第3章 堂上公家の系譜(2)
中御門(松木(まつき))~家格:羽林家、家領:341石余、家職:有職故実・雅楽(笙)、爵位:伯爵
〔坊門(ぼうもん) 高倉 白川 堀川〕
<庶流> 〔小野宮 三条 石山〕
中御門流は藤原道長の次男頼宗を祖とします。道長には妻が二人おり、左大臣源雅信(宇多源氏)の娘倫子所生の子たちは摂関となった頼通・教通、天皇妃等になった彰子(一条中宮)・妍子(三条皇后)・威子(後一条皇后)など勢威を振るったのに対し、左大臣源高明(醍醐源氏)の娘明子所生の子らは頼宗は右大臣まで昇ったものの倫子所生の子らに比べると昇進が遅かく、娘が入内することもありませんでした。
これは源雅信が現職大臣であったのに対し、源高明はかつての権力者とはいえすでに故人であり、安和の変で流罪となった人物であることから、倫子が嫡妻、明子が妾妻と見なされていたためでした。
そのため四男能信は道長の嫡男頼通と口論に及んで道長に叱責を受けたり、摂関家を外戚としない即位前の後三条天皇を庇護するなど、頼通・教通等とは対立する立場にいましたが、兄の次男頼宗は頼通等と協調し右大臣にまで昇進しました。
頼宗の長男兼頼は御小野宮右大臣実資の猶子となって小野宮(おののみや)を称しましたが、曾孫の代、平安時代末期に絶家となりました。次男俊家は右大臣まで昇り、この子孫が中御門流の嫡流中御門家となります。
四男能長は叔父能信の養子となり三条と称し。能信養女茂子が白河天皇の生母であったことから太政大臣が贈られましたが、孫の代で絶家となりました。能長の三男長忠の系も絶家となりました。五男能季の系は伊勢と称し、南北朝時代に及びましたが、景康を最後に絶家しました。
俊家の子からは、長男宗俊・四男基頼・五男宗通の系が続き、基頼の子孫から一条・持明院・園の諸家が分流しました。宗通は坊門と号して権大納言に昇り、白河院別当となり近臣として権勢を振るいました。(中関白道隆流にも坊門家があるが別流) この子孫は五流に別れ九条・坊門・高倉・白河家を出しますが、いずれも南北朝期までに絶家となりました。宗通の次男伊通(これみち)は天皇の心得を説いた意見書である『大槐秘抄(たいかいひしょう)』1の著者としても知られ、太政大臣にまで昇りました。伊通の娘呈子は摂関家の忠通の養女として入内し近衛天皇の中宮となりました。
中御門の称は宗俊の子宗忠の時からで、その邸中御門富小路邸に因みます。宗忠は叔母の全子(関白師実の北政所で忠実の生母)の後援等もあり急速な官位の昇進を遂げ、保延2年(1136)には右大臣となります。また源俊明・藤原通俊等に教えを受け有職家として名を高め、その日記『中右記(ちゅうゆうき)』2は後世故実典礼の典拠として重用されました。
宗忠の子宗能は内大臣に昇りましたが、その後は南北朝期までおおむね権中納言か参議にとどまり、宗宣の代には中御門の称を松木としています。これは勧修寺流にも同名の家があり、そちらの方が当時は朝廷で重きをなしていたため、繁雑を避けるための対処であったとされています。宗宣の次の宗継の代には260年ぶりに権大納言となり、その子宗綱は将軍足利義稙の信任を受け従一位准大臣となりました。その後は養子相続が続いたものの宗条の時に娘宗子が霊元天皇の後宮に入り東山天皇の生母となったため、宗条・その子宗顕は内大臣、宗顕の子宗長も准大臣に推任されました。

持明院~家格:羽林家、家領:200石、家職:有職故実・能書・神楽、爵位:子爵
石野(いわの)~家格:羽林家、新家、家禄:30石3人扶持、爵位:子爵
高野~家格:羽林家、新家、家領:150石、家職:有職故実・神楽、爵位:子爵
園~家格:羽林家、家領:186石余、家職:有職故実・雅楽(琵琶)、爵位:伯爵
壬生(みぶ)(葉川)~家格:羽林家、新家、家職:有職故実・雅楽(琵琶)、爵位:子爵→伯爵
石山~家格:羽林家、新家、家職:有職故実・能書、爵位:子爵
六角(波多)~家格:羽林家、新家、家禄:30石3人扶持、爵位:子爵
東園~家格:羽林家、新家、家領:180石、家職:有職故実・雅楽(琵琶)、爵位:子爵
〔一条〕
持明院流は藤原俊家の四男基頼を祖としています。持明院の称は基頼が邸内に持仏堂を建立し持明院と称したことに因みます。基頼の孫の代に通重・基家の二流に別れ、通重は一条と称しましたが早世し、通重の子能保は源義朝の娘で頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻としており、源頼朝が台頭すると妻の縁によって全幅の信頼を寄せられ権中納言まで異例の栄進を遂げ、京都守護も務めました。また九条良経(兼実の子)や西園寺公経に娘を嫁がせるなど朝廷・幕府双方に広い人脈を築きました。(ちなみに鎌倉幕府四代将軍九条頼経は能保と坊門姫の曾孫)その息子から三人の参議を輩出するなどしたが、源氏将軍の断絶後は後鳥羽上皇の近臣としての立場を強め、承久の乱では後鳥羽上皇の挙兵計画に加担した能保の子信能・尊長らが粛正され、嫡流筋の頼氏の系統が唯一残りましたが急速に衰退し、鎌倉時代末頃までに断絶しました。
早世した通重に代わって持明院家を継いだのは弟の基家で権中納言まで昇り、娘陳子(北白川院)が高倉天皇の子守貞親王(後高倉院)の妃となり後堀河天皇の生母となりました。後堀河天皇は譲位後、この持明院殿を居所とし、のち後深草上皇も持明院殿を居所としたため、この系統を持明院統と称しました。
基家の子で陳子の兄弟には、基宗・保家・基氏がいて、基宗の後が持明院家、基氏の後が園家となります。本来は基宗が嫡家ですが、基宗が従三位で終わったのに対し、保家は権中納言まで昇り、その子孫も繁栄したため嫡庶逆転することとなり、ことに基保流は代々権中納言に昇り持明院家の正嫡となりました。
しかし保家流は室町初期には絶家となり、基宗流のみが残りました。戦国時代の基春は書を能くし世尊寺流3の門人でしたが、世尊寺家が断絶したので世尊寺流を相承することになり、基春は持明院流の祖となりました。基春の孫基孝は嗣子が無く、正親町家より基久が養子となりましたが、基久とその子基従は大坂の陣で豊臣方に付き戦死を遂げたため、持明院家は断絶状態となりました。
そこで基孝の娘で後陽成天皇の典侍となった基子(長橋局)の願いにより、持明院家の庶流で江戸幕府高家を務めた大沢基宿の次男基定を養子として家名を存続させました。しかも基定は家例として初めて権大納言に昇り、以後それが持明院家の家格となりました。
持明院基定の三男保春は一家を起こし高野と称しました。保春は権大納言に昇り13年間に亘り武家伝奏を勤めその子保光も権大納言に昇りましたが、その後は養子が多くおおむね四位に留まりました。
また持明院基時の次男基顕は後西院により新家取立となり石野(いわの)と号し権中納言まで昇りました。石野家は以後基棟・基綱も権中納言まで昇りました。
一方、園家を起こした基氏は姉陳子の庇護もあって急速な昇進を遂げ20歳そこそこで正三位に昇りましたが、いかなる事情か24歳の時に出家してしまいました。しかし子基顕が家督を継ぎその子基藤が権中納言となりこれが園家の家例となりました。戦国時代の基有・基富・基国の三代は家領の支配のためしばしば加賀に下向していました。基任の娘光子は後水尾天皇の後宮に入り後光明天皇の母となり、また光子の弟基音の娘基子も後水尾天皇の後宮に入り霊元天皇の母となっており、二代の天皇の外戚として基音は権大納言に昇り,基子の兄基福(よし)は園家としては初例の准大臣に推任され、以後は権大納言が園家の家例となりました。
また基任の次男基教は東園家を、基音の四男基起は壬生(初め葉川)家を起こしました。東園基量(かず)は有職家として知られ、幕末の基敬(ゆき)は尊攘派の堂上公家として国事に奔走しました。壬生家も幕末の基修(おさ)は尊攘派の堂上として国事に奔走し八月十八日の政変4で三条実美等とともに長州へ下った七卿のひとりでした。
壬生家からは基起の次男師香(もろか)が石山家を、三男基維が六角(初め波多)家を起こしました。

冷泉(れいぜい)(上)~家格:羽林家、家領:300石、家職:和歌・有職故実、爵位:伯爵
藤谷(ふじたに・ふじがやつ)~家格:羽林家、新家、家領:200石、家職:和歌・有職故実、爵位:子爵
入江~家格:羽林家、新家、家禄:30石3人扶持、家職:和歌・有職故実、爵位:子爵
冷泉(下)~家格:羽林家、家領:150石、家職:和歌・有職故実、爵位:子爵
〔御子左(みこひだり) 大炊御門〕〔五条 京極〕
御子左流は藤原道長の六男権大納言長家を祖とします・母は醍醐天皇の皇子盛明親王の娘で、その縁から同親王の弟兼明親王の御子左の邸宅を譲り受けたことから、長家流を御子左流と称します。(兼明親王は醍醐天皇の御子で左大臣ということに因む。)
この流は、長家、その子忠家、孫俊忠と和歌を能くし、俊忠の子として幼少より和歌を学んで育ち、『千載和歌集』撰者を務めるなど歌道師範家の地位を確立したのが俊成でした。その子定家は『新古今和歌集』の撰者となり、多くの歌学書を著述し、『伊勢物語』『源氏物語』などの古典の書写注釈にも携わりました。またその子為家も『続後撰和歌集』『続古今和歌集』を撰進し、この三代の活躍により御子左流はその後長く歌壇に君臨しました。
為家の長男為氏は御子左流の嫡流二条家の祖となり、歌道家の後継者として成長しましたが、異母弟為相(すけ)(冷泉家)の成長とともに父との間柄が悪化し、為家の死後は二条家と冷泉家の対立抗争を生みました。また大覚寺統に用いられた二条家と持明院統に用いられた京極家との対立も生み、歌風だけでなく勅撰和歌集5の撰進を巡り争いました。
建武の新政後は二条家は冷遇されましたが、観応の擾乱以後は二条家の伝統的な歌風が尊重され、『新千載和歌集』など三勅撰集が二条家の一族によって撰進されましたが、その後力を弱め、南北朝末期には断絶しました。
為家の次男為教は京極家を起こしましたが、和歌の家としての京極派はその子為兼によって生まれました。保守的な二条派に対し実感を尊び斬新な歌風を生み出した京極派は当時の歌壇に新鮮味を生み出しましたが、二条派からの強い非難も浴びました。為兼は二度の配流で失脚し、その後継者と目されていた養子忠兼(正親町実明の子)も公蔭と名を改めて実家正親町家に戻ったため、京極家も断絶となりました。
二条家・京極家が断絶したため、御子左流は為家の四男為相を祖とする冷泉家が受け継ぐことになりました。為相は為家晩年の子(母は『十六夜日記』6で知られる阿仏尼)で所領・文書の相続で兄為氏(二条家)と対立し、二条家との訴訟に発展しました。また二条家と対立していた京極家との連携をもたらしました。
室町期には冷泉家が歌壇の中心となり、為尹は権大納言に昇り、これ以後冷泉家の極官となります。為尹は家領を嫡男為之と次男持為に譲り、以後冷泉家は二流に分かれます。いずれも冷泉を家名としますが、前者を上冷泉家、後者を下冷泉家と称しました。上冷泉家は戦国時代たびたび地方に下向しました。為満は天正13年(1585)勅勘を蒙り15年間在国しました。そのため為満は中山親綱の次男為親を養子に迎えましたが、慶長5年(1600)徳川家康の執奏により勅勘宥免となり京都に戻ったため、為親は冷泉家の別家(のち今城家)を起こし、為満の長男為頼が上冷泉家を継承し、次男為賢(かた)は藤谷(ふじたに)家を起こし、為賢の子為条の次男相尚(すけひさ)は入江家を起こしました。昭和天皇の侍従長として知られる入江相政(すけまさ)氏はその子孫になります。その後、為綱・為久・為村の努力によって歌壇における冷泉家の地位を不動のものとしました。明治維新以降も上冷泉家は京都に住み続け江戸期に立てられた住宅や御文庫と呼ばれる蔵を今に伝えています。
一方、下冷泉家の持為は将軍足利義持の偏諱を賜り後小松上皇からも目をかけられていましたが、将軍義教には忌避され、義教の死後歌壇に復帰し、和歌宗匠家としての地位を確固たるものにし、その子政為も代表的歌人として知られました。その後は所領のある播磨に在国することが多くなり、為純・為勝父子は羽柴秀吉の中国攻めに協力していたため、三木城主別所長治に攻められ戦死、為純の五男為将が跡を継ぎましたが後に出奔し下冷泉家は中絶しました。なお為純の三男は儒学者として知られる藤原惺窩(せいか)7で、正保4年(1647)に勅命により惺窩の子為景が下冷泉家を再興し、為景は後水尾院歌壇で活躍しました。しかしその後は歌壇における地位も徐々に低下し、上冷泉家との違いは歴然となりました。維新時の爵位も上冷泉家が伯爵、下冷泉家が子爵となりました。

日野~家格:名家、家領:1153石余、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
烏丸(からすまる)~家格:名家、家領:954石余、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
勘解由小路(かでのこうじ)~家格:名家、新家、家領:130石、爵位:子爵
裏松~家格:名家、新家、家領:130石、爵位:子爵
〔日野西 大福寺 四条 快楽院〕
柳原(やなぎわら)~家格:名家、家領:202石余、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
三室戸~家格:名家、新家、家領:130石、爵位:子爵
北小路~家格:名家、新家、家禄:30石3人扶持、爵位:子爵
〔武者小路 土御門 町(日野町)〕
広橋~家格:名家、家領:850石、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
日野西~家格:名家、新家、家領:200石、爵位:子爵
竹屋~家格:名家、家領:180石、爵位:子爵
外山~家格:名家、新家、家禄:30石3人扶持、爵位:子爵
豊岡~家格:名家、新家、家禄:30石3人扶持、爵位:子爵
日野流は藤原北家内麻呂の長男で後の摂家流の祖たる冬嗣の兄である真夏に始まります。内麻呂は長男真夏を平城上皇の側近に、次男冬嗣を嵯峨天皇の側近としましたが、薬子の変で平城に忠誠を尽くした真夏は左遷され、政権の中枢からは排除されました。真夏の孫家宗が宇治郡日野に法界寺を建立、その子孫資業が法界寺薬師堂を建立し、その門流の氏寺としたことから、家名も日野と名乗るようになり、代々儒学を家業としました。
鎌倉時代の俊光ははじめて大納言に昇り、日野家嫡流の地位を確立しました。鎌倉末期には後醍醐天皇の側近として活躍した資朝・俊基などを輩出しましたが、日野家嫡流は持明院統に仕え、やがて資康の妹業子が足利三代将軍義満の室になって以降は日野家から将軍家の御台所を出すのが通例となり11代将軍義澄の時まで続きました。特に八代将軍義政の正室富子の兄勝光は家格以上の左大臣まで昇進し、「押大臣(おしのおとど)」と呼ばれるほど強い政治力を振るいました。勝光の後は息政資が家督となりましたが27歳で没し、継嗣がなかったので生前の契約により徳大寺実淳の次男内光が遺跡を継ぎ、その子晴光の嗣子である晴資も下向していた駿河において父に先立って早世し、その後の晴光の死により日野家は、断絶することとなりました。
しかし晴光の妻で晴資の母である春日局は13代将軍義輝の乳母であり、彼女の尽力により同じ日野流の広橋家から輝資を養子として迎え日野家は復活しました。輝資は晩年出家し唯心院と号した後は徳川家康の側近となり采地1030石を賜りました。その後、堂上公家としての日野家は輝資の長男資勝が継ぎ、輝資の外孫で旗本花房正栄(旧宇喜多家家臣の花房正成三男)の長男である資栄(すけよし)が祖父の養子となり徳川家から与えられた1030石の領地を本家より分知され、旗本日野家が誕生しました。
江戸期は資勝・弘資・資愛(なる)・資宗が武家伝奏に補され公武間の周旋に尽くしました。また日野家は代々和歌で知られ著名な歌人を輩出するとともに、平安時代以降江戸時代まで多くの日記を残しています。
日野弘資の次男光顕は後西上皇に院中祗候して累進し一家を立て外山(とやま)家を起こしました。幕末維新期の光輔は愛宕(おたぎ)通旭(てる)らとともに新政府の政治方針は宜しからずとして反政府陰謀計画を図り、同志21名とともに捕縛され自刃を命ぜられましたが、息子の光曁(ため)は許されて後に子爵に叙せられました。
また日野弘資の三男有尚(ありひさ)も一家創立を許され豊岡家を起こしました。有尚の後は弟弘昌が継ぎその子資時が日野宗家を相続したため、外山光顕の末男光全が相続しました。
有力庶家の一つ広橋家は鎌倉初期日野家の姉小路兼光の五男頼資を祖として創立しました。室町時代の兼宣の頃に広橋の称号が定着し、権中納言を先途としました。兼綱の娘仲子が後光厳天皇の後宮に入り後円融天皇の生母となり、兼宣・綱光・守光も後花園天皇以下三代の乳母となったため准大臣に昇進し、兼秀は内大臣に昇りました。江戸期には内大臣・准大臣を輩出し、また武家伝奏も勤め朝政に重きを成しました。
広橋家の支流としては竹屋家・日野西家を輩出しています。竹屋家は仲光の次男兼俊を祖として室町中期に創立されましたが天文年間に中絶し、江戸時代初期に広橋総光の次男光長が再興相続しました。日野西家は広橋総光の四男総盛を祖とし、室町時代に断絶した家名の再興を意図して創立しましたが、同様に再興された竹屋家が旧家の格を保ったのに対し、こちらは旧家の扱いとはなりませんでした。竹屋・日野西両家とも本流広橋家から養子を迎え家督相続し庶流家をなしました。
広橋に次ぐ庶家としては鎌倉末期に日野俊光の四男資明を祖として創設された柳原家があります。資衡・資定の跡を庶流の町家から迎え家督を継がせ、江戸期には議奏・武家伝奏を輩出しました。幕末には光愛(なる)が公武合体派の公卿として活躍し、娘愛(なる)子は明治天皇の典侍となり大正天皇の生母となりました。江戸期には三室戸家・北小路家の庶家を起こしました。三室戸家は柳原資行の三男誠(のぶ)光を祖とし、北小路家は三室戸誠光の次男徳光を祖とします。
室町時代に日野資康の三男豊光を祖として創立されたのが烏丸家です。豊光は足利将軍家の縁戚でその恩寵のもと累進し、後小松上皇の院執権を務め、二代資任は足利義政の養育に努め、その成長後は寵臣となり権勢を振るいました。江戸初期の光広は細川幽斎より古今伝授を受け、それ以来古今伝授は家伝として代々秘伝されました。光広の次男資忠は新家を起こし勘解由小路(かでのこうじ)家と号し、光賢の次男資清が新家を起こし裏松家と号しました。

甘露寺(かんろじ)~家格:名家、家領:200石、家職:儒学・有職故実・雅楽(笛)、爵位:伯爵
堤(中川)~家格:名家、新家、家禄:30石3人扶持、爵位:子爵
〔松崎 吉田 海住山(うつやま) 中山 中御門 冷泉(れいぜい) 四条 五条 霊山(りょうぜん)〕
清閑寺~家格:名家、家領:180石、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
池尻(いけがみ)~家格:名家、新家、家禄50石3人扶持、爵位:子爵
梅小路~家格:名家、新家、家禄50石3人扶持、爵位:子爵
勧修寺~家格:名家、家領:708石、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
坊城(小川(こかわ)坊城)~家格:名家、家領:180石、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
芝山~家格:名家、新家、家領:100石、爵位:子爵
穂波(海住山(うつやま))~家格:名家、新家、家禄:30石3人扶持、爵位:子爵
〔吉田 町(勧修寺町) 御庄(みしょう)〕
中御門~家格:名家、家領:200石、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵→侯爵
岡崎~家格:名家、新家、家禄:30石3人扶持、爵位:子爵
万里小路~家格:名家、家領:390石余、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
葉室~家格:名家、家領:183石、家職:儒学・有職故実、爵位:伯爵
〔八条 粟田口 堀川 岩倉〕
<庶流> 〔壬生 五条〕
勧修寺(かじゅうじ)流は藤原冬嗣の六男良門の次男高藤を祖とします。高藤の娘胤子が入内し宇多天皇の女御となり醍醐天皇の生母となったことからこの系の繁栄は始まりました。勧修寺の称号も醍醐天皇が母后の追善のため胤子の兄弟である定方に命じて創建させ、のち勧修寺流の氏寺となった山科勧修寺8に由来しています。高藤は内大臣、その子定方は右大臣に昇りましたが、以後しばらく振るわず、為房が白河院の側近として仕え摂関家の家司も努め家勢を回復しました。ちなみに定方の曾孫宣孝は紫式部(高藤の兄弟利基の子孫)の夫として知られており、二人の娘は歌人として知られる大弐三位賢子です。為房の後は数流に別れましたが、為隆流・顕隆流以外は鎌倉時代までに中絶し、為隆の子孫は勧修寺流の嫡流となり、顕隆の子孫は葉室と称しました。
為隆の孫吉田経房は源頼朝の信任を得て関東申次の役割を果たし、鎌倉末期の吉田定房は後醍醐天皇の側近として活躍し、その子宗房も南朝にて右大臣を努め重きをなしましたが、定房の弟隆長は京都に残り、その子藤長が先祖為輔が建立した甘露寺を家号とし勧修寺流の嫡流となりました。その後は養子相続もありながら明治まで続きました。この家は、朝廷の実務を担当していたので、室町以前では為房・経房・定房ら、室町時代は親長・元長、江戸時代も方長・輔長・尚長・篤長など多くの当主が日記を残しており、勧修寺流は庶家も含め「日記の家」とも言われています。
江戸時代初期に甘露寺家からわかれたのが堤家で、甘露寺嗣長の子(あるいは弟とも)貞長を祖とします。当初は中川と号していましたが、その子輝長の時に堤と改めました。
また上記の吉田定房・隆長らの弟である資房を祖とするのが清閑寺家です。資房は参議に昇り、以後資定・家房・家俊・幸房・家幸と続きましたが、室町後期に断絶し、約100年後の慶長5年(1600)に同流中御門家の資胤の子共房によって再興となり、後陽成天皇から後西天皇までの長きに渡って朝廷に仕え、清閑寺家としては異例の内大臣まで昇りました。また共房の次男共孝からは池尻(いけがみ)家、三男定矩からは梅小路家が分かれました。
吉田為経の弟経俊からは勧修寺家が別れ、資通からは万里小路(までのこうじ)家が分かれました。経俊の跡は俊定・定資と坊城と称しましたが、その跡は次男経顕が継ぎ光厳院の側近となり内大臣に昇り勧修寺と号しました。室町期から戦国期にかけて勧修寺家から2名の国母(教秀の娘藤子:後奈良生母、晴右(はれみぎ)の娘晴子:後陽成生母)を出したことから勧修寺家が勧修寺流の嫡流のごとくみられたこともありました。戦国期から江戸期にかけて、教秀・晴右が贈左大臣、尹豊が贈右大臣、晴(はれ)豊・光豊が贈内大臣となり、武家伝奏も多く輩出し勧修寺家の最盛期を呈しました。
勧修寺経広の次男経尚を祖とするのが穂波家です。経尚は初め海住山(うつやま)と号しました。海住山とは平安末期勧修寺流の祖為隆の孫九条光長の子で海住山寺9二世となった長房(覚真)が号したもので、室町後期に断絶していました。しかし経尚は寛文年間に穂波と改め後に権中納言まで昇りました。
勧修寺光豊の猶子宣豊を祖とするのが芝山家です。宣豊は光豊の弟阿部致(おき)康の子で、父致康は徳川家康に仕えて武士となり大坂城代阿部正次の猶子となって阿部右京と称しました。宣豊は伯父光豊の猶子となって一家を創立し権大納言まで昇りました。芝山は勧修寺家の祖経顕が当初用いたものでした。
勧修寺経顕の兄俊実からは坊城家が分かれ、その後代々継承されましたが、室町中期に俊顕に子がなく勧修寺家から俊名を養子に迎えますが再び継嗣がなく一旦断絶となりました。その後60年ほどして再び勧修寺家から俊房(俊昌)を迎えて再興し以後明治まで続きました。
勧修寺・坊城家の祖坊城経俊の四男経継を祖とするのが中御門家です。孫の宣明は南朝・北朝の両朝に仕えますが、子がなく従弟の宣方が家督を継ぎました。室町中期の宣胤は学識豊かで応仁の乱による朝儀の荒廃を憂いその復興を志し、後進の指導にも当たりました。彼の娘が駿河の今川氏親に嫁ぎ、氏輝・義元の母となった寿桂尼です。寿桂尼の兄が宣秀で、彼のまとめた『宣秀卿御教書案』は当時の朝廷の政務の実態を知る貴重な史料となっています。幕末維新期の経之は義兄岩倉具視とともに国事に奔走し、討幕の密勅降下等に尽力し、王政復古後は議定・会計事務総督・造幣局掛等を歴任しました。
江戸初期に中御門家から分かれたのが岡崎家です。岡崎家は中御門尚良の次男宣持を祖とし、権大納言を先途としました。
吉田為経(甘露寺)・坊城経俊(勧修寺)の弟資通を祖とするのが万里小路(までのこうじ)家です。資通の子宣房は後醍醐天皇の親政下で重用され、吉田定房・北畠親房とともに「後三房」10と呼ばれました。宣房の子藤房・季房は後醍醐天皇の近臣として活躍し、元弘の変の際には常陸・下総に配流となりました。藤房は建武の新政府に出仕しましたが出家したため、季房の子仲房が家督を継ぎ、北朝に仕えました。仲房の孫時房は内大臣に昇り、その子冬房も准大臣に昇進しましたが、子がなく甘露寺家から春房を養子に迎えますが、にわかに出奔出家してしまい、一族の協議の結果勧修寺家から賢房を養子に迎えました。賢房は事件を起こし一時勅勘を蒙りましたが、六年後に勅免を得、その後賢房の娘栄子(正親町生母)・秀房の娘房子(陽光院誠仁親王生母)と二代にわたり天皇の外祖父となり、嗣房・時房・秀房・惟房が内大臣、仲房・冬房が准大臣となり、武家伝奏・議奏も輩出し、家運は隆盛を極めました。幕末の正房は条約勅許と将軍継嗣問題に奔走し、博房は尊攘派公家として活動し、通房は戊辰戦争で大総督参謀を務めるなど代々活躍しました。
最後に坊城参議為房の次男顕隆を祖とする葉室家です。顕隆は父為房より家嫡とされ兄為隆より官位昇進が早く権中納言まで昇りました。顕隆は白河法皇の近臣として信任を得、「夜の関白」と称されるほどの権勢を誇りました。しかし顕隆の死後は勧修寺家伝来の所領や家伝の文書類を多く伝領した為隆の流れが嫡流となっていきました。顕隆の孫光頼は平氏政権樹立に尽力し、光頼には光雅・宗頼の二子がいましたが、光雅の系統は南北朝時代頃に断絶し、宗頼流は頼親が伏見院政の執権を勤め、光忠は将軍足利義材に寵用されるも、明応の政変で殺害されました。その曾孫定藤が天正8年(1580)に没すると養子相続が続きましたが、教忠・頼孝・頼要は従一位に昇り、頼胤は准大臣に昇り武家伝奏に補されました。


- 大槐秘抄(たいかいひしょう)
~平安時代中期の政治意見書で太政大臣藤原伊通の著。応保2年(1062) 頃完成し、二条天皇に提出したもので,かな書き。院政時代で朝廷の儀式その他がゆるみがちであったため,天皇の心構え,臣下に対する態度,政治への積極的姿勢,日常生活のあり方など二十数条を説いている。 ↩︎ - 中右記(ちゅうゆうき)
~藤原宗忠が寛治元年(1087)から保延4年(1138)まで書いた日記で、宗忠は『愚林』と名付けたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれた。宗忠は朝儀・政務によく通じ、弁官・納言から大臣に至ったので、当時の政治社会情勢や有職故実、人物像を知る上できわめて有用で、院政初期の基本史料となっている。 ↩︎ - 世尊寺流(せそんじりゅう)
~平安時代の歌人で能書家として著名であった藤原行成を始祖とする書の流派。世尊寺は藤原行成が完成した寺の名からきており、代々朝廷の書役に従ったため和様の正統の書として長く後代まで続いた。しかし,権威があったのは鎌倉時代までで、室町時代の行季のときに家系は絶えたため、世尊寺流に代って持明院流が朝廷の書役に奉仕した。 ↩︎ - 八月十八日の政変
~幕末の公武合体派によるクーデター。薩摩,長州両藩は,朝廷を擁して自藩の権力拡大を競っていたが、薩摩藩が幕府と協力して公武合体政策を推進しようとしたのに対し、長州藩は在京の尊攘派志士たちと結んで攘夷親征の政策を推進し、文久3(1863)年8月28日を期し攘夷親征が挙行されることとなった。これをみた薩摩藩は、京都守護職松平容保や朝廷内佐幕派公卿と結んで8月18日兵力をもって御所を包囲し、長州藩や尊王攘夷派公卿を追放した。その結果、攘夷親征は中止され、公武合体派の勢力が強くなった。 ↩︎ - 勅撰(ちょくせん)和歌集
~天皇や上皇の勅宣によって編纂された公的な歌集。『古今和歌集』から『新続古今和歌集』までの二十一代集をさす。和歌が宮廷文学の主流を占めるに伴って、勅撰漢詩集のあとをうけて現れ、平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んであったが、次第に衰退し、室町時代に入って跡が絶えた。四季や恋の歌を中心に和歌史の動向の指標を示すものとして文学史的意義はきわめて大きく、和歌に対する文芸意識が高まった『後拾遺和歌集』の頃から勅撰集に対する論難書などもみられるようになり、和歌の革新に貢献した。 ↩︎ - 十六夜日記(いざよいにっき))
~鎌倉中期の日記体の紀行文で、阿仏尼作。1280年ごろ成立か。夫藤原為家の没後、為家の嫡子為氏(二条家祖)と実子為相(冷泉家祖)との間に遺産相続争いが起こり、訴訟のため阿仏尼は京都から鎌倉に下る。その道中と前後を記す。作中に100首以上の和歌を含む。書名は後世に付けられたもので、旅立ちが10月の16日であったことによる。 ↩︎ - 藤原惺窩(ふじわらせいか)
~江戸初期の儒者。名は粛。字は斂夫。下冷泉家の出身で藤原定家11世の孫。近世儒学の祖といわれる。初め仏門に入ったが還俗して朱子学を究め、朝鮮の儒学者姜沆と親交を持ち、儒学をもって家を成した。徳川家康に重んぜられ、民間の大儒として、門人に松永尺五、林羅山、石川丈山らの人材を出した。 ↩︎ - 勧修寺(かじゅうじ)
~京都市山科区にある真言宗山階派の大本山の寺院。醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子(内大臣高藤の女)の追善のため、胤子の祖父に当たる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改め、胤子の同母兄弟の藤原定方に命じて造立させた。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)に応仁の乱の大火で焼失して衰退したが、江戸時代に徳川氏と皇室の援助で復興した。 ↩︎ - 海住山寺(かいじゅうせんじ)
~京都市木津川市にある真言宗智山派の寺院。寺伝では天平7年(735)聖武天皇の勅願により良弁(奈良東大寺の初代別当)を開山として藤尾山観音寺という名前で開創したという。その後、保延3年(1137)に全山焼失し、70年余の間再建されなかったが、承元2年(1208)貞慶によって中興され、観音寺から海住山寺に改められた。貞慶の後は覚真(勧修寺流・藤原長房)が継ぎ、室町時代には塔頭58坊を数えたが、豊臣秀吉の太閤検地にて痛手を受け、現在の本堂を中心に整備統一された。 ↩︎ - 後三房
~鎌倉末期から南北朝にかけて後宇多天皇や後醍醐天皇の側近として活躍した北畠親房・万里小路宣房・吉田定房の3人を指し、平安時代の白河天皇に仕えた三人の賢臣(藤原伊房・大江匡房・藤原為房)が(前の)三房と称されたことにちなんで命名された。この三人は元々後宇多天皇に仕え、後宇多が重きを置いていた訴訟関係において重用された。後醍醐に対しては常に彼のやり方に賛同していたわけではなく、批判や諌言を加えていた。しかし諌言を許し耳を傾ける後醍醐に三房を忠誠を誓い、親房と定房は南朝の一員として後醍醐を支えていた。(宣房は建武の乱中に出家し、以後の動向は不明) ↩︎
