させて下さりまして、ありがとう御座いました。
その以後、八戸市立図書館、南宗寺等を訪問して父方の先祖を確定させる事が出来ました。 何も分からない状況からでしたので回答をきっかけに一気に道が開けました。心より御礼を申し上げます。 先祖は八戸藩士中里覚右衛門で書類上全て一致いました。

 今回、八戸藩士中里覚右衛門の御墓の事でどうにも分からない事が生じました。
八戸南宗寺に初代から六代までの御墓があります。
七代、八代の御墓を南宗寺、隣のお寺、大慈寺を探しましたがありませんでした。御住職に尋ねましたが分からないと回答がありました。
七代、八代覚右衛門は江戸(東京)で亡くなった可能性がありますので、八戸藩主が葬られている東京都港区の金地院の御墓を調べましたが無く、暗礁に乗り上げました。

 八戸藩士が江戸で亡くなった場合に葬られた御寺を探していますので、是非、お願い致します。


[693系図 投稿者:藤原義治 投稿日:2010/08/13(Fri) 09:27

丸に三つ盛り亀甲です。元々内田姓でしたが、隠居する際に曽祖父が藤原姓だったので藤原に改名したと聞いています。
藤原の家紋はカタバミ紋です。
昔、内田家にあった系図は現在不明です。
福岡県で戸籍上はフジハラです。


[692Re:[691] 窪田家ルーツの件 投稿者:KUBO 投稿日:2010/08/10(Tue) 22:34

窪田岩作・ひ孫さん、こんにちは。

 申し訳ありません。もちろんメール届いております。
先ほど返信させていただきましたので、ご確認下さい。よろしくお願いいたします。


[691窪田家ルーツの件 投稿者:窪田岩作・ひ孫 投稿日:2010/08/10(Tue) 14:23

お忙しい中、早々のお返事、ありがとうございました。

昨日、郵便物を受け取り、父よりメールをさせていただきましたが、届いておりますでしょうか。

両親が、心配(楽しみに…)しておりますので、確認だけさせていただければ、と思います。


[690Re:[689] 一家で感激です!! 投稿者:KUBO 投稿日:2010/08/10(Tue) 02:09

窪田岩作・ひ孫さん、はじめまして。

 こちらこそ感激です。そう簡単に見つかるわけないなあと思っていた窪田の本家の御子孫を見つけることができて、本当にうれしいです。

>岩作、大吉は、うちのお墓にいるとの事です。
>昨年末に祖母(深・妻)が亡くなり、まとめてしまった為、
>両親が福井に行き手に入れた謄本2通が見当たらず、現在捜索中です。
>
>発見次第、深川方の謄本と合わせて郵送させて戴きます。

 わかりました。楽しみにお待ちしております。今後ともよろしくお願いいたします。


[689一家で感激です!! 投稿者:窪田岩作・ひ孫 投稿日:2010/08/10(Tue) 00:48

はじめまして。

ホームページ、拝見させていただきました。
ここ数年、我が家もルーツをたどっておりました。

岩作、大吉は、うちのお墓にいるとの事です。
昨年末に祖母(深・妻)が亡くなり、まとめてしまった為、
両親が福井に行き手に入れた謄本2通が見当たらず、現在捜索中です。

発見次第、深川方の謄本と合わせて郵送させて戴きます。
メールと合わせての書き込み、大変失礼致しました。


[688長尾のルーツは松前か 投稿者:長尾義明 投稿日:2010/08/09(Mon) 10:07

みなさまはじめまして
仙台市泉区に住んでいる、長尾と申します。
実家は宮城県角田市という所ですが、真偽のほどは不明ながら、ルーツは松前藩家臣のようです。
頼りない情報ですが、松前藩の殿様の何番目かの子息が、江戸に向かうときに、伊達政宗家臣である片倉小十郎の居城に?そのまま居ついたらしく、子息の家臣も伊達家の家臣になったようです。
家紋が伊達家と同じ竹に雀ですが、維新のどさくさで家紋としたのかもしれません。
8月末に、機会があれば松前の地を踏んでみたいと思っています。但し、是が非でも祖先の霊に合掌するといった殊勝な考えではなく、観光の一環です。
動機も不純ですが、松前の長尾姓を存知よりの方がおられましたら、確かに長尾姓の方がいますよ、程度の情報をお知らせ頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。


[687家紋 投稿者:細川 投稿日:2010/08/03(Tue) 12:14

始めまして^^;                                               
ちょっと気になる事がありましてカキコしました^^;   
おいらの家なんですが先祖は四国の仲多度郡まんのう町なのですが^^;                                                 
おいらの家は細川お名乗ってるのが明治より前らしいのですが・・何故か他の細川家と家紋が違うのですが^^;                               
何故なのでしょうか?                                             
家紋なんですが丸に橘です^^;                                        
誰か知ってる方が居ましたら教えていただけないでしょうか?                                                     
ちなみに現在ですが四国から昔明治あたりに北海道に来たらしいです^^;                                                
今は四国には、叔父他8件くらい家があり、明治時代には、 30件くらい細川の家(親戚他)があったらしいです^^;                                                     
おいらの先祖ですが調べた限りでは、8代前までわかっておりその前から細川お名乗っていたらしいです^^;                                
どうか知っている方いましたら教えてください^^;                               
よろしくお願い致します^^;


[686[682] へのレス 投稿者:宗像(ムネカタ) 投稿日:2010/07/11(Sun) 11:57

沖ノ島研究者さん
レス遅くなりすみません。
当家の家紋は、「一」の位置は菊の下側のものです。
「都道府県別 姓氏家紋大辞典」を探して、確認したいと思います。
貴重な情報ありがとうございました。
また、何かありましたら教えてください。
よろしくお願いします。


[685大篠津の先祖につきまして 投稿者:もっちん 投稿日:2010/07/11(Sun) 01:05

こんばんは。
はじめまして。
私の祖先は鳥取県米子市大篠津町の出身で、家紋は丸に木瓜です。
大篠津を開拓したのが、尼子氏の遺臣安田与惣左衛門と言う人らしいのですが、同姓なので何か関係があるのかな?と思ったりしています。
この安田与惣左衛門について詳しくご存知の方、情報をお教え頂けませんでしょうか。
どうぞよろしくお願い致します。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%AF%A0%E6%B4%A5%E6%9D%91


[684Re:[683] 南部藩士の名簿 投稿者:KUBO 投稿日:2010/07/04(Sun) 00:26

佐々木秀勝さん、こんにちは。

>文化・文政時代から以降の名簿は存在しないでしょうか。

 岩手県立図書館蔵の『岩手県誌資料』(岩手県教育会編 写 173冊(29類))の「第二類 藩士」に「盛岡藩士卒族名簿」「南部藩士録高文政支配帳」「天保支配帳」「盛岡藩国住居諸士」等の資料が収録されているそうです。
 また『盛岡藩士族旧禄所務書上帳(明治三年)他五編連記』(旧盛岡藩士桑田 平成八年)という資料もあるそうです。(詳細についてはよく知らないのでコメントできませんが)
 岩手県立図書館に問い合わせてみれば、いろいろとアドバイスいただけると思いますよ。


[683南部藩士の名簿 投稿者:佐々木秀勝 投稿日:2010/06/29(Tue) 15:46

文化・文政時代から以降の名簿は存在しないでしょうか。
私の先祖は下級武士だったようです。この時代から現在まで
菩提寺は盛岡氏の祇陀寺です。親類に池田家があります、ここは、5代前までの先祖を確認しています。佐々木家は多数あり過去帳から俗名が知りえません。除籍簿も古すぎて入手できません。


[682671へのレス 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2010/06/28(Mon) 13:29

671のムネカタさん

レスが遅くなりすみません。

>宗像の家紋で「半菊に一」もあるということでしょうか。
はい、該当の本にはありました。
ただし、「一」の位置は菊の下側のものが記載されていました。
当家のものは「一」の下に菊です。

>その菊は「十六菊」or「十六八重菊」なのでしょうか。
すいません、時間が経過したので八重だったかどうか失念しました。

よろしくお願いします。


[681Re:[680] 福島の宗像 投稿者:古川 投稿日:2010/06/28(Mon) 12:38

沖ノ島研究者様

お世話になります。

> 676の古川さん
>
> >家紋も時代的によって変えている場合もありますよ。自分の父方の家紋も明治頃に、山文字丸から笹竜胆にかえています。
>
> これは興味深い情報のご提供ありがとうございます。
> 家紋を時代によって変えているという事実があるのですね。
> 当家の家紋は菊を含んでおりますが、明治4年以降は菊花紋は皇族以外
> 使えなくなっています。
>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E7%B4%8B%E7%AB%A0
>
> ということは、当家の家紋は明治以前から伝わっているということになりそうです。
>
父方の古い墓碑にも山文字丸と菊花紋の二つが記載されています。聴くところによると、明治になってからは菊花紋の使用が禁止になってからは使用していないとの事でした。ただ当家の家紋かは分かっておりません。
また、母方は、北海道の松前藩に関係する家と確認しており、姓は、松嵜ですが、武田菱の紋では無く、五三の桐を家紋としています。


[680Re: 福島の宗像 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2010/06/28(Mon) 12:13

675のむなかたさん

>ご無沙汰です。丸に二つ引き両のむなかたです。
>ご紹介いただきました本を見ましたが、当家の家紋は
>”福島の宗像”の中には入っていませんでした。
>高額な本ですが、内容はすべて網羅されてませんね。

そうでしたか。
選択する基準が明らかではないのが残念ですが、全てが網羅されていないのですね。

676の古川さん

>家紋も時代的によって変えている場合もありますよ。自分の父方の家紋も明治頃に、山文字丸から笹竜胆にかえています。

これは興味深い情報のご提供ありがとうございます。
家紋を時代によって変えているという事実があるのですね。
当家の家紋は菊を含んでおりますが、明治4年以降は菊花紋は皇族以外
使えなくなっています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E7%B4%8B%E7%AB%A0

ということは、当家の家紋は明治以前から伝わっているということになりそうです。


[679過去ログ927 米良さん 投稿者:ともこ 投稿日:2010/06/27(Sun) 22:47

重慶は祖父の祖父と聞いています。


[676[675]さんへ 投稿者:古川 投稿日:2010/06/02(Wed) 02:04

自分の祖母も宗像姓ですが、家紋は丸に橘の家紋です。
そちらのは、丸に二つ引き両ですか。當宗像は福島県の下枝ですが,昔は一族のみが使用していた墓地だったようです今は共同墓地になっています。そちらの古い墓碑が分かるのでしたら家紋も詳しく分かるのでは、家紋も時代的によって変えている場合もありますよ。自分の父方の家紋も明治頃に、山文字丸から笹竜胆にかえています。古い墓碑より


[675Re:[670] 福島の宗像 投稿者:むなかた 投稿日:2010/06/01(Tue) 21:38

ご無沙汰です。丸に二つ引き両のむなかたです。
ご紹介いただきました本を見ましたが、当家の家紋は
”福島の宗像”の中には入っていませんでした。
高額な本ですが、内容はすべて網羅されてませんね。

> 664さん 667さん
>
> はじめまして。久しぶりの投稿となります。
>
> 私は家系のことは疎いしあまり興味がなかったのですが、
> たまたま本日、千鹿野茂という人の著した「都道府県別 姓氏
> 家紋大事典」という大部の本を書店で立ち読みしました。
>
http://www.amazon.co.jp/%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E5%88%A5-%E5%A7%93%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E5%8D%83%E9%B9%BF%E9%87%8E-%E8%8C%82/dp/4760125205
>
>
> そこには各県ごとに姓ごとに出自を示しているのです。
> そこで私も興味がある「福島県の宗像」を参照したのです
> が、半菊に一の家紋を含めて複数の家紋の宗像について、
> 「宗像君後裔」と記述されておりました。
>
> この書物の指し示す内容が一般常識と同じなのか、あるいは
> 姓名学的に見て正しいのか、私には判断する材料がありません。
>
> しかし、この一般書店で販売ししかも2万5千もの値付けを
> している2分冊本の示していることが正しいとするのであれば、
> 通常「宗像君」といえば、宗像(胸形)君徳善の系列か、
> あるいは宗像大宮司家(日本書紀にいう、宗像三女神を
> 斎き祭る宗像君)のいずれかを指すだろうとおもわれますから、
> 筑前国の有力者である宗像一族の子孫ということをいっている
> のだと考えられます。
>
> 以上ご報告まで


[673浅井家から磯野家に嫁に行った女性 投稿者:嵐山 投稿日:2010/05/06(Thu) 23:17

浅井亮政の娘として磯野丹波守秀昌に嫁に行った女性がいますよね。確か再婚するときの相手は黒田伊予守ということになってますね。

この女性が実は久政の娘という説を掲載した系図を見たのですが、本当かどうか、単なる誤伝なのか答えてくれる人はいますかね。

できれば先夫の離婚理由と再婚相手である黒田家に生まれた子供の名前などわかればありがたいのですが、どうでしょうね。


[671無題 投稿者:宗像(ムネカタ) 投稿日:2010/05/05(Wed) 04:51

沖ノ島研究者さん
情報ありがとうございました。
宗像の家紋で「半菊に一」もあるということでしょうか。
その菊は「十六菊」or「十六八重菊」なのでしょうか。
また何か情報があれば、お教えください。
ありがとうございました。


[670福島の宗像 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2010/04/30(Fri) 23:06

664さん 667さん

はじめまして。久しぶりの投稿となります。

私は家系のことは疎いしあまり興味がなかったのですが、
たまたま本日、千鹿野茂という人の著した「都道府県別 姓氏
家紋大事典」という大部の本を書店で立ち読みしました。

http://www.amazon.co.jp/%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E5%88%A5-%E5%A7%93%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E5%8D%83%E9%B9%BF%E9%87%8E-%E8%8C%82/dp/4760125205

そこには各県ごとに姓ごとに出自を示しているのです。
そこで私も興味がある「福島県の宗像」を参照したのです
が、半菊に一の家紋を含めて複数の家紋の宗像について、
「宗像君後裔」と記述されておりました。

この書物の指し示す内容が一般常識と同じなのか、あるいは
姓名学的に見て正しいのか、私には判断する材料がありません。

しかし、この一般書店で販売ししかも2万5千もの値付けを
している2分冊本の示していることが正しいとするのであれば、
通常「宗像君」といえば、宗像(胸形)君徳善の系列か、
あるいは宗像大宮司家(日本書紀にいう、宗像三女神を
斎き祭る宗像君)のいずれかを指すだろうとおもわれますから、
筑前国の有力者である宗像一族の子孫ということをいっている
のだと考えられます。

以上ご報告まで


[668私の母方も佐々木です。 投稿者:ありさ 投稿日:2010/04/30(Fri) 01:42

はじめまして。私の母方も佐々木で、一族は岩手出身です。
数年前に岩手へ旅行した際、亡くなった佐々木の祖父の残した故郷の住所を頼りに尋ねてみると、遠縁(母のまたいとこ)に
巡り会えました。それまであまりルーツには興味なかったのですが、実際に会えると感動するものですね!かなり遡った家系図やご先祖様の位牌などがあるとわかりました。亡くなった祖父が果たせなかった”帰郷”にロマンを感じました。たまたまこちらのHPを見つけて似たような方がいるものだなぁと思い、思わず打ち込んでしまいました。ちなみに場所は岩泉町の方です。私の岩手の祖先は、その土地で運送業のようなことをしていたらしく、裕福に暮らしていたそうです。家紋も同じです。


[667情報があれば 投稿者:宗像(ムネカタ) 投稿日:2010/04/18(Sun) 09:03

当方、北海道在住の宗像です。読みはムネカタです。
父は福島県出身で、「半菊に一の字」が家紋と聞いており、元々は天皇家と同じ菊の紋であったものが、あまりにも恐れ多いということで、半分に切って下に一の字を加えたと聞いておりますが、いかがなものかと思っています。
何か情報でもあればと書き込みました。


[666菅谷姓のルーツを教えて下さい 投稿者:菅谷 秀夫 投稿日:2010/04/08(Thu) 22:47

私は静岡県浜松市に住む、菅谷と申します。以前から姓のルーツについて感心がありました。しかし、知る機会もなく今日に至っている所です。何かヒントでもあれば、是非教えて頂けませんでしょうか。宜しくお願いいたします。

http://kakizaki-bakuhu.hp.infoseek.co.jp/


[665無題 投稿者:蠣崎若狭守 投稿日:2010/04/05(Mon) 16:27

KUBOさん、ご無沙汰しております。
お久しぶりです。
当サイト、蠣崎幕府ですが、以下のように変更になりましたのでリンクの修正をお願いいたします。

変更前 http://www5f.biglobe.ne.jp/~kakibaku/
変更後 http://kakizaki-bakuhu.hp.infoseek.co.jp/

簡単ではございますが、ご案内申し上げます。


[664宗像の苗字について 投稿者:宗像 投稿日:2010/03/31(Wed) 01:18

はじめまして
苗字の由来を探しているときにこの掲示板を見つけたので書き込みをします。
当方も福島の三春・船曳出身の祖父がいました。
家紋の話が出ていたのですがうちの家門も半菊に一で菊が上にある家紋で葬儀まで自分の家紋すらしらなかったのですが、もし情報がいただければと書き込みいたします。

本当の由来がわからないのですが
宗像神社に名前が同じというので大宮の氷川神社の宗像神社には参拝をしてました。

実のところいとこが(他苗字)が偶然宗像性の人と結婚をしたのですが、近い親戚ではなかったようで。もともとは一緒だったのか調べております。


[663どなたか 投稿者:久保田 投稿日:2010/01/04(Mon) 00:40

明治維新の際に薩摩藩より上洛してきた先祖についてです。
薩摩藩の藩士(身分不詳)の子で久保田周造と申します。

大昔に周造の子が、鹿児島の本家に訪ねたことが有ると聞きましたが、それだけです。

先祖のルーツを探りたいのですが、行き詰まり困っています。
何かしら情報が有れば教えて頂きたいです。
藁をもつかむ気持ちで書き込みさせて頂きました。
すいません。


[662皆様良いお年を! 投稿者:KUBO 投稿日:2010/01/01(Fri) 00:11

>みなさま
 え~、いつものことながらいるのかいないのかわからない管理人のKUBOです(^^;) なんとこんなに長期間放置していたのは、初めてです。たくさん書き込みしていただいたのに、ほんとうに申し訳ありません。
 言い訳になりますが、今年後半は短期入院やら、インフルエンザの流行で職場の学芸会が2週間も延びるやらで、正直HPの方まで手が回りませんでした。といいつつ、チャシの見学会に入っていたりしましたが(^^;)
 というわけで、落ち着いて返事をしようと思いましたらもう大晦日だったというわけでして、今更お返事をしても…という感じですので、ご容赦下さい。本当にどうもありがとうございました。

 といいつつ、ちょっと先ほど調べてみたら見つけましたので、一つだけお返事を(^^;)

>白浜家様
 もうご覧になっていないかもしれませんが、『南部藩参考諸家系図』(国書刊行会)という南部藩士の系図集がありまして、そちらに「白浜波紋家」の系図が載っております。もしお近くの図書館に置いてありましたら、第五巻のP295~296をご覧下さい。どうやら御抱えの力士から藩士になった家のようですね。一応、簡単な略系図を。

 姓不詳
  廣兼―――――――――廣明―――+=廣時――――――――某
   白濱沖右衛門     六左衛門|   文治       勘之助 林太夫
   元禄中御抱ノ相撲也      |   実、鹿角郡某男     六右衛門
   後召出サレ五駄二人      |   五駄四人扶持
   扶持ヲ賜フ          +―女 養子廣時妻
                  |
                  +―某 白濱六之丞
                      宝暦十年御徒ニ召出サレ
                      六駄二人扶持ヲ賜フ

 それでは、皆様、本年もありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。(といっているうちに年が変わってしまいました、トホホ……(--;))


[661Re:[660] [657] 宗像姓の繋がりについて 投稿者:古川 正記 投稿日:2009/12/01(Tue) 00:18

ななし様

ご連絡有難うございます。

> どうも当家は「田村」氏の家臣だったようです。
> 伝え聞いたところによれば、かつては「守山」近辺にいて、移ってきたとのことであり、「守山」といえば田村家が三春に移る前の本拠地だったことによります。
> それ以前については不明ですが。。。

田村氏の家臣とのこと、1504年頃の三春の入城ですよね。
また、田村氏の家臣のむなかた姓はこちらの宗方の名がありますが、どうなんでしょうか、當家の宗像は旧下枝村中の内に居住した一族です。岩城氏の家臣ではと考えております。
父方は影山姓で田村氏の菩提寺と同じお寺なので、田村氏の家臣ではと考えております。
古い墓碑も40程ありますがまだ調べてはいません。
福島県は遠隔地の為、北海道からはなかなかいけませんよね。
何せ、戦国時代のことゆえ調べるのに大変苦労しております。奥州仕置により帰農した一族ですよね。
ななし様は地元ですか、地元ですと調べるのに便利ですね。
色々とご指導下さい。


[660Re:[657] 宗像姓の繋がりについて 投稿者:ななし 投稿日:2009/11/23(Mon) 01:57

古川様

大変ごぶさたしてしております。

> 田村郡内には、宗像姓が多数存在していますが、岩城氏、田村氏、二階堂氏等の家臣に名前がありますが、家紋の違いなんかもありますがどこかで繋がりがあるのでしょうか。現代でも、三代も絶つと、繋がりが分からなくなりまね。

その後判明した情報です。
どうも当家は「田村」氏の家臣だったようです。
伝え聞いたところによれば、かつては「守山」近辺にいて、移ってきたとのことであり、「守山」といえば田村家が三春に移る前の本拠地だったことによります。
それ以前については不明ですが。。。

それと「家紋」についてもひとつ。
三春から船引にかけて「石井」という名前がありますが、その方々の家紋も「一に半菊」で当宗像家と同じ家紋でした。
「石井」さんは南北朝時代にまでさかのぼれるようですが、宗像家との関連、家紋が同じになっている理由まではわかりません。
こんなこともあるんですね。


[659Re:[658] 宗像姓とは 投稿者:古川 正記 投稿日:2009/11/03(Tue) 22:33

沖ノ島研究者様

お世話になります。

連絡が遅くなり申し訳ありません。

※ 最新号の週刊誌「サンデー毎日」巻頭5ページカラーぶち抜きで宗像・沖ノ島特集となっています。
※ これが本当に世界遺産正式リスト登録になったら一般レベルでも「むなかたって、どういう名前?」

先日の日曜日早速に「サンデー毎日」の週刊誌を見てきました。特集になっていました。やはり、歴史が古く世界遺産に登録されて当然と思いますね。其中での宗像姓については本当にどういう名前なのでしょうか。具体的に知りたいです。


[658宗像姓とは 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2009/10/28(Wed) 00:17

古川さま

こんばんは。

>現代でも、三代も絶つと、繋がりが分からなくなりまね。

まさしく其の通りです。家系図があればまだしも、ですが、家系図自体がいろいろいじられている可能性もあります。

宗像姓は現代ではメジャーとはいえませんが、日本古代史ではマイナーではない、というより一種スター的扱いだと
思います。古事記・日本書紀の極めて初期の段で独特の詳しさと重みで出てくるなどがそれです。

それと、世界遺産の暫定リストに記載されたことは非常に注目すべきだと思われ、たとえば驚いたことに
最新号の週刊誌「サンデー毎日」巻頭5ページカラーぶち抜きで宗像・沖ノ島特集となっています。
これが本当に世界遺産正式リスト登録になったら一般レベルでも「むなかたって、どういう名前?」
と人と会うごとに聞かれそうですから、それまでに学術レベルでも統一見解を出してほしいですね。


[657宗像姓の繋がりについて 投稿者:古川 正記 投稿日:2009/10/26(Mon) 00:05

沖ノ島研究者様

早々に有難うございます。

私の所は曽祖父、祖父、父の三代が97年前に北海道へ移住しており、自分も北海道在住で福島県とは遠隔のため、調べるのに苦労しております。

田村郡内には、宗像姓が多数存在していますが、岩城氏、田村氏、二階堂氏等の家臣に名前がありますが、家紋の違いなんかもありますがどこかで繋がりがあるのでしょうか。現代でも、三代も絶つと、繋がりが分からなくなりまね。


[656Re:[655] 宗像について 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2009/10/21(Wed) 22:55

古川様 はじめまして。

コメントをいただきありがとうございます。

私は家紋について非常に疎いので参考となる情報かどうか
わかりませんが、宗像氏の家紋でもっとも有名なものは、
宗像大社(古くは宗像神社)の大宮司家に伝わる柏紋です。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_muna.html

こちらにあるようです。なお上記URLのしたのほうに、胸形
君徳善から続く家系図がありますが、深津経由で大宮司家
につながっているように書かれています。しかし、この系図
は正しくなく、徳善の系列と大宮司家とは異なるという説も
あります。徳善自体が現代風に言えば天武天皇の義理の父親
にあたりますし、清氏も宇多天皇の親王ではないかという
説があったりと、びっくりするような系統図となっています。

私の考えでは、天皇家とのつながりは7世紀の人物である徳善
にいきなり始まるものではなく、省略されている系図部分の
どこか前のほうにあるのではないか、あるいは宗像氏一族は
有名な宗像三女神をお祭りしたというだけではなく、実は
彼女らは宗像氏の先祖だったのではないかという可能性も
あるのではと思いますが、一説にしか過ぎません。

宗像三女神はアマテラスとスサノオの誓約で生まれた神々で
すから、日本においてこれほど正統的な由緒のある神様も
なかなかいないだろうと思われます。

また、現在のむなかたさんの家紋も柏だけでなくいろいろ
あるのが興味深いですね。それほどいろいろな系統が、
三春近辺にも存在したということなのでしょうか。

> 沖ノ島研究者様
>
> 当方の祖母も宗像姓で旧下枝村中の内です。
> 家紋については、橘紋ですがなぜか分かっておりません。現在調べております。
> 尚、私の祖父の先代か縁戚になる小川家についてですが、岩城氏の家臣で奥州岩城小川之城主小川兵庫頭の末葉、天文二年に落城し、田村弾正入道月斎(三春城主田村隆顕の弟)依有緑頼末田村郡内下枝村中の内に居住、小川兵庫頭其子小川彌三郎其子役氏他と先日郷土史の方から書状を頂ました。そのことと、墓碑の配列等を推察しますと、當家の宗像についても岩城氏の家臣か小川家の家臣と推測しますが。今現在については不明です。ただ菩提寺が天正年間より火災になっていなく現在もあるそうなので只今調べていただいてます。
> 沖ノ島研究者様については、宗像について詳しく書かれていますので、今後も、ご指導の程宜しくお願い申し上げます。


[655宗像について 投稿者:古川 正記 投稿日:2009/10/20(Tue) 00:28

沖ノ島研究者様

当方の祖母も宗像姓で旧下枝村中の内です。
家紋については、橘紋ですがなぜか分かっておりません。現在調べております。
尚、私の祖父の先代か縁戚になる小川家についてですが、岩城氏の家臣で奥州岩城小川之城主小川兵庫頭の末葉、天文二年に落城し、田村弾正入道月斎(三春城主田村隆顕の弟)依有緑頼末田村郡内下枝村中の内に居住、小川兵庫頭其子小川彌三郎其子役氏他と先日郷土史の方から書状を頂ました。そのことと、墓碑の配列等を推察しますと、當家の宗像についても岩城氏の家臣か小川家の家臣と推測しますが。今現在については不明です。ただ菩提寺が天正年間より火災になっていなく現在もあるそうなので只今調べていただいてます。
沖ノ島研究者様については、宗像について詳しく書かれていますので、今後も、ご指導の程宜しくお願い申し上げます。


[654Re:[652] [651] [650] [649] 宗像について 投稿者:古川  投稿日:2009/10/19(Mon) 23:52

> むなかたさん こんばんは。(といっても私も同じ苗字ですが。。。)
>
> > 福島の宗像は宗像神社の流れを組んでいると理解してよい物
>
> これはちょっと微妙ですね。我が家には家系図や伝承はありません。
> ひとつの手がかりは家紋で、これが宗像大社の紋と関連があるのかも
> しれない、という推測を書かせていただきました。
>
> 「むなかた」で史上もっとも古く登場する個人名は日本書紀の胸形君徳善で
> この人物は天武天皇に娘の尼子娘を妻としておくり、孫として天武の
> 第一皇子である武市皇子を持っているという大層な家系です。
> その系統か別の系統かわかりませんが、宗像大宮司家が連綿と続くの
> ですが、後に大宮司家は断絶、豊臣秀吉により宗像関係者は福岡から
> 離散を余儀なくされたと伝わっており、その主な引越し先が福島だった
> のかもしれません。いまでも福岡県宗像市には「むなかた」さんは少ししか
> いないようです。
>
> なお、古事記・日本書紀という日本史上最古の歴史書のいずれにも
> 胸形君は記述が見られ、それは有名なアマテラスとスサノオの二神
> の誓約生みの段で、宗像三女神を崇拝する氏族という形で現れます。
> 日本書紀に登場する氏族名称は100と少ししかないといわれており、また
> 九州の一豪族をなぜこのような古くてかつ注目を浴びる箇所に配置したのか、
> それはおそらく日本の成り立ちを考える上で大変重要なポイントだと
> 思います。「むなかた」は胸形、宗像、宗形、棟方、宗方など
> いろいろなバリエーションがあり、また「みぬま」、「みなかた」も
> 関連性があるといわれておりますが、非常に古い氏族名称であることは
> これらからも推定されうると思います。
>
> 私がひとつ期待しているのは、宗像三女神の一人を祭る玄界灘の
> 絶海の孤島沖ノ島で、戦後8万点以上の国宝としての祭祀遺物がみつかり、
> 近年これを含む宗像地方が世界遺産に名乗りを挙げていることです。
> ひとつのハードルであった国内暫定リスト入りは今年成し遂げたので、
> 数年後の世界遺産入りも形が見えてきていましたが、これらにより
> ぜひ「宗像研究」が活発になって欲しいと思います。これは一豪族だけ
> ではなく、先述のように日本の成り立ちを探索する上でも不可避です。
> (たとえば、宗像の海人族と天孫降臨の関係など)
>
> 当初のご質問の回答にはなっておりませんが、この場でお会いできたのも
> なにかのご縁だと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
>
>
> > こんにちは。
> > 前に投稿いたしました丸に二つ引き両ののものです。
> > 宗像みたいなマイナーな名字が出てくるのを嬉しく思っています。
> > 福島の宗像は宗像神社の流れを組んでいると理解してよい物なのでしょうか。本家との付き合いも殆ど無く、ご先祖様になかななたどり着けなくこまっています。
> >
> >
> >
> >
> > > 訂正と補足です。
> > >
> > > 菊の花びらは8枚ではなく7枚でした。
> > > 以下のURLの2列目右端にある「半菊に一」の菊と一の位置を
> > > 逆にしたものです。ここの菊の下の半分だけ描かれている
> > > 花びら2枚(計一枚分)が無いような形で7枚なので、とする
> > > と全体ではやはり16菊なのかもしれません。
> > >
> > > > こんにちは。いつも楽しく拝見しております。
> > > >
> > > > 以前の記事なのですが気になっておりましたので
> > > > 本日投稿させていただきます。
> > > >
> > > > http://hpcgi1.nifty.com/t-kubo/kubo.cgi?page70=val
> > > >
> > > > [573] の福島県の宗像氏の家紋について読ませていただきました。
> > > > 私も実は祖父が三春近辺の出身で宗像といい、[573]の投稿者様
> > > > の書かれているのと同じ「一に半菊」の家紋です。
> > > >
> > > > 半菊は下部が○で隠されているので正確に全体で何枚の花弁に
> > > > なるのかは確実でないのですが、見える部分には8枚の花びらが書かれているので
> > > > おそらく半分で9枚、つまり全体では18枚の菊ではないかと思います。
> > > > 16菊はそう簡単に使えないでしょうから。
> > > >
> > > > ただ、福岡県の宗像大社の紋章は16菊ですし、なんらかの関係が
> > > > あるのかもしれません。
> > > >
> > > > 三春近辺の宗像氏はいろいろ違った家紋をそれぞれ有しているようですが、
> > > > なにか違いがあるのか、なんでも結構ですのでご教示いただける
> > > > 方がおられましたら幸いです。
> > > >
> > > > よろしくお願いします。


[653Re:[652] [651] [650] [649] 宗像について 投稿者:むなかた 投稿日:2009/10/18(Sun) 21:14

沖ノ島研究者様

貴重な情報有難うございます。
私のほうも何か分かりましたらご連絡いたします。

======

> むなかたさん こんばんは。(といっても私も同じ苗字ですが。。。)
>
> > 福島の宗像は宗像神社の流れを組んでいると理解してよい物
>
> これはちょっと微妙ですね。我が家には家系図や伝承はありません。
> ひとつの手がかりは家紋で、これが宗像大社の紋と関連があるのかも
> しれない、という推測を書かせていただきました。
>
> 「むなかた」で史上もっとも古く登場する個人名は日本書紀の胸形君徳善で
> この人物は天武天皇に娘の尼子娘を妻としておくり、孫として天武の
> 第一皇子である武市皇子を持っているという大層な家系です。
> その系統か別の系統かわかりませんが、宗像大宮司家が連綿と続くの
> ですが、後に大宮司家は断絶、豊臣秀吉により宗像関係者は福岡から
> 離散を余儀なくされたと伝わっており、その主な引越し先が福島だった
> のかもしれません。いまでも福岡県宗像市には「むなかた」さんは少ししか
> いないようです。
>
> なお、古事記・日本書紀という日本史上最古の歴史書のいずれにも
> 胸形君は記述が見られ、それは有名なアマテラスとスサノオの二神
> の誓約生みの段で、宗像三女神を崇拝する氏族という形で現れます。
> 日本書紀に登場する氏族名称は100と少ししかないといわれており、また
> 九州の一豪族をなぜこのような古くてかつ注目を浴びる箇所に配置したのか、
> それはおそらく日本の成り立ちを考える上で大変重要なポイントだと
> 思います。「むなかた」は胸形、宗像、宗形、棟方、宗方など
> いろいろなバリエーションがあり、また「みぬま」、「みなかた」も
> 関連性があるといわれておりますが、非常に古い氏族名称であることは
> これらからも推定されうると思います。
>
> 私がひとつ期待しているのは、宗像三女神の一人を祭る玄界灘の
> 絶海の孤島沖ノ島で、戦後8万点以上の国宝としての祭祀遺物がみつかり、
> 近年これを含む宗像地方が世界遺産に名乗りを挙げていることです。
> ひとつのハードルであった国内暫定リスト入りは今年成し遂げたので、
> 数年後の世界遺産入りも形が見えてきていましたが、これらにより
> ぜひ「宗像研究」が活発になって欲しいと思います。これは一豪族だけ
> ではなく、先述のように日本の成り立ちを探索する上でも不可避です。
> (たとえば、宗像の海人族と天孫降臨の関係など)
>
> 当初のご質問の回答にはなっておりませんが、この場でお会いできたのも
> なにかのご縁だと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
>
>
> > こんにちは。
> > 前に投稿いたしました丸に二つ引き両ののものです。
> > 宗像みたいなマイナーな名字が出てくるのを嬉しく思っています。
> > 福島の宗像は宗像神社の流れを組んでいると理解してよい物なのでしょうか。本家との付き合いも殆ど無く、ご先祖様になかななたどり着けなくこまっています。
> >
> >
> >
> >
> > > 訂正と補足です。
> > >
> > > 菊の花びらは8枚ではなく7枚でした。
> > > 以下のURLの2列目右端にある「半菊に一」の菊と一の位置を
> > > 逆にしたものです。ここの菊の下の半分だけ描かれている
> > > 花びら2枚(計一枚分)が無いような形で7枚なので、とする
> > > と全体ではやはり16菊なのかもしれません。
> > >
> > > > こんにちは。いつも楽しく拝見しております。
> > > >
> > > > 以前の記事なのですが気になっておりましたので
> > > > 本日投稿させていただきます。
> > > >
> > > > http://hpcgi1.nifty.com/t-kubo/kubo.cgi?page70=val
> > > >
> > > > [573] の福島県の宗像氏の家紋について読ませていただきました。
> > > > 私も実は祖父が三春近辺の出身で宗像といい、[573]の投稿者様
> > > > の書かれているのと同じ「一に半菊」の家紋です。
> > > >
> > > > 半菊は下部が○で隠されているので正確に全体で何枚の花弁に
> > > > なるのかは確実でないのですが、見える部分には8枚の花びらが書かれているので
> > > > おそらく半分で9枚、つまり全体では18枚の菊ではないかと思います。
> > > > 16菊はそう簡単に使えないでしょうから。
> > > >
> > > > ただ、福岡県の宗像大社の紋章は16菊ですし、なんらかの関係が
> > > > あるのかもしれません。
> > > >
> > > > 三春近辺の宗像氏はいろいろ違った家紋をそれぞれ有しているようですが、
> > > > なにか違いがあるのか、なんでも結構ですのでご教示いただける
> > > > 方がおられましたら幸いです。
> > > >
> > > > よろしくお願いします。


[652Re:[651] [650] [649] 宗像について 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2009/10/10(Sat) 23:47

むなかたさん こんばんは。(といっても私も同じ苗字ですが。。。)

> 福島の宗像は宗像神社の流れを組んでいると理解してよい物

これはちょっと微妙ですね。我が家には家系図や伝承はありません。
ひとつの手がかりは家紋で、これが宗像大社の紋と関連があるのかも
しれない、という推測を書かせていただきました。

「むなかた」で史上もっとも古く登場する個人名は日本書紀の胸形君徳善で
この人物は天武天皇に娘の尼子娘を妻としておくり、孫として天武の
第一皇子である武市皇子を持っているという大層な家系です。
その系統か別の系統かわかりませんが、宗像大宮司家が連綿と続くの
ですが、後に大宮司家は断絶、豊臣秀吉により宗像関係者は福岡から
離散を余儀なくされたと伝わっており、その主な引越し先が福島だった
のかもしれません。いまでも福岡県宗像市には「むなかた」さんは少ししか
いないようです。

なお、古事記・日本書紀という日本史上最古の歴史書のいずれにも
胸形君は記述が見られ、それは有名なアマテラスとスサノオの二神
の誓約生みの段で、宗像三女神を崇拝する氏族という形で現れます。
日本書紀に登場する氏族名称は100と少ししかないといわれており、また
九州の一豪族をなぜこのような古くてかつ注目を浴びる箇所に配置したのか、
それはおそらく日本の成り立ちを考える上で大変重要なポイントだと
思います。「むなかた」は胸形、宗像、宗形、棟方、宗方など
いろいろなバリエーションがあり、また「みぬま」、「みなかた」も
関連性があるといわれておりますが、非常に古い氏族名称であることは
これらからも推定されうると思います。

私がひとつ期待しているのは、宗像三女神の一人を祭る玄界灘の
絶海の孤島沖ノ島で、戦後8万点以上の国宝としての祭祀遺物がみつかり、
近年これを含む宗像地方が世界遺産に名乗りを挙げていることです。
ひとつのハードルであった国内暫定リスト入りは今年成し遂げたので、
数年後の世界遺産入りも形が見えてきていましたが、これらにより
ぜひ「宗像研究」が活発になって欲しいと思います。これは一豪族だけ
ではなく、先述のように日本の成り立ちを探索する上でも不可避です。
(たとえば、宗像の海人族と天孫降臨の関係など)

当初のご質問の回答にはなっておりませんが、この場でお会いできたのも
なにかのご縁だと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

> こんにちは。
> 前に投稿いたしました丸に二つ引き両ののものです。
> 宗像みたいなマイナーな名字が出てくるのを嬉しく思っています。
> 福島の宗像は宗像神社の流れを組んでいると理解してよい物なのでしょうか。本家との付き合いも殆ど無く、ご先祖様になかななたどり着けなくこまっています。
>
>
>
>
> > 訂正と補足です。
> >
> > 菊の花びらは8枚ではなく7枚でした。
> > 以下のURLの2列目右端にある「半菊に一」の菊と一の位置を
> > 逆にしたものです。ここの菊の下の半分だけ描かれている
> > 花びら2枚(計一枚分)が無いような形で7枚なので、とする
> > と全体ではやはり16菊なのかもしれません。
> >
> > > こんにちは。いつも楽しく拝見しております。
> > >
> > > 以前の記事なのですが気になっておりましたので
> > > 本日投稿させていただきます。
> > >
> > > http://hpcgi1.nifty.com/t-kubo/kubo.cgi?page70=val
> > >
> > > [573] の福島県の宗像氏の家紋について読ませていただきました。
> > > 私も実は祖父が三春近辺の出身で宗像といい、[573]の投稿者様
> > > の書かれているのと同じ「一に半菊」の家紋です。
> > >
> > > 半菊は下部が○で隠されているので正確に全体で何枚の花弁に
> > > なるのかは確実でないのですが、見える部分には8枚の花びらが書かれているので
> > > おそらく半分で9枚、つまり全体では18枚の菊ではないかと思います。
> > > 16菊はそう簡単に使えないでしょうから。
> > >
> > > ただ、福岡県の宗像大社の紋章は16菊ですし、なんらかの関係が
> > > あるのかもしれません。
> > >
> > > 三春近辺の宗像氏はいろいろ違った家紋をそれぞれ有しているようですが、
> > > なにか違いがあるのか、なんでも結構ですのでご教示いただける
> > > 方がおられましたら幸いです。
> > >
> > > よろしくお願いします。


[651Re:[650] [649] 宗像について 投稿者:むなかた 投稿日:2009/10/10(Sat) 22:51

こんにちは。
前に投稿いたしました丸に二つ引き両ののものです。
宗像みたいなマイナーな名字が出てくるのを嬉しく思っています。
福島の宗像は宗像神社の流れを組んでいると理解してよい物なのでしょうか。本家との付き合いも殆ど無く、ご先祖様になかななたどり着けなくこまっています。

> 訂正と補足です。
>
> 菊の花びらは8枚ではなく7枚でした。
> 以下のURLの2列目右端にある「半菊に一」の菊と一の位置を
> 逆にしたものです。ここの菊の下の半分だけ描かれている
> 花びら2枚(計一枚分)が無いような形で7枚なので、とする
> と全体ではやはり16菊なのかもしれません。
>
> > こんにちは。いつも楽しく拝見しております。
> >
> > 以前の記事なのですが気になっておりましたので
> > 本日投稿させていただきます。
> >
> > http://hpcgi1.nifty.com/t-kubo/kubo.cgi?page70=val
> >
> > [573] の福島県の宗像氏の家紋について読ませていただきました。
> > 私も実は祖父が三春近辺の出身で宗像といい、[573]の投稿者様
> > の書かれているのと同じ「一に半菊」の家紋です。
> >
> > 半菊は下部が○で隠されているので正確に全体で何枚の花弁に
> > なるのかは確実でないのですが、見える部分には8枚の花びらが書かれているので
> > おそらく半分で9枚、つまり全体では18枚の菊ではないかと思います。
> > 16菊はそう簡単に使えないでしょうから。
> >
> > ただ、福岡県の宗像大社の紋章は16菊ですし、なんらかの関係が
> > あるのかもしれません。
> >
> > 三春近辺の宗像氏はいろいろ違った家紋をそれぞれ有しているようですが、
> > なにか違いがあるのか、なんでも結構ですのでご教示いただける
> > 方がおられましたら幸いです。
> >
> > よろしくお願いします。


[650Re:[649] 宗像について 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2009/10/10(Sat) 14:59

訂正と補足です。

菊の花びらは8枚ではなく7枚でした。
以下のURLの2列目右端にある「半菊に一」の菊と一の位置を
逆にしたものです。ここの菊の下の半分だけ描かれている
花びら2枚(計一枚分)が無いような形で7枚なので、とする
と全体ではやはり16菊なのかもしれません。

> こんにちは。いつも楽しく拝見しております。
>
> 以前の記事なのですが気になっておりましたので
> 本日投稿させていただきます。
>
http://hpcgi1.nifty.com/t-kubo/kubo.cgi?page70=val
>
> [573] の福島県の宗像氏の家紋について読ませていただきました。
> 私も実は祖父が三春近辺の出身で宗像といい、[573]の投稿者様
> の書かれているのと同じ「一に半菊」の家紋です。
>
> 半菊は下部が○で隠されているので正確に全体で何枚の花弁に
> なるのかは確実でないのですが、見える部分には8枚の花びらが書かれているので
> おそらく半分で9枚、つまり全体では18枚の菊ではないかと思います。
> 16菊はそう簡単に使えないでしょうから。
>
> ただ、福岡県の宗像大社の紋章は16菊ですし、なんらかの関係が
> あるのかもしれません。
>
> 三春近辺の宗像氏はいろいろ違った家紋をそれぞれ有しているようですが、
> なにか違いがあるのか、なんでも結構ですのでご教示いただける
> 方がおられましたら幸いです。
>
> よろしくお願いします。


[649宗像について 投稿者:沖ノ島研究者 投稿日:2009/10/10(Sat) 14:32

こんにちは。いつも楽しく拝見しております。

以前の記事なのですが気になっておりましたので
本日投稿させていただきます。

http://hpcgi1.nifty.com/t-kubo/kubo.cgi?page70=val

[573] の福島県の宗像氏の家紋について読ませていただきました。
私も実は祖父が三春近辺の出身で宗像といい、[573]の投稿者様
の書かれているのと同じ「一に半菊」の家紋です。

半菊は下部が○で隠されているので正確に全体で何枚の花弁に
なるのかは確実でないのですが、見える部分には8枚の花びらが書かれているので
おそらく半分で9枚、つまり全体では18枚の菊ではないかと思います。
16菊はそう簡単に使えないでしょうから。

ただ、福岡県の宗像大社の紋章は16菊ですし、なんらかの関係が
あるのかもしれません。

三春近辺の宗像氏はいろいろ違った家紋をそれぞれ有しているようですが、
なにか違いがあるのか、なんでも結構ですのでご教示いただける
方がおられましたら幸いです。

よろしくお願いします。


[648南部藩家老 白浜佐ヱ門之丞 投稿者:白浜家 投稿日:2009/10/06(Tue) 16:08

亡き父が生前話していた白浜家のルーツを手繰り始めています。しかし残念な事に、父に祖父の名前までは原戸籍にて判っているのですがそれ以降の原戸籍に函館の大火で消滅してしまったようで途切れてしまいました。但し父が先祖は南部藩の家老白浜佐ヱ門之丞であると教えてくれた事だけが記憶に残っています。「盛岡藩士の家系」から「岩手県姓氏歴史人物大辞典」角川書店の抜粋の中に「白浜波紋家」を見つけたのですが
果たして白浜佐ヱ門之丞にかかわりがあるのか???ヒントになる情報を頂戴できれば幸いです!


[647相互リンクのお願い 投稿者:佐吉 投稿日:2009/09/29(Tue) 07:47

管理人様はじめまして。
相互リンクをお願いしたく書き込みをさせて頂きました。
宜しくお願い致します。

http://sengokuclub.com


[646手塚姓 投稿者:左京亮 投稿日:2009/09/15(Tue) 07:48

またはちろう様

私も手塚姓ではありません。
母親がその子孫の家から出ていまして、私は中学1年まで
その家の敷地内で育ちました。
また祖父や一族の光盛に対する話などを聞いており、
手塚姓に対する思い入れが強いのです。

ご連絡は大歓迎です。そのためにアドレスを書いております。(笑)わたしにもお教えいただきたいことがあります
ので。


[645憧れの地、山梨。 投稿者:またはちろう 投稿日:2009/09/14(Mon) 19:15

左京亮様

またはちろうです。
教えて頂いて、ありがとうございます!

大石神社、大和町。
地図で見ますと、確かに勝沼の近くですね。
神主の方ならば、家系もしっかりと残っていそうですね。羨ましい。

ネットで調べ物をしていたのですが、いまひとつ成果があがらず、なんとなくブルーな気分でした。
こうして新しい事がわかると、テンションが上がるものですね!
現金ですね。

私の家系も元々は神主だったらしいのです。
どこの?というのは一切不明なんですが。
証拠、というか、家紋がそれを表しているのだとか。

唐突ですが、これまでのことで、
ひとつお詫びをさせてください。
一つ、大事なことを書いていないことに気がつきました。

ええと、私の姓は手塚ではないのです。
・・・すみません。完全に失念していました。
ただ、系図として代々伝わっているものが、手塚のものなんです。

実際に名乗ったほうがよいのでしょうが、
私はこうした掲示板などのネットの世界にうといので、
マナーに適ったものかどうか、分かりません。
そこで、もし失礼でなければ、左京亮様の名前をクリックすると現れる、
メールアドレスにメールをさせて頂ければ、と考えたのですが、構いませんでしょうか?
本当にネット社会にはウブなので、失礼のないようにしたいのです。

お手数ですが、お返事頂ければ幸いです。


[644訂正 投稿者:左京亮 投稿日:2009/09/14(Mon) 12:22

訂正します。
山梨神社でなく山梨市の大石神社です。
失礼いたしました。


[643子孫 投稿者:左京亮 投稿日:2009/09/14(Mon) 09:00

またはちろう様

興味深く拝見しております。

>石祠や古文書・・・。素敵ですねえ。うらやましいです。
古文書といってもそんなにたいしたものではなく、
江戸時代に武田家臣の状況について書かれたものです。

>私の父親は勝沼の出身です。

勝沼ですか。
私の知っている範囲ですと、近隣では山梨神社の神主家が
手塚太郎の子孫と言われています。
あと大和村にも一族がいらっしゃるようです。
当方関係の手塚家は旧高根町にありまして、旧白根町に
ある手塚家とは山梨にきた祖先を同じくしているようです。

>バイクで山梨から佐久へ行ってみようと思っている

行動的ですね(笑)
お気持ちはよくわかります。当方も手塚ルーツを訪ねて
上田、諏訪あたりをウロウロしました。
気になりだすと、気になるもんですよね。


[642無題 投稿者:またはちろう 投稿日:2009/09/11(Fri) 19:51

左京亮 様

ご返信くださってありがとうございますっ

> 子孫である旨が刻まれた石祠や古文書が現存します。

石祠や古文書・・・。素敵ですねえ。うらやましいです。

> 山梨の手塚の子孫は4つほどの地域に分布していると
> 思います。それぞれ山梨に辿りついた経緯があるようです。

それぞれの経緯・・・。大変気になるところです。
私の父親は勝沼の出身です。また、系図の末文によると、私の祖先は
信虎の代に韮崎合戦、信玄の代に海野平合戦、で討死orz
致しております。その功?で”佐久に土地をもらった”というようなことが書いてありますので、
その時代には佐久というところにいたのかな? と空想を膨らませているところです。

佐久というところが、現在の長野県の佐久と同じかどうか分からないのですが、
興味を持った折角の機会ですし、いずれバイクで山梨から佐久へ行ってみようと思っているところ
です。でも、ただ行くだけでは得るものもなさそうですし、・・・ひとまずネットで知識を蓄えています。


[641Re:[640] 手塚に関しての情報をお教え下さい。 投稿者:左京亮 投稿日:2009/09/10(Thu) 18:08

またはちろう様

はじめまして。
私も手塚太郎光盛末裔の家の敷地で育ちました。
以前にこの掲示板にて、ご教示をいただいたことがあり
ますので、「山梨」「手塚」で検索されたとすると
私の書き込みをご覧になったかも知れません。

系図は焼失してしまっていて現存していないのですが、
子孫である旨が刻まれた石祠や古文書が現存します。
ただもっと詳しく調べようにも、何分資料が少なすぎて
難しいのが現状です。

山梨の手塚の子孫は4つほどの地域に分布していると
思います。それぞれ山梨に辿りついた経緯があるようです。
お父様はどちらのご出身なのでしょうか?
もしよろしければご連絡いただければ幸いです。

> はじめまして。
> 私の家に手塚家の家系図がありまして、この間、フと興味を持ち、辞書をひきひき、読める範囲で読んでみました。戦国時代、徳川家康が甲斐?を支配下に置いた頃のモノのようです。
> 祖先は満守→手塚太郎光盛→俊満→(中略)→定盛→盛久→(続く)となっていました。
> 父親が山梨出身なので、手塚と山梨で検索を掛けて調べていたところ、こちらのページを見つけました。
> また、系図とは別の書状があり、武田の武将の一人から、佐久郡というところに、領地をもらったそうです。
> 系図の終わりの部分には、徳川家康に接見?して領地を確保してもらったとかなんとかいう風に書いてあるのですが、
> その後の手塚家のことがわかりません。
> 豊臣の絡みもあって、あまり歴史に詳しいくない私にはどうやって調べたものかもわかりません。
> いきなりで、大変不躾な態度なのかもわかりませんが、
> 調査方法や手塚に関する情報など、アドヴァイスを頂けましたら幸いです。


[640手塚に関しての情報をお教え下さい。 投稿者:またはちろう 投稿日:2009/09/02(Wed) 23:50

はじめまして。
私の家に手塚家の家系図がありまして、この間、フと興味を持ち、辞書をひきひき、読める範囲で読んでみました。戦国時代、徳川家康が甲斐?を支配下に置いた頃のモノのようです。
祖先は満守→手塚太郎光盛→俊満→(中略)→定盛→盛久→(続く)となっていました。
父親が山梨出身なので、手塚と山梨で検索を掛けて調べていたところ、こちらのページを見つけました。
また、系図とは別の書状があり、武田の武将の一人から、佐久郡というところに、領地をもらったそうです。
系図の終わりの部分には、徳川家康に接見?して領地を確保してもらったとかなんとかいう風に書いてあるのですが、
その後の手塚家のことがわかりません。
豊臣の絡みもあって、あまり歴史に詳しいくない私にはどうやって調べたものかもわかりません。
いきなりで、大変不躾な態度なのかもわかりませんが、
調査方法や手塚に関する情報など、アドヴァイスを頂けましたら幸いです。


[639ひさしぶりです^^ 投稿者:かなざし 投稿日:2009/08/24(Mon) 23:34

こんばんは、あのときは私の先祖についていろいろ調べてくださってありがとうございました^^
私もいろいろと調べたのですが私の金指の家系の一人に世名十郎光近という人がいるそうです。理由は家紋が同じだそうでして源氏に仕えた武士だそうです。
まだこのことについてよく分かりません。
だれか知っていたら教えてください!


[638わが先祖を求めて 投稿者:幸恵207 投稿日:2009/07/17(Fri) 11:54

主人から5代前(戸籍によると儀右ヱ門と記されている)がどういう人だったのか知りたくて長年悩んでいる。親戚の者が「先祖はもと松前の家臣らしく本当は蠣崎姓だったが官軍におわれ生き延びるため木村にした」という。真実を知りたいが、文政2年生まれの木村勝蔵(主人から4代前の人)の父が儀右ヱ門と戸籍に記されているしか手がかりがない。岩内にいた人だが墓の場所も分からない。


[637ありがとうございました・・・ 投稿者:愛川G3 投稿日:2009/07/15(Wed) 16:11

 公私とも忙しい中、お出迎え・返書を有難うございました。
パソコンも未だ、ままにならないのに、無謀にも空に矢を放つが如く、一通投稿するのに今日も朝から数時間、悪戦苦闘です。 KUBOさんのお陰で先に明るいものが見えてきました。
 今後の進め方は
①「正之助為基」と「八木作助為寛」の名前があるか、院内(現湯沢市)の八木家へ伺ってみようかなと想っております・・・親戚とはいえ最近疎遠なので・・・義叔母(秋田市在住)を連れていこうかな・・・
②大山氏・八木氏の家系図等はご指摘の「秋田県立秋田図書館」や「秋田県公文書館」=分限帳や<士族・卒明細短冊>があると検索しました・・・
③今後も貴サイトをはじめ、各歴史家のサイトを研究する・・・(危ないサイトもあると聞いてますが)・・・

余談ですが・・・
●G3は現在神奈川県在住で、相模川を隔て町田市金井までは車で1時間ぐらいでしょうか・・・・
●フォントの件ですが、MSゴシックと指導されてますが、当PCはMSゴシックもありますがMSPゴシックと当初よりなっております、これでもいいですか(NECVN790/T)、貴サイト<631>の家系図は良好に打ち出されています

  そろそろ洗濯物をとりこまなくっちゃあ・・・・


[636遅くなりまして… 投稿者:KUBO 投稿日:2009/07/14(Tue) 20:25

>愛川G3さん
 お出迎えが遅くなり、申し訳ありません。当サイト管理人のKUBOと申します。私の手元にある佐竹氏関係の資料というと愛川G3さんがご覧になったのと同じようなものと、あとは『佐竹氏一門系図・稿』と『新編佐竹七家系図』ぐらいですので、見てみると、『佐竹氏一門系図・稿』(東洋書院)の方に大山氏の系図が載っており、その中に諱が若干違いますが「正之助為基」という人物が載っておりました。それは大山若狭義智の五男で左源治義敬の弟に当たります。お義母様の口伝では「大山若狭の弟」とのことですが、実は「大山若狭の子で左源治の弟」だったのかもしれません。
 上記系図によると、正之助為基は、「弘化二年(1845)1月24日生、母佐竹氏(南義珍女)、八木作助為寛の嗣となる。」とあります。

 大山家の系図をざあっと見てみましたが、「若狭」を名乗っているのは義門と義智だけのようです。また「若狭は官位ですか、たんなる名前ですか・・・?」とのことですが、これは通称の一種で、「~太郎」とか「~兵衛」「~右衛門」などと同じようなものと考えて良いです。本来「~守」(~の部分は国名)というのは国司の官位ですが、時代が下るとこれらの官位を各地の武士等が勝手に自称するようになり、通称の一種になってしまいました。ですから、戦国武将で「~守」を名乗っているものが多いですが、あれはほとんどが自称か、主君より「~守」を名乗れと言われて勝手に名乗ったものです。
 ですが、江戸時代になると幕府が武士の官位を一元管理するようになり、「~守」というのは大名か上級旗本しか名乗れなくなってしまい、各大名家の家臣で「~守」を名乗っていた者たちは「守」を取って国名のみを称するようになったのです。ですから大山家の系図を見てみると、戦国時代に生まれた義則までは「因幡守」を名乗っていますが、それ以後は「因幡」「越前」「若狭」などと称しています。

 なお、『系図文献資料総覧』を見ると、秋田県立秋田図書館に以下のような大山氏・八木氏の系図が収蔵されているようですので、それをご覧になるとなにか参考になることがあるかもしれません。

 ◎大山氏 九七丁(写) 大山氏続系図(大山十郞) 源姓大山氏系図(大山掃部) 大山氏分流系図(大山助内)
     系図家伝書(大山隼人) 大山氏系図(大山勘兵衛) 源姓大山氏支流系図(大山矢五郎) 大山氏家系(大山六郎兵衛)
     大山氏支流系図(大山縫殿) 系図(大山鉄蔵) 系図(大山甚兵衛)
 ◎八木氏 六一丁(写) 紀姓八木氏系図(八木作助) 八木氏系図(八木藤兵衛) 八木氏分流系図(八木治右衛門)
     八木氏分流系譜(八木多四郎)

以上、ご参考までに。


[635[634]の間違いあり・・・ 投稿者:愛川G3 投稿日:2009/07/14(Tue) 15:07

[634]の続きです
 
[634]の間違いを訂正します。
 疑問1.「秋田武漢」によれば義門には子・兄弟なし・?
と書きましたが、よくよく見れば、義門には義福・孝道・
光久がいました、訂正します。

義母の口伝をいま一度書くと・・・
 八木家には男子なく、たきお姫(妃)に大山若狭の弟
 (正之助為敏)を婿に迎えた・・・としています。

 新たな疑問1.正之助為敏の名前は大山若狭の弟の名か?
        八木家当主が正之助為敏ではないか・・?

秋田県の公文書目次(?)をみると・・・
大山氏家系・大山氏続系図・源姓大山氏系図・大山氏分流系図・源姓大山氏支流系図・系図家伝書・・・等と系図でも
いろんな言葉を使ってますが各々意味があるのですか・・?        
 寂しい、誰かいませんか・・・・・


[634義母の口伝・・・ 投稿者:愛川G3 投稿日:2009/07/13(Mon) 15:16

[633]の続きです
義母の口伝によると・・大山若狭の弟(正之助為敏)を婿            にむかえ・・・としています。
 疑問1.「秋田武漢」によれば義門には子・兄弟なし・?
 疑問2.一族で若狭の文字は義門以外にあるのか・・・?
 疑問3.若狭は官位ですか、たんなる名前ですか・・・?
 
義母の母の母はお城に良くお使いに行っていたと云う・・
話を遡れば幕末か、明治のはじめか・・・?
 疑問4.=義雅=義続-義智-義敬 には弟はいないのか?
 疑問5.お城に・・・とは院内城(館)か久保田城か?

混乱しています今日はこれで。。。[1009]参照しました。


[633ご近所さんへ 投稿者:愛川G3 投稿日:2009/07/07(Tue) 15:24

 管理者様の呼び鈴を押したのですがお留守のようですね?
 ご近所の皆さんへ少しお伺いして宜しいでしょうか?
 過去ブログ[632]愛川G3と申します。

 佐竹一族の秋田移封93騎の中に大山・八木の姓があります
秋田院内城(館)に関係するようですが・・・・・
妻の実家は院内の出自で、義母の口伝によるとご先祖様に上記の大山・八木の名があります・・・・・
 過去ブログを見せてさせてもらったり、「佐竹氏物語:渡辺景一著」「佐竹氏探訪:土居照雄著」「久保田城下町の歴史:渡辺景一著」などを、さらに「秋田武鑑:則道(三浦賢童編)]を見たのですが・・・・・・
いまいち、義母の口伝と繋がりません・・・・・
 
 当研究所に泣きつき、御頼みすればなにか知恵があるかと思い、管理者様の御許しも無く皆様に聞いてみました。


[632お邪魔でなければ 投稿者:愛川G3 投稿日:2009/06/28(Sun) 17:57

管理者様へ
 初めての投稿、躊躇ったのですが邪魔でしたら消えます。
家系図?とはいえないものを書いていたのですがご先祖様は ? で、もう止まってしまいました。
親の口伝書(単なる鉛筆での聞き取り箇条書き)でも御爺様ぐらいまでで、その上は???
過去帳は寺の改修中紛失されたようで?
 皆さまの話を聞いてるだけで自分のご先祖様は・・・・・
想いは遠く、源氏か平家か・・・・・南朝か北朝か・・・・
 貴過去ブログを解読中の66歳男子でした。


[631申し訳ありません 投稿者:KUBO 投稿日:2009/06/01(Mon) 01:16

>みなさま
 長期間放置していて申し訳ありません。管理人でありながら、これが今年最初の投稿とは、我ながら情けない…
 遅ればせながら、レスをさせていただきます。

>Asamiさん
 お年賀をいただいたのに失礼しました。今年もよろしくお願いします。

>mityanteijiさん
 返事が遅くなってしまい申し訳ありません。私の手元に『八戸地域史』という雑誌の第十二号(1988)があり、これに掲載されている「八戸藩における中里氏の事績」(中里直美)という論文に中里氏の系図が載っていますので、まずはそれを紹介させていただきます。

                           正規
           正徳       正吉     又正休 或正次
武田河内……武田孫二郎――+―中里嘉兵衛――+―半兵衛―――+―藤右衛門、治右衛門==嘉兵衛
       初め弥次郎 |        |  後弥次郎 +―伝左衛門        治右衛門弟
       後中里隠岐 |        |       +―半之丞
             |        |       +―半五郎
             |        |
             |        +―太郎左衛門―+―●弥次右衛門―+―弥次右衛門
             |        |       +―●孫二郎   +―●市太夫
             |        |       +―太兵衛
             |        |
             |        +―與右衛門――+―與左衛門
             |        |       +―●清左衛門
             |        |       +―與一右衛門
             |        |       +―●弥五左衛門
             |        |
             |        +―典膳======●半九郎
             |        |          弥次右衛門弟
             |        +―藤右衛門====弥五右衛門
             |
             |                       正明
             +―中里弥蔵―――――覚右衛門――――●覚右衛門
                                 初喜平治

 ●がついた人物が八戸藩士としては初代の人物のようです。この論文の末尾にある「代表的な中里家が代々使用した呼び名と実名」という一覧によると、各家の通字は次の通りです。
 ・弥次右衛門系→好 ・清左衛門系→幸・吉 ・與左衛門系→通字といえるものはないが四代目は正景
 ・覚右衛門系→正  ・市太夫系→好    ・半九郎系→正  ・孫次郎系→好
 ・弥五左衛門系→幸
 となると通字からいうと中里正綱氏は覚右衛門系か半九郎系の可能性が高いと思われます。

 また『八戸藩士一覧』という八戸市立図書館蔵の「勲功帳」の前文に載っている藩士名を掲載した資料があるのですが、それに載っている江戸後期の中里姓の藩士をご紹介します。ただしこれも一部欠落があるとのことなので、「勲功帳」本文を確認する必要があるようですが。

○第八代信真(1796-1842)
 ・中里弥祖右ヱ門(隠居冬山)…弥九郎跡松五郎改弥九郎
               跡弥次右ヱ門跡郷右ヱ門
 ・中里与右ヱ門…………………鍋太郎跡兵部改杢人
 ・中里半九郎……………………伴治改八郎右ヱ門
 ・中里市太夫……………………市右ヱ門跡友吉改市太夫
 ・中里和右ヱ門…………………顕作
 ・中里多膳………………………改清右ヱ門跡安之丞
               改多膳跡彦十郞
 ・中里覚右衛門…………………弥右ヱ門
 ・中里弥門………………………勝弥改藤十郞
 ・中里孫次郎……………………改甚右ヱ門
               跡文弥改甚太夫
 ・中里岡右ヱ門…………………大次郎跡恒寿改行蔵
 ・中里文七………………………安太夫跡定之丞

○第九代信順(1842- )
 ・中里弥祖右ヱ門…跡弥九郎跡松之助改寿男
 ・中里杢人…………跡杢兵衛改孫次郎
 ・中里八郎右衛門…跡半九郎改八郎右ヱ門
          跡左門
 ・中里甚太夫………改杢右ヱ門又改文弥
          跡又三郎跡滝之助跡音次郎
 ・中里行蔵
 ・中里弥五六………跡惣吉改寛治
 ・中里彦十郞………改弾正跡雄五郎
 ・中里弥右ヱ門……跡弥市改覚右衛門
          跡多喜弥
 ・中里市太夫………改恵喜人改重太夫
          又改左右
 ・中里藤十郞………改弥五右ヱ門跡弥吉
          改弥五右衛門
 ・中里定五郎(中郷改メ)…改寛弥又改左守又改機兵
 ・中里文七…………安太夫跡定之丞

 いずれにしても中里正綱氏の通称が分かれば、そこから上記の人物につながる可能性も出てきますが、取りあえず手持ちの資料で分かった事は以上です。

>児島さん
 何の話だったっけ?と思い、過去ログを検索してしまいました(^^;) 申し訳ありませんが、この件に関してはこれ以上調べる資料も時間も持ち合わせておりませんので、コメントを控えさせていただきます。


[630八田藤原宗綱の子は児島盛宗 投稿者:児島 投稿日:2009/05/22(Fri) 19:57

盛宗が八田宗綱の知られざる庶長子だったとすると佐々木秀義と同年代となり
ますので、二人の盛綱が同世代と考えることもできます。しかし、この盛宗という人
物が他の史料では見ることができませんので、何とも言えませんねえ...
についても補足。

藤原宗園ー藤原宗綱ー児島祖盛宗ー婿佐々木盛綱となっています。
春日局の父の京都妙心寺智勝院で、家系図を、拝見して、確認とりました。
これは藤原北家も、同列に記されていて、児島系と河野系ね連ねて、ありましたので、確認されたい。
近藤氏の書かれた系図にも載せてありました。


[628627の追伸 投稿者:mityanteiji 投稿日:2009/01/16(Fri) 19:11

 ルーツ探しでお願いしているmityanteijiです。
中里源次郎氏が安政生まれですので、戸主の中里正綱氏は安政以前の方だと思います。
八戸藩士系譜書上で調べてみましたが、中里正綱氏が記載されていませんでした。 
八戸藩士系譜書上は、全員の藩士でなく、残り1/3の方がいるそうです。もしかして、残りの方の中にいるかも。 この様な場合、どの様にして調べたらよろしのでしょうか、何方か、教えて下さる様お願い致します。


[627ルーツ探しのお願い 投稿者:mityanteiji 投稿日:2009/01/15(Thu) 18:38

 明けましておめでとう御座います。
初めまして、私、現在、家系図作成中で御座います。
直接のご先祖様が、中里源次郎氏で御座います。戸主中里正綱氏の籍に入っています。 住所 青森県三戸郡八戸村堤町となっています。 明治21年の戸籍まで確認出来ましたが、八戸市役所から80年法で破棄されているので中里正綱氏以前が分からないと回答ありました。 ちなみに、中里源次郎氏は安政5年生まれです。  何方か、中里正綱氏以前を教えて下さいませんか。 宜しくお願い致します。


[626新年のご挨拶 投稿者:Asami 投稿日:2009/01/05(Mon) 16:20

明けましておめでとうございます。

リンクでお世話になっておりますAsamiです。
今年も宜しくお願い致します。

http://www.oshiromeguri.com/


[625今年も終わり… 投稿者:KUBO 投稿日:2008/12/30(Tue) 23:53

 またまた不在でした管理人です。せっかく書き込みをしていただいているのに放置状態で大変申し訳ありません。何とかしたいとは思いながら、ネットに割ける時間がなかなか取れないのが現状でして、更新したい気持ちはありながら、ままならない状態です。
  おまけに今月には仕事用の文書等が入っているUSBメモリのデータを自分のミスで破壊し、自宅で使っている外付けHDDを息子に倒されてクラッシュと年末に来てダブルショックでした(--;) 多少古いデータでしたがバックアップしたものがあったので大事には至らなかったものの、そのお世話やら修復やらでまた余計な時間がかかってしまいました。
 今年ももう終わりですが、来年こそは少しはまともに更新できないかなあと反省しております。当サイトにおいでいただいた方々、どうもありがとうございました。

 それではお返事を。
>嵐山さん
 浪岡町史のコピーを入手し確認してみましたが、どうも私の勘違いのようです。来年になりますが、浪岡町史をもとに訂正をしたいと思っております。ご指摘ありがとうございました。

>MAKOさん
 青森県油川の窪田姓については特に情報を持ち合わせておりません。家紋が丸に三つ盛り亀甲に花菱とのことですが、なぜ北陸出身と考えておられるのかがよくわかりません。ちょっと調べてみましたが、三つ盛り亀甲に花菱を家紋としていたのは有名なところでは近江の浅井氏、それから堀秀政の堀氏などがあるようです。


[624つづきです 投稿者:MAKO 投稿日:2008/09/29(Mon) 02:16

家紋は丸に三つ盛り亀甲に花菱(私が見るところ)なので北陸出身ではないのかと思っているのですが。。また別物なのでしょうか?何でもよいので情報ありましたら教えていただけないでしょうか?よろしくお願いいたします


[623旧姓 窪田です 投稿者:MAKO 投稿日:2008/09/29(Mon) 02:11

私は青森県油川出身で本家であります。周辺には分家が住んでおります。家にある巻物?によると窪田治兵衛三代の主小太郎の長男にして周蔵(安政元年)に生まれると書いてあります。そのひとは私からするとひいひいおじいちゃんにあたります。家紋は丸に


[622浪岡系図 投稿者:嵐山 投稿日:2008/09/22(Mon) 10:53

このホームページ展示の浪岡系図ですが、浪岡町史第二巻では浪岡季紀が栄次郎であるという記事もあり、

このホームページ展示系図と異なる異説系図も存在する可能性がありますね。


[621お礼 投稿者:新田 投稿日:2008/08/17(Sun) 05:33

大変お忙しい中、わざわざお調べ頂きどうもありがとうございました。残念ながら先祖に一致する名はありませんでしたが、とても参考になりました。
今後のますますのご発展をお祈りいたしております。


[620Re:[615] 続きです Part2 投稿者:久保田 投稿日:2008/08/10(Sun) 13:03

ありがとうございます。
先祖を調べるのは難しいですね。


[619おまけ更新 投稿者:hiko 投稿日:2008/08/09(Sat) 23:58

KUBOさま。
おまけファイルを更新してみました。宜しければお試しください。

http://iwarehiko.web.fc2.com/index.html


[618Re:[616] おまけ 投稿者:KUBO 投稿日:2008/08/07(Thu) 00:03

Hikoさん、こんにちは。
>当節ご職業柄大変なこともあるでしょうが、趣味の方も忘れずに更新していただける事を期待しています。
 更新したい気持ちは山々なんですが… おっ、ちょっと時間があるな、と思ってパソコンに向かっていると、4歳の息子がちょろちょろ寄ってきて、結局ゆっくりPCに向き合えるのは息子が寝てからとなるんです(^^;)
 夏・冬休み時期は、普段に比べると時間に自由がきくので、少し余裕がありますが。少し更新できないかなあと思ってますが、なかなか進みません(^^;)

>もし、②③であれば、近日中にサイズを小さくしたサンプル
>を貼り付けますのでお試しください。

 サンプルファイルは普通に読み込めますので①ではありません。自宅で使っているデスクトップPCは、WinXPでメモリの少ないので、そのせいかなあと思ったんですが、職場で使っているノートPC(WinVISTA)でも同じ症状でしたので、②かもしれません。


[617有難う御座います。 投稿者:川原 投稿日:2008/08/06(Wed) 21:23

管理人様
ご教示有難うございます。
青森(八戸・十和田)をキーワードに調べてみます。
失礼致します。


[616おまけ 投稿者:Hiko 投稿日:2008/08/03(Sun) 10:40

>kubo様
当節ご職業柄大変なこともあるでしょうが、趣味の方も忘れずに更新していただける事を期待しています。

ところでエラーがでるという事ですが、原因は三つぐらい
考えられるでしょうか。
①家系式3の付属のサンプルファイルでエラーになるのであれば、ツールのインストールエラー。
②ファイルのダウンロードがうまくいかず破損している。
③PCの能力不足で展開中にエラー。
もし、②③であれば、近日中にサイズを小さくしたサンプル
を貼り付けますのでお試しください。

http://iwarehiko.web.fc2.com/index.html


[615続きです Part2 投稿者:KUBO 投稿日:2008/08/01(Fri) 00:06

 また続きです。今日で終わるかな?

>久保田さん
 はじめまして。情報としましてはちょっと漠然としていて、何とも言いようがないです。九州といっても広いですが、「写録宝夢巣」で調べたところ、どこの県も数百件以上窪田姓がありますが、中でも福岡県が1515件と群を抜いております。さらに福岡県の中でも福岡県東区が101件、久留米市が113件、北九州市八幡西区が76件、大牟田市が71件と集まっています。

>名和さん
 帆かけ舟というと名和氏の家紋として有名ですが、違い鷹の羽ですか。確かに征西府にともに仕えた間柄であり、同じ肥後国に割拠していたのですから、つながりは深いものがあったと思います。ちょっと手持ちの資料で菊池氏と名和氏の関係を確認できるものが見あたらないのですが、その可能性は十分あると思います。

>hikoさん
 ご無沙汰しています。北海道は家の中は暑いですけど、外に出ると結構風邪が寒いです。どんな服装にしようかと悩むところです(^^;) おまけファイルをダウンロードしてみたんですが、なぜかエラーになっちゃいます。何でだろう?


[614続きです 投稿者:KUBO 投稿日:2008/07/31(Thu) 00:46

 え~、それでは昨日の続きです。

>道東菊地さん(5/19)
 ブログ拝見させていただきました。とても精力的に家系探求を進められているようで、頭が下がります。私もかなり前に除籍謄本を本州の父方・母方の先祖の地から取り寄せましたが、その時に初めて見る先祖の名前を見たときにはやはり感動しました。とはいえ、その後ほとんど進んでいないのですが...
 先祖探しの手紙は、私も考えたことはありますが、未だ実行に至っておりません。やはり実行あるのみだなあと考えさせられました。
 それから関係ないかもしれませんが、奥様のご先祖・青森県下北郡田名部村(現むつ市)の杉山家についてですが、隣町の横浜町の杉山家には「弘前の杉山家の分家であり、石田三成の末裔である」という伝承があるそうです。弘前の杉山家とは石田三成の次男の子孫で弘前藩の重臣を務めた家柄ですが、その子孫である白河亨氏の『石田三成とその一族』(新人物往来社)の中にこの陸奥横浜の杉山家についての記述があります。
 また陸奥横浜の杉山家の御子孫・佐賀郁郎氏による『石田三成と津軽の末裔』(北の街社)という本もありますので、参考までにご紹介しておきます。

>下国さん(5/21)
 ご無沙汰しております。除籍謄本を取られましたか。
 うちのサイトに「松前藩家臣団一覧表」というのがあるんですが、その中にある嘉永6年(1853)年の御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳(『松前町史 資料編』第一巻 所載)という松前藩士の名簿の中に以下のような下国姓の藩士が載っています。
 ~下国英一郎・嘉太夫・図書・瀧蔵・主殿・能保理・豊前・真勇美~
また慶応2年(1866)の御役人并諸向勤 名前扣帳(『江差町史 資料編』第二巻 所載)という資料にも以下のような下国姓の藩士が載っています
 ~下国安芸・弾正・弓勇・美都喜~

 除籍謄本に一致する名前はありませんか?

>大臣さん(5/23)
 徳大寺流の野宮氏は初耳でした。情報ありがとうございます。戦国期前後は京都の公家が地方に下向したり、あるいは武士になる者も見られますので、徳大寺家の系図に実元は出てきませんが、そういうことがあっても不思議ではないですね。

>窪まるさん(6/27)
 石川公に仕えていたということは、仙台藩の角田邑主石川氏の家臣という窪田嘉膳or七郎がご先祖ですか?やはり火災で資料が消失ということはあるのですね。

 今日はここまでで時間切れです。続きは次回。


[613暑いですね 投稿者:KUBO 投稿日:2008/07/30(Wed) 00:16

 本州の方では真夏日や猛暑日が続いているようですが、北海道もそれなりに暑いです(^^;) とはいっても、朝方や夕方に外に出ると結構涼しいですけどね。家の中にいると暑いので窓を開けると涼しすぎて窓を閉めるということを繰り返しております(^^;)
 また1ヶ月ほど空いてしまいましたが、お返事の続きを…

>嵐山さん(2/12・14)
 松平氏の系譜については家系研究協議会の掲示板でかなり情報を得られているようですね。私の方では申し訳ありませんが、それ以上の情報は持ち合わせておりません。

>新田さん(4/26)
 南部藩についてのご質問ですが、まず「1」の方については南部藩士の系図集『参考諸家系図』をまず見てみました。これは幕末期に編纂されたもので、南部氏一門282系・家士2491系の系図が収録されていますが、新田姓は八戸(遠野)南部氏の庶流で八戸(遠野)南部氏の家老を務めた新田氏しか見つけられませんでした。この新田氏は遠野の領主となった八戸南部氏を代々支えた家ですので下級武士というには当たらないと思います。
 ただしこの新田氏の庶流なのでしょうか、『遠野市史』に収録されている明治時代の士族名簿に新田姓の家臣(八戸南部氏の家臣なので盛岡藩主からすれば陪臣)の中に新田姓の者が、以下の通り何名かいます。
 新田小十郎(これは上記の家老を務めた新田氏の当主)、新田正巳、新田勇、新田祐助、新田正人、新田左太夫
「2」についてはよく知りません。申し訳ありませんが、『岩手県史』などの自治体史をご覧になった方が良いかもしれません。

>川原さん(5/11)
 おっしゃる通り浪岡を領した北畠氏の一族浪岡氏の庶流に「川原御所」を名乗る一族がいましたが、その子孫は溝城(のち水木)を称し、明治に入って再び北畠姓を称しているそうです。「写録宝夢巣」で調べてみると青森県の川原姓は八戸市・六戸町・十和田市・十和田湖町など旧南部藩領に多く分布しているようです。

 時間がなくなりましたので、今日はここまでとさせていただきます。


[612暑中見舞 投稿者:hiko 投稿日:2008/07/25(Fri) 10:59

まだ7月ですが非常に暑い日々が続いており、会社も行かずに家でゴロゴロしていたい気分ですが、みなさまはいかが過ごされておられるでしょうか。

私のホームページにおまけファイルをアップしてみました。
時間潰しにでも見て頂けると幸いです。

http://iwarehiko.web.fc2.com/index.html


[611はじめまして 投稿者:久保田 投稿日:2008/07/03(Thu) 02:20

久保田性です。
父が先祖のルーツを探っていましたが、記録が出ず分からないとのことで、自分も興味を持ちこちらにやってまいりました。

情報としては、幕末~維新の頃に私からの続柄で言うと、高祖父が九州から京都にやってきたとのことです。
家紋は丸無しの笹竜胆で武士だったと聞いております。
どなたか情報ください。


[610皆様、申し訳ありませんでした。 投稿者:KUBO 投稿日:2008/07/01(Tue) 00:18

>皆様
 大変、ご無沙汰しております(^^;) すっかりご無沙汰してしまいましたが、まずは無事3月末に引っ越しは終了いたしました。ですが、今回転勤も重なってしまいまして、余計忙しくなった上に、5月の連休明けに実家の母が脳梗塞で入院しまして、毎週末に病院通いしなければならなくなり、まったく時間的な余裕がなくなってしまいました。
 母の病状は一応安定していまして、来週にはリハビリ専門の病院に転院する予定になっていまして、今までの病院に比べると自宅からはかなり近くなるので、病院通いの負担も軽くなるかなあと思っております。
 書き込んでくださったことは、一応目は通していましたが、やっと少し余裕が出てきましたので、少しずつですがお返事していこうと思います。

>おおたさん(1/26)
 もうご覧になっていないかも知れませんが、『系図文献資料総覧』によりますと、榊原家の家臣については『新潟県史 資料編』第六巻に「寛政八年榊原氏役録帳(高田藩)」、第八巻に「榊原家分限帳(村上藩)」という資料が収録されているそうです。それから新潟県立新潟図書館に以下の資料があるそうです。

・榊原式部大輔家臣知行高附 『高田藩政史研究』(中村幸一編 風間書房 昭和42)第六巻収載
・遠江守様御代御家中分限帳(写 二〇丁) 高田榊原家の祖康勝の時代
・康勝様御代分限帳 『御当家記事雑綴』(写本三三丁)収載
・高田榊原家記録(写 一〇一冊) 「慶応四年榊原家武鑑」・「明治五年士族卒録高取調帳」を含む
・旧高田城榊原家藩士録高姓名明細図 高橋有吉編 大正2

>西田さん(2/7)
 日向の綾氏のことは聞いたことはありましたが、調べてみたのは今回が初めてでした。『系図研究の基礎知識』によりますと、「建武新政後、足利尊氏が細川小四郎義門を宮崎郡国富庄南加納に下向させ、義門が綾を領して綾氏を号したものという。義門の南加納の治所は細川政所と称されたが、間もなく肝付兼重に攻められて焼亡、綾郷龍之城が居所になった。義門の弟に義福があり、義門の子義遠は綾郷収納使になったというが、子孫は衰亡したようである。」とのことです。別書によると「細川義門は日向国国富庄加納に拠るが、のち義勝が綾八十町を領し、以後綾氏を名乗る。伊東氏の家臣となり、十六世紀の後半、天正期に綾新左衛門尉の名がみえる。その一流が松井氏。」だそうです。

 とここまで書いたところで時間がなくなりましたので、続きはまた次回ということでご勘弁下さい。


[609初めまして 投稿者:窪まる 投稿日:2008/06/27(Fri) 14:03  

窪田と申します。
主人の先祖が石川公に仕えていたと聞かされておりました。
残念な事に先祖に関する文献を保管していた寺院の火災により、資料が損失し、何もわからなくなっていました。
このサイトでご先祖様の名前がわかり驚きと期待が膨らみました。
主人のご先祖様は、いつごろか正確にわかりませんが、城下町から外れた今の住まいの地域に左遷なのかわかりませんが、住まいを移されております。その経緯等も謎で気になっております。何かご存知の方がいましたら、ご教示下さい。


[608初めまして 投稿者:大臣 投稿日:2008/05/23(Fri) 20:53

外祖父の家の苗字が野宮。
藤原北家徳大寺流。
徳大寺実久公の子に実元という方が居り、その方が家祖のようです。
花山院流野宮家とは、分かれた当初は非常に近い間柄だったようです。
家祖の実元は、初め豊臣氏に仕えていたようで、その子孫が岡山県木之子村に移り、武士として活躍していたようですが、その後、故あって民家となって地主として繁栄したそうです。
実元には、腹違いの妹がいます。その人が岡山藩の池田家家老の和田飛騨守に嫁いでおり、なにかしらの因縁があるように思われます。ちなみに、実元の母親は織田信長公の娘の月明院。
岡山の宗家の敷地には野宮神社と呼ばれる社があって、毎年、京都嵯峨野 野宮神社の宮司が祭祀に訪れ、村ぐるみでお祭りなど催すそうです。社家兼武家→社家兼地主へと変化していったようですね。
私の勝手な推測なのですが、徳大寺家から分かれ、武家となった後も京都の公卿とは何かしら関係があって、岡山の有力武家などとも関係があったように思われます。
何かご存知の方が居りましたらご教示下さい。


[607お久しぶりデス! 投稿者:shimoshimo 投稿日:2008/05/21(Wed) 15:00

以前投稿しました下国です。
全国で68件下國で6件とのお答え頂きましてありがとうございました。その上でものすごく気になってしまい除籍謄本取ってみました。5代前まで名前などが判明しまいたが北海道にはたどり着きませんでした・・・(江戸時代にまでさかのぼり家督相続により・・などの掲載があるのでやはり武士の末端だったのでしょうが)どこかで松前藩の方々とは繋がっている気はしますが・・??


[606突然おじゃまいたします。 投稿者:道東菊地 投稿日:2008/05/19(Mon) 23:27

初めまして、道東菊地と申します。

突然ですが、私は昨年より自分と嫁の家系の探求を開始しまして、これまでの経過をブログで公開させていただいております。
こちらにいらっしゃっている皆様は深い知識をお持ちのようですので、もしよろしければ雑文ですがご一読いただき、お力添えをいただければ・・・と誠に勝手ながら思っております。

http://pub.ne.jp/dotouttan/


[605北海道(松前)・川原姓 投稿者:川原 投稿日:2008/05/11(Sun) 02:06

今晩は川原です。
私もご先祖さまがどこから開拓の地・北海道へ辿り着いたか興味を持ち系図を調べています。
親族の話では江戸時代に津軽・南部地方の御百姓だったご先祖さまが漁師となって漁業することに成ったとの話ですが
過去帳を見ますと不思議と天保2年以前のご先祖さまの名前が途絶えてます。
過去に、北畠氏や浪岡氏に川原姓と名乗る方が
居たとも聞くのですが
どなたか御存知の方がいらっしゃいましたらご教示頂きたく
宜しくお願い致します。

ご参考までに
代々の母方と父方(養子)の姓は
西沢氏、佐々木氏、斉藤氏、成田氏(青森から)です。


[604私の先祖と南部藩について 投稿者:新田 投稿日:2008/04/26(Sat) 20:33

はじめまして。新田と申します。
先祖探しに興味があり、色々と調べているうちにこのサイトにたどり着きました。

新田家は口伝で「南部藩の下級武士だった」と伝わっています。それが北海道に「屯田兵として」渡り、そのまま北海道に昭和初期まで住んだと言うことでした(現在は移住)。この口伝は祖父が曾祖父(安政5年生まれ)から聞いた話らしいので、ホラでない限りは伝わり間違いはないはずです。ただし、それらを証明するような類のものは一切伝わっていません。親戚も北海道以前の話は余りよく知らないようです。なお、除籍謄本によれば最初の本籍地は岩手県岩手郡御堂村となっていました。
残念ながら直接資料を当たれる状況になく、ネットで色々調べているだけですが、以前南部藩の分限帳がネット(近世こもんじょ館)で公開されていたのを見たのですが、新田家はいくつかありましたが、先祖の名はありませんでした。

質問なのですが、
1. 南部藩の構成員に新田という姓は何家程あったのでしょうか。
2. 下級武士とは他藩で言う「郷士」のようなものだと思いますが、南部藩にもこの階級の武士は存在し、どの様な待遇だったのか。藩によっては武士でなく農民扱いで、壬申戸籍でも「平民」として記載されたところもあるようです。その場合、分限帳にも載っていない可能性があるのでしょうか。

過去ログを読むと南部藩に詳しい方が居られるようなので、不躾ですがよろしくお願いします。


[6032ヶ月ぶり...m(__)m 投稿者:KUBO 投稿日:2008/03/08(Sat) 23:40

>みなさま
 毎度のことながら申し訳ありませんm(__)m 2ヶ月も間を開けるつもりではなかったんですが...
 と言っている先から申し訳ありませんが、今月末に引っ越すことになりまして、またしばらくはここに顔を出すことはたぶんできないと思います。いま私の部屋にある本の3分の1ほどが、もう既にダンボール箱の中に入っておりまして、PCも邪魔なのでもう少ししたらしまおうかなどと思っております。
 ノートPCでこちらをのぞくことぐらいはできると思いますが、本格的に始動できるのは4月に入ってから(本の整理が長引くともっとずれ込むかも)になると思います。申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

 それではその前に一つお返事を...
>蝦夷城家臣さん
 ご無沙汰しております。角川の『姓氏家系大辞典』は私も期待していたんですが、残念ですね。宮城・愛知・鹿児島・山口など何冊かは所有しておりますが...
 それから、丸岡藩士についてのフォローありがとうございます(^^)

>KAZUさん
 はじめまして。丸岡藩士については私も研究不十分ですので、蝦夷城家臣さんにフォローしていただいて助かりました。『丸岡町史』は一応持っているのですが、あまり詳しいことは載っていなくて。
 丸岡つながりで今後ともよろしくお願いします。

>浦野与平次さん
 ご無沙汰しております。おっしゃる通り、1月は本当に雪が少なかったのですが、2月には何度か大雪が降りまして、除雪で死にそうになりました(^^;) 最近やっと排雪されて広くなりましたが、大雪のせいで道幅が狭くなり、途中で止まってお互い譲り合わないと走れないこともあり参りました。
 今年もよろしくお願いします。

>おおたさん、西田さん、嵐山さん
 上記のような事情で、資料を片付けている途中ですので、申し訳ありませんが落ち着いて余裕がありましたら返答させていただきます。

>久田昌平さん
 はじめまして。当サイトにおいで頂きありがとうございます。ところで「字がいちれつでないのでよみずらいです」というのはどういうことでしょうか?
 ちょっと意味がよくわからないのですが...?


[602字がよみずらい 投稿者:久田昌平 投稿日:2008/02/27(Wed) 06:11

内容はよいのですが字がいちれつでないのでよみずらいです。


[601松平親氏と氏親 投稿者:嵐山 投稿日:2008/02/14(Thu) 17:50

松平氏親という人がいるそうですが、

松平親氏と同一人ですか。

それとも別人ですか。

答えられる人は答えをお願いします。