トレビゾンド帝国 (1204~1462)

 1204年のコンスタンティノープル陥落の際に、征服者のもと何らかの地位を得たものも多かったが、ラテン人に征服された土地を離れ、非征服地にて地方人民の支持を得て新しい政治組織を作り上げたものたちもいました。それがのちにコンスタンティノープル奪還を果たすニケア帝国エペイロス専制公国、そしてこのトレビゾンド帝国です。
 コンスタンティノープル陥落の少し前に、小アジアの黒海沿岸にコムネノス朝のアンドロニコス1世の孫、アレクシオス1世ダヴィドがトレビゾンド帝国を建設しました。彼らはグルジア王家の支援でトレビゾンドから西進してパフラゴニア地方を領土としましたが、それ以上はニケア帝国のテオドロス1世ラスカリスに阻止されました。そして次第に西方に領土を広げ、黒海南岸にまで進出しました。これに対しルーム・セルジューク朝が干渉し、1214年にシノピを占領してアレクシオス1世を捕虜としました。スルタンは彼を封臣として再びトレビゾンド帝国の帝位に就けました。
 アレクシオスの跡を継いだ2代皇帝アンドロニコス1世はセルジューク朝の支配から脱しようとしシノピに兵を送り略奪を行いましたが、逆にセルジューク朝の軍にトレビゾンドを包囲されてしまいました。セルジューク朝の攻撃は住民の抵抗や激しい嵐のため失敗に終わりましたが、トレビゾンド帝国は黒海沿岸の狭い地域に領土を限られ、しかもシノピがスルタン領となったため、ニケア帝国やラテン帝国との間に楔を打たれた格好となりビザンツ史にあまり影響を及ぼさない存在となってしまいました。
 13世紀半ばにイル・ハン国が成立しタブリーズが政治経済の中心になると黒海とイランを結ぶ道が重要となり、トレビゾンドの港はその中継地点として栄えました。またこの頃トレビゾンド帝国はイル・ハン国に服属していましたが、1320年以降イル・ハン国が衰えるとトルコ系民族の動きが活発になり、バシレイオス1世の時代からはトレビゾンドを狙う東アナトリアのトルコ系白羊朝の攻撃を受けるようになりました。しかし白羊朝は度重なる攻撃にも関わらずトレビゾンドを陥とすことができず、逆に政略結婚によってトレビゾンドとの関係を結び、トレビゾンド帝国も白羊朝に税を納めることでその安全を図っていきました。
 14世紀後半、白羊朝のライバルであるオスマン・トルコが台頭してくると、マヌエル3世はその脅威に屈し、オスマン朝に対する服従と納税を受け入れました。オスマン朝のトレビゾンドに対する攻撃はヨアンネス4世の時代に本格化し1442年にはムラト2世が船でやってきて略奪を行いました。ヨアンネス4世はサファービー教団の長ジュネイドや白羊朝のウズン・ハサン、ローマ教皇のカリクトゥス8世と交渉を行ったり、イスファンディヤル公国・カラマン君侯国のイブラヒム・ベイと同盟を結び、抵抗の機会をうかがっていました。
 ヨアンネスの死後皇帝の座に就いた弟のダヴィッドはウズン・ハサンの力を頼り、これまで払っていたオスマン朝への貢納金の年所を願い出ましたが、それはメフメト2世の怒りを呼び、彼はアマスヤ、カスタモヌ、シノピを占領し、そして白羊朝の城を攻めウズン・ハサンの伯父フルシッド・ベイや母サラ・ハトゥンを捕らえその動きを牽制した上でトレビゾンドへと向かいました。頼みのウズン・ハサンが動けないことを知ったダヴィッドは、サラ・ハトゥンに助けを求め降伏を願いました。ダヴィッドの降伏は受け入れられ、家族とともにイスタンブルそしてエディルネへと送られ、1463年3人の息子とともに殺されました。

エペイロス専制公国等 (1204~1318~1356)

 1204年のコンスタンティノープル陥落の際に、征服者のもと何らかの地位を得たものも多かったが、ラテン人に征服された土地を離れ、非征服地にて地方人民の支持を得て新しい政治組織を作り上げたものたちもいました。それがのちにコンスタンティノープル奪還を果たすニケア帝国、トレビゾンド帝国、そしてこのエペイロス専制公国です。
 エペイロス専制公国は、アンゲロス朝のイサキオス2世・アレクシオス3世の従兄弟でセヴァストクラトルのヨアンネス・ドゥーカスの庶子ミカエル・アンゲロスがアルタを首都として建設しました。ヨアンネス・ドゥーカスは父方のアンゲロスの家名ではなく母方のドゥーカスを名乗っていましたので、その子のミカエルもコムネノスとかドゥーカスと名乗り、彼の時代はまだ専制公とは称していませんでした。
 ミカエル1世はコンスタンティノープル陥落後、一時テッサロニキ王国のボニファチオに仕えましたが、のちにはギリシャ人のラテン人への抵抗を指導し独立の支配者として行動しました。彼は周囲のラテン人との戦いを優勢のうちに進め、1215年にはコリントス湾からアルバニアに至る西北ギリシアを支配し、バルカン半島におけるギリシア人の政治的結集の中心となりました。しかし彼はこの年に暗殺され、兄弟であるテオドロス1世が後を継ぎました。
 テオドロスは勇敢さと活力においてミカエルを凌ぎ、彼のもとエペイロスは急速に勢力を増大させていきました。彼は皇帝アンリ死後のラテン帝国の衰退に乗じてテッサロニキ王国を攻撃し1224年には滅亡させました。その結果テオドロスの支配はエペイロスからテサリア・マケドニアの大部分に及び、バルカン側のギリシャ人の覇者となった彼は公然と皇帝と称しました。こうして弱体化したラテン帝国をはさんでニケア・テッサロニキという二つのギリシア人帝国、そしてブルガリアという一つのスラヴ人帝国が共にコンスタンティノープルをうかがうという形勢になりました。テオドロスは1225年にはアドリアノープルを占領しコンスタンティノープルを攻撃可能な距離にまで迫っていました。しかしブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世もコンスタンティノープル占領を目指しており、1230年両者は戦争に突入しました。しかし、テオドロスはクロコトニツァの戦いで決定的に敗北して捕虜となり、テサロニキではテオドロスの弟マヌエルが帝位を継いだものの、テッサロニキ・テサリア・エペイロスの支配権を維持するのがやっとでした。
 ブルガリアで囚われの身となっていたテオドロス1世は、イヴァン・アセン2世の后が死ぬと、彼の娘エイレーネをアセン2世と結婚させ、自由の身になるとテッサロニキに戻って弟マヌエルと追い払い、気の進まぬ息子ヨアンネスを帝位に就けました。しかしテオドロスは態度を変え、マヌエルを説得して同盟を結び、もう一人の弟コンスタンティノス、ラテン帝国、アカイア公国等とも対ニケア帝国の同盟を結びました。一方、エペイロスはミカエル1世の庶子ミカエル2世が叔父のテッサロニキ皇帝マヌエルの同意を得てその支配者となっており、テッサロニキから分離することとなりました。
 1241年ニケアのヨアンネス3世はまずはテッサロニキのテオドロスを倒さなくてはコンスタンティノープルの回復はならないと考え、テッサロニキへと進みました。戦いを優勢に進めていたところ、テッサロニキの皇帝ヨアンネスはニケアの宗主権を認めあらためてヨアンネス3世から専制公の称号を受けることに同意しました。
 専制公ヨアンネスは1244年に死去し、弟ディミトリオスが後を継ぎましたが、彼は無気力な若者で、1246年にはニケアのヨアンネス3世により捕虜となり、テッサロニキ専制公の領土はニケア帝国に併合されました。
 一方エペイロスのミカエル2世は、1251年かつてのテサロニキ皇帝テオドロスに勇気づけられマケドニアに侵入しましたが、劣勢に陥り、1253年和平を結びました。そして、1257年には再びニケア帝国との争いが始まり、同年末にはマケドニアを支配しテッサロニキに迫りました。ミカエル2世はシチリア王マンフレッド・アカイア公ギヨーム2世と同盟を結び、ニケア帝国と対立しました。1259年ミカエル・パレオロゴス(のちのミカエル8世)率いるニケア帝国軍と同盟軍はペラゴニアにて激突しましたが、統一に欠けた同盟軍は大敗を喫し、エペイロスの首都アルタはミカエル・パレオロゴスにより占領されました。そして1261年にニケア帝国がコンスタンティノープルを回復しビザンツ帝国を復興し、1264ミカエル2世は帝国の主権を認めました。
 1271年ミカエル2世が死去すると彼の子のニケフォロス1世が後を継ぎましたが、ミカエル2世の庶子ヨアンネス1世はテサリアで独立し、帝国に執拗に抵抗しました。ヨアンネスは1275年・1277年のビザンツ帝国の攻撃を巧みな戦術によって退けました。しかしその後エペイロスとテサリアの関係は悪化していきました。
 1296年エペイロスのニケフォロス1世が没するとトーマースが後を継ぎましたが、1318年彼は甥のケファリア伯ニコラス・オルシニに暗殺され、エペイロスのコムネノス・ドゥーカス家は断絶しました。ニコラスはトーマースの未亡人アンナと結婚し専制公位を継ぎました。ニコラスの後を継いだのは弟ヨハネス2世でしたが、内部の不和及び外部よりの攻撃でエペイロスは弱体化し、1335年ヨハネスは妃によって毒殺され、公妃アンナと息子のニケフォロス2世が政権を握りましたが、ビザンツのヨアンネス・カンタクゼノス(ヨアンネス6世)によって占領されました。1356年にニケフォロス2世が挙兵したものの、1358年にはアルバニア人に敗れ死亡しました。
 またテサリアはヨアンネス1世の死後、コンスタンティノスヨアンネス2世と専制公位を継ぎましたが、ヨアンネス2世の死後テサリアは独立の国家であることをやめ、ビザンツ帝国に従属することとなりました。