第3章 堂上公家の系譜(1)
明治維新時に堂上公家は138家ありましたが、そのうち藤原氏は96家を数え堂上公家全体の7割を占め、大臣就任資格を持つ上級公卿17家系(摂家・清華家・大臣家)のうち14家系を藤原氏が占めました。しかもそのほとんどが藤原北家の出で、藤原北家がいかに勢力を誇ったかがうかがえます。
藤原氏の遠祖は藤原鎌足で、藤原の称は天智天皇8年(669)中臣鎌足が死の直前にその功績を称えられ藤原朝臣姓を与えられたことに始まります。称号の由来は、鎌足の旧居、大和国高市郡の地名に因みます。
鎌足以前の中臣氏は、天児屋根命を祖とし主に祭祀の事を掌っていました。鎌足の死後は鎌足の子・不比等(ふひと)だけでなく、それ以外の中臣氏も藤原氏へ改姓しましたが、文武天皇2年(698)の詔で藤原朝臣の姓は不比等が継承し、それ以外は神事に奉仕するにより本姓中臣に復すべしとされ、藤原氏と中臣氏の氏姓を明確に分化させ、以後の中臣氏は専ら神祇の道を掌り、後には大中臣氏へと改姓しました。
一方、不比等は「大宝律令」「養老律令」の編纂に関わるとともに、皇室との縁戚関係を深め、娘の宮子を文武天皇の夫人とし聖武天皇を生み、さらに宮子の妹安宿媛(やすかべひめ)(光明子、光明皇后)を聖武天皇の皇后として孝謙天皇をもうけ、二代の天皇の外戚となりました。
不比等の死後は廟堂の頂点に立ったのは皇親である長屋王(天武天皇の第一皇子高市(たけち)皇子の子)でしたが、藤原氏の陰謀事件と言われる「長屋王の変」によって妻子とともに自殺し、王の死後には不比等の四子、武智麿(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)はいずれも公卿に列して朝廷で重きをなし藤原四子体制が確立、それぞれ南家・北家・式家・京家の祖となりました。

1.高倉家(武智麿孫貞嗣の後) 高倉(のち藪と改め閑院家に属す。) 〔岡崎 桜町〕
2.桃園流(継縄の後) 〔桃園〕
3.牛屋流(是公の後) 〔牛屋〕
4.山科流(三守の後) 〔山科〕
南家の祖は不比等の長男武智麿で、参議になったのは弟の房前(北家)の方が早かったものの、弟に遅れること四年で参議を経ずに中納言に進み、左大臣まで昇進しました。
長屋王の死後は武智麿はじめ藤原四子が権力を握り、藤原氏の将来は順風満帆と思われた矢先、九州から入った天然痘が猛威を振るって都に襲来し、天平9年(737)にわずか四ヶ月の間に四兄弟が全て世を去り、それまで参議であった橘諸兄(葛城王、光明皇后の異父兄)が大納言→右大臣に進み、いつしか反藤原派の頂点に立ちました。
一方、武智麿の二男仲麻呂は叔母である光明皇后を後ろ盾として勢力を伸ばし、孝謙天皇の即位の日に参議から中納言を経ずに大納言へ昇進し政治の実権を握りました。それに対し橘諸兄の子奈良麻呂のもとに反藤原の氏族が集まり仲麻呂打倒に立ち上がりましたが、この計画は密告され失敗に終わり、関係者が一掃されただけでなく、仲麻呂の兄の右大臣豊成も息子がこの計画に荷担したとして左遷され、仲麻呂政権が確立することになりました。その後仲麻呂は藤原恵美朝臣押勝(ふじわらえみあそんおしかつ)の名を賜り、右大臣→大師(太政大臣)に昇り、息子三人も参議となるなどその権力は絶頂を迎えました。しかし光明皇太后の死によりその権力の基盤は崩され、孝謙上皇との対立を深め、最終的には仲麻呂一族は滅亡し、上皇が重祚して称徳天皇となりました。
仲麻呂の死後の南家は、兄の豊成が廟堂に復帰し右大臣となり、その子継縄(つぐただ)も右大臣となるなど豊成系・乙麿系から公卿を出しましたが、中納言乙叡(たかとし)(継縄の子)と大納言雄友(かつとも)(乙麿の孫)が伊予親王(桓武天皇の皇子)の事件1に連座して失脚して以降は豊成系と乙麿系は振るわなくなり、巨勢麿系が南家の主流となりました。
南家は公卿の数では藤原四家の中では北家に継ぎ二番手でしたが、北家とは比べものにならず、平安中期以降は文章道(もんじようどう)(漢詩文・中国史を研究する分野)に活路を見出し、文章博士・大内記・大学頭などを輩出しました。
巨勢麿系の大納言元方は、娘の祐姫を村上天皇の更衣(天皇の妃、女御の下位)に入れ生まれた第一皇子の広平親王に夢を託しましたが、北家の右大臣師輔の娘安子が生んだ第二皇子憲平親王(冷泉天皇)が皇太子となったことに失望し、悲しみのうちに他界しました。後に怨霊となって師輔や冷泉天皇、その子孫にまで祟ったと噂されました。彼の孫が、武勇に秀で伝説的の武人とされた保昌と傷害・強盗などの罪で逮捕された保輔兄弟です。
また公卿とはなっていないものの後白河上皇の代に絶大な勢力をもった藤原通憲(信西)も巨勢麿系の子孫です。また通憲(信西)の父の従兄弟・季範は母方より尾張国熱田神宮の大宮司職を継ぎ、彼の子孫がこれを世襲しました(季範の娘由良御前は源義朝の正室で頼朝の母)。また通憲の従兄弟の子・範季は後白河法皇の近臣となり、娘範子(重子、修明門院)が後鳥羽天皇の妃となって順徳天皇の母となり、範季の子孫は南家系唯一の堂上家・高倉家となりましたが、室町時代中期の範音の代で記録が途絶え絶家となったようです。
この家名を再興したのは、北家閑院流四辻家の季経の四男範久で参議に昇りました。その後、何代か養子が入っては中絶を繰り返していましたが、慶長5年(1600)範久と同じ四辻家出身の嗣良が高倉家を相続し、寛永5年(1628)には参議に昇り、ここに家名を藪と改め四辻家出身を以て属閑院流となりました。嗣良はその後権大納言まで昇り、嗣良の四男季定が寛永期に中園家を起こし、中園家の分家高丘家とともに明治を迎えました。なお藪家は昭和11年(1936)に家名を高倉家に復しています。
ちなみに乙麿系の為憲の子孫からは公家ではありませんが、工藤・伊東・二階堂・吉川・相良などの名門武家を輩出しています。

式家は不比等の三子・宇合(うまかい)を祖としますが、橘諸兄ら反藤原一派の拡大に反発して「藤原広嗣の乱」を起こしたのは宇合の長子・広嗣でした。広嗣は父をはじめ藤原氏の中心人物が病死したことで藤原氏の勢力が危機的状況となったことからその復権のため九州一円で兵を集めて乱を起こしたものの、結局広嗣は捕らえられ殺されました。
広嗣の弟良継(宿奈麻呂)は仲麻呂暗殺計画の咎で官位を剥奪されましたが、恵美押勝の乱の際には追討に功を挙げ、光仁天皇の擁立にも尽力し内大臣となりました。またもう一人の弟百川も光仁天皇・桓武天皇の擁立に大きな役割を果たし、式家の復権に貢献しました。百川の恩義を感じていた桓武天皇はその娘旅子(淳和天皇の母)を妃としました。
また百川の死後は甥の種継が式家を主導し、長岡京遷都の責任者に抜擢されたものの何者かに暗殺されてしまいました。種継の娘薬子は桓武の息子平城天皇に近侍し、兄の仲成とともに権勢を握りました。しかし太上天皇となった平城が平城京への還都を企てると仲成は殺され薬子も自殺、平城は出家し、いわゆる「薬子の変」は幕を閉じました。その後は百川の息子緒嗣が淳和・仁明朝に右大臣となったのを最後に次第に勢力を失い、北家が議政官を独占するようになりました。
これ以降は純友の乱の鎮定にあたった忠文(百川の子孫)、藤原基経の阿衡の紛議2に関わった佐世(種継の子孫)、『本朝文粋』などを編修した明衡(蔵下麻呂の子孫)等以外は目立った活躍もなく、平安中期からは文章博士を輩出するなど学問の家としての性格を濃くしていきました。鎌倉以降は長倫・基長・兼倫等数名の公卿を輩出しましたが、従三位となった兼俊が明徳元年(1390)に死去したのを最後に式家の公卿は絶え、堂上家を残すこともなく完全に没落しました。

京家は不比等の四子・麻呂を祖としますが、初期から弱体で、麻呂の子浜成が参議となったものの娘婿の氷上川継(ひかみのかわつぐ)(天武天皇の曾孫)の乱3に連座して流罪となると凋落へと向かい、孫の冬緒が大納言へと昇った以外は議政官を出すことはありませんでした。
しかし『令義解(りようのぎげ)』4撰者となった雄敏(浜成の孫)、琵琶の祖となった貞敏(雄敏の弟)、和歌の興風(浜成の曾孫)、和歌・舞楽の忠房(雄敏・貞敏の姪孫)など平安文化の興隆に関わった人物を輩出しました。また大継の娘河子は桓武天皇の後宮に入り仲野親王等5人の親王・内親王の母となりました。そして仲野親王の娘班子女王が光孝天皇の女御として定省親王(後の宇多天皇)を生んだことにより、京家の血統は女系で天皇家に入ることとなりました。

北家は不比等の次子・房前を祖としますが、養老元年(717年)不比等の四子のうち最初に議政官になったのは房前でした。これは右大臣である不比等に次いで議政官となったもので、一氏族から二人の議政官が出たのは律令成立後初めてのことでした。兄である武智麿が議政官となったのは不比等死後の養老5年(721年)であることから、不比等が政治的後継者として選んだのは次子の房前であったと思われます。武智麿がその後左大臣まで昇進していく一方、房前は元明・元正両天皇の厚い信頼を得て、内臣(うちつおみ)5に任じられました。
天然痘の大流行で藤原四子で最初に犠牲になったのは房前でした。(死後に左大臣追贈)房前の死後は、次子の永手が北家の中心となり、恵美押勝の乱後は大納言から左大臣にまで昇り、光仁天皇の擁立にも関わりました。永手の死後は弟の魚名が内臣から左大臣まで昇ったものの翌年には太宰府に左遷され、北家の精力は減退しました。
平城天皇の代には内麻呂が右大臣にまで昇り、大同2年(807)の伊予親王の変で南家の勢力が後退すると、式家と北家で議政官を独占するまでになりました。内麻呂の長子真夏は平城上皇の側近に、次子冬嗣は嵯峨天皇の側近として最初の蔵人頭に補されましたが、薬子の変後、平城に忠義を尽くした真夏は左遷され、また式家が勢力を減退させたことで北家が急速に勢力を伸張させました。
右大臣となった内麻呂・園人が死去すると冬嗣が廟堂の頂点に立ち、弘仁12年(821)には右大臣、その4年後には半世紀近く空席となっていた左大臣に昇り、娘順子をのちの仁明天皇の妃とし、そこから道康親王(後の文徳天皇)が生まれており、外戚の地位確保にも努めています。
冬嗣の次男良房は父の路線を受け継ぎ、嵯峨皇女の潔姫(嵯峨源氏)と結婚して賜姓源氏との結びつきを強めるとともに、娘の明子(あきらけいこ)を皇太子となった道康親王に嫁がせその間に生まれた惟仁親王を文徳即位の際に生後八ヶ月で皇太子とし、太政大臣そして人臣初の摂政となり、その後千年にわたり藤原北家による摂関の独占が始まります。良房の後継者となったのは兄長良(ながら)の三男基経で、宇多天皇即位の際には関白となり政権を掌握しました。
基経の死後、宇多天皇は親政を目指して基経の嫡男時平と菅原道真の二人の上に立ち、醍醐天皇も摂政関白を置かず、時平・道真を左大臣・右大臣として政務に当たらせました。しかし寒門出身の道真の大臣就任は公卿たちの反発を買い、二年後には太宰権帥に左遷され、時平が国政を主導しました。しかし時平は若くして死去すると、弟忠平が廟堂を掌握し醍醐の治世を補佐しました。醍醐の死で朱雀天皇が即位すると忠平が摂政となり、以後一時期を除いて天皇幼少時に摂政、成人後に関白が必ず置かれるようになり摂関政治の時代が始まりました。忠平が摂関として君臨できたのは、朱雀・村上両天皇の生母である妹穏子の陰の力があったからこそで、藤原摂関家の発展を支えたのは女性の力でした。
忠平の死後、村上天皇は17年間摂関を置かず親政の形を取りましたが、村上天皇死後は忠平の嫡男実頼が関白となり、安和の変で醍醐源氏の左大臣源高明が失脚すると藤原氏に対抗する氏族はなくなり、以降は同族間の争いへと移っていくことになります。
実頼以降は、伊尹(これただ・これまさ)・兼通・頼忠・兼家・道隆・道兼・道長と藤原氏の摂関が続きますが、天皇の外戚となることができなかった実頼流は力を失い、実頼の弟師輔の子孫が北家の主流となり、病死した伊尹・兼通・道隆・道兼流も主流をはずれ、道長流が摂関家嫡流となりました。
道長は兼家の五男(または四男)で、道隆・道兼という有力な兄がいたため目立った存在ではありませんでしたが、兄二人が相次いでなくなり、道隆の嫡男伊周(これちか)との政争に勝って政権を掌握しました。また娘の彰子(一条中宮)・妍子(三条皇后)・威子(後一条中宮)らを天皇に嫁がせて、天皇と東宮の外祖父となり藤原摂関家の絶頂期を迎えました。

(1)近衛流
近衛(このえ)~家格:摂家、家領:2852石余、爵位:公爵
鷹司(たかつかさ)~家格:摂家、家領:1000石→後500石加増、爵位:公爵
〔粟田口 衣笠 藤井 北小路 室町 歓喜園院(かんぎおんいん) 近衛岡本家〕
〔松殿 大覚寺 中山〕
九条~家格:摂家、家領:2043石余→後1000石加増、爵位:公爵
二条~家格:摂家、家領:1708石余、爵位:公爵
一条~家格:摂家、家領:2044石余、爵位:公爵
醍醐(だいご)~家格:清華家、新家、家領:300石、家職:四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実、爵位:侯爵
富小路(とみのこうじ)~家格:半家、家領:200石、家職:歌俳詩文、爵位:子爵
〔月輪(つきのわ) 高野 外山(とやま) 今小路 土佐一条〕
道長の嫡男頼通は父からの譲りで26歳で摂政となり、その後約半世紀の間摂関の地位にありました。ただ頼通は父のようには娘に恵まれず、養女に迎えた嫄子(敦康親王女、母が頼通の正室隆姫女王の妹)を後朱雀天皇の中宮に、やっと生まれた娘の寛子を後冷泉天皇の皇后としたもののどちらからも皇子は生まれず、外孫を天皇とするという望みは果たせませんでした。頼通は男子にも恵まれず、正室隆姫女王の弟源師房(村上天皇の孫)を養子として右大臣にまで進ませましたが、その後実子通房(早逝)、師実が生まれ、師実が嫡子となりました。なお師房の子孫は村上源氏を称し、多くの公卿を輩出し藤原氏に次いで大いに栄えました
道長は生前摂関を頼通→弟教通→頼通の子と継承することを考えていたようで、頼通はその後師実への継承を約束させた上で教通に関白を譲り、宇治に隠退しました。しかし、教通は実子信長への継承を目論んでいましたが、その前に自らが死去し師実が関白を引き継ぎました。
頼通が関白を降りた翌年には摂関家と外戚関係にない後三条天皇が即位し、藤原北家は天皇外戚の地位から転落することになりました。後三条天皇は摂関家を押さえて政治を進め、その跡を第一皇子の貞仁(白河天皇)が継ぎましたが、後三条はその跡を白河の弟実仁・輔仁に継がせる意思を持ち、後三条・実仁の死後は、実子善仁(堀河天皇)に譲位して上皇となり、幼帝を後見するためにら政務を執り、これ以降天皇家の長たる上皇・法皇等が権力を握り院政が始まりました。
しかし、師実は養女賢子を白河天皇に嫁がせて善仁(堀河天皇)が生まれ、堀河天皇の外祖父として摂政となり、退位当初の白河は師実と協調しながら政務を進め、摂関政治時代と大きく変わることはありませんでしたました。師実の跡を継いで関白となった師通は剛毅な性格で、堀河天皇とともに積極的に政治に関わりましたが、38才の若さで世を去り、その後を継いだ嫡男の忠実は22才で大臣にもなっておらず内覧にはなったものの、道長以降初めて摂関が断絶しました。その1年半後には忠実を後見していた師実も死去して摂関家の力は貧弱なものとなり、経験不足の忠実では様々な懸案に対応しきれない事が多く、堀河は白河上皇を頼りとするようになり、その後政治は白河主導で進みました。堀河の没後5才の鳥羽天皇が即位すると、白河は自分が前面に立って天皇を支え、本格的に院政を開始しました。その頃には上皇に摂関の任免権も握られ、摂関・忠実は内裏には入れない院の代理として、その指示によって天皇を後見・補佐する存在となりました。これ以降天皇との外戚関係と関係なく摂関の継承が行われるようになり、摂関家による摂関職の世襲が固定化しました。
その後忠実は娘の入内の件で白河上皇の怒りを買って宇治に蟄居することになり、白河没後には関白となっていた嫡男の忠通と対立、次男の頼長に関白を譲るよう言って拒絶されると頼長を氏長者にするなど、忠実・頼長と忠通の対立は深まるばかりで、摂関家の弱体化が深まり、後の保元の乱の原因ともなりました。保元の乱で頼長が敗死した後、忠通は嫡男の基実に摂関を譲りますが、基実が24才で若死にすると、その妻盛子の父である平清盛が摂関家の財産を管理し、摂関家は平氏と一体化し、その支配下に置かれることになります。基実の死後は弟の基房が摂関職を継承しましたが、ほとんどの財産を継承できず、平氏と対立を深め後白河に接近していきました。しかし清盛が後白河を幽閉すると基房は流罪となり、基実の嫡男基通が20才で摂関を引き継ぎました。ただ基通はそれ以前は公卿としての官職を経験しておらず、しかも父基実が死去した時は7才で、それ以降政務や儀式の教育を受けてこず何も分からない状態で関白となってしまいました。そこで基通の叔父で基実・基房の弟兼実が基通を指導・後見することとなりました。兼実は、兄基房について作法を習い、基房のもとで朝廷運営を支えてきたので、彼以上に政務の経験がある者はいませんでした。そこで高倉天皇も基通よりも兼実を頼るようになり、事実上の関白としての役割を担うようになりました。
基通は平清盛の娘・完子と結婚しており、平氏の操り人形であることに代わりはありませんでした。それは清盛の没後、その三男宗盛が平氏の総帥となっても変わらず、平氏一門が摂関を通して朝廷を動かしていました。しかし木曽義仲が上洛すると基通は平氏の都落ちから離脱して後白河に接近し、摂政の地位を保つこととなりました。ところが西国に下った安徳天皇の後継を巡って後白河と対立した義仲は後白河を幽閉し院政を停止しました。
その義仲に接近したのが没落していた基房でした。彼は娘を義仲の正室とし、12歳の嫡男師家を摂政とし基通から摂関家の財産を全て奪い積年の恨みを果たしました。しかし源頼朝が弟義経を代官として軍勢を上洛させると、義仲が義経に討たれると基房・義仲政権は崩壊し師家はわずか60日で摂政の地位から追われました。そして代わって基通が再び摂政となったものの、相変わらず政務には慣れず、頼朝の推挙により兼実が内覧、さらに摂政となりました。この頃になると、武家の支持を得たものが摂関家の家督となるようになり、しだいに武家勢力が摂関の人事に介入し、影響力を及ぼすようになり、もはや摂関家は政治の中心から離れていました。
兼実は娘任子を入内させ後鳥羽の中宮とし、建久3年(1192)に後白河が死去すると、国政の主導権を握り、頼朝を征夷大将軍に任じ幕府との連携のもと朝廷改革を進めました。しかし皇子誕生を期待された任子が皇女を産むと兼実の求心力は凋落し、娘大姫の入内を目論んでいた頼朝は後白河近臣の源通親(村上源氏)に接近し、建久7年(1196)兼実は関白を解任され基通が関白に返り咲きました。しかし基通は相変わらず無能で、国事はほとんど通親に任せ、通親の養女在子が産んだ土御門が即位すると天皇の外祖父となり国事を完全に掌握しました。
建仁2年(1202)通親が死去すると、兼実の嫡男良経が内覧、そして摂政となり、、翌年には基通の嫡男家実が筆頭公卿として良経のもとで政務を行うようになり、これまで摂関家の正統を近衛・九条・松殿の三家が争っていたが、ここに近衛・九条両家の分立が固定化することになりました。一方、基房の松殿家は、摂関家の有職故実の担い手であった基房が没すると、師家のあと摂関を出すことなく後に断絶しています。

元久3年(1206)良経が急死すると、近衛家実が摂政となりましたが、良経の娘立子が後鳥羽の子守成の妃となり、守成が即位して順徳天皇となり、さらに立子が産んだ懐成(後の仲恭天皇)が皇太子となると九条家は天皇家の外戚となり、良経の子道家が摂政となりました。また道家の母は一条能保の娘で頼朝の姪であり、その頼朝との血縁から道家の三男三寅(後の頼経)が鎌倉幕府四代将軍となり、道家は天皇の外戚であるとともに鎌倉殿の父となり公武をつなぐ役割を果たすこととなった。
しかし承久の乱で仲恭天皇が廃位させられると道家に代わって近衛家実が復任することになりました。だが家実は承久の乱後の京都の治安を回復させることができず強引な除目などにより反発を買い関白を解任され道家が復任しました。道家は娘竴子を後堀河天皇の中宮とし、竴子の産んだ皇子が四条天皇となると、道長以来の天皇外祖父となりました。しかし、後継者として関白を譲った長男・教実が26歳の若さで死去し、教実の子・忠家はまだ幼かったため、近衛家実の子・兼経を娘婿とし摂政を譲ってつなぎの後継者としました。こうして長年対立していた近衛流と九条流は和解し一体化を遂げました。そして兼経の後は道家の二男二条良実、ついで四男一条実経が関白となりましたが、四条天皇の急死により道家は天皇外祖父の地位を失い、また四条天皇の後継を巡って幕府と対立し、さらに執権北条氏と対立した前将軍の三男頼経が京都に送還させられると道家は失脚し(寛元の政変)、実経の摂政も解任させられました。
寛元の政変後、後任となったのは近衛兼経でした。兼経の嫡子基平が生まれたのは37歳と遅かったので、兼経の弟兼平が猶子として中継ぎの後継者として摂政となり、以後近衛流は二系統に別れ兼平の子孫は鷹司家と呼ばれるようになりました。
一方の九条流ですが、父道家と不仲だった二男二条良実は幕府と親密な関係を結び関白を務めましたが、それ以外の九条一門は道家失脚後勅勘を蒙りました。兄良実との良好な関係を結んだ四男一条実経は早く勅勘が解け、兄良実のあとを受けて関白となりましたが、九条道家の嫡孫忠家は後嵯峨院の死後にやっと摂関家として復活を遂げることができました。これによって摂関を輩出する五つの家系、いわゆる五摂家が確定しました。
摂家嫡流の近衛家は、鎌倉末期に家平流・経平流に分かれ、家平流の経忠は建武4年(1336)南朝方に出奔したので、従弟で経平流の基嗣が関白となりこちらが近衛家の正嫡となりました。戦国期の近衛家は足利将軍家との関係も深く、政家以降将軍から偏諱を賜るようになり(尚通・稙家・晴嗣)、稙家の妹と娘は将軍義晴室・義輝室となり日野家に代わって将軍家の外戚となりました。前久(さきひさ)(晴嗣)は上杉謙信と意気投合し越後に下向するなど信長・秀吉・家康とも深い関わりを持ち積極的に活動しています。その子信尹(のぶただ)(信基)は信長の加冠で元服し関白となりましたが嗣子がなく、妹で後陽成天皇女御の前子(さきこ)(中和門院)所生の信尋(のぶひろ)を養子としました。また近衛家の荘官だった島津氏とは深い繋がりを持ち、将軍家斉の御台所・寔子や家定の御台所・敬子(篤姫)は近衛家の養女として徳川将軍家に輿入れしました。江戸幕末の忠熙(ただひろ)は公武合体派の公家として知られています。近衛家からは粟田口・藤井・衣笠・北小路・室町などの庶流が生まれましたが、室町初期までに全て断絶しました。
鷹司家は近衛家の関白家実の四男兼平を祖とし、兄兼経のの譲りを受けて建長4年(1252)に摂政となりました。その後鎌倉・南北朝・室町時代を通して摂関を務め戦国時代の忠冬に至りましたが、天文15年(1546)に頓死し、天文21年(1552)には忠冬の父兼輔も没して鷹司家は断絶することになりました。その27年後、天正7年(1579)故鷹司忠冬の猶子として二条家より信房を迎え、織田信長の支援のもと鷹司家再興となりました。江戸中期には近衛・一条家から養子を迎え、輔平は皇族の閑院宮家から養子に入りました。幕末期の政通は関白在職36年に及び幕末政治にも大きく関わりました。

九条家は関白忠通の三男兼実を祖とし、兄基房の後を受けて31才で関白となりました。その後退任するも、源頼朝の支援で摂関に返り咲き、良経→道家と継承しました。道家は当時朝幕間で大きな力を有していた西園寺公経の娘婿となってその後見を得て承久3年(1221)に摂政となりました。承久の乱で一時隠退するも、三男頼経が鎌倉に下って征夷大将軍となると政界に復帰し、将軍の父・四条天皇の外祖父として権勢を振るいました。しかし四条天皇の皇嗣として順徳天皇の皇子を擁立しようとしたことで幕府の不審を蒙り、さらに将軍頼経・頼嗣の京都送還で権力を失いました。その間、次男良実が二条家、四男実経が一条家を起こし、九条・二条・一条の三家に分流することになり、室町時代になると足利将軍家から偏諱を賜るようになりました。(満教以降)明応5年(1496)には政基・尚経(ひさつね)父子が家司の唐橋在数を手討ちにするという事件を起こし勅勘を蒙っており、その後赦免されるものの政基は3年9ヶ月の間家領和泉国日根野荘に下って荘園支配に従事しています。その後江戸時代の九条家は若くして当主が没することが多く、四度も他の摂家から養子が入っています。江戸幕末期の尚忠(ひさただ)は佐幕派の公家として知られ、条約勅許・和宮降嫁など重要な政治課題に幕府に協力しています。九条家からは八条・外山・月輪などの庶流が出ていますが、室町期までに全て断絶しています。
二条家は摂政道家の次男良実を祖としますが、彼は父道家とは不和で外祖父西園寺公経の支援で関白にまで昇りました。道家の嫡男教実が26才で没すると道家は四男実経を後継者と目し、公経が没して良実が後援者を失うとさらに父子兄弟の不和が明らかとなり、実経が関白となりました。南北朝期には良基が計20年に亘り摂関の職にあり北朝の重鎮として大きな役割を果たしました。また良基は天皇の即位式において行う即位灌頂という儀式を五代の天皇へ伝授し、以後即位灌頂は二条家が行うことが慣例となりました。良基の孫道忠が前将軍義満の一字を申し請け満基と改め、室町時代は足利将軍家の偏諱を、江戸時代にも徳川将軍家の偏諱を受けるのが二条家の通例となりました。江戸幕末の斉敬(なりゆき)は公武合体派の公家として知られ、王政復古の大号令で廃止となる摂政の最後となりました。二条家の庶流としては今小路がありますが、戦国初期に断絶しています。
富小路家は二条家の傍流で関白道平の男とする道直を祖としますが、もともとは九条家の諸大夫で戦国時代に俊通が累進して従三位となり、その後資直も従三位となって堂上家に列しました。しかし、『尊卑分脈』に道平の子に道直はなく、俊通ははじめ一条家諸大夫で醍醐源氏の源康俊の猶子(註記に「実浄土寺門跡侍法師石見法橋ーー子」とあり)となって、後に藤原氏に改姓し系図を新作して二条家の庶流と称したとのことです。当時、二条家は持通・政嗣・尚基と三代の当主を相次いで亡くし、富小路俊通らが上記の策謀を行ったと思われる文亀・永正の頃は僅か七歳の若君(後の尹房)と祖母しかおらず落魄していた時期であったので、由緒の歪曲にも抗議し拒否する実力が無かったものと思われます。そして庶流と誇示こそすれ、富小路家から嫡家二条家への助成や奉仕などはありませんでした。これに対して堂上諸家からの反発は強く、何度も繰り返された富小路父子の希望は挫折させられましたが、彼らの後ろ盾である九条家やその親族である三条西家の支援もあって、大永6年(1526)には資直は従三位に叙せられ、その後次第に堂上家として定着していきました。良直・政直は二位にまで昇り、江戸幕末期の敬直(ひろなお)は公武合体派の公家として天誅の対象ともされました。
一条家は摂政道家の四男実経を祖とし、長兄教実が若くして没し、次兄良実が父道家と不和なため、父の後継者と目されていました。そして父の譲りを受け関白となりますが、兄の将軍頼経の失脚とともに父道家が関東申次を罷免され失脚すると、実経も摂政を罷免されました。一条家は南北朝期に経通の後、二条家から経嗣を養嗣子として迎え、この子兼良は「日本無双の才人」とも評されるほど学識に優れた人物でした。応仁の乱後、兼良の子教房は次男房家を伴って家領の土佐中村荘に下向し、房家の子孫は土佐に留まり土佐一条家として大名化しました。しかし武家的な軍事行動を行いつつも公家としてあり続け、長宗我部氏に敗れ没落しました。一方、兼良は次男冬良を教房の養子として家督を継がせ、その後は土佐の房家の次男房通が継ぎ、その子兼冬、弟内基と継いだものの内基には子がなく、後陽成天皇の九男兼遐が内基の養嗣子となり昭良と改名しました。明治期には忠香(ただか)の娘美子(はるこ)が明治天皇の皇后(昭憲皇太后)となりました。
一条昭良の次男冬基は後水尾院の院近臣として取り立てられ、のち一家を起こして醍醐(だいご)家の祖となり清華家に列しました。幕末の頃、忠順(ただおさ)は国事に奔走し、明治維新時に参与職等を務めました。
ちなみに五摂家のうち近衛・鷹司・一条の三家は皇室または宮家から養子を迎えています。(なので戦前の首相近衛文麿は後陽成天皇の男系子孫ということになります。)

閑院流は九条大臣師輔の十一男で御堂関白道長の叔父閑院太政大臣公季を祖とします。公季は幼くして両親を亡くし、姉の中宮安子に宮中にて育てられ、皇子に等しい扱いを受けたと伝えられます。藤原伊周失脚後は内大臣となって道長政権を支え、道長の後に太政大臣となりました。
その子孫は閑院流と呼ばれ、西園寺・三条・徳大寺・今出川(菊亭)の四清華家、正親町三条(嵯峨)・三条西の二大臣家をはじめ25の堂上家(元南家の藪流を含めると29家)を出し、藤原北家の中でも摂家に次ぐ繁栄を誇りました。
公季の孫の三代公成の娘茂子は後三条天皇の皇太子時代の妃として貞仁親王(白河天皇)を生み、四代実季の娘苡子が堀河天皇の女御として宗仁親王(鳥羽天皇)を生み、五代公実の娘璋子(待賢門院)は鳥羽天皇の中宮として崇徳・後白河両天皇を生み、閑院流は天皇家の外戚となりました。公実の子の代に分かれた三男実行の三条家・四男通季の西園寺家・五男実能の徳大寺家の三家を嫡流とし、ともに大臣に昇る清華家となりました。閑院流の当主は「公」「実」を交互に諱の一字とする事が多く、「季」の字が使われる事も多くありました。
一般的には兄系で太政大臣まで昇った実行系の三条家を正嫡としますが、『尊卑分脈』では西園寺を正嫡としており父公実も通季を正嫡としていたこと、通季の方が先行昇進していたことから『公家事典』でも西園寺家を正嫡と扱っています。
西園寺~家格:清華家、家領:597石余、家職:四箇の大事・有職故実:雅楽(琵琶)、爵位:侯爵→公爵
〔閑院 加賀〕
〔大宮 京極 竹林院(ちくりんいん)〕
今出川(今出河・菊亭(きくてい))~家格:清華家、家領:1355石余、家職:四箇の大事・有職故実:雅楽(琵琶)、爵位:侯爵
大宮~家格:羽林家、新家、家領:130石、家職:有職故実、爵位:子爵
橋本~家格:羽林家、家領:200石、家職:有職故実・雅楽(笛)、爵位:伯爵
梅園~家格:羽林家、新家、家領:150石、家職:有職故実、爵位:子爵
清水谷(しみずだに)~家格:羽林家、家領:200石、家職:有職故実・能書・雅楽(笙)、爵位:伯爵
小倉(おぐら)~家格:羽林家、家領:150石、家職:有職故実、爵位:子爵
正親町(おおぎまち)~家格:羽林家、家領:352石余、家職:有職故実・雅楽(箏)、爵位:伯爵
裏辻~家格:羽林家、新家、家領:150石、家職:有職故実、爵位:子爵
〔山階(やましな) 洞院(とういん) 山本 冷泉(れいぜい)〕
四辻(よつつじ)~家格:羽林家、家領:200石、家職:有職故実・神楽:雅楽(和琴・箏)、爵位:伯爵
西四辻(にしのよつつじ)~家格:羽林家、新家、家禄:30石3人扶持、家職:有職故実・雅楽(箏)、爵位:子爵
〔室町〕
<属閑院家>(もと南家貞嗣流)
藪(やぶ)(もと高倉)~家格:羽林家、新家、家領:180石、家職:有職故実、爵位:子爵
中園~家格:羽林家、新家、家領:130石、家職:有職故実、爵位:子爵
高丘~家格:羽林家、新家、家禄30石3人扶持、家職:有職故実、爵位:子爵
園池~家格:羽林家、新家、家禄:30石3人扶持、家職:有職故実、爵位:子爵
通季の曾孫の公経は、洛北の北山に建立した寺院に因んで西園寺を称しました。彼は将軍源頼朝の姪全子(頼朝妹と一条能保の娘)との婚姻、そして娘掄子と摂関家九条道家との婚姻、さらに公経が外祖父として養育した頼経(道家と掄子の子)が将軍となったことで幕府と緊密な関係を築き、権勢を誇りました。その後は天皇家とも血縁関係を結び、持明院・大覚寺両統の外戚となり摂関家をしのぐ勢威を誇りました。しかし鎌倉幕府が滅亡するとその権威は失墜し昔日の権勢はなくなりました。江戸時代には養子が続き、幕末には同族の徳大寺家から公望が養子に入り、明治には侯爵となりましたが、二度総理大臣となった公望の勲功により公爵に昇り元老として重きをなしました。(ちなみに公望の父徳大寺公純(きんいと)は摂家鷹司家出身なので、閑院宮家の男系子孫となります。)
また西園寺家の庶流(公宗の弟公良?公俊?)が室町初期に所領のある伊予宇和郡(現在の愛媛県西予市周辺)に下向し、のちに戦国大名となっていますが、最終的には長宗我部元親・豊臣秀吉に降り没落しました。また江戸初期には西園寺公益の次男季光から大宮家が起こりました。
今出川家は西園寺実兼の四男兼季を祖とし、次兄公顕の嫡子となって今出川殿の殿邸を相続し今出川と号しました。また菊亭という西園寺家領の殿邸も伝領したため別号を菊亭とし、明治以降は菊亭と称しました。五代公行の後、息実富との不和で一時中絶しますが、永享6年(1434)実富の遺子教季により再興されました。教季の玄孫晴季は豊臣秀吉に関白任官を持ちかけるなど豊臣政権期に武家伝奏の筆頭として重きをなしました。
橋本家は西園寺公相(きんすけ)の四男実俊を祖とし、冷泉とも橋本とも称しました。実俊の娘は後醍醐天皇の後宮に入り、世良親王等の生母となり、一族からも南朝に仕えたものが出ています。六代公国は室町将軍義政の弟義視に加担して「准朝敵」とされ解官され中絶しますが、後に同じ閑院流の清水谷実久の息公夏が相続し再興となりました。公夏の息公松は実家清水谷家を相続していたため、その死後再び中絶し半世紀ほどを経て清水谷公松の息実勝が祖父の遺跡を相続し再興となったものの、天正16年(1588)が家人により殺害され中絶。一族実村により再興されたのはさらに30余年後の元和5年(1619)でした。幕末には実麗(さねあきら)の妹経子が仁孝天皇の後宮に入って和宮親子内親王の生母となりのち観行院と号しました。実麗の養子実梁(さねやな)は攘夷派の公家として活動し、戊辰戦争では鎮撫総督を務め、明治維新後も元老院議官などを務めました。また橋本家を再興した実村の弟実清からは梅園家が起こりました。

西園寺公経の次男実有を祖とする清水谷(しみずだに)家は当初一条家を名乗っていましたが、摂関家との重複を避けて改名しました。その後上記清水谷公松の後中絶していましたが、慶長6年(1601)に閑院流の阿野実顕の弟実任(さねとう)が相続再興しました。幕末の公考(きんなる)は戊辰戦争時に箱館裁判所総督・箱館府知事・開拓使次官などを歴任しました。
西園寺公経の三男実雄(さねかつ)を祖とする洞院家は、実雄の娘が亀山・後深草・伏見の3天皇の妃となり、後宇多・伏見・花園の3天皇の外祖父となったため権勢を誇り、歴代当主が大臣に昇るなど持明院・大覚寺両統に重んじられました。なかでも四代公賢は南北朝期随一の文化人として知られ、その孫の公定は『尊卑分脈(そんぴぶんみやく)』6、その孫満季は『本朝皇胤紹運録(ほんちようこういんじよううんろく)』7の編者としても知られます。しかし文明8年(1476)10代公数が出家し、文書記録も散逸して、家名も一時断絶しました。その後本家の西園寺家から養子を迎えて再興するもまもなく廃絶しました。
洞院実雄の次男公雄(きんお)からは小倉(おぐら)家、公守の次男実明からは正親町(おおぎまち)家、正親町季康の息季福からは裏辻家が出ました。

また西園寺公経の四男実藤からは四辻家が出ました。室町初期までは室町と号しましたが、季顕以後は将軍家を憚って四辻と号しました。季顕以後は二流に分かれますが、季経の一男公音が本流を継ぎ、その弟たちも他家を相続したため別流は断絶しました。公音の曾孫季満は勅勘を蒙って出奔したため、山科家を相続していた弟教遠が実家に復帰し季継と改めました。(ちなみに教遠に代わって山科家を継いだ弟が後に猪熊事件8を起こす猪熊教利です。)天明元年(1781)には庶流西四辻家が出ました。
季継の弟嗣良は南家高倉家を再興し、後に家名を藪と改め四辻家出身を以て属閑院流となりました。

三条(転法輪)~家格:清華家、家領:469石余、家職:四箇の大事・有職故実・雅楽(笛)・装束、爵位:公爵
姉小路(あねがこうじ)~家格:羽林家、家領:200石、家職:有職故実、爵位:伯爵
風早(かざはや)~家格:羽林家、新家、家禄:30石3人扶持、家職:有職故実、爵位:子爵
正親町(おおぎまち)三条(明治以降は嵯峨(さが))~家格:大臣家、家領:200石、家職:四箇の大事・有職故実、爵位:伯爵→侯爵
花園~家格:羽林家、新家、家領:150石、家職:有職故実、爵位:子爵
三条西~家格:大臣家、家領:502石余、家職:四箇の大事・有職故実・和歌、爵位:伯爵
〔九条〕〔八条〕
押小路(おしこうじ)~家格:羽林家、新家、家領:130石、家職:有職故実、爵位:子爵
武者小路(むしゃのこうじ)~家格:羽林家、新家、家領:130石、家職:有職故実・和歌、爵位:子爵
高松~家格:羽林家、新家、家禄:30石3人扶持、家職:有職故実・和歌、爵位:子爵
滋野井(しげのい)~家格:羽林家、家領:180石、家職:有職故実・神楽、爵位:伯爵
河鰭(かわばた)~家格:羽林家、家領:150石、家職:有職故実、爵位:子爵
阿野~家格:羽林家、家領:478石余、家職:有職故実、爵位:子爵
山本~家格:羽林家、新家、家領:150石、家職:有職故実、爵位:子爵
三条家は藤原公実の三男八条太政大臣実行を祖とし、実行の邸宅に因み八条とも三条とも号しました。嫡流の他三代実房の三男公氏の子孫も三条を号したので、嫡流を転法輪(てんぽうりん、てんほり、てほりとも)三条、公氏流を正親町(おおぎまち)三条(明治以降嵯峨(さが))と読んで区別しました。
三代実房は『愚昧記(ぐまいき)』9の著者として知られ、公事・政理に通ずる公卿として重んぜられ、出家後も公事の師として仰がれていました。後白河女御琮子(公教女)・後堀河皇后有子(公房女)・後円融妃厳子(公忠女、後小松母)など天皇家との繋がりも持ちましたが、戦国期に入り天文20年(1551)に周防国において大内義隆が陶隆房(晴賢)に討たれた際に公頼も巻き込まれて殺害され、養子実教も同23年(1554)に早世したため、三条家も一旦中絶しました。のちに天正3年(1575)、一族三条西家から実綱が養子に入り再興しましたが、実綱が20才で早世したため、実家より甥の公広が養子に入り継承しました。幕末には実万(さねつむ)・実美(さねとみ)父子が国事に奔走し、実美は維新の元勲として明治新政府の太政大臣を務め公爵を授けられました。(通常、旧清華家は侯爵)
姉小路(あねがこうじ)家は三条実房の次男公宣を祖とし、鎌倉初期に成立しましたが、実次の後は詳細が不明で室町初期の実康(実広)の代には中絶したようです。一族阿野家から公景が入って家名が再興されたのは江戸初期で、二百数十年ぶりのことでした。幕末の公知は尊攘派の公家として活躍し三条実美と共に江戸に下り、攘夷厳命の勅書を将軍家茂に伝えたり、国事御用掛・国事参政を務めましたが、文久3年(1863)刺客に襲われ横死しました。また公景の息実種からは風早(かざはや)家が起こりました。

三条公教の次男実国は滋野井(しげのい)家の祖となり、その子から河鰭家・阿野家が起こりました。南北朝期の当主実勝は南朝に属し、文和元年(1352)足利義詮軍と戦って戦死し、一時中絶しました。その後文安3年(1446)に一族阿野家から実益が養子に入り再興しました。その後も一度の中絶を経て再興されました。江戸初期の公澄、孫の公麗(きんかず)は有職故実家として知られ、多くの著作を残しています。
阿野家は滋野井家の庶流で、実国の猶子公佐(藤原成親四男)を祖とします。公佐の息実直の代に公卿に昇り、実直の曾孫実廉(さねかど)は初め鎌倉にあって将軍守邦親王に仕え、新田義貞軍が鎌倉に攻め入った時にはその軍に加わり、妹で後醍醐天皇妃となった廉子所生の成良親王に仕えました。その子実村も南朝に仕え、その子実為は後亀山天皇の厚い信任を受け、南北朝合一の際には後亀山天皇に従って京都嵯峨に隠棲しました。その後天文元年(1532)季時の死後は後嗣なく一旦中絶しました。その約50年後、季時の孫実顕が家名を再興しました。江戸初期には阿野実顕の四男勝忠から山本家が起こり、幕末には山本公弘の次男玉松操(真弘)が国学者となって王政復古に尽力しました。

三条実房の三男公氏からは正親町(おおぎまち)三条家が起こりました。五代公秀の時、娘秀子が光厳天皇の後宮に入り、崇光・後光厳両天皇の生母となったことにより内大臣まで昇り、その息実継、孫公豊も内大臣にまで昇り大臣家の家格が定まりました。公豊の曾孫実雅は室町将軍義教の寵愛を受け、妹が義教の子義視の生母となりました。幕末の実愛(さねなる)は議奏・国事御用掛などを歴任し、王政復古後は新政府の議定・内国事務総督などを務め、明治3年(1870)家名を嵯峨と改めました。実愛の息公勝の代に伯爵を授けられましたが父実愛の勲功により侯爵となりました。正親町三条家の庶流としては三条西家・花園家がありました。
三条西家は正親町三条実継の次男公時を祖とし、二代実清の養嗣子として本家正親町三条家から公保が入り、内大臣まで昇った家例をその子実隆以下公条・実枝の三代で大臣家の家格として定着させました。実隆は和歌・連歌・有職故実に通じ、中世和学興隆の中心となりました。また香道の祖とも仰がれ、息公条(きんえだ)・孫実枝(さねき)にも家学として継承されました。幕末の季知は尊攘派の中心として活動し、文久3年(1863)8月18日の政変で三条実美等とともに長州へ下向することを余儀なくされました。(七卿落ちの一人)明治新政府では参与・麝香間祗候(じやこうのましこう)となりました。
三条西家の庶流としては押小路(おしこうじ)・武者小路・高松の諸家がありました。武者小路(むしゃのこうじ)家の二代実陰は幼少の頃より霊元天皇に仕え、早くから歌才を発揮してきました。正徳4年(1714)には霊元院より古今伝授を受け、後に中御門天皇・桜町天皇にそれぞれ伝授しています。

徳大寺~家格:清華家、家領:410石余、家職:四箇の大事・有職故実:雅楽(笛)、爵位:侯爵→公爵
〔河原(かわら) 菩提院(ぼだいいん) 大炊御門 近衛〕
徳大寺家は藤原公実の五男徳大寺左大臣実能を祖とし、実能が衣笠山の西南麓に営んだ山荘の域内に建立した徳大寺に因んで称しました。実能は鳥羽上皇の信任厚く、娘育子を二条天皇の皇后に立て(六条天皇の生母)、その子公能も二人の娘を天皇家に嫁がせ外戚関係を結びました。三代実定は源頼朝に重んぜられ、有職故実の著作を著したり、歌人としても知られています。江戸時代には養子が多く大臣に昇ることなく終わったものもいました。宝暦事件で知られる竹内式部ははじめ公城(きんむら)に仕えていた者で、事件に連座して落飾を命ぜられました。幕末・明治の実則(さねつね)は、新政府の参与・議定・侍従長などを歴任し、侯爵を授けられましたが、その功績から後に公爵に昇りました。徳大寺家からは河原・近衛・大炊御門・菩提院などの庶流が出ましたが、いずれも南北朝期頃には断絶しました。また公能の弟公親の猶子実教(『公家事典』では公親の子で家成の猶子)の子孫は四条流山科家となりました。

花山院(かざんいん)~家格:清華家、家領:715石余、家職:四箇の大事・有職故実・雅楽(笙)、爵位:侯爵
野宮(ののみや)~家格:羽林家、新家、家禄150石、合力米150俵、家職:有職故実、爵位:子爵
中山~家格:羽林家、家領:200石、家職:有職故実、爵位:侯爵
今城(いまき)~家格:羽林家、新家、家領:181石余、家職:和歌・有職故実、爵位:子爵
〔小野宮(おののみや) 堀河 鷹司 五辻(いつつじ) 烏丸(からすまる)〕
大炊御門~家格:清華家、家領:400石、家職:四箇の大事・有職故実・装束・雅楽(和琴・笛)、爵位:侯爵
〔堀川 三条 鷹司〕
難波(なにわ)~家格:羽林家、家領:300石、家職:蹴鞠・有職故実、爵位:子爵
飛鳥井(あすかい)~家格:羽林家、家領:928石余、家職:蹴鞠・和歌・有職故実、爵位:伯爵
藤原道長の孫の師実の子孫は、嫡流を嫡男師通が継承し、庶流は四つに分流しました。次男左大臣家忠に始まる花山院家、三男権大納言経実に始まる大炊御門家、四男権大納言能実に始まる小野宮家、五男権大納言忠教に始まる難波家ですが、小野宮家は平安末期に断絶しました。
花山院(かざのいん)家は、家忠が父師実の旧宅花山院第(あるいは東一条殿とも)に住したことに因み、その後も総領が相承け家名の固定化を見ました。その後の実子相続で室町時代を迎えましたが、応永23年(1416)忠定が38歳で没し相続人がいなかったため、「南方近衛息」(南朝関白近衛経忠の末裔)を隠棲していた花山院一族の長親(耕雲)の猶子として相続させたという記述が『看聞御記』10にあるが真相は不明です。これが持忠で、その娘兼子は後土御門天皇の後宮に入り、その縁もあってか弟の政長は太政大臣まで昇りました。しかし政長の息忠輔は後嗣兼雄を失ったため九条家から家輔を迎え、家輔も子がなく西園寺家から定熙を迎えました。定熙の後は次男忠長が継ぐことになっていましたが、慶長14年(1609)猪熊事件の関係者として勅勘を蒙って蝦夷に流罪となり、弟定好が後嗣となりました。
庶流としては中山・今城・五辻・堀河・烏丸・鷹司・野宮の各家が起こりましたが、五辻・堀河・烏丸・鷹司は室町初期までに断絶しました。定雅の弟師継の孫師賢は後醍醐天皇の側近として討幕計画に関わり、下総に流され、師賢の子孫も南朝に仕えました。
先に名前の出た忠長は、寛永13年(1636)に勅免になり、その子定逸(さだはや)は別に一家を起こして野宮(ののみや)家の祖となりました。三代定基は有職故実に詳しく、霊元院政期における有職四天王(他に東園基量・平松時方・滋野井公澄)と称され、応仁以来断絶していた賀茂祭の再興にも尽力しました。
中山家は花山院家二代忠宗の次男忠親を祖とし、概ね正二位大納言に昇りました。戦国・織豊期に当主だった孝親は、信長との公武交渉を担当し勧修寺晴右・庭田重保・甘露寺経元と共に「四人之衆」と称され、死の直前には長年の功労により准大臣となりました。息親綱も信長・秀吉と関わり深く、娘の親子は後陽成天皇の後宮に入り大典侍局と称されました。幕末の忠能(ただやす)は王政復古派の公家として知られ、次女慶子(よしこ)は孝明天皇の典侍となって明治天皇の生母となりました。また息忠光は大和五条の乱の首領に推され、忠能は王政復古に際して議定に任ぜられました。
中山親綱の次男為親は今城家の祖ですが、はじめ勅勘を蒙った冷泉為満の養子となりました。しかし後に為満が勅免となりその子為頼が冷泉家を相続することになったため、為親は別に一家を起こし冷泉、あるいは中山冷泉(中冷泉)と号しました。三代為継は名を定淳と改め、門流も御子左流から花山院流に移りました。

大炊御門(おおいみかど)家は師実の三男経実を祖としますが、二代経宗の邸宅があった場所に因んで称しました。経宗の妹懿子は後白河天皇の女御で二条天皇の生母となり、経宗は二条天皇が践祚すると外戚として信任を得、左大臣まで昇りました。三代頼実は太政大臣となり、娘麗子が土御門天皇の女御となり、清華家の家格が定まりました。室町時代、信宗は嗣子が無く三条家から信量を養子としましたが、その息経名は天文11年(1542)後継のないまま出家し一時中絶しました。その後十数年を経て同族中山家から経頼を迎えて再興しました。経頼の後は頼国が嗣子でしたが、猪熊事件に連座し硫黄島に流罪となりその地で没したので、弟経孝が家を継ぎました。
庶流としては経実の子から堀河・三条家、頼実の子から鷹司家が出てますが、いずれも室町初期には断絶しました。

難波(なんば)家は師実の五男忠教を祖としますが、忠教が兄家忠の養子となることで一家を立てたためか、兄家忠の花山院家・経実の大炊御門家とは創立の当初より家格の差がありました。二代頼輔は蹴鞠の名手とされ、子孫の難波家・飛鳥井家は蹴鞠を家職としました。
頼輔の子頼経は文治元年(1185)源義経に同心したことで長男宗長と伊豆国に配流されました。南北朝・室町期にはその動向が不明となり、宗富の代に中絶したようです。同族飛鳥井家から宗勝を迎えて再興されたのは江戸初期で、飛鳥井家の庶流同然となりました。宗勝は慶長14年(1609)左少将の時に猪熊事件で勅勘を蒙り伊豆に配流となりましたが、慶長17年(1612)勅免となって翌18年(1613)実家飛鳥井家を相続し雅胤と称しました。難波家は息子宗種が継ぎ、権中納言まで昇りました。
飛鳥井家は難波頼経の五男雅経を祖とし、本来難波家の分流ですが、上記のように難波家が南北朝・室町期に断絶し江戸時代に再興される過程で本末逆転し、飛鳥井家が本流、難波家が分流の格付けとなりました。雅経は父が配流されたのち鎌倉に下って源頼朝に厚遇され、重臣大江広元の娘を室としました。建久8年(1197)に上洛後は歌人としての活躍めざましく、藤原定家等と『新古今和歌集』を撰進するなど、飛鳥井家が後に和歌・蹴鞠の師範家となる基礎を確立し、その後も雅縁・雅世・雅親らは堂上歌壇の中心として活躍し、室町将軍など武家との交流もありました。雅庸(まさつね)の子雅賢は猪熊事件に連座して佐渡に配流され同地で没したため、難波家を継いでいた弟宗勝が雅胤(雅宣)と改め飛鳥井家を継ぎました。またその後を継いだ弟雅章は家学の歌を能くし、雅親以来の名手と評されました。

- 伊予親王の事件
~伊予親王は桓武天皇の皇子で、中務卿兼太宰帥に任ぜられ皇族の重鎮となっていたが、大同2年(807)藤原宗成が謀反を企て、捕らえられると親王を首謀者として讒言すると、親王は親王号を削られ捕らえられた。そして母と共に河原寺に幽閉され、母と共に毒を仰いで自害し。後に親王は無罪とされ、弘仁14年(823)には親王号を復された。 ↩︎ - 阿衡の紛議
~仁和3年(887)宇多天皇は藤原基経を関白としたが、橘広相に作った任命の勅書の中に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があり、文章博士藤原佐世が「阿衡は地位は高いが職務はない」と基経に告げたことで大問題となり、基経は半年も政務を放棄した。天皇は基経をなだめたが聞き入れられず、ついに天皇は勅書を取り消し、広相を処罰することで解決した。この事件によって藤原氏の勢力が天皇をしのぐものであることを世に知らしめることになった。 ↩︎ - 氷上川継(ひかみのかわつぐ)の乱
~宝亀元年(770)称徳天皇が崩御した後、天武系の皇族の多くは政変によって命を失ったり、臣籍降下しており、天智系の光仁天皇(妃は聖武天皇の皇女)が即位した。氷上川継は新田部皇子の子・氷上塩焼と聖武天皇の皇女不破内親王の間の子で天武天皇の曾孫にあたり、潜在的な皇位継承候補者でした。天応2年(782)川継の資人であった大和乙人が武器を帯びて宮中に侵入して捕縛される事件があり、乙人は川継を首謀者とする謀反の計画を自白し川継も捕らえられた。川継は伊豆に配流となり、妻の父である京家の藤原浜成も失脚した。 ↩︎ - 令義解(りようのぎげ)
~養老令の官選注釈書。令の解釈が画一を欠き運用に支障があったため、天長3年(826)清原夏野・菅原清公らに命じて天長10年(833)完成。全10巻 ↩︎ - 内臣(うちつおみ)
~645年、大化の改新の発足にあたって左右大臣とともに新設された官で、中臣(藤原)鎌足が任ぜられた。他の氏族に比べると一段劣る中臣氏出身の鎌足が政権中枢に参画できるようにしたもので、その後は鎌足の孫の房前(北家)、曾孫の良継(式家)、房前の五男魚名と藤原氏出身の者が任ぜられ、魚名の後は太政官の定員外の内大臣へと性格を変えていった。 ↩︎ - 尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)
~南北朝時代末期、洞院公定が作成した源・平・藤・橘等の主要な諸氏の系図で、その後も養子満季・孫実熈ら洞院家の人々により編集・追加等が行われた。平安時代・鎌倉時代に関する記載は諸氏系図の中で最も信頼できるもので、室町時代以降広く増補改訂されたため、異本も多い。 ↩︎ - 本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)
~後小松上皇の命を受けて洞院満季が当時流布していた多くの皇室系図を照合勘案し、応永33年(1426)に成立したもの。したがって当時の天皇である称光天皇までが記されていたが、その後時代が降るにつれて次第に増補され、刊本では昭和天皇まで追加された。写本や刊本の間でも内容に異同が多いが、皇室系図の中でも権威のあるものとされている。 ↩︎ - 猪熊事件
~江戸初期の公家で左少将だった猪熊教利は光源氏や在原業平にもたとえられる美男子だったが、人妻や宮廷の女官に手を出し「公家衆乱行随一」と称されていた。慶長12年(1607)には女官との密通が露見し京都から追放処分となったが、その後も素行は修まらず、他の公卿や女官を誘い乱交を重ねていた。しかし慶長14年(1609)とうとう後陽成天皇の耳に達し、猪熊は九州に逃亡したが、京都所司代の調査により関係者が捕縛され、猪熊と仲介をしていた医師の兼康備後の2名が死罪、公卿5名・女官5名が配流となった。 ↩︎ - 愚昧記(ぐまいき)
~平安末期から鎌倉初期にかけての公家・三条実房の日記で、『愚昧御記(ぐまいぎよき)』『実房記』などともいう。暦記18巻、別記15巻が存在したというが、現在は仁安2年~建久6年(1167~95)の間のものが部分的に残っているだけである。平安末~鎌倉初の動乱期における政局の推移や朝儀の様子がわかる貴重な資料。 ↩︎ - 看聞御記(かんもんぎよき)
~後花園天皇の実父に当たる伏見宮貞成(さだふさ)親王の日記で『看聞日記』が原本の題名。全44巻から成り、一部は散逸しているが、応永23年(1416)より文安5年(1448)まで33年間に渡る部分が現存する。将軍足利義教時代の幕政や世相、貞成親王の身辺などについて記されており、室町期の政治・社会・文化を知る史料として活用されている。 ↩︎
