ブルボン朝(1589-1792/1814-1830)系




※ ●はブルボン公、◆はブルボン領主、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
ブルボン家は、カール・マルテル(シャルルマーニュの祖父)の子孫といわれるアルデマールが中部フランスのブルボン城主となったのに始まります。彼の直系の子孫は1218年に断絶し、アルデマールの娘マティルダの子孫であるダンピエール家がブルボンの領主を受け継ぎました。
アルシャンボー9世のあとは、その娘マオー、アニェスと継承し、そしてアニェスとシャロレー領主ジャン・ド・ブルゴーニュの間の娘ベアトリスが継承し、彼女は国王ルイ9世の末子クレルモン伯ロベール・ド・フランスと結婚しました。
そして、ロベールとベアトリスの子ルイ1世は国王シャルル4世からブルボン公の称号を許され、以後代々ブルボン公の称号を受け継ぎ、3代目のルイ2世はシャルル6世の、8代目のピエール2世は妻でルイ11世の娘であるアンヌとともに、義弟であるシャルル8世の摂政を務めました。
しかし、ピエール2世の後嗣クレルモン伯シャルルは若死にしたため、彼の子供は娘シュザンヌしかおらず、シュザンヌと分家モンパンシェ家のシャルル(3世)を結婚させ、シャルルがブルボン公の称号を受け継ぎました。




※ 配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
ブルボン・ビュッセ家は、ブルボン公シャルル1世の四男でリエージュ司教を務めたルイの庶子ピエールを祖とします。ルイはゲルデルンのカトリーヌと秘密結婚し、ピエール他の子どもたちをもうけましたが、彼らは庶子として扱われ、ルイの兄シャルル2世の死後、ブルボン公位は彼らを通り越してルイの弟ピエール2世がブルボン公位を継ぎます。
一方、ルイの子のピエールは妻マルグリットの領地からビュッセ男爵の称号を得て、以後彼らの子孫はビュッセ男爵から伯爵となり、以後数流に別れながらも、中級貴族として続いていき、現在まで続いております。
歴代の中で特筆されるのは、二代フィリップの妻が教皇アレクサンデル6世の息子で一時期イタリア中部を支配した彼のチェーザレ・ボルジアの唯一の娘ルイーズであるということです。よって、以後のブルボン・ビュッセ家にはチェーザレ・ボルジアの血が流れているということになります。

※ ●はブルボン公、◆はモンパンシェ伯、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
この系統は、第4代ブルボン公ジャン1世の子ルイ1世がモンパンシェ伯に叙されたことにに始まる庶家です。
その後、ジルベール、ルイ2世、そしてその弟シャルルと引き継がれましたが、本家ブルボン公爵家のピエール2世に男子がないため、シャルルがピエールの娘シュザンヌと結婚し、ブルボン公の称号を継承し「シャルル3世」となりました。
シャルルは、スイス人をマリニャノで破り、国王フランソワ1世により元帥に叙せられましたが、その後フランソワと対立、財産を奪われてイタリアへ行きました。そして、皇帝カール5世と結んでフランス軍を追い、マルセイユを包囲、パヴィアの戦いでフランス軍を破りましたが、ローマ攻撃の際銃弾に倒れました。彼の子は4人いましたが、皆早世したため、彼を以ってブルボン本家は断絶し、分家ラ・マルシュ・ヴァンドーム家がブルボン家の家長となりました。(但しブルボン公の称号は引き継がなかった。)
また、モンパンシェ伯の称号はシャルルの姉ルイーズとその夫ラ・ロシュ公ルイ1世(ラ・マルシュ・ヴァンドーム家の出身)の子ルイ2(3)世が引き継ぎました。(第2モンパンシェ家)



※ ●はヴァンドーム伯のち公、◆はラ=マルシュ伯、▲はナヴァール王、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
この系統は、ブルボン公爵家の初代ルイ1世の次男ジャック1世に始まります。ジャック1世は、ラ=マルシュ伯爵に叙されましたが、息子で3代目のジャン1世はヴァンドーム伯ジャン6世の娘カトリーヌと結婚し、ジャン6世の死後ヴァンドーム伯爵位を継承しました。その後、ラ=マルシュ伯爵位は、ジャン1世の長男ジャック2世、その娘エレオノールへと継承され、ヴァンドーム伯爵位はジャン1世の次男ルイの子孫へと継承され、ルイの曾孫シャルルの代にはヴァンドーム公へと昇爵しました。
シャルルの息子アントワーヌは、ナヴァールの女王ジャンヌ3世ダルブレと結婚してナヴァール王となり、その息子アンリは父の死後ヴァンドーム公爵位を、母の死後はナヴァール王位を継承し「アンリ3世」となりました。そしてヴァロア朝の断絶後、王位を継いで「アンリ4世」となり、ブルボン朝を創始することになりました。

※ 配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
この系統は、ラ=マルシュ・ヴァンドーム伯爵ジャン1世の三男ジャンに始まります。ジャンはカレンシーとデュイザンの領主となりましたが、息子の代に2家に別れ、四男ジャックがカレンシー領主に、五男フィリップがデュイザン領主となったようです。しかし、その後数代でともに断絶したようで、16世紀初頭には消滅してしまったようです。

※ ●はモンパンシェ伯のち公、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
モンパンシェ家が"ブルボン元帥"シャルル3世で断絶したのち、モンパンシェ伯爵位を継承したのはシャルルの姉ルイーズの子孫でした。
ルイーズは、分家ヴァンドーム家のラ=ロシュ・シュル・ヨン公ルイ1世と結婚し、彼らの間に生まれたルイ2世がモンパンシェ伯爵位を継承し、のちモンパンシェ公爵となりました。
ルイ2世の孫アンリには娘マリーしか子どもはおらず、マリーは国王アンリ4世の三男でルイ13世の弟であるオルレアン公ガストンと結婚し、彼らの娘アンヌ・マリーがモンパンシェ公爵位を継承しました。
アンヌ・マリーは、ルイ14世と結婚しようとしましたが失敗し、マザランと対立し、フロンドの乱ではコンデ公を助け、オルレアン占領に参加。バスティーユ司令官となり、フーブール・サン・タントアンヌの戦いでは、テュレンヌ率いる王軍を砲撃しましたが、乱後はサン・ファルゴーの自領に引退しました。
彼女には子がなく、その死後遺産は従弟であるオルレアン公フィリップに遺贈され、モンパンシェ公爵位はオルレアン家に引き継がれました。

※ 配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
リニー・リューベンプル家はラ=マルシュ・ヴァンドーム家(第2ブルボン家)の庶流で、ヴァンドーム伯ジャン2世の庶子ジャックに始まります。この系統は中流の貴族でほとんど無名の人物ばかりですが、女系から一人の著名人(女性)が現われています。
それは初代ジャックの娘カトリーヌの孫にあたるガブリエル・デストレです。彼女はブルボン朝の初代アンリ4世の愛妾で、正妃であるマルグリット・ド・ヴァロアとの間には子どもがなかったアンリ4世もガブリエル・デストレとの間には二男一女をもうけています。そのためか、一時はアンリもガブリエルとの結婚を考えないでもなかったようですが、彼女との身分の釣り合いを考えてそれはあきらめ、トスカナのメディチ家から迎えたマリー・ド・メディシスと再婚したようです。


※ ●はコンデ公、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
コンデ公爵家はヴァンドーム公シャルルの六男ルイ1世(ブルボン朝の祖アンリ4世の叔父)を祖とします。この系統は代々将軍等としてブルボン朝を支えた家柄でした。
ルイ1世は、フランソワ2世即位の頃から新教に改宗して、旧教徒の首領ギーズ公と対立し、ユグノー戦争では新教徒の政治的軍事的指導者として活動し、ジャルナックの戦いで負傷し、捕らわれて殺されました。
四代目のルイ2世は<大コンデ>と呼ばれ、17世紀フランスの最大の将軍の一人です。19歳で三十年戦争に加わって歴戦し、多くの勲功がありました。フロンドの乱に関係し、一時スペイン軍に投じたがのち復帰し、フランドル戦役、オランダ戦役に参加しました。晩年はシャンティイに隠退し、モリエーヌ・ラシーヌ等の詩人や文学者と交わりました。
八代目のルイ・ジョゼフは、七年戦争に参加、自由主義的貴族となり、名士会の一員に選ばれました。フランス革命では王政を支持し、オーストリアに亡命して<コンデ軍>を組織し反革命運動を指導しましたが、のち軍隊を解散しイギリスに亡命しました。王政復古とともに帰国し、ルイ18世の宮廷に仕えました。
その孫アンギアン公ルイ・アントワーヌ・アンリは、祖父の組織した亡命貴族軍を指揮、のちナポレオン1世の命で逮捕され、軍事裁判で処刑されました。
そのため、その父ルイ・アンリ・ジョゼフ(ルイ・ジョゼフの子)には後継者がなくなり、1830年に彼が没するとコンデ家は断絶しました。

※ ●はソワソン伯、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
ソワソン伯爵家はコンデ公ルイ1世の四男シャルルを祖とします。シャルルの死後は唯一の男子ルイがその跡を継ぎますが、彼が1641年に没するとソワソン家は断絶してしまいました。
姉ルイーズの血筋も嫁ぎ先のロングヴィル家が次の代で断絶してしまいますので、末の妹マルグリットの子孫がソワソン家の血筋を引き継ぎます。彼女の長男エマヌエル・フィリベールがカリニャン公を、次男ウジェーヌ・モーリスがソワソン伯を継承しました。ちなみにエマヌエル・フィリベールの子孫はサヴォア家の本家の跡を継ぎサルディニア王そしてイタリア王となりました。また、ウジェーヌ・モーリスの息子はオーストリア軍の元帥となり、対トルコ戦・スペイン王位継承戦争などで活躍したとして知られるプリンツ・オイゲンです。

※ ●はコンティ公、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
コンティ領は1551年、最後の領主の娘であったエレオノールがブルボン家の家長であるヴァンドーム公シャルルの六男ルイ(のちのコンデ公)と結婚したことでブルボン家にもたらされます。エレオノールの死後、息子フランソワがその遺領を継承しコンティ公を称したのがそのはじまりです。フランソワはカトリックであったものの、岳父であるギーズ公アンリと不仲となったため、ユグノー戦争にあっては新教徒で一族の長でもあるナヴァール王アンリ(のちのアンリ4世)を支持しました。彼には早世した娘が一人いるだけでしたので、彼一代でコンティ公家は断絶し、甥のコンデ公アンリがコンティ公位を継承しました。アンリは生後間もない次男アルマンにコンティ公位を与え、改めてコンティ公家が創設されました。
新たなコンティ公家の開祖となったアルマンですが、フロンドの乱に際しては兄の<大コンデ>コンデ公ルイに従って最初は国王軍に、のちには反乱軍に参加します。しかし兄が敗れてスペインに亡命すると降伏し、のちには許されて敵であった宰相マザランの姪アンヌ・マリーと結婚します・
2代目のルイ・アルマンは幼いうちに父を失ったため伯父の<大コンデ>に育てられますが、1683年、幼なじみで母方の親族でもあるソワソン伯爵家のウジェーヌ(のちのプリンツ・オイゲン)とフランスを出奔するという事件を起こします。彼は王族でしかも国王の娘婿であったため大騒ぎとなり、結局ウジェーヌを逃がす形で捕まり連れ戻されます。のちに許されますが、数年後にあっさりこの世を去ります。
弟のフランソワ・ルイが3代目を継ぎますが、彼は軍人となりアウグスブルク同盟戦争ではフランス軍の一司令官として活躍しました。また1697年にはルイ14世の後ろ盾を得てポーランド王に選出されるものの、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストに王位を横取りされてしまいました。
4代ルイ・アルマン2世はスペイン継承戦争の末期に軍人として活躍し、政治家としても活動しました。
5代ルイ・フランソワ1世は、オーストリア継承戦争で軍人として活躍し、その後はルイ15世の政治的腹心として秘密外交を展開しました。また、1747年には祖父フランソワ・ルイを受け継ぎポーランド王候補にもなっています。また彼は当時国王の寵姫であったポンパドール侯爵夫人を嫌っており、彼女が買おうとしていた最高級のブルゴーニュ・ワインの畑を購入し、これをルイ15世に献じています。これが「ロマネ・コンティ」です。
6代目にして最後のコンティ公ルイ・フランソワ2世は革命が勃発すると一旦亡命をしますが、帰国し王党派として活動、逮捕・投獄されます。その後釈放されますが、1797年に国外追放となってスペインに亡命し、1814年に亡くなりました。彼の代でコンティ家は断絶しました。





※ ●はフランス・ナヴァール王、◆はフランス・ナヴァール王位継承権者、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
いよいよ真打ち、ブルボン朝の登場です。アンリ4世に始まるフランスの第三王朝です。(メロヴィング朝から数えたら第五王朝だけど...)
旧教に改宗しユグノー戦争をおさめたアンリ4世でしたが、旧教徒に暗殺されルイ13世が9歳で即位しました。彼の治世はリシュリューを宰相としてユグノー派の弾圧、貴族勢力の粉砕、国際的位置の向上の3政策を強行し、絶対主義確立を目指しました。
その子ルイ14世は5歳で即位し、母后アンヌ・ドートリッシュの摂政期には宰相マザランが政権を握り、マザランの死後は親政を開始しブルボン家絶対主義の完成期を迎えました。しかし、一方ではユグノー派迫害や農民に対する封建的支配の強化、あるいは戦費・土木建築費の負担増により生産力の減退を招き、その晩年には絶対主義の矛盾が表面化してきました。
彼はまた家庭的には不幸で、後継者である息子・孫・曾孫が次々と没し、彼の死後王位を継承したのは曾孫であるルイ15世でした。
彼の治世は、最初平和政策を取りましたが、ポーランド継承戦争・オーストリア継承戦争などに関わり、多くの領土を失い、財政難を招き、絶対主義解体の兆候が見えてきました。
そして孫のルイ16世が王位を継承してからは、テュルゴー等の自由主義的改革が行われましたが、いずれも封建的反動により挫折し、遂にフランス革命を引き起こすに至りました。彼は断頭台に消え、彼の息子ルイを王党派は<ルイ17世>として仰ぎましたが、彼も謎の死を遂げ、ルイ16世の弟プロヴァンス伯がルイ18世を称しました。
彼は、ナポレオン失脚後、フランス王位につき穏健な政治を行いましたが、甥ベリー公の暗殺を契機に反動化し、彼の死後王位を継いだ弟シャルル10世も絶対制復活を計りました。そのためついに七月革命が勃発し、シャルルは退位してイギリスに亡命、6年後イタリアで没しました。
シャルルの長子で王太子であったアングレーム公ルイ・アントワーヌはイタリアに亡命し、王位継承権を放棄しましたが、ブルボン正統派は彼を<ルイ19世>と呼びました。
アングレーム公の死後は、彼の甥シャンボール伯(ボルドー公)アンリが王位要求者となり、<アンリ5世>と呼ばれました。
第三共和制初期には、王政復古を目指し、オルレアン派とブルボン正統派は合同を計り、オルレアン家当主・パリ伯が彼をフランス王と認めましたが、シャンボール伯は三色旗を認めず、白旗を主張したため、合同は破れ、王政復古の歴史的機会は去ってしまいました。
シャンボール伯は1883年に後嗣なく没したので、ブルボン宗家は断絶し、王位継承権はオルレアン家に引き継がれました。
ブルボン朝から枝分かれした支流諸家は数多くありましたが、スペイン王位を継承したスペイン・ブルボン家、ブルボン宗家のあと王位継承権を引き継いだオルレアン家をのぞくと短命に終わりました。アンリ4世の三男ガストンを祖とするオルレアン家は女子しかなく一代で断絶しましたし、ルイ14世の孫シャルルを祖とするベリー家も嗣子が早世し一代で断絶しました。
また、アンリ4世・ルイ14世・ルイ15世には数多くの寵姫があり(ルイ14世のラ=ヴァリエール公爵夫人、モンテスパン侯爵夫人らは有名)、彼女らが生んだ庶子も数多くいましたが、アンリ4世の庶子セザールを祖とするヴァンドーム家は三代で、ルイ14世の庶子ルイ・オーギュストを祖とするメーヌ家は二代で、同じくルイ14世の庶子ルイ・アレクサンドルを祖とするパンティエヴル家も三代で断絶してしまいました。

※ ●はヴァンドーム公、配は配偶者です。
今回のヴァンドーム公爵家は、ブルボン朝の祖アンリ4世の庶子セザールに始まる系統です。セザールはアンリ4世とその寵姫ガブリエル・デストゥレの間に生まれブルボン家の由緒あるヴァンドーム公爵の爵位を受けました。(ヴァンドーム公爵についてはラ=マルシュ・ヴァンドーム家を参照。)
彼はユグノー戦争に功績がありましたが、一時宰相リシュリュー、マザランに対する陰謀に連座し捕らわれましたがイギリスに逃れ、のち許され帰国してフロンドの乱では国王軍を指揮しました。
また、彼の子ルイはルイ13世の下で活躍しマザランの姪と結婚しましたが、妻と死別後は聖職者となり、のち枢機卿に叙任されました。
三代目のルイ・ジョゼフは、ルイ14世時代末期における屈指の軍人で、オランダ戦争、そしてスペイン継承戦争で活躍しました。敗戦の責を負い、一時引退しましたが、まもなく復帰し、スペイン王フェリペ5世(ルイ14世の孫)を助けてオーストリア軍を破りました。フェリペはその功績を称え、彼の遺骸をエスコリアル宮に葬ったそうです。
また彼の弟フィリップも軍人として活躍し、オランダ戦争に参加。スペイン継承戦争では、イタリア、カタロニアで戦い、カッサーノの会戦ではプリンツ・オイゲンに敗れました。
この系統は軍人として、ブルボン朝を支えましたが、三代ルイ・ジョゼフに子がなく断絶しました。

※ ●はパンティエヴル公、配は配偶者です。
パンティエヴル家もヴァンドーム家と同じく、ブルボン朝の庶流です。初代ルイ・アレクサンドルはルイ14世の庶子(のちに嫡子扱いとなった)ですが、その母はその寵姫モンテスパン侯爵夫人です。彼女はルイ14世との間に7人もの子女をもうけましたが、子どもの養育係であったマントノン夫人に王の寵愛が移ったため宮廷を去り、修道院で晩年を過ごしました。
ルイ・アレクサンドルはその末子で、トゥールーズ伯、そしてパンティエヴル公の爵位を得ました。その後、息子のルイ・ジャン・マリーが爵位を継承しましたが、彼の息子は二人とも早世し、娘ルイーズ・マリー・アデライドの子孫オル
レアン家にその称号は引き継がれました。
ところで、ルイ・ジャン・マリーの次男ランバーユ公ルイ・アレクサンドルの妃マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォイア=カリニャンはあのマリー・アントワネットの女友達として知られています。
彼女はのちにイタリアの王家となるサヴォイ家の出身で、彼女の兄の曾孫がイタリア統一を成し遂げたヴィットリオ・エマヌエレ2世になります。彼女は革命勃発に際しては王家のために尽くし、反王宣誓の署名を拒否しての帰途、虐殺されたそうです。




※ ●はスペイン王、▼はスペイン王位要求者、◆はブルボン家家長、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
スペイン・ハプスブルク家の最後の王カルロス2世は病弱で子どもができなかったので(夫婦生活ができなかった)、その生前からその王位継承をめぐって血縁関係からフランス王ルイ14世、ドイツ皇帝レオポルト1世、バイエルン選帝侯ヨーゼフ・フェルディナントがその相続権を主張しました。
スペインがフランス、オーストリアのいずれにも併合されるのをおそれたイギリスは密かにスペイン領の分割をフランス、オーストリアと策したが実現せず、1700年にカルロス2世は死亡しました。ルイ14世はスペイン宮廷を操り、孫のアンジュー公をフェリペ5世として即位させるのに成功しました。これに対し、イギリス、オーストリア、オランダが同盟、フランス側にはサヴォイ公、バイエルン選帝侯などが同盟し、スペイン継承戦争が起こりました。
戦争は長く続き、1712年にユトレヒトで和平会議が開かれ、ユトレヒト条約が結ばれました。その結果、フェリペ5世のスペイン王位は認められました(フランス王位との兼位は禁止)が、ネーデルラント、ジブラルタル、イタリア領を失
いました。
彼は1724年に一旦息子のルイス1世に王位を譲りましたが、数ヶ月で没したため復位、その後パルマ、ナポリ、シチリアを回復しました。
フェリペ5世の死後、次男のフェルナンド6世が王位を継承しましたが、彼も在位13年で死亡、弟でナポリ王となっていたカルロス3世が王位を継承しました。彼は啓蒙的専制君主として行政改革、農業改革を行い、七年戦争にも参加しました。
その死後は息子のカルロス4世が王位を継承しましたが、彼は精神薄弱で王妃マリア・ルイーサの政治関与を許し、彼の寵臣で王妃の愛人ゴドイを宰相としました。フランス革命に際しては革命政府と戦いました。しかし王太子のフェルナンドは父王及び宰相ゴドイに反抗して親ナポレオン的立場を取り、父王を退位させて自ら即位しフェルナンド7世となりましたが、フランス軍により退位させられ、フランスに幽閉されました。
彼はナポレオン没落により復位し反動政治を敷きましたが、キューバを除く南北アメリカの植民地を失い、国際的地位を失墜させました。また、第4王妃マリア・クリスティナの影響下にあり、その娘イザベル(2世)のためにサリカ法を廃止しイザベルを王位継承者としましたが、それを不満とした弟カルロスは内乱を起こし王位継承に挑戦してきました。(カルリスタ戦争)
イザベル2世は母后の摂政の下に即位、叔父ドン・カルロスの反乱も自由主義者の支持により鎮定しましたが、その後反動化し反乱、陰謀の連続に脅かされ、従兄のフランシスコ・デ・アシスと結婚しました。1868年、サラノ、トペテらのクーデターによってイザベル2世はパリに亡命し1868年に廃位されました。
イザベル2世が革命で亡命すると、スペインは共和制となりましたが、1870年にはイタリア王ヴィットリオ・エマヌエレ2世の第2子アオスタ公アメデオを国王に迎えました。しかし、共和派の反対、カルロス党の蜂起により彼は退位し、
カンポス将軍の支持のもと、イザベル2世の息子アルフォンソ12世が即位しました。
彼は、カルロス党の反乱を鎮圧したのち、新憲法を制定、保守的政策をとりました。1879年にマリア・クリスティーナと結婚しましたが、1885年に死去しました。
彼の死後、マリア・クリスティーナはアルフォンソ13世を出産、アルフォンソは直ちに即位しマリアを摂政としました。1902年に親政を開始、イギリスのヴィクトリア女王の孫ヴィクトリアを王妃として迎えました。第一次大戦には中立を
守り、スペイン産業は好景気を見ましたが、やがて経済危機、政治危機を迎え、1931年には共和革命が実現し、アルフォンソはフランスに逃れました。やがて彼はイタリアに行き復位工作を続けましたが、亡命中にカルリスタが保持していた「ブルボン家家長」の称号を継承し、フランス王位をも主張し「アルフォンス1世」を名乗りました。
彼には4人の息子がいましたが、長男で王太子だったアルフォンソは身分違いの結婚のために王位継承権を放棄、次男ハイメは聾唖だったため、スペインの慣習(身体に障害のある者は、王位に就けない)により、これも継承権を放棄、三男のファンがスペイン王位継承権を引き継ぎました。
父の死後、ファン(3世)は「バルセロナ伯」を名乗り王政回復を目指します。しかし、フランコ政権との交渉によって王政回復は勝ち取りますが、フランコの死後「スペイン王」となるのは彼の息子であるファン・カルロスであるという条件付きでした。彼は王政回復のため、その条件を受け入れ、1975年にフランコが死亡すると、ファン・カルロス(1世)が即位し王政復古がなりました。
ファン・カルロス1世は、その後ギリシア王女ソフィアと結婚し、王太子であるアストゥリアス公フェリペをはじめ一男三女もうけましたが、2014年に退位して、王太子がフェリペ6世として即位しました。
一方、アルフォンソ13世がカルリスタから引き継いだ「ブルボン家家長」の称号は彼の次男であるハイメの子孫に引き継がれ、ハイメの孫のアンジュー公ルイス・アルフォンソ(ルイ20世)が現当主です。

※ ●はスペイン王、▼はスペイン王位要求者、◆はブルボン家家長、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
スペイン・ブルボン朝で紹介したように、ナポレオン軍撤退後、フェルナンド7世は王位を回復し、彼には嗣子がなかったため王弟ドン・カルロスの王位継承が実現しそうに見えました。しかし、フェルナンド7世は新たに王妃マリア・クリスティナを迎え、それまで「サリカ法」により認められていなかった女子の王位継承権を国事詔書により認め、まもなくイザベル(2世)が生まれたため、カルロスの王位継承は夢と消えました。
しかしフェルナンド7世の死後、カルロスは国内の保守反動勢力、即ちカルロス党(カルリスタ)に支持されカルロス5世と称したので、マリア・クリスティナは自由主義勢力を結集し、内乱が勃発しました。
その後カルロス党の軍部はカルロスから離反し、クリスティナ党と単独講和したので、カルロスはフランスに亡命、王位継承権を息子ドン・カルロス2世に譲りました。
ドン・カルロス2世も王位継承に挑戦し、1860年スペイン上陸を企て、トルサで捕らえられ、王位継承権放棄を条件に釈放されました。子がなかったため、彼の継承権は弟ドン・ファンに引き継がれ、さらにその息子ドン・カルロス3世に引き継がれました。彼もバスク地方で反乱を起こしましたが(1873-76)、アルフォンソ12世に鎮定されフランスに逃れました。その後フランスからも追放され、子のドン・ハイメに継承権を譲りました。
ドン・ハイメは結婚していなかったので、彼が1931年に没するとその継承権は叔父アルフォンソ・カルロスに引き継がれましたが、彼が1936年に継承者なく没するとカルリスタの男系は断絶し、スペイン王家は一本化されました。
ところで、この系統は1883年にブルボン本家が断絶し、自らの系統がブルボン本家に一番近い系統となると「ブルボン家家長」を名乗り、スペイン王位だけでなく、暗にフランス王位をも要求していました。最後の当主アルフォンソ・カルロスが没すると、「ブルボン家家長」の称号は、スペイン王家のアルフォンソ13世(当時は亡命中)が継承することになりました。



※ ●はセヴィリア公、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
この系統については系図以外全く情報がありません。スペイン王カルロス4世の第三子でスペイン王フェルナンド7世、王位要求者ドン・カルロスの弟カーディス公フランシスコを祖とします。その長子フランシスコ・デ・アシスは従妹である女王イザベル2世と結婚し、その子孫が現在のスペイン王家ですが、第二子エンリケ1世はセヴィリア公に叙され、以後代々継承し現在に至っているようです。

※ 配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
この系統については系図以外全く情報がありません。スペイン王家の庶流・セヴィリア公爵家の二代目エンリケ1世の四男セント・ヘレナ公アルベルトをを祖とします。その後アルベルト→アルフォンソ→アルベルト→アルフォンソと代々継承され、現在に至っているようです。






※ ▼はナポリ王、●は両シチリア王、◆は両シチリア王位継承権者(カストロ公爵系)、◇は両シチリア王位継承権者(カゼルタ伯爵系)、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
スペイン継承戦争以前まで、南イタリアのナポリ・シチリア両王位はスペイン王家が保持していましたが、ユトレヒト条約後、ナポリ王位はオーストリア・ハプスブルク家が、シチリア王位はサヴォイ家が得ました。そして1718年にシチリ
ア王位もサルディニアと交換にオーストリア・ハプスブルク家に渡りました。 しかし1735年にはスペイン・ブルボン家がナポリ王位を回復し、フェリペ5世の三男カルロスが王位につき「カルロ4世」と称しました。
1759年には兄であるスペイン王フェルナンド6世が嗣なく没したため、彼がスペイン王を継いで「カルロス3世」となり、ナポリ・シチリア王位は彼の三男フェルディナンド4世(3世)が継承しました。
フランス革命に際しては対仏大同盟に参加し、ナポレオンに反抗しましたが、フランス軍がナポリに侵入するやシチリアに逃れ、同島を統治しました。ウィーン会議の結果、ナポリを回復し、ナポリ・シチリアをあわせ「両シチリア王」を称しました。1820年には専政により革命を招き、憲法の採用を余儀なくされましたが、翌年にはオーストリアの援助を得て憲法を撤回し、再び専制主義を強行しました。1825年に彼が没すると子フランチェスコ1世が王位を継ぎましたが、5年後に死去、その子フェルディナンド2世が王位を継ぎました。
彼は、政治上の諸改革を行いましたが、やがてオーストリアに服属し、自由主義運動を抑圧して専制主義を取りました。その結果たびたび革命を招き、残虐な抑圧を行い、シチリアの暴動を鎮圧中、同島の諸都市を砲撃してボンバ(Bomba)王と称されました。
フェルナンド2世が没すると、子フランチェスコ2世が王位を継ぎましたが、旧来の専制政治に固執し、サルディニアがオーストリアに宣戦した時にもサルディニアに荷担することを拒みました。そしてシチリアに反乱が生じ、ガルバルデ
ィが同島を攻略、さらにナポリに向かったので、手兵を率いガエタ要塞に拠ったが、同要塞も陥落、退位を余儀なくされました。その後、ローマに亡命し、バイエルン、フランス、オーストリアで余生を送りました。
彼の死後、王位継承権は弟のカゼルタ伯アルフォンソ(1世)が継ぎ、さらにその長子カラブリア公フェルディナンド(3世)が継ぎましたが、その後継を巡り一族が分裂することになりました。
フェルナンドのすぐ下の弟カルロは周囲の反対を押し切り、スペイン王アルフォンソ12世の長女マリア・メルセデスと結婚しましたが、その際に両シチリア王位の継承権を放棄しました。
フェルナンドは子どもがなかったので、自分の後継にカルロの次の弟カストロ公ラニエリを指名しましたが、カルロの死後その息子のアルフォンソは父は継承権を放棄したが、自分の継承権は有効であると称し、フェルナンドが1960年に没すると甥であるカゼルタ伯アルフォンソ(2世)と弟であるカストロ公ラニエリ(1世)がともに両シチリア王家の当主と称し、王位継承を争うことになりました。
現在、カゼルタ伯爵系の当主はアルフォンソの孫カラブリア公ペドロ、カストロ公爵系の当主はラニエリの孫カストロ公カルロです。

※ 配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
この系統も系図しかしか資料がありません。スペイン王カルロス3世の四男ガブリエルを祖としますが、ガブリエルがポルトガル王女マリア・アンナ・ヴィクトリアと結婚したことから、スペイン・ポルトガル両国の王子という称号を得ているようです。ガブリエルの孫セバスティアンの子の代からは枝分かれし、マルチェナ公爵、ドゥルカル公爵、アンソラ公爵、エルナニ公爵の称号をそれぞれ得ていますが、1979年に没したエルナニ公マンフレドを最後として、その男系子孫は絶えてしまいました。
現在、マルチェナ公爵、ドゥルカル公爵、アンソラ公爵の称号はそれぞれの女系子孫が、エルナニ公爵の称号は現スペイン王フェリペ6世の叔母マルガリータが継承しています。




※ ●はパルマ・ピアチェンツァ公、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
パルマ・ピアチェンツァ公は1545年、ピエール・ルイージ・ファルネーゼが父の教皇パウルス3世により叙任されたのにはじまります。その後、8代目のアントニオまでファルネーゼ家がパルマを支配しますが、その死後、アントニオの姪エリザベッタとスペイン王フェリペ5世の息子カルロ1世(のちのスペイン王カルロス3世)がパルマ公位を継承しパルマのブルボン家が成立します。
1736年からはオーストリアがパルマを支配しますが、1748年にブルボン家がパルマを奪回し、カルロの弟フィリッポがパルマ公となります。そして、その子フェルディナンドが公位を継承しますが、1802年にはパルマはフランスの統治下に入り、ブルボン家はトスカナ地方を得て、フェルディナンドの息子ルドヴィコ1世がエトルリア王を名乗りました。翌1803年には息子のカルロ・ルドヴィコがルドヴィコ2世としてエトルリア王を継承しますが、それも1807年には廃位されてしまいます。
パルマはその後、1808年にはフランスに統合されますが、1814年から1847年まではナポレオンの元皇妃でオーストリア皇帝フランツ1世の娘マリー・ルイーズ(マリア・ルイーザ)が支配する事になります。 一方、ブルボン家のカルロ・ルドヴィコは1824年にルッカ公となり、1847年、マリア・ルイーザの死後、パルマ公カルロ2世としてパルマに復帰することが出来ました。彼は2年後に退位し、息子のカルロ3世が即位しますが5年後に死去、その息子ロベルトがパルマ公となります。
しかし、それもつかの間、カヴール指揮するサルディニア軍にパルマを攻略され、ロベルトは廃位されました。その後パルマ公位継承権はロベルトの息子たちに次々と継承され、現当主は曾孫に当たるカルロ・ザヴェリオ(カルロス・ハビエル)です。
1936年にスペインのカルリスタ系ブルボン家の最後の当主アルフォンソ・カルロスが嗣子を残さす没すると、アルフォンソ・カルロスが後継に指名していたパルマ公子フランチェスコ・ザヴェリオ(ロベルトの七男)を推す一派があり、後に「スペイン王ハビエル1世」を称しました。フランチェスコ・ザヴェリオは後にブルボン・パルマ家の当主となり、以後ブルボン・パルマ家の当主はカルリスタの主流派が推すスペイン王位継承者となっています。
ところで、パルマ公ロベルトの娘ツィタ・マリアは最後のオーストリア皇帝カール1世の皇后として知られています。(つまりハプスブルク家の前当主オットー氏の母親です。)


※ ●はルクセンブルク大公、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。
今はベネルクス三国中の小国でしか過ぎないルクセンブルクですが、かつてはドイツ皇帝をも出した名門でした。
その祖は初代神聖ローマ(ドイツ)皇帝オットー1世の同盟者だったルクセンブルク伯ジークフリートにさかのぼります。それ以後ルクセンブルク伯として代々継承し、14世紀の当主ハインリヒ4世は「ハインリヒ7世」として皇帝の座へ上りました。その息子ヨーハンは、ベーメン(ボヘミア)王ヴァーツラフ2世の娘エルジェビェタと結婚し、ベーメン王位を得ます。そして、その息子カール4世とカール4世の息子ヴェンツェル、ジギスムントはベーメン王だけでなく皇帝として即位します。(ジギスムントはハンガリー王位も得る)
しかし、ジギスムントには女子エリザベートしかなく、ルクセンブルク家の持つハンガリー・ベーメン王位はエリザベートの嫁いだハプスブルク家のものとなってしまいます。
以後、ルクセンブルクは、ハプスブルク領、スペイン領、フランス領などを経て、1814年ネーデルラント王国(オランダ)の成立とともに大公国として、その支配下にはいることになります。(オランダ王がルクセンブルク大公を兼位して同君連合を結ぶ) しかし、その後もルクセンブルクはドイツ連邦の一員であり、ドイツ関税同盟にも参加するなど、独立国の観がありました。1867年にはルクセンブルクを巡りフランスとプロイセンが対立し、ロンドン会議により永世中立国として独立しました。
1890年のオランダ王ウィレム3世の死によりオランダとの同君連合を解消し、ナッサウ・ヴァイルブルク家のナッサウ公アドルフを大公として迎えました。その後、アドルフの息子ウィレム4世、その娘マリア・アーデルハイトと大公位を継承しました。
1919年にマリア・アーデルハイトは妹のシャルロットに譲位し、シャルロットはパルマ公ロベルトの息子フェリックス(フェリーチェ)と結婚しました。シャルロットとフェリックスの息子が次代の大公ジャンで、1964年に母から譲位されましたが、2000年母と同じく息子のアンリに大公位を譲り、2019年に薨去しました。
アンリ大公も2024年に長男ギヨームを摂政に任じ、翌2025年ギヨームに大公位を譲り、ギヨームはギヨーム5世として即位しました。
