北海道の開拓は、もう明治初年から始まっていますが、その頃は広大な全道を開拓使だけで管轄開拓できるものではありませんでした。そこで考えられたのが諸藩分領開拓でした。太政官は明治2年7月に分領を出願させることにしましたが、出願してきたのは水戸・佐賀・一関・徳島・高知などの20数藩、出願しなかった鹿児島・金沢・山口・名古屋などの大藩には強制割当をしたとのことです。
開拓使の直轄は全道86郡のうち20郡、あとはこれらの諸藩、そして出願してきた伊達邦成・伊達邦直・片倉邦憲らの士族・東京府・兵部省・増上寺・仏光寺など、府・省・寺院などにも分領させました。
この頃に開拓を出願した士族は、大半が戊辰戦争の「敗残兵」であって、刀を鍬に持ち替えて、 苦難の北海道開拓に従事したわけです。ここでは、この分領時代に北海道開拓に従事した九士族団について紹介します。
なお、この九士族団は次の通りです。
(1)仙台藩士・伊達藤五郎邦成(亘理2万3000石):有珠郡(現伊達市)
(2)仙台藩士・伊達英橘邦直(岩出山1万4640石)
:厚田郡聚富→石狩郡当別(現当別町)
(3)仙台藩士・片倉小十郎邦憲(白石1万8000石):幌別郡(現登別市)
白石村・上手稲村(現札幌市)
(4)仙台藩士・石川源太邦光(角田2万1300石):室蘭郡→夕張郡角田村
(現栗山町)
(5)仙台藩士・亘理元太郎胤元(涌谷2万2600石):空知郡
(6)仙台藩士・伊達将一郎邦寧(水沢1万6000石):札幌郡平岸村(現札幌市)
(7)会津士族:余市郡(現余市町)
(8)徳島藩士・稲田九郎兵衛邦稙(淡路洲本城代1万4500石):静内郡(現静内町)
(9)旗本交代寄合・五島銑之丞盛明(肥前富江3000石):磯谷郡
【参考文献】
『侍たちの北海道開拓』 榎本守恵 北海道新聞社
さて、分領時代に北海道開拓に従事した九士族団をご覧になればわかるように、ほとんどが仙台藩伊達家の家中です。なぜこんなことになったのか、というのが今回のテーマです。そのためには仙台藩の組織制度について説明しなくてはいけません。
仙台藩は62万5000石、前田、島津に次ぐ大藩で、大阪の陣後、幕府は一国一城の令を発しましたが、仙台藩は例外的に仙台城の他に白石城を認められました。この白石城は重臣片倉小十郎代々の居城となっていますが、その他にも要害と称する城に準ずる城館が20ありました。もとは伊達四十八館と呼ばれ、軍略上の要地に重臣がそれぞれ家臣を持ち、拝領地から年貢を徴収するという中世以来の地方知行制が根強く存続していました。つまり、仙台藩という大名家の中に小大名家が存在していたようなものですね。
また、藩士たちの身分格式は一門(11家)・一家(17家)・準一家(8家)・一族(22家)と呼ばれる血縁に擬制した制度を作り、その下に家老の家格の宿老(3家)・ついで着座(38家)・太刀上(9家)、以下召出・平士(3441)、組士(860)、卒(5469)となっていました。
戊辰戦争で敗れた仙台藩に対する新政府の処分は厳しく、いったん没収した領地の内28万石が与えられました。(仙南五郡には南部家が13万石で移封入地) 今までの半分以下ですが、実状はもっと深刻でした。仙台藩は、表高62万石と言われていたものの、その後の新田開発などで実高は100万石を越えていました。幕末の凶作で実高は減少していたようですが、藩内騒然となったのも無理はありません。
直臣1万2000人、陪臣2万3000人の大所帯を表高28万石でどうしたらよいか考えた末、藩は大幅な家禄削減と帰農、蝦夷地移住奨励を打ち出しました。従来の知行制は廃止し、一門はみな一律玄米130俵、一家~太刀上55俵、大番組(100石以上)25俵、同馬上以下16俵、組士12俵、凡下扶持人8俵と定め、一門は仙台在住、陪臣は永の暇(つまりクビ)ということにしたのです。
また、仙台藩の制度では在郷家臣の住居も藩が与えているため、南部藩が移住してくる地域では、仙台藩からの拝領住居を明け渡さなくてはならず、陪臣たちは家も土地も失うわけです。そこで藩は、仙南五郡の旧家臣及び陪臣を従来住居の地に土着帰農させて欲しい旨を政府に嘆願していますが、脱刀して帰農するなら陪臣の居住を認めるというのが政府の回答でした。つまり武士を止め、南部藩の農民になるのなら居住しても良いということです。
そんなわけで、陪臣たちは郷里を離れて北海道へ移住するか、郷里あるいは他地で帰農、帰商するかの二者択一を迫られ、亘理領主伊達邦成の家中以下6士族団が北海道への移住を試みたのです。
第1回は仙台藩亘理領主・伊達藤五郎邦成主従です。
伊達邦成は、宇多・亘理両郡2万3000余石の領主で、伊達一門の次席でした。その祖は伊達政宗の大叔父の実元で、その子二代成実は政宗の重臣として活躍し、以後代々伊達家の重臣として重きをなしてきました。この亘理伊達家のことを仙台支藩と呼ぶ場合がありますが、正式なものではありません。確かに知行も一万石を越えているので大名並ですが、正式には仙台伊達家の家臣ということになり陪臣になります。
亘理伊達家の先代・伊達安房邦実は本藩藩主伊達慶邦の妹保子(貞操院)を妻としましたが、一女菊子しか生まれず亡くなったため、同じ伊達一門の岩出山伊達家の伊達義監の子を養嗣子とし菊子と結婚させました。これが伊達邦成です。
(つまり当別に入植した岩出山伊達家の伊達邦直の実弟になります。)

さて、2万3000石から130俵(58.5石)に削封された邦成は仙台屋敷居住を命じられ、陪臣であるその家臣らは新南部領民として、南部藩に貢祖を納め、家も明け渡さなくてはならなくなったのです。
明治2年1月、家老常盤新九郎(後の田村顕允)は邦成に、新政府は蝦夷地開拓を計画しているようなので、家中まるごと自費移住し、開拓に従事してはどうか、さすれば戊辰の役での朝敵の汚名もすすぐことができようと建言しました。そこで常盤は5月下旬に上京、7月には相馬藩家老岡部庄蔵の紹介で、参議広沢真臣に面会したところ、広沢は大いに喜び、8月23日、北海道開拓の辞令を受領し、「胆振国有珠郡支配」を命ぜられました。しかしこれは常盤の内願書によるものだったので、出し抜かれた宗藩は面白くなく、常盤は宗藩家老によばれて始末書騒ぎになりましたが、邦成は前藩主慶邦に会い、ことを音便に済ませました。
9月、邦成は常盤改め田村顕允を開拓執事に命じ北海道へ先発させ、自らも一歩遅れて渡道し、支配地を確認して有珠会所内に開拓役所を仮設しました。第1回移住を翌明治3年3月と予定し、邦成・顕允は一旦帰郷しましたが、重臣と協議し六点の移住方針を定めましたが、この方針の特色は身分を一級進級させることと、戸主の独身移住を許さぬことでした。つまり家族とともに移住することで、開拓のつらさや孤独に耐えかねて逃亡・脱落するものを出さないようにするという決意を示したものでした。
明治3年3月、開拓使汽船長鯨丸は陸奥寒風沢港に入港、第1回移民220人と大工・土方等30人、計250人を載せ出発しました。4月6日には室蘭港に到着しましたが、残雪はまだ60cmもあり、雪上のむしろの上で弁当を食べながらさめざめと泣く婦女子があり気の毒であったと、長鯨丸の船員が書き残しているそうです。
翌7日、老人婦女子はアイヌに背負われ、他は徒歩で有珠に入り会所及び近辺の住宅に分宿し、休む間もなく15日までの間に58戸の仮小屋が突貫工事で建てられ人々は分住して入居しました。
そして17日、支配役所の前に邦成自らが鍬をふるってスモモ苗13本を植え、いよいよ開拓が始まりました。当初は内地の農村同様集村方式で屋敷割りをしましたが、それでは耕地まで遠く開拓に不便をきたすこととなり、6月下旬には田村が耕地内宅地に分散することを進言し、散村方式に改めることにしました。
同年8月には第2回移民64戸72人、翌4年2月には第3回移民143戸788人(邦成の家族を含む)が到着したため、有珠郡だけでは土地が狭すぎるとして日高三郡の増支配を請願しましたが、開拓使内に朝敵だった仙台人への敵意を示すものもいて結局許されず、西隣の虻田郡一郡の増支配が認められただけでした。
しかし第3回移民船は人間だけで満船になったため、農具等を積んだ帆船は2ヶ月遅れの到着となり、耕作時期に狂いを生じ、おまけにこの夏秋は凶作で大根・芋も食い尽くし野菜・フキでかろうじて飢えをしのぐという状況となり、漁獲までもが不漁で窮地に陥った邦成等は開拓使に嘆願して米100石を拝借、年末の決算時には会所の漁師・アイヌの給料に窮して、またも開拓使に嘆願して何とか窮地を脱しました。
この頃の挿話と思われますが、農具の到着が遅れたため、このままでは作付け時期を失ってしまうと考えた佐藤作右衛門は、郷里でも手放さなかった先祖伝来の兜で鍬を作ろうと決意し鍛冶屋に持ち込んだところ、それは恐れ多い、鍬は持ち合わせの地金で作ってあげますと兜を返してくれたという話があるそうです。
明治4年、廃藩置県が断行され、それに伴い北海道の諸藩分領も開拓使の全道一円支配なり、邦成の支配地有珠・虻田郡の土地・人民も5月には開拓使に返還し引き継がれました。邦成には「従来通り取り締まりすべし」と達しがありましたが、失望は大きく、数年上京して修業したいので辞任したいと申し入れられ、開拓使の岩村判官が説得して翻意したということもあったようです。
さらに明治5年9月伊達移民は平民籍に編入され、これは支配地返還以上に彼らに打撃を与えました。ただ、この平民籍編入は有珠郡伊達・幌別郡片倉・当別町伊達のいわば朝敵だった伊達士族に行われ、勤王派だった徳島藩稲田邦植主従にはなかったのです。これを武門の恥辱として失望し、数年後に募集された琴似・山鼻の屯田兵に参加した伊達移民は少なくなかったそうです。明治10年の西南戦争には、この琴似・山鼻の屯田兵も出征し、大いに奮戦しました。しかし邦成の統率宜しく、その後も移民は続き明治14年まで計9回、2681名の移民が行われました。
明治18年3月、伊達邦成並びに旧家臣一同の名で「士族復籍の儀請願」を提出し、札幌県の佐藤大書記官も士族復籍を特別詮議してほしいと上申し、同年7月請願は許可されました。それを喜んだ一同は士族契約会を結成し、邦成を盟主、田村を副盟主としました。そして明治25年、邦成は開拓の功をもって男爵を授けられました。
士族契約会は現在も生きており、伊達家の当主を中心に春秋二回の会合を続けています。木造二階の旧宅は迎賓館になり、そのすぐ近くに建てられた開拓記念館には藩祖の鎧、舶来のオランダオルゴール、寛永・享保・宝暦びななど伊達家の家宝が展示されています。(邦成らの故地亘理町の郷土資料館に行ったことがありますが、亘理伊達家関係の資料はほとんどありませんでした。これも邦成主従が家中総員で移住したからでしょう。)
また伊達士族の故郷宮城県亘理町と姉妹都市提携をして、毎年8月には騎馬武者が練り歩く伊達武者祭りが催されています。
※関連史跡……伊達迎賓館、旧三戸部家住宅
第2回は仙台藩岩出山領主・伊達英橘邦直主従です。
伊達邦直は、伊達政宗が米沢より移り住み居城とした岩出山城を本拠とする1万4640石の領主で、家格は伊達一門第八席、政宗の四男・三河守宗泰を家祖とする名門でした。(有珠郡に移り住んだ亘理伊達邦成は実弟)

さて邦直についても仙台移住、陪臣は永の暇か帰農かとの処置は仙南地区の角田石川、亘理伊達、白石片倉らと同じでしたが、ただひとつ仙南領は没収されて南部藩領ついで朝廷直轄になりましたが、邦直の知行地は大半は伊達藩に残されていた点が違いました。とはいっても130俵に減禄された彼に736戸の旧臣を養えるはずもありませんでした。
邦直が旧臣一同を有備館に集め、北海道移住計画を発表したのは明治2年9月1日でした。一同は邦直に従うことを誓い、北海道開拓志願書を邦直の名で提出しましたが、その翌日旧臣のリーダー吾妻謙は宗藩に呼び出され謹慎を命ぜられました。亘理の田村顕允の場合と同じように陪臣の勝手な行動ということがその理由でした。
10月に札幌郡・空知郡の支配を命ぜられた邦直は、11月に家臣宇和野造次郎・氏家周六・芳賀宗平・遊佐二郎・小野省八郎を支配地受領のため北海道を派遣しましたが、結局彼らは要領を得ないまま翌3年正月に帰国したので、家中が帰農商派と移住派に別れて対立している中ではありましたが、邦直は自ら北海道へ赴くこととしました。邦直の実弟亘理の伊達邦成の第一回移民船が北海道へ渡るのに便乗し、函館に上陸、陸路石狩を目指しました。4月に小樽で開拓使の岩村通俊判官より土地割渡状を受け取り、空知郡ナイエの支配地へと向かいましたが、そこは石狩から四十里の奥地で、道路は一本もなく、土地は730戸の主従を入れるには狭すぎ、アイヌの家も全く見えない原野でした。
邦直は小樽に帰着すると支配地への道路開削と沿海地の拝借願を出しました。というのは、沿海地であれば海産物の利益が得られ、少しでも移住費・生活費を軽減できるとの期待があったからです。しかし出願が遅れたためか、その希望は叶えられませんでした。それではせめて物資揚場をと嘆願を重ね、ようやく厚田郡聚富(シップ)の地を認められました。
帰国すると、邦直はあらためて第1回の移住者の出願をさせ、43戸160人が翌4年3月に岩出山を出発、4月には聚富に入地し開拓を始めました。しかし、この地は日本海の潮風にさらされた砂地で、海風が吹き荒れるとせっかくの作物の芽を吹き飛ばしてしまうのでした。そうした時、邦直一行の一人小野寺省八郎の兄で開拓使の役人となっていた小野寺周記より聚富の東にある石狩郡当別は農業開拓に有望な地であるとの情報を得て、あらためて当別拝借願を提出して認められました。
邦直は待機している旧臣800人余を移住させるため9月に帰郷しましたが、岩出山では帰農商派の力が増しており、第2陣は44戸182人に留まりました。しかも帰農強硬派は邦直一家の移住を拒み、岩出山に岩出山伊達家の血脈を残すべく邦直は家族を置いて移住することを主張し、邦直も妥協せざるを得ませんでした。結局、岩出山には邦直の姉二人と三男篤三郎が残り、移住派と帰農残留派の紛争は収まりました。
翌5年2月に岩出山を出発した第2陣は4月には当別に到着、早速開拓に従事することとなりました。同年9月の旧家臣の平民籍編入は衝撃を与えましたが、今更後へは引けず一致団結して新しい村づくりに取り組みました。開拓はその後順調に進み、明治12年1月には戸長役場が設けられ初代戸長に吾妻謙が任ぜられました。
当別移民団の無謀を論じていた岩出山残留派も開拓地の実績の向上を聞いて次第に動揺し、明治12年邦直が帰郷すると56戸210人が開拓を希望し、この第3陣は同年4月に当別に移住しました。
同18年11月には当別移民団の士族復籍が許可され、12月には有珠郡組と同様の士族契約書を作製しました。
岩出山に残された邦直の三男篤三郎は翌年死亡、18年には姉英が死亡したため当別生まれの廉が20年に岩出山に派遣され伊達寧永と結婚しました。また邦直の嗣子・基理は真駒内種畜場・有珠から馬を仕入れたり、養豚組合を組織したりとなかなかの活動家でしたが、24年に父邦直と相前後して死亡し、翌25年有珠の邦成と共に開拓の功績で男爵を授爵したのは基理の嫡男・正人でした。
この伊達邦直主従の開拓の苦労を描いたのが本庄睦男の『石狩川』という小説ですが、当別町の石狩川河畔にその文学碑が建てられています。また、邦直が村政執政のため建てた伊達邸別館が残り、その横に立つ伊達記念館には邦直縁の品々が展示されています。
一方、邦直主従が最初に入植した厚田村聚富の地には邦直の曾孫で当別町長(当時)・伊達寿之氏の筆による「伊達邦直移住記念碑」が平成8年に建てられており、いまでも当別町と岩出山町とは交流があるそうです。
※関連史跡……伊達邸別館・伊達記念館、伊達邦直移住記念碑、本庄睦男文学碑
第3回は仙台藩白石領主・片倉小十郎邦憲主従です。
片倉邦憲は伊達政宗の片腕として知られる片倉小十郎景綱の末裔です。景綱が慶長7年(1602)白石城主となって以来、代々片倉家が白石城と1万8000石の領地を支配していました。片倉家は伊達一家の家格で、一国一城制の例外として青葉城以外に唯一認められた白石城を預かり、代々藩政に重きをなしてきました。
白石城は奥羽列藩同盟成立の場として知られますが、片倉家は仙台藩降伏後は白石城を含めその所領を失い、1万8000石から55俵の禄米に転落、陪臣はすべて召し放ちとなりました。その上没収された刈田郡以下仙南五郡は、旧南部藩が白石藩として移封され、土地・家屋も明け渡すこととなりました。
旧南部藩は献金によって盛岡に復帰しましたが、その後白石県→角田県となり、三陸磐城両羽按察府が白石城に置かれました。
片倉家の旧臣1402戸7495人の去就をどうすべきか論議はつきませんでしたが、上京して情報を探っていた斎藤良知・横山精は政府が蝦夷地開拓を企てはじめたことを知り、二人の建議を受けて邦憲は菩提寺常英山傑山寺に旧臣を集め北地跋渉の嘆願書を政府に提出することとしました。ここで、注目すべきはこの嘆願書が重臣二名(斎藤と横山)の名義で出されていることです。亘理の場合は「伊達藤五郎名代家老」との肩書で提出しており主君伊達邦成が主体であることがはっきりしていましたが、白石の場合主君邦憲よりも旧臣の方が必死となっていたとはいえそうです。
ともあれ片倉家臣の嘆願書は政府に上申され、明治2年9月には角田の石川源太とともに沙汰書が降り、石川源太は室蘭郡、片倉小十郎は幌別郡移住支配を命ぜられました。邦憲老齢のため支配地受領には嗣子景範が旧臣斎藤良知・本沢直養ら8名を率いて10月に白石を出発、11月に幌別郡到着、調査して標柱を建て、白石に帰着したのは12月でした。
その頃になると始めの頃の意気込みが薄らいで、翌3年1月の調査では旧臣たちの志願者は651戸3600人と全旧臣の半数以下となりました。そうした状況を心配した角田県は再調査を命じ、7月にようやく出された名簿は移住志願者373人、帰農247人で、1月調査の約半分、最初の出願時から見れば三分の一に減少していました。その直前の6月末に幌別郡に出発した第一陣は遠藤震三郎以下19戸に過ぎず、7月に邦憲が激励のため渡道したのも当然でした。
翌4年3月の第二陣は記録により人数の違いがありますが「片倉家北海道移住顛末」によると45戸177人ほか職工15人が斎藤良知・日野愛憙に引率されて入地しました。この第二陣はこの年の食料として函館で米を購入しましたが、運搬の途中で難船し、最初から食糧難にあえぐこととなりました。やむなく開拓使に陳情し米百石の貸与を受け何とかしのぎました。
第二陣出発直後、待機中の第三陣600名は突如開拓使貫属編入を命ぜられましたが、これは旧片倉家中の窮状を見ていた角田県や開拓使幹事薄井竜之らが太政官に取りはからった結果でした。家老佐藤孝郷(廓爾)が開拓執事を命ぜられ、第三陣は第一班398人、第二班206人に別れ、9月に寒風沢港を出帆しました。第一班は不運にも出港まもなく座礁し、人員はみな無事でしたが荷物は水浸しになってしまいました。それでも第二班と合流し10月始めには小樽に到着しました。10月末に佐藤孝郷は札幌にて開拓使判官岩村通俊に面会したものの、岩村はこのことを薄井から知らされていなかったため入植地も予定されておらず、春まで石狩で待つように伝えました。しかし再度交渉した結果、望月寒川流域の割渡しを受け、小屋50戸を20日間で作り上げました。視察に来た岩村判官は感嘆し、望月寒を改め故郷の名をとって白石村と命名しました。
白石村での開拓も順調に始まったかに見えましたが、若い佐藤のやり方に反感を抱くものも一部にはおり、三木勉・菅野格・伊藤正信らはいつも佐藤と意見が対立しました。結局開拓使貫属移住157戸のうち白石村は100戸とし、三木ら57戸は翌5年2月発寒に入植し、手稲村と名付けました。
明治5年9月、有珠・当別の両伊達、幌別の片倉家中、そして開拓使貫属として優遇されていた白石・手稲の片倉旧臣も平民籍に編入され、一同を落胆させました。その後、士族復籍の嘆願は繰り返され、明治18年11月には士族復籍を果たし有珠士族同様の士族契約書を作製しました。
片倉邦憲は老齢のため仙台にあったため、幌別郡の移住団の精神的支柱は邦憲の子景範でした。明治11年景範は分派白石組の上白石に移住して一時白石戸長も務めましたが、明治17年父邦憲の病気で仙台に帰り、二度と渡道しませんでした。その後彼らの中心となったのは邦憲の嫡孫景光でした。彼は父景範に従って北海道に移住し、父の白石移住後も幌別に残り、旧臣と苦労を共にしました。明治25年伊達邦成、正人(邦直の嫡孫)が男爵を授けられた際、片倉家が除外されたため、旧臣らが奔走し、31年に景光にも男爵が授けられました。その後、景光は故郷白石に引き揚げ、片倉家の子孫は現在仙台在住です。
現在、片倉家臣団が開拓した幌別郡は登別市となり温泉の町として有名です。登別温泉の奥にあるカルルス温泉は日野愛憙が明治19年発見し、22年に愛憙の養子久橘が木材調査に訪れて同じ温泉を発見、30年に輪西の市田重太郎が許可を得て日野家と共同で温泉経営をはじめることとなりました。
また、白石・手稲は札幌市と合併し、現在は北海道の核・札幌市の一翼を担っています。
※片倉家については「日本史→松前藩 松前・蠣崎一族の系譜→松前・蠣崎一族の系図→白石片倉家系図」をご覧下さい。






