【城 跡 名】首里城(中山城・王城)
【訪 城 日】2003年1月9・10日
【所 在 地】沖縄県那覇市首里当蔵町
【創建年代】14~17世紀末頃
【創 建 者】察度王統?、尚巴志
【主な遺構】石垣(守礼門、歓会門、正殿などは復元)
【歴史・沿革】
首里城の起源ははっきりしませんが、察度王統の時代に首都となったとも、第一尚氏王統の尚巴志が中山王武寧(察度の子)を滅ぼし、中山の拠点を浦添城から首里城へ移したともいわれます。その後大改修が行われ、第二尚氏王統二代の尚真王の頃には首里城がほぼ完成したといわれています。
その後、七代尚寧王の代には薩摩の島津氏の侵攻を受け、島津氏に従属することを余儀なくされました。明治5年(1872)には日本領であることを明確にするため、明治政府によって琉球王国は琉球藩に、国王は藩王とされ、明治12年(1879)琉球藩は廃され沖縄県とされました。明治政府は軍隊・警察を動員し、国王尚泰に首里城の明け渡しを迫り、国王以下その臣下は城を出て、琉球王国は瓦解しました。
首里城は幕末の弘化3年(1846)に改築されて以来、修理されることなく大正時代に至り、腐朽荒廃がひどいため廃棄されることとなりましたが、大正12年(1923)伊藤忠太博士の尽力により特別保護建造物に指定されて改築、以後沖縄神社の拝殿として使用されました。しかし太平洋戦争末期の沖縄戦でこの見事なグスクもほとんど壊滅し、昭和25年(1950)首里城跡地に琉球大学が創設されました。そして昭和47年(1972)の本土復帰後、琉球大学が移転した首里城跡地が国営公園区域とされ、順次復元修築が進み平成4年(1992)には一部開園しました。そして平成12年(2000)、首里城跡は沖縄県内8ヵ所の資産とともに世界遺産に登録されました。
【訪 城 記】
具志川城をあとにして、この日泊まるホテル日航グランドキャッスルへと向かいましたが、那覇市内に入る前から渋滞がひどく、途中で違う道に入り込んでしまったこともあってホテルに着くまでに2時間かかってしまいました(T_T)
ホテルに着くと首里城のライトアップのことを聞いてみると11時までライトアップされているとのことでしたので、レストランで食事をしたあと、休みたい所でしたがカメラを持って首里城へと向かいました。嫁さんは疲れていたのでホテルに残りましたが、タクシーで首里城のライトアップを撮りたいと言うと木曳門の前に連れて行かれました。そこで下りると確かにライトアップはされているもののかなり暗く、しかも門が閉まっていて中には入れないのでちょっとがっかりです。ただ西のアザナの石垣のところから首里市街の夜景が撮れたのはラッキーでした。
これで終わりなのかと思い、右に回ってみると、なんと守礼門・歓会門・久慶門・園比屋武御嶽石門がライトアップされているじゃないですか。三脚を使いそれらの写真を撮りホテルに戻るともう10時を回っていました。
翌日の朝はなかなか明るくならないなあと思っているとなんと小雨が降っていました。(天気予報では晴れと言っていたのに) 仕方ないなあと思いつつホテルを出て、首里杜館の地下駐車場に車を入れると、まずは守礼門の方へと向かいました。門の前で琉球衣装を着た女性が「写真撮りませんか。」と言っていて、嫁さんは衣装を着て写真を撮りたそうにしていましたが、「帰りね~」と言ってまずは守礼門の方へと向かいます。早く出たつもりでしたが、もうすでに結構観光客が来ていて、なかなか写真を撮るタイミングをつかめませんでした。
そのあと世界遺産の園比屋武御嶽石門を見て、歓会門から瑞泉門→漏刻門→広福門→奉神門と進みます。どれも朱塗りの中国風の門でかつての琉球王朝の繁栄を感じさせます。奉神門を入ると広い御庭が広がり、正面に正殿、左に北殿、右に南殿・番所があり、南殿・番所は現在は展示室に、北殿は展示室・売店になっています。正殿の内部は忠実に復元され、国王の御座所・御差床(うさすか)や「按司御座敷」「長みこちゃ」「おせんみこちゃ」などの部屋があります。2階にある御差床は金の龍柱が左右に立ち、金と赤で豪華に装飾された国王専用の椅子が鎮座して荘厳な雰囲気を醸し出していました。
北殿でお土産を買うと、右掖門から外に出ますが、人の流れがなかなか途絶えず写真を撮るのに10数分待ちました(^^;) そして久慶門から外に出ましたが、今度は再び木曳門まで戻り、西のアザナの石垣の上に登ってみました。すると那覇市内が一望できました。また、工事中の首里城の南側を見渡すこともできました。そして木曳門から系図座・用物座のところまで行って少し休憩したあと再び木曳門に戻り、首里杜館の横から玉陵の方へ向かいました。
玉陵を見た後は雨がひどくなってきたので、そのまま駐車場に戻り県立博物館へ向かったのですが、あとから嫁さんに琉球衣装の写真が撮れなかったと愚痴を言われてしまいました(^^;) 県立博物館のあと、そのすぐ近くにある八重山料理の店「潭亭」で昼食を撮りましたが、なかなか美味しかったです。
そしてそろそろ時間なのでレンタカーを返し、今回の旅を終えました。結局7つのグスクを回ることが出来大満足でした。とにかく北海道でいえば6月or9月頃という一番過ごしやすい気候のころを思わせる陽気で、とても快適に旅をすることができました。また行きたいですね~
















(右側が番所)







(左手前が系図座・用物座)

【城 跡 名】座喜味城(読谷山グスク)
【訪 城 日】2003年1月8・9日
【所 在 地】沖縄県中頭郡読谷村座喜味城原708
【創建年代】15世紀初頭
【創 建 者】護佐丸
【主な遺構】一の郭並びに拱門、二の郭並びに拱門
【歴史・沿革】
座喜味城は15世紀初め、読谷山按司護佐丸の手で築城されたと伝えられています。尚巴志の北山討伐軍の一部将として従軍した山田城主護佐丸は、北山の今帰仁城陥落後、拠点を山田城からこの座喜味城に移しました。護佐丸は1440年頃中城城に移りましたが、16世紀まではこの城は存続したようです。
太平洋戦争末期には日本軍の高射砲陣地となり、戦後も米軍基地となりましたが、昭和47年(1972)沖縄の本土復帰に伴い国指定史跡となり、昭和49年(1974)には米軍基地も移転しました。
【訪 城 記】
今回の沖縄旅行は、この座喜味城からスタートしました。2時半頃に那覇空港に着き、レンタカーを借り高速を走りながら座喜味城に着いたのがもう夕方の5時半近くでした。この日は天気予報通り、小雨が降るちょっといやな天気でしたが、座喜味城に着くと遅い時間にもかかわらず観光バスなどが出入りしていました。近くにある資料館は当然もう閉まっていましたので、早速石段を登り城跡へと進みました。
すると右側に張り出した石垣があり、そのすぐ近くにアーチ状の拱門が見えてきます。そこから二の郭・一の郭と進みましたが、久しぶりのお城巡りで思わずあちこち写真を撮りまくってしまいました(^^;) 当然次々と来る団体さんは次々と帰っていきますが、私は6時頃まで粘っていました(^^;) こぢんまりとしたお城ですが、とにかく本州などでは見られないカーブした石垣に感激しました。そして、その日泊まるホテル日航アリビラへと向かいました。(このホテル広いし、雰囲気も良くてとても良かったです(^^))
本当はそれで終わるつもりだったんですが、デジカメで撮った写真を見直してみると、暗い写真ばかりだったので、翌日の朝もう一度行ってみることにしました。この日はとても良い天気で、写真を撮るにも観光するにもいい日和でした。この日も団体さんが来てましたので、それをかいくぐるようにして人がいなくなるのを待って写真を撮りました(^^;)
二の郭の拱門の前まで来ると、その左手前から下に降りる道を嫁さんがみつけ、その近くに古い石垣を見つけました。あれはもともとの古い石垣なんでしょうかねえ?








【城 跡 名】今帰仁城(北山城)
【訪 城 日】2003年1月9日
【所 在 地】沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊ハンタ原
【創建年代】12~13世紀?
【創 建 者】?
【主な遺構】石垣、神殿
【歴史・沿革】
今帰仁城は別名北山城といい、14世紀、三山と呼ばれる小国家が対立抗争した時代に北山王国の主城でした。その築城年代は不明ですが、1322年頃怕尼芝(はにし)が城主となり、その後、三代目の攀安知(はんあんち)にいたる94年間に城は改修され、現在のような規模に達したと思われます。
1416年、中山の尚巴志は2000の兵を率い今帰仁城を攻撃しましたが、北山勢はこれをよく防ぎ、今帰仁城も中山軍を寄せ付けなかったため、巴志は一計を案じ、北山の部将・本部大原を味方に引き入れることで北山軍内部に混乱を起こさせ、ついに今帰仁城を陥落させました。
その後、この城には北山監守が置かれ、はじめ護佐丸を、1422年には巴志の第二子尚忠を任じ、以後王の子弟をあて、北部地方を統治させましたが、寛文5年(1665)、北山監守が首里に引き揚げると廃城となりました。
【訪 城 記】
沖縄旅行二日目は最初に予定になかった座喜味城再訪からスタートしました。その後、万座毛・ネオパークオキナワ・名護パイナップルパークと嫁さん希望の観光名所を巡りまして、2時頃に今帰仁城へと到着しました。
駐車場に着くと、そのすぐ近くに外郭の石垣があったのでまずはそれを撮影、それから入口の平朗門の方へと向かいました。猫好きの嫁さんは料金所にいた猫ちゃんとたわむれてました(^^;) 平朗門をくぐると、その左右にある狭間の裏側に小さな部屋があります。これはちょっと珍しいですね。そしてそのすぐ横にある石段を登り門の上へと登りました。ここからの眺めもなかなか良いです。
そして七五三の石段を登り大庭→御内原→主郭と進みました。御内原からはすっかり切り払われて見通しが良くなった大隅郭を見通せますし、志慶真門郭の曲折のある城壁も見えます。主郭には礎石が残り、火の神の祠もありました。このあと仮設の渡り廊下のようなところを通って志慶真門郭に行きましたが、私たち二人以外に来る人はいませんでしたね(^^;) 残念だったのは志慶真門郭内はロープが張られ立ち入り禁止となっている所ばかりだったことです。
あと何年かすれば、大隅郭や志慶真門郭の修復も終わってとても見やすくなっているかもしれませんね。
このあとは海洋博記念公園に行きました。はじめは美ら海水族館に行こうかと嫁さんと話をしてましたが、入場料が1800円と聞きやめて、蘭の花が展示されているという熱帯ドリームセンターに行きました。蘭やカトレアがなかなかきれいでしたけど、なぜかそれよりも途中にいた鯉ににエサをやるのに二人で夢中になってました(^^;)















【城 跡 名】勝連城
【訪 城 日】2003年1月9日
【所 在 地】沖縄県うるま市勝連南風原(旧中頭郡勝連町南風原)
【創建年代】11~12世紀頃、15世紀修築か
【創 建 者】不明、最後の修築者阿麻和利
【主な遺構】一の郭、二の郭、三の郭、四の郭の石積み
【歴史・沿革】
勝連城の築城については定かではありませんが、伝説では英祖王統二代大成王の五男が最初の勝連按司といわれています。英祖王系の勝連按司は五代続きますが、五代目に跡継ぎがなかったので、伊波按司の六男を養子に迎え六代目としたといいます。しかし伊波按司系は一代で終わり、七・八代目は浜川按司だと伝えられています。そして九代目城主となったのは茂知附按司でしたが、酒に溺れ人心を掌握できない茂知附按司を討ち、十代目城主となったのが阿麻和利です。
彼はその後次第に勢力を広げ、首里の中山王尚泰久の娘を妻とします。そして国王尚泰久に中城城護佐丸が謀反を企てていると訴え自ら追討軍の大将として護佐丸を攻め滅ぼしました。しかし、彼の妻百十踏揚(国王尚泰久の娘)がこれは阿麻和利の謀略だと父に訴え、逆に首里軍の追討を受けて敗れ、阿麻和利は滅び、勝連城は廃城となりました。
【訪 城 記】
三日目はまず東南植物楽園に行って、また鯉のエサやりに夢中になりまして(をい(^^;))、次に勝連城へと向かいました。
ここはとても見晴らしが良くていいよとすすめられましたが、本当に周りがきれいに見えて気持ちよかったです。たまたまとても天気が良かったということもありますが、本当にきれいでした。
現在一番下の四の郭の辺りは発掘調査をしているようですが、三の郭への入口のあたりの石段は復元されたばかりのようでまだ石が白く周りと馴染んでいませんでした。二の郭・一の郭には拝所があり、この辺がグスクがただの城郭ではないことを感じさせます。
一の郭から下におりようとすると、地元のお年寄りらしき方が話しかけてきて、この先の海中道路もいいよとすすめられましたが、この日は予定一杯でしたのでまたの機会にと断りました(^^;)
三の郭から下りる途中に横にそれる道があったのでちょっと入ってみると三の郭石垣が迫るように見えます。これもなかなか良いアングルです。
最後は駐車場の四の郭に降りて下から石垣を撮りますが、なんだか中東のお城のようです。いいもん見せてもらったという感じでした。










【城 跡 名】中城城
【訪 城 日】2003年1月9日
【所 在 地】沖縄県中頭郡中城村泊川尻原
【創建年代】13~15世紀か
【創 建 者】中城按司?、護佐丸
【主な遺構】一の郭・二の郭・三の郭・西の郭・南の郭の石垣
【歴史・沿革】
伝説によると、英祖王の子が中城の地を与えられ中城王子となり、この地に城を築き居城としたのが中城城のはじまりといわれています。その後中城按司(中城王子)は第一尚氏の時代になると真栄里城に移され、1440年に護佐丸が入城し増築したようです。護佐丸は中頭一帯に強大な勢力を気づきましたが、勝連城の阿麻和利と抗争し、1458年阿麻和利を総大将とする首里・勝連連合軍の攻撃を受け、滅ぼされました。
【訪 城 記】
勝連城の次は中城城です。入口の料金所でお金を払うと「世界遺産」と題したCD-ROMを売っていたので買ってきました。(あとから那覇の県立博物館のミュージアムショップでも売っているのをみつけましたが。)
今回の旅行で首里城をのぞくとこの中城城が一番印象に残りました。坂を上り広い馬場に達すると、まずは三の郭の屈曲した石垣とその横にあるアーチ形の裏門がまず目に入ります。裏門をくぐると北の郭ですが、ここはブルーシートがかかり修復中のようです。その左に三の郭への門がありますが、この石垣も迫力があります。三の郭に入ると先ほどと同じように屈曲した二の郭の石垣が見えます。再び北の郭に戻り、次は二の郭、そして一の郭に行きますが、カーブした石垣・アーチ形の門と感嘆しながら眺めます。一の郭の外・南の郭には拝所があり、そこを出たのが正門です。アーチ形ではありませんから、櫓門形式だったのでしょう。ここの両側に広がる石垣も迫力です。
正門から出て左側に回ると鍛冶場跡?だったという窪みが岩盤を掘って作られていました。そのあとはまた正門前に戻って西の郭を通って裏門の方へ戻りましたが、西の郭から見る一の郭の石垣も非常に高さがあって圧倒される感じでした。
時間がなかったので近くにある中村家住宅・護佐丸の墓には寄りませんでしたが、次回は行きたいと思います。















【城 跡 名】糸数城
【訪 城 日】2003年1月9日
【所 在 地】沖縄県南城市玉城字糸数竹之口原・屋敷原(旧島尻郡玉城村)
【創建年代】14世紀頃
【創 建 者】糸数按司か
【主な遺構】石積み、城門
【歴史・沿革】
築城年代ははっきりしていませんが、伝説によると、三山鼎立時代の初期、14世紀頃に糸数城の東方にある玉城城主の玉城按司がその三男を糸数城に派遣したといわれ、この糸数按司によってこの城は築かれたと伝えられています。そして城を増築中、上間按司が急襲し落城したとの伝説も残っています。
【訪 城 記】
昼食をとった後、今度は中城から南に降り糸数城を目指します。最初ちょっと登り口がわからずぐるぐる回ってしまいましたが、最初にここが登り口かなと思った所を登っていったらビンゴでした(^^;)
現在は部分的にしか石垣が修復されていませんが、大手門の櫓門の左右に広がる石垣の迫力は堂々としたもので圧倒的です。これはええもん見せてもらいましたという感じでした(^^;)





【城 跡 名】具志川城(喜屋武城)
【訪 城 日】2003年1月9日
【所 在 地】沖縄県糸満市喜屋武具志川原・カネク原
【創建年代】?
【創 建 者】真金声?
【主な遺構】一の郭、二の郭、城門
【歴史・沿革】
伝説では久米島の具志川城主・真金声が、同じ久米島の伊敷索城の伊敷索按司の次男真仁古樽に攻め込まれ落城したため、島を脱出し糸満の地に逃れてきて、故郷と同じ名前の城をこの地に築いたといわれています。
【訪 城 記】
糸数城のあと、嫁さんの希望で玉泉洞王国村→ひめゆりの塔→琉球ガラス村と巡って、具志川城に着いたのはもう6時近い頃でした。ちょうど夕日が沈む所でしたが残念ながら地平線の辺りに少し雲があり、夕日が海に沈む所は見ることができませんでした。
海に突き出る形で築かれており、この辺はちょっと北海道のチャシを一瞬イメージしてしまいました。石垣の石はかなり丸くなっていて、海風で浸食されている感じがしましたが、石垣に結構厚みがありありし日の姿を思い起こさせます。規模は小さいですが、いいグスクでした。







