ここからは地方別に窪田姓について調べてたものやみなさんに頂いた情報をまとめていきます。こちらをみれば、全国の窪田姓についてわかるようなページにしていきたいと思いますので、何か情報がおありでしたら、メールまたは掲示板の方にお知らせ下さい。
各文末の( )内は参照した文献名です。また次の方々に情報を頂いております。大変ありがとうございます。
・筈衛さん ・マハラジャさん ・かたぎりさん ・溝口なおすけさん
・八戸三郎さん ・酒井均さん
【参考文献】
『姓氏家系大辞典』 太田亮 角川書店
『系図研究の基礎知識』 近藤安太郎 近藤出版社
『戦国人名事典』 阿部猛・西村圭子/編 新人物往来社
『宮城県姓氏家系大辞典』 角川書店
『寛政重修諸家譜』 続群書類従完成会
『要略会津藩諸士系譜』 歴史春秋社 芳賀幸雄/編著
『渡邊半蔵家家臣録』
『新発田藩史料二』「世臣譜・続世臣譜」 溝口長裕
『上杉家御年譜二十四』 上杉温故会
『越佐人物誌』 牧田利平編
『新稿 羽州最上家旧臣たちの系譜 ―再仕官への道程―』 小野末三 最上義光歴史館
『八戸藩士一覧』 種市町立図書館
『「さつま」の姓氏』 川崎大十/編
『「さつま」歴史人名集』 稲葉行雄/編
『新発田市史』
『八戸藩士系譜書上』 八戸市立図書館市史編纂室/編 八戸市
『松前町史 資料編 第一巻』 松前町教育委員会/編
(1) 北海道(蝦夷地)の久保田氏
1)松前藩士にも久保田氏がいたようである。幕末期(嘉永六年=1853)の松前藩の分限帳に久保田松五郎の名が見える。それによると家格は中之間御中小姓、役職は御馬役となっている。(『松前町史』資料編 第一巻所載「御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳」)
(2) 磐城の窪田氏
1)菊田郡窪田邑に窪田城があり梶原氏がいた。また結城戦場物語に窪田の太郎が見える。(『姓氏家系大辞典』)
2)岩城氏の家臣に窪田氏あり。窪田十郎は岩城氏の一族で、人取橋の戦いで伊達軍の鬼庭左月を討ち取った。後、茂庭延元(左月の子)の家臣となり5000石を領したという。(*)
2)は筈衛さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(3) 岩代の窪田氏(藤原南家伊東氏流)
1)岩代国安積郡窪田村より起こる。工藤祐経の次子左衛門尉祐長を祖とする安積伊東氏の一族に窪田氏あり。応永11年(1404)に窪田修理亮祐守の名が見える。また天正年間(1573~1592)、会津勢に久保田十郎の名が見える。(『姓氏家系大辞典』、『系図研究の基礎知識』)
2)また会津藩士に窪田氏あり。平姓で岩城の出という。(『要略会津藩諸士系譜』)窪田七右衛門親隆は、はじめ山形藩最上家に仕え八十三石を給されていたが、最上家改易後、山形に入封した鳥居家に仕え二百石を給された。鳥居家改易後は、山形に転封となった保科家に仕え、程なく没し、嫡子隆清が継ぎ、のち保科家の会津への転封に従っている。明治元年の「外様人別帳」には窪田忠八とあり、百石を給されている。(『羽州最上家旧臣たちの系譜』)
上述(磐城の窪田氏2)参照)の窪田十郎と関係ありか?

(4) 阿倍姓久保田氏
1)奥州安倍氏の一族で頼時の五男磐井五郎家任の後という。(『姓氏家系大辞典』)
(5) 出羽の窪田氏
1)最上義光分限帳に「二百石 窪田将監」とあり。(*)
2)米沢藩家臣にも窪田氏が二家あった。(『上杉家御年譜二十四』)

1)はNIFTY-SERVE(現@nifty)歴史フォーラムにてかたぎりさんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
2)は溝口なおすけさんより情報を頂きました。どうもありがとうございます。
(6) 陸前の窪田・久保田氏
1)窪田姓は、仙台市・角田市・丸森町・河南町に多い。仙台藩家臣に窪田内記を祖とする窪田家がある。内記は伊達政宗の代に召し出され、7貫文を知行した。同家は黒川郡報恩寺村(現大衡村)に田宅を置くが、江戸期に栗原郡一迫から移ったと伝える。(『宮城県姓氏家系大辞典』)

2)久保田姓は仙台市・本吉郡志津川町に多く、仙台藩家臣に寛文・延宝年間に久保田半介の名があり、延宝9年に没し、その跡は娘婿の甚之丞が継いだ。幕末の『諸士藩籍』に久保田雄吾の名が見えるが、半介・甚之丞との関係は不明である。(『宮城県姓氏家系大辞典』)
3)窪田嘉膳は、伊具郡角田邑主石川氏の小姓頭で嘉永年中の人。窪田七郎は、伊具郡角田邑主石川氏の家臣で、先祖は水沢から来て仙台藩に150石で仕える。
4)窪田十郎(左月を討った十郎とは別人か)は、馬術家で慶長年中政宗に叛いて、岩城に去り斎藤外記に討たれる。
5)一関藩士の久保田氏
一関藩士にも久保田氏がいたそうです。徒士隊に属し、家紋は篠龍胆、宗旨は曹洞宗瑞川寺。白岩備中の子孫といい、代々東山千厨邑窪田に住んでいて寛延3年、充応が仕えたことにより一関藩士となったようです。

3)~5)は筈衛さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(7) 陸奥の窪田・久保田氏
1)八戸藩士にも窪田姓の藩士がいたようです。『八戸藩士一覧』によると、
藩主五代治世中 窪田捨五郎 改 半十郎 又改 半右エ門
六代治世中 窪田半右エ門
七代治世中 窪田半右エ門
八代治世中 窪田半右エ門 跡 半
の名が掲げられているようです。(『八戸藩士一覧』)
また三代藩主通信の代の末期に、窪田半左衛門の息子文蔵が亀川次郎太夫正弘(元岡本源右衛門)の養子となって亀川文蔵(のち斉宮、また岡本源右衛門と改める)を名乗っているようです。(『八戸藩士 系譜書上』)
2)津軽藩士にも久保田姓の藩士がいたようです。「奥富士物語」(『新編』青森叢書第五巻所収)によると、四代藩主信政の代に、久保田市郎左衛門長吉(大目付)、久保田源助(御側御小姓組)、久保田数馬等の名前が見えるそうです。「奥富士物語」は「津軽藩四代信政公の事績を詳記したもの」だそうです。
3)里見村(現青森市橋本二~三丁目・中央一~四丁目の各一部)に窪田姓を名乗る一族がいたようです。『青森県の地名 日本歴史地名大系2』(平凡社)によると、初代窪田三郎右衛門は源義家の後裔で旧姓を里見と称し、青森に移住して漁師町をつくり、漁師頭を命ぜられ酒造業を営んだが、三代窪田三郎右衛門は元禄八年(1695)の凶作で荒廃した廃田の復興を企て、宝永元年(1704)に許可を得、元文年間(1736~41)に里見新田を完成、その功により知行三十石を賜ったそうです。
1)2)3)は八戸三郎さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(1) 武蔵の窪田氏
1)荏原郡石川村は正保の頃(1644~1648)、千人頭久保田善九郎が知行する。(『姓氏家系大辞典』)
『寛政譜』に八王子千人同心の頭を務めたという窪田善九郎からはじまる系図が出ているが、同一人物であろうか。(『寛政重修諸家譜』)

2)またこれより前に、北条役帳に窪田又五郎が見える。又五郎は玉縄衆の一人で、武蔵小机有馬十貫六百十八文を領していた。天文3年(1534)2月22日に鶴岡八幡宮造営にあたり伊豆番匠奉行の一人に任じられた。窪田豊前入道は一族か。(『姓氏家系大辞典』、『戦国人名事典』)
3)また多摩郡御嶽社の社家にもある。(『姓氏家系大辞典』)
(2) 下総の窪田氏
1)小金本土寺過去帳に「窪田新之丞慶長八十一月」等と見える。(『姓氏家系大辞典』)
(3) 上総の窪田氏
1)望陀郡窪田(久保田)邑より起こる。(『姓氏家系大辞典』)
(4) 常陸の窪田氏
1)新編国志に「くぼ田玄蕃」の名が見える。(『姓氏家系大辞典』)
(5) その他
1)金沢米倉藩用人に窪田氏が見える。(『姓氏家系大辞典』)
(1) 甲斐の窪田氏(三枝姓)
1)甲斐の大族三枝、石原氏の一派で、甲斐国山梨郡窪八幡の地より起こる。三枝守国の時に甲斐国石坂に住して石坂と称し、忠次の時に武田家に仕えるようになり、忠廉の時に武田信玄の命により窪田と改めたという。忠廉は後に徳川家康に仕え幕臣旗本となっている。ただし『寛政譜』では紀氏と称している。(『寛政重修諸家譜』)

※

は「もと」と読む。
家紋は忠之系・忠行系が丸に違柏・鉄砲角に三巴、忠のぶ系が丸に違柏・角に三巴。
(2) 加賀の窪田氏→「北陸の窪田姓」を参照。
(3) 越前の窪田氏→「北陸の窪田姓」を参照。
(4) 駿河の久保田氏(藤原姓)
1)駿河の名族。また社家にもあり。内外社寺記に「浅間惣社神供仕立役、久保田源之丞」と見える。(『姓氏家系大辞典』)
(5) 信濃・伊那地方の久保田・窪田氏
1)久保田正太郎家 先祖知らず。上伊那郡

2)久保田九右衛門家 先祖知らず。下伊那郡
初代が開墾し、2代、3代で大きくし、4代が土地の台帳を定めたり、街路を整理したり、用水路を造ったりして、国益になる事業をしたが、そのつけを5代が払わされ、6代になると用水路が壊れ、山林の境界争い等もあり、次第に没落していったが、昭和初期でも地域で最もお金持ちである。

3)窪田長祐家
この家は清和源氏で経基王の六世の孫乙葉三郎頼季の玄孫窪田小太郎某の孫太郎長通の子孫としている。
長祐の父ははじめ木曽義仲に組みし、養和2年(1182年)高井郡井上城で平資永と戦っていたが、資永の病死で助かった。
建仁元年(1201年)京における戦いで源朝政に属し勝利し、幕府の御家人になった。
8代長安は正中2年(1325年)に領主の命により、能登、越前、福井などを転戦した。精しくはわからないそうである。
9代長胤は文和3年(1354年)京において病死している。
10代通慶は延文5年(1360年)の京都大地震においては高野山にいたそうである。

4)窪田伊左衛門家(長祐家の隠居分家)

5)窪田與平家 先祖知らず。下伊那郡。
與平は宗良親王を介抱するが、親王はかいもなく、逝去。

1)~5)は筈衛さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
6)横田河原の久保田氏
長野市篠ノ井会にある横田城周辺の集落には久保田姓が多く、久保田氏は木曽義仲の子孫であると言われているそうです。
6)は姫河童さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(7) 尾張の窪田氏
1)尾張藩の重臣渡辺半蔵家の家臣に窪田蔵右衛門があり、元禄11年に7石で召し出されたようですが、宝永6年には出てこないようです。(『渡邊半蔵家家臣録』)
1)は筈衛さんに教えていただいたものです。筈衛さんありがとうございます。
(8) 越後の窪田氏
1)越後新発田藩の重臣の窪田氏は滝口惟光の子窪田光貞に始まります。南北朝時代は南朝方について吉野に住んでいましたが、その後近江の佐々木氏に属し、天正年間に若狭高浜城主だった溝口秀勝に仕えたようです。与左衛門直武は慶長五年の上杉遺民一揆で戦死しましたが、子孫は重臣として活躍しました。「その他の窪田姓」の(10)高階姓高氏流の窪田氏の一族でしょうか?


あと上記の系図のどこに繋がるのかわからないですが、戌辰戦争で小隊長となり角石原の戦いで戦死した窪田源五右衛門正順という人がいたそうです。(『新発田藩史料二』「世臣譜・続世臣譜」)
また『新発田市史』に明治初期の藩士として窪田丑三郎・窪田吉次郎・窪田言忠・窪田十左衛門・窪田十助・窪田省三郎・窪田新七郎・窪田千代松・窪田正近・窪田与左衛門の名があるそうです。
2)越後村上藩士にも窪田氏がいて、この一族は医者だったようです。(『越佐人物誌』)

3)越後高田藩士にも久保田氏がいたようです。文政十三年「榊原藩家臣禄高覚」に百石久保田平吉、天保十五年「高田江戸分限帳」に百石久保田卯吉、同年「御家中高分限帳」に百石久保田直治郎、嘉永年間「伊呂波分限帳」に百石窪田直四郎、文久二年「高田役禄帳」に百石久保田与惣右衛門の名があったそうです。(『上越市史』)
4)また村松藩にも久保田氏がいて、幕末に武具方支配久保田弥一郎(三人扶持)の名があるそうです。 (『村松町人名辞典』)
1)~4)は溝口なおすけさんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(1) 近江の窪田氏(佐々木氏流)
1)佐々木時信の四男宗氏の後なりという。家紋丸に三笹の丸、丸に揚羽蝶。(『姓氏家系大辞典』)
(2) 丹波の久保田氏(足立氏流)
1)丹波志に「久保田氏、子孫、稲土村菅原。足立氏なり。百五十年以前は檜倉村に住す。今も古屋敷田となり、字久保田という。往古より今に小倉村の門森に建つ神楽大明神の社役を勤む。古より無官にて装束す、」と見える。(『姓氏家系大辞典』)
2)また丹波山国庄の公文・下司をつとめた家に窪田氏あり。紀姓という。また『丹波国風土式』に巨勢姓窪田氏が見える。(『系図研究の基礎知識』)
(3) 紀伊の久保田(窪田)氏
1)日高郡小松原村地士に久保田次郎太郎、久保田武左衛門、久保田信太郎、久保田武蔵あり。また続風土記 日高郡財部村条に六十人地士田口貞蔵の名があり、その先祖は窪田隼人佐という。隼人佐は畠山家に仕え、落城後豊太閤に仕えるが、のち在田郡田口村に蟄居し、元和七年六十人地士となり宝暦年中に日高郡に移ったそうである。
また同じく続風土記 伊都郡東富田村地士に久保田民右衛門、在田郡中野邑八幡宮社家に久保田大学等が見える。(『姓氏家系大辞典』)
(1) 土佐の窪田氏
1)香宗我部氏記録に「窪田八良兵衛、窪田孫右衛門」あり。(『姓氏家系大辞典』)
(2) 安芸の窪田(久保田)氏
1)先祖は、日下丹波守秀柴といい、細川家に仕えていたが、秀柴の子十郎左衛門秀正は窪田と改姓して、三次浅野長治に仕えた。これは日下秀柴の娘が長治の生母であったことによるようである。
その後、秀正の孫正信のときに広島本家に仕え、久保田と改姓した。
『芸藩輯要』歴代御役人帳の記事によると、享保年間に初めて久保田姓がでてくるが、初めて広島藩士となった正信が右門とするのがふさわしい。
問題は次に出てくる新五と3番目にでてくる藤馬であるが、親子、兄弟ともに考えられる。
直次郎と蔀との間には2、3代あると思われる。

久保田右門→図書 久保田新五
御奥小姓 享保11年 御武具奉行 享保20年
御中小姓頭次席 享保12年 町御奉行 元文2年
御用人 享保13年 御作事奉行 元文2年
御用人上席 享保15年
若御年寄 享保16年
御年寄 享保17年
久保田藤馬→源太夫 久保田直次郎→図書
御蔵奉行 寛保2年 御先手者頭 文化4年
郡廻り 延享2年 番頭 文化12年
並寄合 延享3年 並寄合 文政5年
御作事奉行 延享3年
御騎馬弓筒頭 延享4年
御旗奉行 寛延2年
久保田蔀 久保田平司
御先手者頭 嘉永元年 御先手者頭 万延元年
町御奉行 慶応元年
御用人 慶応2年
久保田勘平→新五
御奥小姓次席 慶応元年
御銀奉行 慶応3年
どう繋がるかわからないが、久保田栄次郎、主令、政一という人も明治期にいるようだ。
『芸藩輯要』三次侍帳によると、日下久右衛門、金右衛門というものもいるようだ。他に久保田姓では以下のようになっている。
久保田新吾
三次藩 享保初年頃 100石
(この新吾がのちの右門なのだろうか?)
久保田竹右衛門
三次藩 享保初年頃 300石
久保田権之丞
三次藩御小姓 享保初年頃 15石3人扶持
久保田権右衛門
三次藩御武具奉行 享保初年頃 30石5人扶持
1)は筈衛さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(3) 石見の窪田氏
1)石見吉見氏14代、正頼の家臣に「窪田主税助」がいます。天文年間の家臣名簿及びその他の史料にも見えています。津和野近辺の「窪田家」はこの子孫と思われます。(出自その他は一切不明です)
1)は吉見三河守さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(1) 豊前の久保田(窪田)氏
1)築城郡の豪族で。永享(1429-1441)応仁(1467-1469)の頃も久保田義持あり。また下毛郡に元亀天正の頃(1570-1592)窪田治部丞という人あり。(『姓氏家系大辞典』)
(2) 筑後の窪田氏(大友氏流)
1)筑後の名族で、もと蒲池氏配下の将。「将士軍談」によると、下蒲池家が断絶したあと、大友氏流朽網氏の出の鎮明が家名を継ぎ、その子孫の江口秀種の子鎮勝は窪田治部右衛門と称して幕府に仕え。日田郡代となる(『姓氏家系大辞典』)。なお、この一族については、坂上さんのサイト「蒲池氏の歴史と史蹟」が詳しいが、閉鎖か?。

2)また西念寺過去帳に「知瑩処士、慶安三年寅年九月十八日、吉里村の住窪田主水正の子、助右衛尉、庄屋之始也」と見える。(『姓氏家系大辞典』)
(3) 肥後の窪田(久保田)氏
1)肥後の豪族で、正平16年(1361)の阿蘇惟澄文書に「肥後国小河守護代窪田武宗」、他にも「肥後小川城代窪田武宗」と見える。下って嘉吉3年(1443)の菊池持朝侍帳に「窪田民部允惟冬」、永正元年(1504)菊池政隆侍帳に「窪田式部允重宗」、翌2年(1505)11月18日阿蘇文書連署に「窪田大和守為宗」の名が見える。(『姓氏家系大辞典』)
2)また相良氏家臣に久保田越後が見える。越後は木上の地頭で、老臣東長兄と丸目頼美が対立した際には多良木城を死守し丸目勢を撃退し、相良義陽から軍功を賞し知行を与えられている。(『戦国人名事典』)
3)また肥後狩野派の2代目狩野秋則が窪田五郎を名乗ってから、秋則、則久、成信と窪田を名乗っている。また、8代目恩信の子行直も窪田善助と名乗っている。(『肥後人名辞書』[角田政治著 青潮社])(*)

4)また肥後の細川家家臣にも窪田氏・久保田氏が見える。
『肥後細川家侍帳』(松本寿三郎編)より
窪田弥三郎 (元和7年 150石 馬廻組)
窪田安右衛門(寛永9年 150石 馬廻組)
窪田与左衛門(元和7年 200石 供者)
窪田与右衛門(寛永9年 200石 御小姓組衆)
窪田作右衛門(元和7年 10石2人扶持以下)
窪田源右衛門(元和7年 10石3人扶持 山崎吉右衛門預)
窪田嘉久馬(喜久馬)(弘化2年 50石)
久保田源兵衛( 100石)
久保田源太良(弘化2年、文久2年 100石)
窪田氏は、初期には知行取りにいたようだが、いつのまにか寛永までにいなくなり、かわって、幕末には久保田氏が100石取りで出てきているそうである。
3)~4)は筈衛さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(4) 肥前の窪田氏
1)小城郡の窪田庄より起こる。河上社文治2年(1186)5月文書に窪田太郎高直が見える。高木氏の族か。下って要略永正7年(1510)3月条に窪田胤俊あり、千葉氏配下の将なり。(『姓氏家系大辞典』)
(5) 薩摩・大隅の窪田氏(大伴姓)
1)大隅の久保田氏で大伴姓ということは肝付氏庶家か。家譲名は兼、定紋は雁金とあり。(『姓氏家系大辞典』) 肝属郡高山郷(現在地:高山町)にいたようである。

2)戦国時代から江戸時代初期に生存していた窪田半九郎(喜入季久家臣)、喜右衛門、清右衛門尉儀昌(国分衆)、千七兵衛(国分衆)、藤左衛門、利助、雅樂助、小監物(谷中衆)、利兵衛、重右衛門、弥左衛門、清三郎、壱岐介(加世田衆)などがいたようです。
3)徳之島出身の源為朝の子孫という窪田氏もあり。

4)曽於郡財部郷に出自不明の窪田氏がいるようです。

2)~4)は筈衛さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(『「さつま」の姓氏』、『「さつま」歴史人名集』より)
(6) 日向の窪田氏
1)日向記に窪田清右衛門尉等を載せる。(『姓氏家系大辞典』)
2)諸県郡都城郷高木村太郎坊に出自不詳の久保田氏がいるようです。
2)は筈衛さんに教えていただいたものです。どうもありがとうございます。
(『「さつま」の姓氏』、『「さつま」歴史人名集』より)
(7) その他
1)大村藩に久保田氏あり。(『姓氏家系大辞典』)
(1) 幕臣窪田氏(清和源氏)
旧武田家臣で、もとは鳥居を称す。久吉の時に武田信玄の命により窪田と改め、のち徳川家に仕える。〔寛永系図では久保田〕(『寛政重修諸家譜』・『姓氏家系大辞典』)

家紋は久次系は丸に三柏・鳥居、久重系は丸に三柏・桔梗、正吉系は丸に三柏、正久系は丸に三柏・鳥居。
(2) 幕臣窪田氏(清和源氏小笠原氏流)
旧武田家臣で、正成(房重)の時より徳川家に仕えた。家紋は丸に松川菱・六角むかい蝶・蝶盤。(『寛政重修諸家譜』、『姓氏家系大辞典』)

(3) 幕臣窪田氏(清和源氏井上氏流)
井上頼季より八代小太郎長時の時に窪田を称し、その子長親という。これより十代長義の時に武田家に仕えるが、のち故あって浪人となる。長親から長義までは小坂・矢井・時田・小室坂等を家号とし長義も小室坂を称す。長義の子正長(直重)の時に再び武田家に仕え、本苗窪田に復する。のち徳川家康に仕え、代々幕臣旗本となる。〔寛永系図では久保田〕(『寛政重修諸家譜』)

家紋は正明系・正久系・正俊系・直盛系が丸に三柏・上藤丸、正重系が六角の内三柏(寛永系図丸に三葉柏)・藤丸、正平系が丸に三柏・五三桐、直勝系が亀甲の内三葉柏・黒餅の内三葉柏。
(4) 幕臣窪田氏
徳川綱吉・徳松父子に仕え、のち幕臣となった。(『寛政重修諸家譜』)

(5) 幕臣窪田氏(未勘源氏)
窪田甚左衛門繁隆にはじまる源姓窪田氏あり。家紋は藤丸。(『寛政重修諸家譜』)

(6) 幕臣久保田氏(清和源氏義光流)
旧武田家臣で、吉政の時に徳川家に仕えるが、吉長以下系嗣を詳にせず。家紋は下藤丸。(『寛政重修諸家譜』)

(7) 幕臣久保田氏(藤原氏支流)
新右衛門の時に御家人となり、長泱の時より旗本となる。家紋は丸に釘抜、轡。(『寛政重修諸家譜』)

(8) 幕臣久保田氏(清和源氏義光流)
徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮となった和子(東福門院)に付属せられ、御所の御使役を務めた惟政にはじまり、のち采地五百石を知行する。家紋は寄九曜・丸に三菊の葉。(『寛政重修諸家譜』)

(9) 幕臣久保田氏(宇多源氏)
家伝によると、佐々木時信の四男当太郎宗氏の時に家号を久保田に改めたという。政孝・政勝兄弟の時より幕臣となる。家紋は丸に三笹の丸・丸に揚羽蝶。(『寛政重修諸家譜』)

(10) 高階姓高氏流
『高階氏系図』・『尊卑分脈』に高氏流の窪田氏あり。平安時代末期、陸奥国菊田郡窪田郡勿来の検断職として下向し窪田氏を称したが、斯波郡彦部郷に移ってのち彦部を称したという。(『姓氏家系大辞典』、『系図研究の基礎知識』)

(11) その他
1)幕府千人頭に窪田助之丞、窪田十三郎あり(『姓氏家系大辞典』)
2)小給地方由緒寄帳に窪田新之丞、窪田半十郎あり(『姓氏家系大辞典』)
3)京極殿給帳に「弐百石久保田藤右衛門」あり(『姓氏家系大辞典』)
