オルレアン朝(1830-1848)系

オルレアン(ブルボン・オルレアン)家

 ※ ●はオルレアン公、◆はフランス王、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。

 オルレアン公爵はヴァロア朝時代から有力な王族が叙任された称号でしたが、この系統はルイ13世の子フィリップ2世を祖とします。フィリップ2世の子フィリップ3世は伯父ルイ14世に仕え、スペイン継承戦争を初めとする諸々の戦争に参加しブルボン朝を支えました。ルイ14世の死後はルイ15世の摂政となりましたが、その師デュボアの独裁となり、財政はジョン・ローを登用したために紊乱しました。
 以後代々オルレアン公に叙任されましたが、五代目のルイ・フィリップ2世はアメリカ独立戦争を支持し、名士会において反政府の立場をとり、<貴族の反乱>を指導しました。
 フランス革命が起こると、彼は邸宅パレ・ロワイヤルをパリ市民の集会所として解放し、三部会に選出されました。また、貴族称号を廃止し「フィリップ・エガリテ(平等)」と称し、ルイ16世の処刑にも賛成票を投じました。しかし、デュムリエ裏切りの時、共和制転覆の嫌疑を受け財産を没収され、パリの革命裁判所で処刑されました。
 彼の長男ルイ・フィリップ3世は、のちフランス王位に昇りますが、それについては「オルレアン朝」の項で触れることにしましょう。

オルレアン朝

 ※ ●はフランス王、◆はフランス王位継承権者、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。

 フィリップ・エガリテの長子ルイ・フィリップ(1世)は、フランス革命が勃発すると国民軍に入り、ジャコバン・クラブに属しました。デュムリエの下でオランダに遠征しましたが、王位獲得の陰謀が発覚して亡命し、ナポレオンの没落まで欧米各国を放浪しました。王政復古後はイギリスに亡命、のち帰国し、七月革命にあたり仮政府の国王代理となり、新憲法を承認して即位しました。
 彼のいわゆる「七月王政」は初期は民主的でしたが、のちには共和派の運動などに反動的弾圧を加えるようになり、遂に選挙法改正の問題を契機に反政府運動が展開され、二月革命となりました。
 彼は孫のパリ伯に王位を譲りましたが、王政は倒れ、イギリスに亡命しそこで晩年を送りました。
 一方、孫のパリ伯ルイ・フィリップ(2世)は、二月革命後は亡命してドイツ、イギリスにあり、のち各地を旅行、アメリカの南北戦争に参加しました。普仏戦争後はフランスに帰国し、ティエールの辞職後、正統王朝派とオルレアン派とによる王政復古の策謀において後者により王位候補者に樹てられましたが、失敗しました。
 正統派のシャンボール伯アンリの死後は、王党派の総帥として共和政に敵対し、1886年追放令により亡命しましたが、その後も王政復古の望みを捨てませんでした。
 彼の死後は、息子のオルレアン公フィリップ(7世)がフランス王家の当主を継ぎますが、子どもがなかったため、従弟のギーズ公ジャン(3世)が当主となり、その子であるパリ伯アンリ(6世)が1940年に当主の座を継ぎました。
 彼はフランス王家の血を引くものの帰国を禁止するという法律があったため外国生活を余儀なくされ、「王党派週報」を発行しフランス人に王政復古を呼びかけるなどの運動をしましたが、第二次大戦では外人部隊に変名で参加し、対ドイツレジスタンスに参加しました。戦後、国会の新法令により帰国を許され、一時はあのドゴール氏の後継者に擬されたこともあったそうです。
 彼は分家であるオルレアン・ブラガンサ家のイザベルとの間に五男六女をもうけ、1999年に亡くなりましたが、長男のアンリ(7世)がパリ伯の称号とフランス王位継承権を受け継ぎ、現在はその子パリ伯兼フランス公ジャン(4世)が当主となり、オルレアン朝の末裔はいまもフランスで健在です。

オルレアン・ヌムール家

 ※ ●はオルレアン・ヌムール家当主、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。

この系統については、系図しか資料がありません。
 その祖はフランス王ルイ・フィリップ1世の次男ヌムール公ルイです。彼の長男ウー伯ガストンは、ブラジル皇帝ペドロ2世の娘イザベルと結婚し、その子孫はブラジル帝位継承権を持つことは、すでに「ブラジル皇帝家」の中で述べたとおりです。
 ガストンの弟アランソン公フェルディナンはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后として有名なエリザベートの妹ゾフィー(ソフィア)と結婚し、彼のあとは息子のエマニュエルが継ぎましたが、孫のヌムール公シャルル・フィリップが1970年に子どもなく没したため、断絶したようです。

オルレアン・モンパンシェ家(ガリエラ公爵家)

 ※ ●はオルレアン・モンパンシェ家当主、配は配偶者、1) 2) 3)は結婚順です。

 この系統についても系図しか資料がありませんが、フランス王ルイ・フィリップ1世の末子モンパンシェ公アントワーヌを祖とする系統です。
 アントワーヌは、スペイン王フェルナンド7世の娘マリア・ルイーザ・フェルナンダと結婚しましたが、彼女の姉がカルリスタ戦争の原因となったイザベル2世です。当時、イザベル2世と叔父であるドン・カルロスの間でスペイン王位をめぐり闘争がありましたが、ドン・カルロスの王位継承を遠ざけ、イザベル自身の王位を確実なものとする意味があったのでしょうか、アントワーヌとマリア・ルイーザ・フェルナンダの間に生まれた子どもたちにはスペイン王子・王女を意味する「Infant」「Infanta」の称号が与えられ、アントワーヌの子孫はスペイン王族となります。
 その後、イザベル2世の子アルフォンソ12世が王位を継承し、彼らの王位継承の可能性は低くなりますが、マリア・デ・ラ・メルセデスがアルフォンソ12世の王妃となり、その弟アントニオ・ルイスはアルフォンソ12世の妹マリア・エウラリアと結婚しガリエラ公に叙せられるなどスペイン王家に最も身近な一族として遇されます。
 アントニオ・ルイスの息子アルフォンソは父の死後ガリエラ公を継ぎますが、その直後の1931年に革命を迎えます。この時に彼自身がどう行動したのかはわかりませんが、スペイン内乱中の1937年にガリエラ公の称号を息子のアルヴァロに譲っていますが、アルヴァロ自身はスペイン王子の称号を保持していないようで、どうもこの時にスペイン王位の継承権を放棄したようです。
 アルヴァロにはアロンソ・アルヴァロの二人の息子がいて、それぞれ子どもがいるようで、現在もこの系統は続いているようですが、詳しいことはよくわかりません。

オルレアン・ブラガンサ家

 フランス王ルイ・フィリップ1世の次男ヌムール公ルイの長男ウー伯ガストンは、ブラジル皇帝ペドロ2世の娘イザベルと結婚し、その子孫はブラジル帝位継承権を保持しています。詳しくは、カペー朝系→ブラジル皇帝家(ブラガンサ朝)を参照して下さい。